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2010年9月30日 (木)

三剣聖に次ぐ屈指の剣豪・疋田景兼

 

慶長十年(1605年)9月30日、剣術・新陰流の開祖・上泉信綱の高弟で疋田陰流の祖でもある疋田文五郎景兼が大坂城内にて69歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

三剣聖の一人・上泉信綱(かみいずみのぶつな)の弟子であり、その(信綱の姉の子)ともいわれる疋田文五郎景兼(ひきたぶんごろうかげかね)さん・・・

その三剣聖に次ぐ、戦国屈指の腕前を持つ剣豪で、これまでも、助演男優っぽい感じでチョイチョイ登場していただいてますが、本日は、ご命日という事で、その景兼を中心に・・・

・‥…━━━☆

運命のいたずら・・・とでも言いましょうか。

景兼が大坂城内で息ををひきとる39年前・・・
日づけも同じ9月30日彼の人生を大きく変える出来事が起こります。

それは、上野(群馬県)箕輪(みのわ)城の落城・・・(2008年9月30日参照>>)

この日、景兼は、若き当主・長野業盛(ながもり)を補佐し、甲斐(山梨県)武田信玄率いる大軍勢を相手に籠城作戦を展開していました。

しかし、信玄は、すでに上杉謙信との5度の川中島決戦を経験している大大名・・・その軍勢の数もハンパじゃありません。

関東一の智将とうたわれた亡き長野業正(なりまさ)の息子として、その後を継いだ業盛は、父に負けず劣らずの勇将ではありましたが、未だ19歳・・・覚悟を決めた業盛は、大軍に囲まれた城内で自刃しました。

この時、籠城作戦の中心となっていたのが、景兼の叔父である上泉信綱(1月16日参照>>)でした。

父の代からの重臣だった信綱と景兼は、若き当主が自刃した後、最期の戦いに挑んで華々しく果てるつもりでいましたが、武田方に説得され、箕輪城を開城・・・ここで、長野氏の家臣=戦国武将として生きてきた二人の人生が急展開するのです。

その腕を見込まれ「武田の家臣にならないか?」という信玄の誘いを断って、全国行脚の武者修行の旅に出るという信綱・・・この信綱は、若い頃の修行の旅で、日向(宮崎県)愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)という人物の手ほどきを受け、剣術三大源流の一つ・陰流(かげりゅう)をマスターしており、そこにアレンジを加えて自らが起こした新陰流(しんかげりゅう)を、全国に広めたいという夢があったのです。

もちろん、その弟子でもあった景兼も、叔父のお供をして、ともに旅に出る決意をしました。

まずは、伊勢(三重県)の国司・北畠具教(とものり)を訪ね、その後、具教に紹介された奈良の宝蔵院(ほうぞういん)というお寺へと向かいます。

・・・で、この宝蔵院に滞在中の彼らに、「手合わせ願いたいm(_ _)m」と挑戦してきたのが、かの柳生宗厳(やぎゅうむねよし)です。

ところが、近畿一を自負する宗厳が、あっさりとヤラれてしまい、即座に弟子入り・・・彼らを柳生の里へと招き入れたのです(4月19日参照>>)

この柳生の里で、しばらくの間、宗厳らに剣術を指南する生活を送る彼らでしたが、約1年後に、信綱は他の弟子とともに再び修業の旅へ・・・しかし、景兼は、その後も宗厳らの指導に当たるため一人残り、宗厳に新陰流のすべてを伝授してから柳生の里を去ります。

そう、ここで、師匠である叔父・信綱と別れ、景兼は一人、別の道を歩む事になりました。

その後は、丹後(京都府北部)宮津城主・細川忠興(ただおき)に仕え、さらに、当時関白であった豊臣秀次にも、刀槍指南役として召しかかえられたりしますが、あまり長く一つの所に落ち着く事はなく、基本、放浪の武者修業という姿勢を崩す事はありませんでした。

ところで、その秀次の指南役をしていた時、同時に指南役として召し抱えられていた長谷川宗喜(そうき)という人物がいました。

彼もまた、中条流(冨田流)の達人・冨田景政(とだかげまさ)の弟子で、後に冨田流長谷川派という独自の一派を起こす事になる剣豪なのですが、剣術に強い関心を持つ秀次が、「二人の試合を見たい!」と言いだしたのです。

この話を聞いた宗喜は、即座に「OK!」しますが、一方の景兼は、かたくなに断ります。

秀次の希望をたずさえた側衆(そばしゅう)が、何度説得にあたっても、ガンとして首を縦にふりません。

そうなると、当然、変な噂が立ちます・・・
「長谷川の強さに、疋田はおじけずいたのだ」
とか
「口先ばかりの弱虫め!」
とか・・・とにかく、景兼をあざ笑うような悪口ばかり・・・

しかし、それでも景兼は試合を拒み、その理由についても多くは語りませんでした。

後日、あまりの噂に心配して、彼のもとに訪れた、ごく親しい友人にだけポツリと語ったと言います。

「長谷川君は、太刀筋もええし、かなりの達人やと思う。
けど、俺も新陰流の印可皆伝をもろてる身・・・二人が勝負したら、どっちかが命を落とす事になるかも知れん。

自分の命は惜しみはせんけど、そんな結果になって損をするのは、オモシロ半分で試合をさせた関白様やないやろか?
試合は遊びやないねや」

と・・・

しかし、ご存じのように、まもなく秀次は、豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山で自害・・・一族もろとも処刑されます(7月15日参照>>)

自分の名誉より守りたかった秀次の名誉・・・景兼がどんな思いで秀次の死を聞いたかを思うと胸が熱くなります。

慶長十年(1605年)9月30日疋田景兼は69歳で病にかかり、大坂城内にて、その生涯を閉じますが、ここも、客人として招かれていた、一時的な場所でした。

そんな景兼の剣術を目の当たりにしながらも、彼に負けたはずの宗厳の弟子となった徳川家康は、景兼の剣術を「一騎討ちの剣」と称しています。

大量の兵士を動員して、大規模な合戦を念頭に置いていた家康にとっては、景兼の一騎打ちの強さは必要なかったのかも知れません。

・・・が、景兼の剣術は、その死後も息子・景吉に継承れ、さらに景兼の弟子の一人だった山田勝興に受け継がれ、その名を疋田陰流(ひきたかげりゅう)と称して、今なお受け継がれながら多くの猛者を輩出しています。
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2010年9月29日 (水)

スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆

 

永禄十一年(1568年)9月29日、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長が、石成友通の籠もる山城勝竜寺城と、三好長逸・政康らが籠もる摂津芥川城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)・・・この3人を三好三人衆と呼びます。

いずれも、畿内一帯に勢力を誇り、小規模ながらも一時は天下を掌握した三好長慶(ながよし)に仕えた重臣でしたが、その長慶が、相次ぐ身内の死に打ちひしがれながら亡くなり(5月9日参照>>)、後を継ぐべき甥の三好義継(よしつぐ)が幼かったために、彼ら3名が、その後見人として君臨するようになったのです。

Dscn0957a800 堺・南宗寺にある三好一族の墓

しかし、この三好三人衆・・・あまり良い評判は聞きません。

やはり長慶の家臣だった松永久秀(10月10日参照>>)敵対したりつるんだり・・・果ては、第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)暗殺した事で、その悪名も頂点に達します(5月19日参照>>)

・・・とは言え、その久秀同様、群雄割拠の戦国にあっては、一連の悪名も、ある意味、勲章と言えなくもありません。

なんせ、油断をしてたら寝首を掻かれ、殺らなきゃ殺られるのが戦国の世ですから・・・

その将軍・義輝の暗殺にしても、もともと京の都を掌握していた長慶が亡くなったのを好機と見た義輝が、何やら不穏な動きをしはじめたが故の行動だったわけですし、その後に久秀とモメで、奈良の大仏を焼いちゃった事に関しても、あくまで、戦乱の最中の失火と記録されています。

しかも、その後、三好長逸は、山城阿弥陀寺の住職・清玉(せいぎょく)宛てに、
「東大寺の再建に関しては、全部、僕に言うてください。どんなけ多かったとしても再建する気持ち満々でいてますから・・・」
と、「反省してます」と言わんばかりの手紙を送っています。

また、織田信長に対して、あれだけの酷評を毒づく宣教師ルイス・フロイスが、
「政康さんは、キリシタンに殺された鹿たちのために涙を流すようなやさしい人」
「長逸さんは、生まれつきイイ人なのか、異教徒であるのに、教会に対して親切にしてくれる」

と、同じ著書『日本史』の中で、ベタ褒めの評価をしています。

まぁ、フロイスにとっては、キリスト教を支援してくれるんなら、誰だってイイ人だったのかも知れませんが・・・

それは、朝廷に対しても同じで、宮廷内の湯殿や殿上の修理、お米や食品の献上などを再三に渡って、しかも大量に行っていたとみえ、当時の公家の日記の中にも、その喜びを書き綴っている人もいます。

おかげで、永禄十年(1567年)の11月には「まだまだ献金が少ない!」として一度は断られた足利義栄(よしひで)の第14代・将軍就任も、翌年の2月には、見事、朝廷からの宣下を獲得しています。

この義栄という人は、第11代将軍・足利義澄(よしずみ)の次男で、第10代将軍・足利義稙(よしたね)の養子だった足利義維(よしつな・よしこれ)の息子・・・つまり、三好三人衆に暗殺された前将軍・義輝の従兄弟に当たる人物です。

もちろん、その義輝を倒した後に、「自分たちの意のままになる将軍を・・・」ともくろんだ三好三人衆らに擁立された傀儡(かいらい・あやつり人形)の将軍です。

しかし、哀れ、将軍に就任した、わずか7ヶ月後の永禄十一年(1568年)9月29日・・・亡き義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛して来た織田信長(6月26日参照>>)、三好三人衆の一人=石成友通は山城勝竜寺城を、残る二人=三好長逸・政康らは摂津芥川城を攻め落とされてしまいました。

信長軍の襲来で、故郷=阿波(徳島県)に逃れた義栄は、翌日の9月30日(諸説あり)、将軍として、ただの一度も京都に足を踏み入れる事なく、わずか27歳の生涯を閉じたのです。

一方、この日、城を落とされながらも、その後、大坂の野田福島などに籠り、信長に徹底抗戦をつづけていく三好三人衆でしたが(8月26日参照>>)友通と政康は、一連の戦いの中で戦死(政康は大坂夏の陣での死亡説もあり)・・・長逸に至っては、混乱の中で行方不明となり、その生死さえわからず、といった、なんとも微妙な結末となってしまいます(松永久秀は、ちゃっかりと信長の傘下に入ります)

「将軍を暗殺して大仏を焼く」という神仏をも恐れぬ大胆な事をしておきながら、歴史上屈指のヒーロー=織田信長に倒されるところから、小説やドラマでは、ほとんど彼らにスポットが当たる事はなく、当たったとしても、ヒーロー信長を引き立てるだけの損な役回りばかりの三好三人衆・・・

しかし、その範囲こそ全国には及ばなかったものの、朝廷と将軍を味方につけ、都を含む畿内を制した者が天下人とするならば、彼ら三人衆は、確実に、信長が上洛する前に天下を取っていた天下人なのです。

いつか彼らにスポットを当てたドラマができる事を望んで・・・
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2010年9月28日 (火)

戦い終わって日が暮れて~薩英戦争・その後

 

文久三年(1863年)9月28日、第1回めの薩英和平会談が、横浜の英国公使館で開かれました。

・・・・・・・・・

そもそもは前年の文久二年に起こった生麦事件(8月21日参照>>)・・・

薩摩藩の国父(藩主の父)島津久光の行列の前を馬に乗ったまま横切ったとして、お供の武士たちが、そのイギリス人4名に斬りつけ、1人を死亡させた事件です。

翌・文久三年6月には、その生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の支払いを求めて、旗艦・ユ-リアラス号以下7隻のイギリス艦隊が鹿児島へとやってきます。

しかし、当の久光も、息子で藩主の島津忠義(ただよし)も、犯人を引き渡すつもりも、賠償金も渡すつもりもまったくなく、逆に、7月1日には、西瓜(すいか)売り決死隊を派遣して、戦闘態勢に入ります(7月1日参照>>)

この決死隊は未遂に終わるものの、その翌日から戦闘開始・・・これが、あの薩英戦争です(7月2日参照>>)

実質1日半ほど・・・トータルで3日間に渡って行われた戦闘の勝敗は、双方ともに被害を出した事で、今もって意見の分かれるところではありますが、薩摩の被害は死者5名、負傷者10名と人的被害は少ないものの、砲撃によって城下の1割を消失してしまった現実は、この先の薩摩藩の進む方向を急展開させるのです。

それは、なんと言っても武器や戦闘技術の差です。

昨年の大みそかのページ【歴史からみる平時の武装放棄は是か非か?】(12月31日参照>>)に書かせていただいたように、徳川・約300年間の平和を謳歌していた日本では、その間、兵器が発達する事はほとんどありませんでした。

イギリスの最新兵器を目の当たりにした薩摩・・・支藩の佐土原藩主・島津忠寛(ただひろ)の勧めもあって、このまま攘夷にこだわり続けて、さらに被害を拡大するよりは、イギリスと和平を結ぶ方向へと進み、あわよくば、その最新技術を教えてもらい、軍事力を身につけるほうが得策だと考えたのです。

かくして文久三年(1863年)9月28日、久光の命を受けて横浜へと派遣された側用人(そばようにん)岩下方平(みちひら)御庭方(おにわかた)重野安繹(しげのかすつぐ)らを代表とする交渉チームが、第1回めの薩英和平会談にのぞみます。

都合3回にわたって行われたこの会談で、薩摩側は「イギリスに日本を占領する気がない事」を知り、一方のイギリス側は「今後の薩摩は、むしろ交易を望んでいる」事を知るのです。

こうして、お互いを理解し合った薩摩とイギリス・・・11月1日には、薩摩藩が生麦事件の犯人を処刑する事と、10万ドルの賠償金を支払う事を条件和平が成立します。

同時に、薩摩藩は、「イギリスから軍鑑を購入したい」と申し入れ、この商談にも成功します。

ただ、実際にイギリスとの戦争を経験していない江戸藩邸の藩士たちは、素直に、これまでの攘夷の気持ちを切り替える事ができずに、この和解に猛反対しますが、彼らの説得に当たったのが、かの大久保利通(としみち・当時は一蔵)・・・。

賠償金は支払うものの、そのお金は幕府から借りるという案を出して、何とか反対派を抑え込みました。

まぁ結局、この時、幕府から借りた10万ドルは、幕末の動乱でウヤムヤのまま鳥羽伏見の戦いに突入し、やがては、長州と組んで幕府を倒してしまうので、結局は踏み倒しって事になるんですけどねww。

そして、もう一つ・・・犯人を薩摩藩が処刑するって条件も、なんだかんなでやらずじまい・・・

イギリスのほうも、せっかく良いカモ・・・もとい、良い交易相手となった薩摩と、うまくやっていくためにも、あえて、突っ込むような事はしなかったので、そのまま、ウヤムヤになってしまいました。

なんだか、計画的な気がしないでもない( ̄○ ̄;)!

ところで、この薩英戦争は、イギリス本国では、どんな風なとらえ方をしていたんでしょうか?

これが、けっこう厳しいです。

・・・というのも、先ほど書かせいただいたように、イギリス艦隊の砲撃によって、城下の1割が焼失してしまった事が、非戦闘員の一般市民を無差別に攻撃した非人道的な行為として、本国の議会で問題となったのです。

実際に攻撃命令を下したクーパー提督や、駐日代理公使ニールの責任を問う場面もありましたが、おそらくは、その後の薩摩との良好な関係が、本国に伝わったのか、そんな議論もまもなく沈静化されます。

なんせ、交渉成立後の薩摩は、藩を挙げてのイギリスブームとなるのですから・・・

イギリスへの留学生は送るわ、近代的な工場の設計を依頼するわ、その工場を運営する技術者の派遣まで依頼するわ・・・こうして、イギリスとの密接な協力関係ができあがっていった薩摩・・・

積極的に西洋の技術を取り入れ、富国強兵殖産興業政策を推し進めた前藩主・島津斉彬(なりあきら)が亡くなってから5年・・・高い授業料と数年の足踏みを経て、ようやく、再びの歩みをはじめた薩摩は、やがて維新の原動力となって、新しい時代へと日本を引っ張っていく事になるのです。
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2010年9月27日 (月)

秀吉に引かれて?枚方から大阪城へ…

 

去る9月21日のページで、大阪城天守閣で開催されている『「豊臣期大坂図屏風」ふたたび』と題した展示で、その大坂図屏風を見て来た事を書かせていただきましたが(9月21日参照>>)、実は、その日、大阪城へと向かう前に、枚方宿の散策にも行ってきました。

枚方宿の周辺は、私にとっては以前住んでいた場所でもあり、若き日の職場の近くでもありますので、かなりどっぷりと入り浸っていた場所が数多くあり、個人的にも思い出の多い場所であるのですが、なぜか、この日、急に行きたくなって、大阪城へ行く前に立ち寄ったのです。

ところが偶然にも、午前中の枚方宿の散策と、午後の「豊臣期大坂図屏風」が、少しつながりがあったのです!!!(そのお話は後ほど・・・)

・・・と、個人的な思い入れはどうでも良いのですが、ここ枚方宿は、以前、「道の日」にちなんで書かせていただいたページでご紹介させていただいたように、豊臣秀吉が淀川の東岸に築いた文禄堤によって大きく発展した宿場町です。

秀吉にとって、淀川の氾濫防止と、いざという時の東国から(対・家康?)の侵入を防ぐための物であった文禄堤ですが、当時、伏見城大坂城という2大拠点を構える秀吉にとっては、この二つを結ぶ事も重要で、この文禄堤の高くなった部分を京街道として整備して主要道路の一つにしたわけです。

その後、秀吉の後に天下を取った徳川家康によって、この京街道に、伏見枚方守口4つの宿場町が整備され、かねてからあった東海道を、山科追分(やましなおいわけ)で分岐し、この4つの宿場町を経て大阪の高麗橋に至る道を東海道としたのです。

なので、江戸時代の東海道は五十三次ではなく、五十七次だったんです(8月10日参照>>)

ご存じの方も多いかも知れませんが、江戸時代を通じて、武士は特別な用がない限り京の都には入ってはいけなかった・・・これは、地方の大名が朝廷に近づく事を懸念した幕府の政策なのですが、つまりは、参勤交代などでは、京都を避けるように、伏見から山科へと抜けるルートがとられていたわけで、武士にとっては、東海道の終着点が京都・三条大橋ではなかったのですね~。

歴史好きの方の中には、2~3週間前の「龍馬伝」で、伏見の寺田屋にいたお龍さんが龍馬「ここにいては危険どっさかいに、早く京を出ておくれやす」と言ったセリフに違和感を覚えられた方も多いはず・・・今でこそ京都府なので、伏見は京都観光の中に入ってますが、幕末と言えど、伏見は京都ではなかったのですから・・・

ちょっと話がそれましたが、そんなこんなで、東海道の一部となった京街道・・・中でも、京都と大坂の中間の位置にある事で、枚方宿は大いに発展したわけです。

こうして、江戸時代の宿場町としてのイメージが強い枚方ですが、実は、もっと以前から風光明美なステキな場所として、その時代によって姿を変えて来た歴史があるのです。

上記の通り、宿場町として発展したのは、淀川沿いを走る京街道に沿った場所・・・しかし、もともとの枚方の中心だった場所こそが、今回、ご紹介する万年寺山です。

山といっても、高さが40mほどの場所ですが、京阪電車を利用された事がある方なら、枚方市駅と枚方公園駅の間に、あれだけ住宅地が開発されているにも関わらず、ポツンと、そこだけ山が残っている部分があるのを気付かれた方もいらっしゃるのでは?

