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2010年11月30日 (火)

明治のジャーナリスト・成島柳北

 

明治十七年(1884年)11月30日、幕末には徳川幕府の学者として活躍し、維新後はジャーナリストとしてその才能を発揮した成島柳北が48歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

天保八年(1837年)、成島筑山の三男として(養子の説もあり)浅草に生まれた成島柳北(なるしまりゅうほく)は、その成島家が将軍に学問を教える奥儒者(おくじゅしゃ)の家柄であった事から、家を継ぐべく存在として、祖父や父からミッチリと教育を受けます。

柳北自身も、それに応えるべく、幼い頃から勉学に励み、見事に吸収していったのです。

Narusima やがて、成島家のもう一つの役目である徳川家の公式記録=『徳川実記』の編さんにも関わりながら、13代将軍・徳川家定や14代将軍・徳川家茂(いえもち)『日本外史』の講義も行うようになります。

彼のオモシロイところは、そんなお堅い仕事をするかたわらで、『柳橋(りゅうきょう)日誌』なる書物も書き残しているところ・・・この『柳橋日誌』は、その名前でもお察しの通り、色街のガイドブックのような物で、柳橋の遊郭街の繁盛ぶりを紹介しながら、そこに絡む人々の人情や、女の子のかわゆさなんかを絶賛するという、かなりくだけたシロモノです。

しかし、文久三年(1863年)・・・優秀であるがゆえに、将軍に対して、その講義の中で、これまでも度々、幕府機関・再編の独自の計画を提案していた柳北は、それが、ことごとく採用されなかった事で、幕府への不満を狂歌に託して発表!!

これが、お咎めを受けてしまい、3年間の閉門(謹慎)という処分を喰らってしまいます。

ところが、転んでもタダでは起きない柳北・・・この間に洋楽を学びに学んで、その知識はさらに拡大・・・慶応年間には外国奉行会計副総裁などを歴任します。

やがて、幕府の崩壊を見届けた柳北・・・新政府の役職には目もくれず、自ら一平民となって、明治五年(1872年)から約1年かけて、東本願寺法主(ほっす・最高指導者)大谷光瑩(こうえい)の付き添いとして欧米の視察旅行に出かけます。

帰国した柳北には、あの木戸孝允(たかよし・桂小五郎)から、新政府への参加のお誘いがかかりますが、これをキッパリと断わり、ジャーナリストとしての道を歩み始めるのです。

実は柳北・・・欧米視察に行く前の明治四年(1871年)に、例の『柳橋日誌』の続編を書いています。

漢文調でかなり難しい文章なので、恥ずかしながら私自身は直接読んだ事はないのですが、読める人にとっては、これが、実に痛快でオモシロイ読み物なのだそうです。

それは、一見、以前の江戸時代に発表した物と同様の、柳橋の風景紹介の様相を呈しておきながら、実は、痛烈な新政府批判が盛り込まれている・・・

以前は、芸を磨くプロ意識満々の芸妓たちが闊歩していた柳橋が、その芸を捨てて、色を売るだけの醜い花町に変貌してしまった姿になぞらえ、江戸情緒の洒落を理解しない成り上り丸出しで権力を奮い、金銭ばかりに執着する新政府要人の低俗さを、笑いを交えて皮肉っているのです。

おかげで、明治七年(1874年)に発売された第二篇は、翌年には発禁・・・彼自身も獄中につながれる事になります。

しかし、ここでもタダでは起きない柳北・・・

欧米視察に出かけた頃は、自らを「天地間の無用人」と称して、新政府に背を向け、もはや引退だけを考えていた柳北ですが、4カ月後に出獄した後、この獄中の体験記を「ごく内ばなし」として朝野新聞上で発表するのです。

その監獄は、江戸時代のそれを思い浮かべるほど劣悪な物ではなかったものの、そこが、新政府に苦言を吐く、新聞記者を放り込むための物であった事が反響を呼びます。

こうして、新政府批判のジャーナリストとして論説を担当する柳北・・・

ただし、彼のスゴイところは、批判一辺倒ではなく、新政府の改革の良い部分は、ちゃんと認めている所です。

良きところは良いと評価し、批判すべき部分にはペンの武器を奮う・・・

近頃と言えば・・・
各社一斉に、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、持ち上げたかと思えば、突き落とす・・・何やら、それに振り回されている現在の私たちも、ここは一つ反省しつつ、一本シンの通った世論で、政治家さんたちと向き合っていきたいものです。

明治十七年(1884年)11月30日、わずか48歳で肺病を患った柳北は、惜しまれつつこの世を去りました。
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2010年11月29日 (月)

大河ドラマ・龍馬伝 最終回「龍の魂」と幕末の日本人

 

大河ドラマ・龍馬伝  最終回「龍の魂」

いよいよ、最終話を迎えましたね。

この最終回で最も印象に残ったシーンは、
やはり、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺シーン!・・・に入った選挙速報のテロップ(笑)

確かに、選挙も・・・
いや、ある意味ドラマより重要な事ですが、
なにも、一番の盛り上がりシーンに流さなくても・・・

1分でもズレていれば、さほど気にもならなかったんでしょうが、ものの見事に、計ったように、一番いいシーンに流れてくれたおがけで、龍馬の回想(夢)シーンに、なんで、平井収次郎が出て来ない?という違和感も吹っ飛んじゃいました。

違和感と言えば、皆を疑心暗鬼にさせる『新政府綱領(こうりょう)八策』に書かれている伏字=○○○の部分・・・(6月22日参照>>)

実際には、龍馬自身は、この○○○は、徳川慶喜(よしのぶ)のつもりだった言われています。

以前から、度々書かせていただいているように、この八策は、徳川を存続させるための策なわけですので、その流れから行けば、慶喜が順当なところでしょうが、もちろん、本当にそうだったかは不明です。

なので、ドラマの中で、「誰が入るのだろう?」と皆が悩むのは当然なのですが、なんとなく、その決定権が龍馬にあるかように受け取れる造りになっていた気がして、少々気になりました。

ドラマ内の龍馬自身も、
「皆で選ぶがじゃ」
と言っていたわけですし、なんで、薩摩も長州も、あそこまで、龍馬の意見を気になさるのかが、も一つ理解できませんでした(私の理解力が足りないせいもありますが…)

また、主役なので仕方がないとは言え、(おか)蒸気VS蒸気船で輸送力の競争になるとか、北海道を開拓するとか、龍馬の構想も果てしなく広がるばかりで・・・

前半の二股膏薬ぶりから一転した、後半の一貫性ぶりは見事でしたが、その変化をもたらしたのが何であったのかが、第1部・第2部などと分かれていたせいなのか、も一つはっきりしなかったような・・・

とは言え、11ヶ月を通してみた感想は、昨年の「天地人」に比べれば、ものすごくよかったです。

私のツッコミもドラマ自身への批判ではなく、「ドラマでは、こう描かれてましたが、実は・・・」という、歴史好きゆえの愛のツッコミと解釈いただければ幸いです。

なんせ、ドラマや小説は娯楽作品、おもしろい展開にしないと、その意味がありませんから、歴史に忠実である必要はなく、その歴史自体も、現在解明されている事が正しいとは限らないわけですから・・・

Dscn3627a800 京都伏見・寺田屋

てな事を言いながらも、最後に一言だけ・・・

この龍馬伝の終盤の龍馬は、一貫して
「皆が笑って暮らせる世の中になるがじゃ」
と、あたかも、幕末あたりが、すごく暗く、悲しい世の中のような表現がありましたが、幕末に日本に訪れた外国人の日記には、そろって、日本人の明るさが記録されています。

「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。」
「路上で殴りあいも口論も見かけなかったし、誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさない。」
「彼らの言葉をまねて少々大胆すぎるほど不正確に発音すると…若い娘たちの間から笑いがはじける。」

確かに、明治維新の劇的な改革は、人々を封建社会から解放し、今の日本があるのも、この幕末維新の動乱の中、その命をを賭けて国の行く末を切り開いた人々のおかげ・・・

そんな先人の苦労に思いを馳せながらも、それ以前にも、笑顔を絶やさなかった、古き良き江戸の人々がいた事も忘れてはなりません。

いつの世も平和を愛し、笑顔を絶やさない民族・・・平成の龍馬の出現に期待したい今日この頃です。

PS:ちなみに、海援隊の報復「天満屋事件」(12月7日参照>>)についてはまったく触れませんでしたね…ちょっと残念でした。
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2010年11月28日 (日)

信長も認めた優秀な後継者~暗愚ではない織田信忠

 

天正三年(1575年)11月28日、織田信長が嫡子・信忠に岐阜城と美濃・尾張2国に名刀星切を添えて、家督を譲りました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、あの本能寺の変で、父・織田信長ともに亡くなる織田信忠・・

Odanobutada とは言え、ドラマなどでは、大抵は、信長が炎の中で自害した場面から、すっ飛んで、次には、信長を討った明智光秀か、中国大返し(6月6日参照>>)で戻って来る羽柴(豊臣)秀吉への場面となり、信忠さんの事はナレーションだけか、ひどい時にはまったくのスルーで、まるで、そこにいなかったかのような展開になる事もしばしば・・・

しかし、以前も書かせていただきましたが、この本能寺にて、信長だけでなく、この信忠も亡くなってしまう事で、初めて天下が宙に浮いて、後継者は誰に・・・となるわけで、もし、この信忠が、ここで生き延びていたら、例え信長が死んでも、その後継者を争う事にはならなかっわけで、実は、この信忠さんの死は、とても重要です。

なんせ、上記の通り、信長は完全に信忠を後継者に指名していましたからね。

しかも、この本能寺での信忠の死は、あくまで、彼自身が、「光秀なら、おそらく脱出路をすべて封鎖しているだろう」とよんで、わざわざ二条御所へと移動して、戦う事を選んだゆえの死・・・なんせ、この時、本能寺へ攻め込んだ光秀は、まるで信忠の存在を忘れたかのように、信長の遺体探しに夢中になっていたわけで、信忠は、この間に逃げようと思えば逃げられたわけです(現に、弟や息子は逃げています・12月13日参照>>

個人的には、そのへんのタイムラグについてが、この本能寺の最も重要な部分であると思ってますし、その部分だけでかなりの推理が成り立ちます(くわしくは2008年の6月2日へ>>)

・・・と、お話が本能寺に集中してしまいましたが、そこまで重要でありながら、ドラマなどで、よくスルーされるには、それなりのわけが・・・(私見ですが…)

・・・というのは、これまでの一般的な見解では、「この信忠は暗愚だった」とされていたからのです。

よく、信長は後継者に恵まれなかったゆえに1代で終わったとも言われますが、他の息子や弟は、本能寺の後も生きていますので、そこを秀吉に取って代わられたという点では、やはり、秀吉のほうの器が勝っていたという事なのでしょうが、信忠だけに関しては、ともに、ここ本能寺で亡くなっているので、一概に暗愚とは言い切れないのですが・・・

しかし、これまでは、例の徳川家康の息子・信康の一件に絡んでの記述が、かなり重要視されていたのです。

そもそもは、信康に嫁いだ信長の娘・徳姫「ダンナの悪口」の手紙を受けて、信長が家康に、「信康を殺せ」と命じたとされていますが(8月29日参照>>)、その手紙があまりにもしょうーもない手紙であるために、一般的には、「家康んちの信康君が優秀なのに対して、自分の後継者である息子たちが劣っていると感じ、次世代での力関係を不安に思った信長が殺害を命じ、逆らえなかった家康が涙を呑んで・・・」という三河物語などの記述を定説とする場合が多かったのです。

「家康の優秀な息子をねたんだ=つまりは、信長の息子が優秀ではなかった」と解釈できるわけで、ゆえに、信忠は暗愚であったという事になっていたわけです。

しかし、最近は、少し見方が変わってきています。

格言う私もそのクチで、信康さん自刃のページでも書かせていただきましたが、その「信長の命令で・・・」というのは、息子の死を家康(徳川家)のせいでない事にしたい徳川側の公式文書の言い分であって、実際には、徳川家内の内部分裂が原因であったと考えております(9月15日参照>>)

つまり、家康が息子を死においやった理由を、すでに死んでしまっている信長とその息子のせいにした・・・と。

逆に信長側の一番の史料である信長公記では、あの武田を滅亡に追いやった時の大将としての信忠の活躍ぶりが書かれています(3月11日参照>>)

この武田攻めの時、信長は、信忠の宿老である河尻秀隆(かわじりひでたか)
「俺が行くまで、信忠に無茶をさせるな」
てな内容の手紙を送っていますが、

この手紙の事を知ってか知らずか、信忠は、縦横無尽の活躍で武田領に侵入するなり、果敢に攻めまくり、高遠城攻めなどでは最前線に立って戦っています。

・・・て事は、言わば、信長の命令に背いた事になりますが、これを信長が怒ったという形跡はなく、むしろ、約半月後の3月26日には、
「天下の儀も御与奪(よだつ)なさるべき旨(むね)
を、皆に告げた・・・つまり、本日の美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)だけに限らず、天下のすべてを信忠に継がせる事を宣言したとされています。

ゆえに、信忠は暗愚な後継者ではあり得なく、信長も認めた優秀な後継者で、本能寺の時点では、すでに信長は信忠に織田家を継がせる事を決めていたのです。

なので、光秀謀反の原因は、少なくとも「天下取り」でないと言えるわけです。

もし、光秀が「天下を取りたい」のであれば、信長と同時に、優秀な後継者である信忠も倒す必要があったわけで、本能寺の襲撃と同時に妙覚寺も襲撃していなければならず、信忠に二条御所へ移動するような時間を与えてはならないのです。

・・・と、ついつい、また本能寺にお話が戻ってしまいましたが゜.+:。(*´v`*)゜.+:
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2010年11月26日 (金)

白河上皇の院政の影に武士の存在

 

応徳三年(1086年)11月26日、第72代・白河天皇が息子の善仁(よしひと)親王(堀川天皇)に譲位して上皇となり、院庁を開設しました・・・これが院政のはじまりとされています。

・・・・・・・・・・・

まぁ、そもそも一番の理由は、「息子に後を継がせたい」って事なんですけどね( ´,_ゝ`)

実は、白河天皇の父の後三条天皇は、「自分の後には異母弟を順々に即位させたまえ」ってな遺言を残して亡くなられたんですが、やっぱり白河天皇のホンネとしては息子がカワイイわけで・・・

それには、自分の目の黒いうちに、さっさと皇位を譲ってしまって、幼い天皇を、自分が上皇となって助けてやるのが一番良い方法なわけで・・・

って事で、応徳三年(1086年)11月26日、まだ8歳の我が子・堀川天皇を即位させて自分が天皇に代わって政務をこなす院政の誕生となったわけです。

とは言え、これまでも、幼い天皇が即位して周囲の大人がサポートする事はありました。

ご存じ、摂関政治というヤツで、例の藤原一族・大栄華の一時代となったわけですが(8月19日参照>>)、もし、この時も、その時代のような環境だったら、当然、白河天皇が上皇となったところで、院政なんてできるはずもなかったのですが・・・

もはや時代が変わりました。

実は、先ほど出て来た白河天皇のお父さんの後三条天皇・・・この方、実に170年ぶりの摂関家を外戚(がいせき・母方の実家)としない天皇だったのです。

そもそもは、奈良時代のあの藤原不比等(ふひと)にはじまる藤原一族の外戚ゲット作戦(8月3日参照>>)・・・次から次へと藤原一族の娘を天皇家に嫁がせて、必死のパッチで男の子を誕生させ、その男の子を将来の天皇に・・・

ほんでもって外戚をゲットして実権を握る・・・と。

ところが、そんな藤原氏の勢力が、ここに来て急降下・・・というのも、後三条天皇の先々代の後朱雀(ごすざく)天皇や、先代の後令泉(ごれいぜい)天皇入内した摂関家の娘たちが、男の子を生まなかった事で、上記のように、とうとう摂関家の女性ではない人が生んだ後三条天皇の即位となったのです。

まぁ、おかげで後三条天皇は、摂関家に遠慮する事なく政治が行えるようになっていたのですけどね。

そんな父の環境を受けての白河上皇・・・今回の第73代・堀川天皇にはじまり、第74代・鳥羽天皇、第75代・崇徳(すどく)天皇と、3代=43年間に渡って院政を行い「治天(ちてん)の君」と呼ばれて政界に君臨する事となります。

こうして、もともとは「我が子に天皇を継がせたい」がためにはじめた院政でしたが、思わぬ付録もついていました。

なんせ、色々な制約のある天皇という地位に比べて、上皇なら、うっとおしい束縛を受けずに自由な政治が行えるのです。

調子に乗った白河上皇は
(自分の)思い通りにならないのは、賀茂川の水と双六のサイと僧兵だけ・・」
なんて、有名なお言葉も残されていますよね。

そんな院政の中心となるのは「院庁」という機関で、これは(上皇の御所)に設置された私的な機関にも関わらず、ここから出される院宣(いんぜん・命令)には絶大な効力があり、朝廷も逆らえないという状況だったのです。

院庁が、これほどまでの力を持つ要因となった1番は、直属の武力を持っていた事・・・

それは、院の北側の置いて警固を行わせた事から、「北面の武士」と呼ばれた武装集団です。

先ほども、白河上皇が「思い通りにならない」と言ってたように、この頃の寺院の勢力というのは、それぞれに僧兵を備え、その武力で以って政治にも圧力をかけて来るものだった(12月18日参照>>)わけですが、一方の朝廷内の貴族たちも、ほとんどが仏教徒なわけで、無理難題をふっかけて来られても、仏罰が怖くて対抗できない・・・結局は、その力に屈する事になってしまうのです。

