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2010年8月31日 (火)

勤王の志士たちを支えたパトロン・白石正一郎

 

明治十三年(1880年)8月31日、幕末に、貿易商として財をなし、勤王の志士たちを経済面でバックアップした白石正一郎が、69歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

人間、ただ生きていくだけでもお金はいります。

まして、幕末の勤王の志士と呼ばれる人たちは、その時々に全国を飛び回り、郎党を組んで生活し、その身を守りながらの武力行使には武器も必要・・・

確かに、長州のように藩を挙げて尊王攘夷に向かっている場合は、藩からその資金が出なくもないですが、そういう場合の多くは、藩政の中枢をなすような重要人物で、かつ、その活動に藩が同意していなければ、藩からの資金援助はありません。

しかし、現実には、志士たちのほとんどが、藩にはナイショの活動か、脱藩浪士・・・つまり無職なわけで、その生活費や活動費を何とか捻出しなければならなかったわけです。

「この国を変える!」
という理想が美しいだけに、ドラマなどではスルーされがちですが、実際のところは、藩の密命をおびて機密費で生活している藩士にたかったり、その美しい大義名分をチラつかせて半ば脅しで寄付を募る事もしばしば・・・

以前、11月16日【どうなった?龍馬亡き後の海援隊】>>でもチョコッと書かせていただきましたが、長崎時代の坂本龍馬も、イカロス号事件の調査のために土佐藩から派遣されていた佐々木高行機密費のお世話になっていました。

そんな中、すすんで大口の資金を提供してくれる、いわゆるパトロンが、彼らの理想に共感してくれた豪商たちです。

今年の大河ドラマ「龍馬伝」でも、余喜美子(よきみこ)さん演じる長崎の油問屋の大浦慶(おおうらけい)が登場していますが、実際に、慶に借金を申し込んだ龍馬が、そのカタ陸奥宗光(むつむねみつ)を置いて帰り、その陸奥が彼女の背中流しをさせられたという有名なエピソードもありますよね。

もちろん、以前書かせていただいたように、あの岩崎弥太郎海援隊の資金繰りに苦労してました(1月31日参照>>)(こっちは藩のお金ですが…)

・・・で、今回の白石正一郎(しょういちろう)・・・、長州藩の属領である清末(きよすえ)にて小倉屋という貿易商を営んでおりました。

テリトリーである下関が西国交通の要所だった事もあって、商船を何隻も所有していた正一郎は荷受問屋として、はもちろん、反物タバコ木材などを扱う他に、質屋酒蔵も営み、さらに大地主でもあったので、それはそれは大金持ち・・・

そんな彼は、あの月照(げっしょう)(11月16日参照>>)真木和泉(まきいずみ)(10月21日参照>>)らと親しく話すうち、心はどんどん尊王攘夷に傾いていったと言います。

やがて、安政の頃、あの将軍継承問題江戸へと向かう西郷隆盛一夜の宿を提供した事で、彼ら勤王の志士の抱く、新しい世の中への夢が、一気に加速したのです。

その後は、桂小五郎(後の木戸孝允)久坂玄瑞(くさかげんずい)などの長州の志士はもちろん、坂本龍馬中岡慎太郎など出身藩にこだわる事なく・・・

また一夜の宿を貸すだけにとどまらず、追われる者をかくまったり、求められれば資金援助をしたりと・・・有名無名に関わらず、正一郎に支援を受けた志士は400人を超えると言われています。

とは言え、ここらあたりまでは、あくまで志士たちの援助・・・彼らを泊めようが、タダで飲み食いさせようが、豪商の正一郎にとっては、さほど痛いと感じる金額ではありませんでしたが、そんな正一郎が、一大決心をするのが、あの高杉晋作奇兵隊(きへいたい)結成でした。

文久三年(1863年)、高杉から夢を語られた正一郎は、それまでの貯蓄をすべて高杉に差し出したばかりか、自らが弟とともに隊士となって参加・・・もちろん、自宅も奇兵隊の本陣として提供します。

ところが、ご存じのように、その奇兵隊も順風満帆ではありません。

結成当時は、確かに、長州は尊王攘夷の旗頭として政権の中心にいましたから、藩を推しての奇兵隊にも、藩からのお金が出ていましたが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央を追われてからは、池田屋騒動(6月5日参照>>)禁門の変(7月19日参照>>)と、事件が起こるたびに、藩内は保守に傾いたり勤王に傾いたり・・・当然、保守派が藩の実権を握っている間は、藩からの活動資金はいっさい無くなります。

それでも奇兵隊が存続し続ける事ができたのも、この正一郎さんの資金援助のおかげ・・・

しかし、さすがに当の高杉自身も
「飲み尽くされ、食い尽くされ、借り尽くされ・・・」
と、心配していたように、その状況はハンパなく・・・

そのため、すでに慶応元年(1865年)頃には、もはや破産寸前の状態に陥っていたようです。

しかし、何とか踏ん張って、維新後も経営を続けていきますが、明治八年(1875年)・・・とうとう破産してしまいます。

その頃には、もう奇兵隊も、すでに悲惨な末路を遂げていました(11月27日参照>>)

当然の事ながら、元薩長の志士を中心として誕生している明治政府ですから、政府内にも正一郎に恩義を感じている人も少なくないわけで、やはり、誰からともなく、「政府に彼を取り立てよう」の声がでます。

しかし、正一郎は、その話をすべて断り、故郷の赤間神宮の2代目宮司として、ひっそりと暮らす事を選びます。

かくして明治十三年(1880年)8月31日、晩年は故郷を出る事なく、静かに69歳の生涯を閉じました。

そう、正一郎が支援したのは、高杉個人でもなく、奇兵隊だけでもなく、この国の未来・・・

すべての財産をなげうってでも手に入れたかったのは、新政府での役職なんかではなく、新しい日本・・・きっと、それで満足だったのでしょう。
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2010年8月30日 (月)

薩長同盟の龍馬に疑問?西郷と木戸が待っていたのは…

 

大河ドラマ「龍馬伝」 第35回『薩長同盟ぜよ』・・・

ドラマの内容については、NHKのサイトにも書かれてありますので、ここでは省かせていただきますが、それにしても、何やら忙しい回でしたぜよ

もちろん、ドラマなんですから創作はあって当然ですので、あくまで番組批判ではなく、いつもの愛のツッコミ・・・プラス、せっかくの話題なので、薩長同盟と坂本龍馬の関係についての異説を・・・

・‥…━━━☆

なんたって、1日のうちで、京都市中(現在の同志社大学のあたり)にある薩摩藩邸と、伏見にある寺田屋何度も行き来するのには、ちょいとびっくり・・・

しかも、その前には大坂で近藤長次郎の奥さんにも会ってますし、途中には、新撰組に捕まった岩崎弥太郎も助けに行ってますからね~かなり、しんどいゾ~( ̄○ ̄;)!

まっ、昔の人は健脚だし、体力もかなりあったでしょうから、京阪電車で15分や20分(中書島⇔出町柳間)ほどの距離なんて、何往復しようが、どーって事ないっちゃぁ、どーって事ないですしね。

それにしても、龍馬の移動も速いが、幕府の情報収集の速さもスゴイ!

もう、その日のうちに薩長がつながりを持った事もバレたなら、そこに龍馬が関係してた事までバレちゃってる・・・これは、スルド過ぎるほどスルドイですね~

ちなみに、ドラマでは、見廻組新撰組が何やらいがみ合ってるような雰囲気でしたが、たぶん、そんな事実はなかったと思います。

どちらかと言うと連携プレーで、ともに不逞浪士の探索に当たっていたはず・・・確かに、幕臣と浪士あがりの身分の違いはありましょうが、ともに会津藩の配下ですから、ともにトップは松平容保(かたもり)なので、ここがいがみ合ってたら、それこそ、容保さんに統率力がないって事になって面目丸つぶれですからね。

しかし、その二つの速さに比べて、断然遅いのが、龍馬とお龍ちゃんとの関係・・・

ドラマでは、何やら、まだまだお二人はよそよそしい感じの「お互い気になってる」程度の関係に見えましたが、実は、実際の二人は、この時、すでに結婚して1年半の仲です。

一般的には、ドラマで来週放送されるであろう寺田屋騒動(1月23日参照>>)の時に、龍馬の危機をお龍が救い、その後、薩摩藩でお世話になってから、あの九州旅行に出かけ、それが、日本最初の新婚旅行だなんだと言われるため、この頃に、寺田屋騒動きっかけで結婚したように思われがちですが、意外に、その根拠となる物はないんですよ。

逆に、明治になってからのお龍さんの思い出話では、元治元年(1864年)の8月・・・禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)のあった頃に、現在の地下鉄・東山三条駅近くにあった青蓮院の塔頭(たっちゅう・大きな寺院に付属するお寺)Dscn9392a 金蔵寺(こんぞうじ・→写真)で、内々の結婚式を挙げたと、ご本人がおっしゃてるので、どちらを信じるかとなれば、やっぱ、コチラ・・・

だとすると、薩長同盟の慶応二年(1866年)1月には、もうすっかり夫婦・・・いや、禁門の変の頃に、龍馬はお龍を寺田屋に預けてますから、むしろ「俺の嫁さん、ここで働かせたって!」って感じだったのかも知れませんね。

ところで、今回メインの薩長同盟・・・

ドラマでも、何やら「龍馬が来ないと交渉できない」とかなんとか言って、龍馬の登場を待ってましたが・・・

確かに、実際にも、何日か前に交渉は始まっていたものの、まったく進展がなく、もはや決裂寸前のところに龍馬が登場し、西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)の両方を説得して、再び交渉のテーブルについた事で、結果的に同盟がなったとされていて、以前の薩長同盟のページにも、そのように書かせていただきましたが(1月21日参照>>)、実は、これは後々、その小五郎の手記である『防長勤王事蹟自叙』なる物に書かれてある公式発表なのだそうです。
(ドラマでは、これも無かったですが…(゚ー゚;)

・・・で、この一般的に知られている「龍馬待ち」以外にも、この時の小五郎と隆盛は、「別の物を待っていた」という話があります。

それは、この薩長同盟が成る日と同じ日に行われていた二条城での会議です。

実はこの慶応二年(1866年)1月21日の会議で、先の禁門の変で御所に突入した長州への処分が話し合われていて、その結果が出るのを待っていたというのです。

この時行われた会議では、はじめ、「長州を廃藩にする」という厳しい意見も出ましたが、結果的には、領地の10万石の減削、藩主・毛利敬親(たかちか・よしちか)の隠居、世嗣・定広の蟄居(ちっきょ・謹慎)に決定し、最後に、これを朝廷が勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)して認めるという結果・・・つまり、ここで、長州は朝敵と決定したわけです。

この決定に対し、小五郎は、あくまで「冤罪(えんざい・無実の罪)」を主張し、結局は、隆盛がそれに同意して同盟が成される・・・なので、現在も残る覚書にも、「朝敵となった長州の冤罪を晴らすために、薩摩が朝廷に働きかけて尽力する」事が約束されているわけで、それは、処分が決定した後の同意である事が重要なわけです。

ちなみに、この時の薩長同盟は、口約束・・・ゆえに、立会人が必要なわけで、それが龍馬だったので、後日、小五郎が、その内容をまとめ、その裏に龍馬が署名した、その有名な覚書が存在するのです。

・・・で、ならば、なぜ?手記に龍馬が来てから話が進展したかのように書いたのかというと、「長州が朝敵」というのを決定したのは朝廷なので、それを冤罪と主張する事は、イコール朝廷批判となるわけで、さすがに公式文書では、会議の結果を待っていた事はウヤムヤにしたかったのではないか?と・・・

ところで、やっぱり登場しませんでしたね~中岡慎太郎・・・

もともとは慎太郎が薩長同盟の発案者(8月6日参照>>)で、龍馬は途中参加・・・とは言え、実際に同盟成立の現場にはいなかったわけですから、今回ばかりは仕方ないのかも知れませんが、実は、その時、大宰府にいた三条実美(さんじょうさねとみ)五卿八月十八日の政変>>で都落ちした7人の公卿のうち5人)の応接役という役職についていて、しかも、その頃の福岡藩で内紛があったため、彼らの安全のためにも、慎太郎は福岡を離れる事ができなかったとされるほか、怪我をしていて動きづらかったとの話もあり、来たくても来れなかったのでは???そのために、龍馬が立会人となったとの見方もあります。

最近では、龍馬の薩長同盟での活躍に疑問を投げかける説も多くありますが、それは、こういう事なわけです。

ただし、もし、そうであっても、これで龍馬の魅力がなくなるわけでもなく、その価値が下がるわけではありません・・・実際に同盟成立のために奔走したわけですし、立会人も人当たりが良く、交渉上手な龍馬だった事が功を奏した感もありますしね。
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2010年8月29日 (日)

幕末・会津戦争~長命寺の戦い

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月29日、幕末・会津戦争における城下の合戦・長命寺の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

毎度毎度、恐縮ではありますが、初めてご覧になられる方もいるやも知れませんので、とりあえずは、これまでの経緯から・・・

・‥…━━━☆

新政府軍による会津若松・鶴ヶ城への包囲網が、着々と形成される中、娘子軍(じょうしぐん)中野竹子が若い命を散らした翌日の8月26日には、会津藩・若年寄山川大蔵(おおくら・後の浩)が、会津小松の彼岸獅子の囃子隊を先頭にたて、祭囃子も軽快に堂々と敵中を突破し、ただ茫然とする新政府軍の真っただ中で入城を果たして、敵のド肝を抜きました。

この離れ業は、城内で踏ん張る会津軍を大いに勇気づけ、このすぐ後に家老に昇進した彼は、後に「智恵山川 鬼佐川(官兵衛の事)と称されるほどの軍略の才能を発揮し、籠城戦の指揮をとる事になります。
(以前ご紹介した山川捨松さんのお兄さんです…2月18日参照>>

以前の8月25日にupした地図ですが、位置関係がわかりやすいので、もう一度・・・
Aiduzyoukatatakai2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

しかし、もちろん、その間にも新政府軍には続々と援軍が駆けつけ、兵士の数も増えるうえ、最新兵器も到着してきます。

26日には、城の本丸を射程距離に収めたアームストロング砲ほか8門の大砲が、東南の小田山に備えられ、それが命中するたびに城内では死傷者が出ます。

もちろん、城内でも軍議が行われ、家老の梶原平馬は、主君・松平容保(かたもり)米沢脱出を提案しますが、同じく家老の佐川官兵衛と大蔵は猛反対・・・徹底抗戦を訴えます。

・・・で、結局、今後の方針は徹底抗戦と決まり、ここで新たな守備編成が組まれる事になり、大蔵がその中心となります。

二の丸三の丸北出丸西出丸のそれぞれに家老を指揮官として配置し、城外を統括する役目には官兵衛・・・

ここまで、未だ1500ほどの軍勢が城外で戦ってはいましたが、現在の状況を打開すべく、大蔵は、新たに官兵衛に1000ほどの城兵をつけ、越後街道方面の新政府軍の一掃を命じました。

かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月29日午前7時・・・官兵衛率いる若松城兵が、城の西側に位置する融通寺町口郭門(ゆうつうじまちぐちかくもん)から出撃し、長命寺に陣取っていた新政府軍の長州・大垣・備前兵を攻撃しました。

しかし、一時は長命寺を占領する勢いだった会津軍も、新政府軍の持つ強力な兵器ですぐに反撃され、またたく間に200人近い死者を出してしまい、結果的に惨敗を喫してしまいます。

この後の官兵衛ら城兵の戦い方は、小規模なゲリラ戦へと変化していき、一方の新政府軍は、城の南西2.5kim地点まで、包囲を狭める事になります。

さらに、9月4日には、ともに抵抗中だった米沢藩が新政府軍に降伏し、城の周囲に据えられた大砲も50門に増加・・・それらが一斉に火を吹くと、本丸は大きな被害となり、出丸も壊滅状態に・・・

やがて、城下で戦っていた城兵の多くが城内へと戻るか、逆に城下から10km以上離れた場所に撤退し、城下は、ほぼ新政府軍に制圧されてしまいます。

もはや、会津の負けは、誰の目にも明らかでした。

しかし、このような状況となっても、まだ、士気が衰えない会津軍・・・そこには、彼らの精神的支えとなる藩祖・保科正之の「家訓」がありました。

この保科正之(ほしなまさゆき)さん・・・すでにブログに登場していますので、くわしくは昨年の12月18日の【徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之】>>を見ていただけたらお解りいただけるものと思いますが、第2代将軍・徳川秀忠の息子です。

第3代将軍・徳川家光異母弟として徳川を支え、第4代将軍・徳川家綱補佐役となった彼の残した家訓の第1条には・・・
「大君(たいくん)の義、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず。若(も)し二心を懐(いだ)かば、則(すなわ)ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」

つまり・・・
「他の藩はどうであっても、この会津藩は、徳川将軍に忠誠をつくしなさい。もし、将軍家を裏切るような事があったら、それは、もはや私の子孫ではない。家臣も、そんな主君に従ってはならない」
と・・・

おそらくは、この時の容保から末端の者たちまで、会津の誰もがこの家訓を胸に抱き、心の支えとしてこの戦いに挑んでいたのでしょう。

結果的には、それがより多くの犠牲者を出し、会津を壊滅へと導いてしまうわけですが、後世の一歴史ファンとしては、そこに滅びの美学のような物を感じずにはいられません。

こうして、初代藩主の家訓は、彼らの勇気となり、もう少しの間、踏ん張る事になりますが、続きのお話は、籠城組とは連絡もおぼつかなくなった城外野戦組・・・長岡藩から会津へと転戦して活躍する山本義路(よしみち・帯刀)飯寺の戦い9月8日のページでどうぞ>>
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2010年8月27日 (金)

あんなに愛した仲なのに…陶隆房・大寧寺の変

 

天文二十年(1551年)8月27日、周防の戦国大名・大内義隆のもとに、重臣・陶隆房挙兵したとの一報が届きました・・・大寧寺の変と呼ばれる戦いです。

・・・・・・・・・

大内氏百済(くだら)琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫と言われ、周防(すおう・山口県東部)は「大内」を本拠地としたところから、大内と名乗るようになります。

明徳二年(1391年)頃には、山陽・山陰の西部に勢力を伸ばし、この頃から、代々、大内氏の当主が、周防などの守護を務めるようになります。

また、第29代当主大内政弘応仁の乱(10月3日参照>>)で活躍したり、第30代当主大内義興(よしおき)管領・細川家のトップ争いに関与したり(8月24日参照>>)と、中央でも一目置かれる存在となっていったのです。

享禄元年(1528年)に、その義興から家督を継いだのが第31代当主大内義隆(よしたか)・・・天文五年(1536年)には、九州北部に勢力を誇っていた少弐資元(しょうにすけもと)を撃破して、その翌年には豊後(大分県)大友義鑑(よしあき・宗麟の父)(2月10日参照>>)と和睦し、同盟関係にある龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ・隆信の養父)(11月26日参照>>)肥前(佐賀県)守護代に据えて、少弐氏の勢力を完璧に抑えました。

このようにして、一時は、日本の6分の1=10カ国を掌握する大大名となった義隆は、敵対する出雲(いずも・島根県東部)尼子氏から、自分のとこに寝返った毛利元就(もとなり)が、怒った尼子晴久から本拠地の安芸(広島県)郡山城を攻められた天文九年(1540年)には、重臣の陶隆房(すえたかふさ・晴賢)を派遣して、見事、尼子氏を撤退させました(1月13日参照>>)

・・・で、ここで登場した義隆の重臣・陶隆房・・・この陶氏は、もともと大内氏の一族で、平安時代の後期に、初代当主となる弘賢(ひろかた)が、周防・陶村に移住した事から陶氏を名乗るようになり、南北朝の頃からは、代々、周防の守護代を務めて、守護の大内氏を支えました。

