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2010年11月16日 (火)

キリシタン弾圧領主・松倉重政の汚名を晴らしたい!

 

寛永七年(1630年)11月16日、領民に重税を課し、キリシタンを弾圧したとされる島原城主・松倉重政が急死しました。

・・・・・・・・・・

交易相手だったポルトガル船とのモメ事を起こして死罪となったキリシタン大名・有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地・肥前日野江(長崎県島原地方)4万3千石が、松倉重政(まつくらしげまさ)に与えられたのは元和二年(1616年)の事でした。

もともとは、あの大和(奈良県)筒井順慶(つついじゅんけい)に仕えていた松倉家でしたが、順慶の死後にうだつが上がらなくなった筒井家が改易処分となった時、関ヶ原で大活躍をした重政を惜しんだ徳川家康の配慮によって十市・高市・宇智郡一万石を与えられて筒井家から独立し、新たな大名家となった家柄でした。

さらに、この前年の大坂の陣でも活躍し、今回の肥前への転封・・・つまりは、重政さん一代での大出世という事になります。

しかし、2年後の元和四年(1618年)、それまであった原城日野江城を廃城にし、新たな島原城を築城する事にした重政は、廃城となった二つの城から、領民たちに石材を運ばせたり、分不相応に豪華な島原城築城のために、過酷な労働をさせたと言います。

もちろん、直接の肉体労働に従事するだけでなく、豪華な城にかかる莫大な費用をい捻出するため、限界を越えた重税をも課す事になるのです。

さらに、重政は江戸城改築の普請事業も行っており、その費用までもが領民への税となって重くのしかかります。

そして・・・まもなく始まったのがキリシタンへの弾圧です。

先に書いたように、前領主の晴信がキリシタンだった事もあり、この島原には30年間に渡るキリシタン信仰の土壌がありました。

しかも、死罪となった父・晴信の後を継いだ長男の有馬直純(なおずみ)が、日向(宮崎県)臼杵(うすき)に国替えとなった際に、信仰を棄して去った事から、未だ信仰の篤い領民たちの多くが島原に残ったままだったのです。

重政は、そんな彼らに棄教&改宗を命令し、従わない者には残酷な拷問を加えました。

水攻め・指詰め・穴吊るし・・・針刺し・烙印・木馬責め・・・と書くのも怖いですが、中には、雲仙岳の地獄谷に信徒を裸で立たせ、背中を斬った後に傷口に熱湯を注いだり、熱湯に浸けたりして絶命させたなんていう具体的な記録も・・・

また、キリシタンだけではなく、租税を払えない者には、両手を後ろ手縛り、その上に着せた蓑(みの)に火をつけるという「蓑踊り」などという拷問もあったのだとか・・・

さらに、キリシタンの本拠地であるフィリピンルソン島海外出兵する計画もたてていたと言われる重政ですが、そんな矢先の寛永七年(1630年)11月16日小浜温泉で急死します。

あまりに突然の死には、重政のやりすぎを見かねた幕府の命による暗殺説や、弾圧を受けたキリシタンや領民による暗殺説もあり、当然の事ながら、宣教師たちの記録には「天罰」による狂死の文字が踊ります。

・・・と、通説通りのあまりにもひどい重政さんの悪政ぶりを見れば、「これじゃぁ、島原の乱も時間の問題ね」なんて事も思っちゃいますが、「ちょっと待ったぁ~~」

実は、重政さんが、この島原に来る前に領主を務めていた奈良では、とてつもない名君として領民の尊敬を一身に浴びているのです。

冒頭に書かせていただいたように、関ヶ原の功績によって筒井家から独立し、新たな大名となった重政・・・その後、8年に渡って二見城主となって城下町の整備にあたります。

様々な規制を緩和して商人を結集させたうえ、商業を発展させるための拠点となる新しい町を二見と五條の間に形成します。

そこは紀州街道に面した交通の要所・・・もちろん、その事を踏まえたうえでの町づくりですから、それはそれは、彼の予想通りに見事な発展を遂げ、このあたり一帯は、現在の奈良県五條市の基礎となりました。

キリシタンからは天罰と言われた彼の死も、この奈良の人は惜しみ悲しみ・・・新町にある西方寺に、その供養塔を建てて弔ったと言います。

さらに、江戸時代を通じて、遠き島原で悪の権化とされる旧領主を慰めるための「松倉祭」と呼ばれる感謝の祭礼もあったとの事・・・と、ここの領民には、かなり好かれていた事がうかがえます。

しかも、島原に入った当初の重政は、信仰にはかなり寛大な領主であった事が記録されています。

それが変貌するのは元和七年(1621年)・・・江戸幕府・第3代将軍の徳川家光が、更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めてから・・・つまり、これは幕府の命令なのです。

