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2010年12月31日 (金)

2010年歴史は動いた~新発見・総まとめ

 

今年も、残すところ、あとわずか・・・
皆さま、お健やかな大晦日をお過ごしでしょうか。

本日は、その2010年を「今日は徒然」風に、今年動いた歴史など振り返ってみましょう。

・‥…━━━☆

今年、なんと言っても一番は、奈良県明日香村のあの牽牛子(けんごし)塚古墳の大発見ですね。

もちろん、この古墳の存在自体は、昔から認知されていて、7世紀後半の物という事も、すでに確認されていましたが、今年行われた発掘調査によって、その形状が八角形である事が判明した事・・・

この時代の古墳の八角形は、天帝を示すとされ、この古墳が天皇陵である事が有力となり、以前から噂されていた斉明天皇(7月24日参照>>)の御陵である事が確実となったのです。

さらにその後の調査で、牽牛子塚古墳の南側20mの所に石室を確認・・・日本書紀では、その斉明天皇の御陵に寄り添うように、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)が葬られた事が書かれており、まさに、その記述を裏付ける形となったわけです。

一方、沖縄石垣島の洞窟では、推定2万年~15000年前と思われる人骨が発見され、今後、日本人のルーツをたどるうえで貴重な資料となる事でしょう。

また、奈良県桜井市茶臼山古墳では、これまでの記録を塗り替える数の銅鏡の発見・・・バラバラの破片となってはいましたが、その数は300点以上にもなり、一つ一つ復元すれば、合計で80枚以上の数であろうと予想される事から、おそらくは大王クラスの人物の古墳であろうとの鑑定結果が出ました。

さらに10月25日には、あの東大寺・大仏殿にて、明治時代に発見されていた太刀のX線撮影で、その太刀に「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」の文字が書かれていた事が、新たに判明・・・これが、奈良時代に行方不明となっていた正倉院の宝物であった事が分かり、歴史のロマンを感じさせてくれました。

そして、6月26日、個人的には今年最大の印象的な出来事となった発掘調査報告・・・大阪城天守閣の北側にある「山里丸(やまざとまる)と推定される場所で、大坂夏の陣で焼けたとおぼしき大量の瓦が発見された事・・・このニュースに関連して、わがブログの最高記録・14万4586アクセスの訪問数をいただきました(6月27日参照>>)

その時にも書かせていただきましたが、あまりに多くのアクセスをいただいたおかげで、ココログのサービスを提供されている@niftyさんと、ちょっとしたトラブルになってしまいましたが、それも速やかに解決(7月8日参照>>)・・・今となっては、忘れられない笑える思い出となりました。

そして、大阪城関連では、つい昨日・・・歴史好きにはうれしいニュースがありました。

以前、豊臣秀吉のご命日関連で、大阪城の歴史のような記事で書かせていただいた通り(8月18日参照>>)、現在の大阪城の石垣は、すべて徳川時代の物で、秀吉の大阪城は、その約10mほど下に、石垣ごとスッポリと埋められた状態となっているわけですが・・・
Dscn7118a600 (一部発掘されている豊臣時代の石垣についてはホームページの歴史散歩で、その発見の経緯やボウリング跡からの写真を含め、くわしくご紹介していますので【大阪歴史散歩・ヒミツの大阪城】でどうぞ>>別窓で開きます

・・・で、その地下に眠る豊臣時代の石垣を、常時見学できるようにする地下博物館建設の計画がある事を大阪市が発表したのですよ!

上記のホームページの同じページでご紹介している秀吉が構築した太閤下水・・・ここも、未だ現役の下水である事から、以前は関係者以外立ち入り禁止となっていましたが、3年前にのぞき窓が設置され、ガラス越しではありますが、常時、見学できるようになりました。

もちろん、その太閤下水ののぞき窓とは比べ物にならないくらいのビッグプロジェクトですから、今すぐに・・・ってワケにはいきませんが、私自身も、未だ上から覗いた事しかない幻の石垣を、真横から間近に見られるとなると、もうすでに、胸は期待でいっぱいです。

最後に、本年は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」だった事で、坂本龍馬がブームとなり、龍馬に関連する新発見が複数登場しましたね。

6月には、龍馬が、大政奉還(6月22日参照>>)するにあたって土佐藩の参政・後藤象二郎を激励する手紙の下書きが高知県の民家から発見されました。

7月には、京都の、やはり一般のお宅で、龍馬最古となる剣術修業時代の手紙が発見されました。

他にも、武市半平太(5月11日参照>>)獄中書簡や、蒸気船・いろは丸の購入契約書などなど・・・中でも、個人的に興味深かったのは、富山で発見された、中岡慎太郎のあの有名な笑顔の写真の原版

そう考えると、ブームになるのも悪くはないですね~
・・・て、事は、来年は、お江さんに関する新たな発見が相次ぐって事???
う~~ん、うれしい限りです。

さぁ、あと10余時間・・・来るべき新年に期待をこめて・・・
「今日は、笑ってはいけないスパイで大いに笑わせてもらおう」っと
(↑歴史に関係ない(゚ー゚;)

とにもかくにも、今年1年、「今日は何の日?徒然日記」にご訪問いただき、ありがとうございました。

徐々にではありますが、年々増えていく傾向にあるアクセス数に、うれしい毎日を送る管理人・茶々でございますゆえ、来年もよろしくお願いします。

ではでは、
皆々様も、良いお年をお迎えくださいませo(_ _)oペコッ
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2010年12月29日 (水)

天下取りにパーフェクト?徳川家康の改名

 

永禄九年(1566年)12月29日、松平家康が朝廷の許しを得て徳川に改姓しました。

・・・・・・・・・・・

すでにブログに書かせていただいているように、あの徳川家康さんは、岡崎城を拠点に、その周辺の西三河(愛知県東部)を統治していた戦国大名・松平広忠の長男として生まれました。

未だ群雄割拠する三河の地で、わずかながらの領地を維持せんがため、駿河(するが・静岡県中央部)を統治する大大名の今川義元の支援を受けようとする広忠は、その忠誠の証として、わずか6歳の長男・竹千代(後の家康)を人質に出したわけです。

途中、騙されて一旦、尾張(おわり・愛知県西部)の戦国大名・織田信秀のもとに連れて行かれた竹千代は(8月2日参照>>)、その2年後、安祥城の戦いで今川の人質となった信秀の息子・織田信広(弘)との人質交換という形で、もともと人質になるはずだった今川のもとへ送られ、そこで多感な少年期を送ります(11月6日参照>>)

義元のもとで元服した竹千代は、義元の一字をもらって松平元信(もとのぶ)と名乗り、今川家の重臣で、義元の妹のダンナ・関口氏広の娘・瀬名姫と結婚し、今川軍団の一人として戦う事になりますが、そんな彼の運命を変えたのが、19歳の時に起こった、あの桶狭間の戦い・・・

ちなみに、この2年くらい前に、元信から元康に改名したと言われており、この桶狭間の時には、すでに松平元康を名乗っています(祖父が清康なので)

この時、義元の死を知った元康は、もといた場所には戻らず、もともとは松平家の城だった岡崎城へと入り、このドサクサで独立・・・人質生活から解放される事となったのです(5月19日参照>>)

その後、かの桶狭間に勝利した織田信長と同盟を結んだ元康は、永禄六年(1563年)、名を家康に改め、松平家康となりました。

そして、今回・・・その3年後の永禄九年(1566年)12月29日、朝廷に申し出て、今度は姓を、松平から徳川に・・・名実ともに、徳川家康の誕生となったわけです。

まずは3年前の家康への改名・・・
それは、ちょうど、三河の平定に悪戦苦闘していた三河一向一揆(9月5日参照>>)の頃と重なります。

今、まさに、三河を統一し、そのトップに立とうという時期・・・

伝承によれば、光明寺城下(愛知県一宮市)にあった安照院光明寺の僧侶・青井意足(いそく)という人が、源氏伝来の軍法を伝える人物で、彼に会いに行き、数日間この寺に籠った家康が軍法を授かり、その直後、家康に改名したと言われています。

つまり、武門・源氏の象徴とも言える、あの八幡太郎義家(2月27日参照>>)「家」なのです。

もちろん伝承なので定かではありませんが、例え、源氏にしか伝える事のできない秘伝の軍法を家康が授かっていなかったとしても、この八幡太郎の「家」の字をもらったというのは、おそらく正解なのではないか?と思います。

・・・と、いうのが、その3年後の、今回の徳川への改姓・・・実は、これも源氏がらみなのです。

そもそも、松平という名は、三河の土豪=地元の一国人の姓・・・つまりは、家康の家系だけでなく、そのあたり一帯の土豪が皆、松平だったわけで、支流も含めれば、12か13の松平家があったとされています。

そんな中、自分とこだけが別格という事を主張するがための徳川という姓・・・その名は、上野(こうずけ)新田郡にあった「得川郷」だとされています。

そう、
この頃、家康は、にわかに、あの新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)の末裔である事を主張しはじめていたのです。

そして、限りなく黒に近いグレーの色した家系図を作成した家康は、時の関白・近衛前久(まえひさ)の仲介により、宮廷からの認可をとりつけたあげく、同時に、従五位下と三河守という官位も賜っています。

つまり、自分勝手に名乗った苗字ではなく、朝廷からの許しを得て名乗った徳川という姓・・・それは、朝廷もが、彼を、源氏の末裔と認めてしまった瞬間でもあったのではないでしょうか?

ご存じのように、この頃の征夷大将軍は、源氏の棟梁の証ともなっていました。

以前もブログに書かせていただきましたが、あの豊臣秀吉も、落ちぶれた足利義昭の養子になろうとなんかもしてましたが、最終的に、源平藤橘に並ぶ貴種=豊臣姓を賜る事で落ち着きました(12月19日参照>>)

他の松平との区別、憧れの頼朝との関係、征夷大将軍になれる資格・・・
この徳川家康という名前は、家康にとって、プラスになる事はあっても、決してマイナスになる事のないパーフェクトな名前だったわけです。

この二つの改名は、まさに、家康の戦国大名としての独立宣言、そして、征夷大将軍への序曲だったのです。

そして、ご存じのように、この「徳川」と「松平」の区別は、江戸時代になっても続きます。

家康を始祖とする家系であっても、御三家と御三卿だけが「徳川」、それ以外は、「松平」を名乗る事となるのです。
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2010年12月28日 (火)

武田信玄の初陣~海ノ口城・奇襲戦

 

天文五年(1536年)12月28日、この年に元服したばかりの武田信玄が、信濃海ノ口城を攻め落とし、初陣を飾りました。

・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)の守護・武田信虎(のぶとら)が、自国に進攻して来た福島正成を撃退したという飯田河原の戦い(10月16日参照>>)・・・その真っ最中に生まれたとされる武田信玄は、天文五年(1536年)、16歳で元服し、第12代室町幕府将軍・足利義晴(よしはる)の一字をもらい、晴信(はるのぶ)と名乗りました(ややこしくなるので本日は信玄で統一させていただきます)

当時の甲斐は、東は北条氏相模(さがみ・神奈川県)、南は今川氏駿河(するが・静岡県中央部)という大国と接し、西は赤石山脈という巨大な壁に阻まれて、なかなか他国との往来も困難でした。

さらに、この甲斐という国・・・一説には、その語源が山狭(やまかい)からきていると言われるくらい山や谷だらけの平地が少ない領地でもありました。

農業が主たる財源であった当時の状況から見れば、そんな甲斐の北方に広がる信濃(長野県)とても魅力的・・・

しかも当時の信濃は、守護大名の小笠原長時(ながとき)府中(松本市)にいるものの、その勢力は周辺の松本盆地付近に限られていて、それ以外は、地元の豪族や国人が、それぞれにひしめき合っている状態・・・

それらを一つ一つ倒し、信濃を自国の領土にする事は、信玄の父・信虎にとって悲願だったのです。

天文五年(1536年)の年の暮れ、約7千の兵を率いて佐久(長野県南佐久郡)方面に侵出した信虎は、佐久平賀城主・平賀玄信(げんしん・源心・成頼)ら2千の籠る海ノ口城に攻め寄せました。

この戦いに、信玄が父に従って参戦・・・これが、信玄の初陣とされます。

Harunobuuizin600
武田信玄初陣の図(信松院蔵)

しかし、多勢で城を囲んだとは言え、もはや極寒の信濃・・・36日間囲んでも攻め落とせなかった信虎は、天文五年(1536年)12月28日真冬の到来とともに、兵を退きあげる事にします。

この時、自ら志願して殿(しんがり)をかって出た信玄・・・

殿とは、ご存じのように、軍団の最後尾の事・・・撤退戦では、追いすがる敵と戦いながらの最も難しい役なわけですが、300ほどの手勢を従えた信玄は、信虎以下、すべての武田軍が去った後に、海ノ口城を後にしました。

いや・・・後にしたフリをしました。

撤退したと見せかけて、近くの山間に身をひそめ、一夜を明かしたのです。

一方の海ノ口城では、武田軍の撤退を確信して、多くの城兵が帰ってしまいます

やがて、白々と夜が明け始める早朝・・・油断して守りが手薄になった海ノ口城に戻った信玄は、一気に奇襲をかけ、見事、敵将・玄信の首を討ち取ったのです。

父が1ヶ月かかって落とせなかった城を、わずか1日で・・・
それも、初陣で・・・

後の天才的な戦略ぶりをうかがわせる、まさにサラブレッドのデビュー戦といった感じですが、残念ながら、この合戦の記録は、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にしか書かれておらず、現在では、「おそらく創作であろう」というのが一般的な見方です。

一説には、この見事な奇襲戦の勝利をも、父・信虎が信玄の手柄と認めなかった事が、父子の確執を増幅させ、後の「信虎追放」にもつながる・・・なんて事も言われますが、この合戦自体が創作で、しかも佐久平賀城主・平賀玄信なる人物の存在も疑問視されているのですから、そうなるとその父子の確執もあったような、無かったような・・・って事になります。

ただし、当時の風習として、元服のすぐ後に初陣を飾るという事はよくあったそうなので、この年の信玄の元服が、事実であろうと思われる以上、事細かな逸話は別として、この頃に初陣を経験したであろうという事は、間違いないようです。

まぁ、とりあえずは、戦国屈指の名将のデビューですから、多少尾ひれのついた華やかな一戦とするのも、ドラマチックでよいのではないかと・・・

そして、この5年後・・・信玄は父・信虎を追放して、武田家を掌握する事となるのですが、そのお話は2008年の6月14日のページでどうぞ>>
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2010年12月27日 (月)

空海に物申す~けっこう過激な三蹟・小野道風

 

康保三年(967年)12月27日、平安時代の貴族で、能書家として活躍した小野道風が73歳で亡くなっています。

・・・・・・・・・・・

とは言え、
小野道風(おののみちかぜ・とうふう)と言えば、花札しか思い出さない私・・・

「いったい何をした人なのか?」
と、ひも解いてみても、よくわからないのですが、とにかく字がウマイ!

道風は中務省という所で少内記という役職についていて、古文書の清書をしたり、屏風に字を書いたりしていたそうな。

まぁ、活版印刷もワープロもない時代ですから、国の大事を公式に残す際に上手な字で書き残す事は大切なわけで、「字がウマイ」というのは、現代の私たちが思う以上に、この時代は重要な事だったわけです。

ところで、歴史の教科書に「三筆(さんぴつ)「三蹟(さんせき)というのが出てくるのを覚えてらっしゃいますか?

