« 95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難事件 | トップページ | 琉球王国・最後の忠臣~謝名利山 »

2010年9月17日 (金)

将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方

 

寛永十二年(1635年)9月17日、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の側室で、会津藩祖・保科正之の母お静の方が52歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・

文禄四年(1595年)の奇しくも同じ9月17日、徳川家康の息子・徳川秀忠が、今は亡き浅井長政の三女・小督(おごう)伏見城にて結婚しました。

この時、秀忠17歳・・・
一方の小督は23歳・・・

しかも、初婚の秀忠に対し小督は3度目の結婚で、すでに出産経験もありました。

お二人それぞれの性格はともかく、このシュチュエーションだけ見れば、カカァ天下になる要素満載の二人・・・

やがて慶長十年(1605年)、秀忠は第2代将軍となり、小督はその正室として君臨する事に・・・そう、この小督さんが、来年の大河の主役=お江(こう)さんです。

その頃の秀忠の大奥は2大勢力に分かれていたと言います。

一つはもちろん、正室のお江の方の一派・・・
そして、もう一つは、大乳母殿(おおうばどの)と呼ばれる老婦人の一派・・・

この大乳母殿と呼ばれる女性は、後に老中となる井上正就(まさなり)の母で、若い頃に秀忠の乳母をやっていた人・・・つまり、秀忠の母親がわりのような扱いで、大奥に住まう事を許されていた人でした。

んん???一方が正室で、一方が乳母?
そうです・・・この頃の秀忠の大奥には、愛人っぽい女性が入り込む余地なんてなかっのです。

そんな大奥で、大乳母殿に仕えていたのが、神尾静(かんのおしず・志津)という女性・・・天正十一年(1584年)の生まれと言いますから、秀忠より5つ年下(う~~ん、ちょうどいい…と思うのは私だけか?(゚ー゚;)

神尾氏は代々北条氏に仕えていましたが、ご存じのように、あの小田原征伐で北条が滅亡・・・浪人の身となった静の父・神尾栄加(さかよし)は、板橋郊外の竹村に住みながら、徳川家への仕官を願っていたものの叶えられず、娘の静だけが、なんとか大奥の女中として出仕できたのです。

・・・で、かの秀忠さん・・・将軍としての政務をこなす日々の中、時々は、その疲れを癒すように大乳母殿のところにやってきます。

まぁ、サラリーマンが実家に帰って、お母ちゃんとゆっくり・・・てなモンでしょうか。

そこで、この大乳母殿のもとでかいがいしく働く静さんを、秀忠さんが見初めちゃったワケです。

・・・で、なるようになって、デキちゃうようにデキちゃったわけですが、さすがに空気を読んだ静は、大乳母殿とも相談して宿下がりを申し出て実家に戻りました。

この頃の神尾家は、父・栄加はすでに亡く、静の兄・嘉右衛門(かえもん)の代になっていましたが、やはり、家族の意見も同じ・・・問題が大きくならないうちにお腹の子を始末する事になりました。

その後、しばらくは実家で過ごす静でしたが、やはり、彼女の事が忘れられない秀忠・・・大乳母殿を通じて、何度も出仕のお誘いがかかります。

そして、再び出仕すれば、またぞろ秀忠に深い愛に包まれ、ほどなく懐妊・・・

今度も、やっぱり実家に戻って、お腹の赤ちゃんを処分しようとする静でしたが、そこを猛反対したのが、弟の才兵衛(さいべえ)・・・「将軍様の御子を、2度も始末したら、天罰が下るのでは・・・」と、姉の婿に当たる竹村助兵衛なる人物に静を預けます。

・・・とは言え、「本当にこのまま、そっと子供を産んでも良いのだろうか?」と悩む静に、強い味方が登場します。

武田信玄の二人の娘・・・次女見性院(けんしょういん)六女信松院(しんしょういん・松姫)の姉妹でした。

見性院は、あの穴山梅雪(ばいせつ・信君)(3月1日参照>>)の奥さんで、夫の死後は家康から600石を賜り、江戸城の北の丸に住んでいましたので、おそらくは、静が大奥にいた時に知り合いになったのでしょうね。

