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2010年9月26日 (日)

信玄・勝利の影に…武田の気象予報士・駒井高白斎

 

天文十一年(1542年)9月26日、武田信玄配下の駒井高白斎が、藤沢頼親の籠る福与城を包囲しました。

・・・・・・・・・・

天文十年(1541年)、父・信虎を追放して(6月14日参照>>)家督を継いだ甲斐(山梨県)武田信玄(当時は晴信)・・・

これまでも度々隣国の信濃(長野県)に進攻していた父を引き継いで、信玄による信濃進攻が本格的に開始されます。

翌・天文十一年(1542年)には、諏訪(すわ)一族高遠頼継(よりつぐ)らを味方につけて、6月には諏訪宗家諏訪頼重(すわよりしげ)滅ぼします(6月24日参照>>)

しかし、今度は、その奪い取った諏訪の統治を巡って信玄と頼継が対立・・・と、ここで信玄、亡くなった諏訪頼重の遺児・寅王(とらおう)を前面に押し出して頼継討伐に出陣します。

実は、亡き頼重の奥さんは信玄の妹・・・つまり、その寅王は、諏訪宗家の後継者であるとともに武田の血も受け継いでいるわけで、その子を前面に押し出し、自分が幼子をサポートしているがのごときポーズをとる事で、残る諏訪一族を味方に引きこんだのです。

かくして、天文十一年(1542年)9月26日、信玄の命を受けた配下の駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)が、頼継の味方をしてともに信玄に反旗をひるがえしていた藤沢頼親(よりちか)が城主を務める福与城を取り囲んだのです。

しかし、この頼親も諏訪一族・・・案の定、かつての主君=頼重の遺児に弓を引く事ができず、2日後の28日には降伏して甲斐に出仕するのですが、これが、あくまで、その場逃れの「とりあえずの降伏」・・・

結局、その後またもや反旗を翻した頼継&頼親らと、その2年後に相対する事になるのですが、そのお話は10月29日のページ>>でご覧いただくとして・・・

・・・と、ここで登場した信玄の家臣・駒井高白斎・・・

生年も没年もはっきりしない謎の人ではありますが、題名に書かせていただいたように、どうやら、天気予報に長けた気象予報士だったかも?という事で、本日はこの方に注目してみたいと思います。

・‥…━━━☆

甲斐駒井郷(韮崎市)の武士・駒井政時(まさとき)の次男として生まれた高白斎は、京都妙国寺で修業した経歴があり、その時、教えを乞うたのが、禅僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)・・・

この策彦は、2度の(みん・中国)への留学経験から外交官的な役目も果たし、多くの戦国武将からの信頼を得ていた僧なのですが、その中国から持ち帰った観天望気(かんてんぼうき)なる奥義を、その高白斎に伝授したのだとか・・・

Dscn9697a800 策彦周良が設計した天竜寺塔頭・宝厳院獅子吼の庭

この観天望気というのが、今で言うところの天気予報・・・なので、それを習得した人=気象予報士という事になります。

言うまでもなく、現代人でも気になる今日の天気・・・まして、屋外で合戦を行う戦国武将にとっては、その天気の善し悪しが命取りになりかねません。

当然の事ながら、群雄割拠する戦国大名の間では、いかに優秀な天気予報士を抱えるかで、その運命は大きく左右される事になります。

実は、この高白斎さん・・・永正五年(1508年)頃に、信玄の父・信虎の側近になったようなのですが、それ以前の明応七年(1498年)から、自らの手で日記を書き記しています。

『高白斎記という名で、今は写しのみ現存する物で、ご本人が天文二十二年(1553年)までを書きつづり、その後、栗原左兵衛ら複数の人物により加筆されている文書なのですが、これが、ちと評価がよろしくありません。

・・・というのは、その加筆部分に作為的な創作が含まれているから・・・

今となっては、それが、この『高白斎記』自体の評価を下げているわけですが、中には、おそらく高白斎自身が書いたであろうという部分もあり、その部分に関しては、貴重な記録であるという声も多々あるとの事です。

