« 朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢 | トップページ | 初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る »

2010年9月10日 (金)

「山本勘助⇔山本菅助」その実在やいかに?

 

永禄四年(1561年)9月10日は、第4次・川中島の戦いのあった日・・・

すでにご存じのように、この「川中島の戦い」と呼ばれる上杉謙信VS武田信玄の戦いは全部で5回ありますが、この9月10日の4度目の戦いが一番激しく、一般的に「川中島の戦い」とだけ言えば、この4度目の事を指します。

・・・で、このブログでも・・・

  1. 第1次・川中島
    更科八幡の戦い:天文二十二年(1553年)4月22日
    布施の戦い:天文二十二年(1553年)9月1日>
  2. 第2次・川中島
    犀川の戦い:弘治元年(1555年)7月19日>
  3. 第3次・川中島
    上野原の戦い:弘治三年(1557年)8月29日>
  4. 第4次・川中島
    八幡原の戦い:永禄四年(1561年)9月10日>
  5. 第5次・川中島
    塩崎の陣:永禄七年(1564年)8月3日>

と書かせていただき、本日の第4次については上記の定番のお話の他に、否定的な見解【川中島はなかった?(2007年9月10日>>)や、この戦いで討死する信玄の弟【武田信繁について(2008年9月10日>>)など書かせていただいておりますが、今回も、やはり、この第4次の戦いで命を落としたとされる、あの山本勘助について・・・

・‥…━━━☆

もはや有名人の山本勘助さんですから、ほとんどの皆さまがご存じの事とは思いますが、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、この勘助は・・・
諸国の事情にくわしく、優れた戦略能力を持っていた事から、武田信玄に仕えてからわずか数ヶ月足らずで重用されるようになり、数々の戦で戦略をアドバイスする軍師として活躍・・・そのノウハウは武田流兵法の祖となった
と言われています。

Kansuke24syou ただし、この「甲陽軍鑑によれば・・・」っていうのがミソ・・・

そうです・・・山本勘助の名前は、この甲陽軍鑑にしか登場しないのです。

しかも、他には事実であろう事も、たくさん書いてる甲陽軍鑑なのに、この勘助についての記述は脚色性が強く、かなりドラマチックな展開となってます。

川中島の前哨戦とも言える戸石城の攻防戦(9月9日参照>>)なんて、「戸石崩れ」と称されるような負けっぷりでありながら、なにやら勘助のアイデアで一矢報いた的な終わり方・・・

ゆえに、早くからその存在を疑う声が出ていました。

江戸時代に松浦鎮信(しげのぶ)が編集させた『武功雑記(ぶこうざっき)などでは、「甲陽軍鑑は、勘助の子供(子供のいるorいないは、またの機会に…)が書いた偽作である」と推理・・・自分の親の事を、できるだけカッコよく描き、武田の家臣・高坂弾正(だんじょう)の著作と偽って刊行したとの見解を述べています。

明治以降の近代になっても、多くの学者さんたちから、そのつじつまの合わない部分が指摘されていました。

たとえば・・・
甲陽軍鑑では、勘助は、信玄の本名=晴信(はるのぶ)から、その一字を賜って晴幸(はるゆき)と名乗っていたとされていますが、この信玄の晴の字は、もともと、室町幕府第12代将軍・足利義晴(よしはる)から賜った一字・・・それを、そんな風に臣下に与えたりしますかね?という疑問・・・

さらに、勘助が軍師と称されるようになるのは、江戸時代も後半になってからで、軍鑑でも、その身分は足軽隊将なわけですが、他の文献を見ても、この頃の武田家では、他国からの浪人出身の者は、たとえどんなに出世しても、その地位は足軽隊将までが限界で、譜代の家臣とは明確に区別されていたとされていますので、この記述は正しいと考えられます。

ただ、それならそれで、この足軽隊将という身分は、仲立ちの奏者を間に入れなければならない程度の身分で、信玄と直接話しをする事はできなかったはずなのですが、甲陽軍鑑での勘助は、わずか数ヶ月の期間で、信玄と直接話す事ができるようになっています。