平安初期(弘仁・貞観文化の時代)の三人の能書家を「三筆」と言い、平安中期(国風文化の時代)の三人を「三蹟」と言います。

「三筆」が、空海嵯峨天皇橘逸勢(たちばなのはやなり)
「三蹟」が、藤原佐理(すけまさ)藤原行成(ゆきなり)・・・そして小野道風です。

ただし、この「三○○」・・・
初めて登場するのが、江戸は元禄時代の文献で、誰がどのような意味でこの3人を選んだのかもわからず、中には、現存する書が、本当にその人の直筆なのかどうか疑わしい物もあり(道風のは真筆と認められているらしい)あまり意味のない事だそうです。

アイドル界の「3人娘」と言えば、真理ちゃんルミ子ちゃん沙織ちゃんですが、彼女ら以外にもめぐみちゃんアグネスがいたように、平安時代の彼らにも、その3人以外にも同じくらい字のウマイ人はいたわけで、しいて、その3人を選んで並べて覚える事に歴史的価値はないようなのですが、なんせ、未だに試験に出るそうで・・・そういう意味では、覚えておく事にこした事はないのかも知れません。

・・・で、花札で有名なシーン。

Ononotofu800 「ノホホーンとした天狗堂」「少年っぽい将軍堂」「シュッとした任天堂」…3社三様の花札の道風
(1家庭に3セットの花札、しかも真ん中はかなり使った感があるという事には触れないでください(*゚ー゚*))

これは、
ある雨の日、自分の書の上達が頭打ち状態だった=つまり、スランプに陥っていた道風が、「もう、書をやめてしまおうか」と思い悩んでいた時、ふと、横を見ると、柳に飛びつこうとしているカエルを発見・・・

しかし、そのカエルから柳の先まで、けっこうな長さがあり、とても飛びつく事ができるような雰囲気ではなかった・・・
「カエルってアホやなぁ・・・そんなん、届くわけないやん」
と思って、しばらく見ていると、

急に強い風が吹いて来て、柳の枝がしなり、そのタイミングに合わせるかのように、カエルは見事、飛びついたのです。

その光景を見た道風・・・
「カエルは一所懸命努力して、偶然のチャンスを物にして成功を収めたんや。
俺は、そんなチャンスを物にできるほど、日頃から努力してるやろか?
いや、してない・・・
努力もしてないのにカエルをバカにした、俺のほうがアホやったんや

と、深く反省して、それからは血の滲むような努力をして、見事な能書家になったという逸話を題材にしているのだそうです。

何やら、偉人の香りがプンプンする逸話ですが、実は、このお話が登場するのも江戸時代からなので、本当のお話かどうかははっきりしません。

ちなみに、花札の絵柄になったのは明治の頃からと言われ、安土桃山時代に誕生したとされる花札の歴史からみると、比較的新しい登場という事になります。

そんな努力家の逸話が語られる道風さんですが、その一方で、鎌倉時代に書かれた『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、勝気なイケイケ道風が登場します。

道風は、かつて空海が書いた「美福門」「朱雀門」の額を見て
「美福門の福のの字がデカすぎ」
「朱雀門のの字がに見える」

と、なんと「弘法の筆の誤り」を指摘したのだとか・・・

しかも、それだけにとどまらず、何やら、空海をバカにしたような詩まで作ったとの事・・・

晩年、中風にかかって、手の自由がきかなくなり、大いに苦しんだとされる道風ですが、巷では、「弘法大師の祟りでは?」と噂されたのだそうです。

なんせ、後に、その「美福門」と「朱雀門」の額の修復を依頼された、もう一人の三蹟・藤原行成が、仕事を始める前に、空海の像に花を捧げ、お祈りしてから挑んだというのですから、かなり有名な話となっていたのでしょう。

花札では、なんだかのんびりとポャ~ンとした雰囲気に見える道風さんですが、意外と、気性の激しい負けず嫌いの人だったのかも知れません。

まぁ、歴史に名を残す人というのは多かれ少なかれ、気性の激しい負けず嫌いだと思いますが・・・
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2010年12月25日 (土)

24歳からの再出発~若き日の前田利家

 

天文七年(1538年)12月25日、後に加賀百万石の祖として知られる前田利家が誕生しています。

・・・・・・・・・・・

今日は、前田利家(としいえ)さんのお誕生日という事で、すでに有名な話かも知れませんが、その前半生・・・若き頃のお話を・・・

とは言え、その内容は、主に『亜想公御夜話(あそうこうおんやわ)という文献に登場するお話・・・この『亜想公御夜話』は、『陳前録ちんぜんろくとも『利家夜話(としいえやわ)とも呼ばれる物で、晩年の利家が、若き家臣たちに語って聞かせた夜話=武勇伝なわけで、

ひょっとしたら、どう考えてもそうは見えない中年のマジメなサラリーマンが「俺は昔、相当なワルでさぁ」とハッタリをかましてる・・・あのお笑い芸人さんの「切れたナイフ」発言に似た所のあるシロモノかも知れないわけですが、成功者の回顧録というのは、多かれ少なかれ、そういった尾ひれがつくのも当たり前なわけで、

とりあえずは、そんなこんなを踏まえて、ガンバッた先人の昔語りをひも解いてみましょう。

・‥…━━━☆

Maedatosiie 尾張荒子城(おわりあらこじょう・名古屋市)前田利昌(としまさ)の四男として生まれた利家は、14歳の時、五十貫文(125石相当)を貰って、織田信長小姓となりました。

この頃の信長は、ご存じのように、とても殿さまとは思えない風貌で領内を闊歩していた「うつけ」の真っ最中・・・

同じように利家も、城主の子とは思えない派手ないでたちで流行りの小歌をがなり立てながら、イキがっては喧嘩にあけくれる「かぶき者」の代表格だったのです。

しかも、彼は少し腕に覚えがある・・・そう、当時、又左衛門と名乗っていた利家は、後に「槍の又左」と称されるほどの槍の名手で、すでにこの時、これまた派手なこしらえをした槍を持って、肩で風切って城下を練り歩いていたわけで、遠くから彼の姿を見つけた人々が、すかさず木の影に隠れて、何とかやりすごすといったくらい、関わりたくない不良少年だったのです。

しかし、やがて訪れた19歳の時・・・その自慢の腕が功を奏します。

信長の弟・信行が、「我こそは織田の後継者」とばかりに、兄・信長に反旗をひるがえした(11月2日参照>>)尾張稲生(いのう)の戦いでした。

ここで、敵の小姓頭・宮井官兵衛なるツワモノを倒した利家・・・おかげで、プラス十貫文の加増を受け、家臣も持てるようになり、あのまつ(7月16日参照>>)との結婚も果たしました。

ところがドッコイ、22歳の時に事件を起こしてしまうのです。

もともとは、同じ織田家内で雑用係のような事をやっていた拾阿弥(じゅうあみ)なる人物が、利家が大事にしてる刀の(こうがい・鞘についてる飾り)を盗んだ事にはじまる・・・つまり、相手が悪いわけですが、

最初は、信長に「拾阿弥を成敗させてください」と、丁寧に願い出ていた利家でしたが、信長にとっては、拾阿弥もまた、可愛がってる小姓なわけで、なかなかOKしてくれません。

しかも、佐々成政(さっさなりまさ)のところに逃げ込んだ拾阿弥は、利家が手出しをできないと知るや、イイ気になって、まったく反省の色も無く、むしろ「ざまぁ見ろ」と言わんばかりの態度・・・

これに、とうとうブチ切れる利家・・・
その昔、城下を走り回ってブイブイ言わせた頃の族魂がムクムクとよみがえり、なんと、信長の目の前で、その拾阿弥をブッタ斬ってしまったのです。

当然、激怒する信長・・・即座に「死罪」を申しわたされた利家でしたが、そこに入ってくれたのがあの柴田勝家・・・

勝家の助け船によって、なんとか死は免れたものの、その処分は出仕停止=つまり織田家をクビになっちゃいました。

「やって、もぉた…ヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ
そう、族の頭として走り回っていた昔と違い、今は、嫁も子供もいる身・・・落ち着いて考えたら、大変な事をしでかしてしまいました。

しかし、「やってもぉた」物は、もう、どうしようもありません。

こうなったら、なんとかこの腕一本で勝負に出るしかない!

最初のチャンスは、その翌年、すぐにやってきます。

それは、あの桶狭間の戦いでした(5月19日参照>>)

この時、利家は、ただ一人で参戦し、敵将の首を挙げ、信長のもとに馳せ参じます。

しかし、ご存じのように、この戦いは、いわゆる奇襲戦・・・未だ、一地方侍の信長にとって、海道一の弓取り今川義元(よしもと)を討つだけの戦いであったわけで、むしろ、その1点集中だったからこそ成功した戦いでしたから、信長が欲しいのは義元の首のみ・・・

なので、結局、利家の功績は無視されてしまったのです。

しかし、ここで諦めては男がすたる・・・

さらに1年経った頃・・・今度は、美濃(岐阜県)に矛先を向けた信長が斉藤龍興(たつおき)と戦った時、またまた単独で参戦した利家は、敵の豪将・足立六兵衛の首を討ち取ったのです(5月14日参照>>)

「心は富士山ほど高く・・・」
これは、晩年に昔語りをする利家が、聞き入る家臣に何度も何度も言い聞かせた言葉・・・
「富士山ほどに高い心を以って主君に仕えなさい」
という意味ですが、この時の主君というのは、もちろん信長の事・・・

後に、足軽時代の親友だった豊臣秀吉の傘下で、天下人にも匹敵するほどの力を持つ利家ですが、晩年になっても、やはり彼にとって主君と呼べる人は、信長、ただ一人だった事でしょう。

この後、おじいちゃんになっても消えないような主君への思い・・・信長も、そんな利家の思いを、この二度目の首献上で感じたのかも知れません。

この足立六兵衛の首と引き換えに、信長は利家を許し、彼は、織田家家臣に復活したのです。

さぁ、男・利家、24歳からの再出発の始まりです。

*その後のお話は、ご命日である3月3日のページでどうぞ>>
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2010年12月24日 (金)

吉原が炎上したら…遊びの殿堂の誕生・移転

 

明歴二年(1656年)12月24日、江戸幕府が、日本橋葭町の葭原遊廓の浅草千束への移転を命令しました。

・・・・・・・・・・・

豊臣家が滅亡し、いよいよ徳川幕府が機能しはじめる元和三年(1617年)3月30日、かねてから営業許可を幕府に申請していた遊女屋の経営者・庄司甚右衛門に、江戸初の遊郭・葭原の設置を許可が下ります。

その条件は・・・
1、客の連泊をさせない事
2、騙されて連れて来られたと思しき娘は調査する事
3、犯罪者を見つけたら届ける事
4、江戸市中に店を置かない事
5、遊女を江戸市中に派遣しない事
6、建物や遊女の衣装を華美にしない事
などなど・・・

実は・・・
この時代、やっと幕府を開いたとは言え、未だ、戦国の空気も漂う状態で、幕府は、まずは江戸城や大坂城をはじめとする重要拠点の建物の整備や、大名屋敷などの城下町の整備に力を注がねばならなかったわけですが、その思いとはうらはらに、日本の中心となった江戸には、何か一発当てようと、急激に人が集まりはじめていたのです。

人口が増えると、当然の事ながら犯罪も増えますが、上記の通り、幕府は完璧な取り締まりをする余裕なんて、まだなかったのです。

そんなこんなのグッドタイミングに甚右衛門の営業申請・・・甚右衛門のほうは、これを許可してもらえば、遊郭の営業権を独占できるわけですし、幕府も犯罪を誘発する恐れのある風俗業の営業を管理する事で、少しは治安維持になるという利害関係が一致しての許可となったわけです。

・・・で、この時、幕府が甚右衛門に提供した土地が、当時はまだ海岸沿いで、一面に(あし・よし)の茂る原っぱだった日本橋葭町(現在の人形町)・・・ここにて甚右衛門は遊郭・葭原(よしわら)を開業・・・ここからあの「吉原」という遊びの殿堂が誕生するわけです。

しかし、その後も江戸の町の人口は増え、そのぶん町は拡大していき、いつしか、その吉原の隣に大名屋敷を建てなければならないほどになって来て、最初の条件の一つであった、江戸の町(市中)と風俗営業の場所を区別する事ができなくなってきます。

そこで、今回の移転・・・明歴二年(1656年)12月24日、江戸幕府が、日本橋葭町の葭原遊廓を浅草千束へ移転するように命令を出したわけです。

もちろん、最初は反対の意を表明した吉原側ですが、それはそこ、幕府も鬼じゃありませんから、様々の好条件を提示・・・
1、吉原の営業可能な土地を5割り増し
2、夜間営業の再開
3、風呂屋者を抱える風呂屋・200軒を取り潰し
4、周辺の火事・祭への対応を免除
5、移転費用1万5000両をあげちゃう!
・・・で、最終的な同意に漕ぎつけています。

上記の条件の中で、1番5番は場所を広くしてもらってお金も貰えるんですから、無条件で得なのはわかりますが、2番の夜間営業と3番の風呂屋・・・

実は、去る寛永十七年(1640年)に「風紀を乱す」として、遊郭の夜間営業を、一旦禁止していたんです。

そのために、巷には風呂屋者=湯女(ゆな)を常駐させた風呂屋が一気に大盛況となってしまったのです。

以前、「お風呂の歴史」で書かせていただいたように(1月26日参照>>)、この湯女と呼ばれる女性たちは、基本はお客さんの体を洗う職業なわけですが、それはそこ・・・その湯女次第では、最後までイッちゃう場合もあるわけで・・・

・・・で、上記の移転の条件を見る限りでは、そんな風呂屋がすでに吉原にも進出していたようですから、そりゃ、そんな気軽に同じようなサービスを受けられる場所をお膝元に造られちゃぁ、遊郭側から見れば、営業妨害も甚だしいわけで、そのおおもととなった夜間営業の復活と風呂屋の排除は、遊郭にとってかなりの好条件なわけです。

そして最後に4番の「周辺の火事・祭への対応を免除」・・・

「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉でご存じの通り、江戸時代を通じて火事が多かったわけですが、人口増加による密集した家の建て方は、ひとたび火が出れば、その延焼は衰えを知らず、次から次へと燃え移ってしまうため、火事になれば、一斉に皆が協力態勢にならざるを得ないわけです。

しかし、吉原は、ある意味隔離された場所・・・なので、周囲で火事があっても祭りがあっても対処しないで良いというのは、吉原側にとってありがたいわけですが、後に、これが大きな災害をもたらす結果ともなってしまうのです。

実は、今回の移転命令の翌年・・・ご存じ、明歴の大火=振袖火事が起こっています(1月18日参照>>)

この時、吉原はまだ移転途中で、やむなく幕府の許可を得て、両国深川の茶屋や町屋を借りて「借宅(かりたく)で営業し、少し予定より遅れたものの、この年の6月頃までには、無事、すべての遊郭が浅草寺の近くにある日本堤に移転して営業を再開し、ここは「新吉原」と呼ばれる事になったわけですが・・・

Edo8keiyosiwara600 江戸八景・吉原の夜雨(国立国会図書館蔵)

その明歴の大火以来、幕末の慶応二年(1866年)までの210年間に、実に、吉原は23回も全焼しているのです。

そう、
周辺の火事・祭への対応を免除」という事は、逆に、吉原で起こった火事に周辺の火消しが手伝う事もできなかったのです。

遊郭には専属の火消し隊がいて、火事の際は消火にあたっていたわけですが、大きな火事になると、もうお手上げ・・・しかも、周辺の消防組は、続々と集まるものの堤の向こうで見守るばかりです。

・・・で、ご想像通り、そういった火事で最も多く亡くなるのは、遊女たち・・・

店主が、彼女らの逃亡を恐れて、日頃は土蔵などに監禁している場合もありますし、なんたって周囲は幅三間(約5m)の鉄漿溝(おはぐろどぶ)に囲まれ、出入り口は、あの大門一つしかありませんから・・・

運よく脱出できた遊女は、3日以内に戻ればお咎めなし・・・それ以上経つと、年季を伸ばされたり、もっとコワイ罰が待ってます。

そんな中、果敢に火事現場に突入する人も・・・実は、この人たちはレンタル業

この時代の遊郭は、布団をはじめ、屏風や火鉢など、調度品の7割はレンタル品だったそうで、その業者が、「自分とこの大事な品が燃えては大変!」とばかりに火事場に押し寄せ、われ先に品物を出して回ったのだとか・・・

しかし、そんな彼ら・・・
調度品は救助しても、逃げ遅れた遊女を救助する者は一人もいなかったのだとか・・・

幸薄いベッピン遊女を馴染みのイケメン火消しが命がけで・・・てなシーンを、ついつい想像していまいますが、世の中、ドラマのようにはいきませんねぇ。

●吉原でのお遊びについては【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】でどうぞ>>
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2010年12月22日 (水)

内閣総理大臣・伊藤博文くんを評価したい

 

明治十八年(1885年)12月22日、明治政府が太政官を廃止して内閣制度が開始・・・第一次藤博文内閣が発足しました。

・・・・・・・・・・・

あの豊臣秀吉太閤検地と刀狩りを実施して(7月8日参照>>)、兵農を完全に分離、封建的な身分制度を確立して、2度と自分と同じような=つまり、農民から天下を取るような人間が輩出されないようにして以来の、画期的な出来事です。

Itohirobumi600 そう・・・
足軽身分の伊藤家の養子になったとは言え、この伊藤博文(ひろぶみ)自身は農民の出身であり、そこから這い上がって初代内閣総理大臣=天下を取った人なのです。

幕末には松下村塾(しょうかそんじゅく)吉田松陰(しょういん)に学び、高杉晋作奇兵隊に所属して、命がけのゲリラ戦にも挑んでいます(12月16日参照>>)し、その最期も、暗殺という劇的な出来事で、生涯の幕を下ろします(10月26日参照>>)

なのに、も一つ人気がない・・・

ちなみに、「人気がない」というのは、歴史上の人物としてドラマや小説になったりする・しないという意味の人気で、ご本人の人となりや、政治的手腕の善し悪しではありませんよ。

あくまで、歴史ファンから見て、屈指の人気の幕末&維新の時代に生きながら、その時代を描いたドラマや小説に、ほとんど主役として登場しないんじゃないか?という意味です。

やはり、彼が考えた大日本帝国憲法軍国主義の関係や、彼が道を開いた日韓併合など、現在の日本の国際的立場にも関係する出来事にも絡む事で、「どうしても否定的なイメージがぬぐえない」というところなのでしょうが、最近では、その帝国憲法が意外に民主的であった事や、大陸との関係も、彼自身は親身になって温和な政策を心がけようとしていたらしい事などが囁かれるようになり、私個人的には、博文さんは「かなりデキる政治家だ」という印象です。