しかし、武士は仏罰を恐れる事無く、堂々と僧兵に立ち向かう・・・そんな武装集団を持っている院だけが、彼らに対抗できたわけです。

おかげで、白河上皇にはじまった院政は、鳥羽上皇を経て、あの日本一の大天狗後白河法皇(10月26日参照>>)へと約100年に渡って受け継がれます。

・・・とは言え、皮肉なものですね~
結局は、その院が頼りにした武士が政権を奪取し、まったく違う世の中へと変貌していくのですから・・・
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2010年11月25日 (木)

戦いの空しさに出家した源氏の猛将・熊谷直実

 
建久三年(1192年)11月25日、源頼朝に仕えた武将・熊谷直実が出家して蓮生坊と号しました。

・・・・・・・・・・

永治元年(1141年)に、現在の埼玉県・熊谷に生まれた熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、幼い頃に父を失い、母方の伯父である久下直光(くげなおみつ)に養育されたと言います。

やがて、15歳の時に保元の乱(7月11日参照>>)で初陣を飾ってからというもの、平治の乱(12月25日参照>>)から石橋山の合戦(8月23日参照>>)金砂城の攻略宇治川の合戦・・・と、源平の戦いのほとんどに参戦し、一騎当千の荒武者として、その名を馳せました。

・・・とは言え、彼のライバルである梶原景時(かげとき)と同様、もともとは平家の傘下だったのが、石橋山をきっかけに源義朝の配下となった経歴でもあるんですが・・・。

そんな彼を最も有名にしているのは、一連の源平の戦いの中の一の谷の合戦・・・そう、あの青葉の笛で有名な貴公子・平敦盛(あつもり)の相手役としてですね。

直実が戦いの中で偶然遭遇した自分の息子と同じ年頃の美少年・・・しかし、敵に情けをかける事は許されず、心を鬼にして彼を討ちます。

討ち取ってから錦の袋を見つけた直実は、その人が笛の名手であった事、そして、昨夜、そこが戦場である事を忘れさせてくれるかのように聞こえていた美しい音色の主が彼であった事を知るのです・・・と、この平家物語屈指の名場面は2月7日のページ>>でご覧いただくとして・・・

このように、個人的な恨みなどあるわけもなく、味方にとっては惜しむべき愛する人を討ちとらねばならない戦というもの・・・

愛する人を失った家族は悲しみ、討ち取った本人も苦脳と空しさだけが残る戦いに、果たして意味があるのか?と・・・この敦盛との一戦は、直実の心の中に深く刻まれる出来事となったのです。

Naozanaatumori 源平一之谷大合戦之図・直実&敦盛の部分(静岡県中央図書館蔵)

・・・とは言え、直実は、元来、気性の激しい武士の中の武士・・・
心痛めながらも、自らの置かれた立場を理解しながら、その使命を貫く実直な人でもありました。

やがて源氏の世となった建久三年(1192年)11月25日・・・かねてからモメ続けていた伯父・直光との領地の境界線を巡っての争いで、ついに公の場で話し合いによる決着をつける事になりますが、武闘派で討論の苦手な直実はかなり不利な立場に置かれます。

しかも、相手側には、弁のたつ梶原景時が味方についた事で、もう、話し合いは一方的に押されまくり・・・

ついにこらえきれず直実は、
「もう、ええ!!!なんぼ話してもムダや!(`Д´)
と、証拠書類を投げつけて席を立ち、持っていた刀にて髪を落とし、その場で出家してしまったのです。

これには、そばにいた頼朝も、びっくり仰天したようですが、やはり、これは、あくまできっかけでしょうね。

おそらくは、彼は、あの一の谷以来、ずっと、出家の機会を模索し続けていたのかも知れません。

なぜなら、この時の直実は、席を立ったまま自宅にも戻らず、その足で京へ上って法然上人のもとへと訪れ、
「私は、数々の戦いの中で多くの人をあやめてしまいましたが、そんな私が浄土往生するには、どないしたらよろしいんでっしゃろ?」
と、その心の内を打ち明けているのです。

しかも、その手には武士の誇りである刀を握ったまま・・・

法然が
「罪の重い軽いは関係ないですよ・・・ただ、ひたすらお念仏を唱えなされ。
そうすれば、必ず極楽へ導かれるでしょう」

と、やさしく諭すと、

「自分は、この手足を斬り落としでもせん限り、ムリやと思ておりました」
(そのために刀を握りしめていたようです)
「けど、お念仏さえすればよいとは・・・」
と感激の涙を流し、以後、蓮生(れんせい)と号して、法然のもとで修業に励む事になります。

そんな彼の実直な性格は、僧になってからも発揮されました。

西方浄土のある西に背を向ける事はできない。
法然上人のおわす京に背を向ける事はできない。

と、長年の修業を終えて、関東の熊谷に帰る時には、馬の背に鞍をさかさまに置いて、反対向きに馬に乗って帰って行ったのだとか・・・

その後、多くの寺院の建立に尽力するとともに、仏の道にドップリと浸かる毎日を送った直実は、やがて建永二年(1207年)、自ら、「極楽浄土に生まれかわる」高札を立てて予告し、その言葉通りに往生したという事です。

生前、出家を決意した直実が、門前の松の木に馬をつなぎ、脱ぎ捨てた鎧を洗ってかけたという京都の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)には、現在、直実と敦盛の五輪塔が向かい合わせに建っていると言います。

遠き浄土で再会した二人・・・今度は、お互いの立場を越えて心穏やかに、楽しい会話を弾ませている事でしょう。
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2010年11月24日 (水)

小田原征伐を宣言!秀吉の宣戦布告状

 

天正十七年(1589年)11月24日、豊臣秀吉北条氏直宛に宣戦布告の書状を送りつけました。

・・・・・・・・・

亡き織田信長の後を受けて、天下統一を進める豊臣秀吉・・・

天正十三年(1585年)には四国を平定し、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定し、その間に、越後(新潟県)上杉景勝とも主従関係を結び、天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布します。

この『惣無事令』というのは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という事で、秀吉が関白の権限で行った、まさに、天下統一の証とも言える命令です。

しかし、ここにきても、まだ、秀吉に従わなかったのが、あの北条早雲以来、100年に渡って関東を牛耳ってきた北条氏です。

この頃の北条氏の家督は、すでに氏直が継いでいたものの、未だ、その父親の氏政の意向が大きく反映される状況で、北は伊達政宗(だてまさむね)と結び、南は徳川家康の娘を氏直の嫁とし、この三国の同盟により、秀吉に対抗できると思える状況でした。

しかし、ここに来て、さすがの北条も少しは柔軟な態度へと変化して来てはいました。

・・・と言うのも、あの小牧長久手の戦い以来、家康は秀吉の傘下となり(10月17日参照>>)、対立ではなく、むしろ間に立って北条を説得する方向へと転換していたからです。

家康からの
「なんとか、上洛して秀吉っさんに頭下げてくれへんかな?
もし、アカンかったら、娘を返してくれてもええんやで」

と、明らかに秀吉寄りの書状によって、氏政・氏直父子も態度を軟化させ、天正十六年(1588年)には氏政の弟・氏矩(うじのり)上洛させたりなんかもしてみます。

ひょっとしてウマく行けば、このまま、北条も豊臣の傘下に収まったかも・・・とも思える状況ですが、そうは問屋が卸ませんでした。

天正十七年(1589年)10月23日、北条配下・沼田城猪俣邦憲(くにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城を突然奪った事件・・・名胡桃城奪取事件(10月23日参照>>)が勃発!

明らかに、冒頭の『惣無事令』に違反しています・・・とは言え、なんだか「違反してください」と言わんばかりの目と鼻の先の位置に、領地問題のややこしい双方の城が・・・という状況は、やはり、秀吉のたくらみがムンムン

とにかく、「傘下になるんだかならないんだか、のらりくらりと引き延ばすんなら、やってまうゾ!」と思っていた秀吉にとって、そのきっかけには、持ってこいの事件だったわけです。

とは言え、もはや天下を手中に収めた感のある秀吉・・・まだ、慌てません。

ここで、もう一回、謝罪の意味を込めて、氏政・氏直父子の上洛を要請します。

しかし、それを潔しとしなかった氏政は、ここに来て、またまた、のらりくらりと・・・

かくして天正十七年(1589年)11月24日、ついに秀吉は5ヶ条からなる北条征伐の宣戦布告状を氏直宛てに発したのです。

Hideyosiodawarasyuinzyou1000 秀吉の朱印状(笠岡市蔵)

「一、北条事、近年公儀さげすみ、上洛あたはず、殊(こと)に、関東において我意(がい)にまかせ狼藉(ろうぜき)の条、是非に及ばず
(しか)る間、去る年御誅罰(ごちゅうばつ)を加へらるべきところ、駿河大納言家康卿、縁者たるによって、種々懸望の間、条数を以て仰せ出され候(そうろう)へば、御請け申すについて、御赦免なされ、即(すなわ)ち、美濃守まかりのぼり、御礼申し上げ候事・・・」

・・・と、冒頭部分は、まずは、弟の上洛へのお礼なんか言っちゃってるところが、よけいに怖い(〃゚д゚;)ゝ

「怒らへんから、なんでか理由言うてみぃ」
と、笑顔で語りかけるオカンのようです。
(理由言うたらゼッタイ怒られるパターン).

・・・で、このあと、名胡桃城争奪戦の経緯に触れながら、徐々に北条批判へと移り、その次には、自分が信長に仕えてから、徐々にのし上がって行く様を、明智光秀柴田勝家を例に出して自慢げに話しつつ、いかに自分が強いかをアピール

最後の条では、自らを「天道に相叶(あいかな)ふ者」「万機の政(まつりごと)にあずかる者」と位置づけて、
「天道に背いた氏直には、必ず天罰が下る!」
「来年には、絶対、首取ったる!」

と、まさに「天に代わっておしおきヨ!」脅しをかけているのです。

さらに、秀吉の巧みなところは、これを、北条に送りつけるだけでなく、同じ書状を伊達政宗や真田昌幸(まさゆき)など、各大名にもバラまいています。

つまり、何も言わずとも味方になるように、すでに手を打っているわけです。

はたして半月後の12月10日、京都の聚楽第(じゅらくだい)での軍議(12月10日参照>>)・・・
そして翌年3月29日には、いよいよ小田原征伐開始となるのですが、そのお話は3月29日のページでどうぞ>>
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2010年11月22日 (月)

龍馬伝・第47回「大政奉還」と徳川慶喜の思惑

 

大正二年(1913年)11月22日は、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜さんのご命日・・・しかも、昨日の大河ドラマ「龍馬伝」「第47回=大政奉還」って事で、ここは、またまた慶喜さんと大政奉還について書かずにおられなくなった次第で・・・

先週は、山内容堂公との会話の中で、ちょいとばかり幕府崩壊の雰囲気をかもし出し過ぎの感があり、ついついツッコミを入れさせていただきました(先週のページはコチラです>>)、今週は、その予告通り、慶喜の側近の永井さんに、「徳川家を存続させるためにはこれしかないので、大政奉還を受け入れるように」坂本龍馬が説得に行ってましたね。

一方の徳川慶喜さんは、ドラマ内では、二条城の大広間に集めた面々に向かって、「何か意見はないか?」と聞き、悩みに悩んでいる雰囲気・・・この大政奉還については、ずいぶん前のブログでも書かせていただいていて(2006年10月14日参照>>)、個人的には、この頃には、すでに、慶喜の気持ちは大政奉還に決まっていたのではないか?と感じています。

もちろん重大な決断なので、最後の最後まで真剣に向き合った事は確かでしょうが・・・

というのも、この時の慶喜のそばには、西周(にしあまね)という側近がいたからです。

この人は、幕臣ではなく、津和野藩の奥医師の息子として生まれながら、藩籍を捨てて蘭学を学び、オランダに留学した後、帰国してからは塾の先生などやってた人で、この時期は、慶喜にフランス語を教えていました。

実は、慶喜は、大政奉還を発表する前日の10月13日・・・つまり、ドラマで描かれた二条城の大広間のあのシーンの後にも、この周を呼び寄せてから、最終決断に至っているのです。

オランダ留学で、ヨーロッパの議会制度を目の当たりにしていた周には、この時、すでに描いていた政権構想=「議題草案」がありました。

その案とは・・・

まずは、政府の元首を大君とし、その下に全国事務府外国事務府国益事務府度支(たくし)事務府寺社事務府などの機関を置き、それぞれには宰相を任命・・・この宰相には各大名が割り当てられます。

さらに、その機関とは別の組織、具体的には上院下院二院政の議政院を設け、上院には万石以上の大名が就任し、下院には各藩から一人ずつ「輿論(よろん・世間一般の意見)に叶う人」(つまりは、実力されあれば身分は問わない人材投与)を藩主が選んで送り込むというものでした。

周の構想では、上記の大君には、もちろん慶喜が就任するという事で、しかも、この新体制は、京都と離れ過ぎている江戸ではなく、天皇のおわす場所に近い大坂を首都にして行うなんて具体的な話にまでなっていたそうで、さすがに、「選挙する」までの民主主義には至らないものの、かなり先進的なプランです。

つまり、この大政奉還をするしないの時点で慶喜は、周の考える、ここまでの政権構想を理解していたわけで、大政奉還をしても、将軍から大君に移行するだけで、自らが政治の舞台から降りる事はないと考えていたと思われるわけです。

なんせ、朝廷はあの南北朝の時代以来、まともに政治をやった事ないわけですし、(忘れそうになってましたが)慶喜は内大臣でもあるのですから、例え政権を朝廷に返上したとしても、天皇の下で政治に参加できるものと考えるのは当然と言えば当然なのかも・・・

現に、その大政奉還の上奏文には
「従来の旧習を改め、政権を朝廷に返し奏り、広く天下の公儀を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候えば、必ず外国万国とならび立つべく候」
と、完全に、朝廷に協力する気満々の言葉が並んでいます。

・・・で、そこにいち早く気づいて手を打ったのが、(何度も出てきますが)あの岩倉具視(ともみ)「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)なわけで・・・

ドラマでは、慶喜の大政奉還を受けて「しまった!」「してやられた」といった雰囲気の、西郷隆盛桂小五郎がいましたが、実際には、彼らが大政奉還を知った時には、すでに、この討幕の密勅を受け取っていますから、次の対策を練っていたかも知れませんね。

この次の対策というのは、もちろん王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・これによって、やっと、朝廷内の倒幕派が実権を握り、慶喜に対して辞官・納地の決定を下し、彼を政治の舞台から排除する事を宣言したわけですよね。

慶喜の敗因は、この王政復古のクーデターをされる前に、将軍から大君への移行ができなかった事にあるのでは?とも思えます。

さて・・・
いよいよ来週は、最終回=龍の魂を迎える事になった「龍馬伝」・・・

最終回を前にして、あの名ゼリフが出ましたね。
「新しい日本の夜明けぜよ~!」
龍馬ファンの方にとっては、待ってました!のシーンなんでしょうね。

ところで、今回、ドラマに登場した「ええじゃないか」の大騒ぎ・・・ずいぶん前の記事で、この「ええじゃないか」についても書かせていただきましたが(2006年7月15日参照>>)、この場を借りてちょいとだけ捕捉情報を・・・

この「ええじゃないか」の発端となった天から降ってきた伊勢神宮のお札ですが・・・もちろん、本当にお札が自然に降って来る事はあり得ないわけで、誰かが、騒ぎを起こそうとして意図的に降らせた(降ったように見せかけた)可能性大なわけです。

・・・で、実は「自分が降らせた」と後に告白している人が何人かいます。

そのうちの一人が大江卓(たく)という人物・・・

彼は土佐出身で、中岡慎太郎率いる陸援隊(7月27日参照>>)の隊士・・・もちろん、倒幕派の一員として、騒ぎを起こして支配者=幕府を困らせるのと同時に、自分たちの動きを目くらましするための行動だったわけですが・・・

そんな身近な人なら・・・ひょっとして、龍馬も知ってたって事は???ないのかなぁ
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2010年11月21日 (日)

天狗となった天流の開祖~剣豪・斎藤伝鬼坊

 

天正九年(1581年)11月21日、剣客・斎藤伝鬼坊勝秀が鎌倉鶴岡八幡宮に百日間の参籠中、剣の奥義を悟りました・・・「天流」の誕生です。

・・・・・・・・・・

斎藤伝鬼坊勝秀(さいとうでんきぼうかつひで)・・・戦国時代にその名を馳せた剣豪です。

常陸国真壁村(茨城県桜川市)にほど近い場所にて、北条氏康に仕えた近習(馬廻りなど身近な世話をする家臣)の子として生まれたと言いますが、幼い頃の事は、ほとんどわかりません。

とにかく、伝鬼坊・・・まずは、下僕のような形で、あの塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)(2月11日参照>>)弟子入りし、新当流を学びます。

「どんなみじめな形でもいい!とにかく剣術を学びたい!」
それが、剣術好きの伝鬼坊の方針だったようです。

正式な門弟ではなかった彼・・・卜伝の死後は、名も無く地位も無く、ただ一人で修業の旅に出たのです。

しかし、たった一人で、ちゃんとした師匠につく事もない身の上では、そう簡単に剣の道を極められるはずもありません。

思い悩んだ伝鬼坊が、鎌倉に立ち寄った時、鶴岡八幡宮百日の願をかけたのです。

以来、雨の日も風の日も、日夜休まず参籠(さんろう・神社などに願掛けのため籠る事)・・・そして、いよいよやってきた満願の日、伝鬼坊は夢を見ます。

光り輝く天から舞い降りた一つの巻物・・・そこには、兵法の秘伝が書かれていました。

そうです・・・伝鬼坊は奥義を悟ったのです。

天から授かった秘剣・・・彼は、これを「天流(てんりゅう)と名づけました。

時に、天正九年(1581年)11月21日
・・・と、何やら妖術のようなアヤシイ雰囲気で、にわかに信じがたいですが、お察しの通り、これは、あくまで伝説・・・

実際には、満願成就の日に知り合った修験者と、夜を徹して剣術について語り合い、あるいは手合わせしながら過ごすうち、奥義にたどり着いたというような事のようです。

とにもかくにも、こうして誕生した天流をたずさえ、剣客として諸国を巡る伝鬼坊・・・

いつも羽毛で織った袖の無い衣装を身につけて、まるで天狗のような風貌から繰り出す剣は、その姿に見合った実力で、人々を納得させ、そして魅了します。

いつしか、彼が京の都に上る頃には、もう、すっかり有名人・・・

しばらく、都にとどまって、訪れる武芸者に指南したりする毎日を送っていましたが、やがて、その噂が朝廷にまで伝わり、なんと、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇が、「その秘剣を、一目見たい!」と、ご所望・・・