特に、応仁の乱の頃からは、冒頭に書かせていただいたように、中央政府に軍事介入するようになった大内氏が、度々上洛して周防を留守にするものですから、国元で起こったゴタゴタを解決するのは、ほとんどこの守護代の役目でした(5月27日参照>>)

しかも、上洛した主君がピンチの時には、すぐさま駆けつけたりもしましたから、隆房の祖父も父も、そして隆房自身も、政治面・軍事面ともに、大内氏には無くてはならない存在だったのです。

さらに、この義隆と隆房は、戦国時代にありがちな、いわゆる男と男の関係でもあったと言われ、ある時、隆房にどうしても会いたくなった義隆が、5時間も馬を飛ばして会いに行ったところ、たまたま隆房が疲れて眠っていたため、その寝顔を見た義隆は、「起こしては悪い」と思い、そっと枕元に和歌をしたためて帰還した・・・なんて、遠距離恋愛の恋人同士でも赤面してしまいそうなエピソードも残っています。

そんなに仲良かった二人・・・いや、仲が良かったからこそ、一旦亀裂が入ると、修復が不可能な状態となってしまうのかも知れません。

その兆しが見え始めるのは、天文十一年(1542年)から翌年にかけての月山富田(がっさんとだ)の攻防戦の頃から・・・

月山富田城と言えば・・・そう、あの長年のライバル=尼子氏の居城です。

実は、その前年、現・尼子当主の晴久の祖父にあたる尼子経久(つねひさ)(11月13日参照>>)が亡くなったのですが、この経久さん、彼1代で、この尼子氏を中国11カ国を支配する大名へと押し上げた英傑だったもんですから、「この機に乗じて攻めない手はない!」という国人衆の声に押されるかたちで、義隆は、自ら大軍を率いて進撃したのです。

しかし、いざ攻防戦が始まると、意外にも支城の攻略に手間取ったうえに、作戦面での対立が目立ち、これにイヤ気がさした国人衆の離反も相まって、結局、義隆は、出兵から1年半後の天文十二年5月に撤退を開始しました。

ところが・・・です。

その撤退の途中で乗り込んだ船のうちの1艘が転覆してしまうという事故が発生、たまたまその船に乗り込んでいた嫡子・晴持(はるもち・養子です)溺死してしまうのです。

一説には、この出来事のショックから立ち直る事ができず、その後の義隆は政治を顧みないようになり、隆房を含む重臣たちとの間に亀裂が生じてしまったとも言われます。

また、もともと、義隆は学問や文芸に造詣が豊かで、京風の文化を好んだうえ、外国との交流にも熱心で、キリスト教の布教も許可したおかげで、当時の山口は、西の京都と呼ばれるほどの文化の花が開いたとも言われていますが、一部の重臣にとっては、義隆のあまりの京風ドップリぶりが目に余ったという話もあります。

逆に、月山富田城攻めに積極的だった隆房を、義隆のほうから避けたという話も・・・

さらに、当時、政治面をまかされていた文治派の相良武任(さがらたけとう)と、武闘派の隆房ら、重臣同士の対立もあったようです。

もちろん、ここに来て、その武任を寵愛しはじめた事に、隆房がカチンときたという愛の噂も継続中・・・

とにかく、その重臣同士の対立から、身の危険を感じた武任が、ある事ない事をぶっちゃけトークして、全責任を武闘派に押しつけ、それを信じた義隆が、完全武装の姿で武闘派に詰問した事で、亀裂は決定的に・・・しかも、当の武任が、そのまま、九州へ逃亡しちゃったもんで、いよいよ隆房は行動を起こします。

天文二十年(1551年)8月27日、義隆のもとに、隆房が挙兵したとの一報が届きます。

そして、翌・28日、隆房は、山口を襲撃するのです。

この時、義隆に味方したのは、側近の冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)を含む、わずか2000人ほど・・・一方の隆房には、武闘派中心に1万人ものメンバーが味方します。

この数字を見ても、理由はどうあれ、もはや、家臣たちの心は義隆から離れていた事がわかります。

結局、義隆は、抵抗らしい抵抗もできないまま長門(ながと)へ敗走・・・そこから海路で、さらに逃げるつもりでしたが、暴風雨のため船が出せず、「もはや、これまで!」とばかりに、長門の深川にあった大寧寺(だいねいじ)で自害したのでした。

翌日には、まだ7歳だった義隆の実子・大内義尊(よしたか)も殺され、ここに大内氏の嫡流は滅亡したのです。

・・・と、「嫡流は・・・」と書かせていただきましたが、実は、この後、隆房は、以前、一時期だけ義隆の養子となっていた事のある、大友宗麟の弟・義長(よしなが)(4月3日参照>>)を、豊後から呼び戻し、当主として迎え入れるのです。

もちろん、未だ歳若き義長は、名目上の当主・・・実権は隆房自身が握るための策です。

しかし、この大内家内でのゴタゴタを、じ~っと見ていた者がおりました。

後に西国の王者となる毛利元就・・・

いよいよ元就が動きますが、そのお話は4月8日【毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン】をどうぞ>>
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2010年8月26日 (木)

戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎

 

天正十年(1582年)8月26日、遠江井伊谷の領主であった井伊氏の第23代当主・井伊直親から、次の24代当主へバトンタッチするまでの約18年間、井伊家の当主を務めた井伊直虎がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

手塚治虫先生の少女漫画の代表作「リボンの騎士」をご存じでしょうか?

男性しか王位につけないシルバーランドの王女として生まれたサファイア・・・しかし、王の従兄弟であるジェラルミン大公が、スキあらば息子のあほプラスチックを王位につかせようと画策するため、サファイアは女性であるにも関わらず男性として育てられ、公にはサファイア王子として、時々はリボンの騎士に変装しながら、悪と戦うというストーリーです。

これと同じように、女でありながら、公には男として家督を継ぎ、家系を守った女当主が、戦国時代の日本にいたのです。

・‥…━━━☆

そもそもは、南北朝時代からの今川氏との確執にさかのぼります。

この時、南朝方だった井伊氏は、自らの領地・井伊谷宗良(むねよし)親王を迎え入れて北朝と戦いますが、空しく敗れ去り、大きな痛手を被ります。

しかも、ご存じのように、大勢は北朝の勝利・・・世は、足利の天下となってしまい、結局は北朝方の今川貞世(さだよ・了俊)に従う事となり、室町幕府下で九州探題となった貞世の配下として、九州にまで遠征するハメになってしまいます。

続く応仁の乱では、遠江(とおとうみ・静岡県西部)の守護だった斯波(しば)に従っていましたが、その守護職を巡って、斯波氏と今川氏が争うようになると、何とか今川の支配から逃れようと斯波氏に味方して戦いますが、またしても敗北・・・結局、その後、遠江の守護となった今川氏に従属させられてしまうのです。

Iinaotorakeizu やがて天文十一年(1542年)、第21代当主だった井伊直宗(いいなおむね)は、今川氏の命令で三河(愛知県東部)田原城を攻めますが、ここで戦死してしまいます。

当主の戦死を受けて、井伊家では嫡子・井伊直盛(なおもり)第22代当主となるのですが、この直盛さんの娘が、本日の主役です。

そう、実は、この直盛さんには、子供は、彼女一人しかいなかったのです。

当然の事ながら、当主に後継ぎがいないと不安です・・・なので、ここは、近親者に、一人娘の婿となって後を継いでもらおうと考えます。

とは言え、直盛には兄弟もいませんでしたから、父=直宗の弟にあたる直満(なおみつ)の息子(つまり直盛の従兄弟)亀之丞(かめのじょう)を、娘の婿に迎える事に決まり、二人は婚約します。

ところが、この結婚を快く思わない人物が・・・それは、直盛の重臣・小野政直(道高)でした。

彼は、もともと直満とは性格は合わないし、将来、彼の息子が当主になれば、その力が強大になって惣家に取って代わるのでは?と心配したのです。

そこで、大物である今川義元にチクリ・・・「直満と、その弟・直義(なおよし)が、今川家に逆心を抱いている」告げ口したのです。

その報告を、すっかり信じた義元は、すぐに、直満と直義を駿府(すんぷ)に呼んで殺害・・・そして、当時まだ9歳だった息子の亀之丞にも魔の手が伸びたため、亀之丞は信濃(しなの・長野県)へと逃亡し、以後、12年間という年月を隠れるように過ごす事となります。

10年後に、あのチクリの政直が亡くなってはじめて、直盛の訴えが義元に聞き入れられ、やっと罪を許させて、彼を井伊谷に呼び戻す事ができたのです。

ところが・・・すでに17歳になっていた亀之丞は、信濃で自分をかくまってくれた恩人=奥山親朝娘と結婚してしまっていたのです。

直盛・父娘ショ~~ックΣ( ̄ロ ̄lll)

しかし、状況が状況・・・直盛は、これを許し、亀之丞を養子に迎えて直親(なおちか)と名乗らせました。

結婚を夢見ていた乙女の心の傷はいかに???

ところが、そんなこんなの永禄三年(1560年)、直盛は、義元に従軍して遠征中に討死してしまうのです。

そう、あの桶狭間の戦い・・・織田信長の奇襲にヤラれたのです。

またしても当主を失った井伊家・・・養子となっていた直親が、第23代当主となり、それから間もなく、待望の男の子=虎松が生まれます

父の従兄弟の元婚約者が当主となって、その彼に後継ぎができた・・・「もう、私の出る幕は無いわ」と、亡き直盛の一人娘は、出家を決意します。

そこで、彼女は親戚(大叔父)でもあり、龍譚寺(りゅうたんじ)の住職でもあった南渓(なんけい)和尚に相談しに行くのですが、和尚の答えは、耳を疑うとんでもない物でした。

「出家は許す!・・・ただし、男になって出家しなさい」
「ハァ???┐(´д`)┌」
困惑する彼女・・・
「確かに、直親が家督を継いで、嫡男も生まれた・・・しかし、まだ、生まれたばかりやないかい!世は戦国や、何があるかワカラン」

そうです。
女が出家すればと呼ばれ、男が出家すればと呼ばれる・・・僧が還俗(げんぞく・一旦出家した人が一般人に戻る事)すれば家督を継げますが、尼では継げません。

もしもの時のために、その身をキープしておけ・・・という事です。

かくして、彼女は、次郎法師(じろうほうし)という名前で出家します(出家した時期&理由については諸説あり)

これは、井伊家の惣領(そうりょう・後継ぎ)が代々名乗る備中次郎を継承した出家名・・・もちろん、男用の名前です。

いや、ここで、男の名前をつける事で、周囲の誰もが女だと知っている彼女という人物を、公には男という事にしたわけです。

正式な後継ぎは、まだ幼いが、還俗すれば、いつでも家督を継げる人物が井伊家にはいると、他国には見せかけたのです。

南渓和尚の読みが的中するのは、わずかに2年後・・・あのチクリ政直の息子・小野政次(道好)が、またしても父と同じ事を・・・

亡き義元の後を継いで、今川の当主となっていた氏真(うじざね)に・・・
「直親は、密かに、徳川家康織田信長と通じてまっせ!」
と・・・

で、またしても、すっかり信じた氏真が激怒!

身に覚えのない言いがかりをつけられた直親は、弁明のため、氏真のいる駿府へと向かいますが、途中で、氏真の家臣に殺されてしまうのです。

わずか2歳の虎松は、井伊家の重臣・新野親矩(にいのちかのり=左馬介)にかくまわれ、何とか助かりました。

そして、幸いな事に、かつて第20代当主を務めた彼女の曾祖父(直宗の父)井伊直平(なおひら)が、84歳という高齢ながら健在でしたので、とりあえず、直平が当主という事で・・・。

しかしながら、急きょ当主に返り咲いた直平も、その1年後の永禄六年((1563年)、今川の命令で敵地に向かう途中に亡くなってしまうのです(毒殺とも病死とも)

しかも、その翌年、かの親矩が、とある戦で戦死してしまったために、虎松をかくまっていた事が氏真にバレてしまいます。

即座に機転を利かせた親矩の妻によって、その命取られる前に虎松を出家させ、何とか殺されずにすみました。

・・・とは言え、当然の事ながら、井伊家の当主になる人物がいなくなってしまったわけです。

ここで、一族家臣相談のうえ、次郎法師を還俗させて、当主と仰ぐ事にしたのです。

かくして、還俗した次郎法師は、井伊直虎(いいなおとら)と名乗ります。

このいかにも男っぽい名前は、それこそ、他国にナメられないため・・・顔写真のついたパスポートも免許証もない時代です、彼女の顔を知らない者にとっては、この名前なら、どっからどう見ても猛々しい武将にしか思えません。

領内の社寺に残る、この頃の黒印状や命令書などの文書には、「次郎直虎」の署名と花押(かおう・武将のサインが、力強く記されています。

しかも、主家である今川家からの徳政令即日実施の命令にも、「ウチの事は、ウチ独自で考えますよって」と突っぱね、3年間も引き延ばすという、当主の意地も立派に見せてくれています。

さらに、今川家の先行きを、見事に読んだ直虎は、徐々に家康に近づき、家康が遠江に進攻した時には、ちゃっかりと家臣の井伊三人衆を道案内に差し向けたりもします(10月22日参照>>)

途中、南下してきた武田信玄の家臣・山県昌景(やまがたまさかげ)井伊谷城を奪われる場面もありましたが、養子として育てた虎松を家康のもとへ馳せ参じさせ、家臣に取り立ててもらえるよう努力するのも忘れませんでした。

やがて、家康に気に入られた虎松は、かつての井伊家の旧領を与えられ、小姓に取り立てられます。

彼女が女を捨てて守った井伊家が、やっと次世代へつながったのです。

かくして天正十年(1582年)8月26日、彼女は、世間的には男・直虎のまま、この世を去ります。

彼女の死を受けて、虎松が、第24代当主となり、その名を井伊直政(なおまさ)と改めます・・・そう、後に、徳川四天王の一人となり、井伊の赤備えで名を馳せる、あの井伊直政です(2月1日参照>>)

彼女=直虎が女であった事が明かされるのは、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』によって・・・
「備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候(そうろ)う間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非なく、南渓和尚お付け候う名なり」

ここで、初めて、人々は、生涯独身を貫いて井伊家を守った、勇猛な女当主の存在を知る事になるのです。

追記:大河ドラマの第1回の感想等については2017年1月12日のページでどうぞ>>
 ..

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2010年8月25日 (水)

戦場の華と散った会津娘子軍・中野竹子

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月25日、明治新政府軍の迫る会津若松城下にて、娘子軍が奮戦・・・中野竹子が命を落としました。

・・・・・・・・・・

いよいよ城下の戦いが激化する会津戦争・・・

「一つ一つ読んでる暇がない」「もう全部見た」という方もおられましょうが、とりあえず、これまでの経緯は・・・

・・・と、とにかく、鳥羽伏見の戦いに始まった幕府軍VS新政府軍の戦い戊辰戦争が、江戸城無血開城を経ても、さらに抵抗を続ける東北へと移り、会津若松・鶴ヶ城を包囲した新政府軍との城下での合戦が展開されていたわけです。

・‥…━━━☆

23日のページで、新政府軍が滝沢本陣から甲賀町口(こうかまちぐち)へと向かっている頃、城下では、「敵近し」を知らせる鐘が打ち鳴らされ、藩士の妻子や家族たちが、続々と城内へ向かっていったと書かせていただきました。

このように、会津藩では、緊急事態において、積極的に藩士の家族を城内へ避難させる体制をとっていたのですが、一方では、もはや、入城するのはムリと判断した多くの家族たちが、決戦の足手まといにならないよう、自ら命を絶った事も書かせていただきました。

そんな中、入城もせず、自害もしなかった女性たちもいたのです。

会津藩士で江戸詰勘定方(えどづめかんじょうがた)を務めていた中野平内忠順(へいないただまさ)の妻=孝子(たかこ・こうこ)と娘の竹子優子の姉妹・・・

平内と家族たちは、その仕事の関係上、ほとんど江戸で生活していて、二人の娘も江戸生まれ江戸育ちだったわけですが、かの松平容保(かたもり)会津帰還とともに、一家も会津へと戻って来ていたのです。

そんな彼女らは、来るべき緊急事態に備えて、20人ほどの女性ばかりのグループを結成し、「いざ!」という時は、行動をともにする事を誓っていたのです。

・・・で、去る23日、その「いざ!」という時がやって来ました。

「敵近し」の鐘が鳴り響く城下・・・二人の娘とともに屋敷を飛び出した孝子でしたが、かねてから約束していたとは言え、さすがの大混乱の中、仲間との連絡もとれないまま、とにかく城下をひた走ります。

Aiduzyoukatatakai2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

途中、運良く、依田(よだ)まき子菊子の姉妹ら数名と出会う事ができ、さらに城下を駆け巡ります。

実は、彼女たちは、「緊急事態になったら、容保公の義姉・照姫様をお守りしよう!」と約束していたのです。

この時、城下から12kmほど北西にある坂下(ばんげ)という場所に照姫がいると聞き伝えていた彼女らは、髪を切り、袴をはき、若武者のような姿になって、かの地へと急ぎます。

幸いな事に、坂下に着くと、約束通り20名ほどの仲間が集まっている状態ではありましたが、逆に、「照姫が坂下にいる」という情報が誤報であった事がわかります。

目的が果たせず、少し落胆する彼女たち・・・

・・・とは言え、ここまで来て、何もしないわけにもいきませんから、翌日には立ち直って、その坂下の軍事方に、「ともに従軍したい!」と願い出たのです。

しかし、当然の事ながら
「婦女子を戦わせたとあっては会津藩の恥となる!」
と言われて、受け入れてはもらえません。

かと言って、彼女たちのここまでの行動を見ても、1度や2度、断られたからと言って「ハイ、そうですか」と、おとなしく引き下がるようなタイプの女性たちではない事も想像できますね。

そう、お察しの通り、彼女たちは食い下がり、とうとう根負けした軍事方は、この坂下に駐屯していた古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)率いる衝鋒隊(しょうほうたい)の一員として、彼女たちを受け入れたのです。

これが、後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる女性ばかりの隊です(この時点では名前はありませんでした)

かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月25日・・・彼女たちを含めた衝鋒隊は、城下めざして進軍を開始したのです。

・・・が、しかし、その途中で、新政府軍と遭遇します。

いきなりの激しい銃撃戦となりますが、新政府軍のような最新装備を持たない衝鋒隊はかなりの苦戦・・・

そこで、隊士たちは身を低くして前進・・・敵の近くへと寄り、刀を抜いての白兵戦に持ち込みます。

ここで、大活躍をしたのが、娘子軍の実質的リーダーでもある孝子の長女・竹子でした。

彼女は、幼い頃から薙刀(なぎなた)などの武芸を習っており、少々腕に覚えがあります。

女性と言えど、それはかなりの物で、同じく薙刀を得意とする平田小蝶とともに、隊の先頭に立って敵軍に迫ります。

しかし、いかに腕がたっても、所詮、飛び道具にはかないません。

銃撃の雨あられに押され気味の衝鋒隊は、やがて少しずつ後退を余儀なくされてしまいます

徐々に敗走の色濃くなる中、竹子は、その銃弾を胸(額とも)に受けて、倒れこんでしまいました。

そばに駆け寄る妹の優子・・・

そんな妹に、彼女は小さな声で「介錯(かいしゃく)を頼んだのです。

涙とも汗ともつかない物が顔中を流れる中、妹は姉の思いを受け止めます。

そう・・・「女と言えど、敵に、この首を取られたくない」との思い・・・

優子は、必死に刀を振るいますが、乱れた髪が首にからんで、思うように斬れません。

結局、この混乱の中、優子は3度、刀を振りおろしましたが、うまく行かず、やむなく、竹子の遺体をそのままにして、母とともに退却したのです。

なんとか、高久陣屋までたどりついた彼女たち・・・しかし、命は助かったとは言え、姉の無念を思うと優子たちは涙をこらえる事ができませんでした。

そこへ、やって来た吉野吉三郎という男・・・彼は農兵として衝鋒隊に加わっていた一人だったのですが、戦場での優子の様子を見ていて、竹子の介錯ができなかった事を察し、その首と薙刀を、なんとか回収して持って来てくれたのです。

亡くなってしまったとは言え、武家の娘としての誇りを失わずにすんだ事に、一つの安心感を覚える娘子軍の面々・・・

平和な時代に生まれた私たちには、なかなか理解し難い部分ではありますが、戦場で華と散るのが武士の誉れなら、それは、女性とて同じ事・・・

遺品となった薙刀には、歌が記された短冊が一つ・・

♪もののふの 猛(たけ)きこころに くらぶれば
  数にも入らぬ わが身ながらも ♪

中野竹子・・・享年:22歳
まさに、戦場の華となって散ったのです。
 .