もともと、上記のように、松下村塾で学び、高杉晋作や久坂玄瑞(げんずい)の影響を受けた博文少年(当時は俊輔)は、ガッチガチの尊王攘夷論者だったわけですが、文久三年(1863年)=22歳の時に、志願してイギリスに留学した事で、その考えは一変します。

西洋文明を尊敬しつつ、それでいて臆する事なく・・・
外国の良いところを見習いつつ、日本独自の吸収の仕方をする・・・

帰国後は、見事な開国論者となって、攘夷一辺倒の長州藩を開国論へと向ける大きな原動力となりました。

維新の時は、まだ28歳・・・維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛大久保利通(としみち)木戸孝允(たかよし)らとは10歳ほど若かったので、新政府でついたポストも、彼らよりはワンランク下といった感じの役職でした。

しかし、明治十年(1877年)に木戸と西郷(9月24日参照>>)が、その翌年には大久保(5月14日参照>>)が、まだまだ働き盛りの年齢で逝ってしまった事から、思ったよりも早く、博文の出番がやって来る事になります。

明治十四年(1881年)・・・明治十四年の政変(10月11日参照>>)大隈重信(おおくまじげのぶ)を失脚させた博文は、その翌年から約1年間をかけて、ヨーロッパの憲法制度を調査するため、海を渡ります。

すでに政権担当者となっていた彼が、1年間も日本を留守にする・・・そこには並々ならない決意があった事でしょうが、それを裏づけるように、ベルリンウィーンで、憲法や近代行政、議会のあり方や選挙の方法など、精力的に学び、吸収していきます。

しかし、帰国後の彼が希望したのは、政治の中枢である工部卿内務卿ではなく、なぜか宮内卿・・・そして翌・明治十七年(1884年)には宮内大臣に就任します。

そうです。

当時の太政官制度から、ヨーロッパで学んだ内閣制度へと移行するために、最も障害となるのは宮中だったのです。

すでに、あの岩倉具視(ともみ)も今は亡く、太政官制度のトップに立つのは、太政大臣三条実美(さねとみ)・・・虎穴に入らずんば虎児を得ずとばかりに、自ら宮内大臣となって、宮中を改変しようとしたのです。

しかし実美もさるもの・・・ちょうど、ウマイ事に、この時、右大臣の席が空席だったので、すかさず博文に右大臣のポストを打診します。

ところがドッコイ・・・博文は1枚も2枚もウワテ。

その右大臣をあっさり蹴って、逆に、黒田清隆(8月23日参照>>)を推薦したのです。

実は、この黒田と明治天皇そりが合わない事が、当時の宮中では衆知の事だったわけですが、案の定、天皇は、黒田の右大臣就任に反対し、その話は、そこから前へ進まない・・・

そのスキに、博文は内閣の導入を天皇に打診し、それを認めさせてしまったのです。

かくして明治十八年(1885年)12月22日太政官を廃止して内閣制度を開始させ、自らが、初代総理大臣となったのです。

冒頭に、伊藤博文は人気がない・・・と書かせていただきましたが、彼は、その目標のために、一つ一つ積み重ねていくタイプ・・・

実は・・・
維新に活躍する志士たちをベタ褒めに褒めまくっている生前の松陰なのに、博文の事については
「学問も浅いし才能も劣る、マジメやけど華がない」
と、かなりの酷評を残しています。

しかし、博文は博文で
「松陰先生は理想主義に走りすぎ、理想を貫くためには過激な事もおかまいなしや」
てな、師匠批判を展開しています。

ここに、博文さんがドラマになり難く、人気がない原因があるように思います。

今年の大河ドラマ「龍馬伝」を見てもそうです。

理想を掲げ、夢に向かってまっしぐら・・・そして、その理念のために、アッと驚くような事をやってみせる主人公が、物語の上では魅力的なのです。

しかし、現実の政治は違います。

複雑に絡む組織と人間・・・
お互いの利害関係で、あっちに引っ張ったり、こっちに引き寄せたり・・・
それを、アッという間に確実に乱麻をほどく快刀なんて、実際にはありはしないわけで、そこには、着実に進む華のないマジメさが必要なのではないでしょうか。

そういう意味では、伊藤博文は、まさに、幕末・維新の人ではなく、明治新政府の人・・・ドラマになるような華やかさはなくとも、政治家として評価されるべき人だったのではないでしょうか。
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2010年12月21日 (火)

本当はやぶり捨てたい!紀貫之のツラ過ぎる土佐日記

 

承平四年(934年)12月21日、紀貫之が土佐国守の任務を終え、都へと出発しました。

・・・・・・・・・・・

紀貫之(きのつらゆき)と言えば、三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の編者としても知られる歌人で、ひょっとして、あの『竹取物語』の作者ではないか?(9月25日参照>>)とも言われている文化人ですが、もう一方では、平安時代に土佐(高知県)国司を務めた行政官でもありました。

Kinoturayuki 延長八年(930年)に赴任した貫之は、その5年間の任期を終えて、承平五年(935年)に京の都に戻って来るわけですが、土佐の国司館から京にある自宅に到着するまでの、その55日間の帰還の旅の事を、和歌を交えながらつづったのが、あの『土佐日記』というわけです。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」
と、なぜか、筆者が女であるかのような書き出しで始まる日記・・・

これには、当時は女性が使うものとされていた仮名文字で、制約される事無く、のびのびと書きたかったからでは?というのが一般的な見方で、決してオネェ系であったという事ではないようです。

男が女になりすまして日記をつづる・・・なんだか、匿名性のあるネット上でのブログのような雰囲気ですが、そのワリには、意外にプライベートな事も書いてくれちゃってます。

当時は船で55日もかかった旅・・・

まず、彼女(彼)を襲ったのはキョーレツな船酔い・・・そして、海賊への恐怖

承平四年(934年)12月21日の夕方6時頃、室津(むろのつ・室戸岬の西側の港)を出港してまもなく、船長の話しで、「船員たちは海賊が報復して来るとの噂におびえている」事を知る筆者・・・

そう、平安時代の半ばのこの頃、陸では盗賊が横行し、海では海賊が出没していた時代・・・あの海賊将軍と呼ばれた藤原純友(すみとも)が反乱を起こす(12月26日参照>>)のが天慶二年(939年)ですから、すでに頻繁に起きていた事が想像できます。

出港を夕方にしたのも、「海賊は昼間に出る」という情報をもとに、夜の航海を選んだと思われますが、考えれば、そんな海賊の取り締まりをするのも、地方に派遣された国司の役目であるわけで、かの純友だって、もともとは国司です。

なので、この船長の「報復」という言葉・・・
つまりは、「国司のアンタ(貫之)が乗ってるから、仕返しに襲われるかも知れないと船員がビビッてる」って話なわけで、そんな事を聞かされたひにゃ、そりゃ、貫之も怖かったでしょう。

この時代、そんな海賊からの恐怖がなくなり、安心できるのは淡路島を過ぎたあたりからだったそうですから、優雅にはほど遠い緊張の連続の船旅だったようです。

ところで、その海賊の話しとともに、この日記の中に、度々登場するのが、亡き娘の話・・・実は、貫之は、かの任地先で、娘さんを失っていたのです。

本来なら、発展途上国へ派遣された社員が本社に戻れる喜びいっぱいの旅のはずなんですが、何かを見ては娘を思い出し、何かを聞いては娘に言葉をかける・・・

♪寄する波 うちも寄せなむ 我が恋ふる
  人忘れ貝 下りて拾わん  ♪

「波よ、どうか、恋しい人を忘れさせるという忘れ貝を浜に打ちあげてくれ…そしたら、船を下りて、その貝を拾いに行くから…」

船もようやく大阪湾に入り、住之江(現在の住吉神社の西付近です)も近づこうという頃になっても・・・

♪住之江に 船さし寄せよ 忘れ草
  験
(しるし)ありやと 摘みて行くべく  ♪
「住之江の岸に船を寄せて~な…そしたら、なんでも忘れられる忘れ草が、本当に効き目があるかどうか摘んでみるから」

よっぽど、忘れ難いんでしょうね。

やがて、無事、自宅に戻った貫之・・・

やっと、ここで落ち着くかと思いきや、
赴任中、家がほったらかしになってた事で、庭には雑草が生えてヒドイ状態・・・その中に、出発時には、まだ無かった小松が成長しているのを発見してしまい、また悲しみがこみ上げてくるのです。

♪生まれしも 帰らぬものを 我が宿に
  小松のあるを 見るが悲しき  ♪

「この家で生まれたアノ子が帰って来られなかったのに、そこに新しい松を見るのは悲しすぎる」

そして、最後に・・・
「わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾(と)くやりてむ
と、締めくくる・・・

どうやったって、自分の気持ちを書き尽くす事なんてできないんだから、とりあえず、こんな日記は・・・「疾くやりてむ=引き裂いてしまおう」

えぇ~~!(・oノ)ノ

そうなんです。

貫之にとって、この日記はツラ過ぎる出来事をつづった悲しい思い出の記録・・・

どうやら、「これを後世に残したくはなかった」というのが彼のホンネだったようなのですが、世の中とはわからないもの・・・これが、古典・紀行文の一級品として、1000年経った今も授業で習うんですからね~(原本は残ってないので、本当に捨てたのかも(゚ー゚;)

とは言え、貫之が、土佐を出港する時には、よく知らない人まで餞別を持って見送りに来てくれたらしい事から、地元の人には人気の国司だったようで、悲しみに打ちひしがれながらも、その人となりを垣間見る事のできる『土佐日記』は、ご本人の思いは別として、やはり、後世に残ってくれてよかったと思えますね。
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2010年12月20日 (月)

男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日

 

天平勝宝五年(753年)12月20日、鑑真が6度目の渡航で日本に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

昨年の1月16日・・・鑑真和上(がんじんわじょう)平城京へと到着した日づけのページ(1月16日参照>>)でも、その理由を書かせていただきましたが、当時の日本には、授戒(戒律を授ける事)を授ける高僧が一人もいない状況で、僧の質の低下が大きな問題となり、正しい仏教の戒律を確立させる必要があったわけです。

そこで、遣唐使とともに唐へ渡った興福寺の僧・栄叡(ようえい)普照(ふしょう)が、本場・(中国)にて高僧の誉れ高い鑑真に、日本への訪問を懇願したのです。

Ganzin1 その昨年のページでは、すでに名誉も地位も得ている鑑真が、なぜ?5度も失敗してもなお、日本に来たかったのか?というお話を、トンデモ説を交えて、少しイジワルな見解に持って行きましたが、本来は、やはり、僧としての純粋な情熱によるものと思いたいですし、実際にそうであったのだろうと思います。

・・・というのも、この時の栄叡と普照が、まず来日を懇願したのは、鑑真本人ではなく、その弟子たちのうち誰か」という事だったのです。

なんせ、上記の通り、鑑真はすでに重鎮・大御所ですから、とてもじゃないけど、「来てください」なんて事は言えず、「せめて、そのお弟子さんに…」って事だったわけですが、その話を、鑑真が弟子たちに振ってみたところ、誰一人として行きたがらない・・・

そう、以前書かせていただいたように(4月2日参照>>)、すでに、この時、朝鮮半島と関係悪化によって、遣唐使船のルートが変更されてしまっていて、とても危険な状態・・・ほとんど命がけの航海だったのです。

誰も手を挙げない状況を見た鑑真・・・
「ならば、俺が行こう!」

慌てた弟子の一人・祥彦(しょうげん)は、
「かの国は、メッチャ遠くて、ホンマ、命がけで、百回に1回も成功しませんって…」
と、鑑真の渡海に猛反対して、
「人身は得難く、中国には生じ難し」
(人はこの世に生まれて来る事自体が偶然なのに、まして、それが中国だというのは奇跡に近い)
と、引きとめたと言います。

しかし、鑑真の決意は固い・・・

すると、あれだけ手を挙げなかった弟子が、
「鑑真さんが行きはるなら…」
と、40名もの人数が同行を願い出たというのです。

この逸話を見る限り、鑑真は尊敬されるべきすばらしい人物で、その仏教への篤い思いこそが来日の理由であると思えますね。

とは言え、祥彦が言った通り、その来日は困難を極めました。

最初の試みは743年(天平十五年)の夏の事でしたが、寸前になって、怖くなった弟子の一人が、港の役人に日本僧を訴えたため、日本の僧らが追放処分になり、鑑真は身柄を確保されてしまいました。

2回目は、翌年の1月・・・この時は、無事、船に乗れて出港しましたが、暴風雨に遭い、やむなく帰国しなければなりませんでした。

この後、すぐに、3回目に挑戦しますが、鑑真の日本行きを惜しむ弟子の一人が、役人に密告し、なんと栄叡は捕えられてしまいます。

しかし、めげません・・・脱獄した栄叡と落ち合った鑑真は、すぐさま4回目に挑戦・・・しかし、またもや弟子の一人が役人に訴えて、渡航を阻止されてしまいます。

1年に3回も挑戦するとは・・・その執念はスゴイw(゚o゚)w

・・・と、さすがにほとぼりがさめるのを待ったのか、4年置いた748年(天平二十年)に5回目の挑戦・・・

今回、見事、出港に漕ぎつけたものの、またまた暴風雨に遭い、船ははるか彼方の海南島へ漂着・・・ここで、約1年を過ごした鑑真一行は、やがて中国本土へ戻りますが、その途中で栄叡が病死・・・帰らぬ人となってしまいました。

彼の死で悲しみに打ちひしがれた鑑真は、「もはや中国を離れて天竺(てんじく・おそらくインド)に行こう」とまで考えますが、さすがに思いとどまり、次ぎのチャンスを待つ事にします

Touseidenemaki800 鑑真渡航の苦難を描いた東征伝絵巻(唐招提寺蔵)

やがて752年(天平勝宝四年)、日本から強い味方がやってきます。

藤原清河(きよかわ)大使とする第12回遣唐使が、日本から派遣され、鑑真に面会した清河は、「必ず連れて行きます!」と、約束してくれたのです。

ところがドッコイ、時の玄宗(げんそう)皇帝が、鑑真の渡航に猛反対・・・しかたなく、清河は諦めます。

しかし、諦めなかったの副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)・・・古麻呂の手配により、こっそりと鑑真が乗船した遣唐使船が、日本に向けて出港したのは、その年の11月の事でした。

とは言え、今回も来ます暴風雨・・・同時に出港した遣唐使船ともはぐれ、バラバラになりながらも天平勝宝五年(753年)12月20日鑑真の乗った遣唐使船は、なんとか薩摩(鹿児島県西部)の坊津(ぼうのつ)に到着したのでした(普照は鑑真とともに無事帰国しています)

ちなみに、同時に出港した別の遣唐使船には、あの安倍仲麻呂(あべのなかまろ)が乗船していましたが、彼の船はベトナムに到着してしまったため、帰国する事はできませんでした(8月20日参照>>)

こうして、やっとの思いで6度目・・・密航してまでの渡航に成功した鑑真・・・途中、あまりの苦難に失明していたとも言われる悲願の来日、鑑真66歳の時でした。

来日の翌年には、あの東大寺に、僧の学び舎とも言える戒壇を築き、上は上皇から下は名もなき僧尼まで、約400人に戒律を授けたと言います。

後に鑑真が建立した唐招提寺には、「本物の仏教を学びたい!」と、夢あふれる若者の訪問が絶えなかったのだとか・・・

こうして、腐敗しかけた奈良時代の仏教が、鑑真によって救われたのです。

天平宝字七年(763年)5月6日76歳で亡くなるその日まで、学僧のレベルアップはもちろん、貧困者や孤児などを収容する福祉施設=悲田院(ひでんいん)を作って、貧民の救済にも取り組んだ鑑真・・・

現在の唐招提寺では、月遅れのご命日に合わせて、毎年6月5日から7日までの3日間、鑑真和上像の特別開扉とともに法要が行われ、境内の廟に訪れる人も絶えません。
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2010年12月19日 (日)

女性は太陽、男はツバメby平塚らいてう

 

昭和二十六年(1951年)12月19日、平塚らいてうらが再軍備反対婦人委員会を結成しました。

・・・・・・・・・・・

4年と10カ月にして、このブログに初登場の平塚さん・・・

本日は、「再軍備反対婦人委員会・結成」の日づけではありますが、(私の)苦手な近代史でもありますので、まずは、おさらいがてらのご紹介という感じにさせていただきます。

・‥…━━━☆

そのお名前は、漢字で雷鳥と表記される事もある平塚らいてう(らいちょう)さん・・・本名は、または明子とも言い、明治十九年(1886年)に東京に生まれました。

Rhiratsuka 父は会計検査院次長も務めた高級官吏でしたから、彼女自身も上流階級のお嬢様として、厳しいながらも幸せな少女時代を過ごします。

ただし、「女に学問は必要ない!」とする父の反対を押し切って日本女子大学に進学するなど、この先の行く道を思わせる一面もありましたが、この頃は、まだまだ・・・哲学や宗教を「もっともっと知りたい!」という純粋な勤勉意欲による進学でした。

