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2010年12月24日 (金)

吉原が炎上したら…遊びの殿堂の誕生・移転

 

明歴二年(1656年)12月24日、江戸幕府が、日本橋葭町の葭原遊廓の浅草千束への移転を命令しました。

・・・・・・・・・・・

豊臣家が滅亡し、いよいよ徳川幕府が機能しはじめる元和三年(1617年)3月30日、かねてから営業許可を幕府に申請していた遊女屋の経営者・庄司甚右衛門に、江戸初の遊郭・葭原の設置を許可が下ります。

その条件は・・・
1、客の連泊をさせない事
2、騙されて連れて来られたと思しき娘は調査する事
3、犯罪者を見つけたら届ける事
4、江戸市中に店を置かない事
5、遊女を江戸市中に派遣しない事
6、建物や遊女の衣装を華美にしない事
などなど・・・

実は・・・
この時代、やっと幕府を開いたとは言え、未だ、戦国の空気も漂う状態で、幕府は、まずは江戸城や大坂城をはじめとする重要拠点の建物の整備や、大名屋敷などの城下町の整備に力を注がねばならなかったわけですが、その思いとはうらはらに、日本の中心となった江戸には、何か一発当てようと、急激に人が集まりはじめていたのです。

人口が増えると、当然の事ながら犯罪も増えますが、上記の通り、幕府は完璧な取り締まりをする余裕なんて、まだなかったのです。

そんなこんなのグッドタイミングに甚右衛門の営業申請・・・甚右衛門のほうは、これを許可してもらえば、遊郭の営業権を独占できるわけですし、幕府も犯罪を誘発する恐れのある風俗業の営業を管理する事で、少しは治安維持になるという利害関係が一致しての許可となったわけです。

・・・で、この時、幕府が甚右衛門に提供した土地が、当時はまだ海岸沿いで、一面に(あし・よし)の茂る原っぱだった日本橋葭町(現在の人形町)・・・ここにて甚右衛門は遊郭・葭原(よしわら)を開業・・・ここからあの「吉原」という遊びの殿堂が誕生するわけです。

しかし、その後も江戸の町の人口は増え、そのぶん町は拡大していき、いつしか、その吉原の隣に大名屋敷を建てなければならないほどになって来て、最初の条件の一つであった、江戸の町(市中)と風俗営業の場所を区別する事ができなくなってきます。

そこで、今回の移転・・・明歴二年(1656年)12月24日、江戸幕府が、日本橋葭町の葭原遊廓を浅草千束へ移転するように命令を出したわけです。

もちろん、最初は反対の意を表明した吉原側ですが、それはそこ、幕府も鬼じゃありませんから、様々の好条件を提示・・・
1、吉原の営業可能な土地を5割り増し
2、夜間営業の再開
3、風呂屋者を抱える風呂屋・200軒を取り潰し
4、周辺の火事・祭への対応を免除
5、移転費用1万5000両をあげちゃう!
・・・で、最終的な同意に漕ぎつけています。

上記の条件の中で、1番5番は場所を広くしてもらってお金も貰えるんですから、無条件で得なのはわかりますが、2番の夜間営業と3番の風呂屋・・・

実は、去る寛永十七年(1640年)に「風紀を乱す」として、遊郭の夜間営業を、一旦禁止していたんです。

そのために、巷には風呂屋者=湯女(ゆな)を常駐させた風呂屋が一気に大盛況となってしまったのです。

以前、「お風呂の歴史」で書かせていただいたように(1月26日参照>>)、この湯女と呼ばれる女性たちは、基本はお客さんの体を洗う職業なわけですが、それはそこ・・・その湯女次第では、最後までイッちゃう場合もあるわけで・・・

・・・で、上記の移転の条件を見る限りでは、そんな風呂屋がすでに吉原にも進出していたようですから、そりゃ、そんな気軽に同じようなサービスを受けられる場所をお膝元に造られちゃぁ、遊郭側から見れば、営業妨害も甚だしいわけで、そのおおもととなった夜間営業の復活と風呂屋の排除は、遊郭にとってかなりの好条件なわけです。

そして最後に4番の「周辺の火事・祭への対応を免除」・・・

「火事と喧嘩は江戸の華」の言葉でご存じの通り、江戸時代を通じて火事が多かったわけですが、人口増加による密集した家の建て方は、ひとたび火が出れば、その延焼は衰えを知らず、次から次へと燃え移ってしまうため、火事になれば、一斉に皆が協力態勢にならざるを得ないわけです。

しかし、吉原は、ある意味隔離された場所・・・なので、周囲で火事があっても祭りがあっても対処しないで良いというのは、吉原側にとってありがたいわけですが、後に、これが大きな災害をもたらす結果ともなってしまうのです。

実は、今回の移転命令の翌年・・・ご存じ、明歴の大火=振袖火事が起こっています(1月18日参照>>)

この時、吉原はまだ移転途中で、やむなく幕府の許可を得て、両国深川の茶屋や町屋を借りて「借宅(かりたく)で営業し、少し予定より遅れたものの、この年の6月頃までには、無事、すべての遊郭が浅草寺の近くにある日本堤に移転して営業を再開し、ここは「新吉原」と呼ばれる事になったわけですが・・・

Edo8keiyosiwara600 江戸八景・吉原の夜雨(国立国会図書館蔵)

その明歴の大火以来、幕末の慶応二年(1866年)までの210年間に、実に、吉原は23回も全焼しているのです。

そう、
周辺の火事・祭への対応を免除」という事は、逆に、吉原で起こった火事に周辺の火消しが手伝う事もできなかったのです。

遊郭には専属の火消し隊がいて、火事の際は消火にあたっていたわけですが、大きな火事になると、もうお手上げ・・・しかも、周辺の消防組は、続々と集まるものの堤の向こうで見守るばかりです。

・・・で、ご想像通り、そういった火事で最も多く亡くなるのは、遊女たち・・・

店主が、彼女らの逃亡を恐れて、日頃は土蔵などに監禁している場合もありますし、なんたって周囲は幅三間(約5m)の鉄漿溝(おはぐろどぶ)に囲まれ、出入り口は、あの大門一つしかありませんから・・・

運よく脱出できた遊女は、3日以内に戻ればお咎めなし・・・それ以上経つと、年季を伸ばされたり、もっとコワイ罰が待ってます。

そんな中、果敢に火事現場に突入する人も・・・実は、この人たちはレンタル業

この時代の遊郭は、布団をはじめ、屏風や火鉢など、調度品の7割はレンタル品だったそうで、その業者が、「自分とこの大事な品が燃えては大変!」とばかりに火事場に押し寄せ、われ先に品物を出して回ったのだとか・・・

しかし、そんな彼ら・・・
調度品は救助しても、逃げ遅れた遊女を救助する者は一人もいなかったのだとか・・・

幸薄いベッピン遊女を馴染みのイケメン火消しが命がけで・・・てなシーンを、ついつい想像していまいますが、世の中、ドラマのようにはいきませんねぇ。

●吉原でのお遊びについては【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】でどうぞ>>
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