ご要望にお応えして参内(さんだい)した伝鬼坊は、紫宸殿の前にて「一刀三礼(いっとうさんらい)の太刀」を披露して、その見事さに天皇は大いに喜ばれたのだとか・・・

*一刀三礼=仏師が仏像を彫る時、一刀を下すごとに3度礼拝しながら彫る事で、転じて、一つの事に、それだけの敬虔な態度で事を運ぶ事

その褒美として、天皇から、井出判官左衛門尉(いではんがんさえもんのじょう)の位官を賜った伝鬼坊は、同時に出家して入道となり、その名も井出判官伝鬼坊と名乗ります。

こうして、名声を得た伝鬼坊は、その後、生まれ育った故郷=真壁村へと戻り、近くの下妻城主・多賀谷重経(たがやしげつね)に仕えたとされます。

重経に仕えながらも、真壁村で道場を開くと、当然の事ながら、入門者が後を絶たない人気道場となります。

そんな伝鬼坊の人気ぶりがおもしろくないのは、真壁城主の真壁氏幹(うじもと)です。

この人は、伝鬼坊と同じく卜伝に剣を習い、父が編み出した「霞流(かすみりゅう)なる流派を引き継いでいた剣豪城主・・・しかも、出家して、その名を暗夜軒闇轢斎(あんやけんあんれきさい)と号したという、悪役丸出しの雰囲気をかもし出してるお方ですが、れっきとした実在の人物・・・

東北の雄・佐竹義重(よししげ)の配下として、常に最前線に立って戦場を駆け抜け、「鬼真壁」と呼ばれて恐れられた強の者です。

その氏幹には、桜井霞之助(つゆのすけ)という家臣がいたのですが、これがまた、腕自慢ばかりする嫌われ者・・・

この霞之助の悪意丸出しのチクリによって、すっかり伝鬼坊を憎むようになった氏幹は、
「あんなの殺っちまいな」
とばかりに、伝鬼坊に果たし状を突き付けます。

ところが、どっこい、立ち合いが始まると、伝鬼坊に一撃で頭を割られ、霞之助はあっけなく息絶えてしまいます。

もともと気に喰わない伝鬼坊に、家臣一の腕前を持つ霞之助を殺されたら、ますます気に喰わなくなるのは、当たり前・・・
「こうなったら、どんな手を使っても、伝鬼坊を亡き者にしよう」
と、良からぬ計画を練る氏幹・・・

天正十五年(1587年)のある日の真夜中、真壁の不動堂の前で、弓矢を準備して物影に潜む家臣が14~5人・・・

そこに、呼び出した伝鬼坊が現れると、いきなり
「矢切りの秘術が見たい!」
と言って、突然、矢を放ちます。

さすがの伝鬼坊も、四方八方からの矢の攻撃は防ぎきれず、針ネズミのような姿で落命・・・享年38歳という、剣豪としては、未だ志半ばの死でした。

・・・と、書けば、
「霞之助&氏幹、許せん!」
と、怒り心頭ですが、これは、あくまで伝鬼坊側から描いた剣豪伝説とも言えるもので、実際の霞之助さんには史料がほとんどなく、氏幹さんも猛将の噂はあっても、このようなコスイ事をしたという話しは伝わっていませんので、それを踏まえてお読みくださいませ。

こうして無念の死となった伝鬼坊ですが、その志は実子に受け継がれ、「天道流」と名を変えながら現在に伝わります。
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2010年11月19日 (金)

相撲・第1期黄金期~谷風梶之助と釈迦ヶ嶽雲右門

 

寛政元年(1789年)11月19日は、横綱土俵入りの元祖・谷風梶之助横綱免許を受けた日という事で、3年前の今日は、相撲の歴史や、免許制だった横綱が番付の最高位となった秘話など書かせていただいたんですが(2007年11月19日を見る>>)、本日は、その谷風さんやライバル・釈迦ヶ嶽さんの逸話など紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・

3年前のページにも書かせていただいた通り、日本書紀にはじまり(7月7日参照>>)、その後、長きに渡って神に捧げる奉納相撲武士の鍛錬として行われていた相撲が、あの織田信長の時代を経て「織田信長と相撲大会」参照>>)競技の形式となった江戸時代・・・

初めは神社や寺の境内で不特定に行われていましたが、なんせ、力自慢の男たちの勝負ですから、ちょっとしたモメ事が起こるたんびに大ゲンカに発展し、しかも彼らが暴れ始めると誰も止められない・・・って事で、「治安が悪くなる」として、一旦、禁止になってしまいます。

しかし、「やはり町の発展に興業は欠かせない」という事で、貞享二年(1684年)に、江戸の町おこしの一環として深川の勧進相撲が許可され、江戸幕府お墨付きの相撲が復活する事となります。

その頃には、プロの力士たちもチラホラ出現し、やがて、そのランキング=番付なる物が生まれる一方で、今回の谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)横綱免許を取得・・・相撲は、この寛政の時代に第1期の黄金期を迎えます。

そんな谷風は、陸前国宮城郡霞野(宮城県仙台市)の出身・・・農家の三男坊として生まれます。

生まれつき体が大きく、力も強かった谷風少年でしたが、家はかなりの貧乏・・・

7歳のある時、隣に住む東兵衛という男が、オモシロ半分に谷風少年に声をかけます。

「ここにある米俵・・・試しにお前に家まで運んでみろや。
運べたら、くれてやるゾ!」

見ると、その目の前には五斗俵・・・

「こんだけ、米があったら、思う存分食えるやんけ!」
家計に足しになる!
とばかりに谷風少年は、ヒョイとなんなく米俵を持ち上げ、涼しい顔で家まで持ち帰ります。

慌てたの東兵衛・・・
五斗と言えば、今で言うところの約90kg

「とても7歳の子供に持てるわけがない」
と安易に発言してしまったものの、東兵衛だって、それをポンをあげられるほど裕福でもなく・・・とにかく、平謝りで謝って、なんとか米俵を返してもらったのだとか・・・

Syakagatake2aa そんな谷風とともに第1期黄金期を支えたのが、ライバルとされた釈迦ヶ嶽雲右門(しゃかがたけくもえもん)です。

その四股名でも察しがつく通り、六尺二寸五分(189cm)の谷風より一回り大きい六尺八寸(204cm)の身長を誇り、明和七年(1770年)の市ヶ谷丸板場所では谷風に勝利して大関(当時は最高位)にもなっています。

そんな釈迦ヶ嶽は、島根出身で第7代・松江藩主=松平治郷(はるさと)お抱え力士でした。

ある時、治郷公の屋敷に招かれた医者が、座敷にて待っていると、そこに、そろりそろりとお茶を運んで来た稚小姓姿をした美少年・・・ではなく大男

稚小姓って・・・殿さまの横で刀持ったりなんかしてる、いわゆる美少年系の・・・森蘭丸とかのアレですよ!

あの格好を2mを越す大男が!!!w(゚o゚)w
そりゃ、医者もびっくり仰天ですがな。

もちろん、コレ、治郷公と釈迦ヶ嶽のイタズラ心・・・いわゆるドッキリです。

また、別の日、
「豆腐を買ってきてくれ!」
と、頼まれた釈迦ヶ嶽・・・・行ったは良いが、手ぶらのまますぐに帰宅し、
「まだ、閉まってたよ~」
と・・・

友人が確かめに行くと、普通に店は開店営業中・・・

なんと、釈迦ヶ嶽は2階の窓を表口だと勘違いしていた事がわかったとか・・・そんなアホな!

まったく~お茶目なんだから・・・

でも、お茶目でカワイイ釈迦ヶ嶽さんは、その後、わずか26歳で腸閉塞を起こして急死したのだとか・・・錦絵を見ると、けっこうイケメンなので残念ですね~~(。>0<。)
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2010年11月18日 (木)

油小路で命を落とす…元新撰組・藤堂平助

 

慶応三年(1867年)11月18日、新撰組が元隊士の伊東甲子太郎を襲撃した油小路の変で、高台寺党の藤堂平助が死亡しました。

・・・・・・・・・

弘化元年(1844年)、江戸に生まれた藤堂平助(とうどうへいすけ)は、津藩主・藤堂高猷(たかゆき)ご落胤を自称するだけあって、なかなか上物の刀を持っていて、しかも、その刀にふさわしい腕前であったと言います。

千葉周作の道場で北辰一刀流を学びながらも、文久二年(1862年)頃からは、天然理心流(てんねんりしんりゅう)近藤勇の道場・試衛館(しえいかん)にも出入りするようになります。

翌年、この3月に行われる事になった第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛に先駆けて、その身辺警護をする浪士組の募集に、近藤らが参加した事から、平助も、ともに浪士組に参加する事になります。

ところが、この浪士組が、一団を率いていた清河八郎の思惑で、京都についた途端に空中分解(2月23日参照>>)・・・多くの参加者が江戸に戻る中、近藤とともに参加した試衛館の仲間と、元水戸藩士の芹沢鴨(せりざわかも)の仲間だけが京都に残ります。

これが、後に新撰組となる集団で、やがて、会津藩主で京都守護職となっていた松平容保(かたもり)の配下として、京都の治安を守る事になるのです。

つまり平助は、最初の最初っからの新撰組という事ですね。

背丈は小柄なれど、その度胸と腕前は大したもので、あの池田屋事件(6月5日参照>>)の時にも、彼がトップで斬り込んだと言います。

ただ、この日は、最初の突入でこそ、続けざまに何人か斬ったものの、6月という暑さのために汗ダクダクとなり、やむなく、防具を緩めたところに、押入れに潜んでいた浪士からふいを突かれ、額を斬られてしまいました。

傷は、致命傷ではなかったものの、その出血が目に入って戦えなくなり、しかたなく、中庭にて休憩・・・戦線離脱となりましたが・・・

こんな風に、新撰組の副長助勤八番隊組長として、あちらこちらの現場で活躍をする平助でしたが・・・

腕のたつ人というのは、たつ人なりに悩みがある物で・・・そう、自らの剣がバッタバッタと人を倒すにつれ、その剣の重みも痛感するようになるのです。

自分のやってる事は正しいのだろうか?
これは、京都の治安維持を口実にした殺人ではないのか?

やがて元治元年(1864年)、新撰組にさらに多くの隊士を募ろうと、近藤が江戸に向かう事になるのですが、それの下準備のため、一足早く江戸に入った平助は、かねてからの友人だった伊東甲子太郎(かしたろう)に会いに行きます。

伊東は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)を体得しながらも水戸学(10月2日参照>>)に精通した文武両道に優れた人物で、生粋の尊王攘夷派・・・「彼のような優秀な人物が新撰組に加われば、何か自分の中のモヤモヤした物が解決できるかも知れない」と思ったのでしょうか、平助は、しきりに、伊東を新撰組に誘うのです。

やがて、平助の誘いに応じて新撰組に加わった伊東は、その優秀さから、入隊後まもなく要職につき、各地へ出張する総長=近藤に同行し、その参謀的役目もこなしました。

しかし、もともと、伊東は生粋の尊王攘夷派・・・佐幕一色の新撰組と思想的に合うわけがなく、やがて、意見が対立するようになります。

そして慶応三年(1867年)、天皇の陵墓を守る役人・御陵衛士(ごりょうえじ)を拝命した事を口実に、「今後も影ながら新撰組を支援する」という約束で、新撰組から円満離脱し、その仲間で高台寺党を結成・・・そうです、この時、平助も伊東とともに新撰組を離脱しのです。

高台寺党時代の平助の行動については、あまり詳しい記録が残っていないのが現状ですが、伊東が、まさに勤王運動に積極的に参加すべく、薩摩藩士らとしきりに連絡をとっていたという事なので、平助もまた、勤王運動に乗り出していたのでしょう。

しかし、先ほども書かせていただいた通り、新撰組は尊王攘夷の正反対の位置にいるわけですので、元新撰組の伊東が積極的に参加しようとすればするほど、
「あいつはスパイなんじゃないか?」
「この情報を新撰組に流すんじゃないか?」
と、尊王派からは疑われるわけです。

そこで、伊東は、新撰組との縁を絶ち切った証として、密かに近藤の暗殺をくわだてます。

ところが、この計画が新撰組の知るところとなり・・・

実は、彼らとともに新撰組を離脱して高台寺党にいた斉藤一新撰組のスパイであったらしい・・・と、スパイだったかどうかは、ともかく、この情報を新撰組に流した事で、斉藤は、再び新撰組に戻ってますからね~

そして、起こったのが、慶応三年(1867年)11月18日油小路の変・・・(2008年11月18日参照>>)

近藤が伊東を誘いだし、しこたまお酒を飲ませた後、ほろ酔い気分の帰り道に、隊士が襲撃したのです。

伊東の遺体は、残りの高台寺党をおびき寄せるため、命を落とした油小路から七条通りと交わる交差点に放置されます。

Dscn8988800 高台寺党の屯所だった月真院…くわしい場所は本家HPの歴史散歩:ねねの道・幕末編へ>>

伊東受難の知らせを聞いた時、高台寺党の屯所である月真院(げっしんいん)には、7人の隊士がいました。

すぐさま現場に駆けつける彼ら・・・そこを、待ち構えていた新撰組が襲います。

7人のうち4人は何とか逃走しますが、3人が命を落としました。

そのうちの一人が平助・・・一説には、この時、「平助だけは殺さないように」との指示が近藤から出ていたとも言われますが、平助を斬ったとされる三浦常三郎という隊士は、その事を知らなかったのだとか・・・

やはり、試衛館時代からの仲間ですからねぇ~
近藤さんには、何か思うところがあったのかも・・・

またしても惜しい命が散っていきます(´;ω;`)ウウ・・・

しかし、この高台寺党の生き残りが、最後の最後・・・近藤の運命に大きな影響を与える事になるのです(4月25日参照>>)
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2010年11月17日 (水)

ブチ切れ清盛のクーデター「治承三年の政変」

 

治承三年(1179年)11月17日、平清盛後白河法皇近臣や関白以下・公卿39名を解任・・・世に言う「治承三年の政変(クーデター)を決行しました。

・・・・・・・・・

治承元年(1177年)の5月に発覚した鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(5月29日参照>>)・・・

京都東山にある俊寛(しゅんかん)の山荘に、夜な夜な後白河法皇の近親者が集まり、平家追討の陰謀を張り巡らしていた・・・というあの事件です。

その集会には、後白河法皇自身も時々は参加していたようですが、さすがの平清盛法皇を処分する事はひかえたものの、首謀者・藤原成親(なりちか)西光処刑参加者の流罪を決行しました(3月2日参照>>)

Kiyomorizou600 しかし、これまで持ちつ持たれつ、うまくやって来た後白河法皇と清盛の間に、大きな溝ができた事は間違いありませんでした。

そんな中、翌年の11月には清盛の娘・徳子が男の子を出産・・・徳子は、時の天皇=第80代・高倉天皇中宮(妻)なので、父親はもちろん天皇です。

早速、清盛は、わが孫を皇太子にしてくれるように後白河法皇に迫ります。

翌月の12月・・・言仁(ときひと)と名づけられたその皇子は親王となり、次期天皇となるべく皇太子の座に・・・もちろん、その周囲は、平家の近親者で固められ、後白河法皇派の人物の入りこむ隙間もありませんでした。

さらにその翌年の治承三年(1179年)6月、清盛の娘・盛子が亡くなります。

実は、これが今後の最も大きな火種となるのですが・・・
彼女は藤原氏長者の近衛基実(もとざね)の後妻となっていたので、その基実亡き後は、残された多くの摂関家領を彼女が管理していたのです。

そんな彼女が亡くなったのですから、当然、その領地は、基実の実子(連れ子)基通(もとみち)か、盛子が准母(じゅんぼ・母親代わり)を勤めていた高倉天皇の管理になるはず・・・

ところが後白河法皇は、関白・松殿基房(まつどのもとふさ)とタッグを組んで、この所領を「白河殿倉預(くらあずかり)=つまり、事実上、没収してしまったのです。

さらに2ヶ月後の閏7月・・・立て続けに、今度は清盛の長男・平重盛が病死します。

そして、その後の10月の人事によって、法皇の近親者である藤原季能(すえよし)越前守となり、この重盛の領地も事実上没収された事になってしまったのです。

しかも、同じ人事で、わずか8歳の基房の息子が、基通(当時20歳)を押さえて権中納言に昇格するというやりたい放題の後白河人事・・・

まぁ、基房側に立てば、清盛派の面々によって、自らの地位を脅かされていたという言い分もあるわけで・・・そうなると、タマゴが先かニワトリが先かって話になってしまうのですが・・・

とにもかくにも、ここでブチ切れた清盛・・・突如として数千騎の大軍を率いて福原(現在の神戸)から上洛した治承三年(1179年)11月17日後白河法皇の近臣や関白以下・公卿39名を解任し、かの基通を関白に任命したのです。

・・・て、もちろん、清盛に任命の権利はありませんから、任命したのは高倉天皇・・・これは、それまで、高倉天皇の後ろで、実質的な権限を握っていた後白河法皇の院政をストップさせる事でもありました。

清盛の指示により鳥羽殿に移された法皇は、武士が厳しく警固するその御殿にて幽閉される事に・・・

当然の事ながら、この日に解任された面々も、それだけにはとどまらず、左遷配流などなどの処置を受け、諸国の領地の管理も大幅な交代が行われ、平氏の近親者で占められる事になります。

『平家物語』には
「日本秋津島は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」
と、その領地の多さを物語っています。

この時、領地を没収されたうちの一人が、後白河法皇の第三皇子だった以仁王(もうちひとおう)・・・

以仁王の不満がムンムンつのる中、清盛は翌年の2月、高倉天皇を廃して、わずか2歳の孫を安徳天皇として即位させるという暴挙に・・・

これが決定打となって、今度は以仁王がブチ切れるのですが、そのお話は4月9日のページで>>

いよいよ源平合戦の幕が上がります。
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2010年11月16日 (火)

キリシタン弾圧領主・松倉重政の汚名を晴らしたい!

