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2010年9月 7日 (火)

作戦成功!真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月7日、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍が、真田昌幸幸村父子の籠もる上田城への攻撃を断念しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである第二次上田城の戦い・・・開始された9月2日の日付で、3年前に一度書かせていただいていますが、その時は、戦いに至る経緯が中心になってしまいましたので(2007年9月2日参照>>)、本日は、その攻防戦を中心に、もう一度・・・

*この15年前=天正十三年(1585年)にあった『第一次上田合戦・神川の戦い』についてはコチラのページでどうぞ>>

・‥…━━━☆

徳川家康からの上洛要請を拒否した会津上杉景勝(かげかつ)に対し(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」として会津征伐へと進発した家康・・・

途中、留守となった伏見城石田三成(みつなり)が攻撃(7月19日参照>>)した事を知った家康は、急きょ会津征伐を中止し、西へとUターン(7月25日参照>>)・・・その会津への防御として宇都宮城を次男の結城秀康(ゆうきひでやす)に守らせ、自らは豊臣恩顧の武将を先発隊に東海道を進み(8月11日参照>>)、三男の徳川秀忠には3万8000の兵をつけて中山道を進ませます。

一方、その会津征伐の途中で、三成からの手紙を受け取った真田一家・・・話し合いの末、長男・真田信幸(後の信之)そのまま徳川軍に残り父・真田昌幸と次男・幸村(信繁)は徳川軍から離脱し、本拠地・上田城へと戻ります(7月21日参照>>)

・・・と、そこへ、西に向かう秀忠の軍・・・

これは、もちろん、関ヶ原に照準を合わせた・・・いや、むしろ、東海道を進む家康軍より、こちらこそが関ヶ原に挑む東軍の本隊だったとも言われますが(2011年9月7日参照>>)、その中山道(東山道)を進んだそばにあったのが上田城・・・

Uedazyoukoubousencc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして9月2日小諸城に到着した秀忠は、まずは、すんなりと上田城を明け渡してもらうべ、父&弟と袂を分かち東軍に残った長男・信幸と、その嫁の小松姫(7月25日参照>>)の弟・本多忠政を使いに出します。

早速、城下の国分寺にて、父・昌幸との会見を行った信幸ら・・・
その時の昌幸は・・・
「秀忠公に敵対する気持ちなんか、さらさらないですよって・・・早々に上田城を明け渡すつもりですねんけど、ちょっと掃除したいんで、ほんの少し待っててもらえまっか?」
と・・・

「これは、戦わずして攻略できた!」
と、喜ぶ秀忠ですが、待てど暮らせど、何の音沙汰もありません。

実は、コレ・・・昌幸の時間稼ぎ

しっかりとその間に、籠城の準備を整えた昌幸は、しびれを切らした秀忠が派遣した再びの使者に対して
「そんなもん、豊臣家への忠誠心を曲げられまっかいな!こっちとら、城を枕に討死する覚悟でっせ!」
と、態度を豹変して開城を拒否しました。

当然、怒り心頭の秀忠・・・
「ぶっ潰したる!」とばかりに、5日、上田城の東方2kmにある染屋台に陣取り、信幸を先鋒に、まずは、戸石城を攻めにかかります(関係図・1)

この時、戸石城を守っていたのは、弟・幸村・・・しかし、その幸村は「俺、骨肉の争いしたないねん」と、兄・信幸と戦う前に城を後に(関係図・2)、信幸は、すんなりと戸石城をゲット!

士気あがる秀忠軍は、翌・6日に、城周辺の稲を刈る「青田刈り攻撃」に出ます。

この青田刈り・・・籠城する敵の兵糧を減らす一方で、自分とこの兵糧を増やせるという効果はもちろん、籠っている敵を挑発し、おびき出すための作戦でもありました。

案の定、「そうはさせじ!」と、城から出てきた足軽たちに、一斉に発砲する徳川軍・・・散り々々に逃げる城兵を追って、徳川方の牧野康成の配下が、思わず奥へと踏み込めば(関係図・3)、待ってました!とばかりに、真田の伏兵が現れ、側面から攻撃(関係図・5)・・・

「すわ!徳川危うし!」
とばかりに、秀忠の旗本衆も、主君の指示を待たずに攻撃を開始・・・すると、城兵は弱々しく撤退・・・

実は、これは、完全に真田の手の内・・・3万8000の大軍を相手に、わずか2500で籠城するための、練りに練った作戦でした。

江戸中期に成立した徳川方の記録『列祖成蹟(れっそせいせき)によれば・・・

「チョロチョロと偵察に出て、徳川勢をおびき寄せておいてから、城内より合図の狼煙(のろし)を上げ、北東の虚空蔵山(こくぞうやま)に隠れていた幸村勢が林より飛び出して、背後から徳川勢に襲いかかると(関係図・6)、城を目前にしていた兵の足並みが乱れ、進むべきか?退くべきか?悩んでいるところへ、いきなり大手門が開き、一斉に銃撃を浴びせられた」
と・・・

混乱する徳川勢は、われ先に退きはじめ、神川(かんがわ)に押し寄せます(関係図・4)