一方の信松院は、尼になる前は松姫と呼ばれた人で、織田信長の長男・信忠の婚約者だった人・・・あの「ここまでするんやったら、もう許す!」と言いたくなるほどスゴかった「おんな風林火山」という時代劇で主役をはった武田の姫ですが、武田滅亡後は八王子信松院庵主(あんじゅ)となって、一族の菩提を弔っていたのでした。

そこで信松院は、静を連れて見性院の知行地=武州足立郡大牧村に行き、ここで、心静かに出産するようダンドリを整えました。

この時、氷川神社に奉納した祈願の文書が、現在のさいたま市の重要文化財として残されています。

「私は、卑しい身分ですが、将軍様に愛され、その御子を身ごもり、この4月か5月には生まれます。
けれど、御台
(みだい=お江の事)様の嫉妬が深く、お城にいる事ができないため、信松院様の御世話になって、今、ここにいます。
どうか、胎内の子を男の子にしていただいて、安産でありますように・・・そして、親子ともども天寿を全うし、運が開けて大願成就できますように・・・」

といった感じの内容・・・日づけは慶長十六年(1611年)2月となっています。

この文面を見る限りでは、「やっぱりお江さんのヤキモチはスゴかったのかなぁ」と思っちゃいますが、果たして、本当にスゴかったかどうかは、ご本人に会ってみないとねぇ・・・ムリですが(^-^;。

こうして、信松院や、見性院の家臣たちに見守られ、静は、その言葉通り、慶長十六年(1611年)の5月6日男の子を出産します。

『家世実記』によれば・・・
さすがに、子供ができた事を黙っているわけにはいかない竹村助兵衛が町奉行に報告・・・そこから老中の土井利勝を通じて、男子の誕生を聞いた秀忠は、
「身に覚えがある」
として、家紋の入った小袖とともに
幸松(こうまつ)と名付けよ」
との言葉を送ったとか・・・

ただし、「御内々に・・・」という、公式には発表しないよという約束つきの認知でした。

しばらくの間、助兵衛の屋敷で暮らしていた静・母子でしたが、幸松が3歳になった時、老中の土井と本多正信から、「見性院の子として育ててほしい」との要請があり、はなから、母子のバックアップをする気満々だった見性院は、幸松を自らの養子として江戸城内の屋敷に住まわせ、その姓も武田を名乗らせました。

徳川将軍の息子が武田姓・・・なんとも数奇な運命ですが、まだ、幼い幸松にとっては、やさしい見性院のもと、心静かに暮らせる場所がある事は、幸せだったでしょう。

この頃の静は、目黒の蛸薬師成就院に何体もの仏像を寄贈しているのだとか・・・この仏像は、今も「お静地蔵として現存しますが、やはり幸松の母として、微妙な立場の息子の将来に、かなりの不安を持っていたのでしょうね。

やがて、7歳になった幸松は、武士たる教育を受けるべく、信州高遠(たかとお)2万5000石の藩主・保科正光(ほしなまさみつ)の養子となります。

保科家は、元は武田の家臣・・・やはり、見性院が見込んだ人物だったのでしょう。

その後、寛永八年(1631年)、正光の死を受けて、幸松は、高遠藩の藩主となります。

その名も、保科肥後守(ひごのかみ)正之と改めます。

ここで、初めて、正之は、将軍の子としてではないものの、高遠藩・藩主として世に出る事になります。

さすがに、ここまで来れば、闇から闇へと末梢される事はないでしょう・・・かのお江さんも寛永三年(1626年)に亡くなっていますし(9月15日参照>>)、2年前の寛永六年には、秀忠と父子の対面も果たしていますしね。

