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2010年10月 4日 (月)

女性たちの過酷な労働の上に…経済大国・日本

 

明治五年(1872年)10月4日、官営の富岡製糸場が操業を開始しました。

・・・・・・・・・

明治維新が成った日本にとって、富国強兵は政策の基本とも言うべき物でした。

経済を発達させてこそ軍事力も増強される・・・そして「世界に一人前の独立国家と認められたい」・・・まずは、これが新生・日本の目標でした。

当然ですが、国がお金持ちになるには、外国と交易して外貨を稼ぐ・・・当時の日本の輸出品で、利益が見込めそうな物は、お茶(生糸)でしたが、この頃の生糸の生産は、小さな器具による手作業です。

これでは大量生産する事は難しく、また、質の面でもヨーロッパの製品に比べて粗悪な物しかできません。

ちょうど時を同じくして、100年ちょっと前にイギリスで起こった産業革命の波が、日本にも押し寄せつつあった頃・・・これまでの手工業に代わって、大きな機械を導入した大規模な工場を建造して経済が大きく変化し、社会も生活も国家的レベルで変化する、あの産業革命です。

そこで、早速、明治政府はフランスから操糸機や蒸気機関を輸入し、もともと養蚕が盛んであった群馬県富岡に、日本初の器械製糸工場を設置したのです。

これが富岡製糸場・・・全国から集められた数百人の工女(工場で働く女性・女工とも)が働く、世界でも有数の大規模な工場で、明治五年(1872年)10月4日操業を開始したのです。

日本初となった富岡製糸場は、この後、全国に建設されていく製糸工場の見本となるべき存在で、そのノウハウを各地の工場へ伝授する役割も果たしました。

・・・とは言え、富岡製糸場の成功は、採算を度外視した国の経営なればこその成功で、本当の意味で、日本の産業革命に貢献したのは、この富岡製糸場を見本とした民間の製糸工場・・・そして、そこで働く女性の力に負う事が大きいのです。

このような工場で働く人のほとんどが女性だったのは、大きな機械を導入する事によって、その作業が男性中心の力仕事から女性でもできる軽作業・単純作業に変化し、むしろ男性よりも生産量が望めるようになったワリには、男性の賃金に比べて、女性の賃金が安かった事・・・。

しかし・・・
そう、ご想像通りです。

国の経営の富岡製糸場は、その待遇も良かったのですが、民間経営の工場となると、まず、優先されるのが利益・・・このような工場に集められた工女たちは劣悪な労働環境で働かされる事になるのです。

まずは、この頃の就職の形態が、今とはまったく違います。

今なら、たとえ不景気の就職難と言えど、一応、働く側の人自らが希望して、その会社の就職試験を受け、万が一、イヤになっても自由に退職する事ができますが、この頃はそうではありません。

工女として雇われた女性たちのほとんどは、地方の貧しい小作人や都市部の下層民の出身で、もちろん、本人の意思とは関係なく、父親などが勝手に決めてしまったケース・・・

甘い言葉に乗せられて、あるいは、ちゃんとした説明もなしに、親が工場主から前金を受け取り、娘たちを引き渡すというのが圧倒的で、言わば、身売りに近いような物だったのです。

ある紡績工場では、労働者の8割が女性で、しかも大半が未成年者、中には14歳以下が2割もいたというのですから、その平均年齢の幼さにはびっくりです。

24時間稼働している工場での労働時間は2交代制の12時間、さらに最盛期には、24時間まるまる働かされる事も・・・

それでいて賃金はわずか・・・当時イギリスの植民地だったインドより、日本の工女の賃金の方が安かったと言われています。

さらに、一日3食の食事は出るものの、メニューは毎日、麦飯と漬物とみそ汁だけ・・・たまに魚がついてると、それは肥料用のイワシだったり・・・

しかも、それを食べる時間はわずかに15分・・・昼休憩で携帯をチェックするなんて事も、上司の悪口を言い合う事もできません。

もちろん、寄宿舎の部屋は大部屋で、人数分で割れば、わずかに一人1畳ほどの空間・・・これではプライバシーもへったくれもありませんが、ほとんど一日中働いている彼女たちは、そこには寝るだけのために戻るようなものです。

当然、そんな環境なら逃げ出す工女も少なくないわけですが、工場側は、周囲に鉄条網を張り巡らし、門はしっかりと施錠され、見張りも厳しく、逃げ出そうとして捕まった者がいれば、見せしめのために他の工女の前で公開のリンチを行って、彼女たちに恐怖を植えつけたのです。

しかし、そんな彼女が工場から解放される時があります。

それは、病気になった時・・・

劣悪な環境で働く彼女たちには、頻繁に伝染病が流行するのですが、特に、結核にかかったとわかった時には、工場は何の保証もせずに、即、解雇、病気の工女を外にほっぽり出して終わりです。

昔、「ああ 野麦峠」という映画がありましたが、まさに、そんな感じ・・・

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製糸工場で働く工女たち

このような状況が少しばかり改善されるようになるのは、明治四十四年(1911年)の労働者保護法(工場法)の成立まだ待たねばなりません。

この法律施行のきっかけとなったのは、明治三十五年(1902年)、埼玉県春岡村織物工場から逃げ出し、警察に保護された工女の証言「時事新報」が報道した事でした。

彼女は、劣悪な環境、過酷な労働に耐えかねて逃亡を図り、一度目は捕まったため大勢の前で全裸にされて縛られ、殴る蹴るの暴行を受けたのですが、その後、再び逃亡し、今度は、運良く保護された事で、出版社に現状を訴え、工場の悲惨な状態が発覚したのです。

この時の経営者やリンチの実行犯は捕まり、刑に服す事になりましたが、この出来事をきっかけに、新聞社や雑誌社が調査をしたところ、このような事が多くの工場で日常茶飯事的に行われている事がわかり、大きな社会問題となったのです。

このようなマスコミの動きに対して、ついに国が動いたのが、上記の労働者保護法というわけです。

  • 12歳以下の者の就労禁止
  • 15歳未満の者の12時間以上の労働禁止
  • 15歳未満の夜10時以降の労働禁止
    などなど・・・

ただ、これには、多くの猶予や例外が盛り込まれているため、結局、なんだかんだの逃げ道があって、この法律ができたからと言って、実際に即、改善されたわけではないのですが、法律ができたという事は事実で、それだけでも一歩前進・・・この先、労働条件の改正に、少しずつではありますが、向かっていく事は間違いないのです。

寝る間も惜しんで働かされ、ただひたすら糸をつむぎ続けた名もなき彼女たち・・・悲しい現実ですが、目をそむけてはいけません。

彼女たちのおかげで、外貨を獲得した日本は、やがて強国へとのし上がり、戦争という「つまずき」を経験しながら、世界に誇れる経済大国になったのです。

歴史は、計算や読み書きのように、生きていく上で必要な物ではありません。

歴史を知らなくても、人は普通に生きていけます。

でも、身を犠牲にして事を成した先人たちがいたからこそ、今の日本がある・・・だから、歴史を知っておかねばならないのではないでしょうか。
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