なので、女子大を出た後は、このままお嫁にに行って、良き母になって・・・というお決まりのお嬢様コースに乗っかるはずだったのです。

しかし、ここで、一つのターニングポイント・・・

文学に興味を持ち始めた彼女は、東京帝大出の新任教師・生田長江(ちょうこう)と、作家の森田草平(そうへい・米松)が主催する文学講座に通うようになります。

そこで、彼女の才能を見出した長江にすすめられて「愛の末日」という小説を書き上げるのですが、その作品を草平がベタ褒めした事から親しくなり、ついに二人は恋仲になってしまうのです。

しかし、草平には妻も子供もいます。

思いつめた二人・・・と言っても、初デートから、わずか1~2ヶ月なんですが、明治四十一年(1908年)3月、二人は心中という道を選びます。

らいてう、22歳の春でした。

とは言え、結局、未遂に終わってしまったこの事件・・・「塩原事件」なる名前で、東京日日新聞に一部始終を報道されてしまい、一大スキャンダルとなってしまいます。

現在の感覚なら、浮気する男にも大きな責任があるわけですが、当時の一般的な見方は、「妻子ある男に恋をして心中に引きずり込んだ女」として、一方的に彼女がトンデモない悪女と見られるわけで、ここが、らいてう女史のキレどころ・・・

・・・と、ここに、またまたグッドタイミングで声をかけたのがかの長江・・・
「女性だけをターゲットにした文芸誌を作ってみない?」
と・・・

世間の冷たい視線にさらされながら
「女だけが、なんで(#`皿´)」
と、不満ムンムンだった彼女に

「かつてのイギリスでは、貴族の女性たちが集まってブルーストッキングというサロンを作っていたんだ」
と話す長江・・・

もともとフランスをはじめとするヨーロッパの上流階級の女性たちが仲間の邸宅に集まり、文学論や演劇論などの知的な会話を楽しみながら、教養を身につけていく社交界がサロンの始まり・・・ちなみに、余談ですが、「そこで配られた巷の話題など最新情報の書かれた紙がニュースペーパー新聞の始まりとも言われています。

つまり、仲間の邸宅を紙上に置き換えて、上流婦人の教養を高める文化サークル的な物を作ってみようと言うのです。

こうして、明治四十四年(1911年)その名も青鞜社(せいとうしゃ・ブルーストッキングの直訳)を設立し、機関紙『青鞜』を創刊したのです。

ここでは、与謝野晶子(よさのあきこ)田村俊子長谷川時雨(しぐれ)岡本かの子といった豪華メンバーに執筆をたのみ、もっぱらプロデュース的な役割をした彼女でしたが、その創刊号の巻頭には、自身の言葉を記しました。

「原始、女性は実に太陽であった。
 真正の人であった。
 今は月である。
 他に依って生き、他の光によって輝く、
 病人のような蒼白い顔の月である」

これが、女性たちからは大きな共感を呼ぶ一方で、男性、そして、未だ男性中心だった社会からは、ただ彼女たちの行動を興味本位でスキャンダラスに取り上げられるだけだったのですが、それこそが、女性たちの被差別意識を高める事となり、女性の行動に理解を示さない男性に対して、女性解放の必要性を、一般の女性もが感じるようになっていったのです。

・・・と言いながらも、らいてう自身は、大正元年(1912年)に知り合った5歳年下の画家志望の青年・奥村博史と恋に落ち、3年後には同棲を始め、やがてはその生活のために青鞜の運営に専念できなくなり伊藤野枝(のえ)らに後を任せますが、結局、青鞜は大正五年(1916年)に五十二号で廃刊となってしまいました。

ちなみに、この博史がらいてうと別れる時に残した
「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。
若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

という手紙が、一大ブームとなり、女性より年下の恋人を「若いツバメ」と呼ぶそうな。

しかし、らいてうの婦人運動は、むしろ、これから始まります。

なんせ青鞜は、あくまで教養を高める文化サロンであったわけで、社会運動ではないのですから・・・

工場の視察など行い、すでに工場や家庭内での女性の労働条件の悪さに憤りを感じていた彼女は、大正八年(1919年)、市川房枝(ふさえ)らの協力を得て新婦人協会を設立・・・「婦人参政権運動」「母性の保護」を要求し、女性の政治的かつ社会的自由を確立させるため運動をスタートさせるのです。

・・・と、らいてうさんの運動は、まだまだ始まったばかりではありますが、個々の運動や、もう少し細かな事は、また、いずれの機会にか書かせていただきたいと思いますので、本日は、このへんで…
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2010年12月17日 (金)

大阪市中引き回しのうえ、体験・報告!

 

私事で恐縮ですが、先日、江戸時代の大坂市中引き回しのコースまちあるきしてきましたので、本日は、そのお話を・・・

市中引き回しとは、
よく時代劇で金さんが、あの桜吹雪をチラつかせながら言ってますよね。

「市中引き回しのうえ、磔(はりつけ)獄門(ごくもん)!」てね。

は・・・説明いりませんよね(*´v゚*)ゞ
ほんで、獄門は、うち首の後に、その首をさらし首にして見せしめにするという、死罪の中でも最も重い刑罰・・・。

Hikimawasi800 市中引き回しとは、これに追加される刑罰で、牢屋敷から刑場へ向かう道のりを、馬に乗った罪人を囲むように、罪状などを書いた立て札を持ったボランティア(無理やりやらされてると思うが…)の人たちが歩いていく・・・これも、見せしめ、

雰囲気は、時代劇で見る、あの光景を思い浮かべてくだされば、ほぼ間違いないです(↑参考「徳川幕府刑事図譜」明治大学博物館蔵)

ただし、当時はあの一番広いと予想できる御堂筋でさえ二間(3.6m)ほどしかなかったので、ドラマで見るように、ボランティアに囲まれた罪人の行列を両側から何重にも重なって人が見るという事はできなかったと思われ、おそらくは、建物の2階や屋根などから見ていたとものと思いますが・・・

江戸時代の刑罰については、以前書かせていただいた【遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰イロイロ】(5月17日参照>>)見ていただくとして、そんな江戸時代の大坂は・・・

例の大坂夏の陣で大坂城が炎上し、豊臣家が滅んだ後、ここは徳川家の直轄地となりました。

つまりは、大坂城の城主は江戸にいる将軍で、普段は、その将軍の代わりに、大坂城代が中心となって統治していたわけで、そこには、ほぼ、江戸と同様のシステムが構築されていた事でしょう。

城代の下には2名の大坂定番(京橋口と玉造口)と、同じく2名の町奉行がいて、「大坂の幕閣」として、江戸と連携を保ちつつ西国の支配にあたったのです(1月23日参照>>)

Dscn6284a600 Dscn2906a600

…で、江戸が、北町奉行と南町奉行なのに対し、大坂は東町奉行と西町奉行によって、月交代で治安を守っていたのです。

東町奉行所は、大坂城の西側・・・現在の合同庁舎のところにあり、西町奉行所は松屋町筋に面した現在のマイドーム大阪の場所にありました。

そして、江戸では小伝馬町ってのが有名ですが、大阪は、現在の中大江公園中大江小学校の場所に松屋町牢屋敷というのがあり、刑罰が確定された罪人の市中引き回しは、この牢屋敷の南門=つまり、現在の公園の南側からはじまります。

Nakaooekouennpa1000 現在は、こんなにキレイな中大江公園です

Dscn2899a800 まずは公園の南側から西へ行き、松屋町筋へ…

Hikimawasi2a1000y 松屋町筋を(南)へと曲がり

Dscn2911a800y 100mほど行った本町通(西

Hikimawasi3aaa1000y そして四つ橋筋の1個手前・・・現在は阪神高速が走っている下には、以前は西横堀川という川が流れていて、ここが江戸時代の大坂の町の境界…つまりここから先は大坂の町ハズレという事になり、引き回しは、この川の手前で(南)に曲がります。

んでもって、ここをそのまま道頓堀川まで・・・
ちなみに、南は、この道頓堀川が境界線となっていて、ここから南は町ハズレなのです。

Dscn2946a800y 途中、あのアメリカ村三角公園を横目にしながら…
道頓堀川に突き当たった所を(東)へと曲がり、
 .
 

Dscn2956a800y 有名な戎橋の一本東側になる太左衛門橋を渡って、角座のあった所へ…

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Dscn2960a800y そのまま千日前商店街を通り、その最後、竹林寺というお寺があったところ…ここに、「千日前刑場」黒門が建っていて、その奥(南側一帯)が刑場となっていたそうです。

昔は、「角座の二階の楽屋からさらし首が見えた」という噺家さんの回顧録も残っているようです。

Hikimawasitizu1000 ルート地図です…まち歩きの参考に
ブログのデザインの都合上、すべて小さな写真や地図で表示していますが、クリックしていただくと大きくなりますので、ぜひ、大きい画面で確認してみてください

どうですか?
約一時間半の市中引き回し…機会があれば、皆さんも引き回されてみてください。

三角公園のあたりで、カメラを持った場違いな歴女に投げかけられる若者の視線に、ちょっとだけ、罪人気分を味わう事ができますヨ。

ちなみに、北東部分には野江(京阪電車の駅のある野江です)仕置き場という刑場があり、やはりそこが大坂の町の境界線となっていました。

なお、「古地図で確認したい!」とおっしゃる方は、弘化二年(1845年)と、かなり幕末な地図ですが、「幕末フォーラム」>>さんの「摂州大坂八百八橋」>>が見やすいと思います。
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2010年12月16日 (木)

大砲2発!大坂冬の陣~徳川家康×淀殿×大野治長=愛憎の三角関係

 

慶長十九年(1614年)12月16日、大坂冬の陣にて、備前島に設置されていた徳川方の大砲から発射された砲弾が大坂城・天守に命中しました。

・・・・・・・・・・

徳川家康が、今回の大坂城攻めのために大量に動員した大砲(大筒・石火矢)・・・この冬の陣では、大坂城の周囲に約300挺を設置して、数十人の砲術家を配備したと言われています。

特に、城の北側を流れる淀川の中州・備前島(びぜんじま)に設置された物は、天守から約700mほどの距離しかなく、完全に射程距離内に入っていたのだとか・・・

とは言え、この頃の砲弾は炸裂弾ではなく、ただの鉄の固まり・・・しかも、射程距離内であっても、どこか1か所に狙いを定めるほどの性能はありませんから、これで戦況を一変させるほどの威力はなかったと思われます。

それでも、昼夜を問わず砲撃を繰り返す事で、絶えまなく響き渡る地響きや轟音による精神的な圧迫を狙っての効果は充分にあります。

ところがドッコイ、慶長十九年(1614年)12月16日、その備前島から放たれた砲弾の1発が、たまたま天守に命中して柱は崩壊・・・さらに、もう一発が淀殿の居所である櫓を撃ち抜いたと言います(千畳敷に1発…という話もあり、命中したのが1発か2発か3発なのか微妙なところですが…)

破壊力は、それほどでもなかった大砲でしたが、今回の着弾によって、淀殿はじめ城内の女性たちが一時パニック状態となり、その後、一気に講和へと向かって行く、一つの要因となったとも言われています。

ところで、
本日は、題名にある通り、今回の大坂の陣突入の一因となったかも知れない家康×淀殿×治長による愛の三角関係について・・・

題名を見て
「んな、アホな」
と、お思いの方もおられるかも知れませんが、それこそ事実は小説より奇なり・・・

もちろん、大坂の陣の直接のきっかけとなったのは、ご存じ、方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)ですが、それはあくまで、家康が豊臣潰しの口火を切るための口実である事は明白・・・

以前、関ヶ原から大坂の陣までに微妙な関係について書かせていただいたように、家康にとって豊臣は目の上のタンコブ(5月10日参照>>)・・・天下を牛耳るためには、どうしても潰したい相手だったわけですが、ひょっとしたら、そこには、ちょっとばかりの私情が絡んでいた?のかも・・・てなお話。

Oosakazyoup1a1100 現在の大阪城…今は亡き備前島は、あの高層ビルのあたりかな?

それは姜沆(きょうこう・カンハン)が記した『看羊録』・・・

この姜沆という人は、例の朝鮮出兵で捕虜となり、日本へ連れて来られた朝鮮の儒学者なのですが、この『看羊録』は、その彼が、日本で見聞きした事を記録した文書で、多少の誤解や捕虜という立場ゆえの偏見はあるものの、その内容については、かなり信憑性の高い1級史料とされている物ですが・・・

そこに、病に倒れて、未だ幼い息子・秀頼を心配する豊臣秀吉の事が書かれています。

「戊戌年(1598年の事)三月晦(みそか)から病気にかかった秀吉は、自分でも死ぬかもしれないと思って諸将を召し寄せて、後の事を託した。

家康には秀頼の母を室として政事を後見し、秀頼成人の後に政権を返すように約束させた。

加賀大納言(前田利家)の子・肥前守(前田利長)には秀頼の乳父(仮の父)となって、備前中納言(宇喜多)秀家とともに、終始秀頼を奉じて大坂に居るようにさせた」

「家康には秀頼の母を室として…」
つまり、家康と淀殿に「二人は結婚しなさい」というのが、秀吉の遺言だったと・・・

しかも、専門家によれば、この結婚の事が書かれている文書は複数あり、いずれも信憑性の高い1級史料なのだそうです。

さらにダメ押しの『多聞院日記』(こちらも信憑性の高い史料です)の慶長四年(1599年)9月17日の条・・・

「十七日、如前、一日大雨下候…
 大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、
 太閤之書置在由候、
 大野修理秀頼之母ヲ連候、
 高野ヘ参候由珍重、
 無殊儀候、大名之由候、」

なんと!
秀吉が亡くなった翌年の9月10日に、家康と淀殿が祝言を挙げる事が決まっていたにも関わらず、その直前に大野治長(はるなが)彼女を連れ出して高野山に行っちゃったと・・・

♪Hello,darkness my old friend~♪
大野治長=ダスティン・ホフマン…映画「卒業」w(゚o゚)w

この大野さんは、淀殿の乳母の息子なので、幼い頃からの乳兄弟で、長身のイケメン・・・以前も書かせていただいたように、もし、秀頼が秀吉の実子でなかった場合には、最も疑わしい人物(8月3日参照>>)・・・

最近では、ドラマなどで、石田三成をはじめ複数の人物が、淀殿の不倫相手として描かれたりしますが、これは後世になって出て来た噂の域を越えない物や、近代になってからの小説の中のお話で、当時の1級史料とされる物には、ほぼほぼ大野さんの名前しか出てきませので、もし、本当に秀頼が秀吉の子供でなかったのなら、おそらく、父親は彼なんでしょう。

妻となるべき人を、結婚式の直前に奪った男が、その彼女を守って籠城する大坂城・・・そこに、大砲を射かける家康の心情たるや・・・

確かに、秀吉が命じた政略結婚なのですから、そこに愛情は含まれてはいなかったでしょうし、家康だって、ホントは乗り気じゃなかっかも知れません。

しかし、日取りまで決まっていた物をドタキャンされたら、いらない物でも欲しくなってしまうのが人の常・・・

もちろん、大坂の陣の勃発に、少なからずの私情があったかどうかは、ご本人のみぞ知るところでしょうが、まるで、ひところのトレンディードラマのような展開に、心ワクワクしますね。

はたして、来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」では、いかように描かれるのでありましょうか・・・ワクワクドキドキ

●同じ16日にあった塙団右衛門の夜襲については2009年の12月16日のページでどうぞ>>
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2010年12月15日 (水)

恭仁京?志香楽宮?~聖武天皇・迷走の謎

 

天平十二年(740年)12月15日、第45代・聖武天皇が恭仁京に遷都しました。

・・・・・・・・・・

藤原不比等(ふひと)の意向により、藤原一族の繁栄のシンボルとして誕生した聖武天(8月3日参照>>)・・・しかし、その不比等の息子たち藤原4兄弟が、流行の天然痘などで次々と死亡し、情勢は少しずつ変化してきます。

奥さんの光明皇后の異母兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)や、学者の吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)を側近に親政を行う聖武天皇ですが、その頃には、皇后の甥っ子の藤原仲麻呂(なかまろ・恵美押勝)も力をつけてきます。

そんなこんなの天平十二年(740年)9月、大宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)が、中央政界に力を持つ現側近らの排除を要求して、九州にて蜂起したのです・・・ご存じ藤原広嗣の乱です(9月3日参照>>)

早速、討伐軍を派遣する聖武天皇ですが、その一方で、その経過を見届けないままの9月26日・・・

いきなり
「朕(ちん)思うところあって、しばらく関東に行っちゃうもんね~~」
と、言い、さっさと平城京を後にしてしまったのです。

以前も大仏建立に絡めて書かせていただいた(10月15日参照>>)聖武天皇・迷走の旅の始まりです。

乱が平城京にまで波及するのを恐れたのか?
天然痘の恐怖にじっとしていられなかったのか?

