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2010年10月 5日 (火)

盛岡の基礎を築いた中興の祖・南部信直

 

慶長四年(1599年)10月5日、陸奥・南部氏の中興の祖と言われる南部信直が54歳の生涯を閉じました。

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南部氏は、甲斐(山梨県)に勢力を誇った武田氏の一族で、鎌倉時代の当主・光行(みつゆき)の代に、陸奥(むつ・青森県)へと移住しました。

戦国時代末期の当主である安信(やすのぶ)晴政(はるまさ)父子の時代に、第15代室町幕府将軍となった足利義昭(よしあき)織田信長に接近して中央との太いパイプを持つようになり、同時に、岩手鹿角(かづの)津軽などへ領地を拡大し、東北に一大勢力を誇る事になります。

しかし、こうして大きな大名になって来ると、いつもの悩みの種となるのが後継者の問題・・・第24代当主となった晴政には、後を継ぐべき男子がいなかったのです。

そこで、父・安信の弟(晴政自身の弟の説もあり)で、当時の南部一族で津軽地方の内政担当をしていた石川高信の息子を娘の養子として迎える事になりました。

この人が南部信直(なんぶのぶなお)です。

ところが、元亀元年(1570年)、信直・25歳の時、晴政に実子が誕生してしまうのです。

こうなると、実の子に後を継がせたくなるのが人の常・・・もちろん、信直も、すでに大人なので、その事は、雰囲気でわかりますから、天正四年(1576年)に晴政の娘である奥さんが亡くなったのをきっかけに養嗣子の座を辞退し、もともと実父・高信の城であった田子城(青森県三戸郡)に引きこもってしまいます。

この直後に晴政は、晴れて実子を後継者とし、翌年には元服させて南部晴継(はるつぐ)と名乗らせました。

しかし、お察しの通り、信直の引きこもりは、ただの引きこもりじゃぁ~ありません。

だいたい、そんなもん
「本当の後継ぎが生まれちゃったので、代わってやってネ」
「ハイ、そうですか」
と、すんなり納得できるワケはありませんから・・・

・・・で、動きが出るのは、その晴政が亡くなった天正十年(1582年)・・・父の死を受けて、すんなりと第25代当主となった晴継でしたが、なんと、その父の葬式の帰りに暴漢に襲われ、そのまま命を落としてしまうのです。

享年、わずか13歳の若き当主でした。

もちろん、その後を継いで第26代当主となったのは信直・・・どっからどう見ても、もう、臭いまくりです。

一説には、先代の晴政の死さえ信直の仕業で、本当は、晴政・晴継父子を攻め滅ぼして、取って代わったという事ではないか?との話もありますが、実は、この一件、疑うべき存在は信直だけではないのです。

前年の天正九年(元亀二年=1571年説もあり)には、南部一族に従属していたはずの津軽為信(つがるためのぶ)が、信直の実父・高信を死に追いやって石川城を攻略し、実質、津軽地方を支配をしていた・・・つまり、津軽独立宣言をやったワケで(12月5日参照>>)、その次に南部氏の本拠地を奪い取ろうと考えていた可能性も無くはありません。

また、晴継の後継者には、信直以外にも、南部一族の中の九戸実親(くのへさねちか)の名前もあがっていたのです。

なんせ、この九戸氏は、南部一族の中でも最強の勢力を誇る九戸政実(くのへまさざね)の一族ですし、その弟である実親も、亡き晴政の娘婿となっていたのですから・・・後継者になる可能性なら、こちらにもある事になりますので、やはり、手を下したのが九戸の可能性もなきにしもあらず・・・

とは言え、北信愛(きたのぶちか)ら重臣の鶴の一声で、結局は信直が第26代当主という事に・・・

これ以降、九戸氏は、「我こそは正統な南部氏の後継!」として、南部氏への反乱を繰り返す事になります。

その最後で最大の反乱となったのが、以前書かせていただいた九戸の乱です。

天正十八年(1590年)、天下目前となっていた豊臣秀吉に近づいていた信直は、いち早く小田原征伐(3月29日参照>>)へと駆けつけ、秀吉の傘下にすべり込み・・・続く奥州仕置き(11月24日参照>>)にも積極的に参加し、豊臣方の浅野長政(秀吉の義弟)らとともに先鋒を務めて活躍します。

しかし、その奥州仕置きの中で、どうしても鎮圧できなかった九戸の乱を、秀吉配下の武将たちの力を借りて攻略したわけです(9月4日参照>>)

・・・とは言え、この小田原征伐では信直よりも先に、津軽の為信が参陣していまして、大いに喜んだ秀吉によって、為信は津軽3万石を安堵される・・・つまり、ここで、津軽は完全に独立しちゃった事になります。

この時からの南部氏と津軽氏の確執は江戸時代になっても続き、騒動が絶える事はなかったのですが、そのお話は、また、いつかさせていただく事として、とりあえずは、この津軽の代わりとも言うべき領地=和賀(わか)稗貫(ひえぬき)志和(しわ)の3郡を秀吉から与えられ、南部十郡と称された領内の平定が、この信直の時代に、ほぼ完了するのです。

その後の朝鮮出兵では、肥前(佐賀県)名護屋城に駐屯しながらも、京都の伏見城の建設にも携わるという大サービスぶりを発揮。

さらに、「もはや中央に背く気はござんせん」とばかりに、戦国の名残りとも言える自らの支城を次々と破却して、近世の本格的な大城郭=盛岡城の構築に着手するとともに、城下の整備にも力を注ぎます。

ただ、ご本人は、すでに病に冒されており、盛岡城の完成を見る事なく、慶長四年(1599年)10月5日出張先の福岡城(福岡県福岡市)で、その生涯を閉じましたが、その頃には、ちゃっかりと徳川家康派に転身していて、翌年の関ヶ原の戦いの時には、信直の後を継いだ嫡子・利直(としなお)徳川方として奮戦しました。

おかげで、江戸時代を通じて、南部20万石を守りぬいて、無事、明治維新を迎える南部藩・・・300年続く、南部藩の基礎を築いた人物として、南部信直は中興の祖と称されるのです。
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