・・・で、そういう事を念頭に置きながら、高白斎の活躍を見てみますと・・・

たとえば、信虎の初陣となった永正五年(1508年)の甲斐勝山城の攻防戦・・・

信虎が、その攻撃のタイミングに迷っていたところへ・・・
「アマタツ~」
ではなく
sunコマイ君の今日のお天気rain

「このあと、甲斐勝山城周辺の天気は大荒れになる模様です。
寒風が吹き荒れ、ところにより氷雨がまじり、攻撃には最悪のコンデションとなるでしょう」

なるほど、中止か~・・・と思いきや
「“こんな時に攻撃して来るアホはおらんやろ!”と、きっと敵は油断してまっさかいに、一発いてコマしたりましょ!」
と、攻撃を進言・・・見事、相手の意表をついて勝利に導いています。

また、そのようなアドバイスだけでなく、合戦におもむく際に、雨や雪の状況などはもちろん、雲の形や色・・・その動き、さらに、寒暖の差や、両軍の旗のなびき方までもを詳細に記録した部分もあり、日ごろからデータの取得も心がけていたようです。

このようにして蓄積されたデータをもとに、かの観天望気の奥義を使って、天気予報をしていたのですから、おそらくは、かなりの確率で、この先の天気を言い当てていたのかも・・・。

信玄・必勝の影に天才気象予報士あり!
ちょっと、オモシロイじゃありませんか?
 .

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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

はじめまして(^O^)/

このサイトは歴史好きの私にはたまらないサイトですね。

なるほど…、確かに気象予報は重要だったでしょうね。川中島の戦いとかにも当てはまることです。
長篠の戦いの時も高自斎が生きていたら、結果は変わっていたかもしれませんね。

追伸:信玄が進言になってる部分がありますよ。

投稿: ドラX | 2010年9月26日 (日) 14時08分

記事を読むと駒井高白斎は信玄時代にはかなりの高齢ですね。軍師・山本勘助より年長の可能性もありますね。
天気を当てる能力に長けた武将。そうはいないですね。

投稿: えびすこ | 2010年9月26日 (日) 17時13分

気象予報してたかはともかく、駒井高白斎は信玄前期における重臣中の重臣ですね。外交にも携わってますし、文書からは内政・外交ともに広い携わりが指摘されますし、勝頼期の跡部勝資に相当する地位にあったと指摘されます。

『高白斎記』はおそらく駒井高白斎の用務日誌を原本にした編纂物ではないのかと考えられていますね。栗原氏はおそらく近世の武田遺臣で、先祖の活躍をむりやり入れちゃってます。山本勘助関係の記事も入っていて、甲陽軍鑑の影響下にあることは明白ですが。

ただ、信玄の信濃侵攻は同時期の記録資料がいくつもあって、それらと照合して特に矛盾はないですから、そんなに資料性を低く評価することもないかと思います。

投稿: 黒駒 | 2010年9月27日 (月) 02時13分

ドラXさん、おはようございます。

そうですね~
長篠の戦いでは、雨に弱い鉄砲を使用するため、信長は梅雨の晴れ間を狙って決行しました…逆に、信長が天気予報を利用しましたね。

桶狭間もそうですし…信長も、良い気象予報士を抱えていたように思います。

>信玄が進言

キャハッ(*´v゚*)ゞ
ありがとうございます…訂正させていただきました。

投稿: 茶々 | 2010年9月27日 (月) 06時29分

えびすこさん、おはようございます。

お父さんの時代からですから、信玄の時には、けっこうなお歳だったでしょうね。

>天気を当てる能力に長けた武将…

そういう意味では、軍師とも言えますね。

投稿: 茶々 | 2010年9月27日 (月) 06時31分

黒駒さん、おはようございます。

>そんなに資料性を低く評価することもないかと思います

そうですね。
「加筆部分を除けば、かなり参考になる」と聞きました。
そうなると、駒井さんの活躍も信ぴょう性が高いかも…ですね。

投稿: 茶々 | 2010年9月27日 (月) 06時36分

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