そう、そこが万年寺山・・・現在は、意賀美(おがみ)神社が鎮座していて、大阪屈指の梅の名所として知られていますが、その起源自体は神代につながる古さを持つこの神社も、場所がここ万年寺山へと移転したのは、明治四十二年(1909年)と意外に新しいのです。

実は、その万年寺山という名前でもお察しの通り、ここには、明治の廃仏の嵐が吹くまでは万年寺というお寺があったのです。

それは、推古天皇の時代(562年~628年)・・・高麗(こま・高句麗)からやってきた僧・恵灌(けいかん)が、「この地の景観はすばらしい!唐(中国)林岸江(りんがんこう)に似ている!」と大変気にいって、ここに草庵を築いた事にはじまります。

以来、1000年近くに渡って徐々に大きな寺院となった万年寺は、東海道の宿場町として発展した時代になっても参拝者は絶えず、その晩鐘は宿場町に時を告げつる名物ともなっていたのです。

そして、もう一人、この万年寺山の景色に魅了された人が・・・それが、京街道を整備した秀吉です。

秀吉は、家臣で枚方城主の本多政康の娘・乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入って、風光明美なこの地に建つ万年寺のすぐ横に、彼女が住むための御殿を建設します。

つまり、側室にしたんですね~

Dscn2094800 御茶屋御殿跡

そして、大坂と京都を往復するかたわら、ここに立ち寄っては彼女に会いに来ていたと・・・

御茶屋御殿と呼ばれたその建物が建つ万年寺山は、その頃は御殿山と呼ばれ、現在の京阪電車の駅名の由来となったようですが、場所的には御殿山駅ではなく、枚方市駅に近い、この場所が御殿山なのです。

現在は、展望台として整備されている「御茶屋御殿跡」・・・今では、淀川沿いにマンションが立ち並んでいるため、半分の視界が遮られてはいますが、わずか40mの山とは思えないすばらしい景観です。

かつては、西は遠く六甲の山々が、北は琵琶湖畔の比良山まで見えたのだとか・・・たとえ半分遮られても、ここの風景を気に入った奈良時代の恵灌や戦国時代の秀吉の気持ちがわかるくらい美しいです。

Ogamizinzya004b900 御茶屋御殿跡からの眺望

・・・で、やっとこさ、かの「豊臣期大坂図屏風」とのつながりのお話ですが、それが、この御茶屋御殿・・・

実は、かの屏風には、秀吉時代の大坂城とともに、その周辺の名所も書かれているのですが、そこには、四天王寺住吉大社堺の町、宇治の平等院石清水八幡宮天王山と並んで、この御茶屋御殿が描かれているのです(屏風の大きな画像は9月21日のページで>>)

屏風に描かれた御茶屋御殿跡 屏風に描かれた御茶屋御殿跡(手前の山に隠れた塔が天王山にある宝積寺です)

天王山は、ご存じのように秀吉が天下を握るきっかけとなった明智光秀との山崎の合戦(6月13日参照>>)の地、堺は当時、東洋一と言われた商業都市、その他の神社仏閣は、もはや、説明もいらないくらい全国的に有名な場所ですよね?

そんな中に、堂々と・・・他の場所と同等の扱いで描かれているのですから、秀吉全盛当時は、この御茶屋御殿が、いかに重要な場所であったのかがうかがえます。

何の脈絡もなく、急に行きたくなった万年寺山=御茶屋御殿跡・・・

そして、そのあと、「まだ時間があるから」と向かった大阪城の「豊臣期大坂図屏風」・・・もちろん、屏風に御茶屋御殿が描かれているなんて事は、屏風を見るまで知りませんでした。

なんだか、秀吉さんに導かれたようで、不思議な感覚の残る組み合わせでした。

万年寺山などのくわしい場所は、本家ホームページの大阪歴史散歩「枚方宿」のページでご紹介しています>>(別窓で開きます)
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2010年9月26日 (日)

信玄・勝利の影に…武田の気象予報士・駒井高白斎

 

天文十一年(1542年)9月26日、武田信玄配下の駒井高白斎が、藤沢頼親の籠る福与城を包囲しました。

・・・・・・・・・・

天文十年(1541年)、父・信虎を追放して(6月14日参照>>)家督を継いだ甲斐(山梨県)武田信玄(当時は晴信)・・・

これまでも度々隣国の信濃(長野県)に進攻していた父を引き継いで、信玄による信濃進攻が本格的に開始されます。

翌・天文十一年(1542年)には、諏訪(すわ)一族高遠頼継(よりつぐ)らを味方につけて、6月には諏訪宗家諏訪頼重(すわよりしげ)滅ぼします(6月24日参照>>)

しかし、今度は、その奪い取った諏訪の統治を巡って信玄と頼継が対立・・・と、ここで信玄、亡くなった諏訪頼重の遺児・寅王(とらおう)を前面に押し出して頼継討伐に出陣します。

実は、亡き頼重の奥さんは信玄の妹・・・つまり、その寅王は、諏訪宗家の後継者であるとともに武田の血も受け継いでいるわけで、その子を前面に押し出し、自分が幼子をサポートしているがのごときポーズをとる事で、残る諏訪一族を味方に引きこんだのです。

かくして、天文十一年(1542年)9月26日、信玄の命を受けた配下の駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)が、頼継の味方をしてともに信玄に反旗をひるがえしていた藤沢頼親(よりちか)が城主を務める福与城を取り囲んだのです。

しかし、この頼親も諏訪一族・・・案の定、かつての主君=頼重の遺児に弓を引く事ができず、2日後の28日には降伏して甲斐に出仕するのですが、これが、あくまで、その場逃れの「とりあえずの降伏」・・・

結局、その後またもや反旗を翻した頼継&頼親らと、その2年後に相対する事になるのですが、そのお話は10月29日のページ>>でご覧いただくとして・・・

・・・と、ここで登場した信玄の家臣・駒井高白斎・・・

生年も没年もはっきりしない謎の人ではありますが、題名に書かせていただいたように、どうやら、天気予報に長けた気象予報士だったかも?という事で、本日はこの方に注目してみたいと思います。

・‥…━━━☆

甲斐駒井郷(韮崎市)の武士・駒井政時(まさとき)の次男として生まれた高白斎は、京都妙国寺で修業した経歴があり、その時、教えを乞うたのが、禅僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)・・・

この策彦は、2度の(みん・中国)への留学経験から外交官的な役目も果たし、多くの戦国武将からの信頼を得ていた僧なのですが、その中国から持ち帰った観天望気(かんてんぼうき)なる奥義を、その高白斎に伝授したのだとか・・・

Dscn9697a800 策彦周良が設計した天竜寺塔頭・宝厳院獅子吼の庭

この観天望気というのが、今で言うところの天気予報・・・なので、それを習得した人=気象予報士という事になります。

言うまでもなく、現代人でも気になる今日の天気・・・まして、屋外で合戦を行う戦国武将にとっては、その天気の善し悪しが命取りになりかねません。

当然の事ながら、群雄割拠する戦国大名の間では、いかに優秀な天気予報士を抱えるかで、その運命は大きく左右される事になります。

実は、この高白斎さん・・・永正五年(1508年)頃に、信玄の父・信虎の側近になったようなのですが、それ以前の明応七年(1498年)から、自らの手で日記を書き記しています。

『高白斎記という名で、今は写しのみ現存する物で、ご本人が天文二十二年(1553年)までを書きつづり、その後、栗原左兵衛ら複数の人物により加筆されている文書なのですが、これが、ちと評価がよろしくありません。

・・・というのは、その加筆部分に作為的な創作が含まれているから・・・

今となっては、それが、この『高白斎記』自体の評価を下げているわけですが、中には、おそらく高白斎自身が書いたであろうという部分もあり、その部分に関しては、貴重な記録であるという声も多々あるとの事です。

・・・で、そういう事を念頭に置きながら、高白斎の活躍を見てみますと・・・

たとえば、信虎の初陣となった永正五年(1508年)の甲斐勝山城の攻防戦・・・

信虎が、その攻撃のタイミングに迷っていたところへ・・・
「アマタツ~」
ではなく
sunコマイ君の今日のお天気rain

「このあと、甲斐勝山城周辺の天気は大荒れになる模様です。
寒風が吹き荒れ、ところにより氷雨がまじり、攻撃には最悪のコンデションとなるでしょう」

なるほど、中止か~・・・と思いきや
「“こんな時に攻撃して来るアホはおらんやろ!”と、きっと敵は油断してまっさかいに、一発いてコマしたりましょ!」
と、攻撃を進言・・・見事、相手の意表をついて勝利に導いています。

また、そのようなアドバイスだけでなく、合戦におもむく際に、雨や雪の状況などはもちろん、雲の形や色・・・その動き、さらに、寒暖の差や、両軍の旗のなびき方までもを詳細に記録した部分もあり、日ごろからデータの取得も心がけていたようです。

このようにして蓄積されたデータをもとに、かの観天望気の奥義を使って、天気予報をしていたのですから、おそらくは、かなりの確率で、この先の天気を言い当てていたのかも・・・。

信玄・必勝の影に天才気象予報士あり!
ちょっと、オモシロイじゃありませんか?
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2010年9月24日 (金)

西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋

 

明治十年(1877年)9月24日、西南戦争での最後の戦いとなった城山の決戦にて、西郷隆盛とともに戦っていた桐野利秋が討死しました。

・・・・・・・・・

この日終結した西南戦争・・・維新後に勃発した最後にして最大の士族の反乱ですが、その経緯については、昨年の9月24日に書かせていただいたページでご覧いただくとして(2009年9月24日参照>>)、本日は、その西南戦争で・・・いや、その半生を西郷隆盛とともにした桐野利秋(きりのとしあき)について・・・

・‥…━━━☆

桐野利秋という名前より、旧名の中村半次郎という名前のほうが有名かも知れません。

幕末には「人斬り半次郎」の異名を持ち、維新の動乱で策略を張り巡らしたワリにはクリーンなイメージの西郷隆盛に代わって、そのウラで暗躍し、実際に手を汚す役目=影の部分を一手に引き受けた人物とされ、何となくダークなイメージがつきまとう桐野さんですが、実際に人を斬ったのは佐幕派の上田藩士・赤松小三郎だけだったとされています。

また、西郷が「半次郎にもう少し学問があれば・・・」と嘆いたとされる事から、教養もない無骨者ように思われがちですが・・・確かに、ご本人も「俺が、頼山陽の日本外史を読めたら、天下取ったる!」なんて冗談まじりに話していたみたいですが、それは、漢詩が苦手だったというだけで、武士としての一通りの教育はちゃんと身につけていました。

なんせ、桐野家は、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の父・苅田麻呂(かりたまろ)の血を受け継ぎ、戦国時代から島津家の配下として活躍した歴史ある家柄で、5石という少なさではあるもののれっきとした城下の士です。

ただ、彼が10歳の時、父の与右衛門(兼秋)徳之島に流罪になってしまった事で、一家は貧困の極みとなり、家計を助けるために小作や開墾に従事して、武士たる教養どころではなくなってしまった事は確かですが・・・

そんな利秋に転期が訪れるのは25歳の時・・・

文久二年(1862年)、前薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の弟で、国父(こくふ・現藩主の父)となった島津久光(ひさみつ)が、公武合体を推し進めるべく、兵を率いて上洛するというニュースを聞いた時です。

利秋は、この一団の一人に加えてもらおうと、サツマイモ3本を手土産に、今まで会った事もない西郷隆盛に頼みに行くのです。

この日の利秋は、政治の事などいっさい語らず、ただひたすら熱意を込めて、「供に加えてほしい」と懇願するのみ・・

そんな利秋を見て、隆盛の弟・吉次郎「唐いも侍めが!」と失笑したところを、隆盛は「本人が苦労して育てたサツマイモには誠の心がこもっている・・・これ以上の土産はない!その気持ちに答えよう」と言ったのだとか・・・

以来、利秋は、その生涯をかけて、隆盛の配下として影に日向に働く事になります。

まずは、その国父・久光のお供をして京都に入った利秋は、そのまま京都詰め役として残り、久光と同じ公武合体派だった中川宮(なかがわのみや・青蓮院宮)(8月18日参照>>)の警護につきます。

諸藩の多くの志士と交流を持つようになるのは、この頃・・・ただ、一方では、先のただ一度の暗殺を行ったのもこの頃で、その必殺剣ゆえ、「人斬り」と恐れられはじめたのもこの頃です。

この京都での様々な交流から、尊王攘夷一色である長州藩の志士たちとのつながりがあったとも言われ、やがて、薩摩の態勢が変わってくる頃には、天狗党水先案内人として派遣された事もありました(12月2日参照>>)

しかし、なんと言っても、その活躍ぶりが際立つのは戊辰戦争・・・鳥羽伏見の戦いでは斬り込み隊を組織して奮戦し、その後の西郷と山岡鉄舟の会談(4月11日参照>>)にも、勝海舟との世紀の会談(3月14日参照>>)にも、愛しの西郷どんと行動をともにし上野での彰義隊(しょうぎたい)との一戦(5月15日参照>>)にも、西郷の配下として黒門口で戦います。

そんな功績から、かの会津戦争では軍監という役どころを任され、会津若松・鶴ヶ城の受け渡しという大任を果たす事になります。

Aidurakuzyoukawaraban001 ちょうど一昨日に書かせていただいたばかりの若松城の開城(9月22日参照>>)・・・そのページにupさせていただいた落城を報じる瓦版(←)

このド真ん中、裃をつけて土下座する会津のおエラ方の前で、股を広げて、ちとエラそうに見える感じの人物が半次郎こと利秋です。

実際には、こんなエラそうな雰囲気ではなく、会津藩士の名誉を傷つける事のない配慮に満ちた対応だったそうで、それこそ前藩主の松平容保(かたもり)が、後に刀剣を贈って感謝の意を表すほど見事な物だったのだとか・・・

おそらくは、こんな大任を請け負ったのが初めてであろう彼・・・終わってから「どうやって、そんな重要な儀式の采配をどこで覚えたんだ?」と聞かれた利秋は、「いやぁ、前に小屋で見た赤穂浪士の城の開け渡しのシーンを再現しただけさ」と答えるお茶目な部分もあった利秋も、維新後には陸軍少将に昇進・・・ここまで出世しても、まだ、ついてくる「人斬り」のダークな噂にも、まったく動じない太っ腹な性格だったようです。

しかし、ここで、再び彼に転機が訪れます。

明治六年(1873年)10月・・・明治六年の政変=いわゆる征韓論争に敗れ、中央政界から追われる事になった西郷・・・(10月24日参照>>)

利秋は、西郷とともに辞職して、故郷・鹿児島へと戻り、私学校での後輩の指導に従事する事になりました。

地元では、後輩指導にとどまらず、自ら、開墾事業にも積極的に励む利秋でしたが、ここで、ご存じの西南戦争の勃発です(1月30日参照>>)

確かに、この西南戦争では、西郷は担ぎあげられただけで、利秋こそがヤル気満々で薩摩軍の主導権を握っていたとも言われますが、そこには、彼なりの、命を賭けても守らねばならない大義があったのでしょう。

今となっては、その大義名分も不明瞭なところもありますが、利秋の生涯を見る限り、それは、すべて「西郷さんのため」であったに違いなく、そこに、個人的な利害損得や保身の感覚はなかったように思います。

その一本気さは、政治家というよりは、殿様に忠義を尽くす戦国武将のようでもあります。

この城山の戦いの少し前・・・迫りくる政府軍の情報を知りながらも、日向(宮崎県)のお茶屋で大宴会を催して大騒ぎしていたあたりは、大坂の陣薄田隼人(すすきだはやと)をほうふつとさせます。

最近は、徐々に、その人気も上がってきているという利秋さん・・・そんなところに魅力があるのかも知れません。

この城山で、負けが決定的になった頃、愛しの西郷さんに自害を勧め、その最期を見届けた利秋はなおも戦い続けましが、ついに眉間を銃弾で撃ち抜かれ明治十年(1877年)9月24日40年の生涯を終えました。
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2010年9月23日 (木)

『戦国の幕を引いたのは?』アンケート結果発表

 

遅ればせながら・・・ではありますが、去る9月16日に締め切らせていただきましたアンケート=『あなたが思う戦国の幕を引いたのは?』
アンケート投票の結果発表!!!
といかせていただきたいと思います。