川が人と馬で埋まったのを見計らって、今度は、川を止めていた(せき)を切って落とすと、またたく間に川が増水し、溺死者が膨大な数に・・・

・・・で、結局、慶長五年(1600年)9月7日秀忠は上田城への攻撃を断念・・・9日には、兵を小諸まで撤退させたのです。

それでも、まだ、本多正信「西へ急ぐべき」の意見に、戸田一西(かずあき)「あくまで上田城攻略をしてから…」と反論したり、あの戦場での牧野康成の先走りを「軍令違反」と正信が罵ったりと、ゴチャゴチャやっていた秀忠軍でしたが、そこに家康からの「はよ、来んかい!」の使者が(そりゃそうです…3年前の同じ日付で書かせていただいているページでは、7日に、もう西軍主力は関ヶ原の南宮山に布陣してます・参照>>到着するに至って、翌・10日、小諸を出立し、一路、中山道を急ぐ事になりますが、ご存じのように、この秀忠軍・・・肝心の関ヶ原に間に合いませんでした。

思えば、あの弱腰の戸石城の明け渡しも、チョロチョロと出てきてはすぐに逃げる城兵も、すべてが、上田の地形と、敵の心理を知り尽くした智将・昌幸の計算通り・・・

そう、この上田城攻防戦・・・籠る昌幸から見れば、勝つための戦いではありません。

その目的は、ただ一つ・・・総大将=秀忠を関ヶ原に行かせない事・・・結果としては引き分けとなる上田城攻防戦ですが、そういう意味では、100%目的を達成した真田の大勝利と言えるかも知れません。

さて、一方、本隊である秀忠軍不在のまま、関ヶ原に突入する事になった家康さん・・・この先の関ヶ原でのあんな事、こんな事は、【関ヶ原の合戦の年表】>>で・・・
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

来年の大河ドラマでははずせない(はずの)場面ですね。向井君ふんする秀忠が上田城を攻撃。この戦いで側近の土井利勝が秀忠軍に従軍。さてテレビではどんな展開になるでしょうか?「天地人」では1回目の上田城攻防戦を取り上げて(越後にいた幸村が危機を聞いて上田城に戻る)いましたが、来年は「視点が反対」になるので、信之の方にウェートが置かれるかも。

現時点で土井、真田信之(当時信幸)、真田幸村の3人の配役がまだ決まっていませんが、誰になるかに注目ですね。

投稿: えびすこ | 2010年9月 7日 (火) 09時20分

えびすこさん、こんにちは~

そっか~
来年は、向井君か…
ちょっと秀忠を応援したくなるなぁc(>ω<)ゞ

今までスルーされ続けてきた信幸さんの活躍にも期待…ナレーションで飛ばさないでほしいなぁ

投稿: 茶々 | 2010年9月 7日 (火) 10時43分

そうですね。名場面が「ナレーションで飛ばされる」ことがあまりないといいですね。
お江さんの1人目と2人目の夫を演じる俳優が誰になるかも気になります。今年があまりにも「中年色」が濃いドラマなので、来年は若い俳優の出番が多いと思います。

ところで来年のナレーターは誰でしょうか?
NHKのアナウンサーかな?

投稿: えびすこ | 2010年9月 7日 (火) 11時42分

「戦争とは、敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」
<クラウゼヴィッツ>的に云えば、勝利なんでしょうけど~。

 この論理でいけば、石油獲得やアジア諸国の独立を目指した太平洋戦争は~日本の勝利か~って云う人もいますね。
(五族協和は出来んかったけどなぁ)

投稿: 山は緑 | 2010年9月 7日 (火) 12時32分

えびすこさん、こんばんは~

ナレーションが、未だ発表されていないのなら、アナウンサーさんかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年9月 7日 (火) 22時20分

山は緑さん、こんばんは~

先日、書かせていただきましたが…
「インドネシアの独立記念日には日本の軍歌を歌ってお祝いする」
その話を聞くと、独立した国にとっては勝利なんだろうなと思いますね。

投稿: 茶々 | 2010年9月 7日 (火) 22時24分

石田さんって三成じゃなかったっけ?

投稿: | 2010年9月 8日 (水) 20時55分

ぎょえぇ~~

なんで、みつなりを光成に返還するかな~この7は…

7は漢字変換がヘンです。
XPのほうがず~っと、かしこかった(ρ_;)
見つけていただいてありがたいっす

投稿: 茶々 | 2010年9月 8日 (水) 21時07分

関が原の戦いを検証する中で気になる事が1つ。
この時に秀忠に従軍した土井利勝は、この戦いが初陣らしいのですが、生年で考えると28歳の初陣は遅い気がします。この上田城の戦いで苦戦したのは、「土井の経験不足」と言う理由もあります。
18歳だった「小田原攻め」の時には徳川軍に従軍していないらしいので、この時が初陣でもおかしくないです。初陣が遅れた理由は何でしょうか?「大規模な戦さ」は天正時代がほぼ最後ですね。

投稿: えびすこ | 2010年10月11日 (月) 15時44分

えびすこさん、こんばんは~

>上田城の戦いで苦戦したのは…

根っからの大坂方としては「土井の経験不足」より、真田の手腕と思いたいですが…ww

投稿: 茶々 | 2010年10月12日 (火) 00時16分

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