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2010年7月12日 (月)

日本のアトランティス~瓜生島・沈没伝説

 

文禄五年(1596年)閏7月12日、瓜生島が津波に襲われ、一夜にして姿を消しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時は、文禄年間の事・・・堺に住む柴山両賀(りょうが)勘兵衛という父子がいました。

親子は浪人者でありながら、船による地方との交易で財をなし、父の両賀が中年の年齢に達する頃には、なかなかのお金持ちになってはいましたが、やはり二人とも、心の底では、どこかの名将に仕官して、武士として名をなしてみたいという願いを捨てきれずにいました。

そんな中、なんとか岡城主中川秀成に仕官が叶い、親子は一族ともに豊後(大分県竹田へと移り住み、両賀は知行・1000石を与えられますが、その与えられた土地は、別府湾内に浮かぶ瓜生島(うりゅうじま・別名=沖ノ浜という島でした。

それは、沖合い20町(約2180m)の距離にあり、東西約1里(約4km)、南北約20町で、1000戸余りの家屋があり、約5000人の人が住んでおりました。

両賀らは、文禄五年(1596年)正月に、この瓜生島に移り、早速、屋敷や土蔵を建て、すでに始まっていた豊臣秀吉朝鮮出兵のための船を10隻建造・・・翌月の2月には、父の両賀は、自らの船に乗って出撃しました。

万が一のため、息子の勘兵衛に知行のうちの300石を相続させ、一族のうちの3人にも、それぞれ100石ずつ分け与えての覚悟の出撃でした。

留守を預かる事になった勘兵衛・・・この年の閏7月5日には、愛する妻との間に赤ちゃんも誕生し、戦地の父が気になるとは言え、戦いのプロ=武士の一家としては幸せな日々でありました。

ところが、わが子誕生から、わずか1週間後の文禄五年(1596年)閏7月12日未曾有の災害が、この瓜生村を襲うのです。

その日の昼頃・・・いきなりの地震!

幸いな事に地震での被害は少なかったものの、その約2時間半後、瓜生島周辺の海水がみるみる引きはじめ、なんと、干潟によって陸とつながる・・・という異常な現象となります。

そう、これは、大津波の前ぶれです。

案の定、それから間もなく、激しい怒涛とともに、瓜生島は波に呑まれてしまいます。

地震から4時間ほどの時間があったため、津波の襲来を予測していた島民の多くは、小高い丘などへ非難していましたが、予想以上の大津波であったため、溺死した人は708人に達したと言います。

もちろん、柴山家も大津波に襲われました。

この時、まだ出産から7日後だった妻は、未だ出血する体でわが子を抱え、勘兵衛は家系図などの重要書類が入った木箱と槍を手に、何とか天井裏へと上りますが、水が、またたく間に上昇してきたため、さらに屋根の上へと上りました。

すると、どこからともなく、建造中の船の一部とみられる7尋(約12.7m)ほどの船板が流れて来たので、何とか、これに乗り移ります。

・・・とは言え、単なる板ですから、激しい波に激しく揺られ、沖へ沖へと流される一方・・・「もうダメか・・・」と、何度も思いながらも、やがて、少しずつ、波が穏やかになって来ていたところへ、1人の男が、小舟で近づいてきました。

「ほら!助けるよって、乗りなはれ」

お言葉に甘えて、乗らせていただく勘兵衛たち・・・

どこもかしこも大波に呑まれて家の場所もわからないまま、とにかく小舟は陸の方へと漕ぎ進み、やがて、小さな神社あのある場所へとたどりつきました。

その神社が天神社であった事から、
「助けてくれた人は、天神様の化身かも知れん・・・」
と、とりあえずは、精一杯の感謝の気持ちを込めてお参りした後、近くで休息をとる事に・・・

