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2010年12月21日 (火)

本当はやぶり捨てたい!紀貫之のツラ過ぎる土佐日記

 

承平四年(934年)12月21日、紀貫之が土佐国守の任務を終え、都へと出発しました。

・・・・・・・・・・・

紀貫之(きのつらゆき)と言えば、三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の編者としても知られる歌人で、ひょっとして、あの『竹取物語』の作者ではないか?(9月25日参照>>)とも言われている文化人ですが、もう一方では、平安時代に土佐(高知県)国司を務めた行政官でもありました。

Kinoturayuki 延長八年(930年)に赴任した貫之は、その5年間の任期を終えて、承平五年(935年)に京の都に戻って来るわけですが、土佐の国司館から京にある自宅に到着するまでの、その55日間の帰還の旅の事を、和歌を交えながらつづったのが、あの『土佐日記』というわけです。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」
と、なぜか、筆者が女であるかのような書き出しで始まる日記・・・

これには、当時は女性が使うものとされていた仮名文字で、制約される事無く、のびのびと書きたかったからでは?というのが一般的な見方で、決してオネェ系であったという事ではないようです。

男が女になりすまして日記をつづる・・・なんだか、匿名性のあるネット上でのブログのような雰囲気ですが、そのワリには、意外にプライベートな事も書いてくれちゃってます。

当時は船で55日もかかった旅・・・

まず、彼女(彼)を襲ったのはキョーレツな船酔い・・・そして、海賊への恐怖

承平四年(934年)12月21日の夕方6時頃、室津(むろのつ・室戸岬の西側の港)を出港してまもなく、船長の話しで、「船員たちは海賊が報復して来るとの噂におびえている」事を知る筆者・・・

そう、平安時代の半ばのこの頃、陸では盗賊が横行し、海では海賊が出没していた時代・・・あの海賊将軍と呼ばれた藤原純友(すみとも)が反乱を起こす(12月26日参照>>)のが天慶二年(939年)ですから、すでに頻繁に起きていた事が想像できます。

出港を夕方にしたのも、「海賊は昼間に出る」という情報をもとに、夜の航海を選んだと思われますが、考えれば、そんな海賊の取り締まりをするのも、地方に派遣された国司の役目であるわけで、かの純友だって、もともとは国司です。

なので、この船長の「報復」という言葉・・・
つまりは、「国司のアンタ(貫之)が乗ってるから、仕返しに襲われるかも知れないと船員がビビッてる」って話なわけで、そんな事を聞かされたひにゃ、そりゃ、貫之も怖かったでしょう。

この時代、そんな海賊からの恐怖がなくなり、安心できるのは淡路島を過ぎたあたりからだったそうですから、優雅にはほど遠い緊張の連続の船旅だったようです。

ところで、その海賊の話しとともに、この日記の中に、度々登場するのが、亡き娘の話・・・実は、貫之は、かの任地先で、娘さんを失っていたのです。

本来なら、発展途上国へ派遣された社員が本社に戻れる喜びいっぱいの旅のはずなんですが、何かを見ては娘を思い出し、何かを聞いては娘に言葉をかける・・・

♪寄する波 うちも寄せなむ 我が恋ふる
  人忘れ貝 下りて拾わん  ♪

「波よ、どうか、恋しい人を忘れさせるという忘れ貝を浜に打ちあげてくれ…そしたら、船を下りて、その貝を拾いに行くから…」

船もようやく大阪湾に入り、住之江(現在の住吉神社の西付近です)も近づこうという頃になっても・・・

♪住之江に 船さし寄せよ 忘れ草
  験
(しるし)ありやと 摘みて行くべく  ♪
「住之江の岸に船を寄せて~な…そしたら、なんでも忘れられる忘れ草が、本当に効き目があるかどうか摘んでみるから」

よっぽど、忘れ難いんでしょうね。

やがて、無事、自宅に戻った貫之・・・

やっと、ここで落ち着くかと思いきや、
赴任中、家がほったらかしになってた事で、庭には雑草が生えてヒドイ状態・・・その中に、出発時には、まだ無かった小松が成長しているのを発見してしまい、また悲しみがこみ上げてくるのです。

♪生まれしも 帰らぬものを 我が宿に
  小松のあるを 見るが悲しき  ♪

「この家で生まれたアノ子が帰って来られなかったのに、そこに新しい松を見るのは悲しすぎる」

そして、最後に・・・
「わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾(と)くやりてむ
と、締めくくる・・・

どうやったって、自分の気持ちを書き尽くす事なんてできないんだから、とりあえず、こんな日記は・・・「疾くやりてむ=引き裂いてしまおう」

えぇ~~!(・oノ)ノ

そうなんです。

貫之にとって、この日記はツラ過ぎる出来事をつづった悲しい思い出の記録・・・

どうやら、「これを後世に残したくはなかった」というのが彼のホンネだったようなのですが、世の中とはわからないもの・・・これが、古典・紀行文の一級品として、1000年経った今も授業で習うんですからね~(原本は残ってないので、本当に捨てたのかも(゚ー゚;)

とは言え、貫之が、土佐を出港する時には、よく知らない人まで餞別を持って見送りに来てくれたらしい事から、地元の人には人気の国司だったようで、悲しみに打ちひしがれながらも、その人となりを垣間見る事のできる『土佐日記』は、ご本人の思いは別として、やはり、後世に残ってくれてよかったと思えますね。
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コメント

そうですね、‘土佐日記’ が長い間、人々に大事にされてきたのは、仮名で書かれて読みやすい、ということと、そして、誰の胸にも偽り無く染み透る、人の心の悲しみがあるからですよね。
辛いものではあるけれど、私個人も、悲しみ という感情は大事だと思っています。
生きていて悲しい出来事に遭遇した時、紀貫之のように、我が心に受け止め、仕舞いには歌にかえてしまう・・・、そういう感性を持つことは、やっぱり人として大切なことだと思います。

投稿: 五節句 | 2010年12月21日 (火) 17時28分

興味深い文章をいつも楽しく読ませていただいています。今日は土佐日記をありがとうございました。任地で亡くした子供を悼んで歌った歌のなかで12月27日の、都へとおもふもののかなしきはかえらぬ人のあればなりけり、を思い出します。羽根岬を歌った翌935年正月11日の、まことにて名にきくところはねならばとぶがごとくにみやこへもがな、も印象にあります。21日海賊を心配しながら室戸岬を回って国境の甲浦(かんのうら)港に向かっている海からは小生が若いころ親しんだ海岸線が見えるのです。だいぶ前になりますが、あの道を菅直人現首相が遍路で歩かれたそうです。地元の人は卒業するとほとんど大阪などに出て紀貫之の舟が風待ちした室津の港辺りも寂しくなっているようです。

投稿: 植松樹美 | 2010年12月21日 (火) 19時22分

五節句さん、こんばんは~

そうですね。
悲しみは誰にでもある事…
重要なのは、それを乗り越えて一歩先に進んでいく事…

貫之は、日記に書く事、歌に詠む事で、悲しみを乗り越えようとしたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年12月21日 (火) 21時38分

植松樹美さん、こんばんは~

よく知る場所が、このような形で記録に残っていると、灌漑もひとしおですね。

>室津の港辺りも寂しくなっているようです。

人がいなくなって寂しくなるのもツライですが、人気があり過ぎてあまりに変わってしまうのもツライ…難しいですね。

投稿: 茶々 | 2010年12月21日 (火) 21時41分

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