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2010年10月29日 (金)

現在まで続く茶の心…武野紹鴎の侘び

 

弘治元年(1555年)閏10月29日、戦国時代に活躍した茶人で、千利休の師でもある武野紹鴎が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

海の向こうの遠い国から、日本にお茶を伝えたのは、遣唐使として派遣された僧でした。

まずは延暦二十四年(803年)、(とう・中国)から帰国した永忠という僧が中国から団子茶なる物を持ち帰り、さらに建久二年(1191年)に臨済宗の開祖・栄西が、(そう・中国)からのお土産に持ち帰って京都で栽培したのが、現在のお茶のルーツと言われています(2006年10月31日参照>>)

こうして、しばらくの間は、天皇や公家の間で気分がよくなる薬のような形で用いられたり、禅僧の間で眠気覚ましとして使われていたお茶に、娯楽の要素が加わるのが室町時代・・・

闘茶(とうちゃ)という賭け事に使用され、ハヤリ物好きの武士の間で大ヒットとなるわけですが、一夜にしてあまりの高額が動いたため、幕府からの規制も出たりなんかもしながらも、ここまでは、あくまで「一部のお金持ち人の贅沢な楽しみ」といった感じでした(2008年10月31日参照>>)

そんなお茶が転機を迎えるのは、室町時代も後半となった戦国の頃・・・

村田珠光(むらたじゅこう)が、それまで広い部屋にて贅沢な雰囲気で行われていた茶会を、簡素で落ち着いた感じの草庵(そうあん)で開き、四畳半のような狭い部屋での茶会が主流となっていったのです。

その頃には、一般にもお茶が広まり、いわゆる茶店の前身のような場所で、一服いくらでお茶の接待をするといった簡単なお茶の飲み方も登場してきます。

そんな珠光に、お茶の手ほどきを受けたのが武野紹鴎(たけのじょうおう・紹鷗)です。

文亀二年(1502年)に大和(奈良県)にて、武田信久という武士の息子として生まれた紹鴎ですが、父がその後にへと移り住み、皮屋という屋号にて商売を始めたという事なので、おそらくは、武具や甲冑などの皮製品を扱う商家であったのであろうと言われています。

商いで成功した父・信久は、その名も武田から武野に変更しますが、とにかく、紹鴎が、まだ若き頃に、すでに武野家は、堺でもトップクラスの豪商だったようで、金持ちのぼんぼんとなった彼は、京に上って連歌に没頭するという日々を送っています。

当時の歌学の権威であった三条西実隆(さねたか)について古典を学び、その影響を多分に受けた青年時代を送りながら、もちろん珠光から、その理想である草庵のお茶も、この頃に学びます。

その後、堺に戻った紹鴎は、南宗寺に身を寄せ、禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)に教えを請いました。

Dscn0962a800 南宗寺の石庭(堺市)

やがて紹鴎は、このようにして吸収した歌・禅・茶を見事に融合した新たな茶の道に開眼する事になるのです。

その理想とするのは、歌の道で学んだ藤原定家『詠歌大概(えいがたいがい)(=定家の和歌に対する考え方や心得を示した書)でした。

♪見渡せば 花も紅葉(もみじ)もなかりけり
  浦のとやまの 秋の夕暮れ  ♪

これは、その定家の和歌ですが、
もはや、花は散り、紅葉も色あせてしまって、この後は枯れた世界があるのみ・・・

そう、紹鴎が目指したのは、珠光が目指した簡素なお茶の世界を、さらに簡素にして、むしろ、その枯れた世界を楽しむ事・・・

わずか二畳か三畳の農家風の建物にいろりを切って・・・

Dscn0990a600 ちょっと枯れ過ぎな廃品置き場となってる紹鴎の屋敷跡→

紹鴎自身は、名物茶器を60種以上も所蔵する富豪でありながら、自ら竹を削って茶箋(ちゃせん)を造り、青竹を切って蓋置きを造り、何事もない白木の釣瓶に、ただ一輪の花をさして花瓶にする・・・などなど、質素で何もない場所なれど、おもてなしの心だけは、精一杯持って、精神誠意を込めたお茶をお出しする(わ)び茶の精神です。

そして、その精神は、娘婿である今井宗久(そうきゅう)をはじめ、津田宗及(そうきゅう)松永久秀(12月26日参照>>)など、多くの弟子たちに受け継がれます。

Dscn0977a800 武野紹鴎の墓:耳を当てるとシュンシュンと湯を沸かす音がするとか…(南宗寺)

その弟子の中の一人が千利休(2月28日参照>>)・・・

ご存じのように、この利休によって、茶の湯は大成される事になるのです。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

昔よんだ小説に、村田珠光さんに茶の湯を教えたのは一休禅師やというのがありました。少し恐いお話でしたが…。

投稿: よろず | 2010年11月27日 (土) 17時53分

よろずさん、こんばんは~

村田珠光さんは、一休さんとは禅宗でつながってますし、禅宗とお茶は切っても切れないですから、師匠と言えば師匠なのでしょうね。

「恐いお話」というところが気になります…Σ(゚д゚;)━━!!

投稿: 茶々 | 2010年11月27日 (土) 23時23分

茶道の師弟関係では村田珠光-武野紹鴎-千利休となりますね。現代に残る茶道の形式は、500年くらい前に確立されて、3つある千家が綿々と継承しているんですね。
今年の大河では利休の弟子と言われる古田織部が1回だけ出ていましたが、あれはBSアニメ「へうげもの」の宣伝を兼ねてのことでしょうね。知人が「へうげもの」にこっています。

投稿: えびすこ | 2011年10月29日 (土) 08時26分

えびすこさん、こんばんは~

「へうげもの」のおかげで、すいぶん前の織部さんおページにも、多くの閲覧者の方が来てくださいます。
ありがたいです。

投稿: 茶々 | 2011年10月29日 (土) 23時20分

私の先祖は武野紹鴎でございます。ルーツを捜し勉強しておりますわかりやすくておもしろいい年表に感激です。どこでこれをお調べになりましたか?

投稿: さかい | 2012年6月 2日 (土) 00時37分

さかいさん、こんばんは~

堺の町を散策した時は、ちょうどイベントをやっていて、あっちこっちにボランティアガイドさんがたくさんおられたり、お寺の方にもお話を聞く事ができ、中には、ご自分の史料を見せて下さるガイドさんもおられ、大変勉強になりました。

普段は、特別な史料を見せていただいたり、住職さんにお話を聞く事など、歴史素人の私にとってはとても不可能な事なので、市販されている書籍や、公開されている史料などを見聞きしてブログを書いております。

また、遊びに来て下さるとうれしいです。

投稿: 茶々 | 2012年6月 2日 (土) 21時08分

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