*翌日からのお話は8月29日のページでどうぞ>>
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2010年8月24日 (火)

関ヶ原後に領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機

 

慶長六年(1601年)8月24日、上杉景勝の会津百万石を没収され米沢三十万石への移封が決定・・・旧領酒田城は最上義光が請け取る事になりました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、慶長五年(1600年)の天下分け目の関ヶ原・・・

その要因は、豊臣・家臣の内部分裂や徳川家康の野心など様々あれど、勃発のきっかけとなっのは、家康からの上洛要請を断った会津上杉景勝(かげかつ)の行動(4月1日参照>>)・・・そこに、火に油を注ぐがごとく、上杉家執政の直江兼続(かねつぐ)の、「お前、ケンカ売っとんのか?」と言いたくなるような高飛車な直江状(4月14日参照>>)・・・

まぁ、直江状については偽書の噂もありますが、とりあえずは、そこに「上杉に謀反の兆しアリ」という理由をつけて、家康が会津征伐へと出陣し、その留守を狙った石田三成(みつなり)伏見城を攻撃(7月19日参照>>)・・・、それを知って、関東からUターンして来た家康(7月25日参照>>)と関ヶ原・・・という事になります。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

・・・で、この本チャンの関ヶ原に先駆けて、前月の8月8日には、北陸の関ヶ原ともいえる浅井畷(あさいなわて)の戦いが、東軍=家康派の前田利長と、西軍=三成派の丹羽長茂(にわながしげ)の間で繰り広げられ(8月8日参照>>)、直前の9月13日には、九州の関ヶ原と言われる石垣原の戦いが、東軍=家康派の黒田如水と、西軍=三成派の大友義統(よしむね)との間で行われています(9月13日参照>>)

そんな中、張本人の一人とも言える景勝&兼続は、当然、西軍=三成派として、まさに、関ヶ原が行われるその日=9月15日、隣国の東軍=家康派の最上義光(もがみよしあき)の領地へと進攻・・・これが、東北の関ヶ原と言われる長谷堂の戦いです(9月16日参照>>)

しかし、最初こそ調子良かったものの、敵が地の利を生かしたゲリラ戦を展開した事で、なかなかの苦戦・・・その上、肝心の関ヶ原が、わずか半日で決着がついてしまったために、この長谷堂の戦いは戦う意味のない合戦となってしまうのです。

なんせ、ここで勝って最上の領地を奪い取ったとしても、その後に、関ヶ原で勝った家康の采配が待っているわけですから・・・

現地で奮戦する兼続に、関ヶ原の勝敗が知らされたのは9月30日・・・早速、撤退を決意する兼続でしたが、それこそ、一旦は死を覚悟する場面もあった、まさに死闘の撤退劇で、兼続は何とか、命からがら会津へと帰還したのでした(10月1日参照>>)

しかし、無事帰還したからと言って、ゆっくりもしていられません。

東軍側についた伊達政宗(だてまさむね)も、これをチャンスに領地を広げようと画策しますし・・・(8月12日参照>>)

第一、そんな政宗より、なんたって、これからの家康への対処が、最大の問題・・・で、早速、10月20日に諸将を集めての作戦会議となったわけですが、もはや、家康の覇権が全国ネットになりつつある今、負け組となった上杉の生き残る道は、家康が持ちかけてきている和平への道しかありませんでした。

それも、相手が言うがままの条件で・・・。

翌年の7月、景勝は家康の要請に答えて、兼続らとともに上洛・・・8月16日に大坂城・西の丸にて、家康と会見しました。

何度かブログでお話しておりますが、この時の上洛・・・連れていた供侍の数の記録が残っているのですが、これが、殿様の景勝より、家臣の兼続のほうが多かったとされるところから、すでにこの頃、上杉家の実験を握っていたのは執政の兼続であったと言われています。

行列を見物した人の中からも、「まるで兼続が殿様のようだった」との声もあったようで、実際、すでに、兼続が上杉家を乗っ取ってしまっていたのでは?と考える専門家も多いようですが、そこまでではないにしろ、今回の合戦に、西軍として参戦する事を推し進めたのは、景勝ではなく、兼続であった事は事実であろうと思われ、そうなると、結果的に敗戦となっってしまった責任も、当然、兼続にあるわけです。

今回の会見にあたっては、さすがの兼続も、相当な覚悟がいった事でしょう。

実際には、どのくらい景勝が関わっていたのかは定かではありませんが、とにかく、会見では、兼続は、「全責任を自分一人がかぶる」といった感じの弁明を、家康の前でやってのけたようです。

良いように考えれば、とにかく上杉家を守るために命がけの弁明をした事になりますが、悪い言い方をすれば、兼続の、一世一代の駆け引きだったのかも知れません。

捨て身の弁明だったのか?相手の心をつかむ大芝居だったのか?・・・とにかく、それは、家康の心をガッチリと捉えたようです。

罪を一身に背負い、堂々と訴える兼続の態度に感動した家康は、本来、事の流れから考えれば特Aクラスの戦犯・・・死罪を免れないであろう兼続に、減封のみの判断を下したのです。

もちろん、主君の景勝も・・・

かくして慶長六年(1601年)8月24日上杉家に会津百万石から米沢三十万石への減封が決定されたのです。

こうして、謙信以来の名門・上杉家は、一地方大名に転落してはしまいましたが、とにかく、お家は残り、当主の命も救われました。

合戦に負けたのですから、減封は仕方ないです。

そして、景勝自身も、部下=兼続の責任を問う事もありませんでした。

とは言え、領地が4分の1になってしまった事は、今後の領地運営に大変な努力がいる事を物語っていました。

この後の兼続は、いかにしてこの米沢を豊かにするか?という上杉家の経営のみに力を注ぎ、それによって負け戦の責任をとるという生涯を送る事になりますが、そのお話は、以前書かせていただいた「景勝の米沢入城」のページで>>・・・前半は、今回と内容がかぶる部分もありますが、ご容赦を・・・o(_ _)oペコッ
 .

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2010年8月23日 (月)

会津戦争~会津若松城下の戦い

 

慶応四年(1868年)8月23日、会津戦争において、戸ノ口原から会津若松城へと迫る新政府軍が、甲賀町口郭門を突破・・・城下での壮絶な戦いとなりました。

・・・・・・・・・・

鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(3月14日参照>>)を経て、さらに北へ・・・

東北最大の戦いとなった会津戦争のこれまでの経緯は・・・
●松平容保が会津へ帰還(2月10日へ>>)
●世良修蔵の暗殺(4月20日へ>>)
●白河口攻防戦(5月1日へ>>)
●母成(ぼなり)峠の戦い(8月20日へ>>)
●十六橋・戸ノ口原の戦い(8月22日へ>>)
で、ご覧いただくとして、本日は、慶応四年(1868年)8月23日、その戸ノ口原を突破した新政府軍が、その勢いのまま、江戸街道を進軍したところから・・・

Aiduzyoukatatakaicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

その頃、会津若松城下では、敵近しを知らせる鐘が鳴り響き、藩士たちの家族が続々と城内へと向かっておりました。

昨日、戸ノ口原の最前線に激励に向かうはずだった前藩主・松平容保(かたもり)は、敵がもう、戸ノ口原を突破して目前に迫っている事を知らされ、一夜の宿とした滝沢本陣を引き払い、一路、城下へと戻りはじめました。

途中、同行していた桑名藩主で弟の定敬(さだあき)に、再起の夢を託して米沢藩へと向かわせ、自らは、とり急ぎ、城の北側に位置する甲賀町口郭門(こうかまちぐちかくもん)から城内へと入ります

しかし、この時、すでに新政府軍の先頭集団は、もう間近に迫っていたのです。

なんせ、敵の銃撃で馬を撃たれた容保が、やむなく徒歩で入城したというのですから、もはや射程距離内!

そんな中、甲賀町口を守る家老の田中土佐(たなかとさ)の指揮のもと、白虎隊の一番隊が銃で応戦するものの、それ以外は、槍しか持たない老兵ばかりの会津軍・・・

やがて、午前10時頃、甲賀町口の東・・・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)が守る六日町口(むいかまちぐち)が破られ、「もはや、これまで!」と観念した田中は、その神保と刺し違えて自害します。

とにかく、ここまで新政府軍の進攻が早いとは誰も予想していなかったため、何もかもが準備不足の会津若松・鶴ヶ城・・・

なので、先ほど、続々と藩士の家族が城内へ向かって・・・と書かせていただきましたが、うまく入城できた人たちもいましたが、実際には、取り残された人も多くいました。

そんな藩士の女子供たちは、これから始まるであろう籠城戦の邪魔にならないよう、あるいは、敵に捕まって辱めを受けないよう、自刃したり刺し違えたりして、命を絶っていったのです。

主だった人では、家老の西郷頼母(たのも)の一族、同じく家老・内藤介右衛門(ないとうすけえもん)の一族、滝沢出雲(たきざわいずも)一族など・・・その数は約230名に達したと言います。

一方、甲賀町口を破って城内に侵入した新政府軍は、この先の侵入経路を北出丸に絞り、甲賀町口近くの通りに大砲を据えて、集中砲火を浴びせます。

しかし、さすがに東北一と称されるほどの堅城・若松城・・・その大城郭は、なかなか落とせるものではありませんから、新政府軍も、ここは無理をせず、夕刻には、城を包囲しながらの砲撃に作戦変更・・・長期戦に踏み切る事になりました。

・・・と、この時、この新政府軍の攻撃で城下に立ち上る煙を見て、城が落ちたと思い込んでしまったのが、昨夜の戸ノ口原での激戦を切り抜けて、飯盛山までたどり着いた白虎隊二番隊のうちの19名の隊士たち・・・

「もはや城が落ちた以上、帰る場所はない」と、彼らが死を選んだ事で、「白虎隊の悲劇」として、数多くのドラマやお芝居の題材となったわけですが、一昨年の今日のページ(2008年8月23日参照>>)にも書かせていただいたように、その中で、わずかに一人だけ、生き残った少年がいました。

飯沼貞吉(いいぬまさだきち)・15歳・・・彼も、脇差でのどを突いて自殺しますが、わずかに急所がはずれ、気を失ったまま倒れていたところを、心配して息子を捜しに来た別の隊士の母親に発見され、一命をとりとめたのでした。

しかし、当然の事ながら、素直に生き残った事を喜べる心境ではなかったようで、しばらくは、先に逝った仲間たちの事を思って苦しみ、一人だけ生き残った罪悪感から、沈みがちな生活を送っていたようです。

ただし、ご心配には及びません。

未だ歳若い彼は、新たな時代の訪れとともに、新たな人生を歩み始める事になるのですが、そのお話は、明治以降の事になりますので、いずれまたの機会に・・・

一方、このページの冒頭で、容保と別れた弟の定敬さんですが・・・
兄の命を受けて、米沢藩の上杉家へと向かいますが、すでに、新政府への恭順を視野に入れていた米沢藩からは、「お断り」され、中に入れてももらえませんでした。

しかたなく、彼は仙台藩に向かいますが、ここでも同じ・・・

どうしたものか?と思っていたところに、ちょうど寄航していた幕府軍艦・開陽丸(10月20日参照>>)榎本武揚(えのもとたけあき)らが、さらに北へ向かうと聞いて、定敬も、榎本と行動をともにする事になります(7月12日参照>>)

会津若松に残った兄と、北の大地・函館へ向かった弟・・・そして、この時、やはり、ここで別れた二人もいました。

ご存じ、新撰組土方歳三(ひじかたとしぞう)斎藤一(はじめ)・・・土方は北へ向かい、斎藤は会津に残って戦います。

かくして、新政府軍に包囲された会津若松・鶴ヶ城・・・しかし、その頃、これまで国境あたりの各地で、それぞれの戦いを繰り広げていた西郷頼母や原田対馬(はらだつしま)などといった面々が、城の急を聞きつけて次々と帰還・・・敵の手薄な天神口から、それぞれの隊を率いて入城を果たします。

いよいよ籠城戦へと突入・・・東北一の城は、もうしばらく戦い続けます。

この23日に入城した山本八重については2012年8月23日のページでどうぞ>>
このお話の続きとなる娘子軍(じょうしぐん)の活躍は8月25日のページでどうぞ>>
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2010年8月22日 (日)

会津戦争~白虎隊も参戦した十六橋・戸ノ口原の戦い

 
慶応四年(1868年)8月22日、会津若松城へ迫る新政府軍と守る会津軍とで、十六橋・戸ノ口原にて戦闘が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争江戸城無血開城(3月14日参照>>)を経て、舞台はさらに北へ・・・(4月25日参照>>)

東北への玄関口である白河城への攻撃が開始されたのが5月1日(5月1日参照>>)・・・その後、7月29日に二本松城を落とされた(1月15日参照>>)会津藩は、本拠地・会津若松へと迫りくる新政府軍を阻止すべく、要所の母成(ぼなり)で待ち受けますが、ここも突破されてしまいます(8月20日参照>>)

・‥…━━━☆

8月21日の母成峠での敗戦の一報が、会津若松城(鶴ヶ城)に届けられたのは、翌日の慶応四年(1868年)8月22日早朝の事でした(前日の夕刻の説もあり)

早速、名だたる家老たちが集まっての城内御前会議・・・今後の方針を検討します。

しかし、田中土佐(たなかとさ)神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二人は、連続の負け戦に意気消沈・・・もはやオロオロするばかりでまともに戦えません。

先の白河口での戦いの後に意見の食い違いにより蟄居(ちっきょ・謹慎処分)させられていた西郷頼母(さいごうたのも)は、やっと、ここに来て許されはしましたが、そのゴタゴタで孤立気味・・・もともと政務担当の梶原平馬(かじわらへいま)も、ちょっと・・・

という事で、まともに指揮がとれる家老と言えば、佐川官兵衛(さがわかんべえ)萱野権兵衛(かやのごんべえ)くらい・・・

しかし、おちおちしてられません。

昨日、母成峠を破った新政府軍は、その勢いのまま、敗走する会津兵士を追って、もはや、猪苗代城下へと迫る勢いです。

母成峠で主力を担っていた大鳥圭介(おおとりけいすけ)伝習隊(でんしゅうたい)は、山奥に逃げ込んだまま連絡がとれず、前線部隊の指揮命令系統がバラバラ・・・戦うに戦えない猪苗代城主の高橋権太夫(たかはしごんだゆう)は、やむなく、城に火を放って、自ら会津若松での決戦を決意し、城をあとにしました。

・・・で、結局、この日の指揮を任されたのは、鳥羽伏見の大活躍で「鬼官兵衛」の異名をとった佐川官兵衛・・・

とにかく、猪苗代湖から流れる日橋川に架かる十六橋(じゅうろっきょう)・・・この橋は江戸街道上にある石橋で、ここを突破されると、まさに会津若松城下への障害はゼロの状態となってしまいますから、なんとか、ここで、橋を壊して、新政府軍の城下侵入を阻止せなばならい・・・となったわけです。

時間はありません!

早速、官兵衛は、奇勝隊(きしょうたい)敢死隊(かんしたい)回天隊(かいてんたい)誠忠隊(せいちゅうたい)の諸隊を率いて、十六橋と目と鼻の先にある戸ノ口原へと出陣しました。

この時、防衛の最前線となる戸ノ口原の兵士を激励せんと、前藩主・松平容保(まつだいらかたもり・2月に養子・喜徳に家督を譲っています)も出馬しますが、この容保の護衛の役目を預かったのがあの白虎隊の二番隊・・・飯盛山の悲劇で有名な彼らです。

しかし、実は、すでに、もう遅かったのです。

なんせ、昨日の敗戦の報を聞いてからスッタモンダの会議、そして進発ですから、官兵衛らが出陣したのは、お昼過ぎ・・・もう、新政府軍は間近に迫っていたのです。

到着後、すぐに十六橋の橋板を外しはじめた彼らでしたが、まだ、一部しかはがし終えていないところで、新政府軍の先頭=川村純義(かわむらすみよし)率いる薩摩隊が、そこに到着してしまったのです。

いきなりの銃撃戦になんとか応戦する官兵衛らでしたが、そこに後続の諸隊が次から次へと到着・・・いつしか、新政府軍は3000ほどの兵力に膨れ上がります。

その数に、まず、恐れをなしてしまったのは奇勝隊・・・実は、この奇勝隊、戦闘経験の少ない僧侶中心に形成されていた隊だったため、この状況に耐えきれず散り散りに逃走してしまいます。

一つ崩れると、その結束も揺るぐもの・・・奇勝隊につられて、他の諸隊も次々と戦線離脱してしまいます。

一方、その頃、戸ノ口原へと向かっていた容保らにも、十六橋での苦戦が伝えられ、ここで、急きょ、容保の護衛役だった白虎隊に出陣命令が出た事で、未だ幼さが残る彼らも、激戦渦巻く戸ノ口原へと急ぐ事になったわけですが、その後の白虎隊については、以前に書かせていただいた【白虎隊・飯盛山に散る】(8月23日)でどうぞ>>

・・・で、会津の諸隊が退却した後、橋の補修を終えた新政府軍は、この日の夜には戸ノ口原へと進み、さらに、その着陣地を破っての8月23日・・・いよいよ、新政府軍が会津若松城下へと迫りますが、そのお話はあ・し・た・・( ̄ー ̄)ニヤリ8月23日のページへどうぞ>>
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2010年8月20日 (金)

会津戦争も佳境に…母成峠の戦い

 

慶応四年(1868年)8月20日、会津藩の拠点・若松城を攻めるべく、新政府軍が二本松城を進発しました。

・・・・・・・・・・

幕府軍の敗退に終った鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)・・・

その後、官軍となった薩長軍は、元15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)や会津藩主・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(さだあきらを朝敵として追討令を出し、東へと進む中、慶喜は江戸城を明け渡して自ら謹慎する事を決意します(1月23日参照>>)

一方、慶喜から登城禁止を言渡された容保は、会津へと戻り、恭順な態度を示しつつも、軍制を整え、来るべき戦いの準備に入ります。

その間にも、新政府側についた仙台米沢の両藩を通じて、「会津藩救済の嘆願書」が提出されますが(2月10日参照>>)願い空しく却下され、同じく、戦いを決意した長岡藩などとともに、会津藩は東北の諸藩による奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成(4月25日参照>>)・・・戊辰戦争は東北へと舞台を広げます。

関東での戦い(5月15日参照>>)北越での戦い(5月19日参照>>)と同時進行で行なわれた会津戦争・・・5月1日に、会津への玄関口となる白河を落とした新政府軍は、7月29日には二本松城を奪取して、いよいよ本拠地の会津若松城に狙いを定めます(5月1日参照>>)

