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2010年10月 7日 (木)

北条に仕えた謎の名軍師・中山修理介

 

天文七年(1538年)10月7日は、室町将軍の支族である小弓公方足利義明安房の戦国大名・里見義堯が、相模の戦国大名・北条氏綱と国府台で戦った『第一次・国府台合戦』があった日です。

・・・・・・・・・・

公方(くぼう)とは・・・
もともと関東の武士でありながら、京都で幕府を開いた足利尊氏が地元の関東を治めるべく派遣した尊氏の次男・足利基氏(もとうじ)に始まり、代々その子孫が受け継ぐもの・・・

尊氏の長男・足利義詮(よしあきら)の血筋が代々の将軍なので、その親戚という事になりますが、第4代公方の足利持氏(もちうじ)の時に、関東を独立国家のように支配した事から、第6代将軍・足利義教(よしのり)によって滅ぼされてしまいます。

しかし、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が、下総古河(こが・茨城県古河市)に拠点を置いて古河公方を名乗り、公方奪回を目指して各地で反乱を起こしました。

この古河公方3代目の後継者争いで、兄と対立して下総小弓(おゆみ・千葉県中央区)に拠点を置いた事から小弓公方を名乗ったのが足利義明(よしあき)で、当時、安房(あわ・千葉県南部)一帯に勢力を持つ里見義堯(さとみよしたか)の協力を得て、古河公方とも同盟を結んだ北条氏綱国府台(こうのだい・千葉県市川市)で戦う事になります。

これが第一次・国府台合戦なのですが、その戦いぶりはすでに2007年の10月7日に書かせていただいている【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】>>でご覧いただくとして・・・

本日は、結果的には、その得た敵首の数・3000余りという北条側の大勝利となったこの戦いで、首実検をしたという北条氏の軍師中山修理介(なかやましゅりのすけ)について・・・

・‥…━━━☆

・・・とは言え、この方、生年も没年もわからない謎の人です。

そりぁ、北条の名軍師と聞けば、ぜひともその活躍ぶりを知りたいと心躍るものの、巷にあまたある書籍にも、ほとんど登場しない・・・なんせ、歴史好きの間では人気の戦国時代ですが、それは武田信玄や上杉謙信、さらに、織田信長らの三英傑が活躍する後半部分で、このあたりの事が書かれている物には、なかなかお目にかかれません。

専門書などでは、くわしい物もあるのかも知れませんが、素人の私には、探すのさえひと苦労・・・現地におもむけば何かしらのヒントは得られるでしょうが、関西在住の私には、遠い国府台・・・

「最後の手段!」とネットをググれば、「中山修理介」で97万件ヒットするも、ほとんどが「中山道が古くなったので修理する」だとかの話で、修理介さんご本人の事が書かれているのは、わずかに1件で、しかも、たった1行・・・そう、この首実検をした事しか書かれていない始末です。

しかし『北条五代記』では、この修理介について
「数度の合戦に武略をもって敵を亡し軍法兵義を知る故実の者、兼ねて武士司(ぶしつかさ)にふらせる」
と紹介しています。

この「ふらせる」というのは「補らせる(おぎなわせる)という意味と思われ、つまりは、「軍法兵義を知る=軍配者」「武士司=旗本軍奉行」兼ねていたという事になります。

通常はありえません・・・合戦の場において、この二つは、それぞれ別の軍師が行う別の職務であるはずなのです。

・・・と、ここで、少し横道にそれますが、いわゆる「軍師」と呼ばれる人たちとは、どんな仕事をする人たちなのか???というお話を・・・

軍師と聞いてすぐに思い浮かぶのは、ドラマなどで描かれる、合戦の作戦などを練るカッコイイ人・・・もちろん、それも軍師ですが、それ以外にも、軍師を兼ねている武将もいれば、合戦の日どりを決める占い師的な仕事も軍師の仕事なのです。