すると、徐々に、その近くに、何とか助かった村人たちが集まってきます。

その中には、勘兵衛の家来であった吉右衛門与右衛門九郎兵衛の3人がおり、うれしい再会を果たす事ができました。

「おお、お前ら、どないして助かったんや?」
と勘兵衛が聞くと
「崩れた家に必死でしがみついていたところ、運良く、それが、大波で南の山際に打ち寄せられまして、タイミングを計って、山へと飛び移りました」

「そうか、そうか・・・けど、武具や、倉はどないなってしもたんやろ?」
「倉は、皆、崩れましたけど、大事な武具や金銀その他道具類は、ちゃんと持ち出しましたよって・・・」

彼ら3人は、持てる限りの物を確保していたようです。

ただ、家来3人は助かったものの、召使いのうち男性2人と、女性4人が行方不明・・・さらに、残念ながら、生まれたばかりの赤ん坊も、まもなく亡くなってしまったのです。

そして、この瓜生島自身も・・・

地元の方はもちろん、ご存知の方も多いでしょうが、現在の別府湾に、この島はありません。

この時、一夜にして沈んで、2度と海上に姿を見せる事はなかったのです。

今では、伝説や昔話として語られるのみで、実際に、存在した島なのかどうかは、未だ調査中の段階だそうです。

ただ、近年の研究により、この時代に、この場所で大きな地震があった事は事実であるとされているので、ひょっとして、瓜生島は、本当に存在したのかも知れません。

ところで、この瓜生島の伝説が事実だったとすると、勘兵衛らは、その知行を丸々失った事になりますが、古文書では、勘兵衛は、瓜生島の替わりとして、今津留村(いまづるむら・大分県今津留)を与えられ、中川家配下の港として運営する船奉行に任命されたとの事だそうです。

翌・慶長二年(1597年)には、父・両賀も無事帰還し、大きな災害に見舞われ、子供は失ったものの、柴山家は何とか立ち直ったという事です。

まぁ、地質学的にはイロイロあり、島ではなく半島の一部だったの説もあり、の伝説の域を超えないお話ではありますが、なんだか、あのムー大陸やアトランティスを思わせるお話でした。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
日本むかしばなしに出てくる島ですね。
エビス像を赤く塗ったら、たたりあったという。
宗像教授にもありましたね。

投稿: やぶひび | 2010年7月13日 (火) 19時53分

やぶひびさん、こんばんは~

そうです。
昔話の中にあるヤツです。
果たして、本当に存在したのでしょうか?
興味津々です。

投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 02時06分

茶々さん、こんばんは!

瓜生島の話、興味をそそられますね。こうした時期だけど、ある意味被災への教訓かなと思い、ブログ記事に載せました。宜しければTBお願い致します!!

投稿: 御堂 | 2011年3月16日 (水) 17時59分

御堂さん、こんばんは~

お言葉にあまえて、TBさせていただきました~
御堂さんからのTBが、まだ来てませんが…

投稿: 茶々 | 2011年3月16日 (水) 23時03分

茶々さん、すみませんm(__)m

TB送信したつもりが送信失敗になってました。(確認せぇよ、ホンマ!←自分に 泣)

改めて宜しく…デス!!

投稿: 御堂 | 2011年3月16日 (水) 23時52分

御堂さん、再送信、確認しましたデスscissors

投稿: 茶々 | 2011年3月17日 (木) 01時52分

こどものころに観たウルトラQ(たびたびの、なつかしいTVネタで申し訳ないです…)の「海底原人ラゴン」のエピソードで島が沈むというのがありました。
暗闇から現れるラゴンも怖かったのですが、不動と思っている大地が実は脆いのだ、という現実は、こども心に途轍もないトラウマとなりました。
諸行無常の世の中を、ギリギリの綱渡りのように生きていくしかないのでしょうね…。

投稿: とらぬ狸 | 2015年9月24日 (木) 20時07分

とらぬ狸さん、こんばんは~

自然の猛威の前には、人は「生きている」のではなく「生かされている」んですよね~
自然とともに生き、自然の恵みに感謝…神代の昔からの思いが感じられます。

投稿: 茶々 | 2015年9月25日 (金) 01時35分

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