・‥…━━━☆

こうして、二本松(1月15日参照>>)まで奪った新政府軍・・・

この時、江戸にて上野戦争の指揮を取りつつも、新政府軍全体の責任者でもある大村益次郎(ますじろう)は、まずは、奥羽越列藩同盟に属する東北諸藩を潰してから会津攻めに本腰を入れるつもりでしたが、二本松の現地で指揮を取る参謀の板垣退助伊地知正治(いじちまさはる)らは、「まずは会津を・・・」との作戦を上申します。

結果的に、この現地の意見が採用され、新政府軍は、現在の勢いのまま、会津・本拠地を目指す事になったわけですが、今度は、そのコースで、板垣と伊地知が対立・・・

御霊櫃(ごれいびつ)峠越えを主張する板垣と、母成(ぼなり)峠越えを主張する伊地知・・・スッタモンダのあげく、譲らぬ二人の間に長州藩士が入り、なんとか、伊地知の母成峠案で合意しました。

Aidusensousinnseifusinrocc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして慶応四年(1868年)8月20日、新政府軍は、板垣と伊地知が率いる本隊と、谷干城(たにたてき)率いる左翼、川村純儀(すみよし)率いる右翼と、隊を三つに分けて、一路、母成峠を目指して二本松城を進発しました・・・陽動作戦を展開する別働隊と合わせると、総勢3000にも及ぶ大軍でした。

一方、守る会津側も、ここを破られては容易に会津に侵入されるとあって、峠から山麓にかけての一帯に3段の台場を設置して防御体制を整えていましたが、悲しいかな兵力が・・・

日光から転戦に次ぐ転戦でここまでやってきた大鳥圭介(おおとりけいすけ)率いる伝習隊(でんしゅうたい)に加え、会津・仙台の一部、二本松の生き残り、そして新撰組の生き残り・・・彼ら、全部を合わせても約800ほどにしかすぎず、しかも、その中には、かなりの数の農民兵も含まれていたのです。

戦闘の火蓋が切られたのは、翌日=8月21日の午前9時頃・・・新政府軍が石筵(いしむしろ)へ侵入した時でした。

まずは、新政府軍の砲撃により第1台場が炎上します。

やむなく、第2台場へと後退する会津連合軍・・・そこを、側面から現われた兵の攻撃を受け、さらに後方に配置していた守備隊まで、板垣率いる土佐兵にやられてしまいます。

とうとう、第3台場の母成峠付近に追い込まれた連合軍・・・なんとか5門の大砲で応戦しますが、これに対する新政府軍の大砲は、なんと20門以上・・・

集中砲火を浴びせられた母成峠の第3台場に、もはや打つ手はありませんでした。

しかも、ここに来て濃霧が発生して、ほとんど視界がきかない状態となり、「もはや、これまで・・・」と確信した連合軍・指揮官の大鳥は、午後4時に、総員退去命令を発令・・・しかし、その命令も届かないくらいに大混乱となってしまっていた軍兵は、散り々々に逃走するしかありませんでした。

こうして、母成峠の戦いを制した新政府軍・・・いよいよ、本拠・会津若松城に向かって進軍するのですが・・・

そのお話は、次の展開となる2日後=8月22日のページへどうぞ>>・・・
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2010年8月19日 (木)

真夏の夜の怪談話3~宮本武蔵の妖怪退治

 

あ゛つ゛い゛~~~(;;;´Д`)ゝ
残暑にもほどがある!

・・・って事で、本日は、真夏の(暦は秋なので、もう残暑ですが)夜の怪談話・第3談・・・姫路城天守閣に伝わる宮本武蔵の妖怪退治のお話を・・・

・‥…━━━☆

それは・・・
木下家定(いえさだ)播磨(はりま・兵庫県)を治めていた(1587年~1601年)頃の事・・・

姫路城天守閣には、
「耳まで避けた口から火炎を吹く、身の丈六尺の大男の妖怪が、夜な夜な現われるという噂が立ちます。

この噂に恐れおののく侍たち・・・

しかし、その中の滝本又三郎なる若者だけは、その噂に動じません。

実は、彼は、父の仇が、ここ姫路城にいる探り出し、先日、やっとの事で潜入に成功した新参者・・・目指す仇を探し当てるまでは、妖怪だの何だのとビビッてる場合ではないのです。

・・・とは言え、そんな事は知らない周囲の侍たち・・・
皆がビビる中、いかにも平気そうに、高飛車な態度をとってると、当然の事ながら、
「ほな、お前、一人で宿直やってみろや!」
ってな話になります。

「受けてたつ!」
とばかりに、宿直役を引きうけ、真夜中の見回りに挑戦する又三郎・・・

草木も眠る丑三つ時・・・
灯り一つを手に持って、天守閣へと登っていきます。

そして、早くも二層目に差し掛かった時・・・

やにわにあたりが激しい炎に包まれ、轟音とともに、激しい地響き!

その直後、狐とも猫ともつかない妖怪が、又三郎を襲いました。

動じない又三郎は、その主を退治しようと、腰の刀に手をかけますが、その瞬間、異変はス~~ッと消えて、妖怪の姿もどこへやら・・・あたりは、物音一つしない真夜中の城内に戻ります。

次に三層目に上がると、またまた妖怪しゅっつげ~ん!

しかし、やはり、刀に手をかけると、ス~~ッと消え去ります。

結局、そのまま最上階まで到達した又三郎・・・

「よっしゃぁ~!」
とばかりに、ここに腰を据えて、妖怪の出現を待ちます。

ところが、結局、何事もなく・・・やがて、空はしらじらと明けはじめますが、そうなると、一気に襲ってくるのが、眠気という妖怪・・・

さすがの又三郎も、いつしか、うつらうつらと・・・

すると、どこからともなく、彼を呼ぶ声が聞こえます。

ふと目をあけると、その前には、十二単を着たメッチャいけてる美女が・・・

「すわ!殿様のご褒美??」
と思いきや、そうではなく、

「我は、この城の守り神・長壁(おさかべ)明神であ~る!
妖怪は、そちの刀に恐れをなして逃げ去った・・・礼を言うぞ」

そう言うと、又三郎に白木の箱を手渡し、どこへともなく消え去ったのでした。

ふと、我に返ってその木箱を開けてみると、そこには、以前、この城の蔵から盗まれたとされる伝家の宝刀が入っていたのです。

その後、又三郎は、首尾よく父の仇を見つけ出し、無事に本懐を遂げたという事です。

・‥…━━━☆

・・・と、これが、姫路城の七不思議の一つに数えられる天守閣の妖怪退治の物語です。

・・・で、本編は、ここで終わりなのですが、実は、後日談というのがありまして・・・

上記のお話の通り、褒美として伝家の宝刀を貰った又三郎・・・しかし、事情がわからない周囲からは、かの名剣を盗んだとの疑いをかけられ、城主の御前に呼び出されます。

すると、その時、同席していた者の中に、彼の顔に見覚えのある家臣が1人・・・

「ひょっとして、あなたは、あの宮本武蔵殿ではないか?」

そう、実は又三郎は、敵討ちのために名を変えていた武蔵だったのです。

そこで、かくかくしかじか・・・と、妖怪退治のくだりを話し、「天守閣の妖怪を退治したのは宮本武蔵だった」という事がわかり、疑いも晴れたという事なのだそうです。

まぁ、「まだ、生きている間から、すでに講談に登場していた」なんて話があるくらいの超有名ヒーローの武蔵ですから、おそらくは、後日談は、まさに、その名の通り、後日に付け足されたものなのでしょうが・・・。

実は、あの千姫(2月6日参照>>)のダンナさん=本多忠刻(ただとき)に、武蔵が剣術を教えていたという元和三年(1617年)頃の記録があり、どうやら、そのへんのところから、もともとあったお話を、姫路城と関わりのある宮本武蔵の武勇伝の一つに付け加えた・・・というのが、後日談の真相のようですね。

ただ、お城の守護神=長壁明神のお話は、これ以外にも複数あり(7月22日参照>>)、現在の天守閣の最上階にもしっかりと祀られていますので、ひょっとして十二単の美女は、今も健在なのかも知れませんね。

なんとなく、伝家の宝刀を盗んだか失くしたかした家臣が、その行為をウヤムヤにせんがための妖怪話のような気がしないでもない( ´艸`)

Dscn7610a800 姫路城・天守閣

・・・で、身の丈六尺の大男は、いてましたっけ???
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2010年8月18日 (水)

アンケート企画「戦国の幕開けとは?」結果発表

 

『あなたが思う戦国の幕開けとは?』
のアンケート投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

予定通り、去る8月10日にアンケートを締め切らせていただきましたが、投票とともに楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきました。

そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきます。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~ン

1位 応仁の乱:24票
やはり、これが最も定番…全国ネットの11年間は他を圧倒してますからね~
2位 伊豆討ち入り :11票
コメントにも書いていただいていますが、「大名ではない一武将が」ってトコがミソ…そこを重要視すれば、やっぱコレかな?
3位 その他: 5票
明確な答えのない項目では「その他」は重要です~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
4位 永享の乱: 4票
やはり、将軍VS公方というのは、戦国乱世の幕開けと言えるかも知れませんね~
4位 嘉吉の乱 : 4票
暗殺・騙まし討ちの類ですが、引き金になった…というのは、あると思います!
4位 明応の政変 : 4票
衝動的ではない、綿密な計画のもとの政変…将軍の権威が完全崩壊した瞬間ですね
7位 山城の国一揆 : 2票
歴史を造ったのが貴族や有名武将だけではない事を痛感…下克上の至りですから…
8位 正長の国一揆 : 1票
なんだかんだで、日本初の一揆…民衆の力の結束に管領・畠山は脅威を持った事でしょう。
8位 加賀一向一揆: 1票
なんせ、100年間の統治ですから…信者の結束は固い!
10位 長尾為景が上杉房能を討つ: 0票
これは、この後多くの武将が経験する事…幕開けとするには、ちょっと弱かったかww

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示…「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

応仁の乱 これを機に全国の情勢がいっそう不安定になり、足利将軍・室町幕府の権威が地に落ちたので。 (男性/20代/千葉)
「宗全の言う事聞いたり、勝元についたり…義政の行動が事を大きくしていった感も…」
応仁の乱 よく雑誌とかに書いてあるので (男性/40代/愛知)
「よくわからない時、大勢に従うというのもアリだと思います」
嘉吉の乱 将軍弑逆した下克上の一番手として応仁の乱の伏線に。昔も今も赤松は悪い奴。 (男性/60代/兵庫)
「やはり、きっかけor引き金って雰囲気ですね~今も昔も…ww」
伊豆討入り それまでの情勢では為政者になり得ない一武将が大名(←重要)となるあたりが戦国らしい (男性/30代/神奈川)
「失礼ながら、どこの馬の骨かわからない早雲ですからね~重要です」
永享の乱 この後の成氏が古河公方を名乗る頃から。 (男性/40代/新潟)
「おぉ…そうでした!持氏の遺児・成氏の関東での反乱も重要です」
山城国一揆 応仁の乱はきっかけに過ぎないでしょう。実質的な幕開けはやはりこの事件だと思う
「やはり、名もなき人々が集団で…っていうのも戦国の重要な流れですからね」
応仁の乱 特に異説を唱えようとは思わない (男性)
「やはり、応仁の乱と考える方が一番多いのでしょうね」
永享の乱 関東の戦国時代の幕開けだって高校の日本史の先生が言ってました← (男性/10代/愛媛)
「日本史の授業で永享の乱が記憶に残るなんて!いろんな事がありすぎて、ついつい忘れてしまいがちなのにスゴイです…しかも関東の人ではなく愛媛」
応仁の乱 11年も戦ってたから、これを戦国と言わず、なんという。 (男性/30代)
「確かに、他を圧倒する規模と長さ…やはり最重要ですか…」
永享の乱 応仁の乱は幕府与党が権威失墜を知らしめた全国ニュース。地方から戦国が始まるのが妥当。 (男性/30代/埼玉)
「応仁の乱を経験、あるいは見聞きした者の、その後の動きが…って事ですね」
嘉吉の乱 応仁の乱だとおもしろくないから(ぁ)まあこれが前哨だと思います (男性/20代)
「やっぱ、きっかけ…ですね。私もたいがい天邪鬼ですww」
応仁の乱 権力者はどこか蚊帳の外って感じが (女性/40代/東京)
「もはや、将軍=義政って何?って雰囲気になったのも確か…」
その他 享徳の乱 (男性/40代/神奈川)
「そうです!選択技に入れてませんでしたね~持氏の遺児・成氏の活躍…」
伊豆討入り 本当の下克上だから (男性/30代/北海道)
「やはり、一武将が公方を…というのは重要ですよね~」
その他 義満が天皇になろうとしたなら?その時が下克上の始まり。が
「“日本国王臣源”ってアレですね~武門という枠を越えての下克上もあったのかも…」
伊豆討入り 早雲こそ民の為に立ち上がった英雄! (男性/20代/東京)
「早雲さん、人気ありますね~中年の星・大器晩成の鏡ですね」
明応の政変 政元は将軍をないがしろにした最初の人、嘉吉の乱より計画的 (女性/20代/大阪)
「武力に物を言わせる戦国で“政変”というのはスルドイ…これで将軍の権威失墜ですからね」
応仁の乱 乱世を全国化 (男性/60代/大阪)
「やはり、全国規模という点では外せない出来事ですね」
伊豆討入り 戦国時代といえば、戦国大名による群雄割拠の時代だと思います。早雲から始まったと思うので。 (男性/30代/福井)
「うんうん…やっぱ早雲さん人気です~群雄割拠の幕開けにふさわしいですね」
永享の乱 幕府が内部統制を取れなくなったのはこの辺りでしょう!内部統制が利かない=戦国だと私は思います (男性/30代/埼玉)
「そうですね~“幕府が押えられなくなった”というのが戦国ですからね」
その他 今の時代がそう (女性/40代/神奈川)
「久々の政権交代、そして…日本はどうなるのでせう」
その他 平安時代の中盤以降。近隣との争いや同族争いが武力闘争になり、権力が抑えきれなかったのはこの時代から。 (女性/40代)
「源平争乱の頃から…という事でしょうか?鎌倉幕府・足利幕府は、その中休みって感じなんですかね?」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

誰も見た事がないのだから、色々な意見があって当然!
これだから、
歴史の妄想はやめられませんねヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
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2010年8月17日 (火)

インドネシア独立のために戦った日本人

 

昭和二十年(1945年)8月17日、インドネシアが独立宣言を発表しました。

・・・・・・・・・

昭和二十年と言えば、太平洋戦争の終った年・・・つまり、日本が敗戦した2日後に、インドネシアは独立を宣言したという事になります。

そもそもは、17世紀に始まる西欧諸国のアジア進出・・・この頃にオランダの植民地になって以来、インドネシアは約350年に渡ってオランダの支配下にありました。

この時代のインドネシア人は、貧困に次ぐ貧困・・・支配者からは、まるで家畜のように扱われ、一説には、インドネシア人の平均寿命が35歳まで落ち込んだと言われるほど、厳しい政策だったと言われています。

そうなると、当然の事ながら、国民の支配者への反感がつのる事になりますが、インドネシアには、12世紀頃に活躍したジョボヨヨ王の予言という伝説があって、オランダの支配から抜け出す術を持たない民衆は、しだいに、その予言に希望を抱くようになっていったのです。

その予言というのが・・・
「北方の空から黄色い強者が降ってきて、圧政者を追放してくれるだろう」
というもの・・・

やがて、日露戦争において、日本が勝利すると(9月5日参照>>)、がぜん予言は真実味をおび、「黄色い強者は日本人の事ではないか?」という事が、本当に信じられるようになったのです。

なので、太平洋戦争が始まった翌年の昭和十七年(1942年)に日本軍がインドネシアに上陸をはじめると、現地の人々は、「予言通り、黄色い人間が異民族を追い出す時がやってきた!」と大いに喜び、積極的に日本軍の作戦に協力・・・

そのおかげもあって、日本軍は、上陸から、わずか8日間でオランダを降伏させ、今度は、日本が軍政をしきました。

しかし、それは、オランダの支配下の時代とは少し違うものでした。

  1. オランダ語に代わるインドネシア語の採用
  2. インドネシア人の軍事訓練
  3. 住民組織の確立
  4. 行政組織の重要箇所をインドネシア人に委譲

などですが、これらは、後に、「日本軍占領での利点」としてインドネシアの教科書に掲載された事もあったほどですから、占領下とは言え、彼らにとっても、良い政策だったと思われます。

ところが、昭和二十年(1945年)8月15日・・・ご存知のように、日本は敗戦します

その直後のオランダの構想は、未だ現地にいる日本兵と交代する形で、再び、インドネシアをオランダの支配下に置こうというものでしたが、それを知った現地住民は、このまま独立を勝ち取ろうと考えたのです。

かくして昭和二十年(1945年)8月17日インドネシアは独立宣言を発表したのです。

これに対してオランダは、すぐさま宣戦布告・・・インドネシア独立戦争の始まりです。

しかし、近代兵器を持つオランダに対して、武器のないインドネシアは竹ヤリでの応戦・・・この頃、未だ現地に残っていた日本兵の中には、オランダに協力すると見せかけて武器の輸送を担当し、その武器をインドネシア側に横流ししていた者もいたとの事ですが、そんなのは、いずれはバレてしまいます。

そんな中、現地に残っていた日本兵の中には、連合軍の支配下となった軍を離れ、インドネシア独立のために戦う者も出てきたのです。

やがて、それは、現地に残っていた一般の日本人にも広がり、1000とも2000とも言われる数の日本人が、独立のためのゲリラ戦を展開する事になるのです。

それから4年5ヶ月に及ぶ戦乱・・・インドネシアでの戦死者は80万人を数え、そこに参戦した日本人も大半が戦死したと言いますが、それは、やがては、オランダへの非難を呼ぶ事になり、結局、オランダはインドネシアの独立を認めざるをえない形となったのです。

独立戦争を生き残った宮原永治は、
「自分がインドネシアに来たのは、インドネシアを独立させるため・・・それは、自分の責任において最後までやりぬかねばならない事だと思った」
と語っています。

また、東京の青松寺(せいしょうじ)には、「市来竜夫君と吉住留五郎君へ」と書かれた石碑があります。

そこには、
「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」
という、インドネシア初代大統領・スカルノの言葉が記されています。

この市来と吉住なる人物は、かの独立戦争で命を落とした日本人です。

確かに、日本の軍政にも、問題がなかったわけではありません。
また、太平洋戦争へと突入する過程など、日本とアジア諸国との関係は、未だに語りつくす事のできないものでもあります。

しかし、インドネシアの独立記念日では、その式典で、今なお、日本軍の軍服を着た人が国旗掲揚をし、誇らしげに日本の軍歌が歌われるという事実・・・そこには、インドネシア独立のために戦った日本人への感謝の気持ちが、少なからず、込められているはず・・・

一日本人として、心に留めておきたい物語の一つです。
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2010年8月16日 (月)

その度量の大きさを物語る~大田道灌の書状

 

文明十年(1478年)8月16日、太田道灌が沼尻但馬守に書状を送りました。

・・・・・・・・・・・

大田道灌(どうかん)と言えば、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕えた執事・・・

京都に拠点を構えた将軍家の足利家と枝分かれして、関東を任された鎌倉公方の足利家・・・本来なら、公方の下に関東管領があり、その管領の職務をサポートするのが執事・・・

しかし、いつしか、公方は、都におわす将軍の傘下から、関東のみを独立支配しようとして対立・・・第6代将軍の足利義教(よしのり)と、第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の頃にピークを迎えたこの対立は、持氏の遺児・足利成氏へと引き継がれます。

