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2010年10月13日 (水)

幕府・朝廷~ともに歴史が動いた10月13日「討幕の密勅」

 

慶応三年(1867年)10月13日、薩摩藩主の島津父子に「討幕の密勅」がくだされました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月13日・・・まさに歴史が動いた日です。

土佐藩の参政・後藤象二郎が、坂本龍馬とともに原案を考えた船中八策(せんちゅうはっさく)をもとにした建白書は、すでに老中を通じて、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の手に渡っているはずでした。

ただし、その建白書に書かれた内容を採用するか否かは慶喜次第・・・

この日の朝、二条城へと向かう象二郎のもとに
「建白が採用されへんかった時には、そのまま城中で死ぬ覚悟でいてはりますやろ?
もしも、先生
(象二郎の事)が、お城から帰って来はれへんかった時には、海援隊が、将軍の参内するタイミングを狙ろて、一発ブチかましたりますさかいに・・・その後は冥土で会いましょうや!」
という龍馬の手紙が送られて来た事は、去る6月22日のページでご紹介させていただきました(6月22日参照>>)

果たして慶喜は二条城の大広間にて、在京藩の重臣を前に、その胸の内を語ります。

これが、教科書にも登場するあの有名なシーン・・・慶喜の決意は、翌日の14日に大政奉還として正式発表され、歴史に残る事となるのです。

Taiseihoukan2zyouzyou2600 お馴染のシーン

一方、同じ13日の夜、薩摩藩の大久保利通は、岩倉具視(ともみ)の屋敷を訪れ、そこで、島津藩主・島津忠義(ただよし・茂久)とその父の久光(ひさみつ)宛ての書状を受けとります。

それが「討幕の密勅(みっちょく)と呼ばれる物です。

密勅とは、秘密の天皇の命令書の事・・・

さらに、あの禁門の変(7月19日参照>>)四境戦争(7月27日参照>>)のゴタゴタで、朝敵(国家の敵)となっていた長州藩主・毛利敬親(たかちか)元徳(もとのり・定広)父子は、この13日を以って官位復旧となり、翌日の14日に、薩摩と同じ内容の密勅が渡されます。

そこには、准大臣中山忠能(ただやす)正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)中御門経之(なかのみかどつねゆき)3名の公家の署名と、「詔」の文字で始まる文章・・・

「詔す。
源慶喜、累世の威を籍り、闔族
(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく・溝や谷)に擠(おとしい)れて顧(かえり)みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。
(ちん、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしゅう)に報いんや。
これ、朕の憂憤
(ゆうふん)の在る所、諒闇(りょうあん・天皇が喪に服す期間)を顧みざるは、万止むべからざる也。
汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮
(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。
此れ朕の願、敢
(あ)へて懈(おこた)ることなかれ。」

とにかく・・・
「極悪人の慶喜のせいで、民衆は苦しんで、この国が傾きかけてるんやから、国を治める者として、コイツをやっつけへんかったら、ご先祖様や国民に顔向けできひん」
のだそうです。

もちろん討つ対象は慶喜一人ではありません。

「賊臣慶喜を殄戮し…」
殄戮とは、「殺し尽くす」という事・・・仲間もろとも全滅させる事を意味しますから、上記の密勅の文章も、現代の話し言葉に約すと、今の私たちが思い描く天皇のお言葉とはほど遠い、恐ろしいほどの激しい内容だったわけです。

・・・とは言え、お察しの通り、これが本物かどうかは、あやしい部分もあります。

そもそも、密勅=秘密裏に発せられる物ではありますが、「詔す」で始まる、いわゆる(みことのり)形式の物は、天皇自身が発した言葉という事になりますので、本来は、正式な形式を踏まねばならないわけで・・・

まずは、原案の文章を見た天皇が内容を判断し、OKなら、自らの手でその日の日づけの1文字をサイン・・・さらに、この写しが摂政や関白に送られ、それを朝廷の会議に持って行って複数の役人で話し合った末、OKだったら再び天皇に奏上して、天皇自身が「可」という一文字を付け加えて、これで完成・・・

しかし、この密勅は、この正式な過程を経ていません。

先に書いた3名の公家の署名はあるものの、花押がありませんし、筆跡も本人の物ではありません。

まぁ、昔は、エライ人の書状は、秘書的な人が代筆する事がしばしばありましたから、筆跡はヨシとしても、花押がないのは納得がいきません。

花押とは、本人の名前の下に書く、独特のマークのような物で、いくら手紙を秘書に書いてもらったとしても、この花押だけは、本人が書くのが常識で、それこそが、本人の書状である証となる物でした。

しかも、先に書かせていただいたように、その渡され方もオカシイです。

いくら秘密の文書と言えど、個人の手紙ではない書状を一公家の私邸で渡すという事は、普通ではありえない事です。

しかも、この時の岩倉は、先の公武合体のゴタゴタで洛外追放の処分を受けたままの状態・・・彼が処分の解除を受けて朝廷に復帰するのは12月8日の事ですから・・・

これは・・・
慶喜の決意を受けて、急ぎましたね岩倉さん( ̄ー ̄)ニヤリ

この記事の表題として「幕府・朝廷~ともに歴史が動いた」とさせていただきましたが、これはともに動いたのではなく、幕府の動きを知った朝廷の討幕派が、その夜に動いたという事ですね。

