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2010年9月 6日 (月)

調子に乗って反逆罪?…バサラしすぎた土岐頼遠

 

興国三年(康永元年・1342年)9月6日、美濃の守護・土岐頼遠が、光厳上皇の行列に遭遇し、トラブルを起こしました。

・・・・・・・・・・

南北朝という時代は、多くの婆沙羅(バサラ)大名を輩出した時代でもあります。

有名なところでは、あの建武の新政(6月6日参照>>)実現の立役者でもある高師直(こうのもろなお)佐々木道誉(どうよ)など・・・その道誉さんのご乱行のところ(10月12日参照>>)でも書かせていただきましたが、この婆沙羅=バサラとは、サンスクリット語ダイヤモンドの事・・・。

そのダイヤモンド゙が、すべての石を砕くほど突出して固い事から、「他を逸脱する=調子はずれ・ケタはずれ」のような意味で、舞楽用語として用いられていた物が、いつしか、行動がケタはずれな人を指すようになったのだと言われています。

・・・で、この時代の婆沙羅大名とは、とにかく派手な服装をして、する事も派手で、古い権威にとらわれず、自由奔放な生き方をしていた大名の事を言います。

今回の主役・土岐頼遠(ときよりとう)さんも、そんな南北朝時代の婆沙羅大名の一人・・・

彼の生まれた土岐氏は、清和源氏の流れを汲む名門で、平安時代の末期に美濃(岐阜県)土岐群に土着した事から土岐氏を名乗るようになりました。

鎌倉時代に力をつけた土岐氏は、南北朝時代の第4代当主・土岐頼貞(よりさだ)が、北朝の足利尊氏(たかうじ)従って歴戦し、美濃の守護となりました。

頼遠さんは、この頼貞の6男・・・彼もまた、父とともに戦場へと赴き、よく戦いました。

特に有名なのは、歴応元年(建武五年・1338年)の美濃青野原(大垣市)の戦いです。

この時、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)のもとへと馳せ参じるため、東北の軍勢・数十万を率いて、京へ攻め上る北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、足利軍を破って鎌倉を奪った後、ここ美濃へと差し掛かったのですが、あまりの大軍であるため、周囲の味方は「敵が疲れるのを待とう」と、一旦やり過ごす作戦に・・・

そこを頼遠は、
「敵が大軍で手強いからって、自分の領地を堂々と通っていくのを、黙って見過ごせるかい!
俺は、この戦いに命賭けるでぇ!」

そう、婆沙羅大名というのは、なにも、派手な格好をして、好き勝手にやってるだけではありません。

こういう時にも、常識にとらわれず、勇猛果敢にアタックしていくのも彼らの特徴です。

やがて、近づいてくる北畠軍・約6万・・・対する頼遠は、わずか1000。

それでも頼遠は、怯む事無く仕掛けていきます。

・・・とは言え、さすがに多勢に無勢・・・約1時間後には700騎ほどになってしまいます。

しかし、なおも
「最後の1騎になっても、引くな!」
と、勇ましく突き進みますが、ついに23騎となったところで、頼遠自身も手傷を負い、最終的に、わずか3騎となって退却を余儀なくされたのです。

結局は負けてしまった、この戦いですが、これに疲れた北畠軍は、最終的に入京できなかったわけで、ここで、頼遠の名声は一気に高まります。

『難太平記』でも
「青野ガ原ノ軍ハ 土岐頼遠一人高名ト聞エシ也」
と、ベタ褒めです。

この翌年には、亡くなった父・頼貞の後を継いで、彼は美濃国の守護となりました。

しかし、派手好きな、はみ出し者の婆沙羅・・・だいたいその性格も想像できますが、「強い」と評判になればなるほど、調子に乗ってしまうのも、彼ら婆沙羅の悪いクセ・・・

かくして興国三年(康永元年・1342年)9月6日・・・とうとう、調子に乗りすぎて、事件を起こしてしまうのです。

その日は、京都は比叡の馬場で、二階堂行春(にかいどうつきはる)という人物と笠懸け(馬で駆けながら矢で笠の的を射る訓練兼遊び)をした帰り道の夜・・・樋口東洞院(ひがしのとういん)の辻で、光厳(こうごん)上皇行列に遭遇しました。

二階堂はすぐに行列に気付き、下馬してかしこまったのですが、頼遠は、かなりお酒に酔っていたせいもあり、礼もとらず、行列に立ちはだかります。

行列の先頭の者が慌てて駆けより・・・
「どこの田舎者であるか!・・・(光厳上皇の事)の行幸(ぎょうこう・天皇家の人のお出かけ)であるぞよ」

ところが頼遠は、かしこまるどころか、カラカラと笑って、
「何?、と言うたか?・・・それともと言うたんか?
そ~かぁ・・・犬なら射落としてやろう!」

と、言うが早いか、数十人で牛車の周りをとり囲み、犬追物(いぬおうもの・馬で駆けながら矢で犬を的にして追いこむ)に見立てて、さんざんに矢を射かけたのです。

ひととおり矢を射かけたら気がすんだとみて、その場を立ち去った頼遠・・・

しかし、酔いが覚めて、ふと、我に返ると・・・
「どえらい事をしてしもた~ヾ(*゚A`)ノ

いくら頼遠が有能な武将であったとしても、いくら相手にケガもなかったおふざけとは言え、上皇の・・・まして、北朝側の光厳上皇への乱暴狼藉。

あまりの事に怖くなった頼遠は、そのまま、許可も得ずに、そそくさと美濃へ逃げ帰りますが、これがまた、都では、「謀反を起こすんじゃないか」との噂の種になってしまいます。

さすがに、室町幕府を相手にするほどの兵力を持ち合わせていない頼遠は、結局、11月の終わりになって、友人の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)を頼って逃げ込み、彼を通じて命乞いをはかりますが、もはや後の祭り・・・

なんたって、三種の神器を手に正統性を主張する南朝に対して、コチラ北朝は、その光厳上皇を初代とする天皇家の血筋のみが頼り・・・頼遠の行為は、その天皇家の正統性をも否定しかねない行為ですから、ひいては室町幕府の正統性をも傷つける行為なのです。

そこはキッチリおとしまえをつけておかないと、北朝のメンツも立ちません。

結局、捕えられた頼遠は、その年の12月1日、六条河原にて斬首されたのでした。

ただ一つの救いは、本来ならば土岐氏そのものが罰せられる行為であるにも関わらず、その罪は頼遠一人の物とし、お家が断絶させられる事なく、甥の土岐頼康(ときよりやす)が家督を継いで、そのまま美濃の守護を務めた事・・・

それこそが、いかに頼遠が優秀な武将で、本当なら幕府にとって必要な人材であったかを物語ってるとも言えますが、たとえどんなに優秀でも、飲みすぎ、やりすぎ、調子乗りすぎはいけません

くれぐれもご注意を・・・
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