もちろん、ドラマのように、軍議に出て合戦のアドバイスをするてな事は、本来、足軽隊将の身分では絶対許されないのです。

それだけ優秀な人で、勘助だけは特別だったんじゃたないの?
とも思えますが、封建社会ドップリの武士の世界で、そのような特別扱いはほぼ皆無だと・・・なぜなら、一つ特別を許してしまうと、信頼関係が破たんし、秩序が乱れ、ルールもクソもあったもんじゃなくなるからです。

裏切るのが常識の戦国時代で、主君と家臣の信頼関係が破たんすれば、とんでもない事になってしまいます。

なので、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」です。
かの諸葛孔明(しょかつこうめい)は、自分の指示に従わずに敗戦を招いた愛弟子=馬謖を、軍律に従い、涙を呑んで処刑しましたよね(くわしくは調べてね)

賞罰は一体・・・それくらいしないと大勢の武士を統率する事はできません。

・・・と、話が少し横道にそれましたが、とにかく、こうして、ず~っとその存在を疑われていた勘助さん・・・昭和の時代になって朗報が舞い込んできます。

昭和四十四年(1969年)・・・当時人気を博していたNHK大河ドラマ「天と地と」を見ていた北海道釧路市に住む人が、番組に触発されて、信濃国(長野県)の豪族だったと伝わるご先祖様伝来の古文書を鑑定に出したところ、それが本物!!

しかも、そこには、山本菅助なる人物が、信玄の書状持って使者として訪れた事が書かれてあったのです。

さらに、平成二十年(2008年)には群馬県山本菅助宛ての書状が3通発見されていて、これまで発見された物を統合すると、この菅助という人物が、信濃や上野方面の情勢をよく知る武田の家臣であるという事までは、確認できるとの事・・・。

ただし、勘助⇔菅助・・・という事で、別人では?という疑問もありますが、その当時はこのような当て字は普通に使われており、同一人物の可能性も完全に否定できる物でもありません。

こうして、最近になって、にわかに実在の人物とされるようになった勘助さんですが、はたして甲陽軍鑑のような活躍をしたかどうかは、更なる史料の発見を待たねばなりません。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢 | トップページ | 初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

最近出た雑誌によると山本勘助には、れっきとした妻子がいたらしいです。妻は2人で、子供は複数。ただし、実在人物かどうか最近まで信憑性がないと言うことで、妻子の存在も「確定」ではないですが。でも実際に妻子がいたとなると、3年前の「風林火山」とはかなり違いますね。

それについては記事が出たら、また確認したいと思います。それとも江戸時代に「甲斐が本籍」の山本性の武士(つまり末裔)がいたんでしょうか?

投稿: えびすこ | 2010年9月10日 (金) 17時05分

えびすこさん、こんにちは~

末裔はどうなんでしょうね?
古文書にはイロイロ書かれているらしくて、中には、一昨日書かせていただいた長岡藩の家老職の山本家が、山本勘助の子孫なんてのもあり、ゆえに「山本五十六は勘助の子孫」と言う人もいますね~

戦略のうまさはご先祖ゆずりだと…ドラマとしては、グンとおもしろくなりますが、残念ながら、一昨日書かせていただいたように五十六さんは養子です(>0<)

投稿: 茶々 | 2010年9月10日 (金) 17時15分

山本勘助ですが、実は存在が疑問視されたのは戦後のことなんですよね。それまでは田中義成などにより『甲陽軍鑑』の史料批判はされたことはありましたが、勘助の実在性そのものを疑問視する見解は、戦後はじめての信玄評伝である奥野高廣『武田信玄』がはじめてであったりします。

詳しくは私のブログに書いたのですが、個人的には勘助=山本菅助でとりあえずは問題ないのではないかと思います。もちろん『甲陽軍鑑』における山本勘助の活躍そのものを史実と考えるわけにはいきませんけど、「市河家文書」「真下家文書」を総合すると信濃方面での活躍、足軽大将的活躍と第四次川中島以降に代替わりと、とりあえず山本勘助に比定しても問題ないのではないかと思います。

というのは、他の武田家臣についても「山本菅助」と同程度の残存文書や根拠で人物比定が行われているので、勘助だけを厳密に疑問視するのもおかしな話であると思うのですよね。