将軍から任命されたのではない古河(こが)公方という名を勝手に名乗って、関東で反乱を繰り返す成氏の、格好のターゲットとなったのが、将軍から関東管領に任命されている上杉家だったわけです。

その古河公方から、関東を守るべく、道灌が築城したのが江戸城(4月8日参照>>)・・・

後に、徳川家康がこの江戸城に入り、日本一とも言える大城郭を築く事になるのは、皆様、ご存知の通りです。

道灌は、扇谷上杉家を躍進させた立役者でもあり、数々の武勇伝の持ち主でもあり、先の江戸城に見るように、築城の名人でもあるのです。

そんなこんなの文明十年(1478年)8月16日・・・本日は、その日付けでの道灌の書状をご紹介するわけですが、この文明十年という年は、その2年前から、例の成氏だけでなく、扇谷と同族の、山内(やまのうち)上杉家の執事であった長尾家長尾景春(かげはる)も反乱を起している真っ只中という状況・・・

以前、ブログでも、その長尾景春の乱(4月13日参照>>)の中の一つの合戦である用土原の戦いのページ(5月13日参照>>)に書かせていただきましたが、「道灌が、頑張ってんのに、上杉、何やってんねん!」と、ツッコミを入れたくなるくらい、道灌の活躍が目立ってます

しかし、紹介させていただく手紙は、そのような反乱に、現在対応しているとは思えない雰囲気・・・道灌の度量の大きさを感じさせてくれるものです。

「最近、連絡ないから、どうしてるんやろ?って思てたんやけど、今回の報告には、色々細かい事まで書いてくれて、ありがとな。

こっちとしては、下総への出陣も、近々する予定やけど、こっちの事は何も心配せんでもええからな。

ところで、長井六郎君の進退については、変わりないようで、君も喜んでるやろね。

山内(上杉)顕定(あきさだ)さんの判断で、今後、再び、山内上杉家への出仕が許されるようやし、僕も、ホンマ、うれしいわ。

こちらの状況については、また、いずれ、正式な伝書で伝わるやろから、ここでのくわしい報告ややめとくわな」

現代風にわかりやすくするため、かなり私見の入った口語訳になりましたが・・・この書状は、山内上杉家に仕える沼尻但馬守(ぬまじりたじまのかみ)に宛てた手紙・・・

この中の、長井六郎という人物の一件に関しては、本来、扇谷上杉家に仕える道灌から見れば、同族とは言え他家の主従関係・・・しかも、この時期は、扇谷より山内のほうが、ちょっとだけ強かった時代です。

そんな他家における、何か不始末を起した家臣が、その直属の上司に許された事を、あえて、この手紙に書き、そして喜んでいるという事は、おそらくは、道灌は、この問題に関与していたのでしょう。

つまり、他家の主従関係にも介入するほどの力を、すでに持っていた事になります。

そうなんです。

実は、道灌は、本人さえその気になれば、関東一円を支配する事も夢ではなかった実力を持っていたとも言われています。

先の長尾景春の乱での活躍を見ても、その事がうかがえます。

しかし、この乱世でありながら、道灌には、おそらく、その気はなかった・・・あくまで、道灌の思いは、関東管領である上杉が支配する関東であり、その上杉の治める関東の平和を目指していたに違いないでしょう。

個人的な印象ではありますが、今回の書状は、なんとなく、そんな思いが伝わってくる文面です。

しかし、肝心の主君=上杉家は、そうは思ってくれなかった・・・

道灌の突出した有能ぶりは、やがて、「取って代わられるのでは?」という主君の脅威となり、入浴中の騙まし討ちという、道灌の悲しい最期へと結びついてしまうのです。

個人的な妄想の域を出ないものではありますが、私は、大田道灌には、主君に取って代わるという野心はなかったと思っています。
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2010年8月14日 (土)

阿波踊りを踊っただけで…お取り潰しの蜂須賀一角

 

毎年8月12日~15日の4日間にかけて開催される徳島阿波踊り・・・ちょうど真っ最中ですね。

四国三大祭り日本三大盆踊りの一つにも数えられ、その熱狂さは、まるで地球の裏側のリオのカーニバルを彷彿とさせます。

日本人にも、こんなに熱い血潮が騒ぐ時があるのか!とびっくりするほどの興奮ぶりですよね。

その歴史も約400年と長い・・・実は、このあまりの熱狂ぶりは、代々、阿波(徳島)の悩みの種でもあったのです。

なんせ、今のように、ありとあらゆるお楽しみコンテンツがある時代ではありませんから、日頃の平静さを逸脱する祭りの高揚に、ここぞとばかりに狂喜乱舞する群衆が、いつ暴徒と化すかもわからない・・・なんせ、一揆なんて物もあった時代ですから・・・

なので、藩では、毎年のように、踊りに関する命令を出して、家中の武士たちがハメを外し過ぎないように規制していたのです。

その中には、「踊りが行なわれる3日間は外出禁止」なんてのもありました。

つまり・・・
「踊りたいなら踊っても良いけど、家の中で踊ってね
・・・って、そんなもん、家ん中で、1人で踊って楽しいわきゃない(´Д⊂グスン

まぁ、武士って商売は、腰に刀という凶器を持ち歩いていますから、たとえ踊りには加わらず、見物しているだけでも、いつ何時、まわりとのトラブルの中、興奮のあまりに刀を抜いちゃうなんて事にもなりかねませんから、「それなら、屋敷の外に出るな!」と言いたくなる藩の気持ちもワカランではありませんが・・・

とは言え・・・やっぱり、行きたいものは行きたい!!!

まして、日頃、規則でがんじがらめなのは、むしろ武士のほうで、
「祭りだからこそはじけたい」
「年に3日くらい、許してヨ」

ってのも、わかります。

・・・で、天保十一年(1840年)、この禁を破った男がひとり・・・

もちろん、この時も、「祭りの開催中は、屋敷の外に出てはいけない」という命令が出ていたわけですが、「ちょっとだけなら、見つからんかも・・・」と、考えてしまうのも人の常・・・

藩で中老という重役クラスの要職を務めていた蜂須賀一角という人物・・・

まぁ、最初のうちは、人ごみにまぎれて、チョイチョイと、小ぶりに踊りを楽しんでいたものの、やはり、楽しくなって来ると徐々に踊り方も大胆に・・・

やがて、その姿を多くの人が目の当たりにし、その顔を見咎められてしまうのです。

いわゆる「顔がさす」ってヤツです。

実は・・・
その名前でもおわかりのように、この一角さん・・・
あの蜂須賀小六(正勝)ゆかりの家柄・・・小六に仕えた中山彦次郎の末裔で、彼で9代目になるという、その家系ともども、顔の知れた有名人だったのです。

藩の記録によれば・・・

  • 御老中千石の蜂須賀一角様・・・
    昨年七月盆踊りの砌
    (みぎり・おり)
    兼て近年御家中は
    踊の場所へ出候儀は堅く御停止の所
    抜けて踊る所を見付けられ
    乱心を申し立て座敷牢に入れ候ところ…

つまり、見つかっちゃって、しかたなく「ご乱心」という事にして、とりあえずは座敷牢にて謹慎したのですよ。

しかし、残念ながら、自ら謹慎しただけでは許されませんでした。

2ヵ月後の9月21日・・・
本人は追放、家族は家中預かりの処分

つまり、改易・・・お取り潰しになっちゃったんです~

その藩の記録にも
「誠におしきお家にて残念なる御事に候」
とあり、
「かわいそうだなぁ」って感じがうかがえます。

「ちょっと、踊っただけで、そこまでしなくても・・・」
と、思ってしまいますが・・・

そう、スルドイ方は、おわかりですね。

この天保十一年と言えば・・・その3年前には、大坂で、あの大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)が起こっています。

この天保という時代は、あの大飢饉に的確な対策ができなかった幕府に、民衆は少なからず不満を持っていた時代・・・近畿地方では「御所千度参り」なんて現象も起きています(11月18日参照>>)

しかも、大塩の人気は、彼が亡くなった後も衰えず、「清国(中国)に逃げて、今も生きている」なんて噂も、しばらくの間続いていて、そこから蜂起した別の乱もあったわけですから(3月27日参照>>)

たかが踊りと言えど、藩の掲げている禁止事項を破ったのですから、それを許していては、他の罪も許す事になり、示しがつかなくなってしまうのですよ。

なんとも気の毒ですが、時代が時代だけにいたし方ありません。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

あぁ・・・自由に踊れる時代でよかった~
とは、思いますが、くれぐれも、ハメをはずしすぎないように・・・
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2010年8月13日 (金)

息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取

 

永禄六年(1563年)8月13日、毛利元就が、吉川元春小早川隆景らとともに、尼子氏の支城・出雲白鹿城への総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・

群雄割拠の中国地方・・・大大名の出雲(いづも・島根県)尼子氏周防(すおう・山口県)大内氏のハザマで、何とか独立を守っていた小大名の毛利氏・・・

当主となったのをきっかけに、それまで傘下に収まっていた尼子氏から、大内の配下となった毛利元就(もとなり)は、天文十一年(1542年)の第一次・月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いでは、その大内義隆の配下として、城攻めに参加するも、尼子氏の固き守りに阻まれてしまいました。

しかし、その後、大内氏の家臣・陶晴賢(すえはるかた・隆房)によるクーデターというお家騒動の勃発(8月27日参照>>)に乗じた元就は、弘治元年(1555年)、その晴賢を厳島の戦いの奇襲に破り(10月1日参照>>)山陽の雄=大内氏に取って代わる大大名に成長したのです(4月3日参照>>)

そして、以前から尼子VS大内の間で繰り返されていた金の成る木石見(いわみ)銀山の争奪戦に、その大内氏の後釜として突入した元就は、永禄五年(1562年)6月8日、石見を手に入れ(12月24日参照>>)、いよいよ、尼子の本領=出雲攻略へと本腰を入れるのです。

永禄五年(1562年)7月・・・次男の吉川元春(きっかわもとはる)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに、総勢・1万5000の兵を率いた元就は、石見を経由して出雲へと入ります。

この行動だけで、もはや三沢為景(みさわためかげ)三刀屋久祐(もとやひさすけ)赤穴幸清(あかなゆききよ)といった出雲の国人衆たちが、あっさりと尼子を見限って毛利の傘下へ・・・

そのおかげで、なんなく宍道湖を迂回して洗合(あらわい・島根県松江市)到着した元就は、ここに、城攻めの拠点となる支城を構築します。

もちろん、その間にも、尼子の本拠地・月山富田城への牽制も忘れず、そこから北東に位置する白鹿城(しらがじょう・松江市法吉町)と、富田城の分断を謀ります。

そう、まず、元就が狙っているのは、この白鹿城なのです。

実は、尼子氏は、本拠の富田城を守るべく、領内に「尼子十旗」と呼ばれる支城を配置していたのですが、この白鹿城は、その十旗の中でも、最も重要な第1位の城・・・

日本海側に面した位置にあり、言わば、海の玄関口の役割を果たしているこの城を占拠してしまえば、尼子は海路からの兵糧搬入が不可能となり、かなり有利に立てる事は間違いありません。

まぁ、だから元就が、最初に狙ったのでしょうが・・・

Amako10cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ちなみに、2位以下を順番に紹介すると・・・

  • 三沢城:島根県仁多郡
  • 三刀屋城:島根県雲南市
  • 赤穴城:島根県飯石郡
  • 牛尾城:島根県雲南市
  • 高瀬城:島根県簸川郡
  • 神西(じんざい):島根県出雲市
  • 熊野城:島根県松江市
  • 馬木(まき):島根県奥出雲町
  • 大西(だいざい):島根県雲南市

・・・と、とにかく重要な白鹿城ですが、もちろん、それを構築した尼子しだって、その重要性は承知・・・

その年の12月・・・いよいよ毛利が白鹿城を囲みはじめる中、尼子氏の重臣・熊谷西阿(くまがいせいあ)が、最初の段階で寝返って、今はすでに毛利の傘下となっている三刀屋城に迫ります。

しかし、未だ本格的な攻撃を仕掛ける前に、久祐からの奇襲を受けて大将の西阿は討死・・・年が明けた1月には、尼子配下の宇山(うやま)牛尾氏が、その遺志を継いで、再び、三刀屋への攻撃を仕掛けますが、毛利の大軍が援助に駆けつけるとの噂に、あっさりと攻撃をやめて戻ってしまいます

そんなこんなの3月・・・実は、元就は、その勢力を西にも領地を広げようと、この尼子氏攻めと同時に、九州にも手を出していて、あの北九州に君臨する大友宗麟(そうりん・義鎮)2月10日参照>>)を相手に戦っていたわけですが、ここに来て、その大友氏と和議が成立します。

早速、九州戦線を任せていた長男の毛利隆元(たかもと)を、次男・三男らとともに、この白鹿城攻めへと参加させるつもりで、出雲に呼び寄せたのですが・・・

なんと、この出雲に向かう途中の8月4日・・・行軍の中で、隆元が急死してしまうのです。

あまりの急死に毒殺説も囁かれる隆元の死ですが、そのお話は、2011年8月4日のページ>>で見ていただくとして・・・怪しかろうが、不可解であろうが、亡くなってしまったものは、どうしようもありません。

そこが、元就の戦国武将たるところ、と言えば、そういう事になるのでしょうが、その長男の死から、わずか9日後永禄六年(1563年)8月13日・・・かの白鹿城に、総攻撃を仕掛けるのです。

迎え撃つ白鹿城の城主は、勇将で知られる松田誠保(さねやす)・・・しかし、その時、本拠の富田城から派遣されいた兵は、わずかに1800ほどでした。

そして、たとえ相手が、どんなに無勢でも、手を緩めないのも元就の戦国武将たるところ・・・

石見銀山の抗夫・数百人に指示して、地下通路を構築・・・まずは、城の井戸を破壊して、水を断ちます。

さらに、その地下通路を使って城内にも侵入・・・しかし、さすがは勇将の誉れ高い誠保城主は、なかなか侵入を許さず、地下での合戦にも、果敢に立ち向かいます

9月には、白鹿城の危機を聞きつけた尼子氏の当主・義久の弟・尼子倫久(ともひさ)が、1万の兵を率いて駆けつけ、白鹿城を囲む毛利軍に、その外側から攻撃を仕掛けます。

しかし、この援軍が、昼間こそ善戦したものの、ある夜に奇襲をかけられて大敗を喫した事で、徐々に、白鹿城内にも不安が広がり、同時に、最初に断たれた水が、ここに来て、もはや、これ以上の籠城が不可能である事を物語っていました。

やがて10月29日・・・わずかの兵で80日間踏ん張った白鹿城も、とうとう陥落・・・誠保は城を脱出し、隠岐(おき)へと逃亡しました。

さぁ、尼子氏最大の防御が崩れました。

いよいよ、元就は、本拠地の攻防戦へと突入します・・・これが第二次月山富田城の戦いですが、そのお話は11月21日の【山中鹿之介の一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦】でどうぞ>>
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2010年8月12日 (木)

「平城遷都1300年祭」に行ってきました

 

昨日、私用で奈良へ行ってまいりましたので、その帰りに、今、開催中の、ご存知『平城遷都1300年祭』平城宮会場へと足をのばしてみました。

用事を済ませた後という事もあって、時間が3時間ほどしかなく、おそらく、すべてを見る事はできないとの判断から、まだ、見ていない所、イベント後は見られるかどうかわからない所を中心に廻って参りました。

まぁ、いつもブログを見ていただいている方はご存知のように、平城宮跡には、イベントのあるなしに関わらず、中学時代から何度と無く訪れている私ですので、とりあえず、以前からある所は省かせていただきました。

Heizyoukyou1300map2 ↑クリックして大きくして見てネ

・・・で、上記の会場案内地図でいうところの、
C:朱雀門
E:平城宮資料館
I:遺構展示室
J:東院庭園

は、イベント以前からある施設ですので、今回は行ってません。

ただし、初めての方は、行っておいたほうが良い場所なので、今回のイベントを機に訪れた方は、是非とも行ってくださいね。

1300suzakudaigokuden600 あと、以前からある朱雀門なんかも、今回のイベントのために、周囲がかなり美しく整備されていたりしますので、ひょっとしたら、新たな展示がある可能性もありますので、時間のある方は、一応、チェックしとしたほうが良いかも知れません。

それと、
H:体験楽習広場も、私は行きませんでしたが、その名の通り、色々実際に体験しながら学ぶコーナーがあるので、お子様連れの方はどうぞ。

…で、全体的に見渡して…
「遣唐使の話なんて聞きたくない」
「奈良の都がどんなだったか興味がない」

という方は、きっと楽しめないので、同じ奈良でも、東大寺や興福寺などに行かれたほうが良いと思います。

当然の事ながら、ほとんどが、その遣唐使と平城京の関する展示ですので…。

1300rwkisikan800 遣唐使船が目印の「平城宮歴史館」

…で、会場内の施設では、遣唐使船の復元展示のある「平城宮歴史館」入場料=500円いるだけで、あとの施設は無料・・・ただし、上記の体験コーナーなど、特別な事にはお金がいる場合もありますので、ご容赦を…

あと、会場内には、ハートフルトラムカートという乗り物もありますが、障害者・高齢者優先なので、元気な人は歩きましょう・・・けっこう良い運動になります。

なんせ、会場の下はすべて遺跡なので、そうそう考えなく建物を建てるわけにはいきませんので、施設と施設の間が、かなり離れています・・・中には、未だ発掘中の場所もありで、そんな遺構の様子を見ながらの徒歩も、歴史好きには苦にならないはず・・・

Ca3e0022a800 印象としては、「こんな小さな船でよく海をを渡ったなぁ」って感じです。

…で、今回、私が一番行きたかった「平城宮歴史館」・・・ここは、遣唐使の功績や苦労話を中心に、都があった頃の歴史を紹介するアニメやパネル展示などですが、やはり、実物大の遣唐使船の復元と、出口間際の「VRシアター」で見せてもらえるVR技術による平城宮の再現・・・

まるで、上空から都を見ているような、朱雀門をくぐって宮殿で入っていくような・・・そんな錯覚に陥る映像が上映されます。

ただし、そのシアターへ入場できる人数が限られているため、ここに入るには、入館券以外に整理券がいります。

建物の少し手前で、係りの方が
「現在、○時○○分からの整理券を発行しています~」
と、大きな声で呼びかけてくださいますので、入館の前に、先に整理券を貰っておいてください。

昨日の場合、最終の入館は15時40分からで、その整理券を15時前後に配っておられましたので、注意ですヨ!

