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2010年11月28日 (日)

信長も認めた優秀な後継者~暗愚ではない織田信忠

 

天正三年(1575年)11月28日、織田信長が嫡子・信忠に岐阜城と美濃・尾張2国に名刀星切を添えて、家督を譲りました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、あの本能寺の変で、父・織田信長ともに亡くなる織田信忠・・

Odanobutada とは言え、ドラマなどでは、大抵は、信長が炎の中で自害した場面から、すっ飛んで、次には、信長を討った明智光秀か、中国大返し(6月6日参照>>)で戻って来る羽柴(豊臣)秀吉への場面となり、信忠さんの事はナレーションだけか、ひどい時にはまったくのスルーで、まるで、そこにいなかったかのような展開になる事もしばしば・・・

しかし、以前も書かせていただきましたが、この本能寺にて、信長だけでなく、この信忠も亡くなってしまう事で、初めて天下が宙に浮いて、後継者は誰に・・・となるわけで、もし、この信忠が、ここで生き延びていたら、例え信長が死んでも、その後継者を争う事にはならなかっわけで、実は、この信忠さんの死は、とても重要です。

なんせ、上記の通り、信長は完全に信忠を後継者に指名していましたからね。

しかも、この本能寺での信忠の死は、あくまで、彼自身が、「光秀なら、おそらく脱出路をすべて封鎖しているだろう」とよんで、わざわざ二条御所へと移動して、戦う事を選んだゆえの死・・・なんせ、この時、本能寺へ攻め込んだ光秀は、まるで信忠の存在を忘れたかのように、信長の遺体探しに夢中になっていたわけで、信忠は、この間に逃げようと思えば逃げられたわけです(現に、弟や息子は逃げています・12月13日参照>>

個人的には、そのへんのタイムラグについてが、この本能寺の最も重要な部分であると思ってますし、その部分だけでかなりの推理が成り立ちます(くわしくは2008年の6月2日へ>>)

・・・と、お話が本能寺に集中してしまいましたが、そこまで重要でありながら、ドラマなどで、よくスルーされるには、それなりのわけが・・・(私見ですが…)

・・・というのは、これまでの一般的な見解では、「この信忠は暗愚だった」とされていたからのです。

よく、信長は後継者に恵まれなかったゆえに1代で終わったとも言われますが、他の息子や弟は、本能寺の後も生きていますので、そこを秀吉に取って代わられたという点では、やはり、秀吉のほうの器が勝っていたという事なのでしょうが、信忠だけに関しては、ともに、ここ本能寺で亡くなっているので、一概に暗愚とは言い切れないのですが・・・

しかし、これまでは、例の徳川家康の息子・信康の一件に絡んでの記述が、かなり重要視されていたのです。

そもそもは、信康に嫁いだ信長の娘・徳姫「ダンナの悪口」の手紙を受けて、信長が家康に、「信康を殺せ」と命じたとされていますが(8月29日参照>>)、その手紙があまりにもしょうーもない手紙であるために、一般的には、「家康んちの信康君が優秀なのに対して、自分の後継者である息子たちが劣っていると感じ、次世代での力関係を不安に思った信長が殺害を命じ、逆らえなかった家康が涙を呑んで・・・」という三河物語などの記述を定説とする場合が多かったのです。

「家康の優秀な息子をねたんだ=つまりは、信長の息子が優秀ではなかった」と解釈できるわけで、ゆえに、信忠は暗愚であったという事になっていたわけです。

しかし、最近は、少し見方が変わってきています。

格言う私もそのクチで、信康さん自刃のページでも書かせていただきましたが、その「信長の命令で・・・」というのは、息子の死を家康(徳川家)のせいでない事にしたい徳川側の公式文書の言い分であって、実際には、徳川家内の内部分裂が原因であったと考えております(9月15日参照>>)

つまり、家康が息子を死においやった理由を、すでに死んでしまっている信長とその息子のせいにした・・・と。

逆に信長側の一番の史料である信長公記では、あの武田を滅亡に追いやった時の大将としての信忠の活躍ぶりが書かれています(3月11日参照>>)