「菅助」子孫の調査で、山本菅助の子孫は永井家に仕官し各地を点々としていることがわかりましたから、「真下家文書」と同様に転封先の各所で好事家が古文書を蒐集している可能性はあると思います。また、高野山の武田家過去帳類にもひょっこり名前が出ているのではないかなぁと思います。

投稿: 黒駒 | 2010年9月11日 (土) 07時56分

黒駒さん、こんにちは~

確かに、坂本龍馬のイメージが現在のようになるのも戦後ですから、「実在が疑問視されるようになるのが戦後」というのもあるかも知れませんね。

ただ、文中にも書かせていただいた「武功雑記」以外にも「常山紀談」など、「甲陽軍鑑」の内容の疑わしさは江戸時代から指摘されているのに、そこにしか登場しない山本勘助の存在を疑問視する事が、戦後までなかったというのは考え難いような気もします。

とりあえずは、決定的な史料の発見に期待したいですね。

投稿: 茶々 | 2010年9月12日 (日) 07時05分

いえ、勘助の実在をはっきり疑問視したのは奥野文献であることは、今年春に山梨県立博物館で開催された「実在した「山本菅助」展において提示されていたもので、確実だと思いますよ。同展の担当は平山優氏ですし。

もちろん、近世に『甲陽軍鑑』の確実性の疑問から勘助の実在性を疑問視した人物はいたかもわかりませんけど。

同展における「菅助」子孫の調査では、少なくとも江戸時代の「山本菅助」子孫は、自家の家祖(初代山本菅助」)を『甲陽軍鑑』の山本勘助と同一視していたようですね。

投稿: 黒駒 | 2010年9月12日 (日) 08時30分

黒駒さん、お早うございます。

確かに、先のコメントにも書かせていただきましたが、山本五十六さんへのつながりも指摘されているくらいですから、現実に「子孫だ」と名乗る人がいれば、その実在は、結構信じられていたのかも知れませんね。

もちろん、子孫は「菅助=勘助」だと思っていらっしゃるでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年9月12日 (日) 09時07分

そういえば、『戦国史研究』で平山さんが「菅助」について発表されてるみたいすね。平山さんは駒井高白斎や今福浄閑斎・長坂釣閑斎についての人物比定の誤りなどを指摘しておられますし、武田家中でもまだまだ人物比定の甘い家臣はいるのではないかと思うのですよね。でも、近年古文書集成の過程で家臣団の実名が確定しましたが、それは実名の確定であって別人の可能性が考えられているわけではないのに、山本勘助だけがどうして存在を疑問視されねばならないのかって、不公平感は感じます。とりあえず同一基準で人物比定をしておいて、疑問があれば個別に論考が発表されればいいのではないかなと思います。

投稿: 黒駒 | 2010年9月14日 (火) 13時56分

黒駒さん、こんばんは~

>山本勘助だけがどうして…

ごもっともだと思いますが、やはり、それは有名税ってものだと思います。

同じ事をやっても、人気のあるタレントと人気のないタレントではマスコミの扱いも全然違います(笑)

人気者はツライです。

投稿: 茶々 | 2010年9月14日 (火) 18時58分

武田家の軍師とされる山本勘助が、実在を疑われたという話は、聞いたことがあります。何しろ勘助は、「甲陽軍鑑」にしか名前が記載されてなかったそうですが、「市河文書」なる手紙が発見された上で、山本菅助という名前が記載されていたことで、実在していた可能性が出てきたというのが、すごいことだと思います。それを踏まえると、勘助は、軍師でなかったとしても、優秀な頭脳の持ち主なのかもしれませんね。

投稿: トト | 2017年1月21日 (土) 09時28分

トトさん、こんばんは~

更なる発見が楽しみですね(*^-^)

投稿: 茶々 | 2017年1月22日 (日) 04時05分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/36647876

この記事へのトラックバック一覧です: 「山本勘助⇔山本菅助」その実在やいかに?:

» 山本菅助と真下家文書 [裏見夜話]
2009年、山梨県立博物館と群馬県安中市のふるさと学習館の共同調査で、安中市個人 [続きを読む]

受信: 2010年9月10日 (金) 15時28分

« 朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢 | トップページ | 初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る »