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2010年12月 9日 (木)

信長と抗戦した石山本願寺の総大将・下間頼総の追放

 

元亀二年(1571年)12月9日、織田信長との10年に渡る石山合戦にて、それまで石山本願寺の総大将として活躍していた下間頼総が寺内退去を命じられました。

・・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して以来、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで畿内を征し、戦国武将トップの座を狙える位置を陣取った織田信長・・・(10月18日参照>>)

その一人勝ちを阻止すべく、越前(福井県)朝倉北近江(滋賀県北部)浅井、さらに越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄という大物を加えて形成された信長包囲網・・・そこに比叡山延暦寺石山本願寺といった寺社勢力が加わり、より強固に・・・

そんな中で、最終的には西国の雄・毛利の支援をも受けて、真っ向から信長に対抗し続けたのが石山本願寺です。

その石山本願寺の代表と言えば、もちろん、浄土真宗本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)なわけですが、当然の事ながら、仏に仕える身の顕如が、自ら武器を持って合戦におよぶはずはなく、あくまで宗徒の団結力とテンションを高める象徴のような存在で、その代わりとなって、実際に兵を率いて出陣する人がいたわけです。

それが本願寺内衆(うちしゅう)下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)です。

この下間氏は、親鸞の弟子となった蓮位房宗重(れんいぼうしゅうじゅう)を祖としながらも、確実に歴史上に登場するのは、宗重の孫で、本願寺9代実如(じつにょ)に仕えた下間頼玄(よりはる)から・・・

今回の頼総は、その頼玄の弟・頼慶(よりよし)の孫に当たります。

そんな頼総は、永禄九年(1566年)、いきなり加賀一向一揆の総大将として登場します。

そう、この頃は、加賀(石川県)に発生した本願寺門徒の王国(6月9日参照>>)が越前に進攻するのと、それを阻止しようとする朝倉が真っ向からぶつかっていた時代・・・(8月6日参照>>)

この永禄の頃には、すでに半世紀ほど続いていた一向一揆と朝倉の戦いでしたが、ここに来て、朝倉氏当主の朝倉義景(よしかげ)自らが出馬し、その境界線を半国ほど押し戻したばかりで、この一報を聞いた本願寺側が、多くの宗徒を加賀に派遣するも、なかなか戦況が好転していなかったのです。

そこで、本願寺の本拠地=大坂・石山本願寺から頼総が派遣されて来たというワケです。

この時、頼総は、京都の吉田家に依頼して、桔梗を描いた家旗と先懸け旗を授かって現地に向かったとか・・・この両旗をひるがえしての堂々の加賀入りは、本願寺門徒を大いに活気づけました。

これで、士気が高まったのか?
頼総の采配が冴えていたのか?

彼の参戦と同時に形成は一向一揆に傾き、境界線は一気に以前の国境付近へと挽回・・・さらに永禄十年(1567年)には、越前国内へも進攻しました。

しかし、その同じ年、将軍・義昭の仲裁により、一向一揆と朝倉氏は一時休戦・・・さらに、そうこうしている間に、あの共通の敵の出現によって、永禄十二年(1569年)には、敵の敵は味方とばかりに完全に和睦しました。

その共通の敵は、もちろん信長です。

やはり、信長を共通の敵と考える、かつての畿内の覇者=三好三人衆(9月29日参照>>)の蜂起に触発されるかのように元亀元年(1570年)9月、石山本願寺は信長との徹底抗戦を決意・・・石山合戦の勃発です。

Isiyamahonganzimokei800 本願寺模型(大阪歴史博物館)

すでにその6月の姉川の合戦(6月28日参照>>)にて、信長に敗北を喰らっていた浅井・朝倉ですが、その後、延暦寺の保護受けて態勢を立て直し、再び、坂本付近まで出兵し、11月26日、両者は、琵琶湖の西岸・堅田でぶつかります(11月26日参照>>)