この武田攻めの時、信長は、信忠の宿老である河尻秀隆(かわじりひでたか)
「俺が行くまで、信忠に無茶をさせるな」
てな内容の手紙を送っていますが、

この手紙の事を知ってか知らずか、信忠は、縦横無尽の活躍で武田領に侵入するなり、果敢に攻めまくり、高遠城攻めなどでは最前線に立って戦っています。

・・・て事は、言わば、信長の命令に背いた事になりますが、これを信長が怒ったという形跡はなく、むしろ、約半月後の3月26日には、
「天下の儀も御与奪(よだつ)なさるべき旨(むね)
を、皆に告げた・・・つまり、本日の美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)だけに限らず、天下のすべてを信忠に継がせる事を宣言したとされています。

ゆえに、信忠は暗愚な後継者ではあり得なく、信長も認めた優秀な後継者で、本能寺の時点では、すでに信長は信忠に織田家を継がせる事を決めていたのです。

なので、光秀謀反の原因は、少なくとも「天下取り」でないと言えるわけです。

もし、光秀が「天下を取りたい」のであれば、信長と同時に、優秀な後継者である信忠も倒す必要があったわけで、本能寺の襲撃と同時に妙覚寺も襲撃していなければならず、信忠に二条御所へ移動するような時間を与えてはならないのです。

・・・と、ついつい、また本能寺にお話が戻ってしまいましたが゜.+:。(*´v`*)゜.+:
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんにちは。
信忠が生きていれば、どうなっていたんでしょうね。信長の息子たちに焦点をあてた大河ドラマを見てみたいです。

投稿: いんちき | 2010年11月28日 (日) 14時05分

織田信長は40歳過ぎで家督を譲っているんですね。大河ドラマではあまり触れない、と言うより(成人した)信忠が出る機会が少ないためかな?
信忠が退却しなかったのは(名目上当主ですが)織田家嫡男のプライドもあったと思います。

来年はどう扱うでしょうか?この後に弟2人の跡目争いがあり、そこで初めて「織田信長の息子」の存在がピックアップされるのが、NHK大河ドラマなどのお決まりパターン。

投稿: えびすこ | 2010年11月28日 (日) 14時20分

いんちきさん、お早うございます

>信忠が生きていれば…

ホントですね~
私としては、信忠が生きていた場合の秀吉の作戦を見てみたいです。

もっとも、生きていたなら秀吉も「天下を取ろう」とは思わなかったかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2010年11月29日 (月) 06時10分

えびすこさん、お早うございます

>信忠が退却しなかったのは(名目上当主ですが)織田家嫡男のプライドもあったと…

確かに…
だからこそ、息子を逃がして(後を託して)自らは、あえて籠城したのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年11月29日 (月) 06時12分

義弟の徳川信康(生前は「徳川」姓で呼ばれてないかもしれません)に劣らない力量を持っていた点は、この間の「歴史秘話ヒストリア」でも触れていましたね。
来年の大河ドラマでは仮にも「主人公の従兄弟」と言う続柄。来年は「ごうせん」(「江 姫たちの戦国」の省略)が日曜の楽しみです。

投稿: えびすこ | 2010年11月29日 (月) 08時30分

「信長軍の司令官」という本を読むと、武田を倒した後の信忠軍団の支配圏は「尾張・美濃・信濃・甲斐」にまたがる広大なものだったそうで・・。


「統一済みの諸国を東西に二分することにより、あたかも天下人の任務を父子で分担したように見える。」とも書き添えられてしました。


自分としては織田信忠の力は単独でも毛利や北条や徳川に匹敵すもので、事実上の戦国のNO.2であったと(個人的には)思ってあげたい今日この頃・・。


とは言え残念な事に信忠の存在は、未だ多くの人にとって都合が悪いんですよね。だから無かったことにされてしまうという・・。

投稿: すててこ | 2010年11月29日 (月) 11時34分

すててこさん、こんにちは~

>だから無かったことにされてしまう

そうですよね~
あれだけ森蘭丸が登場するのに、息子は出て来ない…ドラマを見るたび、「今度こそ」と期待していますが…

投稿: 茶々 | 2010年11月29日 (月) 13時21分

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