朝廷も、未だ一枚岩ではありません。
親幕派もいれば討幕強行派もいたわけですが、このまま、幕府に大政を奉還されてしまっては、親幕派の公家が振り上げたこぶしを下ろしてしまい、強行派は討幕をする大義名分が無くなってしまう・・

なので、大政奉還を正式発表する前に、薩摩と長州に、「何が何でも幕府を倒せ!」という命令を下しておかねばならなかった・・・という事ですね。

・・・とは言え、この密勅・・・これらのおかしな部分は「密勅なのだから正式なルートをとらなかっただけ」という単純な物で、勅自体は本物の可能性もあるわけで、あくまで黒に近いグレーという事で、その真偽のほどはわかりません。

しかし、ご存じのように14日に正式発表された大政奉還は、翌・15日に勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ます。

そりゃそうです。
すんなりと「政権をお返ししますけどいいですか?」
という許しを願い出ているのを
「ダメ!」
と天皇が言う事はありえませんから・・・

でも、そのまま許しちゃうと、朝廷の下で幕府はまだ存在する事になる・・・で、討幕派のとった行動が、先ほどの岩倉具視の処分解除・・・12月8日に朝廷に復帰した岩倉は、翌・12月9日、あの王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターを決行するのです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

 慶喜と高家大沢が大政奉還の上表文を持って伝送に会いに行った後、二条城の広間は一時、騒然となったと聞きます。その後所司代の使い者のが大沢を追いかけて待つように言ったと他で聞きました。他の人の言うには密勅は漏れていたと聞きましたが、その情報がその場にいた所司代に直ちに伝わったのでしょうか?

投稿: | 2010年10月20日 (水) 04時28分

>密勅は漏れていたと聞きましたが、その情報がその場にいた所司代に直ちに伝わったのでしょうか?

う~ん、どうでしょうね?

それこそ、朝廷も幕府も情報の探り合いで、大政奉還もバレてたなら密勅もバレてたかも知れませんが、即全員に伝わる…というか伝えるかどうかは微妙だと思います。

現に、密勅も、朝廷内の一部の人しか知らなかったようですし…

投稿: 茶々 | 2010年10月20日 (水) 14時26分

茶々さん、こんにちは。
実は10月13日は私の誕生日です。まあ40年以上前に生まれました。
この日は華岡青洲の麻酔手術が成功した日であり、サッチャーの誕生日と言うのは知っていましたが、これは知りませんでした。迂闊でした。
四国は高知以外は倒幕に反対でしたし、維新後得したのも高知だけなので、徳島はあまり維新はあまり好きでないです。
それにしてもあの討幕の密勅が出たすぐに安政の大獄みたいな事を幕府は出来なかったのかなと思いました。確か戊辰戦争時でも幕府軍の方が兵器も兵隊も多いですので、Why?と言うのが私の感想です。

投稿: non | 2015年4月 2日 (木) 17時01分

nonさん、こんばんは~

以前、薩摩藩邸焼き討ち事件>>のページで書かせていただきましたが、王政復古の大号令が出されて徳川慶喜の将軍職辞任と江戸幕府の廃止が決定した後も、未だ幕府が外交権を掌握していて朝廷の政権担当能力が未知数だった事から、慶喜は朝廷から、今後の議定就任の約束を取りつけています。
…で、その正式決定が成されるのが、この年の12月28日…つまり、あの鳥羽伏見の戦いの4日前です。

本文にも書かせていただいたように、朝廷は一枚岩ではなかったですから、親幕派の方たちとは慶喜も約束ができていて、だからこそ『討薩の表』を朝廷に提出しようとしたわけで、それを提出させまいと、薩長が鳥羽&伏見街道で待ち伏せしての鳥羽伏見の戦いですから…

幕府の隊列が無事に京都に入って『討薩の表』を朝廷が受け入れていたら…その先は、まったく違った形になっていたかも知れませんね。

まぁ、だからこそ薩長派の朝廷(主に岩倉さんですが…)は、勝手に造った錦の御旗を掲げて、自分たちこそ朝廷だとアピールしたんでしょうが…

投稿: 茶々 | 2015年4月 3日 (金) 02時44分

おはようございます、茶々さん。
どうもかなり強引に進めましたね。
後に明治天皇が皇居で慶喜と面談した時に、本来ならばあいつの居城だと言いましたし、昭憲皇太后は慶喜が義兄なので手厚くしたのを見ますと勅書は偽装でしょう。錦の御旗もそうだし、何だかフランス革命を真似した感じがします。慶喜流の改革は後の明治新政府よりも上手く機能しただろうと思いました。
ところで錦の御旗で賊軍と思ったのを見ますと当時は水戸学に影響された人々は多い感じがしました。
あの戊辰戦争は本当に必要だったのか?と思います。

投稿: non | 2015年4月 3日 (金) 07時03分

nonさん、こんにちは~

かなり強引だったと思います。

「錦の御旗」なんて、後醍醐天皇の鎌倉倒幕の記述の文面からの想像で、たまたま見つけた生地で、大急ぎで造っちゃったみたいな感じですから…

投稿: 茶々 | 2015年4月 4日 (土) 04時56分

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