今もなお、様々な憶測を呼ぶ謎の行動ですが、行幸には、光明皇后も諸兄も同行している事から、単なる逃避行の可能性も高く、中には、はりきって始めた親政に、批判の乱が勃発した事で、ノイローゼになった天皇が起こした、まったく意味のない行動・・・なんて事も言われたりします。

とにかく、秋に平城京を出て、三重県を通り、冬には滋賀県へと入った天皇・・・この年の12月には恭仁(くに)の地(京都府木津市加茂町)都の造営を開始し、天平十二年(740年)12月15日恭仁京(くにきょう・くにのみや)に遷都したのです。

平城京を出てから、ほぼ毎日移動し続けた2ヶ月半・・・おそらく同行していた人たちもホッとした事でしょう。

ところがドッコイ
この聖武天皇の迷走は、ここから5年間も続きます。

この時、遷都された恭仁京・・・天平十五年(743年)の12月まで続けられた、この恭仁京の造営事業でしたが、未だ、完成を見ないうちに、聖武天皇は、今度は近江志香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲賀市)(5月24日参照>>)造営も開始しちゃいます。

なのに、未だ志香楽宮造営の真っ最中の天平十六年(744年)閏正月・・・
「なぁ、都を恭仁にするか難波にするか迷てんねん」
と、官人たちに質問を投げかけたあげく、

「恭仁京にすべきでっせ」
という圧倒的な意見を無視して、2月26日には、強引に難波宮(なにわのみや)を都に決定して引っ越してしまいます(12月11日参照>>)

「ほな、なんで、俺らに聞いてん!」
という官人のツッコミの嵐もなんのその・・・

翌年の正月には、またまた志香楽宮に引っ越しておきながら、その5月には、結局、平城京へと戻って、やっとこさ落ち着きます。

まぁ、後半のウロウロについては、恭仁一帯は橘諸兄の本拠地で、志香楽宮一帯は藤原仲麻呂の故郷・・・って事で、この2大勢力の誘致合戦のハザマでの天皇の迷走とも言えなくもないのですが・・・今も昔も、権力者の一声は大きいからなぁ

Syoumumiyukiroot330 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・と、ここで、一つ、聖武天皇の名誉のためにも、最初の頃の迷走について、ある一つの仮説をご紹介します。

秋から冬の、平城京から恭仁京・・・この進路を見て、何か感じませんか?

そうです。

あの壬申の乱で、吉野を出た大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)のたどったルートです(7月4日参照>>)

大いなる戦いに挑み、それを勝利に導いた曽祖父=天武天皇のたどった道を、再び歩く事で、今、直面している政情の不安に、「全員一丸となって立ち向かって行きたい!」

聖武天皇にとっては、逃避行でも迷走でもなく、自らとその仲間の士気を高めるための旅だったかも知れないのです。

まぁ、単に、街道として機能していた道を通っただけなのかも知れませんけどね(゚ー゚;
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2010年12月14日 (火)

忠臣蔵で不忠の悪役~大野九郎兵衛の汚名を晴らしたい

 

元禄十五年(1702年)12月14日、忠臣蔵でおなじみ・・・ご存じ!赤穂浪士の討ち入りの日ですね。

って事で、本日は、途中で大石と袂を分かち、赤穂を出て行ってしまうため、お芝居では卑怯な不忠者として描かれる赤穂藩家老・大野九郎兵衛さんについて・・・
(大野さんについては、以前の【忠臣蔵のウソ・ホント】=2006年12月14日>>で、チョコッと書かせていただいていますので、内容がかぶる部分があると思いますが、ご了承くださいませ)

・・・・・・・・・

さてさて・・・
元禄十四年(1701年)3月14日に起こった、例の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)江戸城・松の廊下吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかった刃傷事件(3月14日参照>>)・・・

この一報が、早水(はやみ)藤左衛門萱野(かやの)三平(1月14日参照>>)・両名の早駕籠による昼夜の走りまくりで、播州(ばんしゅう・播磨・兵庫県南部)赤穂城にもたらされたのは5日後の3月19日の事でした。

「もう、ウチの殿さん、何してくれとんねん!」
まさに、お家存亡の一大事!

筆頭家老の大石内蔵助良雄(くらのすけよしお)は、早速、在国藩士・2百数十人に登城の命令を発します。

この時の赤穂藩には大石を含め、藤井又左衛門宗茂(またざえもんむねしげ)安井彦右衛門(ひこえもん)大野九郎兵衛知房(くろべえともふさ)という4人の家老がいましたが、藤井と安井は江戸駐在・・・しかも、事件の時にブチ切れ殿様を補佐できなかった事で、今後の展開では、ほとんどシカトです。

・・・で、城にいた家老は、残る大石と大野なわけですが、もともと大石以外は全員、その才能によって抜擢された一代だけの家老でしたし、当然、石高も違っていたわけですから、城内での主導権は大石が握る事に・・・

とは言え、さすがは塩の製造販売で才能を発揮し、組頭から大抜擢の大野さん・・・お家の一大事とあっては、上司もヘッタクレもなく、自らの意見を述べます。

そう、この時、二人の家老の意見は、真っ向からぶつかるのです。

大石の意見は籠城・・・とは言え、こんな少人数で城を守りきれるはずもありませんから、意地の籠城の末、抗議の気持ちを込めた切腹によって自らの気持ちを天下に知らしめようというもの・・・

一方の大野の意見は開城・・・公儀の心証を悪くしないためにも、ここは素直に開城しておいて、その後、新たに、お家再興を図るべきであると主張します。

さらに、藩士への分配金(退職金)でも・・・

大石は、「小禄低所得者)の者を助けるためには、その配分を小禄の者ほど割高にして高禄の者は減らすべき」と言いますが、
大野は、「高禄の者ほど(引っ越しなどの)出費が多くなるのだから、全員一律にすべき」
と・・・

う~~ん、どちらも一理ある・・・って事で、この分配金に関しては、両者の意見を組み合わせた折衷案が実行される事になりましたが、籠城か開城かについては、決着がつかないまま時間だけが過ぎていきます。

ところが、4月11日の夜・・・突如として大野は、一族郎党を引き連れて赤穂城を出てしまうのです。

おそらくは、事務職で理性の固まりのような大野にとって、過激発言を曲げない大石に「これ以上、ついていかれへんわ」てなところでしょうが、これによって大野九郎兵衛という人物は、史実とされる歴史から姿を消してしまうのです。

もちろん、彼の他にも・・・
結果的に、大石の意見に賛同した60名ほどが城に残りました。

とは言え、ご存じのように、残った大石も、結局は籠城してません。

それは、広島浅野本家・・・籠城して切腹なんて、真っ向から幕府に反発するような行為をとられたら、後日、本家にだって、その影響が及ぶかも・・・いや、おそらく、何らかの処罰を喰らう事になるでしょう。

「せやから、アホな事はやめてチョーダイ」
と本家から泣きの頼みが入り、結局、大石は4月19日に、赤穂城・開城に踏み切ったのです。

その後は、多くのドラマで語られるような展開の末、元禄十五年(1702年)12月14日浪士の討ち入り(2009年12月14日参照>>)・・・となるのですが、気になるのは、かの大野さんのその後・・・

もちろん、先に書かせていただいたように、史実とされる歴史には、そのまま登場しないので、あくまで伝説の域を超えない物ですが、その逸話はいくつかあります。

それも、お芝居で描かれるような卑怯な悪役ではなく、どちらかと言えば、カッコイイ逸話です。

まずは、群馬県安中市磯部(いそべ)・・・

ここには、近在の子供たちに手習いを教える林遊謙(ゆうけん)という人のいいオッチャンが住んでましたが、かの赤穂浪士による討ち入りのニュースが、この村にも伝わった時、オッチャンは数日間姿を見せず、家に閉じこもったままだったとか・・・

その後、彼は、この地で亡くなり(お墓もあるそうです)が、その時、身よりの無かった彼の遺品を整理していた村人が、1通の手紙を発見・・・

それは、
「万が一、本懐を遂げる事ができなかった時には、第2陣として上野介の首を挙げてくれ
という内容が書かれた大石から手紙で、ここで初めて、村人は、遊謙という人物が、かの大野九郎兵衛であった事を知ったのだとか・・・

ただ、残念ながら、村人が供養のために墓のそばに埋めたこの手紙は、盗まれてしまって現存しないとの事・・・

しかも、この群馬という場所・・・実は、ここには、吉良上野介の領地・1000石があったのです。

もし、大石らの襲撃を受けた上野介が生き残ったとして・・・
さすがに、そのまま屋敷に戻る事はできないし、実子・綱憲(つなのり)がいる米沢上杉家は、受け入れてくれる保証はない・・・吉良さんの本領は三河(愛知県東部)ですが、もはや芝居にもなって(8月14日参照>>)仇討気分高まる中の東海道を下っていくなんて事もできない

「って事は、この上州(群馬)に来る可能性は大いにある」
と、考えて、ここに身を隠していた・・・伝承とは言え、ドラマのようですなぁ。

そして、もうひとつ、東北の山形にも大野さんの伝説があります。

米沢に近い板谷峠という所に、「南無阿弥陀仏」と彫られた16基の碑があって、これが大野九郎兵衛一族のお墓だと言われているのだとか・・・

もちろん、ここにいたのは、上記の息子のいる上杉家を、上野介が頼って来た時に、この峠で待ち伏せするためだったとされ、ここでの伝承も、大石失敗時の第2陣という設定になってます。

しかも、ここにいた大野さんとおぼしき人物は、赤穂浪士の討ち入りが成功して本懐を遂げた事を聞いた後、「もはや思い残す事はない」と、自ら割腹して果てたのだとか・・・

いずれにしても、このカッコ良すぎる逸話は、何で???

と、ここからは、勝手な憶測になりますが、いつの世も、私のようなあげ足取りや、天の邪鬼はいるもので、あの「仮名手本忠臣蔵」がお芝居として大ヒットすればするほど、そこで完全なる悪役にされている大野さんの味方をしたくなるわけで・・・

かの大河ドラマを見ちゃ、
「あれはちょっと…」とツッコミ入れたり、
「龍馬一人でやったんちゃうわ!」と吠えたり、
「中岡の出番、少なすぎる!」と叫んだり、
そんな気持ちと、似ているのかも知れませんね。

なんせ、実際には、赤穂の藩士の中で、討ち入りした人よりも、はるかに多くの人が討ち入りに参加しなかったわけですから・・・

なのに、大野さんら一部だけが、不忠の人として悪役にされている事に、江戸の人々の中にも、少々ツッコミを入れたい人がいたのかも・・・

「アイツらだけがヒーローちゃうわい!」
とか、ね・・・

Omurosakura800 京都・仁和寺(ここにいたという大野さんの弟の文書が残ります)
大野さんも、桜を見たのかなぁ(゚▽゚*)
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2010年12月13日 (月)

ガンと戦いながらの執筆~東洋のルソー・中江兆民

 

明治三十四年(1901年)12月13日、明治の思想家・ジャーナリスト「東洋のルソー」と称される中江兆民が54歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

坂本龍馬の額が禿げあがってるのは、梅毒(女遊びのしすぎ)で髪が抜け落ちたから・・・」
と、龍馬ファンにとっては、あまりうれしくない証言をしてくれちゃってる中江兆民(ちょうみん)・・・

Nakaetyoumin フランスの思想家・ルソー『社会契約論』を漢文に約した『民約訳解を発表した事から、「東洋のルソー」として有名です。

 

 

 
高知城下の足軽身分の家に生まれた兆民は、文久二年(1862年)に開校したばかりの藩校・文武館に入学し、その後、土佐藩の留学生として長崎にやってきました。

龍馬と親交があったのはこの頃で、未だ少年だった兆民は、よく龍馬に頼まれてタバコなどを買いに行ったという、要するに「パシリ」だったわけで、「やっぱ、大物は違うなぁ~」という褒め言葉がありつつも、まぁ、ちょっとくだけた爆弾発言もしちゃうような間柄だったのかも知れません。

とは言え、この長崎でフランス語を学び、わずが数年後には、開港したばかりの兵庫(神戸)で、フランス外交団の通訳ができるくらいに上達するのですから大したものです。

やがて維新が成ると通訳を辞職し、大久保利通(としみち)に頼み込んで、明治四年(1871年)に派遣された岩倉使節団(10月8日参照>>)の一員となってフランスに渡り、ここで2年間を過ごします。

帰国後は、その海外経験を生かして、フランス学の普及を目指す仏学塾を開校します。

その後、後藤象二郎を通じて、一時は元老院にもなった兆民でしたが、明治十年(1877年)に辞職してからは、仏学塾での研究と教育に没頭し、2度と官職に戻る事はありませんでした。

そんなこんなの明治十四年(1881年)、フランス時代から親交のあった西園寺公望(さいおんじきんもち)らとともに東洋自由新聞の刊行をはじめ、フランス的自由民権の確立を目指しつつ藩閥政治批判を展開する言論活動へと向かっていきます。

兆民自ら執筆する自由新聞の社説は、なかなかの評判だったとか・・・

これらの政府批判で一時は追放処分を喰らった兆民でしたが、明治二十二年(1889年)に処分が解けて出馬した選挙では、見事トップ当選を果たして国会議員となり、立憲民主党の結党にも奔走しました。

しかし、明治二十四年(1891年)、ともに戦っていたにも関わらず、政府側に妥協した自由党土佐派の裏切りに怒り爆発して「議会は無血虫の陳列場や!」との捨てゼリフを残して辞職します。

無血虫(むけつちゅう)=つまり「国会は、血の通わない虫みたいなヤツらばっかり」って事・・・なんか、今でも通じるような言葉ですね。

その後も、新聞での執筆活動や、仲間の応援に出かける兆民でしたが、明治三十四年(1901年)3月、旅先の大阪で呼吸困難になって倒れてしまいます。

・・・と言っても、少し前からノドが痛かったり、声がかれたりという自覚症状はあったのですが、倒れるまでになったのは、この時がはじめて・・・

そして、医者の診断は・・・食道がん
「大事にすれば1年半はもつかも・・・」

そう、今で言う「告知」を受けたのです。

病室のベッドに横たわりながら、もはや、声を出す事が苦痛となっていた兆民は、無言のまま・・・枕元に置いていた原稿を手に取り、その一番目のページに「一年有半」の文字を書きました。

これが、身近な事から同時代の人物や政治、文学から芸能に至るまでを随筆風に書いた社会批評の著書『一年有半』・・・幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの手によって出版されたこの本は、兆民の遺書と宣伝され、大変なベストセラーとなります。

東京に戻り、5月にはノドを切開する手術に挑みながら、病ををおして、さらなる執筆活動を続ける兆民・・・もはや、書き続けられないほど病気が悪化する日もあったものの、医者と相談しつつ投薬を続けながら、なんとか完成させました。

明治三十四年(1901年)12月13日、結局は、医者の告知した1年半を待たずにこの世を去る兆民・・・思えば、その無理をおしての執筆が、彼の死期を早めたのかも知れませんが、そうしてまでも書きたかった最後の著書が、哲学・宗教への激烈な批判を展開させ、兆民思想の総決算の書とも言われる『続一年有半』でした。

この最後の2冊は、発売から1年で30万部を越える大ヒットになったとか・・。

ちなみに、「葬式はするな」という彼の遺言に従って、直後の葬儀は行われませんでしたが、後に有志によるお別れ会のような物が行われる事となり、その死亡広告で初めて「告別式」なる言葉が使われ、現在の告別式という言葉の元祖となっています。
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2010年12月12日 (日)

長宗我部元親を変えてしまった息子・信親の死

 

天正十四年(1586年)12月12日、九州征伐を開始した豊臣秀吉の軍と、迎え撃つ島津家久の軍が戸次川にて交戦・・・長宗我信親が討死しました。

・・・・・・・・・・・

『南海治乱記』には、この日の戸次(へつぎ)川の戦いについて、逸話が紹介されています。

・‥…━━━☆

徐々に戦況がヤバくなってきたこの戦いの最中、十河存保(そごうながやす)は、自らの家臣に向かって
「俺が昔、阿波(あわ・徳島県)の領主やった頃、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の息子・信親(のぶちか)とも、何べんも戦うたけど、とうとう決着がつかんかった。
正直なところ、今でも恨みがあるよって、アイツの首を見てみたいもんやと今でも思てる…
せやよって、信親に声をかけて、討死させるようにして、恨みを晴らすつもりや」

と、いきなりの宣言したのたとか・・・

そして、信親のもとに使者を送り
「今日の戦いは仙石久秀のアホな作戦が敗因とは言え、負けたなら、大将である俺らの恥じにもなりまっせ。
せやから、ワイが加勢しますよって、信親はんも引き返して島津との勝負を決めてください」

と伝えて、自らは颯爽と敵陣に向かって突っ込んで行ったのです。

自身も勇猛果敢な武将だった信親は、快く了承・・・敵の真っ只中に突っ込んで行って激しく戦い、二人ともに壮絶な死を遂げたました。

・‥…━━━☆

・・・と、確かに、この十河さん、
三好義堅(みよしよしかた)の息子として生まれながらも、十河氏を継いだ後、兄・三好長治(ながはる)とともに阿波・讃岐(さぬき・香川県)に勢力を伸ばすも、長宗我部軍によって虎丸城を落とされて降伏・・・元親に四国の平定を許してしまったという過去があります(9月21日参照>>)