同時期には、熊本藩主の加藤清正も弾圧を行ってますし、重政と同じく、初めは寛容だった唐津藩の寺坂広高も、幕府の方針に逆らいきれずに弾圧に踏みきっています。

先に書いた、もともとあった城を破棄して島原城を築城というのも、幕府の一国一城制に従ったまでですし、江戸城の普請というのも幕府の命令ですから・・・

ただ、これらの弾圧や重税が原因の一つとされて、あの島原の乱が起こったという事も確か・・・

島原の乱(10月25日参照>>)は、重政の死後7年たった寛永十四年(1637年)に勃発しますが、この時の領主は重政の後を継いだ長男・松倉勝家・・・

彼は、父と同様にキリシタンの弾圧をしていた人物として、乱の終結の後に斬首されるのですが、興味深いのは、その彼に関して、乱の首謀者とみられる者から発せられた矢文にも2種類あというのです。

寛永十五年(1638年)正月付、天野四郎の名で書かれた矢文には
「我々は天下に逆らおうと籠城したのではなく、ただ、長門守殿(勝家の事)の情け容赦ない検地によって年貢の取り立てが厳しく、思う存分(勝家に)恨み事を申し上げたいだけなのです」
とあります。

さらに、別の矢文で
「勝家の首を見せてくれたら死罪になってもいい」
と書かれた物も・・・

しかし、一方では、乱の鎮圧に派遣された松平信綱の、
「勝家を死罪か流罪にしてもいいから…」
との柔軟な態度での交渉に対し、
「笑わせんな!」
と、まったく取り合わなかったとか・・・しかも、その理由が「勝家に恨みはない」とはっきりと述べたと言います。

つまり、乱の首謀者の中にも、松倉家を恨みに思う者とそうでない者が存在した事になります。

思うに、キリシタンの弾圧や重税のおおもとが、幕府からの命令にある事を乱の首謀者が知っていたとしたら、その恨みは、重政・勝家父子個人ではなく、幕府にあったという事なのかも知れません。

ひょっとして、最後の最後に勝家が処分されるのは、この乱を、幕府への政治的反乱ではなく、一部キリシタンによる松倉家への恨みという事に、幕府がしたかった・・・という事?

そうなると、当然ながら幕府に都合の悪い記録は末梢されている可能性も・・・興味は尽きませんね。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様お久しゅうございます。って言ってもコメントを書いてないだけで毎日読んでいるのですが(笑)なるほど、そういった解釈もありますよね。ご近所の唐津もコロコロと城主が変わってますし、統治しにくい場所なんでしょうかねぇ・・・

投稿: 維新入道 | 2010年11月30日 (火) 13時30分

維新入道さん、こんばんは~

今回は、松倉重政が主役ですので、奈良での名君の話から、少し持ち上げてみました。

佐々成政も、結局は治め切れませんでしたから、やはり、難しい場所なのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年12月 1日 (水) 02時02分

たまたまここにたどり着きました。
私は実名が松倉なんですが、この記事を読んで、なんかちょっと救われた気持ちになりました!
奈良での話は知らない事ばかりでしたのでとても勉強になりました。ありがとうございました!
私の妄想では、重政は徳川の放ったくの一に暗殺されたということになっております(笑)

投稿: 松倉 | 2011年3月 4日 (金) 20時26分

松倉さん、こんばんは~

私も、なんだか、(乱の原因が)幕府の都合の良いようにまとめられた感がしてなりません。

投稿: 茶々 | 2011年3月 4日 (金) 23時38分

私も奈良であんなに愛された松倉重政が、島原であれほどの悪政をするとは思えず、色々調べているところです。

原城に籠城した一揆軍の副将・山田衛門作が、有馬直純、重政、勝家親子に南蛮絵師として仕えていた事も気になります。

なんか裏があると思います。

投稿: 海野 | 2014年4月12日 (土) 16時59分

海野さん、こんにちは~

>なんか裏があると…

私も、そう思います。

「島原の乱」が、最近の教科書では「天草一揆」と呼ばれるように、
乱なのか?
一揆なのか?
宗教戦争なのか?

