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2010年10月 8日 (金)

維新から44年…ようやく実現した対等の日本

 

明治四年(1871年)10月8日、明治政府が通商条約改正予備交渉の為に岩倉具視らを使節として欧米に派遣することを決定しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日、派遣が決定し、実際には、約1カ月後の11月12日に横浜港を出港し、約2年間に渡ってアメリカやヨーロッパ諸国を巡る事になる岩倉使節団・・・

政界のトップや留学生を含む、総勢107名の大移動です。

彼らに課せられた使命は・・・

  1. 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する事
  2. 欧米諸国の現状の調査
  3. 幕末に結ばれた不平等な条約を改正する準備

この中で、日本が本当にやりたいのは3番の条約改正ですが、そのためには、条約を結んでいる相手国との友好を深める必要があり、交渉相手の現状も知る必要があるわけで、3番を実現するためには、1番と2番を先にやっとかなきゃならないわけです。

結果的に3番に関してはまったく進展がなく、帰国後には「金を捨てた」との非難を浴びる使節団ですが、この時同行して西洋を学んだ留学生の多くが、帰国後には政治・経済・文化・教育などの分野に大いに貢献する事を考えれば、丸々捨てたとは言い難いですし、3番のような重要事項が一朝一夕にかたずくはずもないのです。

・・・で、結局、この条約改正については、今回の岩倉具視を発端に→寺島宗則→井上馨→大隈重信→青木周蔵と続き、陸奥宗光と小村寿太郎の二人によってやっと完成形となるのですが、その流れとは、いったいどんなものだったんでしょうか?

・‥…━━━☆・

そもそもは、幕末のペリー来航でアタフタする中、相手の言いなりに結んでしまった条約・・・これが、幕府が倒れた維新後にも引き継がれ、明治政府の悩みの種となります。

一刻も早く、条約を改正するためには、立憲君主制を確立する事・・・一人前の国家として認められ、国際社会で相手してもらえるような国にならねばなりません。

そのための憲法であり、国会開設だったのです。

少し前のマリア・ルーズ号事件(9月13日参照>>)でも、チョコッと出てきましたが、その改正したい点は次の2点・・・
1、関税自主権の取得
2、領事裁判権制度の撤廃

ちょっと難しい言い回しですが、要するに
「関税を自由に決められる権利をちょうだい」
て事と
「治外法権(外国人には日本の法律が適用されない)を廃止したいわ」
って事です。

そして、まずは、今回の岩倉全権大使の失敗を受けて、外務卿・寺島宗則(てらじまむねのり)税権回復に乗り出します。

明治十一年(1878年)には、アメリカの同意に成功して日米関税改定約書の調印にこぎつけますが、イギリスやドイツの反対によって無効に・・・そのまま、この話は頓挫します。

次に、外務卿・井上馨(かおる)が交渉を開始します。

彼の出した条件は・・・
「2年以内には、外国人に内地を解放して、自由に、営業活動や旅行、居住を認める(当時は外国人居住区という住む場所が決められていました)し、外国人の判事も任命するから、その代わりに領事裁判権制度を廃止して、輸入関税も引き上げてチョーダイ」
というものでした。

さらに、その条件を呑んでもらおうと、外国人へのご機嫌取りにも走ります。

文明開化の名のもとに、様々な物を欧米化するのです。

その象徴とも言えるのが、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)・・・「ここはヨーロッパか?」と見紛うような外観の洋館を建て、政府高官が外国人の紳士・淑女を招いて、毎夜々々大舞踏会を開催・・・

Rokumeikan1 鹿鳴館の舞踏会

しかし、「お金を湯水のごとく消費するワリには、低級な欧米主義」国内では不評・・・さらにフランス人法律顧問のアソナードにも、その出した条件そのものを反対され交渉は無期延期となり、井上も辞職に追い込まれます。

そのあとを受けたのが、次に外務大臣になった大隈重信(おおくましげのぶ)・・・

彼は、なんとかアメリカとドイツとロシアとの間で関税についての改正条約・調印に成功しますが、外国人判事の任用を認める条約をメキシコと交わしていた事が、ロンドンの新聞にスクープされ、国内で大騒動となり失脚します。

次に外務大臣になった青木周蔵(しゅうぞう)は、イギリスとの交渉を再開した矢先に、訪日中のロシア皇太子が襲撃される、あの大津事件(5月11日参照>>)が起きて辞任・・・交渉はそのままストップとなります。

ようやく明治三十五年(1902年)、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)によって、日英通商航海条約を締結する事ができ(8月24日参照>>)領事裁判権制度の撤廃に成功・・・

さらに、ここらあたりから、日清・日露戦争の勝利(9月6日参照>>)による日本の国際的評価の高まりを受け、明治四十四年(1911年)、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって関税自主権の獲得に成功するのです。

岩倉使節団の派遣から、ちょうど40年・・・長い長い道のりでした。
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コメント

こんにちは。今も昔も外交問題は、頭が痛いですね。若い人も海外に行かないようです。観光庁も、もっと海外へと言っていますが。

投稿: やぶひび | 2010年10月 8日 (金) 16時24分

青木周蔵さんの孫だかひ孫だかに当たる方が以前あったペルー日本大使館襲撃事件の時の大使だったんでしたっけ。この方、態度が悪いとか何とかで大バッシングされ左遷されちゃったんじゃなかったかな。マスコミの怖さを痛感しました。堂々として私は好ましかったけどな。周蔵さんも優秀な方だったけど大津事件以来表舞台に出られなくなったとか。この一族はアンラッキーなんだなぁ。小村寿太郎も確か日露戦争の戦後処理でさんざ悪く言われたんでしたっけ?外交の表舞台に立つ方は本当に大変だ。

投稿: Hiromin | 2010年10月 8日 (金) 21時10分

やぶひびさん、こんばんは~

>今も昔も外交問題は、頭が痛いですね。

ホントですね~
強気に出れば叩かれ、弱気になれば付け込まれる…果たして、今現在も世界から一人前の対等の扱いをしてもらってるのかどうかが微妙なところではありますが、政治家さんや外交官さんには頑張っていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2010年10月 9日 (土) 02時07分

Hirominさん、こんばんは~

>青木周蔵さんの孫だかひ孫だかに当たる方が…

タバコ吸いながら会見しちゃったんでしたっけ?
そっか…あの方の曽祖父だったんですね~
すっかり忘れてました(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2010年10月 9日 (土) 02時14分

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