しかし、何たって、「昨日の敵は今日の友」の戦国です。

今や、お互いが、四国を平定した豊臣秀吉の配下となり、ともに島津と戦っている状況下で、未だ33歳の男盛りの命を懸け、自らの十河家という家をも犠牲にしてまで、以前の恨みを晴らすとは、とても考えい難い・・・(存保には幼い後継ぎがいましたが、この敗戦の責任を負わされて領地を没収されています)

おそらくは、将来有望な若き武将の死にざまを、劇的に演出したい軍記物特有の創作なのでしょうが、存保も、そして信親も、ともに、この戸次川の戦いで、壮絶な討死を遂げた事は確か・・・

この戸次川の戦いの内容につきましては、以前、この戦いの開始の日づけでブログにて紹介させていただいていますがので、ソチラで見ていただくとして(11月25日参照>>)・・・

この時、島津から手痛い敗北を喰らう豊臣軍・・・

軍監の仙石久秀(せんごくひさひで)だってなかなかの名将・・・長宗我部元親だって、土佐の出来人としてその名を馳せ(5月26日参照>>)、一度は、四国平定を成し遂げた武将なのは、皆さまご存じの通りです。

しかし、いくら名将揃いでも、ともに戦う以上、そのチームワークによる連携プレーが一番のかなめなわけで、ひとえに、この戸次川の敗因は連携の悪さにあったと言えるかも知れません。

天正十四年(1586年)12月12日・・・この日、討死した信親は、その言葉づかいと言い、立ちい振る舞いと言い、にじみ出るやさしさの中に、その知勇を兼ね備えた元親自慢の嫡男であったと言われています。

実際には、この時、久秀からの戸次川渡川の命令を受けた信親は、
「今、川を渡るのは、罠に挑むキツネと同じ・・・まったくの自滅だ!」
と、まさに、あの
「事件は会議室で起きてるんじゃない!」by青島刑事
のごとき言葉を吐き捨て、配下の優秀な家臣団=700人とともに、敵陣に突っ込んで行ったと言います。

・・・で、この優秀な後継ぎを失った父・元親の落ち込みぶりは、相当なものだったとか・・・

この翌年、元親の傷心を慰めようと、秀吉は、元親に大隅国(鹿児島県東部)を与える事を打診しますが、彼はこれを辞退・・・

戦いから2年後の天正十六年(1588年)には、四男・盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これに反対した一族や家臣団に死を命じてまで、強引に進め、それは、まるで人が変わったようだったと言います。

Dscn1494a800 浦戸城・天守跡(高知県)

その後は、浦戸城(うらどじょう)にて、領国の経営に尽力したという元親ですが、やはり、現役の頃のスルドさはなかったとも・・・信親の死が、元親にとって、いかに大きかったかを物語っているようです。
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2010年12月10日 (金)

昭和最大のミステリー・三億円事件

 

昭和四十三年(1968年)12月10日、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が、白バイ警官を装った犯人に止められ、輸送中だった東京芝浦電気府中工場の従業員のボーナス約3億円を奪われた事件・・・いわゆる三億円事件が発生しました。

・・・・・・・・・

これを歴史なのか?否か?と自分自身に問いつつ((w´ω`w))

昭和四十三年(1968年)12月10日、その日は、待ちに待ったボーナス日

おりからのどしゃぶりの雨の中、東京芝浦電気府中工場で働く従業員たちに支給されるボーナス=2億9430万7500円を乗せた日本信託銀行の現金輸送車が、目的の工場へと向かっておりました。

やがて午前9時半頃、車が府中刑務所の裏に差し掛かったところで、白バイに乗った一人の警官に停止を求められます。

運転席の窓をコンコンと叩く警官・・・それに応えて窓を開ける運転手。

「日本信託銀行の車ですよね?
今、この車のシートの下にダイナマイトが仕掛けられたという情報が警察に入ったので、念のために調べさせてもらえませんか?」

実は、その4日前に支店長宅に爆破予告の脅迫状が送りつけられるという出来事があり、車に乗っていた運転手を含む4人は、「まさか!」と思いながらも、急いで車を降ります。

警官は車の周囲を点検するように見回しながら、やがて車の下に潜り込むと、そこから立ち上る白い煙・・・

「あったゾ!ダイナマイトだ!逃げろ!」

そばで様子を見ていた4人は、慌てて車から遠ざかります。

すると警官は、サッと運転席に乗り込み、車を安全な場所へ移動させるかのように運転して、雨の中へと消えていきました。

この間、わずか2分・・・

「なんて、勇敢な警察官なんだ!」
と、しばらくは感動すら覚えていた4人でしたが・・・

シーンと静まりかえり、雨の音だけが響く周囲
「んんん???」

もはや煙が出るくらい切羽詰まった状態のはずだったのに、待てど暮らせど、爆発音なんて聞こえやしない。

しかも、車が立ち去った道路には、白い煙もまばらになった発煙筒がポツン・・・

ふと、横に放置された白バイに目をやると、本来、警察が使用するはずのHONDA製ではなく、YAMAHA製のバイクを白バイに似せた物・・・

4人は、やっとここで「おかしい」という事に気付いて、慌てて支店に連絡を入れたのです。

300000000root ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、この事件、
被害総額3億円と言いますが、銀行は保険に入っており、奪われた金額は保証されたので、工場の従業員には通常通りボーナスは支給され、それを支払った保険会社も、海外にある別の保険会社に入っていましたし、そもそも保険会社は、何かあった時に支払うのが仕事なわけで、契約上発生した金額を、事件の被害とは言えないわけで・・・

この事件は「三億円強奪事件」とも呼ばれますが、経過を見た限りでは、殴ったり蹴ったり、脅したりして強奪したわけではなく、どちらかと言えば、だまし取った詐欺???

って事で、この事件は、3億円という前代未聞の金額を奪われておきながら、実際に被害を被った人が一人もいないという前代未聞の事件となったわけです。

ここまでは・・・

そうです。

事件で直接の被害を被った人はいませんでしたが、実はこの後、被害者と呼べる人たちが生まれてしまうのです。

そもそもは、最初に犯人が乗ってきたバイクをはじめ、途中で乗り捨てられた現金輸送車も、犯人が自分で用意して乗り換えたとおぼしき別の車も見つかり、その遺留遺品の多さ、目撃証言の多さに、ちまたの噂では「捕まるのも時間の問題」なんて事も囁かれもしましたが、これが意外にも難攻するのです。

それに、あの有名なモンタージュ写真です。

事件の11日後に発表されたモンタージュ写真は、本来なら、目・鼻・口など、それぞれ別の写真を組み合わせて合成する物ですが、この三億円事件に関しては、目撃者が「こんな感じだったかも」と言っただけの別の人の写真をそのまま使用・・・しかも、すでに、その人は事件の1年半も前に事故で亡くなっている人物だったのです。

しかし、「これが犯人だ」として発表された以上、多くの人が、これを犯人の顔として認識してしまう事となるわけで、よけいに惑わされてしまう結果となってしまったわけです。

こうして、進まぬ捜査と紛らわしい情報により、犯人ではないかとの疑いをかけられた人たちがいたのです。

不良グループの一人として日頃から警察に目をつけられていた少年・・・
その少年の友人で、出所が不明の大金を持っていた少年・・・
さらに、高い運転技術と地の利を持っていたために疑われた青年・・・

他にも、その事で人生を狂わされてしまった人が、たくさんおられた事でしょう。

もちろん、被害者は警察にもおられます。

進展しない捜査状況による心労で、2名の警察官が過労死したとの事・・・

昭和六十三年(1988年)12月10日すべての時効が成立し、日本犯罪史に残る未解決事件となった三億円事件・・・

あまりにもあざやかで、暴力的な部分がなく、対岸の火事的な立場からは、不謹慎ながら、痛快にも思える事件ですが、そこには、人知れず苦悩を味わった間接的な被害者がいる事を忘れてはなりませんね。
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2010年12月 9日 (木)

信長と抗戦した石山本願寺の総大将・下間頼総の追放

 

元亀二年(1571年)12月9日、織田信長との10年に渡る石山合戦にて、それまで石山本願寺の総大将として活躍していた下間頼総が寺内退去を命じられました。

・・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して以来、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで畿内を征し、戦国武将トップの座を狙える位置を陣取った織田信長・・・(10月18日参照>>)

その一人勝ちを阻止すべく、越前(福井県)朝倉北近江(滋賀県北部)浅井、さらに越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄という大物を加えて形成された信長包囲網・・・そこに比叡山延暦寺石山本願寺といった寺社勢力が加わり、より強固に・・・

そんな中で、最終的には西国の雄・毛利の支援をも受けて、真っ向から信長に対抗し続けたのが石山本願寺です。

その石山本願寺の代表と言えば、もちろん、浄土真宗本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)なわけですが、当然の事ながら、仏に仕える身の顕如が、自ら武器を持って合戦におよぶはずはなく、あくまで宗徒の団結力とテンションを高める象徴のような存在で、その代わりとなって、実際に兵を率いて出陣する人がいたわけです。

それが本願寺内衆(うちしゅう)下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)です。

この下間氏は、親鸞の弟子となった蓮位房宗重(れんいぼうしゅうじゅう)を祖としながらも、確実に歴史上に登場するのは、宗重の孫で、本願寺9代実如(じつにょ)に仕えた下間頼玄(よりはる)から・・・

今回の頼総は、その頼玄の弟・頼慶(よりよし)の孫に当たります。

そんな頼総は、永禄九年(1566年)、いきなり加賀一向一揆の総大将として登場します。

そう、この頃は、加賀(石川県)に発生した本願寺門徒の王国(6月9日参照>>)が越前に進攻するのと、それを阻止しようとする朝倉が真っ向からぶつかっていた時代・・・(8月6日参照>>)

この永禄の頃には、すでに半世紀ほど続いていた一向一揆と朝倉の戦いでしたが、ここに来て、朝倉氏当主の朝倉義景(よしかげ)自らが出馬し、その境界線を半国ほど押し戻したばかりで、この一報を聞いた本願寺側が、多くの宗徒を加賀に派遣するも、なかなか戦況が好転していなかったのです。

そこで、本願寺の本拠地=大坂・石山本願寺から頼総が派遣されて来たというワケです。

この時、頼総は、京都の吉田家に依頼して、桔梗を描いた家旗と先懸け旗を授かって現地に向かったとか・・・この両旗をひるがえしての堂々の加賀入りは、本願寺門徒を大いに活気づけました。

これで、士気が高まったのか?
頼総の采配が冴えていたのか?

彼の参戦と同時に形成は一向一揆に傾き、境界線は一気に以前の国境付近へと挽回・・・さらに永禄十年(1567年)には、越前国内へも進攻しました。

しかし、その同じ年、将軍・義昭の仲裁により、一向一揆と朝倉氏は一時休戦・・・さらに、そうこうしている間に、あの共通の敵の出現によって、永禄十二年(1569年)には、敵の敵は味方とばかりに完全に和睦しました。

その共通の敵は、もちろん信長です。

やはり、信長を共通の敵と考える、かつての畿内の覇者=三好三人衆(9月29日参照>>)の蜂起に触発されるかのように元亀元年(1570年)9月、石山本願寺は信長との徹底抗戦を決意・・・石山合戦の勃発です。

Isiyamahonganzimokei800 本願寺模型(大阪歴史博物館)

すでにその6月の姉川の合戦(6月28日参照>>)にて、信長に敗北を喰らっていた浅井・朝倉ですが、その後、延暦寺の保護受けて態勢を立て直し、再び、坂本付近まで出兵し、11月26日、両者は、琵琶湖の西岸・堅田でぶつかります(11月26日参照>>)

この時、浅井・朝倉に呼応するかのように参戦した石山本願寺の総大将は、もちろん、頼総・・・経験豊富な戦国武将にまじっても退けをとらないその堂々たる武将ぶりは、通り道となった山崎などに与えた禁制の発給の文面からも読み取れます。

とは言え、その堅田の戦いのページにも書かせていただいたように、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇綸旨(りんじ・天皇家の命令)により、この時の抗戦は、12月には休戦となります。

しかし、その休戦はまもなく打ち破られ、翌・元亀二年(1571年)5月には、信長は長島の一向一揆(5月16日参照>>)との交戦に挑みます。

さらに7月には、本願寺の南近江の守りの拠点とも言える金ヶ森(かねがもり・滋賀県守山市)を包囲・・・

この時、籠城戦に持ち込む城将・川那部秀政(かわなべひでまさ)でしたが、信長勢は四方を苅田して圧力をかけ、孤立した金ヶ森は、やむなく、人質を差し出して降伏しました。

そして9月には、あの比叡山を焼き打ち(9月12日参照>>)・・・

ところが・・・です。

元亀二年(1571年)12月9日興福寺一条院の坊官・二条宴乗(えんじょう)の日記は、驚いた様子で、いきなりの大坂の異変を伝えます。

「河那部左衛門大夫、本願寺ヨリ ショウカヰ(生涯)、丹後も寺内ヲいらハれ候(そうろう)よし」

この丹後というのが頼総、その人です。

そして、その前に登場する河那部左衛門大夫という人物・・・この人は、かの金ヶ森の川那部秀政と同一人物か、もしくは、近しい姻戚関係にある人物とされています。

その河那部左衛門大夫が自害させられ、頼総が寺内退去処分・・・という事は、かの金ヶ森の責任を取らされたという事でしょうか?

くわしい記録がないため、不明ですが、頼総もその金ヶ森の戦いに参戦していたという事かも知れません。

しかし、一方では、この直前の11月24日付で顕如が、浅井・朝倉氏宛てに送った書状には、その添え状として頼総の書状がある・・・

つまり、11月24日には、まだ、本願寺の武闘派の代表として顕如のそばにいた頼総が、12月9日には寺内退去=事実上の追放となるわけで、この退去処分は、突然発せられたという事になります。

なにがどうなって???と、その経緯を解明するためには、新たな文書の発見を待つしかないようなのですが、事実上、ここで、本願寺追放となった頼総・・・その後の事は、まったくわからず、行方不明という事になってしまいます。

こうして、ここまで本願寺の武闘派の部分を一身に背負っていた下間氏も、その後は、本願寺の坊官としてだけ生き残ります。

いったい11月24日から12月9日の間に何があったのか???
ぜひとも知りたい、今日この頃・・・
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2010年12月 8日 (水)

たった一度の合戦記録~信長の側近・万見重元

 

天正六年(1578年)12月8日、戦国時代、織田信長小姓から側近となって活躍した万見重元が、有岡城の攻防戦で討死しました。

・・・・・・・・・・

小幡織田氏の出身とも、神子田(みこだ)長門守の息子とも伝えられる万見重元(まんみしげもと)は、あの織田信長のもとで、小姓から側近へとなった人物・・・

今で言えば、内閣官房長官に相当するような重要な役どころをこなしていた武将ですが、その記録は、亡くなる前の3年間ほどしかなく、その中でも、ほとんどが、この亡くなる年の物で、それ以前の彼については、未だ謎多き人です。

ただ、それらの記録によれは、最後まで、幼名の仙千代(せんちよ)という通称を名乗っている事から、おそらくは、年齢的には、かなり若い人物ではないかと・・・

それゆえか、ほとんどの仕事が、いわゆる事務方の仕事内容です。

矢銭(軍事税)の徴収に関する指示を出したり、信長のもとに来訪した使者のおもてなし役をやったり、信長が大好きな相撲大会のダンドリを組んだり・・・

さらに、これから攻めるべき城の検使を行いつつ、その事前準備として砦の構築を指示したりという合戦に関する仕事も行っています。

後々の歴史を見てみると、あの石田三成を思い浮かべてしまうので、ひょっとしたら、合戦の最前線で活躍する武闘派の武将から見れば、少々煙たい存在だったのかも知れませんが、それだけ、若いながらも知略に優れていた人物と言えるかも知れません。

他にも、重元が畿内の諸将に送った手紙には
「上様(信長の事)の御気色(おけしき)伺い、披露いたすべく候(そうろう)
との文章も見え、信長の機嫌を見ながら、うまく立ち回りつつ、畿内の諸将との様々な取り継ぎを行っていた事がうかがえます。

そんな重元に運命の指示が下ります。

ご存じ、天正六年(1578年)の10月に、信長に反旗をひるがえした有岡城・城主の荒木村重(12月16日参照>>)・・・そのページでも書かせていただいたように、村重の謀反を知った信長は、けっこう気長に、何度も籠城をやめるように説得をしています。

この村重への説得役となって、明智光秀とともに有岡城に交渉に向かったのが仙千代こと重元でした。

しかし、村重の気持ちはいっこうに揺らぐ事なく、それどころか、11月には、やはり説得に赴いた黒田官兵衛(孝高・後の如水)監禁する始末・・・

とは言え、この時点では、交渉に行ったまま帰らない官兵衛の事を「監禁されている」ではなく「村重側に寝返った」と思った(10月16日参照>>)信長は、村重の籠城開始から2ヶ月たった12月、有岡城への総攻撃を決意します。

Tensyou6arioka800 天正六年の伊丹・有岡城周辺(伊丹荒木軍記・伊丹市博物館蔵)