今回もご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

例のごとく、投票とともに楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきましたので結果とともに、そのコメントもお楽しみくださいませ。

もちろん、今回、新たに導入した携帯からの投票も合計させていただいております。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位 大坂夏の陣で豊臣滅亡:27票
やはり、これが最も多いでしょうね…「戦国の終わりが大乱がない事」と解釈すれば、コレでしょうね~
2位 関ヶ原の戦い :11票
やっぱり…コレが2位ですね~なんたって天下分け目ですから…
3位 秀吉が太政大臣となり豊臣の姓を賜る: 9票
「統治」が戦国の終わりだとすればコレでしょうね~3位に食い込むのは、やはり、ここで一旦天下は取ったと…
4位 織田信長による足利義昭の京都追放: 5票
室町幕府が滅びる事が戦国の終わり…専門家の中にも、ここを戦国の終わりと考える方も多いようです。
4位 その他 : 5票
10項目では足らない出来事…多々ありです。
6位 徳川家康の征夷大将軍就任 : 4票
教科書では、ここで「幕府を開く」というのがくっついてますから、その通りだとするとこの時点で戦国は終わりなのかも…意外と6位でした。
6位 武家諸法度・禁中並公家諸法度制定 : 4票
法律の制定こそ秩序…その秩序が守られないのが戦国なら、ここで終了という事も…家康の将軍就任と同じという事に、個人的には少しびっくり(もっと低いと思ってました)
8位 足利義昭が出家して将軍職を返上 : 3票
なんだかんだで、この時までガンバってた義昭さんのためにも、ここを戦国の終わりとしてあげたい~個人的には推してましたが…
8位 徳川家光による参勤交代制度の確立: 3票
やっぱり、当時の人は、ここまで待ってはじめて平和を実感したかも知れませんからね~
10位 足利義昭を奉じての織田信長上洛: 2票
これで政治の中心部に躍り出たのですからね~今回は、すべての選択技に投票をいただいて…我ながらナイスチョイスとちょっとウレシかったりして…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示…「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

大坂夏の陣 対抗軸が無くなった意味は大きい。さて民主党は? (男性/40代/愛知)
「そう…アンケートの頃は民主党の動向が気になる頃でしたね」
大坂夏の陣 やっぱり、『大阪の陣』以後は戦が起きていませんから・・・ (男性/30代/【海外】)
「大きな戦いは、これが最後って感じですね」
その他 秀吉の小田原征伐 理由:諸大名の私戦を禁止し、しかもその実効力が出ている為既に戦国は終わった感がある (男性/30代/神奈川)
「北条は最後の大物って感じでしたからね~コレを選択技に入れてなかったのは失敗かな?」
大坂夏の陣 一般の民からみて戦がなくなってはじめて戦国の幕引きではないでしょうか? (男性/40代/広島)
「戦いには一般市民も巻き込まれますから…市街戦となった大坂の陣はなおさら…」
豊臣の姓を賜る 初めて天下統一という感じなので。 (男性/40代/愛知)
「朝廷も認めた感がありますもんね」
大坂夏の陣 元和偃武というので (男性/30代/広島)
「やはり、ここが節目という感じでしょうか」
豊臣の姓を賜る 朝鮮に矛を向ける時点で内乱時代ではないと見る。 (男性/20代/大阪)
「やはり、海外に目が向くのは、国内を平定した証拠と言えるかも知れませんね」
その他 惣無事令でしょう!勝手にルールを作ってそれに反すればペナルティって言うのは内部統制の根本! (男性/30代/埼玉)
「これも法律の制定ですからね~戦国の終わりを意味するのかも…ですね」
法度制定 “法”が重要。 (男性/40代/新潟)
「やはり、法ですね」
大坂夏の陣 秀次に譲位しておけば秀吉の時代に戦国が終わったように思われます。 (男性/60代/東京)
「秀次さんはなかなかのスグレ者でしたから、秀頼の強い味方になってくれたかも知れません」
関ヶ原の戦い 大河ドラマの解釈ではこの戦いが「戦国時代の終焉」なので。これより後の時期は「江戸時代初頭」です。 (男性/20代/千葉)
「ここから、家康が開幕に向かって突き進むわけですからね」
その他 由井正雪の乱の後辺りからですかね? 武断政治から文治政治への転換は大きいと思います (男性/10代/愛媛)
「正雪の乱…ありましたねぇ~反乱分子を一掃してこそ平和って感じですもんね」
法度制定 法律を制定は重要かも (女性/20代/大阪)
「やはり、法律は重要ですか…」
義昭・追放 全国に対しての支配者が現れた。 (男性/30代/千葉)
「全米1位…いや全日1位を取った!って雰囲気ですからね」
法度制定 元和偃武と呼ばれていることもあってここが幕引きでは (男性/30代/東京)
「やはり、ここが節目ですね~」
義昭・追放 室町幕府がおわったので (男性/40代/兵庫)
「室町将軍の権威が失墜しての戦国ですからね~」
関ヶ原の戦い この戦が終わったのをきっかけに、黒田 如水や伊達 政宗等が天下取りの野心を皆が持たなくなったので。 (男性/30代/福井)
「確かに、如水も政宗もおとなしくなりましたね~」
大坂夏の陣 武力抗争の終焉という意味では。後は軍政を含む政治の話ではないのかな。 (男性/東京)
「血で血を洗うのが戦国なら、政争は戦国の終わり…確かにそうかも知れません」
大坂夏の陣 大阪夏の陣で豊臣が滅亡してからは大きな戦がないから。 (女性/10代/千葉)
「大きな戦いは、それこそ戦国の代名詞ですからね」
信長上洛 群雄割拠のおわり (男性/40代/岡山)
「確かに、ここで時代が変わった感があります」
大坂夏の陣 常識です~ (男性/10代/奈良)
「常識ですか…大人になると、ついついひねくれて来るんですよね~ウラばっかり読んじゃうc(>ω<)ゞ」
大坂夏の陣 関ヶ原と言いたいとこですが、戦が終わると考えると・・ (男性/40代/沖縄)
「やはり、戦の終わりが戦国の終わり=幕引きですかね」
その他 明治維新 (男性/30代/大阪)
「確かに、一理あります…近代までの歴史は戦いの歴史、国内での斬ったはったがなくなるのは維新後ですね」
大坂夏の陣 本能寺の変が無ければ、もっと早かったし、違う日本になっていたと思います。 (女性/40代/福岡)
「信長さんの死は、その後に大きな影響を与えましたから…本能寺がなければ、そこで戦国が終わっていたかも」
関ヶ原の戦い やっぱココだと。 (女性/10代/神奈川)
「天下分け目ですからね~」
大坂夏の陣 愛知県民としては、三英傑の最後の家康が勝ち残ったときを推したいです。 (男性/30代/愛知)
「三英傑…3人とも愛知出身なんですよね~これには感心します」
その他 仙石の幕を引いたのは小沢か
「菅さんではムリか???」

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

誰も見た事がないのだから、色々な意見があって当然!
これだから、
歴史の妄想はやめられませんねヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
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2010年9月22日 (水)

会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道

 

慶応四年(明治元年・1868年)9月22日午前10時頃・・・孤立無援となった会津若松城にて、開城を決意した前藩主・松平容保の命を受け、会津藩士・鈴木為輔安藤熊之助が、城の北追手門前に「降参」と書いた白旗を掲げました。

・・・・・・・・

江戸無血開城を経ても、なおも新政府軍に抵抗を続けていた会津藩・・・これまでの経緯は・・・

・‥…━━━☆

その日は、城下での戦いが始まってから毎日のように続いていた発砲も止み、以前の静けさを取り戻したような朝でした。

すでに16日の段階で、新政府軍参謀板垣退助(いたがきたいすけ)伊地知正治(いちじまさはる)が、城の北西7kmの地点に退いていた会津藩・家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)のもとに、米沢藩を通じて降伏をうながした事で、権兵衛の配下であった若年寄手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)軍事奉行添役(そえやく)秋月悌次郎(ていじろう)米沢藩の陣へ派遣され、そこで退助らと対面・・・

新政府軍が出した開城・降伏の条件をたずさえて、城に戻った彼らによって、おそらくは話し合いが行われたはず・・・そう、この日の静けさは、新政府軍が会津藩の正式な降伏表明を待っていた静けさなのです。

やがて、白旗が掲げられた追手門を出ていくのは、正装に身を包んだ家老・梶原平馬(へいま)内藤右衛門(うえもん)大目付清水作右衛門(さくえもん)目付野矢良助(のやりょうすけ)・・・そして、先の降伏勧告伝達の大役を務めた悌次郎の5人

刀を持たぬ丸腰のまま、甲賀町(こうかまち)通りに設置された降伏の式場へと向かいました。

正午頃には、新政府軍・軍監中村半次郎(後の桐野利秋)軍曹山県小太郎(やまがたこたろう)らが式場に到着・・・そこへ、やはり正装に身を包み、太刀を納めた袋を小姓に持たせた松平容保(かたもり)と養子の喜徳(のぶのり)が揃って入場します。

半次郎らに一礼した容保は、自ら、降伏謝罪書を彼らに手渡しました

ここに、堅固を誇った会津若松鶴ヶ城は陥落・・・会津戦争が終結したのでした。

Aidurakuzyoukawaraban001 会津藩降伏を伝える瓦版(東京都江戸東京博物館蔵)

その後、一旦城に戻った容保が、すでに亡くなった者たちを埋葬した二の丸の伏兵郭(ふくへいくるわ)空井戸におもむいて献花と祈りを捧げると、集まった重臣・城兵たちからのすすり泣きの声・・・夕方になって容保父子は、滝沢村にある妙国寺へと護送されました。

徹底抗戦を訴え、城外にて未だ交戦中だった佐川官兵衛(かんべえ)も、容保父子・謹慎のニュースを聞いて、ようやく降伏しました。

籠城者=約5000人・・・
うち、婦女子や老人が500余り・・・
これら、城に残っていた諸兵たちも、明日・23日には、城を出て、謹慎先の猪苗代(いなわしろ)へと向かわねばなりません。

これまでの喧騒がウソのような静かな夜を迎えた会津若松城・・・煌々と輝く月明かりに照らされた三の丸の白壁に、彼女はかんざしで歌を書きとめます。

♪あすよりは 何国(いづこ)の誰が ながむらん
   なれし御城に 残す月影 ♪

その人の名は山本八重(八重子)・・・父・山本権八は会津藩の砲術指南役、兄・山本覚馬(かくま)軍学者という環境の中、自らも砲術に通じていた八重は、この戦争が始まった時には、すでに川崎尚之助なる人物と結婚していましたが、若松城が籠城すると決まった時、戦に不向きな学者である夫と離婚して、7連銃を肩にかつぎ、男装をして入城しのでした(2012年8月23日参照>>)

その知識は、敵から撃ちこまれた不発弾を分解して容保に説明した事もあったほど・・・当然の事ながら、城内の兵には砲術を指導し、婦女子には弾薬の製造を教えるほか、自ら銃を背負い夜襲をかけるという、それはもう縦横無尽の活躍ぶりをした人です。

維新後には、そんな男まさりなハンサムさに惚れた新島襄(じょう)と結婚し、同志社大学の創立に奔走するという波乱万丈な人生を送る彼女ですが、そのお話は、彼女のご命日の日ページ(6月14日参照>>)で見ていただくとして・・・この日ばかりは、彼女の歌に代表されるような思いを、一人々々の会津藩士が胸に抱いていた事でしょう。

会津の落城後、まもなく庄内藩も降伏し、ここに東北での戊辰戦争が完全に終結するわけですが、朝敵(国家の敵)の烙印を押された会津藩のその後は、「全藩流刑」(藩のすべてが流刑となった)と称されるほど過酷な物となり、その土地は「白河以北一山百文」=(白河の関より北は一山で百文の値打ちもない)と揶揄(やゆ)されるという屈辱を味わう事になるのです。

しかし、当然の事ながら、会津戦争の影響を受けたのは武士だけではありません

それでなくても、前藩主・容保が京都守護職に就任した事で出費がかさみ、財政難となってしまった藩が、厳しい税の徴収を行っていたうえに、春から夏えへと突入した戦争で農民の多くが徴兵されて田畑の耕作すら満足にできず・・・

貧困のどん底となった農民たちの不満は、会津落城直後に爆発します。

世直しと称した打ちこわし・一揆が会津全域で勃発し、その数は数万にものぼったのだとか・・・

確かに、藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の家訓に従い、最後まで幕府への忠誠を貫いた会津藩士でしたが、巻き込まれた農民にとっては、自分たちには関係のない武士の意地で、無用な戦争となった事も事実・・・

約2ヶ月に渡って猛威を奮った一揆の嵐・・・容保父子が江戸から名を改めた東京へ護送される時には、旧藩主を見送る領民はほとんどいなかったと言います。

後世の私たちが滅びの美学と感じる出来事も、巻き込まれた領民にとっては怨みでしかない・・・歴史を楽しむうえで、しみじみと考えさせられる部分です。
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2010年9月21日 (火)

「豊臣期大坂図屏風」を見てきました~

 

久しぶりに、先日、大阪城へ行って参りました~

いつもは、その拝観料をケチり、公園をウロウロするだけの私ですが、今回は天守閣の拝観が目的!!…というのも、この10月7日まで、天守閣内で『「豊臣期大坂図屏風」ふたたび』と題して、その「豊臣期大坂図屏風」が公開されているからです。

これは、2006年に新たな発見として話題になったこの屏風が、昨年の秋(10月2日~11月23日)、大阪城天守閣にて初めて公開されたのをきっかけに、この屏風の特集番組がNHKハイビジョンで10月に放送されたのですが、その番組が総合テレビで再放送されたり、あるいは人気番組の「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられたのが、屏風の公開が終わった12月だった事で、12月の番組を見て「屏風を見たい!」と思った人のほとんどが見られなかったという、運の悪い巡り合わせとなってしまったため、「見たいので、もう一度!」という多くの声に答えて「ふたたび」の開催となったものです。

格言う私も、「見たい!」と思いながらも、昨年の公開には行けなかったクチで・・・「今回逃せば、いつ見られるかワカラン!」とばかりに行って参りました~

…、とは言え、この屏風、現在の画家さんが描いた複製です。
なぜ、複製なのか?
そこには、この屏風がたどった数奇な運命があるのです。

・‥…━━━☆

Eggenberg オーストリア第2の都市・グラーツ市エッゲンベルグ城という中世の貴族の城があります。

初代の貴族から数えて6代目にあたるマリア・エレオノアが当主だった1700年頃、美術品好きだった祖父の遺品を集めて、城の中に「インドの間」という東洋風の部屋を造ったのです。

Eggenbergj 壁には、中国風の絵がはめ込まれ、テーブルや椅子やじゅうたんも、東洋からの輸入品で飾られたその部屋…

しかし、洋の東西を問わず、衰退した一族の運命は過酷なもの・・・いつしか、城は人手に渡り、侵略者の手によって、城内の宝物という宝物が持ち去られ、近世になった頃には、「インドの間」にも何一つ残ってはいませんでした。

しかし、ただ一つ…、壁にはめ込まれた絵だけが、盗人が建物の一部と解釈してくれたおかげで、城とともに現代に伝わりました。

とは言っても、その壁の絵は、長い間、中国の物と思われ、注目を浴びる事もなく、忘れられた存在となっていたのです。

ところが、2006年、州立博物館の総監督となったペーター・パケシュ氏が、その絵が「日本の風景ではないか?」という事に気づき、急きょ関西大学の専門家に鑑定を依頼します。

すると、どうでしょう!!!

その絵は、もともと8枚が連なっていたのを一つ一つ外して城の壁にはめ込んだ8曲1隻の屏風である事かわかりました。

しかも、そこに描かれていたのは、まぎれもなく大阪城・・・それも、今や日本でも貴重な豊臣時代の大坂城の絵だったのです(現在「インドの間」は「日本の間」と改められました)

 
江戸のはじめ、オランダ東インド会社は、イギリススペインなどのライバルを抑えて、日本との独占交易権を勝ち取り大儲けします。

しかし、1641年に幕府が金や銀などの貴金属の輸出を禁止したために、その代償となるべき商品=屏風の輸出を始めて手がけます。

翌1642年、20数枚の屏風を乗せた船が海を渡りました。

ところが、その翌年に続いて出港した船は嵐で沈没…その翌年出港した船の屏風は、水濡れと虫食いで使い物にならず、途中でどこかへ…

やがて、オランダ国内での内戦が悪化して、高級な品物は輸入の対象とされなくなり、同時に、上記のように「水濡れや虫食いでリスクの多い屏風はワリに合わない」として、その後の輸入は2度とされなかったのです。

つまり、エッゲンベルグ城の壁にはめ込まれた絵は、ただ一度の1642年に運ばれた屏風の一つという可能性大なわけです(他の物は未発見)

ご存じのように、現在の大阪城の石垣などは、すべて、家康が豊臣家を滅ぼして建てなおした徳川時代のまったく別の城…、秀吉の大坂城は、地中深く埋まったままで、その全容は未だ謎です。

現在、天守閣の北側に「秀頼・淀殿 自刃の地」という石碑が建ってますが、あそこにあったとされる山里曲輪の事さえ、本当は、よくわかっていないのです。

そんな中での、豊臣時代の大坂城の絵

Toyotomikioosakazubyoubu 豊臣期大坂図屏風・部分(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター蔵)

・・・で、上記のように、この絵は城の壁の一部であるため、簡単に運び出す事は不可能・・・よって、現代の匠が精魂込めて模写し、それを屏風の形に仕上げた物が、今回の「豊臣期大坂図屏風」というわけです。

複製とは言え、数奇な運命をたどって大阪に戻ってきた屏風…、そこに描かれた大坂城天守閣は、まさに豊臣デザイン。

Oosakazugokurakubasi 天守閣の下に描かれている極楽橋には、壁や屋根があり高楼も見えますが、これは、あのイエズス会のルイス・フロイスの記録と一致します。

しかも、この様式の極楽橋は秀吉の死とともに、京都の豊国神社に移築されていますので、まさに秀吉の全盛期を描いた貴重な絵なのですよ!