 

寛永七年(1630年)11月16日、領民に重税を課し、キリシタンを弾圧したとされる島原城主・松倉重政が急死しました。

・・・・・・・・・・

交易相手だったポルトガル船とのモメ事を起こして死罪となったキリシタン大名・有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地・肥前日野江(長崎県島原地方)4万3千石が、松倉重政(まつくらしげまさ)に与えられたのは元和二年(1616年)の事でした。

もともとは、あの大和(奈良県)筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えていた松倉家でしたが、順慶の死後にうだつが上がらなくなった筒井家が改易処分となった時、関ヶ原で大活躍をした重政を惜しんだ徳川家康の配慮によって十市・高市・宇智郡一万石を与えられて筒井家から独立し、新たな大名家となった家柄でした。

さらに、この前年の大坂の陣でも活躍し、今回の肥前への転封・・・つまりは、重政さん一代での大出世という事になります。

しかし、2年後の元和四年(1618年)、それまであった原城日野江城を廃城にし、新たな島原城を築城する事にした重政は、廃城となった二つの城から、領民たちに石材を運ばせたり、分不相応に豪華な島原城築城のために、過酷な労働をさせたと言います。

もちろん、直接の肉体労働に従事するだけでなく、豪華な城にかかる莫大な費用をい捻出するため、限界を越えた重税をも課す事になるのです。

さらに、重政は江戸城改築の普請事業も行っており、その費用までもが領民への税となって重くのしかかります。

そして・・・まもなく始まったのがキリシタンへの弾圧です。

先に書いたように、前領主の晴信がキリシタンだった事もあり、この島原には30年間に渡るキリシタン信仰の土壌がありました。

しかも、死罪となった父・晴信の後を継いだ長男の有馬直純(なおずみ)が、日向(宮崎県)臼杵(うすき)に国替えとなった際に、信仰を棄して去った事から、未だ信仰の篤い領民たちの多くが島原に残ったままだったのです。

重政は、そんな彼らに棄教&改宗を命令し、従わない者には残酷な拷問を加えました。

水攻め・指詰め・穴吊るし・・・針刺し・烙印・木馬責め・・・と書くのも怖いですが、中には、雲仙岳の地獄谷に信徒を裸で立たせ、背中を斬った後に傷口に熱湯を注いだり、熱湯に浸けたりして絶命させたなんていう具体的な記録も・・・

また、キリシタンだけではなく、租税を払えない者には、両手を後ろ手縛り、その上に着せた蓑(みの)に火をつけるという「蓑踊り」などという拷問もあったのだとか・・・

さらに、キリシタンの本拠地であるフィリピンルソン島海外出兵する計画もたてていたと言われる重政ですが、そんな矢先の寛永七年(1630年)11月16日小浜温泉で急死します。

あまりに突然の死には、重政のやりすぎを見かねた幕府の命による暗殺説や、弾圧を受けたキリシタンや領民による暗殺説もあり、当然の事ながら、宣教師たちの記録には「天罰」による狂死の文字が踊ります。

・・・と、通説通りのあまりにもひどい重政さんの悪政ぶりを見れば、「これじゃぁ、島原の乱も時間の問題ね」なんて事も思っちゃいますが、「ちょっと待ったぁ~~」

実は、重政さんが、この島原に来る前に領主を務めていた奈良では、とてつもない名君として領民の尊敬を一身に浴びているのです。

冒頭に書かせていただいたように、関ヶ原の功績によって筒井家から独立し、新たな大名となった重政・・・その後、8年に渡って二見城主となって城下町の整備にあたります。

様々な規制を緩和して商人を結集させたうえ、商業を発展させるための拠点となる新しい町を二見と五條の間に形成します。

そこは紀州街道に面した交通の要所・・・もちろん、その事を踏まえたうえでの町づくりですから、それはそれは、彼の予想通りに見事な発展を遂げ、このあたり一帯は、現在の奈良県五條市の基礎となりました。

キリシタンからは天罰と言われた彼の死も、この奈良の人は惜しみ悲しみ・・・新町にある西方寺に、その供養塔を建てて弔ったと言います。

さらに、江戸時代を通じて、遠き島原で悪の権化とされる旧領主を慰めるための「松倉祭」と呼ばれる感謝の祭礼もあったとの事・・・と、ここの領民には、かなり好かれていた事がうかがえます。

しかも、島原に入った当初の重政は、信仰にはかなり寛大な領主であった事が記録されています。

それが変貌するのは元和七年(1621年)・・・江戸幕府・第3代将軍の徳川家光が、更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めてから・・・つまり、これは幕府の命令なのです。

同時期には、熊本藩主の加藤清正も弾圧を行ってますし、重政と同じく、初めは寛容だった唐津藩の寺坂広高も、幕府の方針に逆らいきれずに弾圧に踏みきっています。

先に書いた、もともとあった城を破棄して島原城を築城というのも、幕府の一国一城制に従ったまでですし、江戸城の普請というのも幕府の命令ですから・・・

ただ、これらの弾圧や重税が原因の一つとされて、あの島原の乱が起こったという事も確か・・・

島原の乱(10月25日参照>>)は、重政の死後7年たった寛永十四年(1637年)に勃発しますが、この時の領主は重政の後を継いだ長男・松倉勝家・・・

彼は、父と同様にキリシタンの弾圧をしていた人物として、乱の終結の後に斬首されるのですが、興味深いのは、その彼に関して、乱の首謀者とみられる者から発せられた矢文にも2種類あというのです。

寛永十五年(1638年)正月付、天野四郎の名で書かれた矢文には
「我々は天下に逆らおうと籠城したのではなく、ただ、長門守殿(勝家の事)の情け容赦ない検地によって年貢の取り立てが厳しく、思う存分(勝家に)恨み事を申し上げたいだけなのです」
とあります。

さらに、別の矢文で
「勝家の首を見せてくれたら死罪になってもいい」
と書かれた物も・・・

しかし、一方では、乱の鎮圧に派遣された松平信綱の、
「勝家を死罪か流罪にしてもいいから…」
との柔軟な態度での交渉に対し、
「笑わせんな!」
と、まったく取り合わなかったとか・・・しかも、その理由が「勝家に恨みはない」とはっきりと述べたと言います。

つまり、乱の首謀者の中にも、松倉家を恨みに思う者とそうでない者が存在した事になります。

思うに、キリシタンの弾圧や重税のおおもとが、幕府からの命令にある事を乱の首謀者が知っていたとしたら、その恨みは、重政・勝家父子個人ではなく、幕府にあったという事なのかも知れません。

ひょっとして、最後の最後に勝家が処分されるのは、この乱を、幕府への政治的反乱ではなく、一部キリシタンによる松倉家への恨みという事に、幕府がしたかった・・・という事?

そうなると、当然ながら幕府に都合の悪い記録は末梢されている可能性も・・・興味は尽きませんね。
 .

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2010年11月15日 (月)

何かオカシイ…龍馬伝・第46回「土佐の大勝負」

 

慶応三年(1867年)11月15日は、坂本龍馬さんの暗殺された日ですね。

また、
明治三十九年(1906年)11月15日は、その妻のお龍こと楢崎龍(ならさきりょう)さんのご命日・・・

そのへんの事に関しては、以前に書かせていただいてる
●2006年11月15日:龍馬暗殺はいつから謎に?>>
●2008年11月15日:龍馬暗殺~紀州藩黒幕説>>
●2008年11月16日:龍馬亡き後の海援隊>>
●2008年12月7日:龍馬暗殺の報復~天満屋事件>>
●2009年11月15日:龍馬の妻・お龍さんについて>>
そして、本家ホームページの
坂本龍馬・暗殺犯を推理する>>
などなど、見ていただくとありがたいのですが・・・

本日は、昨日の大河ドラマ「龍馬伝」についてチョコッと・・・(NHKのホームページはリンク禁止ですので、あらすじはご自身でお探しくださいませm(_ _)m)

実は、先週か先々週くらいから非常に気になっている事が・・・もちろん、ドラマなのですから、世の中の流れを造ったのが龍馬一人であっても、薩長同盟の手柄を独り占めしても、もはや構わないのです。

ただ、気になるのは、ここんトコずっと大政奉還と武力倒幕がセットになってる感じ・・・。

あまりに気になるので、、あちこちの「龍馬伝」の感想など書かれているブログにお邪魔したりもしたんですが、この事について書いておられる方がいないので、ひょっとしたら私の勘違いかも・・・と不安なんですが、(勘違いしていると思われたら、スルーしておいてください(^-^;

ちょくちょくブログにも書いてますが、大政奉還とは武力倒幕を避けるための手段です。

このままでは、薩長は武力で以って幕府を倒そうとする・・・ドラマでも言ってたように、そうなれば、日本の国土は戦場と化すでしょう。

長州はこの前の四境戦争(第2次長州征伐)(7月27日参照>>)で、幕府を追い返すほどの戦力を持ってますし、そこに最新鋭の武器を持った薩摩が加わったのですから、かなりの強さですが、幕府だって、その長州征伐の敗北を受けて、フランスの援助による軍の強化を図ってるし、このまま戦えば、両者に多くの犠牲が出る事は間違いありません。

だから大政奉還です。

幕府が政権を朝廷に返還したなら、薩長は戦う理由がなくなるわけですから・・・

・・・で、その大政奉還のセットになってるのが、龍馬が考えたとされる船中八策をもとにした『新政府綱領(こうりょう)八策』に書かれた新体制です(6月22日参照>>)

憲法を制定して議会政治を行い、
陸軍&海軍を強化して、
外国との不平等な条約を改正した金銀の交換レートを変更
などなど・・・

そして幕府の思惑は、
どうせ、政権を朝廷に返しても、今の公家たちだけでは、まともな政治を行う事は不可能(現に、この時点でも外国との交渉権は幕府が握ってました)なのだから、天皇の下で運営される議会を仕切る役どころとなって生き残る・・・という物です。

もちろん、この生き残り作戦には、朝廷も気づいてますが、この時点で朝廷の中心にいた人たちは、「それで良い」と思っていた容認派の人たち(幕府も生き残れますが、公家も生き残れますので…)・・・あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、京都を追われた三条実美(さねとみ)も、まだ追われたままだったはずですし・・・。

だからこそ、何が何でも幕府を倒したい岩倉具視(ともみ)らが、「倒幕の密勅(みっちょく)なる物を、無理やりにでも出す必要があったんですから・・・(10月13日参照>>)

さらに、12月9日の王政復古の大号令で、新体制に幕府を参加させない事を宣言・・・(12月9日参照>>)

そこまでしても、まだ、12月末日の段階での徳川慶喜(よしのぶ)は、朝廷相手に新体制での議会最高責任者になれる手筈を整えていたのですよ・・・つまり、ここでも、まだ、戦争を回避して、徳川が生き残れるチャンスがあった事になります。

私としては、完全に「武力倒幕=戦争」が決定するのは翌・慶応四年(1868年)1月1日の幕府の『討薩の表』による薩長への宣戦布告だと思っています(12月25日参照>>)

なのに、昨日の「龍馬伝」では、殿様=山内容堂に「大政奉還の建白書を書いてくれ」と頼む龍馬に・・・
容堂:「武士も大名ものうなってしもうたら世の中に何が残る。
    何が残るがじゃ!」

龍馬:「日本人です。
    異国と堂々と渡り合う日本人が残るがです。」

容堂:「武士の世を終わらせるかえ。」
・・・と、もう幕府がなくなるのが当然のような話っぷり・・・
(たしかに、「幕府」という名前ではなくなるかも知れませんが…)

しかも、龍馬が手配した大量の武器が土佐に届いたくだりでは、
「この武器は薩長に向けて使うのか、幕府に向けて使うのか?」
と聞く仲間に
「幕府ぜよ」
と高らかに宣言!

確かに、龍馬だって、そこまで平和主義者ではありませんから、武器を手配した事も事実だろうし、それは幕府に向けて使うためだった事もあるでしょう。

ただし、それはあくまで、大政奉還の建白書が握り潰された時の事だったはず・・・「大政奉還がなされないのであれば武力倒幕しかない」という物だったはずです。

・・・でないと、武力倒幕を推していた中岡慎太郎との大ゲンカもない事になります。

龍馬の暗殺は、武力行使を推す中岡と、大政奉還による戦争回避を主張する龍馬の口論の末の同志討ち・・・なんて事を考える人もいるのですから・・・

もちろん、薩摩が黒幕と考える人の中にも、武力倒幕派の薩摩にとって、戦争を回避しようとする龍馬が邪魔だったという理由を挙げられる方もいます。

実際には、戦争回避一辺倒ではなく、武力倒幕も考えてはいた龍馬だったでしょうが、とにかく、ドラマの龍馬は、完全に倒幕ムード一色!!!

思うに、龍馬が亡くなってからの、王政復古の大号令やら鳥羽伏見の戦いやら幕府崩壊やらがあっての維新・・・となると、「龍馬が維新を成した感が薄い」とドラマスタッフさんはお考えなのかも知れません。

なので、すでに龍馬が生きていた時から、倒幕から維新の一本道ができていた事に・・・という事なのかなぁ???

なんせ、ドラマですから、維新のすべてを龍馬がやった事にしちゃうのもアリかも知れませんが・・・本当に、それで良いのかなぁ???

それだったら、いっその事、龍馬が慶応三年(1867年)11月15日に暗殺されてない事にして、まだまだ活躍するってな事にしてしまうのと変わらない気がしないでもない・・・

ドラマ内でしきりに言われてるのように、大政奉還をしても幕府がなくなるのなら、大政奉還する意味がない事になるのでは?
そこを変えちゃっていいの?と複雑な思いです。

見ていた方は、どう感じられたんでしょう???
 .

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2010年11月14日 (日)

『歴史上最大の政権交代とは?』のアンケート結果発表

 

今回は、先日11月10日に締め切らせていただきましたアンケート=『あなたが思う歴史上最大の政権交代とは?』
アンケート投票の結果発表!!!
といかせていただきたいと思います。

今回もご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

例のごとく、投票とともに楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきましたので結果とともに、そのコメントもお楽しみくださいませ。

合計数は、携帯からの投票も合計させていただいて表示しております。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位 明治維新:55票
やっぱり…ダントツの1位でしたね~今、大河で盛り上がってるところでもありますし、服装や文化の変貌もスゴかったですしね。
2位 中大兄皇子の大化の改新 :8票
明治維新のように生活様式などが一変しなかったワリには、かなりの健闘ですね…元号や改新の詔など、古代王朝を一蹴した感じです。
2位 源頼朝の鎌倉幕府: 8票
やはり、初の武士政権っていうのが強みですね…維新までの長きにわたる武士の世はここから…という感じです。
2位 民主党政権・誕生: 8票
意外っといっちゃぁなんですが、ホント意外な健闘でした…まぁ、アンケートの時期がアレがアレしちゃった時期と重なったので…。
5位 その他 : 6票
「う~~ん」とウナるご意見が多数…下記のコメントでご覧ください。
6位 壬申の乱からの天武天皇 : 5票
現在の天皇家に伝わる基礎という点で評価された方が多いですね…このまま記紀の編さん・大宝律令へとつながっていきますから…
6位 徳川家康の江戸開幕 : 5票
群雄割拠の戦国を終わらせ、その後の300年に渡る平和…という功績が高いでしょうね。
8位 継体天皇の即位 : 3票
やっぱり怪しい天皇系図…政権交代してるならココだろうという人だっただけに、認知度のワリには3票いただきました。
8位 織田信長の足利義昭追放: 3票
「信長がいなければ、この後の秀吉も家康もない」っていうのが大きいですね…将軍を追放の時点で、実質的には政権交代ですからね~
10位 平清盛の太政大臣就任: 2票
武士政権と言えば武士政権なんだけど…主従関係をうまく確立した頼朝と違って、一族で…という貴族にも似た政権が少し難点だったかも知れませんね。
以下 神武天皇東征
桓武天皇の平安遷都
後醍醐天皇の建武の新政
足利3代による室町幕府
豊臣秀吉の関白就任
: 0票

神武天皇は伝説の域だし、桓武天皇は政治改革みたいだし、後醍醐天皇は短すぎで、足利3代は南北朝で長くかかり過ぎ、秀吉は信長の後を継いだ…そんなこんなで、インパクトのある政権交代とはいかなかったようですね

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示…「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