1300daigokudenup800 復元された「第一次大極殿」

もう一つ・・・私が、見たかったのは、復元された第一次大極殿・・・以前、来た時は、まだ建設中だったので(゚ー゚;

また、

「朱雀門前広場」では、9時~と13時~と16時10分~の一日3回、「衛士隊の再現」が行なわれますし、レストランやフードコート、お土産物屋さんが並ぶ「交流広場」では、11時~と14時半~の一日2回、「あおによしパレード」も行なわれますので、時間に合わせて、そのあたりを散策するのも良いかも…です。

1300pr800 「あおによしパレード」…暑い中、頑張ってくださいました~

そして、最後に、一応、経験者として一言…
平城宮会場は、もともと、市民公園のようになっている平城宮跡の場所なので、そこに入るには制限はありませんが、各施設は16時に閉館となります。

その後、近鉄奈良駅行きシャトルバスは16時半が最終・・・JR奈良駅行きと近鉄西大寺駅行きは17時が最終ですが、ほとんどの方が、各施設の閉館とともに、帰宅の途につかれるため、さほど混雑していなかった昨日でも、16時~17時のバスターミナルは行列ができていて、バスを何台もやり過ごさないと乗れない状態でした。

なので、個人的には、近鉄西大寺まで、歩いたほうが早いと思い、私は歩きました。

近鉄西大寺までは、徒歩10分ちょっとくらい…Eの平城宮資料館そばの佐伯門か、交流広場南側の玉手門(冒頭の地図を参考にしてネ)が近いので、もう、最後にバスターミナルに行かず、そちら方面から会場を出たほうが早いかも知れません。

「行った事ないので、道がわからないワ」
とおっしゃる方・・・ちゃんと、曲がるところには道案内の看板があったので、おそらく大丈夫です。

とにかく、歴史好きの私にとって、天平人になりきりながらの散策は、かなり楽しめました~

9月からは、大極殿前での「天平衣装貸し出し」が再開されるとか・・・

さらに、なりきるために、もう一度行こうかと思う私でした~
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2010年8月11日 (水)

夢は自分でつかむ物…征夷大将軍・足利尊氏

延元三年(歴応元年・1338年)8月11日、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられました。

・・・・・・・・・・・・

足利氏は、あの八幡太郎と呼ばれた源義家の孫・義康下野国足利に住んだのをきっかけに、苗字を足利としたのがはじまり・・・

源平争乱の時代は、その義康の息子の義兼の時代で、伊豆にて挙兵した源頼朝に従って、対平家戦で武功を挙げましたし、あの北条時政の娘と結婚した事もあって、鎌倉幕府内でも、一目置かれる家柄でありました。

そんな足利氏嫡流の当主・足利貞氏(さだうじ)の次男として嘉元三年(1305年)に生まれた高氏は、兄の死にともない、足利氏の当主となります。

ちなみに、高氏という名は、第14代執権・北条高時から一字をもらいうけたもの・・・かの第96代・後醍醐天皇が、鎌倉幕府を倒すべく笠置で挙兵した元弘の変(9月28日参照>>)では、北条氏の命を受けて迎え撃ち、これを平定したりもしています。

しかし、もともと源氏の嫡流・頼朝が開いた鎌倉幕府・・・本来なら源氏が仕切るべき幕府でありながら、その嫡流か耐えた事で、平氏の支族である北条氏が仕切っている現実・・・

高氏の心の中には、我こそは嫡流亡きあとの源氏の棟梁という意識が、すでに芽生えており、少なからず倒幕の意志があったのでしょうねぇ~。

変後に隠岐(おき)に流されていた後醍醐天皇が脱出し、天皇の息子の護良(もりよし・もりなが)親王吉野山に立て籠もった元弘三年(1333年)には、再び北条氏の命を受けて、その討伐に向かった高氏でしたが、丹波国桑田郡(京都府亀岡市)あたりからルートを変更して、なんと、幕府の機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻撃したのです(5月7日参照>>)

同じ頃、やはり、源氏の流れを汲む新田義貞(にったよしさだ)東国にて挙兵・・・勢い衰えぬまま鎌倉を陥落させ、結果的に最後の執権となった高時が自刃・・・元弘三年(1333年)5月22日、ここに鎌倉幕府は滅亡したのです(5月22日参照>>)

その後、後醍醐天皇が京都へ入り、ご存知の建武の新政(6月6日参照>>)となるのですが、ここで高氏は、後醍醐天皇の尊治(たかはる)という名前の一字をもらいうけ、足利尊氏となりました。

しかし、この後醍醐天皇の行なった建武の新政は、天皇を中心とした公家で政治を行おうとするもので、そこに武士への配慮はありませんでした。

当然の事ながら、後醍醐天皇は、尊氏ではなく、息子の護良親王を征夷大将軍に任命したのです(7月23日参照>>)

とは言え、もともと親子関係がギクシャクしていた天皇と親王・・・結局、護良親王の征夷大将軍は、わずか数ヶ月で解任となるのですが・・・

そんなこんなの建武二年(1335年)、鎌倉幕府滅亡の際に自刃して果てた北条高時の遺児=時行(ときゆき)を担いだ反乱軍が鎌倉を攻めます・・・世に言う中先代(なかせんだい)の乱です。

この時、尊氏は京都にいて、鎌倉は、尊氏の弟・足利直義(ただよし)が守っていたのですが、その攻撃に耐え切れず、やむなく、西へ向けて撤退・・・京都にいる兄の出陣を要請してきます。

これはチャンス!
是非ともここで、征夷大将軍に任命してもらって、反乱軍の討伐へと向かいたい!

しかし、やっぱりダメでした(ノ_-。)

そうこうしているうちに、直義らは、さらに西へと撤退・・・

これはいけません・・・やむなく、尊氏は、後醍醐天皇の許可を得る事なく、反乱軍の討伐へと向ったのでした。

そして弟と合流し、見事に反乱軍を抑え、鎌倉を奪回した尊氏・・・結局、後醍醐天皇は、この尊氏の行動を追認する形で、彼を征東大将軍に任命し、官位も昇進させ、「早く、京都に戻っておいで~~」と・・・

しかし、それを阻止したのが、弟・直義・・・天皇に弓を引く事など考えてもいなかった尊氏に「あんな、武士を冷遇する政権に戻ってどーすんねん!」とピシャリ!

悩む尊氏はお寺に籠り・・・・一方の後醍醐天皇は、戻らぬ尊氏に反乱の意志アリ!と判断し、新田義貞を大将に討伐軍を派遣します。

やがて決意を固めた尊氏は、弟と合流し、箱根竹ノ下にて新田軍を破ります(12月11日参照>>)

その後、その勢いのまま、逃げる新田軍を追うかたちで京都へと進軍・・・京都を占拠された後醍醐天皇は比叡山へと逃れます

しかし、急を聞いて奥州から駆けつけた北畠顕家の大軍に、一旦、九州へと撤退する尊氏(1月27日参照>>)・・・しかし、そこで態勢を立て直し、再び、京都に向かって進軍し、湊川にて楠木正成(まさしげ)を討ち(5月25日参照>>)再び京都の奪回に成功しました。

・・・と、ここで尊氏・・・自らの手で、第93代・後伏見天皇の第2皇子を擁立し、光明天皇として即位させたのです。

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も、自らが天皇である事を主張(12月21日参照>>)・・・ここに、一つの国に二人の天皇という南北朝時代が幕を開けたのです。

そして、延元三年(歴応元年・1338年)8月11日・・・尊氏は、自らが擁立した天皇によって、長年の夢だった征夷大将軍に任命されたのです。

頼朝の直系亡きあとに、自らが源氏の棟梁として、夢にまで見た征夷大将軍・・・天皇が任命してくれないなら、こっちが天皇を擁立して、その天皇に任命してもらっちゃおう!

まさしく、自らの手でつかんだ征夷大将軍の座・・・鎌倉幕府を倒してから5年目、足利尊氏・34歳の夏でした。

Tenryuuziharu3a900 尊氏が後醍醐天皇のために建立した天龍寺(京都・嵐山)
 

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2010年8月10日 (火)

夫婦円満?初の民間皇后・光明皇后と聖武天皇

 

天平元年(729年)8月10日、藤原不比等の娘・光明子第45代聖武天皇の皇后に・・・という詔が発せられ、日本初の皇族以外の皇后が誕生しました。

・・・・・・・・・・

まさに、藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)橘三千代(たちばなのみちよ・県犬養三千代)(1月11日参照>>)夫妻の計画通り・・・

すでに不比等自身は亡くなっているとは言え、不比等の娘を母に持つ天皇と不比等を父に持つ皇后・・・見事、藤原氏全盛への基礎となった出来事でした。

ただ、このように、政略結婚丸出しのお二人ではありましたが、個人的には、おっとり型の夫と、しっかり者の妻という、なかなかお似合いのカップルであったように思います。

聖武天皇と言えば、一番に思い出すのは、あの東大寺の大仏・・・

これは、全国各地に国分寺を建立して、その地方が中央政府の傘下である事を再確認するとともに、その中心となる総国分寺東大寺に大きな仏様を建立して、仏教の力によって、国の混乱を収めようとしたもの・・・

確かに、聖武天皇の名のもとに行なわれた一大事業でありましたが、『続日本紀』などの後年の文書には、はっきりと「東大寺と国分寺の創建は、もともと皇太后(光明皇后)の勧めによるものである」と記載されています。

最近では、大仏殿横の発掘調査から出土した様々な発掘品によっても、光明皇后が、聖武天皇に負けず劣らずの大活躍で、大仏開眼に関わっていた事が、証明されつつあります(4月9日参照>>)

ところで、この頃の聖武天皇・・・
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱(9月3日参照>>)や、天然痘の恐怖におののき、平城京から逃げるように度々都を替えて(10月15日参照>>)、なにやら、気弱で情けない雰囲気に見えますが・・・

実は、書道史研究の観点から、この聖武天皇を性格を判断できるという事らしいのです。

それこそ、大陸から仏教が伝わって、この地で花開く頃から現在まで、その精進には、「写経」という物が欠かせないわけですが、書道からみると、この天平時代の写経における小楷(しょうかい・文字の小さな楷書の事)は、トップレベル・・・つまり、写経の文字に関しては、この時代の人々が一番ウマイのだそうです。

昔から「書は人なり」なんて言います。

今でも、筆跡によってその人の性格を判断する占いめいた手法もあるくらい、文字には、書いた人の性格がにじみ出るものですよね。

・・・で、その観点から、現在に残されている聖武天皇の筆跡を見てみると・・・

これが、そんな上手な人たちの中にあっても、
「品格の高さにおいて、他より抜きんでている」
のだそうです。

確かに、宝物庫などに収められているソレを見る限りでは、聖武天皇が書かれたとされる文字は線が細く女性的・・・逆に、光明皇后の文字は力強くで男っぽいですから、多少、気弱というのは当たっているのかも知れませんが、プロから見れば、ただの気弱ではなく、繊細、かつ、そこはかとなく匂い立つような品格が感じられるのだそうです。

そんな聖武天皇が崩御され、あとに残された身近な愛用品の数々・・・

光明皇后は、
「その品々を見るたびに、泣き崩れてしまうので・・・」
と、それらの品々を、生前の聖武天皇が愛した東大寺に献納した・・・それが、かの正倉院の宝物なわけです(6月21日参照>>)

夫の愛用した品を見るたび、涙が出るとは・・・

また、光明皇后は、様々な福祉施設を建て(4月17日参照>>)、自らがその運営に関わる慈愛の人でもありました。

そんな光明皇后の男勝りな文字は、私には、男のように力強いというよりは、「母は強し」という感じの母性を感じてしまいます。

これらの光明皇后の生き方、そして、大仏開眼から正倉院建立と続く一連の流れと、繊細な品格を持つ聖武天皇との関係を思うと、そこには、藤原氏が絡む政略結婚のイメージはなく、少なくとも、二人は相思相愛・・・お互いの弱点を補いながら、良きところは認め合って、さらに伸ばしていくような夫婦愛が感じられます。

ただ、お互いに天皇と皇后という立場・・・当然の事ながら、まわりの政情に影響された事もあったかも知れませんが、一歴史ファンとしては、良き夫婦だったのだろうと思いたいですね~。

そんな光明皇后は、夫=聖武天皇の死から4年後の天平宝字四年(760年)6月7日59年の生涯を終えました(6月7日参照>>)

Dscn0455a800 若草山から東大寺・大仏殿を望む
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2010年8月 9日 (月)

豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑

 

慶長三年(1598年)8月9日、病床の豊臣秀吉徳川家康前田利家らを呼び、秀頼の将来と朝鮮からの撤兵を依頼しました

・・・・・・・・・・・・

この年の5月頃から体調を崩していた豊臣秀吉・・・

徐々に悪化する病状に、死期を感じた秀吉が、居城の伏見城に、度々、諸大名を召集して、この国の行く末や、息子・秀頼の将来について、様々な遺言めいた頼みをしていた事は有名な話ですが、本日は、この慶長三年(1598年)8月9日に行なわれた秀吉との面会について書かれた書状をご紹介しましょう。

それは、毛利家と縁戚関係にある重臣・内藤隆春(たかはる)が、息子・元家に宛てた8月19日付けの書状で、その中に「去る、9日の出来事」として語られています。
(ちなみに、秀吉はこの日から9日後の8月18日に62歳でこの世を去ります)

・‥…━━━☆

その日の秀吉は、上段に座し、敷物を敷いた上に脇息(きょうそく・和風のひじかけ)に寄りかかりながら・・・そばには、数人の女性がいたとの事。

そこに居並ぶのは、左座に、徳川家康前田利家伊達政宗宇喜多秀家、右には毛利輝元・・・

この内藤さんにも、最近は、あまり体調がよろしくないとの噂が耳に入って来ていて、当日も、秀吉自身が「もう、快復する見込みはないわ~」なんて、弱気発言をしている時には、その声もかすかに聞こえる程度で、いかにも弱々しく感じられたと言います。

しかし、いざ、今後の事を話す時になると、持っていた扇で畳を叩きながらの熱弁で、まるで、以前と変わらない激しさであったそうです。

そして、秀頼が王位(関白)につくまでの今後の事は、家康と輝元の両人に頼むと・・・

さらに、東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に任せたい・・・

さらに、さらに、朝鮮からは、速やかに撤退するように、とも付け加えます。

そして、「今日が最後になるかも知れないから・・・」
と、居並ぶ者たちとともにお酒を酌み交わし、奥へと戻ろうとしたのです。

・・・が、ふと、立ち止まって、そろそろと戻って来たかと思うと、家康と輝元を呼び戻し、立ったまま・・・
「これまで頼んだ事は、忘れたらアカンで~」
と、釘を刺したのだとか・・・

同席していた毛利家臣の佐世元嘉(させもとよし)などは、
「こんなにも、自分の死後の事を明確に決めた人を見た事がない!前代未聞や!」
と絶賛し、さすが天下の名将は違うと大感激だったようです。

・‥…━━━☆

・・・で、ここでも出てきましたね~

そうです。
「東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に・・・」
のくだりです。

以前、【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】(5月10日参照>>)でも書かせていただいたように、家康の征夷大将軍の就任は、秀吉の構想の中にすでにあった事なのです。

家康が征夷大将軍として東を治め、輝元が鎮西将軍として西を治め、畿内が五奉行・・・そして、その上にいるのが関白たる秀頼なのです。

天正十六年(1588年)頃から文禄年間(1593年~95年)にかけての、公家の日記や大名の日記、談話集などには、当時の秀吉の構想が垣間見えます。

それらによれば・・・
(内容は、「中山家伝」「輝元公上洛日記」「御湯殿の上の日記」「時慶卿記」「三伝奏連署状」「北越耆談」などを参考にしています)

秀吉は、公家の家格にならい、武家にも家格を導入していたようです。

豊臣本家は、公家でいうところの近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に相当する家格・・・つまり、摂政や関白を輩出する家柄です。

そして、徳川・毛利・上杉・前田・小早川といった大老の立場にあった大名は、久我・転法輪・三条・西園寺・徳大寺・菊亭・花山院・大炊御門などの七清華に相当する家格・・・

しかも、この秀吉が決めた武家の家格は、秀頼の時代にも残っており、だからこそ、公家や諸将の年始の挨拶は、秀吉生存の頃と同様に行なわれていたわけで、個人的な官位は、秀頼より家康が上でも、家格は豊臣家のほうが上で、この先、秀頼が関白になる事はあっても、家康や秀忠がなる事はなかったのです。

あの慶長十六年(1611年)3月28日の、二条城における家康と秀頼の会見も、通説では、家康が秀頼を呼びつけ、アウェーな空気の中、豊臣より徳川が上であると見せつけとされていますが、どうやら、そうでもないようなのです。

・・・と、言いながらも、実は、私も、以前は通説の通りだと思っていました。

以前書かせていただいた【家康×秀頼~二条城の会見で出された饅頭は・・・】(2008年3月28日参照>>)のページでも、そのようなニュアンスで書かせていただいています。

もちろん、今でも、それが通説なのですから、一般的にはそれで良いのかも知れませんが、私個人の現在の考えは違います。

先の【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】のページで書かせていただいたように、以前から、関ヶ原の戦いの後に、豊臣家の石高が大幅カットされて一大名に成り下がっていたとしたら、つじつまの合わない事が多すぎるという疑問に、スッキリした回答を出すには、関ヶ原の後も、豊臣家がトップだったとするしかないと思うようになったのです(2014年3月28日参照>>)

Dscn2882a800 二条城・二の丸御殿と庭

・・・で、先の二条城の会見ですが・・・

確かに、秀頼のほうから家康の拠点におもむいた事はおもむいたわけですが、『当代記』「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」に、その様子がくわしく書かれています。

それによれば・・・
秀頼が到着したと聞いた家康は、自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案します。

しかし、それを断ったには秀頼のほう・・・

家康のほうが年長者であるし、朝廷から受けている官位が上なので、
「どうぞ上座へ・・・」
と、秀頼自らが譲ったというのです。

しかも、その会見の後に行なわれた会議で、他の諸大名は、将軍(この時はすでに2代将軍・秀忠です)に忠誠を誓うような内容の誓紙に連署していますが、そこに、秀頼の署名はありません。

つまり、ここでも、まだ秀頼は別格だったという事ではないでしょうか?