もし、この屏風が話せたら、いったいどんな旅の思い出を語ってくれるのかしら?

・・・と、少し興奮気味になってしまいましたが、この展示は10月7日まで・・・遅ればせではありますが、まだ間に合います。
興味のある方は、ぜひとも大阪城天守閣へ・・・

「屏風は見たいけど遠くて行けない」という方には、例のごとく、大阪城天守閣のホームページ「図録の通信販売」もやってはります(大阪城天守閣・図録販売のページへ>>)

注!:ただし、この「図録」というのは、オールカラーのせいもあって1300円というお値段がします。
それが、高いと思うか安いと思うかは、個人によって違いますので、くれぐれも自己責任でお求めくださいね。
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2010年9月19日 (日)

琉球王国・最後の忠臣~謝名利山

 

万歴三十九年(慶長十五年・1611年)9月19日、琉球国王・尚寧王に仕えた三仕官の一人・謝名利山が処刑されました。

・・・・・・・・・・

当時の琉球王国(沖縄)では、摂政(琉球では「せっせい」と読みます)三仕官は、国王を補佐して国家の中枢となる決定に参加する重要な役どころ・・・例えるなら、摂政が総理大臣で、三仕官が閣僚(かくりょう)です。

(みん・中国)からの帰化人の血筋とされる謝名利山(じゃなりざん)は、肌の色は浅黒く、体型も六尺(180cm)以上あったとか・・・

血筋だけでなく、かつて明に留学した経験もあり、その国の大きさを肌で実感した利山は、万歴三十五年(慶長十一年・1606年)に、57歳で三仕官に就任すると、明の助力を得て、国政をしようとしたと言います。

一方では、薩摩島津の要求をことごとく無視し続け、奄美諸島を譲り渡すように要求された時も、これを断固としてはねのけています。

まぁ、もともと、豊臣秀吉の政権の時代から、島津の要求と言えば、朝鮮出兵用の兵糧を要求したりといったような事ですから、琉球側から見れば、無関係の無理難題なわけで、その要求内容が事実であるとすれば、要求を無視し続けた利山の判断は、正当と言える物です。

そんな、強気の利山の姿勢を、たのもしく感じたのでしょうか、数奇な運命のもと、第7代の琉球国王となった尚寧王(しょうねいおう)は、利山に厚い信頼を寄せていました。

それは
「利山以外には、外交問題を任せられない」
と、口に出してはばからないほどだったと言います。

しかし、再三の要求をはねつけられてばかりの薩摩・・・慶長十四年(1609年)、いよいよ琉球への進攻を開始しました(4月5日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、最新兵器を持たない琉球は、わずかの期間で降伏を余儀なくされ、薩摩の配下となってしまいます。

薩摩は、琉球王国の体制を温存したまま、那覇に在番奉行を設置し、琉球を、その影響下に治めました。

一方、捕縛された尚寧王や重臣たちは、薩摩へと連行され、島津家へ忠誠を誓うよう強要されます。

まさに、苦渋の決断・・・

やむなく、尚寧王は起請文にサインしますが、利山は、むしろ薩摩の横暴を批判して、連判する事を、かたくなに拒否しました。

かくして万歴三十九年(慶長十五年・1611年)9月19日利山は鹿児島にて処刑されます

あまり信じる事のできない俗説ではありますが・・・

「この時の処刑の方法が釜茹でだった」という話が残っていて、その伝説によれば、大柄の利山は、いきなり、横にいた二人の武士を抱きかかえ、その二人を道連れに釜に飛び込んだのだそうで、後に、尚家が、「三つ巴」を家紋としたのは、この時の3人が絶命する様子を図案化した物なのだとか・・・

Mitudomoe そんな話を聞くと、ちょっと怖い気もしますが、実際には、この3つのマークは、「北山」「中山」「南山」という3つの山を表していて、「その三山を統一する」という、勇ましく前向きな意味が込められた物なのだとか・・・

 
ほかにも、蛇神や龍神を表しているという説もあります。

ともあれ、たとえ、どのような処刑だったかはわからずとも、この時、ただ一人、薩摩へ屈する事を許さず、王国の尊厳を守ろうとした利山・・・琉球最後の忠臣と言えるかも知れません。
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2010年9月17日 (金)

将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方

 

寛永十二年(1635年)9月17日、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の側室で、会津藩祖・保科正之の母お静の方が52歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・

文禄四年(1595年)の奇しくも同じ9月17日、徳川家康の息子・徳川秀忠が、今は亡き浅井長政の三女・小督(おごう)伏見城にて結婚しました。

この時、秀忠17歳・・・
一方の小督は23歳・・・

しかも、初婚の秀忠に対し小督は3度目の結婚で、すでに出産経験もありました。

お二人それぞれの性格はともかく、このシュチュエーションだけ見れば、カカァ天下になる要素満載の二人・・・

やがて慶長十年(1605年)、秀忠は第2代将軍となり、小督はその正室として君臨する事に・・・そう、この小督さんが、来年の大河の主役=お江(こう)さんです。

その頃の秀忠の大奥は2大勢力に分かれていたと言います。

一つはもちろん、正室のお江の方の一派・・・
そして、もう一つは、大乳母殿(おおうばどの)と呼ばれる老婦人の一派・・・

この大乳母殿と呼ばれる女性は、後に老中となる井上正就(まさなり)の母で、若い頃に秀忠の乳母をやっていた人・・・つまり、秀忠の母親がわりのような扱いで、大奥に住まう事を許されていた人でした。

んん???一方が正室で、一方が乳母?
そうです・・・この頃の秀忠の大奥には、愛人っぽい女性が入り込む余地なんてなかっのです。

そんな大奥で、大乳母殿に仕えていたのが、神尾静(かんのおしず・志津)という女性・・・天正十一年(1584年)の生まれと言いますから、秀忠より5つ年下(う~~ん、ちょうどいい…と思うのは私だけか?(゚ー゚;)

神尾氏は代々北条氏に仕えていましたが、ご存じのように、あの小田原征伐で北条が滅亡・・・浪人の身となった静の父・神尾栄加(さかよし)は、板橋郊外の竹村に住みながら、徳川家への仕官を願っていたものの叶えられず、娘の静だけが、なんとか大奥の女中として出仕できたのです。

・・・で、かの秀忠さん・・・将軍としての政務をこなす日々の中、時々は、その疲れを癒すように大乳母殿のところにやってきます。

まぁ、サラリーマンが実家に帰って、お母ちゃんとゆっくり・・・てなモンでしょうか。

そこで、この大乳母殿のもとでかいがいしく働く静さんを、秀忠さんが見初めちゃったワケです。

・・・で、なるようになって、デキちゃうようにデキちゃったわけですが、さすがに空気を読んだ静は、大乳母殿とも相談して宿下がりを申し出て実家に戻りました。

この頃の神尾家は、父・栄加はすでに亡く、静の兄・嘉右衛門(かえもん)の代になっていましたが、やはり、家族の意見も同じ・・・問題が大きくならないうちにお腹の子を始末する事になりました。

その後、しばらくは実家で過ごす静でしたが、やはり、彼女の事が忘れられない秀忠・・・大乳母殿を通じて、何度も出仕のお誘いがかかります。

そして、再び出仕すれば、またぞろ秀忠に深い愛に包まれ、ほどなく懐妊・・・

今度も、やっぱり実家に戻って、お腹の赤ちゃんを処分しようとする静でしたが、そこを猛反対したのが、弟の才兵衛(さいべえ)・・・「将軍様の御子を、2度も始末したら、天罰が下るのでは・・・」と、姉の婿に当たる竹村助兵衛なる人物に静を預けます。

・・・とは言え、「本当にこのまま、そっと子供を産んでも良いのだろうか?」と悩む静に、強い味方が登場します。

武田信玄の二人の娘・・・次女見性院(けんしょういん)六女信松院(しんしょういん・松姫)の姉妹でした。

見性院は、あの穴山梅雪(ばいせつ・信君)(3月1日参照>>)の奥さんで、夫の死後は家康から600石を賜り、江戸城の北の丸に住んでいましたので、おそらくは、静が大奥にいた時に知り合いになったのでしょうね。

一方の信松院は、尼になる前は松姫と呼ばれた人で、織田信長の長男・信忠の婚約者だった人・・・あの「ここまでするんやったら、もう許す!」と言いたくなるほどスゴかった「おんな風林火山」という時代劇で主役をはった武田の姫ですが、武田滅亡後は八王子信松院庵主(あんじゅ)となって、一族の菩提を弔っていたのでした。

そこで信松院は、静を連れて見性院の知行地=武州足立郡大牧村に行き、ここで、心静かに出産するようダンドリを整えました。

この時、氷川神社に奉納した祈願の文書が、現在のさいたま市の重要文化財として残されています。

「私は、卑しい身分ですが、将軍様に愛され、その御子を身ごもり、この4月か5月には生まれます。
けれど、御台
(みだい=お江の事)様の嫉妬が深く、お城にいる事ができないため、信松院様の御世話になって、今、ここにいます。
どうか、胎内の子を男の子にしていただいて、安産でありますように・・・そして、親子ともども天寿を全うし、運が開けて大願成就できますように・・・」

といった感じの内容・・・日づけは慶長十六年(1611年)2月となっています。

この文面を見る限りでは、「やっぱりお江さんのヤキモチはスゴかったのかなぁ」と思っちゃいますが、果たして、本当にスゴかったかどうかは、ご本人に会ってみないとねぇ・・・ムリですが(^-^;。

こうして、信松院や、見性院の家臣たちに見守られ、静は、その言葉通り、慶長十六年(1611年)の5月6日男の子を出産します。

『家世実記』によれば・・・
さすがに、子供ができた事を黙っているわけにはいかない竹村助兵衛が町奉行に報告・・・そこから老中の土井利勝を通じて、男子の誕生を聞いた秀忠は、
「身に覚えがある」
として、家紋の入った小袖とともに
幸松(こうまつ)と名付けよ」
との言葉を送ったとか・・・

ただし、「御内々に・・・」という、公式には発表しないよという約束つきの認知でした。

しばらくの間、助兵衛の屋敷で暮らしていた静・母子でしたが、幸松が3歳になった時、老中の土井と本多正信から、「見性院の子として育ててほしい」との要請があり、はなから、母子のバックアップをする気満々だった見性院は、幸松を自らの養子として江戸城内の屋敷に住まわせ、その姓も武田を名乗らせました。

徳川将軍の息子が武田姓・・・なんとも数奇な運命ですが、まだ、幼い幸松にとっては、やさしい見性院のもと、心静かに暮らせる場所がある事は、幸せだったでしょう。

この頃の静は、目黒の蛸薬師成就院に何体もの仏像を寄贈しているのだとか・・・この仏像は、今も「お静地蔵として現存しますが、やはり幸松の母として、微妙な立場の息子の将来に、かなりの不安を持っていたのでしょうね。

やがて、7歳になった幸松は、武士たる教育を受けるべく、信州高遠(たかとお)2万5000石の藩主・保科正光(ほしなまさみつ)の養子となります。

保科家は、元は武田の家臣・・・やはり、見性院が見込んだ人物だったのでしょう。

その後、寛永八年(1631年)、正光の死を受けて、幸松は、高遠藩の藩主となります。

その名も、保科肥後守(ひごのかみ)正之と改めます。

ここで、初めて、正之は、将軍の子としてではないものの、高遠藩・藩主として世に出る事になります。

さすがに、ここまで来れば、闇から闇へと末梢される事はないでしょう・・・かのお江さんも寛永三年(1626年)に亡くなっていますし(9月15日参照>>)、2年前の寛永六年には、秀忠と父子の対面も果たしていますしね。

そんな息子の幸せを見届けるかのように、寛永十二年(1635年)9月17日静はこの世を去ります。

高遠にある長遠寺というお寺に葬られた静さん・・・しかし、息子・正之は、静の浄光院(じょうこういん)という法名に従って、その長遠寺を浄光寺と改名・・・

やがて、異母兄にあたる3代将軍・徳川家光の信頼を得て出羽山形20万石、さらに、奥州会津23万石の藩主へと出世する正之(9月1日参照>>)ですが、その山形にも会津にも浄光寺を移転させ、常に母を連れて行ったと言います。

「常に母を・・・」
なんだか、正之さんの思いが伝わってくるよう・・・やはり、こういう人生だと母子の絆が強くなるんでしょうね。

*本日は、お静さんサイドからのお話なので、少しお江さんが意地悪な女に見えますが、来年の大河では、きっといい奥さんで登場する事と思います。

*以前の保科正之さんのページと内容がだだカブリですが、よろしければソチラの12月28日のページ>>もお楽しみくださいませ
 

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2010年9月16日 (木)

95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難事件

 

明治二十三年(1890年)9月16日、和歌山県・串本沖を航行中のトルコ軍艦・エルトゥールル号が遭難しました。

・・・・・・・・・・

トルコの人が、日本の事を大好きだという事をご存じですか?

この事は、けっこう最近まで、日本人のほとんどが知らなかったのですが、ある出来事をきっかけに、多くの人の知るところとなりました。

その出来事とは、1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争・・・その真っただ中だった1985年(昭和六十年)3月17日に起きた出来事です。

その日、イラクのフセイン大統領が突然宣言したのです。
「今から48時間の猶予期限以降に、イラン上空を飛ぶ、すべての飛行機を攻撃対象とする」
と・・・

つまり、「48時間後には、民間の旅客機であろうと、イラン上空を飛んでいたら攻撃するかも知れないゾ」という宣戦布告なわけで

当然、イランに滞在中の外国人たちに動揺が走ります。

攻撃されないためには飛行機を飛ばさない事になりますから・・・飛行機が飛ばない=イランから母国へ戻れなくなるわけで・・・

早速、それぞれの国籍を持つ航空会社や、それぞれの国の軍の手によって、速やかにイランからの脱出が図られます。

この時のイランには200人以上の日本人がいて、もちろん、彼ら日本人は、日本の航空会社の飛行機が救出に向かわねばなりません。

この報を受けた日本側・・・当時の日本航空の経営陣は、すぐにでも救援機を飛ばす覚悟があったとも言われていますが、反会社の姿勢を取る労働組合の反対や、外務省のおエラ方の決断のグラつきによって、何も決まらないまま時間だけが過ぎ、とうとうタイムリミットを迎えてしまいます。

もはや、日本から飛行機を飛ばしても、あの48時間の猶予期限に間に合わない時間になってしまったのです。

万事休す・・・

「なぜ、日本の飛行機は来ない?」と、空港で不安にかられる現地・イランの日本人の姿が、日本でも刻々と報道される中、タイムリミットまであと3時間となった・・・その時です。

トルコ航空の飛行機が2機、イランの空港に降り立ちました。

本来なら、自国のトルコ人を救うはずだった最終便を2機に増やし、その両方に日本人全員を乗せて飛び立ちます。

まだ残っていたトルコ人には、陸路で脱出するよう手配させての救出・・・そう、より確実な飛行機の輸送に、日本人を優先してくれたのです。

この奇跡の救出劇を報じた日本のマスコミ・・・中には、トルコがなぜ日本人を救ってくれたのかがわからず、その理由を「日本からの経済支援を期待しての事だろう」と、バカな論調を述べる新聞もありましたが、その理由がわからなかったのは日本人だけ・・・

この時のトルコ国民のほとんどは、なぜトルコがそうしたのかを知っていたのです。

トルコには、「自分の歴史を知らない者には未来はない」ということわざがあるそうですが、まさにその通り・・・自分の国の歴史を知らないのは、日本人のほうだったのです。

・‥…━━━☆

事は明治二十三年(1890年)にさかのぼります。

この頃のオスマン・トルコ帝国日本は、同じような立場にありました。

自国を近代的な国家に改革するとともに、対外的には欧米列強から平等な扱いを認めさせようと努力していたのです。

時のアブドル・ハミト2世は、同じ立場で同じ目標を持つ日本に親善使節を派遣・・・オスマン・パシャ提督率いる総勢650人の使節団は、軍艦・エルトゥールル号に乗り込み、約1年をかけて明治二十三年(1890年)6月5日横浜港に入港しました。

上陸した一行は盛大なる歓迎を受け、明治天皇にも拝謁しての晩さん会も行われ、無事に親善の役目を果たし、3か月後の9月15日、横浜港を出港して帰国の途につきました。

一方、エルトゥールル号が横浜を出港した翌日の明治二十三年(1890年)9月16日和歌山県・大島にある樫野埼(かしのざき)灯台には、二人の宿直員がいましたが、荒れ狂う外の様子を不安そうに見つめていました。

そう、この日、このあたり一帯を台風が直撃していたのです。

その時、突然ドアが開いて、一人の男が灯台内に入ってきて、うずくまるように倒れ込んのです。

驚き、助け起こしながらも、冷静に様子を見る二人・・・

大きな体に彫りの深い顔立ち、傷だらけで前身ズブ濡れ・・・一目で、海難事故に遭った外国人である事がわかりました。

すると間もなく、次から次へとけが人が、半死半生の状態で助けを求めて入ってきます。

「これは、とても二人では対処できない!」
「村の人に応援を頼もう」

知らせを聞いた村人たちが海岸に駆けつけると、もう、そこは悲惨な状態・・・おびただしい数の船の破片と倒れた男たち・・・わずかに息をしている者も、ほとんど体温を感じない状況です。

「とにかく一人でも多く助けたい!」
ただ、それだけの思いで、村人たちは動きます。

ある者は自分の体でけが人の体温を温めながら寝ずの看病・・・ある者は未だ荒れた海に決死の覚悟で生存者を求めて潜ります。

やがて、一夜明け、ようやく、事故の事がわかってきます。

そう、あのエルトゥールル号が、台風の直撃を受け、沈没してしまったのです。

乗組員650名のうち、生存者は69名・・・なんと、581名が亡くなるという大惨事でした。

翌日も、村人総出でけが人たちの看護にあたる大島村の人々・・・しかし、困りました。

ここは、半農半漁の小さな村で、とてもじゃないが69名もの遭難者に与えるほど、食べ物の蓄えがないのです。

しかも、先日の台風で2~3日漁にも出ていません。

すると、誰からともなく、こんな声が・・・
「俺らの分を彼らに・・・」
「そやそや、俺らは元気なんやから、2~3日食えへんかっても死ねへん!」

こうして、村人たちは、自分たちの生活そっちのけで、心をこめて、彼らのお世話をしたのです。

やがて、台風が去ると同時に、この一件も大きく新聞報道され、全国からの義援金も寄せられました。

乗組員たちも神戸の大きな病院に運ばれ、万全の治療を受けて順調に快復していったのです。

そして、事故からおよそ1カ月後の10月11日・・・日本海軍の軍艦・比叡金剛に分乗した彼らは、付き添う日本軍将校らとともに、トルコへの帰路についたのでした。

別れの時、その代表者は言いました、
「我々は、この度の措置に心から感謝している。
乗組員一同は、帰国後、広く、日本人の温情を同胞に伝えるだろう」
と・・・

その言葉通り、この出来事は、トルコの教科書に掲載され、国民のほとんどが知っているという有名な出来事となったのでした。

かくして95年後、日本人を救うため、トルコ航空機はイランに降り立ったというわけです。

奇跡の救出劇の後、日本のマスコミに対して記者会見を開いた駐日トルコ大使は、言葉短く答えました。

「我々は、エルトゥールル号の借りを返しただけですよ」
と・・・
 .