壬申の乱からの天武天皇 現在まで連綿と続く皇室の礎となった (男性/50代/神奈川)
「やはり…そうですね」
明治維新 竜馬伝で気分がとても盛り上がっているので。 (男性/40代/愛知)
「大河での盛り上がりは大きいです(*´v゚*)ゞ」
中大兄皇子の大化の改新 八百万の神だから受け入れられた神仏一体。 (男性/40代/大阪)
「個人的には、神の子孫である天皇家が仏教を取り入れた事は、世界史上に残る事のようにも思います」
明治維新 毎日、楽しく読ませて頂いてます。小生の勤務場所は大阪城の傍です。 (男性/50代/大阪)
「私は大阪城の傍で生まれ育ちました(*゚ー゚*)今後ともよろしくお願いします」
源頼朝の鎌倉幕府 1868年まで約680年間もの長期に渡り『武家政権』の始まり! (男性/30代/埼玉)
「やはり武士政権の基礎は頼朝にあり…ですね」
明治維新 およそ200年からのこの変化はでかい! (男性/30代/大阪)
「やはり、現在の日本に直接つながりますからね~」
明治維新 鎖国制度の廃止・諸外国との交流 (男性/60代/神奈川)
「やはり、海外との交流は大きい変化をもたらしましたね」
明治維新 これがなかったら、今頃どうなってる事やら・・・ (男性/30代/福島)
「まったく違った国になってたかも…ですね」
その他 日本史上唯一の敗戦によるマッカーサー占領が最大の政権交代?と思われます。 (男性/60代/東京)
「あっ、コレはありましたね~唯一の植民地時代…考えようではこれがトップかも知れません」
継体天皇の即位 越の国からの侵略政権だったのではと思うので (男性/30代/東京)
「やはり、ここで他国からの…という疑いは拭えませんね」
織田信長の足利義昭・追放 信長なかりせば秀吉も家康も存在してません・・ (男性/40代/岡山)
「やはり、そうです…江戸時代すらなかった可能性もありますからね」
中大兄皇子の大化の改新 徳川幕府が滅び武士の世の中の終焉 (女性/50代/福岡)
「コメントは明治維新っぽいんですが、やはり、投票されている項目への1票とさせていただきましたo(_ _)o」
中大兄皇子の大化の改新 一番政権交代っぽいかな、と。私的には二・ニ・六事件もです。 (女性/10代/神奈川)
「軍事クーデターですか…そうですね、結局は入鹿一人を殺害するところから始まってますからね」
その他 日本国憲法の施行。これは事実上の政権(主権)交代です。 (男性/20代/千葉)
「憲法の施行…確かに、インパクトのある物に目がいきがちですが、法律の制定は重要です」
その他 太平洋戦争・敗戦。その後日本人は大きく変わった。戦前日本人が持ってたいいものも捨ててしまった。 (女性/40代/東京)
「やはり、占領されたと同時に、古き良き物も…ちょっと寂しいですね」
明治維新 これが一番大きく変わったと思います。今の日本もこれくらい大きく動かないと駄目ですね…× (女性/30代/兵庫)
「早く経済を回復してほしいです…はじけないバブルを希望!」
民主党政権・誕生 こ今。日本がマスコミの誘導で完全にチンに乗っ取られたから。 (女性/50代/東京)
「手厳しい~~~(ノ_≦。)」
明治維新 意識革命です! (男性/40代/埼玉) 「そうですね…国もそして国民の意識がまったく変わりましたね」
明治維新 日本が変わって初めて世界に影響を与えたから (女性/40代/大阪)
「世界デビュー…まさに大きな変化がありましたね」
明治維新 外国からの圧力に対し日本国として政治をしていく意識がこの時代から始まったからかな (女性/40代/高知)
「圧力に真っ向から立ち向かった明治の人たち…なのに今はって感じですね」
壬申の乱からの天武天皇 天武天皇が。。。。。 (男性/40代/兵庫)
「やはり律令制度の確立という事ですね」
その他 現在の民主党政権から、次の政権へ。待望しています。
「もう、この次ぎに期待しましょう(u_u。)」
その他 太平洋戦争敗戦と、その後の民主化 (男性/40代/千葉)
「敗戦はいろいろな物を日本から奪いながらも、様々の物を与えました…上記の方のコメントのように古き良き物も無くなりましたが、新しき物も生まれましたね」
民主党政権・誕生 「日本は日本人だけのものじゃない」と、公の場で言う人までいるし。
「とうとうそんな事を…!(・oノ)ノ私たちを守ってはくれないなのかな?」
明治維新 江戸時代の終わり(徳川慶喜)大政奉還・江戸城明け渡し (女性/40代/埼玉)
「それまで武士が動かしてきたこの国…江戸が終わるという事が最大の変化かも知れませんね」
明治維新 近代国家の誕生、日本を最も大きく変えた政権交代だと思う。 (男性/40代/愛知)
「やはり、今の私たちに、直で影響してますからね」
明治維新 やはり明治が一番大きい変化でしょうね。民主政権誕生は、これから大きく変化するんでしょうね悪い方向に (男性/30代/東京)
「さらに悪くなりますか?そろそろ、我慢も限界なんですが…」
徳川家康の江戸開幕 他に類を見ない強力な政権。 (男性/30代/千葉)
「300年の平和は、日本史上、他にはない時代ですからね」
民主党政権・誕生 自由民主党から中華人民共和国日本省に国ごと政権交代。
「琉球がアブナイとテレビで言ってましたが本当でしょうか?」
明治維新 身分、国割りなど、日本の形が変わりましたよね。 (男性/30代/神奈川) 「四民平等と廃藩置県ですね…近代家に向けてのガンバリが心地よい時代です」
明治維新 国が変わって日本が世界列強になった (男性/20代/東京)
「欧米列強の仲間入り…白人に割って出る感じは、日本人としてウレシイ(゚▽゚*)」
源頼朝の鎌倉幕府 明以後700年続いた政治体制の始まりです。 (男性/50代/神奈川)
「やはり、武士政権は歴史上重要ですからね」
明治維新 一人一人の志士の国を思う強さが素晴らしい (女性/30代/【海外】)
「今の政治家の方々は…あの頃の方々のように命をかけてくださるんでしょうか?」
明治維新 明現共産主義民主党の官房長官をみてみい指で鼻の穴ほじくっとるぞ
「上記のコメントと同じですね~~維新の時の政治家さんはもっと真剣だったと…」
明治維新 革命の構造のユニークさといい、関連する人物の興味深さといい、明治維新が一番であろう。
「まるで、そのために生まれ、役割を終えて彗星のごとく去っていく…もうそれだけでドラマです」
民主党政権・誕生 大東亜戦争敗戦に並ぶ国難。外国人(帰化人・在日)や同和に統治される不幸な時代だからだ。
「敗戦に並ぶ…う~ん、ここらで国民もしっかりしないと!」
民主党政権・誕生 池田総理と麻生さんの交流です 妄想です (男性/30代/東京)
「アレがアレしてしまって、それをやったアノ人がアレに…民主党からは目が離せない今日この頃…」
徳川家康の江戸開幕 長い戦乱が終り、一番長い平和の時期を築いたから (男性/10代/東京)
「とにもかくにも、町民が安心して暮らせる時代だったからこそ、あれだけの娯楽があったんですもんね」
明治維新 最高の役者が最高の場面で最高の演技をし、何の未練も無く舞台を去る、 (男性/50代/愛媛)
「スター揃いのお芝居を見ているような感覚ですね」…もちうろん、その退き際もカッコイイヽ(´▽`)/」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

誰も見た事がないのだから、色々な意見があって当然!
これだから、
歴史の妄想はやめられませんねヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
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2010年11月12日 (金)

主君に届け!この思い~大友宗麟の軍師・角隈石宗

 

天正六年(1578年)11月12日、激戦となった耳川の戦いで、大友宗麟の軍師・角隈石宗が討死しました。

・・・・・・・・・

上司と部下、主君と家臣・・・
ある時は、見事に相乗効果を発揮し、難関なプロジェクトを切り抜けたりもしますが、その関係が永遠に続くか?というと、そうでなかったりもします。

角隈石宗(つのくませきそう)は、九州は豊後(ぶんご・大分県)にその名を轟かせた大友宗麟(そうりん)の軍配者・・・つまり軍師です。

「大事の所伝(しょでん)と呼ばれる軍配術の奥義を体得していた事から宗麟の信頼を一身に受け、永禄年間(1558年~69年)頃から記録に登場します。

天から脇差を降らせたかと思えば、その脇差を谷へと投げ込む・・・しかし、いつの間にやら、その脇差は石宗の手元に戻っている・・・
まさに、超魔術!!ミスターセキック(-▼_▼-)の世界・・・

とは言え、そんな妖術的なものばかりでなく、智謀や兵法にも長け、気象予報の名人でもあり、礼儀作法や物の道理、人の道も説く・・・って事で、まさに万能な軍師として、宗麟のみならず、家臣たちからの信頼も厚かったのです。

ところが、そんな主従関係に亀裂が入る時がやってきます。

それは、キリスト教の伝来でした。

これまでの大友家では、田原八幡宮筥崎(はこざき)など・・・地元の神社や氏神などに戦勝祈願を行い、その籤(くじ)や占いの結果によって軍事行動を起こすが度々あり、何度となく勝利もしていました。

しかし、宗麟がキリスト教ドップリになってからというもの・・・それらの占いの結果を軽視するようになります。

もちろん、キリスト教がいけないわけではありませんし、神社のお告げだって21世紀の世の中から見れば、当たるも○○当たらぬも○○の世界なのですから、どの神様を信心しようがかわまないのですが、問題は、軍団が氏神様のもとに結束している家臣らの心情を、宗麟がまったく無視して、強引に軍事行動を起こしてしまう事にあったわけです。

このあまりの無視っぷりには、後に、重臣の立花道雪も苦言を呈していますが、奥さんだって心配して、正室の立場からキリスト教を排除しようとしました。

しかし宗麟は逆にその奥さんと離婚して、自分の考えを推し通します。

こうなると、それまで、何をするにも石宗に意見が求められていたのが、当然、それもなくなるわけです。

そんなこんなの時に起こったのが、宗麟の生涯で屈指の敗戦となる耳川の戦いです。

もちろん、発端となるのは、隣国・日向(ひゅうが・宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が、その領国の南半分を薩摩(鹿児島県西部)島津義久に奪われ、「何とか取り戻してヨ~」と、宗麟に泣きついて来た事に始まるわけですが、その時に義佑が言った「領地、取り戻してくれたら、その半分あげちゃう」に心動いた宗麟・・・

そう、かねてより造りたくてしかたがなかったキリシタンの王国・・・しかし、上記の通り、家臣や元奥さんの反対に遭い、なかなか実現できなかったその夢も、新しく手に入れた領地ならやりやすい・・・「よっしゃ!やったろ!」と心動きます。

その話を耳にした石宗・・・
●宗麟が49歳の厄年である事
●今、未申
(南西)の方角へ進むのが凶である事
●彗星の動きが凶を示している事

の3点を挙げて、進攻作戦に反対の意を表明します。

ただし、石宗は作戦そのものを反対しているのではなく、現段階で事を起こす事に反対なのです・・・要するに「時期が悪い」という事です。

もちろん、そこには占いの結果だけではなく、家臣の動揺や軍団の雰囲気も含めての総合的は判断で、それこそ軍配術の奥義を駆使してはじき出した結果だったのです。

しかし、もはや宗麟は聞く耳を持ちません。

「石宗言上(げんじょうの様には、御同心(ごどうしん)更になし」(大友興廃記)
と、まったく以って冷たい仕打ち・・・

もはや、自らの失脚をさとった石宗・・・それこそ、大事に大事にしていた「大事の所伝」を焼き捨てたうえで、この出兵に従軍・・・しかも、軍配者の地位を捨てて、一兵士として参戦したというのですから、その決意のほどもうかがえます。

しかし、そんな捨て身の決意も、どうやら宗麟には伝わらなかったようです。

天正六年(1578年)11月12日・・・まさに、決戦間近の当日、

白々と明ける空を見て、石宗は愕然とします。

そこには、「血河(けっか)の気(き)という不吉な兆しが、味方の上空を覆っていたのです。

石宗は、すぐさま主君・宗麟に伝令を派遣・・・「血河の気が上空を去るまで、兵は動かさないように」と進言したのです。

しかし、それを受け取った重臣は、その事を宗麟に伝えず・・・というより、すでに宗麟からの出撃命令が出ていたため、その命令に従い決戦に及んでしまったのです。

そしてご存じのように、この戦いは未曽有の犠牲者を出してしまう、悲惨な結果となってしまいます。

*耳川の戦いについては以前のページを・・・
  (2日に渡って書いています)
 11月11日:初日=高城川の戦い>>
 11月12日:2日目=耳川の戦い・終結>>

重臣の連絡ミスを含むとは言え、立て続けに2度も進言を無視された石宗・・・

無謀な戦いを止める事が出来なかった自分に、もはや、軍師としての存在価値があるのだろうか?・・・

果たして、本当にそう思ったかどうかはわかりませんが、自ら、敵の大軍の中に躍り込み、壮絶な死を遂げたと言います。

ところで、石宗が体得していたと言われる「大事の所伝」の奥義・・・実は、この戦いに挑む前、石宗は、この大事な奥義の一部を、自らが最も見込んだ人物戸次鎮蓮(べっきしげつら)託していたのです。

この鎮蓮という人は、あの立花道雪の養子となる人物・・・つまり、屈指の名将とされる立花宗茂(11月3日参照>>)の義弟にあたる人です。

しかし、この鎮蓮が、父の亡きあとに大友家を継いだ宗麟の息子・大友義統(よしむね)に仕えていた時、義統を諫める書状を提出した事から謀反の疑いをかけられて誅殺(または責められて自刃)されてしまったため、「大事の所伝」は、現在には一言一句たりとも伝わらず、幻の奥義となってしまいました。

宗麟から義統・・・石宗から鎮蓮

この地上には、上司と部下による幾万の縁(えにし)がある中で、「もう少し何とかならんかったのか?」と、胸の痛くなる思いですね。
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2010年11月11日 (木)

応仁の乱・終結~ゴネ得?大内政弘の帰国

 

文明九年(1477年)11月11日、西軍の主軸として活躍していた周防大内政弘が帰国し、応仁の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と書いちゃいましたが、実は応仁の乱の終結という物も、なかなか一言では語れません。

そもそも、すでに書かせていただいているように、その勃発からして複数あります。

Dscn6379aa600 京都の上御霊(かみごりょう)神社の境内には「応仁の乱勃発の地(写真→)という碑がありますが、管領・畠山家の後継者を争った畠山政長畠山義就(よりなり)に、細川勝元山名宗全(そうぜん・持豊)(3月18日参照>>)という2人の大物がそれぞれ加担して、この上御霊神社を舞台に行われた御霊合戦が勃発したのが、応仁元年(1467年)の1月18日(1月17日参照>>)

一方、教科書年表や歴史書籍などに書かれている応仁の乱の勃発は、その5ヶ月後の5月20日・・・

先の御霊合戦で敗れた政長が勝元のもとに帰参し、東軍・細川側には総勢16万という大軍が用意され、一方の西軍・山名側にも11万が集まり、一触即発の状態となったところで、勝元が「戦火から御所を守る」という名目で、将軍・足利義政のいる花の御所を占拠して、敵対する山名の討伐を取り付ける・・・これが5月20日なのです(5月20日参照>>)

・・・で、その後は、最初の戦闘となった
●5月26日の五月合戦(5月28日参照>>)から、
●10月3日の相国寺の戦い(10月3日参照>>)
●翌年3月の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)
と、いくつかの大戦と多くの小競り合いがあったわけですが、すでに書かせていただいている通り、11年という長きに渡って行われる応仁の乱も、激しく戦ったのは、この最初の1年くらいで、あとは、ほとんどがダラダラ感満載の戦い・・・

お互いに1kmと離れていない場所に本陣を置きながら、名のある武将が命を落とす事もなく、その勝敗さえウヤムヤな乱なのです。

しかも、途中で総大将がトンズラしたり、復帰しちゃぁ寝返ったりのドタバタの中(11月13日参照>>)、文明五年(1473年)の3月に宗全が亡くなり(3月18日参照>>)、2ヶ月後の5月には勝元が亡くなり・・・と、双方の大将が相次いで死去した事で、さらにテンションだだ下がり・・・

結局、翌・文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(勝元の嫡男)山名政豊(宗全の孫)和睦してチャンチャン!!・・・ある意味、ここで終結とも言えるわけで、現に多くの地方の武将が、ここらあたりで帰国しています。

ただ、実際には、さらに、その3年後、最後の最後まで京都にてゴチャゴチャやってた周防(すおう・山口県南東部)大内政弘が、文明九年(1477年)11月11日帰国して終結という事になるのですが・・・

その9日後の11月20日、かの義政と息子の義尚(よしひさ)のもとに、各公卿や諸大名が集まって「天下静謐(せいひつ)」の酒宴が開かれたとの事で、この日を終結とする場合もあります。

この勃発の日をどちらかに決めかねるというのは、ひとえに、応仁の乱の要因が複数あり、どれもが微妙なバランスで絡み合っているせいなわけで・・・

もともとあった管領家(畠山家・斯波家)同士の後継者争いに、将軍家の後継者争いが絡んで・・・というのが、大きな要因ですが、それに拍車をかけるのが、将軍・義政のあいまいさであり、その妻・日野冨子の我が子かわいさであるわけです(将軍家の家督争いについては1月7日参照>>

それが乱の終結となると、そこには、乱のために京都にやって来た地方の大名の金と名誉も絡んでくるわけです。

細川&山名の後継者同士が和睦してから、本当の終焉を迎えるまでに3年もの期間があるのもそこです。

特に、最後まで居座った、本日の大内政弘・・・

ご存じのように、大内氏は、対朝鮮や対(中国)との貿易で巨万の富を築いた西国の雄・・・

しかし、いくらお金を持ってるからと言っても、戦争にかかる膨大な費用は無視できません。

地方の大名が国許から呼び寄せた兵の駐屯費や移動費、もちろん武器にも多額の費用がかかるうえ、戦いが長期化すれば、現地でもバイトを雇わねばならず、さらに莫大な出費がかさむわけです。

こうまでしても、京都へやって来て戦う意味は、ひとえに名誉のため・・・地方の大名が、中央で大活躍をして、その名を天下に知らしめる事くらいしかメリットはありません。

しかし、今回の応仁の乱の場合は、勝敗もウヤムヤだし・・・第一、途中参加の大内さんは西軍に加担していますから、御所を占拠していた東軍が官軍だとすれば、賊軍(国家の敵)となってしまうわけで、はるばるやってきて賊軍のままじゃ、何のために参戦したんだか・・・。

そう、政弘は、このままウヤムヤに終わったのでは帰るに帰れない=故郷に錦を飾れない状態だったわけです。

それを解決したのが、誰あろう、冨子だったと言われています。

彼女は、この戦乱中に、軍費が必要な武将たちに年利6割という高利貸しをやっていて、かなり儲けていたのだとか・・・しかも、相手は東西両軍ともの武将だったと言いますから、実に商魂たくましい!

