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2010年7月16日 (金)

家康の兄代わり~鬼作左・本多重次が一筆啓上

 

文禄五年(1596年)7月16日、徳川家康に三河時代から仕えた家臣・本多重次が、蟄居先の下総にて68歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

本多重次(ほんだしげつぐ)は、徳川家康がまだ松平元康と名乗っていた三河(愛知県東部)の戦国大名の時代から、高力清長(こうりききよなが)天野康景(あまのやすかげ)とともに奉行を務め、三河三奉行と称されました。

とにかく、真面目で厳格で法に厳しい・・・その性格を生かして、行政面で大いに活躍した人物ですが、その頃の三河では、こんなハヤリ歌があったとか・・・

♪ (ほとけ)高力 鬼作左(おにさくざ)
         どちへんなしの天野康景 ♪

重次の通称が作左衛門(さくざえもん)ですので、この2番目の「鬼作左」っていうのが重次の事・・・歌の意味は、
「清長は仏のように穏やかで優しく、重次は鬼のように厳しく、康景は偏りのない公平な見方をする」
てな感じ・・・やっぱり、重次さん、怖がられてますね~

・・・と言っても、ただやみくもに怒ってばかりするわけではなく、人の道に外れたり、ルールを守らなかったり、やらねばならない事をしなかったり・・・といった時に、厳しい厳罰を下すという事で、道理に叶ってはいるわけですが・・・

ただ、それが、主君・家康に対してもズケズケと物を言い、厳しい態度で接していた事で、少々煙たがられる面もあったようです。

しかし、重次から見れば、10歳年下の家康は、主君と言えど弟か息子に近い年齢・・・まして、家康は、父・広忠とは幼くして別れ、結局、そのまま死別してしまうのですから、彼が、「我こそは、兄代わり、父親代わり!」と、若かりし頃の家康を、張り切って教育しようとした事は、当然と言えば当然です。

家康の良きところは、そんな重次を煙たがらずに、ずっと側にいさせた事かも知れません。

家康がエラくなればなるほど、周囲にはイエスマンばかりとなって、判断ミスを指摘する者もいなけりゃ、組織の腐敗を正す者もいなくなるわけで、そんな中、重次のような補佐役がいるおかげで、そのような事態に陥らなくてすむ・・・なんだかんだと文句を言いながら、家康も、充分にわかっていたのかも知れませんね。

だからこそ、息子の養育も、彼に任せたのかも知れません。

その息子というのは、家康の次男・秀康(ひでやす)(11月21日参照>>)です。

一般的には、正室・築山殿(つきやまどの)の侍女だった於万(おまんの方に手をつけてデキちゃった子供なので、築山殿に遠慮して秀康に冷たくあたったとか・・・
ブサイクな秀康を嫌っていたので3年間も面会しなかったとか・・・

幼い頃の秀康が、家康から冷遇される事をアレコレ言われますが、なんだかんだで実の息子です。

あの関ヶ原の合戦で、最も重要な後方支援である宇都宮城を彼に任せるのも、実の息子だからこそ・・・

秘密裏にとは言え、そんな秀康が、たまたま重次の家で生まれ、たまたま重次に育てられたわけはないでしょうから、やはり、そこには、家康の絶大な信頼があったのでは?と想像します。

そんな期待に答えるかように、秀康は、一時は、「秀忠よりも後継者にふさわしいのでは?」と、家康が悩むくらいの人物に成長するのですから、幼い頃の重次の教育も、なかなかの物だったと言えるかも知れません。

もちろん、重次の活躍は、そんな事務的な事ばかりではありません。

三河一向一揆(9月5日参照>>)の鎮圧戦で武功を挙げたり、小田原攻めでも北条の水軍を撃ち破る大活躍を見せています。

とは言え、そんな、厳しく強い重次さんですが、家族思いのやさしい父親の一面も持ち合わせているのです。

有名な、あの手紙をご存知の方も多いでしょう。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

これは、重次が、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)の陣中から、家で待つ奥さんに宛てた手紙・・・

お仙(せん)というのは、後に丸岡城主となる嫡男・成重(なりしげ)の事・・・その幼名・仙千代(せんちよ)の仙です。

遠い戦場から、家族を思う気持ちが、簡潔に伝わってくる手紙ですよね~。

・・・と、ここまで、非のうちどころのない重次さん・・・しかし、残念ながら、晩年になってヤッちゃいます。

それは天正十四年(1586年)、先の小牧長久手の戦いで、初めて直接対決した秀吉と家康・・・

戦況は、おおむね家康の有利に進んだものの、家康と組んだ織田信雄が、秀吉と単独で講和しちゃった(11月16日参照>>)事で、天下の情勢は動かず、その後、秀吉は、家康を傘下に収めるべく、再三に渡って上洛を求めてきていたのですが、その条件として、生母・なかを三河へと送り込む・・・つまり、人質として差し出したわけです(10月17日参照>>)

その秀吉の生母の接待を担当したのが重次さん・・・

すぐさま、宿舎の周囲に(たきぎ)を山のように積上げ、いつでも火をつけられる状態に・・・これは、結局、秀吉の求めに応じて上洛する事になった家康にもしもの事があったら、「いつでも、ヤッったるで!」という姿勢を見せる・・・言わば、おどしだったわけですが・・・

この仕打ちに気分を悪くしたのが、なかさん・・・

京都に戻ってから、
「ウチ こんなんされたワ」
と秀吉に報告した事で、息子としては、当然の激怒!

「そんな家臣は処分したまえ!」
の言葉に従った家康によって蟄居(ちっきょ・閉門して自宅の一室で謹慎)させられてしまいました。

家康が関東に移った時は、上総(かずさ)古井戸(千葉県君津市)3000石に格下げ、その後、下総(しもうさ)井野(茨城県取手市)へと変更され、文禄五年(1596年)7月16日、その蟄居先にて、68年の人生を終えました。

最後に、ちょっとやりすぎちゃったとは言え、それも、主君の無事を思えばこそ・・・何もなかったから、怒られちゃいましたが、世は戦国なのですから、戦国武将としては、理解できる行為です。

いや、むしろ、主君・家康だけではなく、天下人・秀吉にだってビビる事のない自らのキャラクターを存分に見せつける事ができ、意外に、重次さん自身は、後悔していなかったのかも・・・ですね。

なんせ、鬼作左ですから・・・
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コメント

こんな政治家、今いたらなぁ。ええかっこしいせず、冷静に必要な事をする。こういう人はトップに立たず、優秀なトップの補佐に回る方がいいんでしょうね。いざという時はトップに代わって腹を切る(処罰される)のも厭わない。何か「いい人」に見られたい、せこせこした政治家さんが多くないですか・・・?また、そんな人じゃないと当選しない・・・なんて。 重次さん、かっちょいいぞ!そうか、「お仙泣かすな」の人でしたか。今日もまた勉強になりました。

投稿: Hiromin | 2010年7月16日 (金) 21時01分

Hirominさん、こんばんは~

そうですね。
そばにいると怖いオジサンかも知れませんが、身をひきしめるためには、そんなオジサンも大事ですね。

なかなかカッコイイです。

投稿: 茶々 | 2010年7月16日 (金) 23時00分

こんばんは。
蟄居ですんでよかったのではないでしょうか?
場合によって死罪となるかもしれません。

投稿: やぶひび | 2010年7月17日 (土) 23時47分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね。
本当なら、命はなかったかも…
やはり、根本には「主君のため」というのが、皆、わかっていたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年7月18日 (日) 01時16分

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