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2010年9月15日 (水)

島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳in関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月15日、この日行われた関ヶ原の合戦で、薩摩の戦国大名・島津義久・義弘兄弟の懐刀(ふところがたな)と呼ばれた長寿院盛淳が討死しました。

・・・・・・・・・・

本日の主役の盛敦さん・・・室町幕府で管領職を代々受け継いで、あの応仁の乱の発端ともなる家督争いを演じた畠山氏の分家にあたるという事で、本名は畠山盛敦(はたけやまもりあつ)と言います。

祖父の代から薩摩(鹿児島県)に移り住んだと言いますが、盛敦自身は3歳で高野山に、11歳から根来(ねごろ)寺で修業した僧侶で、その出家した後の名乗りが長寿院・・・なので、一般的には長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)と呼ばれますが、息子の忠栄が出家して阿多吉房(あたよしふさ)と称して、その後の子孫が阿多氏を名乗る事から、彼もまた阿多盛淳、あるいは阿多長寿院盛淳と呼ばれる事もあります。

僧侶としての知識をふんだんに使った外交交渉がお得意だったようで、その才能を評価した島津義久(よしひさ)義弘(よしひろ)兄弟に大抜擢され、いきなり軍団の要職についたと言います。

実は、あの天正十五年(1587年)・・・九州征伐にやって来た豊臣秀吉との戦いに敗れた島津が(4月17日参照>>)、本来なら、すべてがなくなってもおかしくない所を、薩摩と大隅(鹿児島県東部)所領を安堵されたのも、盛敦の外交交渉の成せるワザという話もあります。

その後は、豊臣政権下に入った島津の家臣として、太閤検地の奉行などもこなし、義久が隠居した後は、義弘の家老として活躍する盛淳でしたが、ちょいと、ここらあたりで島津家に内紛が・・・

・・・というのも、確かに秀吉は、負けた島津に対し、もともと所領を安堵しましたが、一方では、「これ以上、島津が力をつけないように」という策略も張り巡らせていました。

それが、島津屈指の勇将・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)・・・

主君である義久や義弘より、彼を厚遇する事で、島津家の軟弱化を謀っていたのだとか・・・まぁ、もともと勇将の誉れ高い人ですから、策略による厚遇なのか、実力に伴う重用だったのかは微妙なところではありますが・・・

案の定、秀吉の数々の優遇措置に、増長していく忠棟・・・

これにブチ切れたのが、義弘の息子・島津忠恒(ただつね・家久)・・・慶長二年(1597年)、この忠棟を伏見の島津屋敷にて殺害してしまいます。

これには、「増長して野心を抱いた忠棟には、主君に取って代わる謀反の兆しがあったとも言われますが、それこそ死人に口なし・・・謀反は島津側の言い分で、本当のところはわかりません。

とにかく、これで黙っていられないのは、忠棟の息子・伊集院忠真(ただざね)・・・日向(ひゅうが)都城(みやこのじょう)に籠城し、徹底抗戦の構えを見せます。

庄内の乱と呼ばれるこの反乱は、結局は慶長五年(1600年)の3月に鎮圧されるのですが、この都城が12もの支城を持つ堅固な城だった事で、容易に攻め落とす事ができず、島津としては、コチラにかなりの人員を差し向ける事になったわけです。

そうです慶長五年と言えば、あの関ヶ原・・・

この内乱のために、義弘は関ヶ原に多くの兵を連れていく事ができなかったわけです。

しかも、義弘一行は、もともと徳川家康の東軍として参戦するために、はるばるやって来たにも関わらず、最初に向かった伏見城で、家康の留守を預かる鳥居元忠に入城を断られてしまい、なりゆき上、西軍として関ヶ原に参戦する事になってしまったのです。

この一報を、薩摩で聞いた盛淳・・・「主君の危急!」とばかりに、70名の兵を引き連れて、昼夜かまわず馬を飛ばし、一路、関ヶ原へと駆けつけます。

ぎりぎりセーフ!!!
なんとか関ヶ原の開戦前に間に合った盛敦・・・出迎えた義弘は、喜びのあまりその手をしっかりと握りしめ、自らの陣羽織(じんばおり)を彼に与えたと言います。

かくして慶長五年(1600年)9月15日早朝・・・関ヶ原の戦いの幕が切って落とされます。(関ヶ原のあれこれは【関ヶ原の合戦の年表】でどうぞ>>)

先にも書かせていただいたように、もともと西軍として参戦するはずではなかった義弘は、戦いが始まっても、すぐに兵を動かす事はありませんでした。

石田三成(みつなり)の再三の要請も退け、動かぬ島津隊でしたが、ご存じのように、またたく間に西軍の大敗が決定的となってしまいます。

しかし、なりゆきとは言え、西軍として参加した合戦で、敵の東軍に降伏するなど薩摩男児のプライドが許しません。

かと言って、負けは濃厚・・・一時は自刃を覚悟する義弘に、「猛反対!」と食い下がったのが甥の島津豊久でした。

しかし、どうすれば???

そこで、戦線離脱を進言したのが、誰あろう盛淳です。

Sekigaharafuzin14hcc しかも、わざと徳川方の前を横切る敵中突破!!・・・ご存じ、島津の背進です(少々内容かぶってますが、くわしくは2008年9月16日のページで>>)

この時、盛淳は、「薩摩までの五百里、主君を守って見事討死し、その名を残すべきである」と、諸兵に力説して回ったとか・・・

かくして始まった敵中突破は、その予想通り、大変なものでした。

味方は次々と討死し、残った兵も疲労困ぱい・・・そんな中、義弘を守って豊久が討死すると、盛も、そのあとに続きます。

そう、合戦前に主君から賜った、あの陣羽織・・・

義弘の陣羽織を身につけ、颯爽と敵前に進み出た盛淳は、「我こそは、島津義弘である!」と名乗りをあげて敵の注意をひきつけます。

名将の首を挙げようと群がる敵兵・・・その中の一人、山本義純(よしずみ)の手によって捕捉され、盛淳は壮絶な討死を遂げたのです。

その甲斐あって、主君・義弘は、見事、戦線離脱に成功・・・

以前も、書かせていただきましたが、この戦線離脱作戦は、勝つの負けるのという戦いではなく、最後が何人になろうが、主君の義弘さえ生きて薩摩に戻れたなら、それが作戦成功・・・

おそらくは、この時、50歳前後であっただろうと思われる盛淳さん・・・直前に発した言葉通り、その命賭けて歴史に残る敵中突破の案内人を、見事勤め上げたと言えるでしょう。
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2010年9月14日 (火)

いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始

 

明治元年(慶応四年・1868年)9月14日、幕末・会津戦争にて、会津若松城への総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・

何度も恐縮ですが、まずは、これまでの経緯と位置関係をわかりやすくするための地図を・・・

Aiduzyoukatatakai2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・‥…━━━☆

鳥羽伏見の戦いの後、江戸城無血開城を経てもなおも抵抗する会津・・・本拠地・会津若松・鶴ヶ城を新政府軍が囲んでから、半月以上・・・

すでに城下は新政府軍のほぼ制圧され、お互いの連絡すら取れないものの、籠城する者は城内で踏ん張り、城外で転戦する者は各地で奮戦し・・・と、その士気は衰えないままの会津軍でした。

しかし、戦況がますます悪化する中の9月4日、ともに踏ん張っていた米沢藩が降伏した事で、会津の北隣も新政府軍の手に落ちました。

これによって、越後(新潟県)との国境に陣取っていた新政府軍の一部が南下し、会津若松城への包囲は、ますます強大な物になり、ここで新政府軍は、城への総攻撃開始を決定したのです。

明治元年(慶応四年・1868年)9月14日早朝・・・小山田ほか、城の南西にあたる花畑口に設置されていた50門の大砲が一斉に火を吹きました。

命中した本丸は大きな被害を被り、火薬庫のあった西出丸ももはや収拾がつかない状態・・・この時、なんとか城まで3kmの位置までやって来て奮戦していた佐川官兵衛(かんべえ)の一隊も、やむなく城外へと退きます。

しかし、ここに来てもなお、士気の高まりが衰えないのは、先日も書かせていただいた藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)の家訓・・・
「他の藩はどうであっても、この会津藩は、徳川将軍に忠誠をつくせ・・・もし、将軍家を裏切ったら、それはもはや私の子孫ではない。」
にある通り、会津は最後の1藩となっても、抵抗を続ける覚悟だったのです。

この士気の高まりは、翌日の15日、仙台藩が降伏しても、まだ衰える気配を見せません。

そこで、新政府軍参謀板垣退助(いたがきたいすけ)伊地知正治(いちじまさはる)は、先日降伏した米沢藩を通じて、城の北西7kmの位置に退いていた会津藩家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)のもとに、降伏を勧告する書状を送ります。

なんせ、もう、9月も半ば(旧暦ですし)・・・もはや東北には冬の気配さえ感じられ、このまま包囲を続けていれば、こちらの新政府軍にも多大な被害が出かねません。

なんだかんだで、新政府軍も攻めあぐねていたのです。

考えてもみてください。

籠城する5000に対して包囲する新政府軍は30000・・・すでに、周囲の藩を降伏させた事で、その包囲の数は、もっと増えているはずです。

なのに、包囲から、あと数日で1ヶ月も経とうというのに・・・戦国時代の合戦なら、もう、城内に突入して当然の状況です。

それでも、新政府軍が城を落とせないでいたのは、会津軍の士気の高さとともにある会津若松城の鉄壁な守り・・・。

先日も、書かせていただいたように、十六橋戸ノ口原を破って城下に押し寄せ、その日のうちに北面の甲賀町口郭門(こうかまちぐちかくもん)六日町口郭門を破って城郭内へと侵入し、各所に大砲を据えて、城の北出丸を射程距離に収めた新政府軍でしたが、その時も、そのまま突き進む事をあきらめ、包囲しての長期戦に変更した経緯がありました。

つまり、それだけ会津若松城が堅固だったわけです。

水堀と高い石垣を誇る巨大な城郭を持ち、本丸を囲むように設置された二の丸・三の丸・北出丸・西出丸には、まったく死角がないように設計され、要所に切られた狭間(はざま)から撃たれる銃弾で、間近へは近づけない状況・・・しかも、さすがのアームストロング砲でも、天守閣に多少の痛手を与える事はできても、決定的な打撃を与えるほどの効果は、まだ、なかったのです。

Wakamatuzyouaidusensou

現存する会津若松城の古写真(会津若松市蔵・・・痛々しい姿ではありますが、天守閣そのもは、しっかりと建っていて、崩れる気配を感じさせませんよね。

昨年の暮れの記事で、大いなる平和をもたらした江戸時代の約300年間は、ほとんど武器が発達する事がなかった事を書かせていただきましたが(12月31日参照>>)、考えてみれば、その300年の時を経て、突然現れた外国製の最新兵器に耐えられるほどの城郭を、先人は築いていた事になり、まさに蒲生氏郷(がもううじさと)バンザイ!加藤嘉明(よしあき)えぇ仕事してまっせ!の拍手喝さいですが・・・
(スミマセン(*_ _)人 話が戦国に行ってしまいました)

しかも、最終的には3万以上で包囲しながらも、この時点でも、まだ南側の天神口を新政府軍は占拠する事ができてはいなかったのです。

これは、いわゆる「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」の意味での孫子(そんし)の時代からの包囲戦の鉄則孫子の兵法・軍争篇を参照>>)で、新政府軍は、あえて占拠しなかったとの話もありますが、結果的に、ここが、最後まで会津の物であったおかげで、ある程度の城外の兵が城へと戻る事もでき、城内の兵糧も尽きなかったわけで、そのぶん、力づくでは落とせないという事になったわけです。

とは言え、18日には高田も占拠され、もはや完全に孤立してしまった状況を見て、松平容保(かたもり)は、いよいよ開城を決意するのですが、そのお話は、9月22日のページでどうぞ>>
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2010年9月13日 (月)

副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件

 

明治五年(1872年)9月13日、横浜港に停泊中のマリア・ルーズ号に乗せられていた清国人奴隷たちが解放されて帰国しました。

これは、船の名前をとって、世に、マリア・ルーズ号事件と呼ばれる出来事ですが、船名表記が「Maria Luz」なので、マリア・ルス号事件あるいはマリア・ルズ号事件と呼ばれる場合もあります。

・・・・・・・・・・・

明治五年(1872年)6月5日、横浜港にペルー船籍の汽船=マリア・ルーズ号が、嵐で破損した船体の修理のために入港してきました。

しばらくは何事もなく過ごしていたマリア・ルーズ号でしたが、5日ほどたったある夜・・・その船に乗船していた清国(中国)人・木慶(もっけい)突然海に飛び込み、同じ横浜港内に停泊していたイギリスの軍鑑に泳ぎついたのです。

泳ぎついたが早いか、いきなり乗り込んで来た外国人に、英国軍人もビックリ・・・

わけを聞くと、なんと、「かのマリア・ルーズ号は奴隷船で、中には230人ほどの清国人奴隷が乗せられており、毎日、ひどい虐待を受けている」というのです。

もちろん、木慶も、その奴隷の一人で、虐待に耐えかねて、決死の覚悟で逃亡を図ったのです。

当時、ちょうど、アメリカ西部やオーストラリアなどで金鉱が発見され、そこでの労働力として清国人が奴隷商人の間で売買されており、彼らは、ポルトガル領のマカオで船に乗せられ、現地へ運ばれる途中だったのです。

軍鑑の乗組員たちは、早速、英国公使・ワトソンに連絡・・・横浜の英国領事館を経て、木慶は、神奈川県庁へと引き渡されました。

その時、「木慶の話す事にウソはない」と判断したワトソンは、マリア・ルーズ号を奴隷船と断定・・・日本政府に、船内の清国人らを救助するように求めました。

しかし、一方のマリア・ルーズ号の船長からは、「彼らは奴隷ではなく、移民であり、虐待した事などない」として、「木慶をすみやかに返してほしい」と要求されます。

しかたなく、県庁は木慶を返します。

実は、この時の日本には、船長の要求を断る事ができなかったのです。

それは、幕末のドサクサで、徳川幕府が欧米列強と結んじゃった、あの不平等な通商条約です。

特に不利だった条件の第1は、あの関税率・・・それについては、以前、その不平等さを撤回させるために渡米した小栗忠順(おぐりただまさ)さんのページで少しお話させていただきましたね(4月6日参照>>)

そして、不平等のもう一つが、相手国の治外法権(ちがいほうけん)・・・つまり、外国人が日本で何か事件を起こしても、日本は、それを裁けないのです。

容疑者は、それぞれの国の領事館で、それぞれの国の法律によって裁かれたのです。

ただ、この時の日本は、ペルーとは、まだ条約を結んではいませんでしたから、強引に断る事もできたと言えばできたワケですが、欧米列強の治外法権を認めている日本が、相手が条約を結んでいないペルーだからと言って、他国と扱いを変えてしまうと、それはそれで、国際問題に発展するのではないか?という心配があっての、神奈川県庁の判断だったのです。

ところが、この日本側の処置に満足しなかったワトソンさん・・・本当にマリア・ルーズ号が奴隷船かどうか、独自で確かめに行きます。

結果は・・・ビンゴ!!!