家康が、例の方広寺の鐘にイチャモンをつける(7月21日参照>>)のは、この会見から2年後・・・

秀吉が死のうが、関ヶ原で勝とうが、揺るがない豊臣の家格・威勢に対し、「一刻も早く、武力でぶっ潰すしかない!」
これが、家康の答えだったわけです。

なぜなら、この後、亡き秀吉の構想通り、輝元が西の将軍になり、秀頼が関白になってしまっては、もう、自分の天下はありませんからね。
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2010年8月 8日 (日)

天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇

 

仁賢天皇十一年?(498年頃)8月8日、第24代仁賢天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・

またまた、記紀神話のあいまいな時代の天皇ですが、まずは、古事記に従って話を進めて参りましょう。

ただし、この仁賢(にんけん)天皇についてお話するには、少し時代をさかのぼったところから始めなければなりません。

そもそもは、第21代雄略(ゆうりゃく)天皇にはじまります。

すでに、そのご命日に記事を書かせていただいている雄略天皇は、そこでもお話させていただいたように(8月7日参照>>)、立派に治世した名君=「ニックネーム:有徳天皇」という一面と、敵を根絶やしにしてしまう暴君=「ニックネーム:大悪天皇」2面性を持った天皇で、その即位の時にも、一波乱ありました。

雄略天皇の兄で、先代=第20代安康(あんこう)天皇が、家臣の謀略によって、罪のない叔父・大日下(おおくさか)皇子殺したあげくに、その妻を娶った事で、成長した大日下の息子・目弱(まよわ)安康天皇を殺害・・・

今度は、その兄の殺害に怒り爆発した弟・雄略天皇が、その目弱王を攻めようとするのですが、その挙兵に乗り気にならなかったとかで、すぐ上の二人の兄を殺害してしまいます。

その後、単身でその息子を攻め殺し、ついでに、第17代履中(りちゅう)天皇の息子・・・つまり自身の従兄弟にあたる人物で、次期天皇の呼び声も高かった市辺忍歯(いちべのおしは)も殺してしまうという暴挙に・・・、

怨みの敵討ちなんだか、皇位争奪戦なんだか・・・

そんな、わけのわからない状況ではありますが、とりあえずライバルが一掃された事で、兄の後を継いで雄略天皇が即位したという経緯があったのです。

・・・で、その雄略天皇亡き後、その息子の第22代清寧(せいねい)天皇が即位・・・ここでも、異母兄弟との間に一波乱あるのですが、それは、また、別の機会に書かせていただく事として、その清寧天皇が、子供が無いまま亡くなってしまった事で、さぁ、たいへん・・・

そう、雄略天皇が、ライバルを皆、消しちゃった事で、天皇の後継者がいなくなってしまったわけです。

やむなく、市辺忍歯の妹・飯豊(いいとよ)を、ひとまず、王とする事にしました。

その同じ頃、小楯(おだて)という者が、行政の長官として播磨(はりま・兵庫県)に赴任しますが、ちょうど、地元の者が家を建てたとかで、新築祝いの宴会に招かれました。

宴会が進むにつれ、テンションも徐々にマックスになったところで様々な舞いが披露される中、ある二人の兄弟の順番となります。

兄弟で順番を譲り合いながらも、まずは先に兄が舞い、次に弟・・・

♪物部(もののふ)の 我(わ)が夫子(せこ)
 
(と)り佩(は)ける 大刀(たち)の手上(たかみ)
 丹画
(にか)き著(つ)け 其(そ)の緒(を)
 赤幡
(あかはた)を載(の)せ 赤幡(あかはた)を立(た)
 見
(み)れば い隠(かく)
 山
(やま)の三尾(みを)の 竹(たけ)をかき苅(か)
 末押
(すえおし靡(なび)かすなす
 八絃(やつを)の琴(こと)を 調(しら)べたる如(ごと)
 天(あめ)の下治(したおさ)めたまひし
 伊邪本和気
(いざほわけ)の天皇(すめらみこと)
 の御子(みこ)
 市辺(いちのべ)の押歯王(おしはのみこ)の奴末 ♪

「武人の兄が、腰にさす太刀の鞘に赤い色を塗って、その紐も赤い紐にして、赤い旗を立てると敵は皆逃げていく…それは、山の竹の先端を刈ってなびかせるように、八絃(げん)琴を奏でるようにして天下を治めた伊邪本和気天皇(履中天皇の事)の息子・市辺押歯の息子だからだよ~イェイ」

そうです。
この弟が舞いながら歌った歌は、彼らの素性を表す歌・・・

彼らは、雄略天皇に父を殺された事で、身の危険を感じた市辺押歯の二人の息子・・・逃げるようにその地を離れ、ここで身を隠して住んでいたのでした。

ヤッター!天皇の後継者…はっけ~~ん ヘ(゚∀゚ヘ)

歌によって、その事に気づいた小楯は、早速、飯豊王に報告・・・彼女は、喜んで二人の皇子を宮殿に迎え入れたのです。

この兄弟が、
兄=意祁命(おけのみこと)、弟=袁祁命(をけのみこと)
という、口で呼ぶ時、どない区別すんねん!兄弟です。

大和に戻った兄弟は、早速、父の遺骨を探すとともに、皇位継承の準備を・・・

本来なら、兄の意祁命が即位するところですが、先の物語にあったように、中央から派遣された長官の前で、身分を明かす決意をしたのは弟・・・という事で、弟の袁祁命が即位して第23代顕宗(けんぞう)天皇となり、兄が皇太子となります。

・・・で、こうして、天皇として権力を握っちゃうと、やりたくなるのが、無念のまま死んだ父の敵討ち・・・とは言え、もう、仇の雄略天皇は亡くなってますから、
「それならば、墓をグチャグチャにしてやろう!」
と、顕宗天皇が誰かを派遣しようとすると、兄が
「そんな事、他人に任せられるかい!俺が行く!」
と、自ら志願・・・

しかし、結局、ちょっとだけ掘り返しただけで帰ってきます。

「まぁ、グチャグチャに壊したい気持ちもわからんではないけど、なんだかんで、仇でもある一方で、叔父でもある人・・・あんまりな事したら、後世の人も批判するよって、ちょっとだけ壊して恥ずかしい思いをさせたら、それでえぇんとちゃうかな?って思て・・・」

この兄の意見に顕宗天皇も納得・・・めでたしめでたし

・・・で、この顕宗天皇が亡くなり、その後を継いで即位したのが、皇太子だった兄の意祁命・・・この方が、第24代仁賢(にんけん)天皇です。

そして、その仁賢天皇は・・・と言いたいところなんですが、実は、この仁賢天皇から第33代の推古(すいこ)天皇まで、ちょうど先日書かせていただいたばかりの「欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)(8月5日参照>>)のように、ほとんどエピソードらしいエピソードもなく、そのまま尻すぼみ状態で、『古事記・全三巻』は、幕を閉じてしまうのです。

ただ、欠史八代と違うのは、コチラの仁賢天皇の次の第25代武烈天皇から推古天皇までの方々は、日本書紀には、かなりくわしく書かれていますので、おそらくは、古事記と日本書紀のコンセプトの違いによるはしょりだと思われます。

今、考えられているのは、
当時の歴史観で言えば、推古天皇以降は「現代」に当たり、その前の10代くらいは「近代」に当たる・・・つまり、近代と現代に重きを置く日本書紀と、古代に重きを置く古事記というところの違いではなかったかという事です。

日本書紀では、今回の「身分を明かす」お話は、雄略天皇が亡くなった直後に明るみになり、清寧天皇が大喜びで宮中に迎えたという、少し時間的な違いがあるお話になってます。

また、弟の顕宗天皇が、好きになった彼女の父親と、激しい歌合戦を繰り広げるお話が古事記には登場するのですが、まったく同じエピソードが日本書紀では、兄の仁賢天皇の息子である第25代武烈(ぶれつ)天皇のエピソード(武烈天皇の場合は彼女の恋人が相手)として登場する(12月8日参照>>)ところもミソですね。

果たして、偶然のように後継者が見つかって、天皇家の血筋が保たれるお話・・・真偽のほどは、いかに・・・
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2010年8月 6日 (金)

中岡慎太郎・薩長同盟への決意を語る

 

元治二年(慶応元年・1865年)8月6日、薩長同盟を進めつつあった中岡慎太郎が、長州の桂小五郎に、決意の手紙を出しました。

・・・・・・・・・・

Nakaokasintarou140元治二年(慶応元年・1865年)8月6日付けの書状には・・・
「僕の心に決めた事は、先生(桂の事)が疑おうが、諸隊が疑おうが、長州みんなが疑おうが、天下万民が疑おうが、死を覚悟して決めた事・・・少しも揺るぎはしない決意です」
と、あります。

・・・で、慎太郎は、何を決意したのか?

それは、かの薩長同盟です。

上記の手紙は・・・
かつて、文久四年(元治元年・1864年)の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)において、敵対した薩摩(鹿児島県)長州(山口県)・・・その二つを、なんとかひっつけようと奔走する慎太郎でしたが、なかなかうまく行かず、「本当に薩摩は長州と和解する気があるのか?」と疑いはじめた小五郎に、その決意のほどをしたためた手紙というわけです。

・‥…━━━☆

先日の7月27日、陸援隊(りくえんたい)発足の日づけとともに、中岡慎太郎について書かせていただきましたが(7月27日参照>>)、そこで、書かせていただいたように、土佐(高知県)で始まった攘夷派への取り締まりから逃れるように脱藩して長州に身を寄せていた慎太郎は、かの禁門の変にも参加します。

そこで、負傷した慎太郎は、
「おたくの藩のスゴイ攻撃に見入ってたら、流れ弾に当たってしまいましたゎ~」
と、長州藩側の人間である事を隠して薩摩藩の支藩である佐土原藩の藩士の家で治療してもらっています。

その藩士は、以前、塾がいっしょだった事で、友人関係になった人物だったのですが、ここで、その友人から、
「西郷の真意は、長州討伐にあるのではなく、禁裏の守護のみである」
と、聞かされたと言います。

つまり、この時点で、慎太郎は、すでに薩長同盟の可能性に気づいていたと・・・そう考える歴史家のかたも少なくないようですが、先の陸援隊のページにも書かせていただいたように、その動きが活発になるのは、禁門の変から4ヶ月後の11月・・・下関にやってきた福岡藩士・早川勇(いさむ)からの、「薩摩と手を組んだら?」という提案があってからです。

翌月、小倉を訪れていた薩摩藩の西郷隆盛と面会して、その「長州をサポートする気がある」という真意を聞き、がぜん活発に動きはじめる慎太郎・・・

年が明けて元治二年(慶応元年・1865年)2月、長州に保護されている三条実美(さんじょうさねとみ)を説得して、薩長同盟への内命を受け取った慎太郎は、諸藩の勤王家と連絡をとるため京都へと向かいます。

しかし、忙しい・・・4月には、再び下関へ戻り、桂小五郎伊藤俊輔(博文)に面会して、薩摩との和解の話を持ちかけます。

ちなみに、坂本龍馬が慎太郎に同調するようになるのは、この頃からだろうと言われていて、おそらくは、慎太郎の同志である土方久元(ひじかたひさもと)なる人物の話に心動かされたのだろうとされています。

そして、まもなく第二次長州征伐(5月22日参照>>)がはじまろうかという4月末・・・西郷は、来る長州征伐において、薩摩藩が幕府の一員として出兵しないよう藩に進言するため薩摩へと帰国します。

それを知った慎太郎と久元は、早速、京都の薩摩藩邸に行き、
「次に、西郷さんが上洛する時には、是非とも下関で途中下船して、小五郎と会ってちょーだい!」と・・・

一方の龍馬も、この間に小五郎に「相手がせっかく下関まで来るんだから・・・」
と、長州側の説得をしていたと言われます。

こうして、彼らが手はずを整えた・・・はずでしたが、なぜか、その時の西郷の乗った船は、下関で止まらず、直接、京都へ・・・(ちょうど、前回の「龍馬伝」でやってましたね(゚ー゚)

一応、西郷さんの言い分では
「京都にいる大久保一蔵(利通)に急いで来い!と言われたんで・・・」
との事ですが、その真意はわかりません。(ドラマのようにドロボーが入ったのかも)

とにかく、やり直しとなってしまいました。

しかし、ふさいではいられません。

早速、京都へ向かった西郷を追って、彼ら・慎太郎ご一行も京都へ・・・

そして、京都の薩摩藩邸で西郷や小松帯刀(こまつたてわき)と面会し、
「何とか、薩摩のほうから、長州への使者を送ってくれないか?」
と説得・・・彼らの熱心さに心動かされた薩摩藩は、藩士の黒田清隆(8月23日参照>>)を近々、使者として派遣する事を約束してくれました。

こうして、何とか、薩摩との約束をとりつけはしましたが、問題は・・・

そう、西郷にドタキャンされて怒り爆発の長州です。

ただでさえ、「禁門の変の怨み」とかで、なかなか心開いてくれない長州なのに・・・

そう、冒頭の手紙は、この頃の慎太郎が小五郎に送った物なのです。

同じ頃、薩摩藩の重臣・伊地知正治(いぢぢまさはる)から、かの吉田松陰(よしだしょういん)著書を入手してくれないか?と頼まれた慎太郎・・・なんと、その本の入手を小五郎に依頼します。

やがて、小五郎が入手した著書を慎太郎が伊地知に送ったところ、お礼の品として薬籠が小五郎のもとへ送られて来たのだとか・・・

こんな細かな努力が実って、やがて翌年、ご存知の薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・となるのですが、この同盟が成立した慶応二年(1866年)1月21日には、その場にいなかった慎太郎・・・

会見を終えて帰国した小五郎の口から、慎太郎がうれしい報告を聞いたのは、翌・2月の初め事だったそうです。
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2010年8月 5日 (木)

記紀にはしょられた天皇たち…欠史八代

 

孝昭天皇八十三年(紀元前393年頃)8月5日、第5代・孝昭天皇が93歳(もしくは113歳)で崩御されました。

・・・・・・・・・

アマテラスオオミカミ(天照大御神・天照大神)の孫・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)日向・高千穂の峰に降臨し、日向三代を経てから、そのひ孫にあたるカムイヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命・神日本磐余彦尊)東へと向かい畝火(うねび)白檮原宮(かしはらのみや)にて即位・・・これが、初代天皇神武天皇です(2月11日参照>>)

その神武天皇の死後、残された異母兄弟間で、皇位継承を巡っての争いが勃発しますが、その争いに打ち勝ったのが一番下の弟だったカムヌナカハミミノミコト(神沼河耳命・神渟名川耳尊)で、葛城(かつらぎ)高岡に宮殿を造って即位・・・第2代綏靖(すいぜい)天皇となります。

ところが…です。

この第2代綏靖天皇から、本日の孝昭天皇を含む第9代開化(かいか)天皇までの8代に渡って、『古事記』『日本書紀』ともに、ストーリーらしいストーリーのない変な展開となってます。

どこで天下を治めた(宮殿の場所)とか、誰々との間に何人の子供がいたとか、何歳で死んでどこに葬られたか・・・という事が淡々と書かれるだけの、言わばデータのみの記述で、それ以外の情報がほとんどないのです。

とりあえず、神武天皇を含めて、そのデータを箇条書きにすると・・・(享年の()内は日本書紀の没年齢)

  1. 神武天皇
    享年:137歳(127歳)
    宮殿:白檮原宮
    御陵:畝傍山東北陵
       (うねびのやまのとうほくのみささぎ)
  2. 綏靖天皇
    享年:45歳(84歳)
    宮殿:葛城の高岡宮
    御陵:桃花鳥田丘上陵
       (つきだのおかのうえのみささぎ)
  3. 安寧(あんねい)天皇
    享年:49歳(57歳)
    宮殿:片塩(かたしお)の浮孔宮(うきあなのみや)
    御陵:畝傍山南御陰井上陵
       (うねびやまのみなみのほとのいのうえのみささぎ)
  4. 懿徳(いとく)天皇
    享年:45歳(77歳)
    宮殿:軽(かる)の曲峡宮(まがりおのみや)
    御陵:畝傍山南纖沙谿上陵
       (うねびやまのまなごのたにのうえのみささぎ)
  5. 孝昭(こうしょう)天皇
    享年:93歳(113歳)
    宮殿:掖上(わきのかみ)の池心宮(いけごころのみや)
    御陵:掖上博多山上陵
       (わきのかみはかたのやまのかみのみささぎ)
  6. 孝安(こうあん)天皇
    享年:123歳(137歳)
    宮殿:室(むろ)の秋津嶋宮(あきつしまのみや)
    御陵:玉手丘上陵
       (たまてのおかのうえのみささ)
  7. 孝霊(こうれい)天皇
    享年:106歳(128歳)
    宮殿:黒田の廬戸宮(いおとのみや)
    御陵:片丘馬坂陵
       (かたおかうまさかのみささぎ)
  8. 孝元(こうげん)天皇
    享年:57歳(116歳)
    宮殿:軽の境原宮(さかいはらのみや)
    御陵:剱池嶋陵
       (つるぎのいけのしまのみささぎ)
  9. 開化天皇
    享年:63歳(111歳)
    宮殿:春日の率川宮(いざかわのみや)
    御陵:春日率川坂本陵
       (かすがいざかわのさかもとのみささぎ)

・・・とまぁ、こんな感じです。

記紀の手抜きとも思われる、このエピソード・ゼロの方々を総称して『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)と呼びますが、100歳以上も生きたのにはしょられた方は、本当にお気の毒・・・

しかし、お察しの通りです。

この、今ハヤリの100歳以上の所在確認できない方々・・・実は、所在どころか、その存在すら危ういというのが一般的な見方です。

すでにブログに登場している第10代崇神(すじん)天皇(12月5日参照>>)・・・

そのページにも書かせていただきましたが、再びエピソード満載な書き方が始まる、この崇神天皇こそが本当の初代天皇で、実在したかもしれない人物・・・つまり、「ここまでの天皇は架空の人物であろう」というのが大半の見方です。

そこには、これらの天皇の和風諡号(しごう)に、後世の天皇のソレとかぶる物が複数あるのが怪しいという説・・・

和風諡号とは、いわゆる日本風の諡(おくり名)の事で、神武天皇でいうところのカムイヤマトイワレビコノミコト、綏靖天皇でいうところのカムヌナカハミミノミコトという名前の事です。

なので、後世の天皇の和風諡号を参考に、これらの天皇の名前を後世の人が考えたのではないか???という事だそうですが、個人的には、その逆・・・つまり、ご先祖様の名前を、後世の人が参考にした可能性だってあると思うので、それだけでは怪しいとは言えない気がします。

むしろ、長寿大国を思わせる没年齢のほうがよっぽど怪しい・・・

いずれにしても、この8代だけが、まったく別の書物のような書き方になっている点は、やはり不可解で、そこに創作の疑いがかかるのはいたし方ないところであります。

一方、この欠史八代は、架空ではなく、実在したとする説もあります。

それは・・・
実在したけど、くわしくは書けない人たち・・・つまり、別の王朝だったのではないか?というのです。

いわゆる「葛城王朝説」です。

これは、これら8代の天皇の活動拠点が葛城地域に集中している事から端を発した説で、もともとは九州を含む西日本一帯を支配していた葛城王朝でしたが、九州から、新たにやってきた豪族=崇神天皇にとって代わられたのでは?というもの・・・

この話は、邪馬台国の存在とも微妙にリンクしていて、邪馬台国=畿内説では葛城王朝を邪馬台国とし、そこに、後の大和朝廷となる新勢力=崇神天皇がやってきたと・・・

逆の、邪馬台国=九州説では、崇神天皇が邪馬台国に関連する人物で、邪馬台国のあった九州から畿内へと侵攻したと考える人も多いようです。

果たして、記紀の記述において、明らかにおかしい欠史八代・・・

神の領域の神武天皇と皇室ご先祖の崇神天皇をつなぎ合わせるための架空の人物なのか?

それとも、記紀編さん者が、書きたくても書けない別王朝だったのか?

考え出したら夜も寝られません(。>0<。)

Dscn1493a800 第8代孝元天皇の陵墓とされる剣池(奈良県橿原市)
★剣池へのくわしい行きかたは本家・HP【奈良歴史散歩・明日香】へどうぞ>>

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2010年8月 4日 (水)

「お父ちゃん、褒めたげて!」黒田長政の関ヶ原

 

元和九年(1623年)8月4日、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田如水の長男で、初代・筑前福岡藩主となった黒田長政が56歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉中国大返し(6月6日参照>>)を見事にサポートした軍師として超有名な黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・

未だ小寺姓を名乗る播磨(兵庫県)の小大名だった彼が、織田信長の傘下に入り、一気に3万石の大名へとのしあがるのが、天正七年(1579年)の摂津(大阪府北部)有岡城の攻防戦・・・

この時、信長に叛旗を翻した有岡城主・荒木村重を説得するために有岡城へと向かった如水は、逆に、「お前も寝返ろ!」と言われるも、それを断ったために城内に監禁され、城の落城とともに、やっと救出されます。

劣悪な環境で監禁されたため、以後、足腰が立たない不自由な体となってしまいますが、そんな状況になっても信長を裏切らなかった事から、絶大な信頼を得る事になり、石高の大幅アップとなったわけですが・・・

この時、有岡城から戻らぬ如水を、裏切ったものと判断した信長によって殺されるところだったところを、竹中半兵衛重治(はんべいしげはる)機転によって、その命を救われた如水の息子・・・その息子が松寿丸黒田長政、その人です(10月16日参照>>)

命救われた時、12歳だった長政少年は、その3年後くらいから秀吉軍団の一員として合戦に参加し、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳(しずかだけ)の戦い(3月11日参照>>)や、天正十五年(1587年)九州征伐(4月17日参照>>)にも、父とともに従軍しました。

Kurodanagamasa150 やがて、天正十七年(1589年)には、父・如水の隠居とともに家督を相続・・・石高12万石の豊前(大分県)中津城主となります。

その後の朝鮮出兵にも参加して半島各地を転戦し、武功を挙げたりしますが、なんと言っても、長政一番の活躍と言えるのが、あの関ヶ原の合戦です。

慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉の死・・・
翌年閏3月の前田利家の死・・・

これによって、日頃の不満が爆発したのは、武闘派加藤清正福島正則たち・・・豊臣家内の事務方を荷っていた文治派石田三成に怒りが集中した彼らは、利家が亡くなったその夜、三成宅を襲撃しますが(3月4日参照>>)長政もキッチリ、この仲間に入っています。

実は、朝鮮出兵から帰国した黒田父子は、しばらくは京都の伏見に滞在していたのですが、その後、本拠地の中津に戻る事になった如水が、「やがて世は乱れるかも・・・」と、息子・長政には上方に留まるよう指示していたのです。

結局、かの襲撃事件は、三成の謹慎という形で、一応の決着をみますが、次に起こったのが、家康の上洛要請を拒否し続ける上杉景勝への出兵(4月1日参照>>)・・・いわゆる会津征伐です。

慶長五年(1600年)6月、会津に向けて進発した家康のそばには、従う長政の姿もありました。

この直前には、家康の養女・栄姫(えいひめ)との婚儀も済ませていた長政・・・もう、すっかり家康派ですね~。

・・・で、この家康の留守を狙って、伏見城を攻撃した三成(7月19日参照>>)・・・こうして関ヶ原の戦いの幕が上がったわけですが、この時、豊臣恩顧の多くの武将を、家康の東軍へと引き入れたのが長政でした。

中でも、戦いのキーポイントとなった吉川広家(きっかわひろいえ)小早川秀秋(こばやかわひであき)を寝返らせた功績はかなりのモンです。

この時、早いうちから寝返りの話を持ちかけられ、一応のOKを出していた広家でしたが、表面上は、まだ、西軍として参戦している立場だったため、8月25日の安濃津城の戦い(8月25日参照>>)にて、意外な大活躍をしてしまうのですが、その行動に対して長政は、「家康さんは、もう駿河まで来てはるんやから、行動に気ぃつけや~」と、手紙にてキッチリ釘を刺しています。

もちろん、コレ、嘘です。
家康が江戸を出立したのは、9月1日ですからね~。
長政さん、なかなか、やります!

