« 強き勤王の母・野村望東尼 | トップページ | 母から息子への思い~野口シカの手紙 »

2010年11月 8日 (月)

里見氏の全盛を築いた南関東の雄・里見義弘

 

永禄四年(1561年)11月8日、安房里見義弘が、水軍を率いて北条領相模三浦に攻め寄せました。

・・・という事で、本日は、安房(あわ・千葉県南部)里見氏の全盛を築いた里見義弘(さとみよしひろ)さんについて・・・

・・・・・・・・

この安房の里見氏は、清和源氏の流れを汲む新田義重(にったよししげ)の息子・新田義俊(よしとし)が、上野(こうずけ)里見郷(群馬県高崎市)に移住し、土地名をとって里見姓を名乗った事に始まります。

やがて、その子孫が安房の守護を命じられ、文安二年(1445年)に義俊から数えて11代目の当主・里見義実(よしざね)安房の平定に成功し、ここから、安房里見氏となります。

その後、安房白浜城(千葉県南房総市)を居城とし、上総(かずさ・千葉県中部)から下総(しもうさ・千葉県北部)一帯への勢力拡大を目指して兵を進めておりました。

・・・その義実から数えて6代目の当主になるのが、本日の主役の義弘さんの父=里見義堯(よしたか)なのですが、実は直系=嫡流ではありません。

以前、鶴岡八幡宮の戦い(11月12日参照>>)のところでも、少し書かせていただきましたが、義実の嫡孫の義通(よしみち)の死を受けて、その息子の義豊(よしとよ)が後継者となるのですが、未だ幼いとして義通の弟=実堯(さねたか)後見人となり実権を握ります。

しかし、義豊が成長した後も、その実権を手放さなかった事から、義豊が実堯を殺害して実権を奪回・・・ところが、今度は、その実堯の息子=義堯が「父の仇!」とばかりに義豊を殺害して実権を握った・・・

つまりは、従兄弟同士での後継者争いだったわけですが、現在残る史料の細かな事は、かなり創作が含まれているとされ、その経緯は不明な点が多いのですが、とにかく、何かしらのお家騒動があった事は確かで、そのお家騒動に打ち勝った義堯が里見の当主となり、その義堯が亡くなった天正二年(1574年)に、嫡子の義弘が後を継いだわけです。

・・・とは言え、義弘自身は、すでに永禄の初めの頃に初陣を済ませていて、当主を継いだ頃には、なかなかの武将として、いくつかの実戦経験を持った殿様でした。

弘治二年(1556年)には、自ら軍船・80隻を率いて江戸湾を渡り、三浦半島を襲撃したりなんかもしています。

この時には、初恋の相手である青岳尼(しょうがくに)を鎌倉の大平寺から連れ出して、自らの正室に迎えた・・・なんて色っぽい話も・・・(10月7日参照>>)

そう、父そして祖父の時代より受け継ぐ里見にとっての宿敵は、対岸=相模(さがみ・神奈川県)北条氏・・・

父・義堯の時代には、将軍家の分流=小弓公方足利義明を担いでの第1次国府台(こうのだい)合戦(10月7日参照>>)にも挑んでいます。

それ故、義弘は、その北条をけん制すべく、関東の諸将はもちろん、越後(新潟県)上杉謙信との同盟も結んでいました。

・・・で、謙信が相模に攻め込んだ永禄四年(1561年)には、それをサポートすべく、重臣・正木時忠を援軍に差し向け、自らも11月8日相模三浦に攻め寄せたのです。

その3年後の永禄七年(1564年)にも、やはり、謙信の攻める北条を、背後から突くべく戦った第2次国府台の戦い(1月8日参照>>)で、北条氏康軍と刃を交えています。

ただ、そのページにも書かせていただいたように、この第2次国府台はかなりの激戦・・・北条も多くの死者を出しますが、里見はそれ以上の死者を出し、微妙ながらの敗戦となってしまった事で、先の時忠をはじめとする重臣・家臣が多数離反してしまったため、領地の大半を失い、北条による上総への侵入も許してしまう事になります。