逃亡した木慶は懲罰を受け、もはや半死半生の状態・・・もちろん、他の清国人たちも、過酷な状態に置かれ、とてもじゃないが、移民の船とは言えない状態の船内です。

Soezimataneomi 早速、ワトソン公使は、当時の外務大臣副島種臣(そえじまたねおみ)に船内の状況を伝え、かの船長を「再審判すべきである」と通告をしたのです。

副島は決断します。

もちろん、先ほど書いたように、「国際問題になるのでは?」との心配があり、政府内でも、未だ反対の声もありましたが、それでも、彼は決断したのです。

「ペルーは日本における治外法権を持っていない・・・ゆえに、日本は、自国の主権によってこの事件を処理する!これは国際法上、合法である!」
と・・・

こうして、清国人救出に向けての手続きがなされていきます。

まずは、マリア・ルーズ号に、横浜港からの出港停止を命令を出し、さらに7月には、清国人を全員下船させ、容疑者となった船長は、神奈川県庁に設置された特設裁判所にて判決を受ける事になります。

その結果は・・・「清国人の解放を条件にマリア・ルーズ号の出港を許す」という物でした。

しかし、船長も、まだ退きません。
あくまで、これは「移民契約」であると主張し、判決を不服として、清国人を船に戻すよう訴えますが、これに対する日本側の返答は、「この契約は移民契約ではなく奴隷契約である」と却下・・・

「それならば・・・」と、
日本の、年季奉公の証文を差し出しながら、「日本にも遊女という奴隷制度がまかり通っている!」と、痛いところを突かれたのですが、やはり有無を言わさず却下・・・

かくして、明治五年(1872年)9月13日、マリア・ルーズ号に乗っていたすべての清国人が解放され、帰国の途につきました。

かの遊女の問題にも、それから1ヶ月も経たない10月に、矢のような素早さで、芸娼妓解放令を出しで対処します(10月2日参照>>)

やっと一安心・・・と、思いきや、翌年の2月、今度は、ペルー政府自らが海軍大臣を派遣して、日本に対し、謝罪と損害賠償を請求・・・あぁ、やっぱり、国際問題に・・・

・・・で、結局、直接衝突を避けるために、ロシアが第3国として判断を下す事になったのですが、仲裁に入ったロシア皇帝・アレクサンドル2世の下した決断は・・・

「日本の処置は国際法にも違反せず、妥当な物である」

やりました!
これで正真正銘、見事に一件落着です。

さらに、これが世界の知るところとなり、やがてマカオでの奴隷売買自体が消滅・・・しかも、これでイギリスの信頼を得た日本は、かの不平等な条約の改正に向けても一歩前進する事となったのです。

こういうお話を聞くと、なんだかウレシイ・・・幕末維新を生き抜いた人の英断には、いつも感激させられます(* ̄ー ̄*)
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2010年9月12日 (日)

初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る

 

明治五年(1872年)9月12日、新橋⇔横浜間29kmの日本初の鉄道が正式開業しました。

・・・・・・・・・・

もともとは、鉄道の敷設には、あまり乗り気ではなかった明治新政府・・・しかし、イギリス公使パークスのプッシュに折れたが早いか、明治三年(1870年)には工事を開始し、イギリス人技術者の指導のもと、この日の完成に漕ぎつけたのでした。

Sinbasi 東京汐留鉄道蒸汽車待合之図

その日は前日までの大雨がウソのように晴れあがった見事なロケーションだったそうです。

汐留の旧龍野藩主・脇坂安宅(やすおり)の屋敷跡に、新たに建てられた白亜の2階建て西洋館・・・それが新橋ステン所(ステーション)でした。

紅白のたれ幕が張り巡らされ、万国旗が揺れ、無数の提灯がその喜びを盛り上げる中、テンションマックスの状態の所に、烏帽子(えぼし)に直衣(のうし)姿の明治天皇がうやうやしく登場すると、祝砲が空に響きわたります。

盛大に開かれる開通式・・・

やがて、しずしずと9両編成の黒い物体が動きはじめ、あたりには大きな汽笛がこだまします。

♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり♪

この最先端の文明の利器を一目見ようと、仕事をほっぽりだして来たニィチャンや昼飯の仕度も忘れたオバチャン・・・老若男女が見守る中、白い煙を吐き出して颯爽と行く。

人呼んで「陸蒸気(おかじょうき)

これは、それまで海の上を走る蒸気船しか知らなかった人々が、「陸を走る蒸気船」って事でつけた呼び名です。

見物人は口々に
「牛や馬よりデカイ!!」

わかっちゃいるけど、あんな化け物のような風体を目の当たりにしたら、そんな感想しか出てきやしません。

中には、ボイラーが蒸気で結露しているのを見て、「汗をかいてる」と勘違いし、ボイラーに水をかけようとする人まで・・・もちろん、駅員が必死で止めに入りましたが・・・

実際に見た人でも、こうなのですから、このニュースが人から人へと伝わった時は、どんなだったでしょうねぇ~

現在のように、何かあると映像つきのニュースが配信されるわけではありませんから・・・と、コチラ↓にご紹介するのは、未だ江戸の風情残る明治の初め頃に書かれた「奈良・名所絵図」ですが・・・

Narameisyoezum24330

上の絵図の左下の□部分をアップにしたのがコチラ↓

Narameisyoezum24bubun

画像をクリックして、さらに拡大していただくと確認できると思いますが(携帯の方、見難いでしょうがゴメンナサイ)興福寺金堂南円堂・五重塔などが名前入りで描かれていますが、そのさらに左下の部分に屋根だけ見えてる建物・・・

そばには「ステンショ」の文字が・・・そうです、これが奈良駅ですね~

・・・で、その左には、モクモクと煙を吐く煙突だけが描かれていますが、これが陸蒸気=汽車なんですね~

つまり、この絵図を描いた時には、まだ奈良には鉄道はなかった(工事中だったかもしれませんが)・・・当然、これを描いた絵師は、陸蒸気なる物を見た事がなく、とりあえず「煙突から煙を吐いて走る」と聞いてはみたものの、描くに描けず、煙突だけ描いてゴマかしたんでしょうね。

おそらく、いろんな人から、その姿を聞いても、一人一人が言う事違ってたりしたんでしょう・・・ほほえましいです。

ほほえましいと言えば、こんな話も・・・

この開業当時は、新橋⇔横浜間を53分かけて走っていたそうですが、今でも30分くらいはかかるそうなので、それを考えればけっこう早い!・・・もちろん、当時の人の感覚では、歩いて丸一日はかかる距離ですから、早いなんてもんじゃないわけで・・・

・・・である日、無事に横浜駅まで到着したものの、いっこうにお客さんが列車から下りて来ない・・・

不思議に思った駅員が客に大声で知らせると・・・
「まだ小一時間しかたってないじゃないか!」
「こんなに早く着くわけないだろ!」
「ハハァ~ン・・・ここは横浜じゃないな」

てな事で、下りなかったんだそうです。

初めての事には、ホントおもしろいエピソードがつきものですね。
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2010年9月10日 (金)

「山本勘助⇔山本菅助」その実在やいかに?

 

永禄四年(1561年)9月10日は、第4次・川中島の戦いのあった日・・・

すでにご存じのように、この「川中島の戦い」と呼ばれる上杉謙信VS武田信玄の戦いは全部で5回ありますが、この9月10日の4度目の戦いが一番激しく、一般的に「川中島の戦い」とだけ言えば、この4度目の事を指します。

・・・で、このブログでも・・・

  1. 第1次・川中島
    更科八幡の戦い:天文二十二年(1553年)4月22日
    布施の戦い:天文二十二年(1553年)9月1日>
  2. 第2次・川中島
    犀川の戦い:弘治元年(1555年)7月19日>
  3. 第3次・川中島
    上野原の戦い:弘治三年(1557年)8月29日>
  4. 第4次・川中島
    八幡原の戦い:永禄四年(1561年)9月10日>
  5. 第5次・川中島
    塩崎の陣:永禄七年(1564年)8月3日>

と書かせていただき、本日の第4次については上記の定番のお話の他に、否定的な見解【川中島はなかった?(2007年9月10日>>)や、この戦いで討死する信玄の弟【武田信繁について(2008年9月10日>>)など書かせていただいておりますが、今回も、やはり、この第4次の戦いで命を落としたとされる、あの山本勘助について・・・

・‥…━━━☆

もはや有名人の山本勘助さんですから、ほとんどの皆さまがご存じの事とは思いますが、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、この勘助は・・・
諸国の事情にくわしく、優れた戦略能力を持っていた事から、武田信玄に仕えてからわずか数ヶ月足らずで重用されるようになり、数々の戦で戦略をアドバイスする軍師として活躍・・・そのノウハウは武田流兵法の祖となった
と言われています。

Kansuke24syou ただし、この「甲陽軍鑑によれば・・・」っていうのがミソ・・・

そうです・・・山本勘助の名前は、この甲陽軍鑑にしか登場しないのです。

しかも、他には事実であろう事も、たくさん書いてる甲陽軍鑑なのに、この勘助についての記述は脚色性が強く、かなりドラマチックな展開となってます。

川中島の前哨戦とも言える戸石城の攻防戦(9月9日参照>>)なんて、「戸石崩れ」と称されるような負けっぷりでありながら、なにやら勘助のアイデアで一矢報いた的な終わり方・・・

ゆえに、早くからその存在を疑う声が出ていました。

江戸時代に松浦鎮信(しげのぶ)が編集させた『武功雑記(ぶこうざっき)などでは、「甲陽軍鑑は、勘助の子供(子供のいるorいないは、またの機会に…)が書いた偽作である」と推理・・・自分の親の事を、できるだけカッコよく描き、武田の家臣・高坂弾正(だんじょう)の著作と偽って刊行したとの見解を述べています。

明治以降の近代になっても、多くの学者さんたちから、そのつじつまの合わない部分が指摘されていました。

たとえば・・・
甲陽軍鑑では、勘助は、信玄の本名=晴信(はるのぶ)から、その一字を賜って晴幸(はるゆき)と名乗っていたとされていますが、この信玄の晴の字は、もともと、室町幕府第12代将軍・足利義晴(よしはる)から賜った一字・・・それを、そんな風に臣下に与えたりしますかね?という疑問・・・

さらに、勘助が軍師と称されるようになるのは、江戸時代も後半になってからで、軍鑑でも、その身分は足軽隊将なわけですが、他の文献を見ても、この頃の武田家では、他国からの浪人出身の者は、たとえどんなに出世しても、その地位は足軽隊将までが限界で、譜代の家臣とは明確に区別されていたとされていますので、この記述は正しいと考えられます。

ただ、それならそれで、この足軽隊将という身分は、仲立ちの奏者を間に入れなければならない程度の身分で、信玄と直接話しをする事はできなかったはずなのですが、甲陽軍鑑での勘助は、わずか数ヶ月の期間で、信玄と直接話す事ができるようになっています。

もちろん、ドラマのように、軍議に出て合戦のアドバイスをするてな事は、本来、足軽隊将の身分では絶対許されないのです。

それだけ優秀な人で、勘助だけは特別だったんじゃたないの?
とも思えますが、封建社会ドップリの武士の世界で、そのような特別扱いはほぼ皆無だと・・・なぜなら、一つ特別を許してしまうと、信頼関係が破たんし、秩序が乱れ、ルールもクソもあったもんじゃなくなるからです。

裏切るのが常識の戦国時代で、主君と家臣の信頼関係が破たんすれば、とんでもない事になってしまいます。

なので、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」です。
かの諸葛孔明(しょかつこうめい)は、自分の指示に従わずに敗戦を招いた愛弟子=馬謖を、軍律に従い、涙を呑んで処刑しましたよね(くわしくは調べてね)

賞罰は一体・・・それくらいしないと大勢の武士を統率する事はできません。

・・・と、話が少し横道にそれましたが、とにかく、こうして、ず~っとその存在を疑われていた勘助さん・・・昭和の時代になって朗報が舞い込んできます。

昭和四十四年(1969年)・・・当時人気を博していたNHK大河ドラマ「天と地と」を見ていた北海道釧路市に住む人が、番組に触発されて、信濃国(長野県)の豪族だったと伝わるご先祖様伝来の古文書を鑑定に出したところ、それが本物!!

しかも、そこには、山本菅助なる人物が、信玄の書状持って使者として訪れた事が書かれてあったのです。

さらに、平成二十年(2008年)には群馬県山本菅助宛ての書状が3通発見されていて、これまで発見された物を統合すると、この菅助という人物が、信濃や上野方面の情勢をよく知る武田の家臣であるという事までは、確認できるとの事・・・。

ただし、勘助⇔菅助・・・という事で、別人では?という疑問もありますが、その当時はこのような当て字は普通に使われており、同一人物の可能性も完全に否定できる物でもありません。

こうして、最近になって、にわかに実在の人物とされるようになった勘助さんですが、はたして甲陽軍鑑のような活躍をしたかどうかは、更なる史料の発見を待たねばなりません。
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2010年9月 9日 (木)

朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢

 

天文五年(1536年)9月9日、越前朝倉孝景に招かれ、一乗谷の城下・高尾に滞在していた僧・谷野一栢が、明の医学書『八十一難経』を校正して出版しました。

・・・・・・・・

谷野一栢(たんのいっぱく)・・・もともとは奈良の僧で足利学校の出身・・・(みん・中国)への留学経験があり、帰国後は、関東から畿内に本拠を戻して医学の講義などを行い、名声を博したと言います。

「谷野=たにの」と、普通に読む場合もあり、史料によっては「一栢老人(いっぱくろうじん)という名前になってる場合もあります。

いずれにしても、戦国を扱うドラマではお目にかからないお名前・・・まして、「僧だ」「医術だ」とくれば、「ややこしいなぁ」と、ついつい敬遠しがちですが、この人が、越前(福井県)の戦国大名・朝倉孝景(あさくらたかかげ・10代宗淳)の軍師だ!と聞くと、がぜん、興味が湧いてきませんか?

ただし、かなり謎の多い人物です。

・・・というより、史料的な物がほとんどなく、彼の足跡と言えば、本人が執筆したと見られる医学書などの著書や、後継者に伝えた知識などで、どこで何をしたという話をあまり聞く事もなく、はっきり言って生年&没年もわかりません。

ただ、永正年間(1504年~20年)に京都へ移転した際には、「易の大家がやってくる!」都でも大評判になったという事なので、この頃には、すでにかなりの有名人になっていたのでしょう。

そんな一栢さんを、「ぜひ!わが国へ・・・」と招いたのが越前の朝倉氏・・・

その求めに応じて、享禄二年(1529年)には、確実に越前に移住していたとみられ、そこで、日食や月食の日時を算出してみせたと言います。

また、当時、この越前に身を寄せていた足利義昭(よしあき)と、全国ネットを狙う織田信長会見の日取りを決めたのも一栢さんだとされています。

おそらくは、合戦の吉凶や、攻める方角の決定なども彼の役割だったでしょうから、やはり軍師という事になるのでしょう。

このように・・・
陰陽師か??と思うほどの易学・天文学の知識を持ちながらも、大陸で医学の知識を身につけていた一栢さん・・・

京都にいる頃にすでに『俗解難経抄(ぞくなんかいげしょう)なる医学書を書写して校正を加えた物を世に送り出していますが、越前に滞在中の天文五年(1536年)9月9日に完成したのが、明の医学書『八十一難経』です。

この「難」というのは、ご存じの通り「困難=難しい」の難ですが、この場合は、「理解が困難な事=むずかしい内容」という意味の難で、つまりは「奥義(おうぎ)という意味で使われています。

そんな奥義が81個も・・・( ̄○ ̄;)!
とにかく、その意味や内容についての解説書が現在でも出版されているシロモノなので、そう簡単には読み解ける物ではありませんが、耳や鼻の役割といった基礎的な物から、脈をとっての診断や各病気の対処法など、様々な奥義が記載されているようです。

この『八十一難経』の出版は、日本で刊行された医学書としては2冊目・・・戦国大名が関わった物としては初めてでした。

さらに一栢は、『韻鏡聞書(いんきょうききがき)なる図解つきの医学書も執筆していますが、一方では、その知識や技術を後世に伝えるという事にも重きを置いていました。

養子の玉雲軒(ぎょくうんけん)には、直接その奥義を伝授し、先の『八十一難経』などは、多くの人に惜しみなく頒布しています。

それもこれも、彼の理念=「国を医(いや)し、民を救う」・・・ただ一つに徹した姿でした。

・・・と、ここまで書けば
吉凶を占い健康管理する「陰陽師+医者」といった感じ???
と、思えますが、孝景が彼を重用したのには、もう一つ、ワケがあります。

それは、一栢の交友関係・・・

最初のほうに、「京都に移転して時は都でも大評判」と書かせていただきましたが、都で大評判という事は、すでに、いっぱしの文化人として認められ、一目おかれていたわけですから、当然、彼のもとを訪ねてくる公家や有名人も多くいたわけです。

それは、越前という場所に引っ越しても変わりなく・・・清原宣堅(のぶかた)三条西実隆(さんじょうにしさねたか)をはじめ、他にも多くの公家や文化人が、彼に会うために越前を訪れています。

「越前にいながらにして京都の様子がわかる」・・・ひょっとしたら、孝景にとっては、これが最も重要だったかも知れません。

おそらく、そこのところは一栢もお見通しで、彼ら公家を通じて得た情報は、しっかりと主君に報告していた事でしょう。

そして、その情報は、孝景の軍事面・外交面で大いに活用されたに違いありません。

情報収集しながら吉凶を占う軍医・・・

おそらくは一度の合戦経験もない一栢さんですが、軍事の作戦を練るだけが軍師ではありません。

こうして、主君を影で支えるも軍師・・・なんでもできないと軍師にはなれません。
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2010年9月 8日 (水)

忠臣・渡辺豹吉の大芝居~会津・飯寺の戦い

慶応四年(明治元年・1868年)9月8日、会津飯寺の戦いにて奮戦していた山本義路ら主従が、新政府軍に投降しました。

・・・・・・・・・

山本義路(よしみち・帯刀)は、代々長岡藩の上席家老を務める山本家に、8歳の時に養子に入り、その後、家督を継いで、戊辰戦争当時は、彼自身も家老職にありました。

あの河井継之助(かわいつぎのすけ)(8月16日参照>>)が指揮した北越戊辰戦争では、その右腕となって活躍し、わずか24歳ながら大隊長を務めておりました。

長岡城が2度目の落城(7月29日参照>>)とあいなった時には、継之助ともども会津へと亡命する八十里越えで、その殿(しんがり・撤退の最後尾)を見事に勤め上げ、継之助が亡くなった後も、その遺志を継いで会津にて転戦していたのです。

すでに風前の灯となっている会津若松城(8月29日参照>>)とは、もはや連絡もとれなくなっていた慶応四年(明治元年・1868年)9月8日・・・元号が明治へと変わった(2006年9月8日参照>>)まさにその日、義路らは、同じく城外で転戦していた会津藩兵と連絡をとり、城下の南西2kmほどに位置する飯寺(にいでら)に駐屯する宇都宮藩兵を挟み撃ちすべく奮戦していたのです。