この時、浅井・朝倉に呼応するかのように参戦した石山本願寺の総大将は、もちろん、頼総・・・経験豊富な戦国武将にまじっても退けをとらないその堂々たる武将ぶりは、通り道となった山崎などに与えた禁制の発給の文面からも読み取れます。

とは言え、その堅田の戦いのページにも書かせていただいたように、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇綸旨(りんじ・天皇家の命令)により、この時の抗戦は、12月には休戦となります。

しかし、その休戦はまもなく打ち破られ、翌・元亀二年(1571年)5月には、信長は長島の一向一揆(5月16日参照>>)との交戦に挑みます。

さらに7月には、本願寺の南近江の守りの拠点とも言える金ヶ森(かねがもり・滋賀県守山市)を包囲・・・

この時、籠城戦に持ち込む城将・川那部秀政(かわなべひでまさ)でしたが、信長勢は四方を苅田して圧力をかけ、孤立した金ヶ森は、やむなく、人質を差し出して降伏しました。

そして9月には、あの比叡山を焼き打ち(9月12日参照>>)・・・

ところが・・・です。

元亀二年(1571年)12月9日興福寺一条院の坊官・二条宴乗(えんじょう)の日記は、驚いた様子で、いきなりの大坂の異変を伝えます。

「河那部左衛門大夫、本願寺ヨリ ショウカヰ(生涯)、丹後も寺内ヲいらハれ候(そうろう)よし」

この丹後というのが頼総、その人です。

そして、その前に登場する河那部左衛門大夫という人物・・・この人は、かの金ヶ森の川那部秀政と同一人物か、もしくは、近しい姻戚関係にある人物とされています。

その河那部左衛門大夫が自害させられ、頼総が寺内退去処分・・・という事は、かの金ヶ森の責任を取らされたという事でしょうか?

くわしい記録がないため、不明ですが、頼総もその金ヶ森の戦いに参戦していたという事かも知れません。

しかし、一方では、この直前の11月24日付で顕如が、浅井・朝倉氏宛てに送った書状には、その添え状として頼総の書状がある・・・

つまり、11月24日には、まだ、本願寺の武闘派の代表として顕如のそばにいた頼総が、12月9日には寺内退去=事実上の追放となるわけで、この退去処分は、突然発せられたという事になります。

なにがどうなって???と、その経緯を解明するためには、新たな文書の発見を待つしかないようなのですが、事実上、ここで、本願寺追放となった頼総・・・その後の事は、まったくわからず、行方不明という事になってしまいます。

こうして、ここまで本願寺の武闘派の部分を一身に背負っていた下間氏も、その後は、本願寺の坊官としてだけ生き残ります。

いったい11月24日から12月9日の間に何があったのか???
ぜひとも知りたい、今日この頃・・・
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コメント

まさに青天の霹靂。
優れた武将であるだけに不思議ですね。

妄想好きには堪らないお話です。
派閥抗争かな。それとも...

投稿: ことかね | 2010年12月17日 (金) 12時27分

ことかねさん、こんにちは~

鉄砲やら鉄甲船の出現で、戦い方の変化も、めまぐるしかったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年12月17日 (金) 14時15分

「下間家」を検索してやってきました。
解説ありがとうございました。

投稿: 居酒屋ガレージ店主(JH3DBO) | 2010年12月22日 (水) 13時19分

居酒屋ガレージ店主(JH3DBO)さん、こんにちは~

あまり史料がないため、なんだか謎のまま終わってしまった感のあるページですが、お役に立てればウレシイです。

ずいぶん以前に安居神社の幸村まつりの記事(だったかな?自信ない(^o^;))で交流させていただいたのを思い出しました。

大阪城のすぐそばで生まれ育った私にとって、大阪城甲冑隊は、「実家にいたなら参加してたかも」と思えるうらやましい限りの活動でしたが、残念ですね。

投稿: 茶々 | 2010年12月22日 (水) 13時39分

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