天正六年(1578年)12月8日、この時、まず命令が下ったのは重元・・・そして堀秀政(ほりひでまさ)菅屋長頼(すがやながより)らの鉄砲隊による総攻撃でした。

そして・・・鉄砲による攻撃で、文字通り火ぶたを切った城攻めの、次に迎える山場は・・・そう、石垣攻めです。

籠城戦の一般常識として、籠城する側の兵数が少なく、攻める側の数は多い(籠城側の数が多い場合は、籠城する前に撃って出ますから・・・)、この時は、アリが食べ物に群がるように、石垣によじ登って一番乗りを競うというのが鉄則です。

しかし、秀政や長頼は、すでに戦争経験豊富な武将でしたが、本日の題名にある通り、重元の合戦記録は、この日の記録、ただ一つ・・・その若さゆえ、功名にはやったのでしょうか、この石垣にて、敵の逆襲に遭い、重元は討死するのです。

その記録を見る限り、おそらくは、この先も生きていれば、信長の名軍師と称される人物になっていかも知れません。

重元の死から4年後に起きる、あの本能寺の変(6月2日参照>>)・・・歴史にもしもは禁物ですが、
あえて・・・
もし、彼がそばにいたら、あの夜の光秀の動きを察知していたかも知れませんね。
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2010年12月 7日 (火)

日本初の女優・川上貞奴

 

昭和二十一年(1946年)12月7日、明治・大正・昭和に生き、日本初の女優と言われる川上貞奴が、75歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

明治四年(1871年)、東京は日本橋の質屋の娘として生まれた小山貞(こやまさだ)でしたが、7歳の時に、実家の商売がたち行かなくなり、(よし)の芸者置屋「浜田屋」浜田屋亀吉の養女に出されました。

以来、厳しく芸を仕込まれる貞でしたが、持ち前の負けん気とその才能でみるみる上達し、伝統ある「奴(やっこ)という名を襲名・・・整った容姿と見事な踊りで、またたく間に人気芸妓としてのトップの座を獲得します。

時の総理大臣・伊藤博文や、あの西園寺公望(さいおんじきんもち)も彼女をごひいきにしていたというのですから、まさに日本一の芸妓・・・

やがて、当時、♪オッペケペー節♪で人気絶頂だった壮士芝居(そうししばい・自由民権運動を広めるための芝居)川上音二郎と出会い、明治二十七年(1894年)に結婚しました

しかし、時代の寵児ともてはやされた川上一座の人気も、まもなく下降気味になって収入減・・・しかも、夫・音二郎が衆議院選挙に出馬するも落選し、さらに借金まみれとなってしまいます。

「もう、日本では稼げない!」
とばかりに川上一座は、その活路を海外に見い出し、明治三十二年(1899年)、夫とともに一座を引き連れ、アメリカへと渡った貞・・・

しかし、到着したサンフランシコで女形が死亡・・・しかも、「舞台に立つのは男」という観念がある日本と違って、「女の役は女がするもの」というのが常識の海外では、女優のいない劇団など、興行師も相手にしてくれませんでした。

でも、もともと男だけの一座・・・女優なんているわけもありませんから、しかたなく、これまで裏方に徹していた貞が代役を務める事になりました。

Sadayakko700 この時、彼女は、本名の「貞」と、芸妓名の「奴」を合わせて「貞奴(さだやっこ)という名で、日本初の女優として舞台に上がったのです。

続くシカゴ公演での彼女の日本舞踊・・・未だ見ぬアジアのエキゾチックさで、見事、アメリカ人を魅了します。

さらに一座は、ヨーロッパへ・・・

ロンドンではバッキンガム宮殿に招かれ、万国博覧会で盛り上がるパリ公演でも「マダム貞奴」として人気を博し、当時のパリの社交界では、着物風のドレスが「ヤッコドレス」と呼ばれて大流行したのだとか・・・

こうして、世界的人気の女優として帰国する彼女でしたが、日本で女優を続けるつもりはなく、以前同様、裏方に徹するつもりでいました。

しかし、世間は彼女をほっときません。

その声に応えて、明治三十六年(1901年)、シェークスピア「翻訳オセロ」にて、31歳の彼女は日本での初舞台を踏みました。

もちろん、この公演は大成功・・・町には、彼女の肖像を描いた広告ポスターが溢れかえり、一大ブームとなります。

さらに、この勢いに乗って、明治四十一年(1908年)には、音二郎とともに、後進を育成するための帝国女優育成所を設立・・・初代・校長に就任します。

しかし、明治四十四年(1911年)、夫・音二郎が亡くなったと同時に、世間の風は一変します。

夫の遺志を継いで、一座を率いて各地を巡業する彼女に、演劇界やマスコミのバッシングが始まるのです。

この時代は、夫を亡くした後家さんが、なんやかやと表舞台に出る事がバッシングの対象となったようですが・・・

時代の寵児とさんざんにもてはやしておいて、何かをきっかけに、一気に落としにかかる・・・なんだか、100年経っても、いっこうに変わっていないようで、寂しい気持ちになりますが、そんなマスコミに踊らされている自分も、やや反省・・・

結局、貞奴は大正六年(1917年)の「アイーダ」を最後に、女優引退に追い込まれます。

引退した翌年、名古屋に「川上絹布株式会社」を設立して、その後は実業家としても活躍する彼女ですが、この時、実業界のパートナーとして彼女をサポートしたのが福沢桃介という人物でした。

実は彼女・・・音二郎に出会う前に、キョーレツな悲恋を味わっています。

それは、彼女がまだ15歳の乙女だった頃、馬術を楽しんでいた時に、突然野犬に襲われところを、18歳のイケメンで慶応義塾の学生だった桃介が助けた・・・という、まるでおとぎ話のお姫様のような出会い・・・

またたく間に恋の落ちる二人でしたが、悲しいかな、彼は、貧しい農家出身の貧乏学生で彼女は芸妓・・・

わずか1年の恋の終わりは、桃介の結婚とともに訪れます。

成績優秀で男前な彼を見込んだ、あの福沢諭吉から「娘の婿に・・・」との要望を受けたのです。

明治という時代、当時の二人の立場からみれば、致し方ないところであります。

しかし、今回は、時代も立場も違います。

実業家・桃介が「日本の電力王」呼ばれるようになる大正九年(1920年)頃、二人は同居を始め、芸妓から女優となった貞の社交的な振る舞いにより、名古屋の邸宅は、さながら政財界の大物が集うサロンようだったと言います。

やがて昭和二十一年(1946年)12月7日、すい臓がんによって75歳の、まるでドラマのような人生を終える貞奴ですが、8年前に亡くなった桃介とは、最後まで恋人どうしのような仲睦ましい間柄だったとか・・・

彼女が切り開いた女優という職業への道・・・

帝国女優育成所が設立された際、開所式に呼ばれたあの渋沢栄一は、そこに、多くの弁護士や代議士の令嬢がいた事を知り、
「300年の長きに渡って卑しめられてきたのは、実業家と女と役者である。
 皆さんは、そんな女でありながら、さらに役者を目指すと言う・・・同じ境遇の実業家として、私は大いに味方したい」

と演説したのだとか・・・

そうです、
江戸時代・・・商人は、何を生産する事もなく、右にある物を左に渡すだけで金を儲ける悪人とされ、役者も、町から町へ渡り歩く流浪の者とされました。

しかし、今や「スター」と呼ばれて憧れの眼差しを一身浴びる女優さん・・・そんな彼女たちの道を切り開いたのが、川上貞奴なのです。
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2010年12月 6日 (月)

幕末・維新の激流の中…国父・島津久光の泳ぎ方

 

明治二十年(1887年)12月6日、幕末期の政情に深く関わった薩摩藩の国父・島津久光が、71歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

ともに、第10代藩主・島津斉興(なりおき)の息子でありながら、正室の(いよ)を母に持つ兄・斉彬(なりあきら)が、江戸藩邸で生まれ育ち、将来の藩主候補として徹底的な帝王教育を受けたのに対し、8歳年下の弟・島津久光(ひさみつ)は、母がお由羅(ゆら・由良)という父の側室であったため、ず~っと鹿児島育ちの身の上でした。

Simaduhisamitu600 20歳の時に重富島津家千百子(ちもこ)の婿養子となり、以来、鹿児島城を出て重富邸に住み、その家督を継ぎました。

しかし、ここに、父・斉興の後継者問題が勃発します。

・・・というのも、父・斉興がなかなか隠居せず、藩主という地位に居続けた事で、兄の斉彬は40歳になっても未だ世子のままだったので、ず~っと江戸藩邸暮らしで、一度も鹿児島に来た事がなかったのです。

確かに、英明だともっぱらの噂ではある江戸の斉彬ですが、一方の鹿児島では、そばにいる優秀な後継者=久光を次期藩主に・・・という声が出て来るようになったのです。

しかも、このタイミングで斉彬の子供たちが次々と亡くなるという出来事が起こり、斉彬を支持する者たちからは、「お由羅が、我が子を藩主にしたいために呪いをかけている」との噂が急上昇・・・斉彬派は、久光を推す側近らの暗殺計画まで立てていたのだとか・・・

世に言う「お由羅騒動」ですが、結局この問題は、幕府老中の阿部政弘が間に入り、嘉永四年(1851年)に、斉興=隠居、斉彬=11代藩主という事で決着します(12月3日参照>>)

そんなこんなで藩主となった斉彬ですが、ご存じのように、この斉彬さんが、幕末屈指の名君との評判高く、薩摩藩の近代化に努める一方で、中央でも力を持つようになりますが、そんな中で起こったのが、例の次期将軍問題・・・

第13代将軍・徳川家定の後継に、紀伊家茂(いえもち・当時は慶福)か、水戸の徳川斉昭の息子で一橋家を継いでいる慶喜(よしのぶ)か・・・というアレです。

慶喜を推す斉彬は、その主張のために兵を率いて上洛する計画を立てていたとも言われますが、残念ながら、そんな矢先に急死してしまいます(7月16日参照>>)

死の直前・・・斉彬は、次期藩主に久光の息子・茂久(もちひさ・後の忠義)を、久光は、その後見人となって采配を振るうよう藩の未来を託したのだとか・・・

結局、江戸の将軍就任も家茂に決定し、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)によって、あの安政の大獄(10月7日参照>>)が実施されます。

この急展開に、斉彬の下で頭角を現しつつあった西郷隆盛自殺未遂するし(11月16日参照>>)大久保一蔵(後の利通)倒幕のために脱藩しようとするし・・・大慌ての久光は、「兄貴の遺志を継いで頑張るさかいに!」と、なんとか彼らの動きを止めました。

しかし、今度は、その井伊直弼が桜田門外で暗殺され(3月3日参照>>)・・・「これで、全国の尊王攘夷派が巻き返してくるかも知れない」とばかりに、中央では、公武合体(朝廷と幕府が協力)が急がれるようになり、その象徴とも言うべき、将軍・家茂と、孝明天皇の妹・和宮結婚が決まりました(8月26日参照>>)

この公武合体に尽力していた久光は、無位無官の陪臣(ばいしん・直臣ではなく家来の家来)でありながら、幕府の人事にも口出すほどの存在となり、文久二年(1862年)、1000人余りの兵を率いて上洛します。

しかし、一方で、未だ残る薩摩藩内の尊王攘夷派は、この久光の上洛を機会に薩摩藩の方針を一気に尊攘派へ傾けようとの計画を練ります。

この計画を阻止しようとして、薩摩藩士が薩摩藩士を殺害するという騒動・・・これが、あの寺田屋事件です(4月23日参照>>)

国父(藩主の父)自らが、藩士を討つ命令を出すという荒療治ではありましたが、この行動によって朝廷内の公家たちからの信頼をも勝ち取った久光・・・孝明天皇の命を受け、その足で江戸城へと向かい、慶喜の将軍後見職松平春嶽(しゅんがく・慶永)政治総裁職を任命するという政治改革をも行います。

まさに、久光絶頂の時・・・ですが、ここで急展開!

その江戸からの帰り道、久光の行列を横切った外国人たちを無礼撃ちした・・・そう、あの生麦事件(8月21日参照>>)です。

これをきっかけにイギリスとの間で勃発した薩英戦争(7月2日参照>>)・・・結果的には引き分けとなったこの戦いですが、西洋の先進技術を目の当たりにした薩摩は、逆に、イギリスの援助を受けながら藩の武力増強をはかる道へと進み始めます。

この間に八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央政界から追われた長州藩が、巻き返しをはかって大挙押し寄せた禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・

この結果行われた第1次長州征伐では、幕府側にたっていた薩摩藩も、徐々に、その姿勢を変えつつあり、このあたりから、未だ公武合体の夢を捨てきれない久光は、だんだんとカヤの外の置かれるようになり、主導権は西郷隆盛ら志士と呼ばれる人たちに移っていきます。

やがて、西郷らの手によって結ばれる薩長同盟(1月21日参照>>)・・・その後に行われた第2次長州征伐には、表立って参加しなかった薩摩ですが、その長州の処分をめぐっての会議では、家茂亡き後、すでに将軍となっていた慶喜に、長州の冤罪解消を訴える久光でしたが、その願いは一蹴されてしまいます。

この時、遅ればせながら、やっと久光も武力倒幕路線へと切り替えたのです。

やがて、慶喜が大政奉還を決意した、その日、薩摩には討幕の密勅が下され(10月13日参照>>)、こうして、久光は維新を迎える事となります。

生前の兄・斉彬は、弟の久光を勝海舟に紹介する時、
「ちっちゃい時から勉強家で、その博識ぶりは僕なんか到底及ばんマジメ人間ですわ」
絶大なる信頼を置いて紹介しています。

おそらくは、久光さん自身も、なかなかの人物だったと思います。

しかし、名君と呼ばれた兄の陰で、ひょっとしたら、その後を任されたプレッシャーという物もあったのかも知れません。

その兄に追い付きたい!追い越したい!と奔走する中で、世の中は予想以上の速さで展開し続ける・・・

さらに維新が成った後、評価されるのは、兄の行った産業文化政策や西洋技術の導入であり、最後まで西洋文化に馴染めなかった久光は、むしろ、薩摩の歩みを止めた人と称される・・・

新政府の中心人物を輩出しておきながら、廃藩置県のニュースを正式発表まで、聞かされていなかったという久光さん・・・その時彼は「西郷と大久保に騙された」と言ったとか・・・

それでも、中央政府に呼ばれて、明治六年(1873年)からは内閣顧問左大臣なども務めましたが、やはり、西洋風な新政府の運営には馴染めず、まもなく鹿児島へ帰って隠居し、郷土史の研究に没頭する毎日だったとか・・・

こうして明治二十年(1887年)12月6日久光は、波乱万丈の生涯を終えました。
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2010年12月 5日 (日)

賊軍の会津藩主・松平容保が残した物は

 

明治二十六年(1893年)12月5日、幕末に京都守護職となって京都の治安維持に努め、その後、会津戦争にて官軍に敗れた会津藩主・松平容保が59歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

・・・と、これまで、会津戦争については、上記の通り、いくつか書かせていただいていますので、本日は、その後の松平容保(かたもり)さんについて・・・

慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、降伏謝罪状を、新政府軍の軍監・中村半次郎(後の桐野利秋)に提出した容保は、城中の藩士に見送られ、一旦、滝沢村妙国寺に入りました。

その後、一命を助けられ、10月中旬には、すでに東京と改称されていた江戸在沖の鳥取藩主・池田邸永預けとなりますが、翌年には、罪は謹慎に減じられます。

そして、ご存じのように、実子である松平容大(かたはる)家名再興が認められ、会津藩は斗南(となみ)と名を変えて、極寒の地・下北半島に3万石を与えられました。

しかし、以前も書かせていただいたように、当時の下北は、未だ寒風吹きすさぶばかりの未開の荒地・・・この移転は「全藩流刑」と称されたほど過酷な物でした。

かつての家臣たちが北の果ての地で苦労をしている事を伝え聞いた容保の胸中はいかばかりであったでしょうか・・・

やがて明治五年(1872年)、謹慎を解かれた容保は、その8年後の明治十三年(1880年)2月、日光東照宮の宮司となりました。

この宮司時代には、参拝に訪れた徳川慶喜(よしのぶ)との再会もあったと言いますが、果たして、どのような心境だったのか???