ところが、いつしか濃霧の中に迷い込み、会津藩兵は撤退・・・義路ら主従は取り残され、周囲を新政府軍に囲まれてしまいました。

彼らは、わずかに13名・・・もう、投降するしかありませんでした。

この13名の中には、山本家の家来で(ろく)100石を受けていた渡辺豹吉(ひょうきち)なる人物の姿も・・・彼は、義路より3歳年上の27歳で、二人の関係はすこぶる濃い物でありました。

幼い頃から、ともに藩校・崇徳館(そうとくかん)に通い、私塾にも一緒に入学し、ともに武芸に励んだ幼なじみ・・・主従よりもっと強い信頼関係で結ばれていたのです。

投降して間もなくの事・・・新政府軍・軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命令により、彼ら2名以外は即刻斬首され、二人は飯寺村の共同墓地近くの本光寺境内の庭木に縛りつけられ、一夜を過ごす事となります。

この時、彼らを監視していた宇都宮藩兵の記録によれば・・・
「夜ともなれば急激な寒さとなる会津の旧9月にて、樹木にきびしく縛りつけられながらも、従兵(豹吉の事)は、自分の体にかけられていた蓆(むしろ)を足でひきずりおろして主にかけてやり、やがて来るであろう最期の時を思い、お互いに信頼と慰めの眼差しを交わしていた」
との事・・・

新政府軍が、義路ら二人だけを斬首しなかったのは、ひとえに義路の武勇伝を聞いての事・・・つまり、殺すに惜しい人物と判断して、新政府軍への加入を促するためだったのです。

夜が明けて、その事を知った義路・・・当然の事ながら、新政府軍に加わる気など、はなからありませんから、
「諸侯からは、戦えとは言われたが降伏せよとは言われていない」
と、その誘いを断ります。

そうなると、待っているのは斬首のみ・・・

露払いの意味を込めて、まずは家来の豹吉が斬首される事になりますが、ここで、彼の態度が一変します。

「ちょっと、待っておくなはれ~
ワテは、実は武士ではおませんのや・・・たまたま、今回、配下についた下男奉公の者で、取るに足らん人間です。
命だけはお助けを~~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」

それこそ、女々しさいっぱいに涙を流して、いかにも弱々しく情けない姿に、思わず苦笑いの処刑人・・・「こんなだらしない男は、どーでもいいや」とばかりに、豹吉より先に義路を斬首したのです。

遺体を前に合掌した豹吉は、その後始末を願い出ます。

ところが、すべての後始末を終えた豹吉・・・再び態度が豹変します。

「先ほどは失礼つかまつった」
その言葉も、立派な武士の口調に変貌し、
「故郷を出る時、主君の最期をしっかりと見届けると誓い申したゆえ、先に逝っては、その約束が果たせませぬ・・・しかし、今やすべてが終わりました。
こうなれば、一刻も早く主人の元に馳せ参じたいので、すみやかに斬ってもらいたい」

実は、この戊辰戦争で朝敵となった彼ら・・・賊徒となった彼らの遺体を手厚く葬る事は、反政府行為とされ、戦死者の遺体は野ざらしにされたままだったのです。

長岡から会津へ転戦を続けていた豹吉は、それらの悲しい現実を目の当たりにし、せめて主君の最期を見届け、後始末をしてから供に逝きたいと、一世一代の大芝居による命乞いだったのです。

もちろん、その最期は自ら首をさしのべ、一点の曇りもない見事な姿だったとか・・・

「渡辺の勇ましさは武士の標本と見るべきである」
新政府軍からも、このような言葉が投げかけられたと言います。

女々しく泣き崩れる姿が最も勇ましい・・・これも、戊辰戦争の一つのドラマです。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは余談になりますが・・・
この豹吉さんには、廉吉(れんきち)という弟がいました。

ご存じのように、維新を迎えた旧長岡藩は、斗南(となみ)と名を変えた会津同様、朝敵となった者の生き残りとして、その生活は困窮を極める物でありましたが、あの米百俵の精神(8月24日参照>>)で知られる藩の方針にも助けられ、もちろん本人の努力もあり、やがて廉吉は、開成学校(東大の前身)を経て文部省に入省します。

その優秀さから、伊藤博文秘書官になり、貴族議員もこなし、法学博士となり、最終的には行政裁判所部長にまで上りつめた廉吉さん・・・

しかし、ただ一つの心残りは、かの戊辰戦争で敵対した罪により、お家断絶となっていた山本家の事・・・

そう、兄・豹吉が忠誠を尽くした主君の事を、廉吉も忘れてはいなかったのです。

そこで、衰退の一途をたどる山本家に優秀な人材を養子に迎え、何とかお家再興を図ろうとします。

そして、廉吉が目をつけた優秀な人材は・・・

旧長岡藩士・高野貞吉(さだよし)56歳にしてもうけた六男坊でした。

その六男坊は、すでに海軍少佐となっていて将来を有望されていた青年・・・

かくして山本家の養子となった彼は、後の連合艦隊長官山本五十六、その人であります。

・‥…━━━☆

会津戦争における続いてのお話は、若松城への総攻撃が開始される9月14日のページへどうぞ>>
 .
 

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2010年9月 7日 (火)

作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月7日、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍が、真田昌幸幸村父子の籠もる上田城への攻撃を断念しました。

・・・・・・・・・・

関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである第二次上田城の戦い・・・開始された9月2日の日付で、3年前に一度書かせていただいていますが、その時は、戦いに至る経緯が中心になってしまいましたので(2007年9月2日参照>>)、本日は、その攻防戦を中心に、もう一度・・・

*この15年前=天正十三年(1585年)にあった『第一次上田合戦・神川の戦い』についてはコチラのページでどうぞ>>

・‥…━━━☆

徳川家康からの上洛要請を拒否した会津上杉景勝(かげかつ)に対し(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」として会津征伐へと進発した家康・・・

途中、留守となった伏見城石田三成(みつなり)が攻撃(7月19日参照>>)した事を知った家康は、急きょ会津征伐を中止し、西へとUターン(7月25日参照>>)・・・その会津への防御として宇都宮城を次男の結城秀康(ゆうきひでやす)に守らせ、自らは豊臣恩顧の武将を先発隊に東海道を進み(8月11日参照>>)、三男の徳川秀忠には3万8000の兵をつけて中山道を進ませます。

一方、その会津征伐の途中で、三成からの手紙を受け取った真田一家・・・話し合いの末、長男・真田信幸(後の信之)そのまま徳川軍に残り父・真田昌幸と次男・幸村(信繁)は徳川軍から離脱し、本拠地・上田城へと戻ります(7月21日参照>>)

・・・と、そこへ、西に向かう秀忠の軍・・・

これは、もちろん、関ヶ原に照準を合わせた・・・いや、むしろ、東海道を進む家康軍より、こちらこそが関ヶ原に挑む東軍の本隊だったとも言われますが(2011年9月7日参照>>)、その中山道(東山道)を進んだそばにあったのが上田城・・・

Uedazyoukoubousencc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして9月2日小諸城に到着した秀忠は、まずは、すんなりと上田城を明け渡してもらうべ、父&弟と袂を分かち東軍に残った長男・信幸と、その嫁の小松姫(7月25日参照>>)の弟・本多忠政を使いに出します。

早速、城下の国分寺にて、父・昌幸との会見を行った信幸ら・・・
その時の昌幸は・・・
「秀忠公に敵対する気持ちなんか、さらさらないですよって・・・早々に上田城を明け渡すつもりですねんけど、ちょっと掃除したいんで、ほんの少し待っててもらえまっか?」
と・・・

「これは、戦わずして攻略できた!」
と、喜ぶ秀忠ですが、待てど暮らせど、何の音沙汰もありません。

実は、コレ・・・昌幸の時間稼ぎ

しっかりとその間に、籠城の準備を整えた昌幸は、しびれを切らした秀忠が派遣した再びの使者に対して
「そんなもん、豊臣家への忠誠心を曲げられまっかいな!こっちとら、城を枕に討死する覚悟でっせ!」
と、態度を豹変して開城を拒否しました。

当然、怒り心頭の秀忠・・・
「ぶっ潰したる!」とばかりに、5日、上田城の東方2kmにある染屋台に陣取り、信幸を先鋒に、まずは、戸石城を攻めにかかります(関係図・1)

この時、戸石城を守っていたのは、弟・幸村・・・しかし、その幸村は「俺、骨肉の争いしたないねん」と、兄・信幸と戦う前に城を後に(関係図・2)、信幸は、すんなりと戸石城をゲット!

士気あがる秀忠軍は、翌・6日に、城周辺の稲を刈る「青田刈り攻撃」に出ます。

この青田刈り・・・籠城する敵の兵糧を減らす一方で、自分とこの兵糧を増やせるという効果はもちろん、籠っている敵を挑発し、おびき出すための作戦でもありました。

案の定、「そうはさせじ!」と、城から出てきた足軽たちに、一斉に発砲する徳川軍・・・散り々々に逃げる城兵を追って、徳川方の牧野康成の配下が、思わず奥へと踏み込めば(関係図・3)、待ってました!とばかりに、真田の伏兵が現れ、側面から攻撃(関係図・5)・・・

「すわ!徳川危うし!」
とばかりに、秀忠の旗本衆も、主君の指示を待たずに攻撃を開始・・・すると、城兵は弱々しく撤退・・・

実は、これは、完全に真田の手の内・・・3万8000の大軍を相手に、わずか2500で籠城するための、練りに練った作戦でした。

江戸中期に成立した徳川方の記録『列祖成蹟(れっそせいせき)によれば・・・

「チョロチョロと偵察に出て、徳川勢をおびき寄せておいてから、城内より合図の狼煙(のろし)を上げ、北東の虚空蔵山(こくぞうやま)に隠れていた幸村勢が林より飛び出して、背後から徳川勢に襲いかかると(関係図・6)、城を目前にしていた兵の足並みが乱れ、進むべきか?退くべきか?悩んでいるところへ、いきなり大手門が開き、一斉に銃撃を浴びせられた」
と・・・

混乱する徳川勢は、われ先に退きはじめ、神川(かんがわ)に押し寄せます(関係図・4)

川が人と馬で埋まったのを見計らって、今度は、川を止めていた(せき)を切って落とすと、またたく間に川が増水し、溺死者が膨大な数に・・・

・・・で、結局、慶長五年(1600年)9月7日秀忠は上田城への攻撃を断念・・・9日には、兵を小諸まで撤退させたのです。

それでも、まだ、本多正信「西へ急ぐべき」の意見に、戸田一西(かずあき)「あくまで上田城攻略をしてから…」と反論したり、あの戦場での牧野康成の先走りを「軍令違反」と正信が罵ったりと、ゴチャゴチャやっていた秀忠軍でしたが、そこに家康からの「はよ、来んかい!」の使者が(そりゃそうです…3年前の同じ日付で書かせていただいているページでは、7日に、もう西軍主力は関ヶ原の南宮山に布陣してます・参照>>到着するに至って、翌・10日、小諸を出立し、一路、中山道を急ぐ事になりますが、ご存じのように、この秀忠軍・・・肝心の関ヶ原に間に合いませんでした。

思えば、あの弱腰の戸石城の明け渡しも、チョロチョロと出てきてはすぐに逃げる城兵も、すべてが、上田の地形と、敵の心理を知り尽くした智将・昌幸の計算通り・・・

そう、この上田城攻防戦・・・籠る昌幸から見れば、勝つための戦いではありません。

その目的は、ただ一つ・・・総大将=秀忠を関ヶ原に行かせない事・・・結果としては引き分けとなる上田城攻防戦ですが、そういう意味では、100%目的を達成した真田の大勝利と言えるかも知れません。

さて、一方、本隊である秀忠軍不在のまま、関ヶ原に突入する事になった家康さん・・・この先の関ヶ原でのあんな事、こんな事は、【関ヶ原の合戦の年表】>>で・・・
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2010年9月 6日 (月)

調子に乗って反逆罪?…バサラしすぎた土岐頼遠

 

興国三年(康永元年・1342年)9月6日、美濃の守護・土岐頼遠が、光厳上皇の行列に遭遇し、トラブルを起こしました。

・・・・・・・・・・

南北朝という時代は、多くの婆沙羅(バサラ)大名を輩出した時代でもあります。

有名なところでは、あの建武の新政(6月6日参照>>)実現の立役者でもある高師直(こうのもろなお)佐々木道誉(どうよ)など・・・その道誉さんのご乱行のところ(10月12日参照>>)でも書かせていただきましたが、この婆沙羅=バサラとは、サンスクリット語ダイヤモンドの事・・・。

そのダイヤモンド゙が、すべての石を砕くほど突出して固い事から、「他を逸脱する=調子はずれ・ケタはずれ」のような意味で、舞楽用語として用いられていた物が、いつしか、行動がケタはずれな人を指すようになったのだと言われています。

・・・で、この時代の婆沙羅大名とは、とにかく派手な服装をして、する事も派手で、古い権威にとらわれず、自由奔放な生き方をしていた大名の事を言います。

今回の主役・土岐頼遠(ときよりとう)さんも、そんな南北朝時代の婆沙羅大名の一人・・・

彼の生まれた土岐氏は、清和源氏の流れを汲む名門で、平安時代の末期に美濃(岐阜県)土岐群に土着した事から土岐氏を名乗るようになりました。

鎌倉時代に力をつけた土岐氏は、南北朝時代の第4代当主・土岐頼貞(よりさだ)が、北朝の足利尊氏(たかうじ)従って歴戦し、美濃の守護となりました。

頼遠さんは、この頼貞の6男・・・彼もまた、父とともに戦場へと赴き、よく戦いました。

特に有名なのは、歴応元年(建武五年・1338年)の美濃青野原(大垣市)の戦いです。

この時、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)のもとへと馳せ参じるため、東北の軍勢・数十万を率いて、京へ攻め上る北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、足利軍を破って鎌倉を奪った後、ここ美濃へと差し掛かったのですが、あまりの大軍であるため、周囲の味方は「敵が疲れるのを待とう」と、一旦やり過ごす作戦に・・・

そこを頼遠は、
「敵が大軍で手強いからって、自分の領地を堂々と通っていくのを、黙って見過ごせるかい!
俺は、この戦いに命賭けるでぇ!」

そう、婆沙羅大名というのは、なにも、派手な格好をして、好き勝手にやってるだけではありません。

こういう時にも、常識にとらわれず、勇猛果敢にアタックしていくのも彼らの特徴です。

やがて、近づいてくる北畠軍・約6万・・・対する頼遠は、わずか1000。

それでも頼遠は、怯む事無く仕掛けていきます。

・・・とは言え、さすがに多勢に無勢・・・約1時間後には700騎ほどになってしまいます。

しかし、なおも
「最後の1騎になっても、引くな!」
と、勇ましく突き進みますが、ついに23騎となったところで、頼遠自身も手傷を負い、最終的に、わずか3騎となって退却を余儀なくされたのです。

結局は負けてしまった、この戦いですが、これに疲れた北畠軍は、最終的に入京できなかったわけで、ここで、頼遠の名声は一気に高まります。

『難太平記』でも
「青野ガ原ノ軍ハ 土岐頼遠一人高名ト聞エシ也」
と、ベタ褒めです。

この翌年には、亡くなった父・頼貞の後を継いで、彼は美濃国の守護となりました。

しかし、派手好きな、はみ出し者の婆沙羅・・・だいたいその性格も想像できますが、「強い」と評判になればなるほど、調子に乗ってしまうのも、彼ら婆沙羅の悪いクセ・・・

かくして興国三年(康永元年・1342年)9月6日・・・とうとう、調子に乗りすぎて、事件を起こしてしまうのです。

その日は、京都は比叡の馬場で、二階堂行春(にかいどうつきはる)という人物と笠懸け(馬で駆けながら矢で笠の的を射る訓練兼遊び)をした帰り道の夜・・・樋口東洞院(ひがしのとういん)の辻で、光厳(こうごん)上皇行列に遭遇しました。

二階堂はすぐに行列に気付き、下馬してかしこまったのですが、頼遠は、かなりお酒に酔っていたせいもあり、礼もとらず、行列に立ちはだかります。

行列の先頭の者が慌てて駆けより・・・
「どこの田舎者であるか!・・・(光厳上皇の事)の行幸(ぎょうこう・天皇家の人のお出かけ)であるぞよ」

ところが頼遠は、かしこまるどころか、カラカラと笑って、
「何?、と言うたか?・・・それともと言うたんか?
そ~かぁ・・・犬なら射落としてやろう!」

と、言うが早いか、数十人で牛車の周りをとり囲み、犬追物(いぬおうもの・馬で駆けながら矢で犬を的にして追いこむ)に見立てて、さんざんに矢を射かけたのです。

ひととおり矢を射かけたら気がすんだとみて、その場を立ち去った頼遠・・・

しかし、酔いが覚めて、ふと、我に返ると・・・
「どえらい事をしてしもた~ヾ(*゚A`)ノ

いくら頼遠が有能な武将であったとしても、いくら相手にケガもなかったおふざけとは言え、上皇の・・・まして、北朝側の光厳上皇への乱暴狼藉。

あまりの事に怖くなった頼遠は、そのまま、許可も得ずに、そそくさと美濃へ逃げ帰りますが、これがまた、都では、「謀反を起こすんじゃないか」との噂の種になってしまいます。

さすがに、室町幕府を相手にするほどの兵力を持ち合わせていない頼遠は、結局、11月の終わりになって、友人の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)を頼って逃げ込み、彼を通じて命乞いをはかりますが、もはや後の祭り・・・

なんたって、三種の神器を手に正統性を主張する南朝に対して、コチラ北朝は、その光厳上皇を初代とする天皇家の血筋のみが頼り・・・頼遠の行為は、その天皇家の正統性をも否定しかねない行為ですから、ひいては室町幕府の正統性をも傷つける行為なのです。

そこはキッチリおとしまえをつけておかないと、北朝のメンツも立ちません。

結局、捕えられた頼遠は、その年の12月1日、六条河原にて斬首されたのでした。

ただ一つの救いは、本来ならば土岐氏そのものが罰せられる行為であるにも関わらず、その罪は頼遠一人の物とし、お家が断絶させられる事なく、甥の土岐頼康(ときよりやす)が家督を継いで、そのまま美濃の守護を務めた事・・・

それこそが、いかに頼遠が優秀な武将で、本当なら幕府にとって必要な人材であったかを物語ってるとも言えますが、たとえどんなに優秀でも、飲みすぎ、やりすぎ、調子乗りすぎはいけません

くれぐれもご注意を・・・
 .