・・・で、まずは、政弘と同じように乱の終結にゴネていた畠山義就に、その貯蓄した中から多額のお金を貸してさしあげ、ご機嫌をとり文明九年(1477年)の9月に帰国させます。

そして、名誉がほしい政弘には、朝廷と夫の義政に働きかけて、従四位下左京大夫(さきょうだいぶ)という官位と、周防・長門(ながと・山口県西部)豊前(ぶぜん・福岡県東部と大分県北部)筑前(ちくぜん・福岡県北西部)守護石見(いわみ)安芸(あき)知行地(ちぎょうち・支配権のある土地)保証させたのです。

こうして政弘は、あたかも勝利将軍のように、見事な凱旋帰国が果たす事ができ、ここに、やっと応仁の乱が終結するというわけです。
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2010年11月10日 (水)

池田恒興・輝政…父子2代の補佐役・伊木忠次

 

慶長八年(1603年)11月10日、その手腕で池田家を支えた姫路藩の初代筆頭家老・伊木忠次が61歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

尾張(愛知県西部)清州で生まれたとされる伊木忠次(いぎただつぐ)は、もともとは、香川長兵衛(清兵衛)という名乗りで織田信長に仕えていましたが、信長の美濃(岐阜県)攻略(8月1日参照>>)の際に、犬山城近くにある伊木山に陣取って奮戦した事から、信長より伊木を賜り、以後、伊木姓を名乗ったとされます。

その後の信長が、自分と乳兄弟の関係にある池田恒興(つねおき)を家臣団の中で重要視するようになった事で、その意向で恒興の与力となります。

んん~
このあたりで、すでに、かなりのキレ者である事がわかりますね~

なんせ、あの信長さんが、自らの乳兄弟のサポートを、忠次に頼んだって事ですからね。

とは言え、忠次さんの活躍が表立って登場するのは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)で信長が倒れてから・・・

忠次も、もうすぐ40歳になろうかという小牧長久手の戦いです。

これは、羽柴(豊臣)秀吉と対立した信長の次男=織田信雄が、徳川家康を味方につけて8ヶ月に渡って繰り広げる信長の後継者争いですが、すでにブログでも書かせていただいている通り、最初の口火を切ったのは、恒興の犬山城攻略(3月13日参照>>)です。

この犬山城の攻略が、わずか一日で成し遂げられた要因の一つに、ここの守りが手薄であった事が挙げられます。

もちろん攻める側は、それを狙って攻めたわけですが、実は、この前日に信雄方の神戸城主・神戸正武(かんべまさたけ)と蟹江(かにえ)城主・佐久間正勝らが、秀吉方についた関信盛(せきのぶもり)の北伊勢亀山城を攻めていて、この時点では信雄も家康も、「この戦いの主戦場となるのは伊勢だ」と考えていたからなのです。

つまり、信雄は、まさか恒興が秀吉側につくとは思っておらず、てっきり自分の味方になってくれる物だと思っていて、尾張方面の守りは、あまり強くしていなかったようなのです。

・・・と、ここで本能寺から、これまでの恒興の動向を振り返ってみましょう。

あの明智光秀を相手にした山崎の合戦でも秀吉とともに・・・(6月13日参照>>)
信長の後継者選びとなった清州会議では、秀吉の推す三法師(信長の嫡孫)を支持し・・・(6月27日参照>>)
柴田勝家との織田家家臣団のトップ争いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも、秀吉側について・・・(4月21日参照>>)

と、完全に秀吉ドップリですやん!
信雄さんったら、なんで、この人が秀吉につくって気づかなかったの?

と思ってしまいますが、これは、この後の流れを知っている後世の私たちが思う事で、実は、この小牧長久手の戦いが始まる前までは、信雄自身が秀吉派だったのです・・・現に、賤ヶ岳の戦いの後、勝家が織田家後継者に推していた三男・神戸信孝(かんべのぶたか)死に追いやるのは、この信雄さんです(5月2日参照>>)

つまり、ここまでは秀吉の三法師を看板にした天下狙いの戦いではなく、あくまで織田家内の勢力争いだったわけで、家中の内紛なら、織田家の家臣である恒興は、どっちに味方しようが、本人の自由なわけです。

それは、以前、前田利家賤ヶ岳戦線離脱のところ(4月23日参照>>)でも、離脱された勝家自身が、利家の行為を「裏切りだ」とは思っていなかっただろうという事を書かせていただいています。

・・・と、どっちにつくかは自由だったとは言え、なんせ恒興は、信長の乳兄弟ですから、「信長の血を引く自分に味方してくれるだろう」と信雄が思ったのも無理はありません。

実は、恒興自身も、直前までは信雄方で参戦するつもりだったのです。

その気持ちを変えたのが忠次の進言であったと言われています・・・やっと、出て来た~長い回り道、すんませんでしたm(_ _)m

どうやら、忠次さんは、すでに秀吉が天下を狙っている・・・そして、それが実現するかも知れない事を見抜いていたようで、ここで、信雄につこうとする主君=恒興に、「信雄に加担するのは、火で衣を包むのと同じである」と諭したのです。

この進言を聞き入れた恒興が、未だ信雄の目線が伊勢に向いている間に、いち早く、犬山城を奪取した・・・というのが、わずか一日で・・・の成功の鍵となったのです。

とは言え、ご存じのように恒興は、このすぐあとの長久手の戦いで、長男の池田元助(げんすけ)、娘婿の森長可(ながよし)らとともに、家康の急襲に遭って戦死してしまいます(4月9日参照>>)

・・・と、本来なら、忠次も、恒興のそばにて同行していそうですが、この時、元助の指示により、尾張岩崎城(愛知県日進市)の攻略へ向かった恒興の次男=池田輝政のサポートすべく、輝政と行動をともにしていたので、すぐ、そばにはいなかったのです。

この後、輝政と忠次は、なんとか戦線離脱に成功し、無事、帰還しました。

当主と後継者を同時に失ってしまった池田家・・・ここから、忠次は、家督を継ぐ事になった輝政の補佐として、忠勤を誓う事になるのです。

秀吉も、この忠次がいかに重要人物であるか察していたのでしょう、知行5000石とともに、背中に秀吉のトレードマークである瓢箪(ひょうたん)をデザインした陣羽織を与えるという厚遇で対応しています。

その後の関ヶ原の合戦でも、家康側についた輝政とともに美濃などを転戦し、岐阜城の攻略(8月22日参照>>)にも一役買いました。

戦後に播磨(はりま)姫路藩52万石の藩主となった輝政の命で、姫路城築城の総奉行も任されました。

Dscn7670bb900 姫路城

しかし、まもなく病に倒れる忠次・・・

それでも、見舞に訪れた輝政に・・・
「新規の召しかかえにばっかり力入れんと、譜代の家臣を大事にしなはれ~」
と、何かと新規のスカウトにばかり走る輝政を諫めています。

これに対して、輝政は、涙を流しながら
「その言葉は生涯忘れない」
と言ったという事なので、よほどこのアドバイスは的を射ていたんでしょうね。

慶長八年(1603年)11月10日・・・忠次は、最後の最後まで補佐役として、その生涯を終えました。

その後、池田家は備前岡山藩主に転封となりますが、伊木家は筆頭家老としての地位を保ち続け、「天下三大家老」の一つに数えられるまでになったのです。
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2010年11月 9日 (火)

母から息子への思い~野口シカの手紙

 

明治九年(1876年)11月9日、黄熱病や梅毒の研究で知られる医学博士・・・今では千円札でもお馴染の野口英世が誕生しました。

・・・・・・・・・・・

日ごろは、その方のご命日にその生涯を振り返る形でのご紹介が多いこのブログ・・・今回はお誕生日に書かせていただきます。

・・・というのも、今日は野口英世の・・・というよりは、その母・野口シカさんの手紙をご紹介したかったからです。

有名な手紙なので、ご存じの方も多いとは思いますが、とりあえず・・・

・‥…━━━☆

おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(びっくりし)ました。
わたくしもよろこんでをりまする。
 
なかた
(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年。 
よこもり
(夜籠り)を。いたしました。

べん京なぼでも(勉強はいくらしても)。きりかない。
いぼし
(烏帽子:近所の債権者)ほわこまりをりますか(には困っていますが
おまいか。きたならば。もしわけ
(申し訳)かてきましよ。

はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
わたしも。こころぼそくありまする。
ドカ
(どうか)はやく。きてくだされ。

かねを。もろた。こトたれにもきかせません(誰にも言ってません)
それをきかせるトみなのれて
(飲まれて。しまいます

はやくきてくたされ。

はやくきてくたされ。

はやくきてくたされ。

はやくきてくたされ。

いしよの(一生の)たのみて。ありまする

にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み
ひかし
(東)さむいてわおかみ。しております。

きた(北)さむいてわおかみおります。
みなみ
(南)たむいてわおかんておりまする。

ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま
(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
おかんてもろておりまする。

なにおわすれても。これわすれません。

さしん(写真)おみるト。(神に捧げるように)いただいておりまする。 
 
はやくきてくたされ。いつくるトおせて
(教えて)くたされ。
これのへんちち
(返事を)まちてをりまする。
 
ねてもねむられません

Nogutisikategami800 野口シカの手紙(野口英世記念館蔵)

・‥…━━━☆

貧しい農家に生まれたシカは、その生活を支えるため、7歳の頃から子守り奉公に出ますが、仕事を終えた深夜になっても、月明かりのもとで読み書きの稽古をする勉強好きな少女であったと言います。

やがて年頃になったシカは、野口佐代助という男と結婚し、福島県耶麻郡三ッ和村(猪苗代町)に暮らしますが、この佐代助という男が、人は良いものの年中無職・・・お酒ばっかり飲んで全然働かなかったために生活は苦しくなる一方ですから、当然、シカが頑張って働くしかありませんでした。

ある日、畑仕事をしている最中、まだ1歳だった長男の英世(清作)囲炉裏(いろり)に落ち、左手に大ヤケドを負ってしまいます。

村には医者はおらず、ちゃんとした治療が行えなかったため、英世には左手の5本指が離れなくなるという障害が残ってしまいました。

村の小学校にあがる頃、ハンディを背負ったままでは農作業が困難であると気づいたシカは、英世に学問を身につけるよう諭して、自らは、息子を学校に通わせるため、懸命に働くのです。

やがて、英世の成績の優秀さを知った猪苗代高等小学校の教頭・小林栄先生の配慮で、猪苗代高等小学校に入学・・・この学校で、左手のハンディについて書いた英世の作文が、教師や同級生の感動を呼び、手術のための募金が始まります。

集まった募金によって会津若松の開業医・渡辺鼎(かなえ)の手術を受ける英世・・・このアメリカにて西洋医学の最先端を習得していた渡辺医師によって、不自由ながらも左手を使えるようになった英世が、これをきっかけに医学の道を志すようになるのは有名なお話ですよね。

こうして努力を重ねて医者になり、アメリカに渡って立派な学者となった英世・・

シカも息子に負けじと産婆の資格試験に挑みます。

小さい頃に勉強家だったとは言え、忙しさのあまり、ほとんど文字を書けなかったシカは、その試験を受けるため、読み書きを一から覚えるところから始め、見事、合格しています。

思うんですが、自分の過失によって、子供にハンディを負わせてしまう事になってしまった母親の気持ち・・・他人にはわからない、様々な思いが交錯した事と思います。

母親によっては、ハンディを背負った子供に対して、ついつい過剰な溺愛をしてしまうものなのかも知れませんが、それだと、おそらくは英世がここまで立派な医師になる事はなかったように思います。

個人の性格などは、実際に会ってみないとわかりませんが、少なくとも研究者として成功し、偉人となった人なのですから、その根底にあるのは、幼い頃のシカさんの英世に対する対応・・・過剰な溺愛にならず、それでいて愛情たっぷりに・・・

この手紙は、遠くアメリカに離れ、もう何年も会っていない息子に、試験の時に覚えた文字を駆使して書いた母からの手紙ですが、そんなシカさんらしい・・・
たどたどしいからこそ、愛が見える
たどたどしいからこそ名文・・・

この手紙を受け取った英世は、母が文字を書けるようになっていた事に驚いたとも言われていますが、ほどなく、忙しい研究の会い間をぬって帰国するという行為そのものが、母への返事・・・といったところでしょうか。
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2010年11月 8日 (月)

里見氏の全盛を築いた南関東の雄・里見義弘

 

永禄四年(1561年)11月8日、安房里見義弘が、水軍を率いて北条領相模三浦に攻め寄せました。

・・・という事で、本日は、安房(あわ・千葉県南部)里見氏の全盛を築いた里見義弘(さとみよしひろ)さんについて・・・

・・・・・・・・

この安房の里見氏は、清和源氏の流れを汲む新田義重(にったよししげ)の息子・新田義俊(よしとし)が、上野(こうずけ)里見郷(群馬県高崎市)に移住し、土地名をとって里見姓を名乗った事に始まります。

やがて、その子孫が安房の守護を命じられ、文安二年(1445年)に義俊から数えて11代目の当主・里見義実(よしざね)安房の平定に成功し、ここから、安房里見氏となります。

その後、安房白浜城(千葉県南房総市)を居城とし、上総(かずさ・千葉県中部)から下総(しもうさ・千葉県北部)一帯への勢力拡大を目指して兵を進めておりました。

・・・その義実から数えて6代目の当主になるのが、本日の主役の義弘さんの父=里見義堯(よしたか)なのですが、実は直系=嫡流ではありません。

以前、鶴岡八幡宮の戦い(11月12日参照>>)のところでも、少し書かせていただきましたが、義実の嫡孫の義通(よしみち)の死を受けて、その息子の義豊(よしとよ)が後継者となるのですが、未だ幼いとして義通の弟=実堯(さねたか)後見人となり実権を握ります。

しかし、義豊が成長した後も、その実権を手放さなかった事から、義豊が実堯を殺害して実権を奪回・・・ところが、今度は、その実堯の息子=義堯が「父の仇!」とばかりに義豊を殺害して実権を握った・・・

つまりは、従兄弟同士での後継者争いだったわけですが、現在残る史料の細かな事は、かなり創作が含まれているとされ、その経緯は不明な点が多いのですが、とにかく、何かしらのお家騒動があった事は確かで、そのお家騒動に打ち勝った義堯が里見の当主となり、その義堯が亡くなった天正二年(1574年)に、嫡子の義弘が後を継いだわけです。

・・・とは言え、義弘自身は、すでに永禄の初めの頃に初陣を済ませていて、当主を継いだ頃には、なかなかの武将として、いくつかの実戦経験を持った殿様でした。

弘治二年(1556年)には、自ら軍船・80隻を率いて江戸湾を渡り、三浦半島を襲撃したりなんかもしています。

この時には、初恋の相手である青岳尼(しょうがくに)を鎌倉の大平寺から連れ出して、自らの正室に迎えた・・・なんて色っぽい話も・・・(10月7日参照>>)

そう、父そして祖父の時代より受け継ぐ里見にとっての宿敵は、対岸=相模(さがみ・神奈川県)北条氏・・・

父・義堯の時代には、将軍家の分流=小弓公方足利義明を担いでの第1次国府台(こうのだい)合戦(10月7日参照>>)にも挑んでいます。

それ故、義弘は、その北条をけん制すべく、関東の諸将はもちろん、越後(新潟県)上杉謙信との同盟も結んでいました。

・・・で、謙信が相模に攻め込んだ永禄四年(1561年)には、それをサポートすべく、重臣・正木時忠を援軍に差し向け、自らも11月8日相模三浦に攻め寄せたのです。

その3年後の永禄七年(1564年)にも、やはり、謙信の攻める北条を、背後から突くべく戦った第2次国府台の戦い(1月8日参照>>)で、北条氏康軍と刃を交えています。

ただ、そのページにも書かせていただいたように、この第2次国府台はかなりの激戦・・・北条も多くの死者を出しますが、里見はそれ以上の死者を出し、微妙ながらの敗戦となってしまった事で、先の時忠をはじめとする重臣・家臣が多数離反してしまったため、領地の大半を失い、北条による上総への侵入も許してしまう事になります。

こうして、このまま衰退の道をたどるかに見えた里見氏・・・しかし、さすがは南関東の雄と称された義弘・・・

3年後の永禄十年(1567年)に義弘の居城を攻撃すべく、わずか4km先の三船山に砦を築いた北条氏政を相手した三船山合戦では、「先んずれば制す」とばかりに、攻撃される前に打って出て、見事、勝利をおさめます。