このへんの、毛利との密約については、昨年の「天地人」がらみで書いた【関ヶ原敗戦での毛利の転落】(9月28日参照>>)をご覧いただければ幸いです。

・・・で、もう一人の小早川秀秋・・・なんだか煮え切らない秀秋に対しても、8月27日の日づけの浅野幸長(よしなが)との連名による書状で、「家康さんは、2~3日中にも、到着しはるよって・・・」と、これまたハッタリかましてます。

しかも、その後も何度も使者を送り、合戦前日には家臣の大久保猪之助(いのすけ)を陣中に送り込み、その行動を監視させてもいます。

決戦当日になっても、まだ態度のはっきりしない秀秋に対して、猪之助が「お前、東軍で参加するて言うたんやないんかい!」と、刀に手をかけて、寝返りを迫ったなんて逸話もあります。

もちろん、長政の関ヶ原での功績は、このような内応工作だけではありません。

合戦そのものでも、石田隊の島左近(さこん・清興)蒲生郷舎(がもうさといえ)らと激闘を演じる中、鉄砲隊を迂回させて背後へと回らせ、見事、左近の狙撃に成功しています。

これだけの大活躍を見せた長政・・・

さすがに、家康も大喜びで、合戦後には長政の手を握り、「よくやってくれた」と大感激・・・おかげで、石高52万石の福岡藩主に大抜擢されました。

天下分け目の戦いで、大変な武功を挙げた長政は、意気揚々と故郷へと戻ります。

そして、早速、父・如水に報告・・・

「あんな、お父ちゃん、
東軍勝利の原動力になった秀秋くんの寝返りも、広家くんの寝返りも、みな俺がやってん!
ほんで、当日も、メッチャ頑張ってん。
関ヶ原が一日でケリついたんは、俺の働きがあったからやねんで!

と、自慢気に語る長政・・・まぁ、そら、自慢したくもなります。

ところが、如水・・・
「天下分け目の合戦てなモンはやなぁ・・・腰を落ち着けて、もっと、ゆっくりやるモンや!」

えぇ?どういう事?
と、思いながらも、
「もう、家康さんなんか、わざわざ、俺の手を握って、アリガトアリガトて言うてくれはったんやで!」
と、続ける長政・・・

「ふ~~ん・・・で、その時、家康は、お前の、どっちの手を握っとったんや?」
「いゃ・・・右手ですけど・・・」
「ほな、あいてる左手は何をしとったんじゃあ~~~!

以前にも書かせていただきましたが、
実は、関ヶ原当日には、九州にいた如水・・・「合戦が長引けばチャンスあり」と睨んで、この天下分け目のドサクサにまぎれて、自分こそが天下を取ろうとしていたとも言われているのです。

現に、関ヶ原の2日前の石垣原の戦いで、大友義統(よしむね)を破ったのを皮切りに、九州全土を制覇せんが勢いで進軍し続けていたのでした(9月13日参照>>)

なのに、肝心の中央での戦いが、たった一日で決着がついてしまっては、なんとも・・

つまり、
「家康が、長政の右手を握っていたのなら、あいてる左手で家康を刺せば、天下が転がり込んで来たのに・・・」
という事です。

とは言え、この長政の功績で、徳川政権のもとで生き残る黒田家・・・

長政自身は、大坂の陣にも徳川秀忠に属して出陣したりしますが、元和九年、秀忠上洛の準備のために京都にやってきたところ、にわかに発病し、元和九年(1623年)8月4日返らぬ人となります。

上記の関ヶ原後の父子の逸話から、優れた武将であった父・如水に対して、息子・長政は、それほどでもなかったという印象を持ってしまいますが、どうして、その働きぶりは大したもんです。

如水も、それは充分にわかっていたと思います。

なぜなら、如水は、自らの死の間際に、「優秀な家臣を長政のために残してやりたい」として、自分への殉死を禁止して、わざと悪態をついて、家臣からの信頼を失うようなそぶりを見せていたとも言われているからです。

それは、息子が頼りないからではなく、自分とは違う道を歩もうとする優秀な息子が、さらに能力を発揮するためのプレゼント・・・

家康を越えようとした父と、家康の配下で上りつめようとした息子・・・どちらも勇将。

人生も、適材適所・・・ムリをしてはいけません。
その人に合ったいごこちの良い場所という物が、きっとあるはずですから・・・。
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2010年8月 3日 (火)

豊臣秀頼・出生のヒミツ

 

文禄二年(1593年)8月3日、豊臣秀吉の次男・秀頼が、大坂城で誕生しました。

・・・・・・・・・・・

母親は、ご存知・・・
北近江を支配していた浅井長政(あざいながまさ)を父に、織田信長の妹・お市の方を母に持つ、あの浅井三姉妹の長女=淀殿です。

そして、気になるのは・・・
誰もが疑い、誰もが知ってる、あのウワサ秀頼・出生の秘密・・・。

いまさら、言う事もないような語りつくされた感のあるお話ですが、やはり、避けて通れないという事で、本日は、そのお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

そもそもは、無類の女好きとして知られる豊臣秀吉・・・

あまりの激しさに正室のおねさんがグチをこぼし、主君の信長が慰めの手紙を送ったという有名な逸話も、ご存知の事と思います(5月12日参照>>)

あの宣教師のルイス・フロイスも、著書『日本史』の中で、「宮殿を遊郭にしている」と、通説で言うところの15人の側室以外にも、一夜限りの相手としての多くの女性が、秀吉のもとに出入りしていた事を書き残しています。

しかし、そのいずれにも子供はいない・・・

そんな中で、淀殿だけが2回も出産・・・しかも、その時の秀吉はすでに50歳を過ぎた、当時としては、すっかり老人の部類に入る高齢ですし・・・

さらに、側室のうち、松の丸殿は前夫との間に子供がおり、加賀殿という女性も秀吉の死後に他家に嫁いで出産していますし、伊達政宗に下げ渡されたお種殿という人も、政宗との間に子供ができている・・・

当然の事ながら、おそらく、「秀吉のほうに子供を作る能力がなかったのだろう」と判断しますし、そうなると「その中で、淀殿だけが2度も妊娠するのはオカシイ」と、後世の誰しもが疑ってしまうわけです。

・・・で、もし、そうなら、
秀頼の本当の父親は誰なのか???

実は、後世だけではありません。

当時、すでに、そのウワサは囁かれていました。

毛利家に残る『萩藩閥閲録(ばつえつろく)の中にも、朝鮮出兵の際に日本に連れて来られた姜沆(カンハン)『睡陰看羊録(すいいんかんようろく)にも、淀殿不倫の話が登場します。

その内容の真偽はともかく、少なくとも、周りでそんなウワサが囁かれているという事は確認できます。

・・・で、その不倫の相手として一番にあげられるのは・・・

淀殿の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子=大野治長(はるなが)です。

彼は、淀殿が生まれ育った故郷・近江ゆかりの人物ですし、後に秀頼の側近となって、あの大坂の陣では、中心人物となって采配を揮う人・・・

しかも・・・
小柄で「猿」「禿ねずみ」に例えられた秀吉とは、その容姿がまったく似ていなかったとされる身長190cm・体重130kg(あくまで噂ですが…)の巨漢に成長した秀頼ですが、この大野治長は、まさに長身で色白のイケメンだったとの事で、その風貌のそっくりさから、ますます、ウワサがウワサを呼ぶ事に・・・

また、そこには、父だけでなく、母をも死に追いやった秀吉を、淀殿が怨んでいないはずはなく、近江ゆかりの人物の子供を、わが子として秀吉に抱かせる事で、その怨みを晴らしたなんて、昼ドラまがいのドロドロ感満載の裏テーマも相まって、今もなお、取りざたされる一大スキャンダルとなっているわけです。

治長のほかにも、あの関ヶ原を引き起こした石田三成や、歌舞伎役者の名古屋山三(さんざ)などの名前もあがってはいますが、それらが囁かれるのは後世になってから・・・直後の周辺の人の日記には、「秀吉の死後は、その遺言で、家康と結婚する事が決まっていた淀殿が、大野治長と一緒に高野山へ逃げた?」なんて話まで出てきます(くわしくは【大砲2発・冬の陣~家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係】でどうぞ>>)

しかし・・・
直後から、これだけ噂になっていたという事は、おそらく秀吉が生きていた頃から、怪しい雰囲気は醸し出されていたはず・・・ご本人の秀吉さんは、疑いを持たなかったのでしょうか?

なんとなく、歳をとってからの秀吉は、猜疑心が強く、事あるごとに、なにかしらに疑いをかけていた雰囲気がするのに、この秀頼に関しては、まったく疑う事なく、むしろ溺愛に近い態度で接しています。

とは言え・・・
もちろん、正史としては秀頼は秀吉の子供で、それを否定する史料なんて無いわけですから、ここからは憶測になるわけですが・・・

私個人的には、秀吉は、
「まったく疑わなかった」
のではなく、
「疑いたくなかった」
というように思えてならないのです。

秀吉には、その生涯で、3人の秀勝と名付ける息子がいます(←これは憶測ではなく記録として残ってます)が、その中の二人は養子・・・1人は姉・ともの子供で甥にあたる秀勝、もう1人は、信長の四男で養子に入った秀勝。

そして、もう1人・・・長浜城主だった時代に南殿という側室が生んだ石松丸=後に秀勝と名乗らせた男の子がいたのです。

ただ、その史料が少なく、おそらくは、まだ幼いうちに亡くなったのだろうという程度しかわからない人物ですが、長浜の寺に残された位牌や寺伝などから、実子であった可能性が高いと言われているのです。

(ここからは完全に憶測ですが・・・)
おそらく、秀吉は、その過去の事実に一筋の希望を見出した・・・

子供ができる可能性が、まったくのゼロではない以上、「秀頼を実子だと信じよう」と、自分自身に言いきかせていたのでは?と思うのです。

それこそ、疑い出したらキリがありません。

今のようにDNA鑑定ができるわけでもないですから、どっちにしろ「絶対」なんて言えないわけですし、すでに58歳の秀吉に、この先、本当に子供ができるとは、とても思えません。

だったら、周りがどんなに疑おうが、どんなにウワサしようが、「自分は信じよう」と決めたのではないか?と思います。

以前の【千利休の切腹の謎】(2月28日参照>>)でも、その理由の一つとして、利休が秀吉の逆鱗に触れるような事=秀吉が聞きたくない事実を言っちゃったんじゃ???と書かせていただきましたが、案外、当たってるかも知れません。

「わかっちゃいるけど、知りたくない」
そんな事って、あると思います。

秀吉は、自分に言いきかせながら、信じようと努力しながら、豊臣家の未来のすべてを秀頼に託したのかも知れません。

Dscn7958800 昼下がりの大阪城・六番櫓
 

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2010年8月 2日 (月)

少年・徳川家康の命の値段

 

天文十六年(1547年)8月2日、松平広忠が、今川義元への臣従の証しとして人質に送った長男・竹千代が、織田信秀方に奪われ、尾張古渡城に送られました

・・・・・・・・

ずいぶんと前に、このブログでも【徳川家康は4人いた?説】(11月27日参照>>)なんて書かせていただきましたが、そこでも書かせていただいたように、やれ、人質時代に別人とすり替わっているとか、関ヶ原で、あるいは、大阪の陣で討たれ、その後は影武者だったとか・・・と、別人説が数多く飛び交う徳川家康さんですが、その一つに、

「駿府にいた旅芸人の子が願人坊主(がんにんぼうず・門付けなどの修行で放浪する乞食僧)に売られた後、さらに本物の家康とすり替わった」
というものもありますが、もちろん、いずれも俗説で、正史としての家康は、後にも先にも、皆さんよくご存知の、あの家康1人です。

ただ、そんな替え玉説も、晩年の影武者説同様、話の出どころというのはあります。

どうやら、家康さん・・・
晩年に家臣たちに話して聞かせた若い頃の昔語りの中で
「わし…子供の頃に売られたこと、あるんや~」
なんて話をしていたようで・・・

この話は、『松平記』『駿府記』『駿府政治録』などなど・・・ある程度、正史であろうとされている文書に複数回登場するところから、「実際に売られた」かどうかはともかく、「売られたと話してした」事は事実であろうという事で、そこから、明治になって登場したのが、上記の替え玉説・・・

という事で、まぁ、小説やドラマにするなら、替え玉説はおもしろそうではあります。

・・・で、そもそも、家康は、なんで、「自分は、子供の頃に売られた」なんて事を話すようになったのか???
それが、今回の人質と関係があるのでは?
という事なのです。

・‥…━━━☆

そもそもは、家康の父の松平広忠さん・・・

彼は、岡崎城を拠点に、その周辺の西三河を統治していた戦国大名だったわけですが、群雄割拠する戦国の世において、隣国・駿河(静岡県東部)今川義(よしもと)の保護を受けて、かろうじて独立を守っているといった状態でした。

そんな時、勢力を拡大してきたのが、尾張(おわり・愛知県西部)織田信秀・・・

これをチャンスとばかりに、叔父にあたる三木(みつき)松平信孝は、信秀傘下の酒井忠尚(ただひさ)や、松平忠倫(ただとも)と結び、惣領家にあたる広忠を岡崎城から追い出し、自分が、松平家のトップに立とうと画策します。

こうなると、向こうに織田というバックアップがいるのですから、当然、こちらも、これまでよりも、さらに強固に、全面的に今川にバックアップしてもらわねばたちうちできませんが、そうなると、タダというわけにはいきません。

戦国の世のならい=臣従の証しとなる人質です。

こうして、駿府へと人質に差し出される事になったのが、広忠の長男の竹千代・・・後の家康です。

天文十六年(1547年)8月2日、わずか6歳の竹千代を連れた一行は、岡崎城をあとにし、西郡(にしのこおり)から船に乗って田原へと出ました。

この先は、陸路で駿府まで・・・

ところが、田原で彼らを出迎えた田原城主の戸田康光・・・
「陸路は、危険ですよって海路で行きましょ!」
と、一行を船へと案内します。

この康光という人は、その娘を広忠の後妻としていて、言わば身内のような人・・・なので、竹千代を護衛していた侍たちも、すっかり信用して、何の疑いもなく、船に乗っちゃったわけですが、実は、すでに、信秀側に寝返っていたんですね~

残念ながら、船は駿府へとは向かわず、尾張の方角へ・・・

・・・で、この時、康光が寝返った条件というのが、義理でも人情でもなく、ほかならぬお金だったのです。

ただ、史料によってまちまちで、一千貫文とする物もあれば五百貫文とする物もあり、一番安いのでは百貫文という物までありますが、もし、五百貫だとすると、現在の価値になおして、だいたい5000万円から7000万円くらいに相当するらしいです。

う~ん???
高いと判断するか安いと判断するかは、人それぞれ・・・。

竹千代を奪った信秀の思惑は、当然、広忠を織田傘下に引っ張り込むため・・・早速、信秀は、竹千代の命をたてに、広忠を味方に誘いますが、彼の答えは「NO!」

考えて見れば、相手が織田であれ今川であれ、息子を人質に出した時点で、戦国武将たるもの、それなりの覚悟が必要・・・その命、惜しさに寝返るようでは(金で寝返る人もいますが・・・)、同盟関係も構築できないというのが、広忠の考えです。

おそらくは、義元の援助なしでは存在できない立場であったという事もありましょうが、とにかく、「人質を生かすも殺すも存分に・・・」という返事をしたとの事・・・。

こうして、父にも見捨てられ、もはや、人質の価値はなくなってしまった竹千代でしたが、信秀は彼を殺そうとはせず、竹千代は、しばらくの間、尾張で過ごす事となります。

信秀は、ご存知・織田信長のお父さんですから、この時に、おそらくは吉法師=後の信長に会う機会もあったかも知れません。

この先の桶狭間(5月19日参照>>)から後の二人の関係を見る限りでは、立場などに関係なく人に接する少年・信長に、意外と竹千代はなついていたのかも知れません。

やがて、そんな竹千代に転機が来るのは天文十八年(1549年)・・・わずか2年後の春です。

父・広忠が、岡崎城内で家臣の手によって殺されてしまうのです。

当主を失ってしまった松平家・・・先に書いたように、すでに一族の中には、織田方についている者もおり、後継ぎの竹千代も織田側にいるとなると、この先、織田の傘下となったほうが良いのでは?と、家臣たちの中にも、そんな空気が流れはじめます。

そこに「待った!」をかけたのが、今川方の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)・・・

この先、西へと領地を広げたい義元にとって、岡崎城は、ぜひとも、このまま傘下に納め続けて置きたい場所ですから・・・

こうして、雪斎自らが総大将となって、竹千代奪還に挑むべく、信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込む事となるのですが、後の人質交換も含めて、そのお話は、すでに書かせていただいているので【安祥城の戦い】(11月6日参照>>)のページでどうぞo(_ _)oペコッ

・‥…━━━☆

・・・で、結局は、この時、いくらかの金額で康光が寝返ったという事で、「今川に行くはずの自分を織田へ売った」と・・・

冒頭に書かせていただいた家康晩年の昔語り・・・
「わし…子供の頃に売られたこと、あるんや~」
って、話は、この事ではないか?というのが、大勢の見方となっているようです。

この家康の命の値段・・・先ほど、高いか安いかは人それぞれと書きましたが・・・
後の歴史を知っている者からすれば「安すぎっ!」という気がするものの、この時点では、海の物とも山の物ともわからない少年=家康だし・・・

しかも、ここで、信長に出会ってるとすれば、家康側にもメリットがあった感も拭えませんから、プラマイを考え出すときりがない・・・

そんな事よりも、義元&信長&家康・・・彼らの運命の歯車、絡み合う糸のほうに興味津々ですよね。
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