こうして、このまま衰退の道をたどるかに見えた里見氏・・・しかし、さすがは南関東の雄と称された義弘・・・

3年後の永禄十年(1567年)に義弘の居城を攻撃すべく、わずか4km先の三船山に砦を築いた北条氏政を相手した三船山合戦では、「先んずれば制す」とばかりに、攻撃される前に打って出て、見事、勝利をおさめます。

これによって、先の国府台の時に離反した多くの国人が、再び傘下となり、「南総に里見あり」、と里見氏の全盛時代を築く事になるのです。

翌年、この敗戦に加えて武田との同盟もブッ潰れた北条が、義弘に和睦を申し出ますが、これをピシャリとはね退けるカッコイイところも見せてくれています。

しかし、一族の最盛を築き上げた名将は、諸将の同行、周囲の情勢を見る目も持っていたのでしょう・・・むやみに意地をはる事なく、天正五年(1577年)には、あっさりと北条と和睦し、その勢力を維持を図ります。

そして、北条との和議で、なにやら張りつめて糸が切れたのでしょうか?・・・義弘自身は、その翌年の天正六年(1578年)の5月20日49歳でこの世を去りました。

その子孫は、豊臣秀吉から徳川家康の時代を、安房一国の主として生き抜きますが、義弘の弟の孫=忠義(ただよし)大久保忠隣(ただちか)の改易事件(4月25日参照>>)に関与した事で、一族は没落する事に・・・

ちなみに、あの滝沢馬琴(ばきん)『南総里見八犬伝』(11月6日参照>>)は、この里見氏の繁栄と没落をモデルに描かれています・・・もちろん、内容は創作ですが・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 強き勤王の母・野村望東尼 | トップページ | 母から息子への思い~野口シカの手紙 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

里見氏は戦国時代は余り目立たないですが、北条氏と長年に渡って対峙してましたね。「里見八犬伝」が出ましたがいま映画化して、八犬士を戌年生まれ(1982年生まれ)の俳優8人でやれば面白いと思います。
長年思う事ですが里見浩太郎さんの芸名の「里見」は、里見一族か八犬伝から来ているのでしょうか?

いま千葉県で北条氏勝(北条一族で16世紀後半の人物)の所蔵品の展示をしています。

投稿: えびすこ | 2010年11月 8日 (月) 12時55分

えびすこさん、こんにちは~

おっしゃる通り、ドラマではほとんど描かれませんが、あの北条相手に…はけっこうスゴイと思います。

大河も、有名人を一周して、題材に困ってるなら、マイナーな人にもスポットを当てていただきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2010年11月 8日 (月) 13時42分

茶々さん、こんばんは。確かにマイナーな主人公で、歴史を掘り起こしてもらいたいですよね。

投稿: いんちき | 2010年11月 8日 (月) 18時06分

いつも楽しく拝見させていただいております。僭越ながら、上野は栃木でなく、群馬ですね。

投稿: 偽マニア | 2010年11月 8日 (月) 21時20分

いんちきさん、こんばんは~

今年の龍馬もそうですが、義経や清盛、信長・秀吉・家康など、同じ主人公でも、様々な描きようがある方は良いですが、龍馬や義経などは、役者さんが変わるだけで、他に描きようがない気もします。

それならいっその事、マイナーな人に…と思ってしまいます。

投稿: 茶々 | 2010年11月 8日 (月) 23時31分

偽マニアさん、ありがとうございますo(_ _)o

どう考えても群馬です(笑)
まして高崎市は…(/ー\*)

訂正させていただきました。
他にも見つけていただいた時は、また、お知らせくださいませ。

投稿: 茶々 | 2010年11月 8日 (月) 23時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/37577554

この記事へのトラックバック一覧です: 里見氏の全盛を築いた南関東の雄・里見義弘:

« 強き勤王の母・野村望東尼 | トップページ | 母から息子への思い~野口シカの手紙 »