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2010年12月29日 (水)

天下取りにパーフェクト?徳川家康の改名

 

永禄九年(1566年)12月29日、松平家康が朝廷の許しを得て徳川に改姓しました。

・・・・・・・・・・・

すでにブログに書かせていただいているように、あの徳川家康さんは、岡崎城を拠点に、その周辺の西三河(愛知県東部)を統治していた戦国大名・松平広忠の長男として生まれました。

未だ群雄割拠する三河の地で、わずかながらの領地を維持せんがため、駿河(するが・静岡県中央部)を統治する大大名の今川義元の支援を受けようとする広忠は、その忠誠の証として、わずか6歳の長男・竹千代(後の家康)を人質に出したわけです。

途中、騙されて一旦、尾張(おわり・愛知県西部)の戦国大名・織田信秀のもとに連れて行かれた竹千代は(8月2日参照>>)、その2年後、安祥城の戦いで今川の人質となった信秀の息子・織田信広(弘)との人質交換という形で、もともと人質になるはずだった今川のもとへ送られ、そこで多感な少年期を送ります(11月6日参照>>)

義元のもとで元服した竹千代は、義元の一字をもらって松平元信(もとのぶ)と名乗り、今川家の重臣で、義元の妹のダンナ・関口氏広の娘・瀬名姫と結婚し、今川軍団の一人として戦う事になりますが、そんな彼の運命を変えたのが、19歳の時に起こった、あの桶狭間の戦い・・・

ちなみに、この2年くらい前に、元信から元康に改名したと言われており、この桶狭間の時には、すでに松平元康を名乗っています(祖父が清康なので)

この時、義元の死を知った元康は、もといた場所には戻らず、もともとは松平家の城だった岡崎城へと入り、このドサクサで独立・・・人質生活から解放される事となったのです(5月19日参照>>)

その後、かの桶狭間に勝利した織田信長と同盟を結んだ元康は、永禄六年(1563年)、名を家康に改め、松平家康となりました。

そして、今回・・・その3年後の永禄九年(1566年)12月29日、朝廷に申し出て、今度は姓を、松平から徳川に・・・名実ともに、徳川家康の誕生となったわけです。

まずは3年前の家康への改名・・・
それは、ちょうど、三河の平定に悪戦苦闘していた三河一向一揆(9月5日参照>>)の頃と重なります。

今、まさに、三河を統一し、そのトップに立とうという時期・・・

伝承によれば、光明寺城下(愛知県一宮市)にあった安照院光明寺の僧侶・青井意足(いそく)という人が、源氏伝来の軍法を伝える人物で、彼に会いに行き、数日間この寺に籠った家康が軍法を授かり、その直後、家康に改名したと言われています。

つまり、武門・源氏の象徴とも言える、あの八幡太郎義家(2月27日参照>>)「家」なのです。

もちろん伝承なので定かではありませんが、例え、源氏にしか伝える事のできない秘伝の軍法を家康が授かっていなかったとしても、この八幡太郎の「家」の字をもらったというのは、おそらく正解なのではないか?と思います。

・・・と、いうのが、その3年後の、今回の徳川への改姓・・・実は、これも源氏がらみなのです。

そもそも、松平という名は、三河の土豪=地元の一国人の姓・・・つまりは、家康の家系だけでなく、そのあたり一帯の土豪が皆、松平だったわけで、支流も含めれば、12か13の松平家があったとされています。

そんな中、自分とこだけが別格という事を主張するがための徳川という姓・・・その名は、上野(こうずけ)新田郡にあった「得川郷」だとされています。

そう、
この頃、家康は、にわかに、あの新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)の末裔である事を主張しはじめていたのです。

そして、限りなく黒に近いグレーの色した家系図を作成した家康は、時の関白・近衛前久(まえひさ)の仲介により、宮廷からの認可をとりつけたあげく、同時に、従五位下と三河守という官位も賜っています。

つまり、自分勝手に名乗った苗字ではなく、朝廷からの許しを得て名乗った徳川という姓・・・それは、朝廷もが、彼を、源氏の末裔と認めてしまった瞬間でもあったのではないでしょうか?

ご存じのように、この頃の征夷大将軍は、源氏の棟梁の証ともなっていました。

以前もブログに書かせていただきましたが、あの豊臣秀吉も、落ちぶれた足利義昭の養子になろうとなんかもしてましたが、最終的に、源平藤橘に並ぶ貴種=豊臣姓を賜る事で落ち着きました(12月19日参照>>)

他の松平との区別、憧れの頼朝との関係、征夷大将軍になれる資格・・・
この徳川家康という名前は、家康にとって、プラスになる事はあっても、決してマイナスになる事のないパーフェクトな名前だったわけです。

この二つの改名は、まさに、家康の戦国大名としての独立宣言、そして、征夷大将軍への序曲だったのです。

そして、ご存じのように、この「徳川」と「松平」の区別は、江戸時代になっても続きます。

家康を始祖とする家系であっても、御三家と御三卿だけが「徳川」、それ以外は、「松平」を名乗る事となるのです。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

 何時の時代にも歴史の裏で近衛氏の“活躍”が見られますね。そして、それは現代、いや現在も続いているかのようです。不敬不遜なハマグリのような人物を内包して、朝廷とまったく関わりをもてない現政権のジュミョウも、歴史をみれば明らかかもしれません。(内容が不適切なら削除下さい)

投稿: syun | 2010年12月29日 (水) 22時53分

syunさん、こんばんは~

近衛家だけではなく、藤原一族は何かと歴史に絡んできます。
その長期ぶりはスゴイですよね。

現在の政治にはトント弱いので不適切かどうかもわからない私です(*´Д`*)

投稿: 茶々 | 2010年12月29日 (水) 23時48分

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