そんな息子の幸せを見届けるかのように、寛永十二年(1635年)9月17日静はこの世を去ります。

高遠にある長遠寺というお寺に葬られた静さん・・・しかし、息子・正之は、静の浄光院(じょうこういん)という法名に従って、その長遠寺を浄光寺と改名・・・

やがて、異母兄にあたる3代将軍・徳川家光の信頼を得て出羽山形20万石、さらに、奥州会津23万石の藩主へと出世する正之(9月1日参照>>)ですが、その山形にも会津にも浄光寺を移転させ、常に母を連れて行ったと言います。

「常に母を・・・」
なんだか、正之さんの思いが伝わってくるよう・・・やはり、こういう人生だと母子の絆が強くなるんでしょうね。

*本日は、お静さんサイドからのお話なので、少しお江さんが意地悪な女に見えますが、来年の大河では、きっといい奥さんで登場する事と思います。

*以前の保科正之さんのページと内容がだだカブリですが、よろしければソチラの12月28日のページ>>もお楽しみくださいませ
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難事件 | トップページ | 琉球王国・最後の忠臣~謝名利山 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

「おんな風林火山」と言う時代劇ですか。初めて知りました。来年の大河ドラマでは端役になると思いますが、お静さんを誰が演じるでしょうか?ところで徳川・豊臣両家の家臣の配役が、まだ未定ですが近く決まるでしょう。保科正之は生前は「松平」姓を名乗ることを固辞して、孫の代に初めて松平になっていますね。

投稿: えびすこ | 2010年9月17日 (金) 08時57分

 そうですか~
武士の子は間引きをしないのかと思ってました。(意外すぎる~)
やっぱ、多角的に見ないとですね

投稿: 山は緑 | 2010年9月17日 (金) 12時32分

私は秀忠も正之も好きなのでよくお二人関連の本などを探るのですが

お江の方、お静の方に関する話になると作者さんの好みによってどちらかが悪く書かれている気がして・・・・嫌な気持ちになるんですよね

歴史上の人物の男女関係の話って軽々しく扱われすぎな気がします
どちらの女性も秀忠が深く愛した女性ということでいいじゃないか、と思っている私です

お静にもお江にも気づかった記事で良かったです

投稿: あお | 2010年9月17日 (金) 13時35分

えびすこさん、こんばんは~

「おんな風林火山」は、主題歌がけっこう流行ってたので、視聴率もそれなりに良かったと思います。

天地人の比じゃないスゴイものでしたが、あそこまで行けば娯楽と割り切れるので、けっこう楽しんで見てました。

確か、主役は鈴木保奈美さんではなかったかと…

投稿: 茶々 | 2010年9月17日 (金) 21時52分

山は緑さん、こんばんは~

水戸黄門さまも、もう少しで間引きされる所でしたから、武士でも将軍の子でも、闇から闇へ葬られる事もあったんでしょうね。

記録さえ残っていない人もいるのかも…

投稿: 茶々 | 2010年9月17日 (金) 21時55分

あおさん、こんばんは~

秀忠をめぐってのライバル関係なので、どうしても、そういう風に見られるんでしょうね。

大河ドラマでは、どちらもステキな女性に描いていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2010年9月17日 (金) 22時00分

「おんな風林火山」の主演は鈴木保奈美さんでしたね。23年も前ですから知らないはずです。同番組は大河ドラマの裏番組(今なら絶対にないですね)とかで。そして来年の大河ドラマで、信松院に因縁ある主人公の母親の役をやるのも、何か縁があるように感じます。

投稿: えびすこ | 2010年9月17日 (金) 23時30分

えびすこさん、こんにちは~

そうですか23年も前ですか~
記憶が曖昧なはずですね…

私は、鈴木保奈美さんは、別の、真理姫だったか菊姫だったかの役で、松姫は別の人だと思ってたんですが、ネットでは、皆が「保奈美さんだ」という事で、記憶の曖昧さを実感しました。

投稿: 茶々 | 2010年9月18日 (土) 12時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/36776524

この記事へのトラックバック一覧です: 将軍・徳川秀忠の影の女に徹したお静の方:

« 95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難事件 | トップページ | 琉球王国・最後の忠臣~謝名利山 »