・・・と、「胸中はいかばかり」とか、「どのような心境だったのか?」とか、曖昧な表現となってしまいましたが、そんな風にしか書けないほど、容保は、幕末の頃の事を、多くを語る事なく明治二十六年(1893年)12月5日、東京の小石川にて、59歳の生涯を閉じたのです。

ただ一つ・・・容保が、入浴の時以外は、肌身離さす持っていた小さな竹筒を残して・・・

亡くなった後、遺族によって明らかにされたその竹筒の中身は・・・
文久三年((1863年)10月9日付の、第121代・孝明天皇宸翰(しんかん・天皇の直筆文書)でした。

Koumeitennousinakan1 宸翰・写本(会津若松市蔵)

「堂上(とうしょう)以下 異
 論を陳
(の)べ 不正の処置
 増長につき 痛心に堪え難く
 内命を下せし処
(ところ) 速やかに
 領掌し 憂患掃
(ゆうかんそう)
 (じょう) 朕(ちん)の存念貫徹
 の段 全く其の方の忠誠にて
 深く感悦の余り 右
 壱
(いち)箱之(これ)を遣(つか)わすもの也り」

つまり・・・
「確かに、外国には出てってほしいって思うねんけど、三条実美(さねとみ)とかが、何やら長州藩と組んでたくらんでる事って、ちょっと過激すぎる気がするねん…あんなん耐えられへんわぁ」
と、孝明天皇が日ごろから漏らしていた中、中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王(2009年8月18日参照>>)と会津藩・薩摩藩が組んで、朝廷内の過激な尊攘派を一掃した、あの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)・・・

この宸翰は、そのクーデターを決行して成功させてくれた容保に
「ホンマ、願いを叶えてくれてアリガトゥー…これも、君の忠誠のたまものやで、感謝してるで」
と、送った手紙なわけです。

これとともに・・・
♪たやすかざる 世に武士(もののふ)の 忠誠の
 こころを よろこびてよめる ♪
♪和
(やわ)らぐも たけき心も 
 相生
(あいおい)のまつの落葉の
 あらす栄へむ
 武士と心あはして いはほをも
 つらぬきてまし 世々のおもひで ♪

という2首の歌も与えています。

しかし、この2年後、孝明天皇は突然崩御し、その後を継いだ新天皇は、幕府を、そして会津を朝敵(国家の敵)として討伐命令を下します。

この時、会津藩は、まずは恭順の姿勢を取り、謹慎処分を願う嘆願書に、この宸翰の写しを添えて、官軍となった諸藩に提出しています。

しかし、それらはすべて、握り潰されました。

倒幕を掲げる薩長にとって、会津は、天皇に刃向かう賊軍でなければならなかったわけです。

それでも、後世の人間から見れば、「もっとうまく立ち回っていたなら、多くの犠牲者を出さずにすんだのに・・・」と、最後まで貫き通した容保の姿勢に苦言を唱える人も多いでしょう。

結局、多くの犠牲者を出しながら、張本人の彼は生きのこっていたわけですし・・・

越前(福井県)松平春嶽(しゅんがく・慶永)なんかも、自らは幕府内に力を持っているにも関わらず、会津藩祖の保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の家訓をたてに、容保にヨゴレ役の京都守護職を押し付けておきながら、ヤバくなったらおとなしく引き下がる・・・

あの慶喜だって、大坂城にてヤル気満々ぶりを見せておきながら、敗戦となった途端に、トカゲのしっぽ切りのように、会津の容保を孤立させて、自らは、ただひたすら恭順に・・・

そんな中で、不器用なほど忠誠を貫き通した会津の方針が、容保の本心だったのか、周囲に流された結果なのかは、ご本人のみの知るところですが、そんな彼が、この宸翰を、肌身離さず持ち続け、決して処分しようとは思わなかったわけで・・・

そこには、いつか、この書簡の内容が明らかになり、会津の家臣たちが朝敵として死んでいったのではない事が証明される日を待ち望んでいた彼がいたのかも知れません。

♪今もなほ したふ心は かはらねど
 はたとせあまり 世は過ぎにけり ♪

「今も、
(亡くなった家臣たちを)慕う気持ちは変わらないのに、もう20余年も過ぎてしまった」

これは、容保が亡くなる3年前、戊辰戦争戦没者招魂碑が建てられる事になった澄月寺(ちょうげつじ)にて戦没者の23回忌が行われた時に、容保が詠んだ歌・・・

おそらくは、首から下げた竹筒を握りしめるたび、彼には、口には出せない思いがあった事でしょう。

それは、亡くなるその日まで、終始変わる事はく・・・
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2010年12月 3日 (金)

北野天満宮「御土居=もみじ苑の公開」に行ってきました

 

一昨日、京都は北野天満宮「御土居の公開」に行ってきました。

Tenmanguodoi2a800 「御土居(おどい)とは、天下を取った豊臣秀吉が、自らが政務を行い、かつ居住する場所として建設した聚楽第(じゅらくだい)を中心に、寺町や地割など、京都の町の整備事業の一環として都を囲むように構築した土塁です。

その外側には堀があったとして「御土居堀(おどいぼり)とも呼ばれます。

Zyurakudaitizuccその目的は、
守るに弱い京都という町を高い塀で囲んで、一大城郭都市にしようとしたとも言われていますが、そのワリには、土塁の上には竹が植えられていて、櫓などを設置した形跡もなく、これだけの大事業にも関わらず、秀吉が何のために構築したのか?という記録も残っていないというワクワクするようなシロモノです。

しかも、徳川家康の天下となった後、出入口部分が壊されたため、用をなさなくなった御土居は、人々から忘れ去られ、次第にその形を亡くし、今や、ごくわずかな部分しか確認できないという状態・・・

北野天満宮の御土居は、この北西のあたりの部分となります。
Dscn8268a800 (*東の端の廬山寺(ろざんじ)境内の御土居も、なかなかキレイに残ってます←写真)

 

 
そんなこんなで、歴史好きにはたまらないミステリー満載の場所ですが、実は、ここが、京都屈指の紅葉の名所なんですね~

Tenmanguodoipa1000  こうして下を見ると、けっこうな高低差がある事がわかります

この季節、御土居も良いけど、深い事考えずに、目にしみる紅葉を楽しむのもアリです。

今回は、もうピークも過ぎてしまったので、それほどの期待もせず、個人的には御土居見たさに訪れた北野天満宮でしたが、どうしてどうして!メチャメチャきれいでしたよ!

Dscn3002a800

しかも、その御土居との高低差が、山の雰囲気をかもし出してくれていて、平坦な街中にある紅葉というよりは、どこかの山の懐のような錯覚さえ覚える風景となっています。

Dscn2998a600 「御土居=もみじ苑」の公開は12月12日まで、
10時~16時、
入園:600円で、入園券はお茶菓子の引換券にもなっており、セルフサービスながら縁台に座ってのお茶のひとときを楽しめます。

 

 
この秋、紅葉狩りがまだの皆さま、あと2~3日なら、まだイケるかも知れません。
オススメですよ~
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2010年12月 2日 (木)

国人から戦国大名へ~毛利元就を支えた国衆

 

弘治三年(1557年)12月2日、毛利元就が重臣とともに傘連判による契状をしたため、安芸と備後の国衆との連帯を強めました。

・・・てな事で、本日は、土着の国人から西国の雄へと変貌する毛利元就(もうりもとなり)の支えとなった、その家臣団についてご紹介させていただきましょう。

・・・・・・・・・・

そもそも元就は、父・毛利広元(ひろもと)の次男として生まれたので、毛利家の後継ぎではありませんでした。

やがて父が、長男の興元(おきもと)に家督を譲って引退すると、父とともに本拠地の安芸(あき・広島県西部)郡山城を出て、多治比(たじい)猿懸(さるがけ)に引っ込みました。

しかし、その父は永正三年(1506年)、元就がまだ10歳の頃に亡くなってしまいます。

以来、父の隠居後の所領を継いで「多治比殿」と呼ばれた元就・・・この頃の元就の家臣は、平佐元堅(ひらさもとかた)など、ごく少数しかしませんでした。

その10年後、兄・興元が24歳の若さで亡くなり、その息子・幸松丸がわずか2歳で家督を継ぎます。

これを受けて、21歳になっていた元就は、幸松丸の後見人という形で、ようやく表舞台に登場する事となり、華やかな初陣を飾る(10月22日参照>>)事になるのですが、ここでも、毛利家譜代の家臣は、あくまで主君である幸松丸の家臣という事になりますので、庶家の立場である元就の家臣は、それほど多くはなかったのです。

しかし、結果的には、それが功を奏したとも言える事に・・・実は、この時代に、後に元就を支える家臣たちが続々を集まっているのです。

たとえば、後の毛利五奉行の一人・児玉就忠(こだまなりただ)などは、安芸国賀茂郡地頭の息子で、若い頃から元就に奉公し、一人前の武将となるべき訓練の受けた人物・・・つまり、元就のもとでは、譜代の家臣が少ないぶん、これまでの系譜や家柄にこだわらず、実力さえあれば、上へ上へとのしあがっていく事ができたのです。

そうなれば、自然と、「我こそは!」と思う優秀な者が集まってくるのは当然ですよね。

そして大永三年(1523年)、今度は、かの幸松丸が、わずか9歳で病死してしまい、元就が毛利家を継ぐ事になり郡山城に入城します。

この時、元就を支えたのは、広元・興元・幸丸の3代で執権を務めた志道広良(しじひろよし)
「(3月19日参照>>)など、親類に当たる家臣たちでした。

しかし、この毛利家を元就が継ぐ事を、多くの譜代の家臣たちが賛成していたとは言え、未だ反対意見もあり、一枚岩とはいかなかったのです。

それは、元就の異母弟の相合元綱(あいおうもとつな)・・・彼を後継者に推す声が一部にあったのです。

しかし、それを押さえつけてくれたのが、父・広元の時代に頭角を現して来た井上元兼(もとかね)とその一族・・・しかし、これが、押さえつけてくれたがは良いが、その功績により、あまりにも特出した力を毛利家内で握ってしまいます。

「このままでは、こっちがヤバイ(;´Д`)
と思った元就・・・天文十九年(1550年)、井上一族を排除し、その家臣・238名に、元就に忠誠を誓う連署起請文を提出させて、やっと毛利家内を一枚岩にする事に成功しました。

このように形成された毛利家の家臣団は「吉田衆」と呼ばれましたが、この時点では、毛利は、未だ大内氏の配下にある安芸・備後(びんご・広島県東部)国衆のうちの一人でしかありません。

国衆とは、室町時代の地頭・御家人の系譜を引く国人領主・・・ここらたりから、同格である彼らから一歩抜きん出た元就・戦国大名への道が始まります。

自立意識の高い国人衆を毛利の支配下に置くために元就がとった作戦は、婚姻や養子縁組による強固な関係を築く事・・・

元就の次男・元春吉川家に、三男・隆景小早川家(9月27日参照>>)・・・って話は有名ですが、この二人以外にも、四男・元清に伊予水軍配下の来島通康(くるしまみちやす)の娘を娶らせて穂田資元(すけもと)の養子に、五男・元秋椙社家(すぎのもり・周防国)に、六男・元倶(もととも)出羽家(いずは・石見国)に、七男・元政天野家(あまの・安芸国)にと、子だくさんフル活用で、養子に送り込んでいます。

また、自らの娘を安芸五龍城主の宍戸隆家(ししどたかいえ)に嫁がせ、二人の間にできた娘を、孫の輝元の嫁にするといった相互関係の構築も・・・

こうして、徐々に国衆の中での地位を獲得していく元就は、やがて周囲の国衆への軍事指揮権も行使できるようになり、いよいよ天文二十三年(1554年)、それまでは、持ちつ持たれつの関係にあった陶晴堅(すえはるかた)と決別し(4月8日参照>>)、翌年には、あの戦国三大奇襲=厳島の戦い(10月1日参照>>)で、その実力を見せつけます。

とは言え、これらの国衆は、あくまで独立した存在で、いざ合戦となった時、どれくらいの軍勢を率いて参戦するかには明確な基準もなく、その都度、毛利と各国衆の間で、個別な協議が行われて決定されていたのです。

つまり、まさかに時の為に、日ごろから国衆との関係を良好に保つ必要があったわけです。

しかし、弘治三年(1557年)2月19日に毛利が攻撃した周防(山口県)須々万沼(すすまぬま)の攻防戦では、小早川家以外の国衆の軍勢の数は、元就の家臣団よりも少なかったのだとか・・・

弘治三年(1557年)12月2日に行われた(からかさ)連判による契状は、その連帯の再確認・・・こうして、常に子に衆との連携を強めておく事こそ、西国に君臨した毛利家の土台となっていたというわけです。
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2010年12月 1日 (水)

右近衛大将を3日で辞任した源頼朝の思惑

 

建久元年(1190年)12月1日、前年に奥州藤原氏を倒した源頼朝が右近衛大将および権大納言に任じられました。

・・・・・・・・・

ご存じ、壇ノ浦で平家を滅ぼし(3月24日参照>>)、その後、合戦に功績のあった弟・源義経(よしつね)追放し(10月11日参照>>)、今度は、それをかくまったとして、奥州平泉に文句をつけた源氏の棟梁・源頼朝(みなもとのよりとも)・・・

Yoritomocc そんな頼朝が、約100年・4代に渡って奥州に君臨した、その藤原氏を攻め滅ぼしたのは、文治五年(1189年)秋の事でした(8月10日参照>>)

そして、あの征夷大将軍に任命されるのが、ご存じ建久三年(1192年)・・・

以前は、これを鎌倉幕府の成立として、「イイクニ(1192)造ろう鎌倉幕府」との語呂合わせで覚えるのが定番でしたが、最近では、すでにそれ以前に、頼朝政権の関東での支配が行われていたとして、「イイハコ(1185)造ろう」と覚えるそうで・・・

・・・で、この頼朝さん、冒頭に書かせていただいた通り、征夷大将軍に任命される2年前の建久元年(1190年)12月1日右近衛(うこのえ)大将と権大納言に任じられていました。

ところが、その在任期間はわずか3日・・・そう、この12月4日には右近衛大将を辞任しちゃいます。

なぜに???

実は、この時、すでに頼朝は、征夷大将軍が欲しかったのです。

いや、厳密には、この時じゃありませんね~
あの、打倒平家を夢見て伊豆で挙兵したあの日(8月17日参照>>)から、平家の次は奥州と心に決めていたのかも知れません。

それは、約100年前にさかのぼります。

そもそもは、蝦夷(えみし)という差別用語で呼ばれ、長きに渡って中央政府に敵対していた東北地方を、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平定しますが(11月5日参照>>)、そこに先住していたすべての人が滅ぼされたわけではなく、多くの子孫は日本名を名乗り、中央の傘下として同化する事で生き残ってきたわけです。

それが、安倍氏清原氏・・・そこに、中央から、統治あるいは監視役のような形で派遣されていたのが源頼義(よりよし)であり、その息子の源義家(よしいえ)というわけです。

義家は、八幡太郎という名でよく知られる源氏きっての猛将ですが、その名でおわかりの通り、頼朝の4代前の曽々ジッチャンに当たります。

その頼義の時代に、反乱を起こしたとして安倍氏が滅ぼされた戦いが前九年の役(9月17日参照>>)と呼ばれる戦いで、残った清原氏の内部抗争が後三年の役・・・

・・・で、この時、後三年の役に参戦した義家が、「私的なお家騒動に中央政府から派遣されている者が関わった」として、陸奥(むつ)の国司を解任されてしまい、残った清原氏の清原清衡(きよはらのきよひら)が、父方の藤原姓を名乗り、火事場泥棒的に統治を開始・・・これが、奥州藤原氏の誕生となったのです(11月14日参照>>)

つまり、その義家の直系子孫である頼朝からみれば、
「ホンマやったら、ここ(東北)は俺らが統治する場所やんけ!」
との思いがあるわけです。

そして、例のごとく、治承四年(文治元年・1185年)、平家を滅ぼした頼朝・・・いよいよ奥州に手を伸ばしたいところですが、さすがに関東一円から信州・北陸・東海を手中に収めている頼朝と言えど、勝手に手を出すわけにはいきません。

しかし、文治三年(1187年)10月・・・奥州藤原氏の大黒柱として君臨していた3代目=藤原秀衡(ひでひら)が亡くなります。

しかも、頼朝にとって幸いな事に、鎌倉の許可を得ず勝手に官位を受けた事で怒りを買った弟・義経が、この奥州・平泉に逃げ込んでいます。

早速、翌年の2月、朝廷から義経追討の院宣(いんぜん・法皇の命令)を受け取った頼朝・・・これで、正当な理由のもと、藤原氏にチョッカイを出せます。

さらに、同じ年の10月にも、のらりくらりとかわす新当主・藤原泰衡(やすひら)に揺さぶりをかけるべく、再び・・・2度目の義経追討の院宣を受け取ります。

そして、翌・文治五年(1189年)6月、その揺さぶりに屈した泰衡が義経を追い詰め、その首を差し出します・・・と、本来なら、ここで頼朝の奥州追及は終わるはず・・・

しかし、それから1ヶ月とたたない6月25日、頼朝は、今度は、その泰衡追討の院宣を朝廷に求めるのです。

これで、堂々と奥州を攻める大義名分を得たというわけです。

こうして、念願だった奥州藤原氏を倒した頼朝・・・

しかし、上記の院宣は、あくまで「藤原泰衡を追討せと」という院宣・・・泰衡が死んだとは言え、それだけで、この先、この地を統治できるという事にはなりませんから、やっぱり、欲しいのは征夷大将軍という東北のあらゆる敵を、正々堂々と倒せる役職・・・

もちろん、この右近衛大将というのが朝廷を守る大将で、京都に常駐しなければならないという点も蹴った理由の一つでしょうが・・・なんせ、頼朝は、関東に地盤を置きたいのですから・・・

しかし、ここに頼朝の征夷大将軍・就任に反対していた人が・・・それが、誰あろう日本一の大天狗後白河法皇でした。

やがて、右近衛大将を蹴ってから2年後の建久三年(1192年)、後白河法皇が亡くなって、頼朝は、やっと征夷大将軍の座を手に入れたというわけです。
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