  • 陰陽師(おんみょうじ)
    平安時代の安倍晴明(9月26日参照>>)が有名ですが、戦国時代の陰陽師も、いわゆる陰陽道に長けた占い師の事で、合戦に良い日を決めたり、必勝祈願の祈祷をやったりします。
  • 修験者(しゅげんじゃ)
    あの役小角(えんのおづね)(5月24日参照>>)を祖とする密教系の修業をする人で、陰陽師と同様に祈祷を行うほか、そのフットワークの軽さを生かして、敵方の情報収集をするスパイ的な役割もしていました。
  • 軍配者(ぐんばいしゃ・軍配師)
    陰陽師や修験者の観点から風水的に戦略を考える事もあれば、その日の天候や風向きによる気象予報士的な戦略も、さらに兵法を熟知した人物がその知識を駆使して戦略を練る事もあり「軍配兵法家」とも称されます・・・武田信玄に仕えた判兵庫(はんのひょうご)のように、陰陽師から軍配者的軍師となる人もいました。
  • 傅役(もりやく)
    いわゆる子供の養育係ですが、身の回りの世話をするのは女性ですから、男性の傅役の場合は、養育というよりは、目指す指針を示したり、マネージャーや秘書的な役回りが多く、その子供が成長してもそばにつき、補佐役をこなす事もあります。
  • 旗本軍奉行(はたもといくさぶぎょう)
    軍勢の召集が主な仕事ですが、時には大将に代わって旗本隊の指揮を行う事もありました。
  • 与力(よりき)
    有力な武士などに加勢・付属する武士の事で、中国地方を攻略中の羽柴(豊臣)秀吉についた竹中半兵衛(6月13日参照>>)黒田官兵衛(11月29日参照>>)がこれに当たります・・・現在の私たちが「軍師」と聞いて描くイメージに一番近いのかも知れません。
  • 小姓(こしょう)
    ご存じ、武将の近くに仕えて雑用などをこなす少年で、夜のお相手をしたなんて話もありますが、彼らは、言わば幹部候補生なわけで、織田信長に仕えた前田利家のように、その実力により、戦略的アドバイスも可能な役どころです。
  • 評定衆(ひょうじょうしゅう)
    戦国大名の持つ最高意思決定機関の事で、つまりは軍議に参加するメンバーの事です・・・ドラマなどでは、よく、部外者とおぼしき後ろの方から意見を言って採用されて大出世なんて事になりますが、そんな幸運は、たぶんないです(゚ー゚;北条氏には20人くらいいたと記録にありますが、越前の朝倉氏では6人だったと言いますから、下っ端はなかなか軍議には参加させてもらえなかったでしょうね。

・・・と、こうしてみると、軍配者と旗本軍奉行・・・兼ねそなえる事もできるにはできますが、本来は、別々の仕事である事がわかります。

『北条五代記』の修理に関する部分については、専門家でも「おそらく事実であろう」とおっしゃる箇所でもありますから、これが事実だとすれば、修理介という人は「数度の合戦に武略をもって敵を亡し」た事によって、両方を兼ねる役どころとなった・・・

つまり、ものすごく戦略に長けていて、すばらしい功績を残した事によって、他に例を見ない二つの役を同時にこなしたという事になります。

そんな話を聞くと、ますますどんな人で、どんな戦略をたてたのか知りたくなるんですけど・・・

小耳に挟んだ情報によれば、八王子城の攻防戦(6月23日参照>>)で討死した北条家の重臣・中山家範(いえのり)と、その息子で、徳川家康・秀忠親子に仕えて、関ヶ原では上田城攻防戦(9月2日参照>>)に参加し、大坂の陣にも参戦した中山照守(てるもり)なる父子が、ひょっとしたら、この修理介さんの子孫かも知れない・・・という事で、そのへんから探ってみれば、何かつかめるかも知れません。

いつの事になるやらわかりませんが、何とかつかんでみたいと思います・・・無期限の長~いスパンで、今後に期待してくださいませ~
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コメント

茶々さん はじめまして。
gontamosukeと申します。

偶然見つけた、茶々さんのこのブログ。
とても面白いです。
デスクトップに貼り付けて毎日見るようにしています。
これからも「無期限の長~いスパン」で頑張って下さい。

投稿: gontamosuke | 2010年10月 9日 (土) 20時38分

gontamosukeさん、はじめましてo(_ _)o

面白いと言ってくださり、ありがとうございます。
とても励みになります。
これから、よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 00時55分

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