これによって、先の国府台の時に離反した多くの国人が、再び傘下となり、「南総に里見あり」、と里見氏の全盛時代を築く事になるのです。

翌年、この敗戦に加えて武田との同盟もブッ潰れた北条が、義弘に和睦を申し出ますが、これをピシャリとはね退けるカッコイイところも見せてくれています。

しかし、一族の最盛を築き上げた名将は、諸将の同行、周囲の情勢を見る目も持っていたのでしょう・・・むやみに意地をはる事なく、天正五年(1577年)には、あっさりと北条と和睦し、その勢力を維持を図ります。

そして、北条との和議で、なにやら張りつめて糸が切れたのでしょうか?・・・義弘自身は、その翌年の天正六年(1578年)の5月20日49歳でこの世を去りました。

その子孫は、豊臣秀吉から徳川家康の時代を、安房一国の主として生き抜きますが、義弘の弟の孫=忠義(ただよし)大久保忠隣(ただちか)の改易事件(4月25日参照>>)に関与した事で、一族は没落する事に・・・

ちなみに、あの滝沢馬琴(ばきん)『南総里見八犬伝』(11月6日参照>>)は、この里見氏の繁栄と没落をモデルに描かれています・・・もちろん、内容は創作ですが・・・
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2010年11月 6日 (土)

強き勤王の母・野村望東尼

 

慶応三年(1867年)11月6日、幕末の女流歌人で、勤王の志士を支援した事で知られる野村望東尼が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪冬ふかき 雪のうちなる 梅の花
  埋もれながらも 香や隠るる ♪

「真冬の雪におおわれた梅の花・・・
 埋もれながら、その香りを隠している」

知り合いの福岡藩士から頼まれて、自宅の山荘でかくまう事になった青年を見て、彼女はこの歌を詠みました。

もちろん、そこには
「春になって雪が解ければ、その梅の花は極上の香りを放つであろう」
という意味もこめられています。

時は元治元年(1864年)11月の事・・・

その前年の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央政界から追い出された長州(山口県)が、この年、その復権を求めて兵を率いて上洛した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・その敗戦によって、朝敵(国家・天皇の敵)となった長州は、なんとか藩のお取りつぶしだけは免れようと、禁門の変は藩主の命令ではなく、先走った家老たちが、藩主の命に背いて起こした事件という事にして、関与した家老らを処分して(11月12日参照>>)、その後は、ただ、ひたすら反省の姿勢を示します。

つまり、藩を存続させるためとは言え、前年までは尊王攘夷派が牛耳っていた藩内で、総入れ替えするように、藩のトップに保守派を持ってきたわけです。

逆に言えば、残った藩内の尊王攘夷派は消される可能性があるという事・・・

・・・で、身の危険を感じた、かの尊王攘夷派の青年が、彼女=野村望東尼(ぼうとうに・もとに)さんの山荘にその身を隠しに来たというわけです。

望東尼は、福岡藩士・浦野重右衛門勝幸(じゅうえもんかつゆき)の三女として文化三年(1806年)に生まれました。

幼い頃から読書好きの聡明な少女だったと言いますが、17歳である福岡藩士と結婚するも、半年余りで離縁・・・24歳の時に、やはり福岡藩士の野村新三郎貞貫(さだつら)後妻となります。

二人の間に授かった4人の子供を、いずれも幼くして亡くしてしまうという不幸に見舞われながらも、夫の先妻の子供・3人を育てあげています(後に嫡男が亡くなりますが…)

27歳の時に、夫とともに入門した大隅言道(ことみち)のもとで和歌を学び、その才能が開花・・・歌人としての道を歩み始めます。

やがて隠退した夫とともに、福岡郊外(現在の福岡市中央区)平尾山荘に移り住み、42歳で夫を亡くした後は、剃髪して尼となって夫の菩提を弔うという武士の妻の定番の生活を送ります。

しかし文久元年(1861年)・・・望東尼・54歳の時、京都にて、歌の師である大隅に再会した事で、その人生が急展開します。

大隅から聞く、この国への憂い・・・
目の当たりにした寺田屋騒動やら、幕府と薩長の対立やら・・・

さらに、彼女はこの時、嵯峨野直指庵(じきしあん)で謹慎中の村岡局(むらおかのつぼね)(8月23日参照>>)に面会しに行ったりもしています。

福岡に戻った彼女は、すっかりと変わっていました。

平野国臣(くにおみ)中村円太(えんた)ら、勤王の志士との交流が始まります。

やがて彼女の平尾山荘は、そんな志士たちのたまり場&隠れ家として利用され、そこには、いつも若き志士たちを見守る母のようなまなざしの望東尼の存在があったのです。

やがて政変があり、禁門の変があり・・・その禁門の変では、かの国臣も命を落としています。

そして、変から4カ月後・・・円太の紹介で、彼女の平尾山荘に匿われる事になった青年・・

望東尼に、「いずれ時が来れば、香りを放つ梅」と言わせたその青年は、あの高杉晋作でした。

期間としては、わずか10日ほどの滞在だったようですが、親子ほど歳の離れた二人は、それこそ、ともに同じ夢を見る母子のように、そのひとときを過ごしたに違いありません。

まもなく晋作は、長州を再び尊王派にすべく立ち上がる決意をします。

追われる身でありながら、追手の長州を変えようと向って行く晋作に、彼女は自らの手で縫った着物を与えます。

♪まごごろを つくしのきぬは 国の為
 立ちかえるべき 衣手にせよ ♪

「真心を尽くして(筑紫で)縫った着物は、国の為に戻る時の衣にしなさい」

つまり、「これを着て、立ち向かえ」と・・・
まさに、やさしくも強い、母の思いです。

この時、常に死を覚悟して戦う立場にあった晋作は、彼女に「あの世でお礼します!」という感謝の手紙を送ったのだとか・・・。

はたして、望東尼に別れを告げた晋作は、すかさず翌月の12月、功山寺にて挙兵(12月16日参照>>)・・・ふたたび、長州の実権を尊王攘夷派が握る事に成功するのです。

しかし、そんな状況を、未だ保守派の福岡藩がほっておくワケがなく、尊王攘夷派の勤王活動に加担した者たちすべてに処罰を与えます。

切腹や斬罪、流罪がひしめく中、望東尼も姫島(福岡県糸島郡)への流罪を言い渡されました。

わずか四畳ほどの板の間にゴザが敷かれただけの部屋に、夜は灯りもなく、冬ともなれば厳しい寒さに襲われる・・・こんな劣悪な環境での生活は、60歳の彼女には大変つらく、病に倒れる事もありましたが・・・

♪うき雲の かかるもよしや もののふの
 大和心の かずにいりなば ♪

「疑いかけられたってええやん!大和魂を持った志士の一人に数えられてんねんで・・・私」

この歌を見る限り、めげる事はなかったと思います。

やがて、入獄から10ヶ月後・・・「あの世でお礼します」と言っていた晋作の手配した6人の脱藩浪士が、彼女を島から救出するのです。

慶応二年(1866年)9月、まさに、あの四境戦争(第2次長州征伐)が終わった直後の事でした(7月27日参照>>)

晋作の手配した6人の脱藩浪士って・・・おそらく、晋作なら、手配なんて事をせず、自らが、その救出劇に立ち合いたかった事でしょう。

しかし、できなかった・・・そう、晋作はすでに病魔に侵され、思うようには動けなかったのです。

晋作が詠んだとされる有名な句・・・
♪面白き こともなき世に(を) おもしろく ♪

このあとに
♪住みなすものは 心なりけり ♪
と、つけたのは、この望東尼でした。

・・・とは言え、高杉ファンの方には、
「何て事してくれるんだ!この尼」
「高杉らしいカッコエェ句が台無しやないかい!」
「この下の句のおかげで、説教みたいになってる」
という方がけっこうおられます。

なるほど・・・一理あるな~と思いますが、私個人的には、そこまでの怒りはありません。

なぜなら、伝え聞くところによれば、この望東尼の下の句は、病床の晋作が句を詠んだすぐあとに、晋作の目の前で彼女が詠んだとされ、彼女の下の句を聞いた晋作が、
「おもしろいの~」
と、言ったとされているから・・・。

それが本当なら、つまりは、晋作にとってイヤじゃなかった下の句であり、晋作が「おもしろい」と思った下の句なのですから、まぁ、いいのではないかと・・・

そんな晋作の死から半年後の慶応三年(1867年)11月6日・・・奇兵隊を支援した豪商・白石正一郎(8月31日参照>>)のもとに身を寄せていた望東尼は、愛しい息子の後を追うように62歳の生涯を閉じます。

かりそめの息子とともに夢見た新しい世・・・それは、新生天皇によって王政復古の大号令(12月9日参照>>)が発令される1ヶ月前の事でした。

♪ひとすじの 道を守らば たおやめも
 ますらおのこに 劣りやはする ♪

「か弱い女かて、筋の通った道を貫いたら、男にも負けへんで~!」

女は弱し・・・されど、母は強し
まして勤王の母は、このうえなく強し・・・
 .

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2010年11月 5日 (金)

大坂冬の陣・直前~その時、大坂城内は?

 

慶長十九年(1614年)11月5日、大坂方の薄田隼人らが徳川方の松平忠明本多忠政の来襲を聞き、決戦を避けて大坂城に戻りました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、大坂冬の陣の出来事です。

豊臣秀頼が寄進した方広寺の鐘に、徳川家康イチャモンつけたのが慶長十九年(1614年)7月21日・・・(7月21日参照>>)

その問題解決のために無理難題をふっかけて、しぶる豊臣側に最後通告を出したのが8月20日・・・(8月20日参照>>)
(家康ファンの方へ…↑上記の書き方は、けして家康を悪人扱いしているわけではありませんm(_ _)m…むしろ、戦いに持ち込む際の武人としては見事だと…善人では戦国で天下は取れませんので)

やがて、決戦を覚悟した大坂方の呼びかけに応じて、真田幸村九度山を脱出(10月9日参照>>)、大坂城では軍議が開かれます(10月10日参照>>)

一方、10月1日に京都所司代の板倉勝重から大坂城内の動きを聞いて大坂討伐を決意した家康は、諸大名に出陣を命じ、自らは10月11日に駿府を出て、23日には二条城に入りました。

息子で、すでに第2代将軍となっていた徳川秀忠は、10月23日に江戸を出発して、11月10日に伏見城に入っていますから、本日=11月5日の時点ではまだ、到着していませんねぇ。

その後、11月15日に、家康は大和路から、秀忠は河内路から大坂へと向かいます。

なので、大坂の陣の勃発の日づけは・・・
家康が駿府を出た10月11日としたり、
大坂へ向かった11月15日としたり、

あるいは、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)らが、摂津の村々を焼き払いながら、大坂方の薄田隼人(すすきだはやと)の守る穢多崎砦(えたがさきとりで)などを襲撃する(11月29日参照>>)という事実上の戦闘開始となった11月19日とする場合もあります。

とは言え、家康ら本隊が到着する前に、すでに先発隊は到着していますから、その動きを察知した大坂方が決戦を避けて・・・と、この11月5日の時点で、すでに一触即発の状態となっていたわけです。

この同じ11月5日には、大坂方は平野を焼き打ちして、徳川軍の案内役を務めた末吉吉康(すえよしよしやす)らの一族を捕えて大坂城に連行したりなんかもしています(2011年11月5日参照>>)

ところで、この時の大坂城内の様子・・・秀吉と家臣団の関係などは、どんなもんだったんでしょうか?

この冬の陣の時点では、まだ大坂城にいた織田有楽斎(うらくさい・長益)(12月13日参照>>)の後日談によれば、約10万とも言われた浪人衆を、大野治長(はるなが)大野治房(はるふさ)木村重成(しげなり)をトップとする3つのグループに分けていたのだとか・・・

Oosakanozinzyounaisosikizu

大野兄弟は秀頼の母の淀殿の乳母・大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子たちで、重成は秀頼の乳母・宮内卿局(くないきょうのつぼね)の息子であったとされるので、彼ら3人は譜代・・・というより、淀殿&秀頼が私的に信頼をおく家臣という事になります。

『駿府記』によれば・・・
「大坂の様体、軍陣の体、万事母儀(淀の事)指出たまい、これによって諸卒色失う」
とあります。

つまり、秀頼の近臣には戦闘に慣れた武人が少なく、城内は人材不足となっていて、何かと言えば淀殿が独断的に采配を振るい、配下の者はヤル気なくす・・・と。

確かに、豊臣恩顧と言われる加藤清正浅野幸長などの百戦錬磨の武将たちは、すでにこの世にはなく、大坂方は決戦に向けて、手当たりしだいに諸大名の勧誘を図るも、それに応じる者は少なく、集まったの金に釣られた浪人ばっかりだったと・・・

もちろん、出自もバラバラで、豊臣には縁もゆかりもなく、武士とは名ばかりの百姓たちも混ざっていた・・・なんて事も言われています。

金地院崇伝(こんちいんすうでん)という僧の日記にも、「大坂城内は(無精な浪人ばかりなので)むさくるしい」なんて事が書いてあったりします。

ただし、浪人と言えど、後藤又兵衛(5月6日参照>>)長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)(5月15日参照>>)、真田幸村などは、各グループの軍団長に選ばれ、トップをサポートする役柄として、軍議の席での発言権もあったとの事ですが、実際の軍議では、彼らの打って出る作戦はことごとく却下され、実戦経験の乏しい大野治長らの推す籠城作戦に決定したとされています。

さらに、家老として相談役的な立場にあった有楽斎や片桐且元(かつもと)らが城を退去した後は、誰もが疑心暗鬼になり、日に日に城内のギクシャク感が増していった・・・なんて事も言われます。

確かに・・・これまでの時代劇ドラマでは、ほとんど、こんな風に描かれてましたよね。

しかし、よく考えれば、これらは全部、勝者=徳川方の言い分です(崇伝も徳川側の人です)

以前に【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】(5月10日参照>>)にも書かせていただきましたように、私個人は、この徳川の言い分には、かなりの疑問を持っています。

本当に、豊臣の呼びかけに応えたのは、浪人ばかりだったのでしょうか?
どこかに、封印された事実が隠れているのではないか?と疑いの眼差しで見ているクチなのですが、いかんせん、それを裏付けるような確かな物に、なかなか出会えないのも事実・・・

なので、現在の時点では、未だ、上記のような徳川の言い分が通説という事になるのですが・・・

とは言え、百歩譲って、大坂城内が上記のような物だったとしても、淀殿が采配を振るうのは総大将の生母としては当然・・・殿さまの生母の主張が、かなりの重さを持つ事は、この時代はよくある事です。

また、大坂方がとった籠城作戦に関しても、近年の研究では、「西からの攻撃をまったく無視した打って出る作戦より、周辺に砦を築いて籠城する作戦のほうが、より現実的である」との見解が出てきているようです。

徐々に見方が変わる大坂の陣・・・更なる発見に期待する今日この頃です。

さてさて、来年の大河=江では、どのように描かれるのか・・・楽しみです。
 .

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2010年11月 4日 (木)

祝・復活!日本に奈良県がなかった11年間

 

明治二十年(1887年)11月4日、大阪府から分離をして、奈良県が再設置されました。

・・・・・・・・・・・

このブログでも度々書かせていただいております通り、江戸時代のという物は、それぞれが法律も違えば政策も違う独立国家のような物・・・

明治維新となって、新政府がまず目指したのは、外国に追いつき追い越せの新しい国家・・・それには、なんとしても、中央集権を目指す必要があり、江戸時代のような独立国家の集合体ではやっていけないワケです。

・・・で、明治二年(1869年)に行われたのが版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)・・・これは、「それまで各地の藩主が治めていた領地と、そこに住む人民を朝廷(新政府)に返還する」という物ですが、結局は、藩主が知藩事に名前を変えただけで、少しばかりは中央が関与する事が多くはなりましたが、現実は江戸時代とほとんど変わらず、江戸時代にあった300ほどの大名の領地は、ほとんどそのまま、300ほどの藩となっていただなのです。

しかも、中央集権を目指そうと諸藩に兵力の縮小をうながしたりなんぞすれば、すぐさま反発の嵐を喰らうという現状・・・

・・・で、「これではイカン!」という事で、全国の知藩事を東京に集め、武力で以って決行したのが、明治四年(1871年)7月の廃藩置県(はいはんちけん)です(7月14日参照>>)

それは、知藩事を即座にクビにして、諸藩は府県という地方行政区となり、そのトップには、中央から派遣された府知事県令が座るというもの・・・

明治維新の中でも、トップクラスの大改革と言われる廃藩置県ですが、意外にも知藩事の抵抗は少なく、これによって一気に中央集権の確立へと進む事になります。

・・・とは言え、この明治二年の時点では、以前の藩をそのまま府県に置き換えただけでしたので、なんとその数は3府302県というものスゴイ数・・・

これは大変!!!
なんたって、地理のテストがエライ事に・・・なんて言ってる場合じゃない( ̄○ ̄;)!