それによって、
幕府がどう処理したいのか?
キリスト教がどう見たいのか?
様々な思惑が絡んでいるんだと思います。

投稿: 茶々 | 2014年4月13日 (日) 11時55分

こんにちは、後白河法皇様の隣の記事なので少し興味を持ちました。
そうなんですか。松倉は碌でもないと美輪明宏とか語っていますし、島原城については印象が悪いので重政、勝家親子は碌でもない領主と思っていましたが、五条では好かれているのですね。
でも原城もそんな小さな城でないですね。なので何故島原城が非難されるのかなと思いました。ああいう城は結構九州には多いです。中津城も大きくないですか?
でもある意味で言いますと島原の乱までは江戸時代と言うよりも大航海時代だと感じました。山田長政、鄭成功みたいに海外で活躍する日本人も多かったのでその後と全然違うなと思いました。
ところでルソンの日本人町や日本語は18世紀前半でも残っていたとは何かつながりがあったのかなと思いました。天草四郎もルソンへ逃げたと言う話も聞きますし、島原の乱ごろだと豊臣恩顧の武士もいましたし、もしかしたらルソンは豊臣亡命政権だったのかなと思いました。

投稿: non | 2016年2月17日 (水) 14時59分

nonさん、こんにちは~

当時のカトリックは現在の信仰とはかけ離れた部分も多いと思うんですが、どうしても同じ物に見てしまって、それを弾圧する人=極悪人と思ってしまう人が多いですね。

nonさんもおっしゃってる通り、この時期、多くの日本人が外国へと旅立っています。
もちろん山田長政やルソン助左衛門のように、自ら出国して成功した人もいたでしょうが、多くの日本人が奴隷として外国へ連れて行かれた事も確か…

その人身売買を率先してやっていたのがキリシタン大名(売り手)であり、カトリックの宣教師(買い手)で、それを禁止したいがためのキリシタン禁令ですからね。
そこも踏まえなければ…

投稿: 茶々 | 2016年2月17日 (水) 16時20分

茶々さん、こんにちは。
以前上智大学の学長でヨハネパウロ2世の通訳をした方が読売で語っていましたが、あの時の行動は侵略でしかなかったと語っています。
長崎などで異教とはいえ奴隷にし、ASEANどころかインド、アフリカに売った行為は許されざる行為だと言っていました。
それを見ますと弾圧も仕方なかったと思います。
勿論真面目に伝えた人もいますし、侵略の馬鹿馬鹿しさを言う人もいましたが、少なかったでしょう。
台湾を解放した鄭成功の部隊の主力は国姓爺合戦でないですが、日本の武士です。山田長政の部下もそうですね。そう言う自分の意思や日本を思う気持ちがある人は良いですが、大部分は仰ります様に奴隷ですね。ルソンの日本人町も豊臣の子孫、ゆかりの武士が集まって、日本制服の手助けをしていたのかなと思います。ただ18世紀以降は南蛮が弱くなったのでそう言うのは消えたのかなと言う感じはします。ある意味平和だったのはそれ以降の100年で、そこで家康の理想の平和国家になったのかなと言う感じがします。

投稿: non | 2016年2月18日 (木) 11時19分

nonさん、こんにちは~

リーフデ号が漂着してくれて、ウイリアム・アダムス=三浦按針たちが、ヨーロッパの現状を包み隠さず伝えてくれたおかげで、徳川幕府は交易相手をオランダに絞る事ができ、平和がもたらされたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年2月18日 (木) 15時46分

茶々さん今日は、
最近島原城に興味を持ちまして、色々古地図とか探したんですが中々良い情報が見つけられ無くて松倉さんの事を調べてみたら、結構優秀な武将だった様ですね。
城作りの名人だった様で実際、堅固な島原城を築いてますし、豪華な天守や櫓群を立てた総石垣作り!の城、そりゃ領民も重税に苦しみますって、あれ? ちょっと待ってよ、島原城が完成したのが1624年で乱が勃発したのが1637年と完成してから13年も経っているんですね。
13年間も食料を巻き上げられて重労働させられたら大量に餓死者が出るし、暴れる元気なんか無くなるんじゃね?と、
それに幕府も余りに豪華お城を作ると文句言ってた位、大名の築城に神経を尖らせていました。
ましてや小藩の松倉氏が勝手に堅固な巨大城郭なんか作ったら徳川幕府が速攻潰しに来ると思うんですよねぇ、少なくとも島原の乱が起こるまで、幕府は島原城に関して重政に文句を言った痕跡はありませんし、寧ろ幕府の要求であの火山灰地の軟弱な地盤である島原に「城作りの名人」と言われた松倉重政に築かせたのだとしたら、何か辻褄が合って来る様な気がするんですよ、どうも通説とは違う人物だった様で、とても興味深い人物ですね。

投稿: | 2016年7月27日 (水) 09時22分

>どうも通説とは違う人物だった様で、とても興味深い人物ですね。

ホントに…
幕府には、イロイロと隠したい事があるのでしょうね。
興味深いです。

投稿: 茶々 | 2016年7月27日 (水) 13時00分

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