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2010年7月 2日 (金)

壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は

 

天武天皇元年(672年)7月2日、関ヶ原付近に駐屯していた大海人皇子の軍勢が、3方面に分かれて進発・・・一方の朝廷軍では内紛が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

亡き天智天皇の後継者争いとして、その息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の間で勃発した壬申の乱・・・

すでに、父に代わって朝廷内の中心人物となっていた大友皇子に対し、身の危険を感じて、一旦吉野へと身を引いていた大海人の皇子(10月19日参照>>)が、その吉野を脱出したのは、天武天皇元年(672年)6月24日の事でした(6月25日参照>>)

その知らせを聞いた近江朝廷側は、各地に援軍を要請しますが、良い返答が得られず、やむなく畿内の兵を集めて、6月27日、すでに不破(ふわ)の関まで到着している大海人皇子へ向けて、大津京を進発します。

しかし、その間に、すでに大海人皇子側についていた大伴吹負(おおとものふけい)らが、留守役たちを抱き込んで、倭京(やまとのみやこ・古京=飛鳥の事)を制圧したのです(6月29日参照>>)

・・・と、本日は、このお話の続きです~

・‥…━━━☆

まずは6月27日に大津京を進発した朝廷軍・・・山部王(やまべのおう)を総大将に、蘇我秦安(そがのはたやす)巨勢人(こせのひと)を副将にすえた数万の兵が、大海人皇子軍本隊を襲撃すべく、琵琶湖の東岸をひた走ります。

続いて7月1日、大野果安(はたやす)らが、先に吹負に奪われた倭京を奪回すべく、大津を進発・・・

同じく7月1日、河内(大阪府)から国境を越えて、倭京奪回をめざす壱岐韓国(いきのからくに)らが進発します。

一方、これを迎え撃つ大海人皇子軍・・・隊を3方面に分けます

紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が率いる数万の兵は、一旦、倭京へと向かい、そこで吹負らを援護して、制圧を固めてからともに、南から大津へと進撃するルート。

村国男依(むらくにのおより)率いる数万は、すでにコチラへ向かっている朝廷軍本隊を撃破し、その勢いのまま大津京へとなだれ込む作戦。

さらに、多品治(おおのほむち)らが率いる約3000ほどを、朝廷側が伊賀を経由して大海人皇子軍本隊を攻めた時のために、その前で迎撃すべく準備します。

実は、先の朝廷軍・・・6月27日に進発した本隊と、7月1日に進発した2つの軍に続いて、7月5日に田辺小隅(たなべのこすみ)率いる4番目の軍を進発させているのですが、この軍が、鈴鹿を越えて、野上の大海人皇子の本営を襲撃すべく進発した軍・・・その迎撃のためとは、大海人さん、キッチリ読んでましたね。

・・・と、話が前後しましたが・・・
かくして天武天皇元年(672年)7月2日大海人皇子は、上記の3隊を、各方面に向けて進発させたのです。

この時、大海人皇子は、自らの身に赤い布をつけ、軍旗も真っ赤に統一・・・これは、もちろん、第一には、敵味方を区別するためですが、漢王朝を打ち立てた劉邦(りゅうほう)にならったのではないかと言われています。

当時の中国では五行説(1月10日参照>>)が盛んで、その中でもとした事から、劉邦は火をイメージする赤を自らのシンボルカラーにしていたと言われ、自らを正義、自らを帝王を称した劉邦のようにと、大海人皇子が自らをなぞらえたのだろうとされています。

まぁ、武田や井伊の赤備え(2月1日参照>>)と同様、何かワカランけど赤い軍団が突進してくるっていうのは、なんともズゴイ雰囲気って感じの効果もあるでしょうしね。

ところで、一方の大友皇子は、この時、金をシンボルカラーにしていたそうですが、これは、五行説でいうところの「火は金に克つ(火は金属を溶かすので)という意味からの後付けでしょうね。

「火の大海人皇子が金の大友皇子に勝った」「運命的な勝利」って事を言いたいのでしょうが、こんなくだりを付け加えてしまったために、大海人皇子の赤旗使用の話まで疑わしく聞こえてしまうのが、なんとも残念です。

・・・で、こうして、大海人皇子の軍が進発した7月2日・・・

この同じ日に、6月27日に大津を出た朝廷軍の本隊が、犬上川(滋賀県犬上郡から彦根へと流れる)のほとりに到着し、ここに駐屯しているのですが、その直後、とんでもない事が起こってしまいます。

この朝廷軍の総大将は山部王で、副将とが蘇我秦安と巨勢人・・・ところが、なんと、副将の二人によって、総大将の山部王が殺害されてしまったのです。

実は、この山部王・・・大海人皇子の息子である大津皇子が、父の挙兵に合流しようと大津京を脱出するのを、止めるどころか、やさしくお見送りしていた事が発覚したのです。

つまり、朝廷の総大将でありながら、すでに、心は大海人皇子に・・・ひょっとしたら、この先、どこかで寝返るつもりだったかも知れなかったのです。

ただ、この裏切りが本当だったかどうかは微妙です。

それは、殺害犯の1人である秦安が、そのまま陣を離脱し、大津へと戻って自殺してしまうからで、確かに、お見送りは事実だったとしても、実際に寝返った事実は、ないわけですし、お見送りは、単に仲が良かっただけという事もあります。

その日まで、都でいっしょに仕事してたわけですし・・・

なので、秦安の自殺を考えると、山部王の寝返りというよりは、総大将と副将の意見の食い違いによる内紛の可能性もあります。

ただ、理由は微妙でも、山部王と秦安が死んでしまった事は事実・・・これは、朝廷軍内部の大きな動揺となり、もはや、本隊は進撃もままならない状況となってしまうのですが、そうは言っていられない戦時下・・・

この後、ほぼ連日、倭京で、伊賀で、そして本隊・・・と、それぞれの戦いが繰りひろげられる事になるのですが、そのお話は、また、関連する7月4日のページに書かせていただきましたのでどうぞ>>
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コメント

初めまして、こんばんは。いつも楽しみに拝読しています。壬申の乱ですが、学校ではサラッと流されたので、その後がすごく気になります。私の住んでいる地域には、大友皇子生存説がありまして(信仰に近いものがありますが)、なんだか他人事ではないのです。
サイト運営は大変だと思いますが、応援しています。

投稿: 露草 | 2010年7月 2日 (金) 20時16分

露草さん、こんばんは~

はじめまして…コメントありがとうございます。

大友皇子の最期の地は、日本書紀では「山前」と表記され、大津近くの山なのか、京都の大山崎=天王山なのか…という話を聞いた事がありますが、生存説があるというのは初めて聞きました。

とても興味深いです。

明治になるまで天皇として扱われなかった悲劇の人ですから、やはり、判官びいきのような感じで、生存説が生まれるのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年7月 3日 (土) 01時23分

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