たとえば・・・(今回は奈良県のお話なので、その周辺を中心に)
大阪府は今よりもずっと小さく、周囲には高槻県麻田県堺県伯太県岸和田県吉見県なんていうのがありました。

京都府も昔の都だった場所だけが京都府で、伏見あたりは淀県でしたし、ひと山越えれば、亀岡県園部県綾部県山家県福知山県篠山県柏原県舞鶴県宮津県峰山県と恐ろしい事に・・・

本日の主役の奈良県も、奈良県以外に柳生県郡山県小泉県柳本県芝村県田原本県高取県櫛羅(くじら)五條県などが、現在の奈良県の場所にひしめいていたのです。

・・・で、この時点では飛び地も多く、地域としてのまとまりも薄かった事から、
4カ月後の11月には3府72県に統合され、
さらに、翌年の明治五年(1872年)には3府69県に、
そして明治六年(1873年)には3府60県・・・
明治八年(1875年)には3府59県
明治九年(1876年)には3府35県
と、毎年のように徐々に減って行き、
最終的に明治十四年(1881年)に大阪府へ堺県が吸収合併された事を以って一旦完了となったのですが、
今度は、逆に、
一つの県の面積が大きすぎるとして大きな県が分割されて、明治二十二年(1889年)に3府43県となって落ち着き、その後、東京府が東京都になり、北海道が入って、現在の1都1道2府43県に至る・・・

というわけなのですが、この廃藩置県から明治二十二年の落ち着きまで、行政の様々な思惑によって、多くの県がめまぐるしく造られては廃止されるという紆余曲折の歴史をたどる事になるのです。

たとえば、廃藩置県の時点では、兵庫県なんて今よりずっと小さかったわけですが、神戸という港を国際的な港に変貌させるためには、多大なる資金がいるわけで、港以外の産業がない兵庫県では、その資金調達が困難であったため、産業が盛んな周囲の県=姫路県明石県尼崎県小野県赤穂県生野県などなど(他にもいっぱい)・・・どんどん吸収していって、現在のように大きくなったのだとか・・・つまり、周囲の県からの税金で、神戸の港を発展させたというわけです。

そんな中で、消滅の憂き目に遭ったのが奈良県です。

廃藩置県当時の7月には15県に分かれていた旧・大和は、4カ月後の縮小の時に大和一円を統括する奈良県となっていたのですが、当時は、コレという産業もなく、明治九年の縮小によって、なんと、今はまぼろしとなっている堺県に吸収されてしまったのです。

堺県は、その名前でもわかる通り、現在の大阪府堺市に県庁所在地があった県なのですが、ご存じのように堺は戦国時代から栄えた自由都市・・・どのような経緯で吸収されてしまったのか???

とにかく、この頃の堺県は、現在の大阪府東部や南部を含む非常に大きな県で、県庁所在地が海側にあった事から、、奈良地域は忘れられた存在のようになってしまうのです。

しかも、現在のように、交通が発達していない明治の時代では、役所に何かの届を出すだけでも一苦労ですから、住民の方も大変です。

やむなく、旧・奈良県庁舎に出張所なる物を設けますが、県庁所在地を失った奈良のさびれようは新聞にも報道されるほどで、しかも明治に吹き荒れた例の廃仏の嵐によって、大寺院だった興福寺の境内の土地が大幅に国に召し上げられていた事が荒廃に拍車をかけ、「こうなったら、奈良を捨てて堺に移住しよう」なんて人も後を絶たなかったのだとか・・・

しかし、一部の有志が立ち上がります。

そう・・・奈良は古の都、日本人の心のふるさとです。

史跡・名勝の宝庫として、霊験あらたかな仏の拠る所として、江戸時代には訪れる人が絶える事が無かった(6月18日参照>>)この場所を観光で復活させようと考えたのです。

明治十年(1877年)12月、民間の有志14名による嘆願書が堺県に提出されます・・・「もと興福寺の境内だった土地を、向こう10年間、無償で貸してほしい」と・・・

彼らの考えに賛同した堺県は、早速、翌年すぐに許可を出します。

彼ら14人は、すでに官公の建物がポツポツ建つものの、それ以外は草ボーボーの荒れ地に、木を植え、公園として整備しはじめたのです。

管理組織を立ち上げて貯金を積立て、案内人を常駐させたりするものの、個人の貯金や案内の報酬なんてしれた物・・・その運営は、ほとんど自腹のボランティアだったそうです。

しかし、その小さな波は、やがて国にも、そして県民にも、大きなうねりを与える事になります。

日本書紀には、こうあります。
「草木踏み平(なら)
 因
(よ)りて其(そ)の山を号(なづ)けて
 那羅
(なら)山と曰(い)ふ」

これは、現在の奈良市の北方に連なるなだらかな山=平城(なら)の事を指していて、奈良という地名の由来となっているとも言われる一文・・・

もちろん、あの「万葉集」
♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の…♪
や、「詩花(しか)和歌集」
♪いにしへの 奈良の都の 八重桜…
(4月30日参照>>)
などなど・・・

「この歴史ある奈良という地名を消してなるものか!」
地元の人たちの心にも、そんな気持ちがよみがえってきます。

地元民による若草山の山焼きが復活し、南大門の跡地で薪能(たきぎのう)が催され・・・やがて明治十二年、内務省に上申していた内容を認めた内務卿・伊藤博文によって、正式に奈良公園が許可されたのです。

そんな中、明治十四年には、堺県が大阪府に合併され、奈良は、大阪府の奈良地区となりますが、もはや、動き出した奈良スピリッツは止まりません。

しかも、ここに来て強い味方が・・・そう、あの岡倉天心と、彼の師であるフェノロサ「日本美術スゴイゾ!」「これは守らなアカンぞ!」運動です(6月25日参照>>)

全国の社寺を調査して、その素晴らしさを訴える彼らの影響で、観光客がドワッと増え、観光都市=奈良を復活させるのです。

その頃には、奈良出身の議員らによる奈良県再設置運動も行われていて、嘆願書片手に各地を遊説する彼らの努力が実り、その嘆願書が国に提出される頃には、全町村の6割が賛同するという大きな物となっていました。

かくして、議員たちが再設置運動を起こしてから6年・・・一歩進んでは一歩後退する苦難の運動ではありましたが、明治二十年(1887年)11月4日、やっと、この日本の国に、再び奈良県が誕生したのです。

1ヶ月後の12月1日に行われた奈良県庁・開庁式では、各家々が日の丸を掲げ、県庁周辺には提灯が灯り、祭りの山車を引きだし、花火が打ち上げられたのだとか・・・

Dscn0424ab800 奈良県庁前にあるナラノヤエザクラ

ちなみに、この時、古には都が置かれた都市として「奈良を府に・・・」という声もあったようですが、県が府になるメリットより何より、復活する事がうれし過ぎて、府になる運動は、あまり大きくならなかったようです。

とにもかくにも、めでたしめでたし・・・
「こんでおしまいや」(←奈良地方の昔話の結びの言葉です)
 

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2010年11月 2日 (火)

119年ぶりの女帝~国母・後桜町天皇

 

文化十年(1813年)閏11月2日、第117代・後桜町天皇が74歳で崩御されました。

・・・・・・・・・・

宝暦十二年(1762年)から明和七年(1771年)まで、9年に渡って在位した第117代・後桜町(ごさくらまち)天皇・・・(いみな)智子(としこ・さとこ)様とおっしゃいます。

そう、後桜町天皇は女性・・・
江戸幕府の初めに、朝廷と幕府の関係のギクシャク感にブチ切れた後水尾(ごみずのお)天皇が決行した前代未聞の意地の譲位で、その後継者となった第109代明正(めいしょう)天皇(11月10日参照>>)以来、119年ぶりの女性天皇です。

他の女性天皇の多くがそうであったように(例外あり)、彼女もまた、中継ぎとして立てられた女帝でした。

前天皇の第116代・桃園天皇が22歳で亡くなり、その息子である英仁親王(ひでひとしんのう・後の第118代後桃園天皇)が、未だ5歳という幼さであったため、彼が成長するまで・・・という感覚だったと思います。

ただ、5歳という年齢は特別に早いというわけではなく、現に、その父の桃園天皇も7歳で即位・・・そのお祖父ちゃんも9歳で即位していますから、普通なら、その5歳の皇子が、直接そのまま皇位についても良かったのですが・・・

実は、その先代・桃園天皇の時代の宝暦八年(1758年)に、一つの事件が起こっていました。

後に宝暦事件と呼ばれる出来事なのですが・・・
その桃園天皇が、未だ幼いのを良い事に、側近らが、その天皇の周囲を国学者神道家で固めたため、その講義を聞くうちに、天皇自身が完全なる尊王論者になってしまっのです。

そこで幕府との関係を心配した時の関白・近衛内前(このえうちさき)らが、朝廷内の若き尊王論者を大量に処分し、養母の青綺門院(せいきもんいん・桜町天皇の中宮)天皇に注意をうながすという事態に発展し、後から思えば、幕府の封建体制の崩壊の予兆とも言える出来事となったのです。

その事件からわずか4年・・・未だ幕府との関係が微妙な時期であった事から、あまりに幼い天皇の即位を心配した周囲が、亡き桃園天皇の姉である彼女を後桜町天皇として即位させたのです。

とは言え、彼女の即位は異例だらけでした。

もともと、あの江戸時代の初めに出された禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、朝廷は、何事を決めるにも、いちいち幕府の許可を取らなくてはならなかったのですが、この即位に関しては「異常事態」と称して事後報告という形式をとりました。

また、宮廷内の行事に関しても・・・
なんせ、119年ぶりの女帝です。

現在のように、100年前の映像が残ってたりしませんから、119年前はどのように行っていたかが、ほとんどわからず、すべてが手探り状態・・・儀式を行う天皇の礼服(装束)すら、男性のそのままというわけにはいかず、「あーだ」「こーだ」と意見を出し合う事になるのです。

結局、後桜町天皇は、9年間の在位中に、「たった1回しか新嘗祭(にいなめさい=11月23日参照>>に出席しなかった」なんて事も言われますが、もちろん、これは彼女一人の責任でもワガママでもなく、「女性の場合はどーすんの?」という周囲のとまどいもあった事でしょう。

そんなこんなで、9年間の時を過ごし、明和七年(1771年)に、無事、第118代・後桃園天皇に譲位して後桜町上皇となった彼女・・・

ところが、どっこい!
そのわずか9年後、後桃園天皇が22歳の若さで亡くなってしまいます。

20歳であろうが22歳であろうが、そこに後継者がいれば、その後の問題もなかったのでしょうが、後桃園天皇には、亡くなったその年に生まれた皇女が一人いるだけ・・・

そこで、後桜町&桃園姉弟のお祖父ちゃんに当たる第114代・中御門(なかみかど)天皇の異母弟・閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)孫にあたる人物が養子となって後を継ぐ事に・・・

この方が第119代・光格(こうかく)天皇です。

・・・で、ここまで、なんだかんだで、とまどいやら異例が目立って、ご本人のご活躍がかすんでいた感のある後桜町上皇・・・ここに来て、その人間性のすばらしさを発揮してくださいます。

そうです。
この光格天皇の即位が、わずか9歳だった事もあり、母として、天皇経験者として、影に日向に天皇を補佐するのです。

事あるごとに内裏に行幸して光格天皇と面会しながらお互いの情愛を深める一方で、君主となるべき教育を受けていない天皇に、その心得や道を説いてみせたと言います。

以前書かせていただきましたが、この光格天皇は、幕末の孝明天皇から明治天皇・・・そして、現在の天皇家につながる直系の祖先なわけで、最終的に維新へと向かう朝廷復権の基礎を築いたと言われる英明な天皇(11月18日参照>>)ですが、その人格の基礎となったのは、まぎれもなく後桜町上皇の教育であった事でしょう。

上記のリンクの御所千度参りの時にも、後桜町上皇は、自ら、幕府の許可を得ずに、飢えた市民に3万個のリンゴを配るという行為で、光格天皇に協力しています。

後に光格天皇が、強引に推しすすめた尊号一件(7月6日参照>>)では、「御代長久が第一の孝行」と言って、「あまりに強引な事をせずに、幕府との融和を図りながらやりなさい」的な事もアドバイスしています。

尊号問題だけでなく、ロシアとの関係や、きな臭くなってきた攘夷に対して、けっこう過激な光格天皇が、この後桜町上皇のアドバイスには「仰せの通りに・・・」と、実に素直な返答をしているところを見ても、彼女の教育のもとに、その性格が形成されていった事がうかがえますね。

Dscn9028a800 京都・青蓮院の宸殿…左近の桜&右近の橘が御所であった事をしのばせます

晩年、京都の8割が燃えたと言われる天明の京都大火に見舞われた時には、東山粟田口にある青蓮院(しょうれんいん)粟田(あわた)御所として住まわれ、庭園内にある弘文亭を御学問所として使用され、ひとときのやすらきを覚えられたとか・・・

Seirenzip5aa900 青蓮院の庭園…くわしい行き方は、本家HPの歴史散歩【祇園・八坂・ねねの道】へGo>>

そんな後桜町天皇は文化十年(1813年)閏11月2日74歳で崩御・・・この先の維新へとつながる朝廷復権の基盤造りに尽力する事になる光格天皇を育てた方という意味で、彼女は今、国母(こくも・こくぼ)と呼ばれます。

実際には、子供がいなかった天皇・・・ひょっとしたら国母とは、後桜町院という追号より、うれしい称号なのかも知れません。
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2010年11月 1日 (月)

ミジメな上洛を力に変えて~信長・尾張統一

 

永禄五年(1562年)11月1日、織田信長が織田家本宗の一つである岩倉城織田信賢を攻めて追放し、尾張統一を果たしました。

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注:諸説ある信長の尾張統一ですが、とりあえず、本日書かせていただきます。

永禄三年(1560年)5月19日、ご存じ、桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、海道一と言われた駿河(静岡県東部)今川義元を討ち、一躍、全国ネットの踊り出た尾張(愛知県西部)織田信長・・・

とは言え、その後の信長の矛先が、義元を失って失速の一途をたどる今川ではなく、美濃(岐阜県)斉藤家に向かったのは、皆さま、ご承知の通りです。

この時、なぜ、美濃だったか?
という事に関しては、
「他に駿河を狙う者(武田や北条)との直接対決を避けたかったので、三河という地を間に、ワンクッション置くほうが妥当と考えた」
「広大な領地である美濃だが斉藤家が統一しているので、斉藤さえ倒せばすべてが手に入るので」
などなど・・・他にも様々な見解があり、それこそ、ご本人に直接会って、その心の内を聞くしかないわけですが、個人的には、本日の尾張統一=対・織田信賢(のぶかた)がらみの出来事が大きく影響しているのではないか?と考えております。

この信賢さん、もともとは織田家の主筋・・・つまり本家です。

もともと主筋なのですから、当然の如く、「織田家のトップは俺!」って考えが強く、信長の父=織田信秀が、同族を倒しながら尾張にて勢力を拡大しつつある事を苦々しく思っていたわけで・・・

その信秀が亡くなって信長が家督を継いだ天文二十年(1551年)以降は、あからさまに敵対の意思を示し「敵の敵は味方」とばかりに、隣国・美濃からの援助も受けていたのだとか・・・

そんな、尾張最後の大物とも言える信賢と、信長との直接対決が勃発するのは、永禄元年(1558年)の事でした。

当時、信賢が本拠としていたのが岩倉城(愛知県岩倉市)・・・この岩倉織田家内での内紛を絶好のチャンスと見てとった信長は、当時、犬山城(愛知県犬山市)主をしていた従兄弟(父・信秀の弟の息子)織田信清(1月17日参照>>)を味方に引きずり込んで、岩倉城の北西・約5kmの位置にある浮野(うきの・一宮市)で合流・・・。

岩倉城から出撃してきた3000人とも言われる城兵との激戦に勝利し、信賢に大きな痛手を与えています(2011年11月1日参照>>)

実は、信長の一回目の上洛は、この戦いの直後であったと言われています。

そうです。
なんだかんだで、あの足利義昭(よしあき)を奉じての永禄十一年(1568年)の上洛(9月7日参照>>)が有名ですが、すでに、その前、ほぼ尾張を統一した気分ノリノリの雰囲気のまま、未だ26歳の若き信長は上洛していたのです。

もちろん、一番の目的は、時の将軍・足利義輝(よしてる)に謁見して、自らが尾張一の武将である事をアピールするためですが、それは義輝一人に対してではなく、都=中央にいる天皇や武将全員に対するアピールでもあったはずです。

だからこそ、はっきりとした記録は残されていないものの、その数・500人とも言われる大人数で、派手好きの信長らしく、とてつもなく目立つ雰囲気のいでたちで入京したのです。

それはそれは、都の人々のド肝を抜くような鳴り物入りの上洛だったのだとか・・・。

ところが、どっこい・・・その結果は散々な物でした。

もちろん、一番の目的であった将軍との謁見は叶ったものの、実りある話など何もなく、ただ、会っただけ・・・尾張統一も、未だ完全とは言い切れない立場の信長は、都の人々に体よくあしらわれ、振り返れば、田舎侍の大規模な都見物でしかなかったのです。

ド派手な格好で、満面の「どや顔」で入京しただけに、これは、かなり恥ずかしい・・・

しかも、信長の上洛に気付いた美濃衆からの襲撃の恐れがあったため、帰り道は鈴鹿山脈の八風(はっぷう越えという、険しさ満載の抜け道を通らざるをえませんでした。

まだまだ若いとは言え、おそらくこの時の信長にとって、この上ないミジメな上洛&帰宅だったに違いありません。

(ここからは、個人的妄想が入ってますが・・・)

たぶん信長は、このミジメな上洛で、その心に誓ったのではないか?と・・・

「まずは、完全に尾張を統一し、そして、その次は美濃だ!」と・・・
「それでないと、中央には認められない」

こうして、信賢との初の激戦の翌年・・・かの桶狭間で義元を葬り去った信長は、その翌年の永禄四年(1561年)の斉藤義龍(よしたつ・道三を破った息子)(10月22日参照>>)の死を受けて、再度、岩倉城を包囲・・・

翌・永禄五年(1562年)11月1日信賢を追放して尾張統一を果たすとともに、この同じ年に、あの徳川家康(2008年5月19日参照>>)同盟を組むのです。

これが、駿河への進攻は家康に任せて、自らは、美濃にターゲットを絞った瞬間ではなかったでしょうか。

ただし、厳密一には、もう一波乱あります。

信賢を倒す時ともに戦った信清・・・今度は、この人が反旗をひるがえすのですが、そのお話は、また関連する「その日」に書かせていただきたいと思います。
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