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2010年9月 4日 (土)

今夏最後の怪談話…九戸政実~怨みます!

 

天正十九年(1591年)9月4日、九戸政実が寄せ手の豊臣秀吉配下の総奉行・浅野長政の扱いで降伏・・・九戸城を明け渡しました。

・・・・・・・・・

2007年の9月4日にも書かせていただいた九戸(くのへ)の乱ですので、いかにして九戸城が豊臣軍に包囲される事になったか?のくわしい経緯は、そちらでご覧いただくとして(2007年9月4日を見る>>)、とりあえず、ごくごく簡単に紹介させていただきますと・・・

小田原征伐の後、その矛先を東北へ向けて奥州仕置を開始する豊臣秀吉ですが、その小田原征伐にいち早く駆けつけた南部信直(なんぶのぶなお)は、すでに秀吉の保護を受けておりました。

しかし、もともと、南部家の家督争いに不満を持っていた重臣の九戸政実(くのへまさざね)は、「俺が南部家の当主だ!」と言わんばかりに反乱・・・乱を鎮圧できない信直が、秀吉に加勢を頼んだというわけです。

・・・で、最終的に6万という大軍に囲まれた九戸城は、天正十九年(1591年)の今日、開城して降伏・・・捕えられた城主の政実は、この半月後の9月20日斬首されますが、その時は、すでに死を覚悟し、慌てふためる事もなく、勇猛な武士らしい落ち着いた死に様であったと伝えられます。

ところが、一方では、この九戸城の開城は、完全なる謀略で、騙されたと知った政実は、鬼の形相で亡くなったという話もあります。

本日は、その後者のお話・・・政実の怨み節を、とくと・・・

・‥…━━━☆

蒲生氏郷(がもううじさと)浅野長政らに囲まれながらも、大軍ゆえの小回りのきかない部分をゲリラ戦法で翻弄する九戸の兵によって、城はなかなか落ちませんでした。

・・・とは言え、すでに囲まれている以上、永遠に籠城を続ける事も不可能っちゃぁ、不可能です。

そんな不安がよぎる頃、政実の親戚でもあり、城下の菩提寺の僧でもある人物が使者として城を訪れます。

「相手は、降伏を求めています・・・ただし、さすがに無条件というわけにはいきません。
政実殿が京へとおもむき、太閤殿下への釈明をせよという事だそうです。
これは、浅野殿、蒲生殿が責任をもって、とりなしていただけるとの事・・・」

少し考えた政実は、
「そうか・・・で、城内の者たちは助けてもらえるんか?」

「もちろん、全員残らず助けていただけるでしょう」

天然の要害を誇る九戸城・・・
ゲリラ戦で大軍を翻弄する痛快さ・・・
女子供や老人も含めての、わずか5000という城兵ながら、その士気は、まったく衰えていません。

しかし、ここで耐えてもどうなる物でもなく、負けはしないかも知れない代わりに、勝つ方法も見い出せません。

いよいよ政実は、最後の軍議を開き、配下の皆々に、降伏の意思を告げました。

そこに待った!をかけたのが弟の実親(さねちか)・・・
「たかが数千の我が軍に、天下人が手を焼いてるんですよ!
開城したとて、すんなり収まるワケはありません・・・これは謀略に違いないです!」

「お前の心配もわかるけど、豊臣屈指の名将がとりなすと言うてくれてる・・・こっちも兵糧が無くなりつつあるけど、向こうかて無くなりかけやと思うから、ここら手打ちたいんやと思う。
こっちから折れたら、あっちの顔も立つし、九戸の家のためにも、ここは引こう」

その後、何度も実親は説得しますが、もはや決意の固まっている政実の心が変わる事はありませんでした。

覚悟を決めた政実は、息子・亀千代水杯(みずさかずき)を交わした後、子供を先ほどの僧に託し、天正十九年(1591年)9月4日、数名の近臣を従えて、九戸城の門を出たのです。

目の前に立つは勇将・浅野長政・・・
「この度のご決断・・・まことに見事であります。では、こちらへ・・・」
と、政実一人を配下の者に預け、供の者には、しばらく別の場所で待つように指示すると、すかさず、合図を送ったのです。

すると蒲生氏郷が・・・
「さぁ、突っ込め!ネズミ一匹たりとも逃がすなよ!」

その号令とともに、大軍が一気に城内になだれ込みます。

予想だにしなかった攻撃に慌てふためく九戸の城兵・・・
驚きのあまり、声も出せない女子供たち・・・
それらを容赦なく斬り倒しながら、奥へ奥へと進む大軍・・・

いつしか城には火が放たれ、彼らの断末魔の叫びは炎の中へと消えていきます。

「おのれ・・・謀りおったな!」
と、振りかえった政実の目に映るのは、黒煙を上げて崩れ落ちる愛すべき九戸の城・・・

(この物語では…)その日のうちに斬り殺された政実の首は、やがて京へと送られてさらされますが、その形相はすざまじく、見た者が皆、深い怨みを感じずにはいられないものだったとか・・・

こうして終わりを告げた九戸の乱・・・

政実亡きあとの九戸城には、あの信直が入りますが、やはり、奪い取った状況が状況だったのか、慶長二年(1597年)に新しく築城された盛岡城へと拠点を移し、この九戸城は廃城となりました。

それから何年か経った頃から、夏も終わりに近づくと、南部藩の城下では奇妙な噂が立つようになります。

「お前、聞いたか?」
「おぉ・・・九戸城の事やろ?」
「青白い炎の中、鎧兜の侍が、あっちでもこっちでも歩きまわって、苦しげな叫び声をあげてるらしい」
「見た者は、3日3晩うなされて、死んでしまうらしいゾ」

そう、噂では、毎年9月4日・・・亡霊たちによって、あの日の地獄絵図が再現されるというのです。

弓矢で射られた武者が立ちすくみ、炎に焼かれた女子供が逃げ惑う・・・その横には、京都でさらされた政実のの首が、鬼の形相のまま、無念の叫び声をあげるのです。

このお話は、徳川の天下泰平の世になっても、絶える事なく、語り継がれいったのだとか・・・

ウアォ!((゜Д゜Uu))
 .

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2010年9月 3日 (金)

南北朝時代の前ぶれ?皇位の綱引き・伏見天皇

 

文保元年(1317年)9月3日、第92代・伏見天皇が53歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

第89代・後深草天皇第1皇子(第2とも)として生まれた伏見天皇は、第91代・後宇多天皇の時代に皇太子となり、その退位を受けた弘安十年(1287年)に23歳で即位しました。

この伏見天皇が持明院殿に住んでいたので、この伏見天皇の系列を持明院統(じみょういんとう)と言います。

ちなみに、先代の後宇多天皇は、その父である第90代・亀山天皇とともに大覚寺に住んでいたので大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれます。

Nanbokutyoukeizu2cc ・・・で、この89代の後深草さんと90代の亀山さんは、同じ第88代・後嵯峨天皇を父に持つ兄弟・・・つまり、兄の系列が持明院統で、弟の系列が大覚寺統というわけですが、実は、これが、あの南北朝の火種となるのです。

というのも、系図を見ていただければ、おわかりのように、後深草さんが亀山さんへと、兄から弟に皇位譲ったにも関わらず、亀山さんは、わが息子・後宇多天皇に皇位を譲っちゃいます。

当然の事ながら、後深草さんの息子である伏見天皇にとっては、「オイオイ…それって、もともと俺の座る椅子ちゃうんかい!」って事になるわけです。

・・・で、冒頭に書いた通り、24歳で皇位についた伏見天皇は、早速、仕返しとばかりに、即位から1年後には、自分の息子・胤仁親王(たねひとしんのう・後の後伏見天皇)を皇太子に立てるのです。

もう、ここらへんで争いの臭いプンプンですが、案の定、即位から3年後の正応三年(1290年)、甲斐・小笠原の一族である浅原為頼(ためより)らによる「天皇暗殺未遂事件」が起ります。

その日、為頼率いる数人の武士が宮中に乱入して伏見天皇に襲いかかりますが、天皇も皇太子も女官たちに助けられて難を逃れ、暗殺に失敗した為頼らは、そのまま、夜の御殿で自害したという事件・・・

もちろん、関与した犯人が全員亡くなってしまっているため、その動機がわからず、事件直後は、先の弘安八年(1285年)に起こった騒動で、鎌倉幕府の執権である北条氏に領地を没収された事への恨みと思われていましたが、後になって、三条実盛という公家の関与が発覚し、亀山上皇が裏で画策していたのでは?との疑いが浮上するのです。

結局、亀山上皇らが、「事件には無関係である」という誓紙を幕府に提出し、一件落着となりますが、お互いの確執が強まった感がぬぐえない事件でした。

とは言え、この伏見天皇は、意外にも積極的に宮中制度の改革を行っています。

訴訟機構を一新して記録所の充実に力を注ぐとともに、朝廷の権威の復権にも取り組みます。

中でも、皇位継承に口を出す鎌倉幕府には強い主張を貫き、一時は倒幕を画策しているとの噂も立つほど・・・おかげで、天皇の歌の師匠である京極為兼(きょうごくためかね)が、大した罪もないのに、佐渡と土佐の2度に渡って配流されるという憂き目に・・・

これは、幕府に異を唱える伏見天皇の身代わりの配流だと考えられています。

永仁六年(1298年)、伏見天皇は、皇太子である息子・胤仁親王に皇位を譲り、即位した第93代・後伏見天皇のもと、自らは上皇となって院政をとりますが、3年後の正安三年(1301年)には、大覚寺統が勢力を取り戻し、第94代は大覚寺統の後二条天皇が即位・・・しかし、そのまた7年後には、伏見上皇の第4皇子花園天皇が即位して、再び院政復活!

・・・と、ここらあたりは、「こっち、によこせ!」「いや、こっちだ!」と完全に皇位の綱引き状態・・・

この状態のまま、文保元年(1317年)9月3日伏見天皇は53歳で崩御されますが、この綱引きに終止符を打ったのが、花園天皇の次に即位した第96代の後醍醐(ごだいご)天皇・・・

足利尊氏らとともに後醍醐天皇が倒幕に成功した事で(5月22日参照>>)、この綱引きは一旦終わり、もはや伏見天皇の子孫=持明院統の復権は不可能かと思われましたが、結局、その後醍醐天皇に尊氏が反旗をひるがえした事によって、再び担ぎあげられる事となり、あの南北朝となるのです。
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南北朝時代のお話は、本日の内容(系図)と重複する部分もありますが、よろしければ10月27日【南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち】でどうぞ>>
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2010年9月 2日 (木)

アンケート企画「戦国の幕を引いたのは?」

 

先日は、【あなたが思う戦国の幕開けは?】>>アンケート投票にご協力ありがとうございましたo(_ _)oペコッ

本日は、その続編とも言うべき新アンケート企画です。

そう、開けたら閉める・・・題して
【あなたが思う戦国の幕を引いたのは?】

幕開け同様、何を以って戦国の終わりとするかは様々・・・

例のごとく、関連するページとともに、一応、私が思う選択技をいくつか出しておきますので、「これだ!」と思うところに一票を・・・
 

 

  • 足利義昭を奉じての織田信長上洛
    永禄十一年(1568年)>>
    なんだかんだで群雄割拠を抑えたのは信長・・・将軍さえ追われる状態の京都を制して戦国の幕を引いた?
     
  • 織田信長による足利義昭の京都追放
    天正元年(1573年)>>
    織田信長が足利義昭の籠る宇治・槇島(まきしま)城を攻撃、そして将軍が京都から追放される・・・教科書等では、ここで室町幕府滅亡となってますが、どうでしょう?
     
  • 秀吉が太政大臣となり豊臣の姓を賜る
    天正十四年(1586年)>>
    「源平藤橘」に続く貴種を獲得・・・「羽柴関白太政大臣豊臣朝臣秀吉」の名は天下統一の証か?
     
  • 足利義昭が出家して将軍職を返上
    天正十六年(1588年)>>
    将軍職とは天皇から任命されるもの・・・なんだかんで、ここまで義昭が15代将軍で、将軍としての慣例的な事務処理は彼がやってました。
    秀吉に請われ、領地1万石と引き換えに将軍職を返上はやっぱ戦国の幕引き?
     
  • 関ヶ原の戦い
    慶長五年(1600年)>>
    ご存じ!天下分け目の関ヶ原・・・秀吉亡き後の覇権争いに終止符を打ったとされるこの戦いは、やっぱ戦国の終焉なのか?
     
  • 徳川家康の征夷大将軍就任
    慶長八年(1603年)>>
    武門の誇り征夷大将軍・・・なんたって室町幕府の将軍に権威がなくなっての戦国なんだから、家康の将軍就任は、新しい時代の幕開け~って事は、戦国の幕は閉じられた?
     
  • 大坂夏の陣で豊臣滅亡
    元和元年(1615年)>>
    将軍になろうが、政権を握ろうが、関白候補の豊臣秀頼がいちゃぁ家康も安心できない・・・豊臣の滅亡は、まさに戦国の幕引き?
     
  • 武家諸法度・禁中並公家諸法度制定
    慶長十八年(1614年)と元和元年(1615年)>>
    武士を管理する「武家諸法度」、天皇家を管理する「禁中並公家諸法度」・・・法律の制定こそ政権確立なら、これが戦国の幕引きか?
     
  • 徳川家光による参勤交代制度の確立
    寛永十二年(1635年)>>
    徳川政権完成の最終段階・・・全国各地の大名を管理できてこそ戦国の終わり・・・大名の妻子をお膝元に置いての定期的な交代は、徳川政権の確立?
     
  • その他
    もちろん、大事な出来事をコロッと忘れている事もあり、「こっちの方が重要だよ」なんて事もあり・・・上記以外の意見もお待ちしております。

追記:
勝手ながら、この投票は9月16日に締め切らせていただきました。

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ご協力ありがとうございましたm(_ _)m
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2010年9月 1日 (水)

関東大震災~大川常吉のチョットいい秘話

 

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を中心とするマグニチュード7.9の巨大地震が起こりました・・・ご存知『関東大震災』です。

・・・・・・・・・・・

・・・と、3年前の今日は、その関東大震災の当時の災害ボランティアについて書かせていただきましたが2007年のページへ>>)、そのページにも書かせていただいたように、飛び交うデマのパニックによって、自然災害ではない悲惨な事件が起こった事も確かです。

「震災の混乱に乗じて、朝鮮人が井戸に毒を入れたり、放火や強盗をして暴れまわっている」というデマです。

他にも、
「今夜、もう一度、地震が来る」
とか、
「富士山が大爆発している」
などのデマも飛び交った事から、不安にかられた人々が暴徒と化し、一斉に朝鮮人を襲撃・・・何千人もの人が犠牲になりました。

しかし、そのような状況の中でも冷静に対処し、朝鮮人の命を守った人もいました。

横浜は鶴見の警察署長大川常吉さんです。

震災後、暴徒化した民衆から追われ、彼の警察署に助けを求めに来た朝鮮人は約300人ほどいたと言います。

最初は、近くの総持寺に彼らを収容していた大川署長でしたが、デマに翻弄された民衆の勢いが頂点に達したため、安全を考慮して警察署内に彼らを保護しました。

それを知った人々は警察署そのものを包囲し、「朝鮮人を殺せ!出せ!」と大騒ぎ・・・その数は1000人以上に膨れ上がっていたとか・・・

やがて、誰からともなく
「朝鮮人に味方する警察署なんて、叩き壊せ!」
という声が上がります。

その声に扇動されるように、今、まさに民衆が襲撃しようとした、その時・・・

覚悟を決めた大川署長は、群衆の前に大きく手を広げて立ちふさがり、大きな声で叫びます。

「そこまで、私の事を信頼できないのなら、この私を殺してから朝鮮人を殺すがいい!」
さらに・・・
「朝鮮人が井戸に毒を入れたというなら、その井戸の水を持って来なさい!
私が、皆の前で飲んでやろう!
もし、私に異常が出たなら、朝鮮人を引き渡そう!
しかし、何もなければ、彼らは私に預けなさい!」

と続けました。

そして、実際に皆の前で、誰かが持ってきた、その井戸水を飲み干したのです。

もちろん、異常などありません。

大川署長の対応に、少し落ち着きを取り戻した民衆は、徐々に引き上げ、ここでは、一人の犠牲者も出すことなく、事態は収まりました。

その後、横浜市内や他の警察署で保護されていた朝鮮人も合わせて、723人となった彼らは、安全のため、神戸の鈴木商店所有の貨物船・華山丸の船内にて、しばらくの間、隔離収容され、また、一部の希望者は神戸へと移送されるなどして無事に過ごしました。

後に、インタビューに答えた大川署長は、
「日本人であろうと、朝鮮人であろうと、人の命には変わりはありません。
警察官の仕事は、人の命を守ること・・・当然の事をしたまでです」

と語ったと言います。

大川署長は昭和十五年(1940年)に63歳でこの世を去りますが、彼のお墓の横には、在日朝鮮人の方たちによる「感謝の碑」が建てられています。

天災は、ある程度、いたし方ありません。

しかし、そこから引き起こされる2次災害は、人の手によって防ぐ事が可能です。

まして、デマによるパニックなど・・・

その点、最近の日本では「災害時の正確な情報」という事が徹底され、被害に遭われた方々も、比較的落ち着いて行動されているように見受けられます。

余談ではありますが、我が家の地デジ対応レコーダーは、以前録画した番組を再生中でも、緊急放送が入ると再生をストップさせ、その緊急放送を行ってるチャンネルに、自動的に画面が切り替わります。

これは、取扱説明書には書いていない機能のようですが、「2度と同じ間違いを起こさないように」という願いが込められているのかも知れません。
 .

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