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2010年12月 7日 (火)

日本初の女優・川上貞奴

 

昭和二十一年(1946年)12月7日、明治・大正・昭和に生き、日本初の女優と言われる川上貞奴が、75歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

明治四年(1871年)、東京は日本橋の質屋の娘として生まれた小山貞(こやまさだ)でしたが、7歳の時に、実家の商売がたち行かなくなり、(よし)の芸者置屋「浜田屋」浜田屋亀吉の養女に出されました。

以来、厳しく芸を仕込まれる貞でしたが、持ち前の負けん気とその才能でみるみる上達し、伝統ある「奴(やっこ)という名を襲名・・・整った容姿と見事な踊りで、またたく間に人気芸妓としてのトップの座を獲得します。

時の総理大臣・伊藤博文や、あの西園寺公望(さいおんじきんもち)も彼女をごひいきにしていたというのですから、まさに日本一の芸妓・・・

やがて、当時、♪オッペケペー節♪で人気絶頂だった壮士芝居(そうししばい・自由民権運動を広めるための芝居)川上音二郎と出会い、明治二十七年(1894年)に結婚しました

しかし、時代の寵児ともてはやされた川上一座の人気も、まもなく下降気味になって収入減・・・しかも、夫・音二郎が衆議院選挙に出馬するも落選し、さらに借金まみれとなってしまいます。

「もう、日本では稼げない!」
とばかりに川上一座は、その活路を海外に見い出し、明治三十二年(1899年)、夫とともに一座を引き連れ、アメリカへと渡った貞・・・

しかし、到着したサンフランシコで女形が死亡・・・しかも、「舞台に立つのは男」という観念がある日本と違って、「女の役は女がするもの」というのが常識の海外では、女優のいない劇団など、興行師も相手にしてくれませんでした。

でも、もともと男だけの一座・・・女優なんているわけもありませんから、しかたなく、これまで裏方に徹していた貞が代役を務める事になりました。

Sadayakko700 この時、彼女は、本名の「貞」と、芸妓名の「奴」を合わせて「貞奴(さだやっこ)という名で、日本初の女優として舞台に上がったのです。

続くシカゴ公演での彼女の日本舞踊・・・未だ見ぬアジアのエキゾチックさで、見事、アメリカ人を魅了します。

さらに一座は、ヨーロッパへ・・・

ロンドンではバッキンガム宮殿に招かれ、万国博覧会で盛り上がるパリ公演でも「マダム貞奴」として人気を博し、当時のパリの社交界では、着物風のドレスが「ヤッコドレス」と呼ばれて大流行したのだとか・・・

こうして、世界的人気の女優として帰国する彼女でしたが、日本で女優を続けるつもりはなく、以前同様、裏方に徹するつもりでいました。

しかし、世間は彼女をほっときません。

その声に応えて、明治三十六年(1901年)、シェークスピア「翻訳オセロ」にて、31歳の彼女は日本での初舞台を踏みました。

もちろん、この公演は大成功・・・町には、彼女の肖像を描いた広告ポスターが溢れかえり、一大ブームとなります。

さらに、この勢いに乗って、明治四十一年(1908年)には、音二郎とともに、後進を育成するための帝国女優育成所を設立・・・初代・校長に就任します。

しかし、明治四十四年(1911年)、夫・音二郎が亡くなったと同時に、世間の風は一変します。

夫の遺志を継いで、一座を率いて各地を巡業する彼女に、演劇界やマスコミのバッシングが始まるのです。

この時代は、夫を亡くした後家さんが、なんやかやと表舞台に出る事がバッシングの対象となったようですが・・・

時代の寵児とさんざんにもてはやしておいて、何かをきっかけに、一気に落としにかかる・・・なんだか、100年経っても、いっこうに変わっていないようで、寂しい気持ちになりますが、そんなマスコミに踊らされている自分も、やや反省・・・

結局、貞奴は大正六年(1917年)の「アイーダ」を最後に、女優引退に追い込まれます。

引退した翌年、名古屋に「川上絹布株式会社」を設立して、その後は実業家としても活躍する彼女ですが、この時、実業界のパートナーとして彼女をサポートしたのが福沢桃介という人物でした。

実は彼女・・・音二郎に出会う前に、キョーレツな悲恋を味わっています。

それは、彼女がまだ15歳の乙女だった頃、馬術を楽しんでいた時に、突然野犬に襲われところを、18歳のイケメンで慶応義塾の学生だった桃介が助けた・・・という、まるでおとぎ話のお姫様のような出会い・・・

またたく間に恋の落ちる二人でしたが、悲しいかな、彼は、貧しい農家出身の貧乏学生で彼女は芸妓・・・

わずか1年の恋の終わりは、桃介の結婚とともに訪れます。

成績優秀で男前な彼を見込んだ、あの福沢諭吉から「娘の婿に・・・」との要望を受けたのです。

明治という時代、当時の二人の立場からみれば、致し方ないところであります。

しかし、今回は、時代も立場も違います。

実業家・桃介が「日本の電力王」呼ばれるようになる大正九年(1920年)頃、二人は同居を始め、芸妓から女優となった貞の社交的な振る舞いにより、名古屋の邸宅は、さながら政財界の大物が集うサロンようだったと言います。

やがて昭和二十一年(1946年)12月7日、すい臓がんによって75歳の、まるでドラマのような人生を終える貞奴ですが、8年前に亡くなった桃介とは、最後まで恋人どうしのような仲睦ましい間柄だったとか・・・

彼女が切り開いた女優という職業への道・・・

帝国女優育成所が設立された際、開所式に呼ばれたあの渋沢栄一は、そこに、多くの弁護士や代議士の令嬢がいた事を知り、
「300年の長きに渡って卑しめられてきたのは、実業家と女と役者である。
 皆さんは、そんな女でありながら、さらに役者を目指すと言う・・・同じ境遇の実業家として、私は大いに味方したい」

と演説したのだとか・・・

そうです、
江戸時代・・・商人は、何を生産する事もなく、右にある物を左に渡すだけで金を儲ける悪人とされ、役者も、町から町へ渡り歩く流浪の者とされました。

しかし、今や「スター」と呼ばれて憧れの眼差しを一身浴びる女優さん・・・そんな彼女たちの道を切り開いたのが、川上貞奴なのです。
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コメント

おお、ぜひこれを連続ドラマで見たい。ひところはやったトレンディドラマや今時の薄いドラマよりずっと見ごたえありそう。昔NHK大河ドラマで貞奴を松坂慶子が演じてたけど視聴率がひどかったそうな・・でも今の大河よりずっと良かったんじゃないかな。

投稿: Hiromin | 2010年12月 7日 (火) 22時01分

いつも楽しく拝見しています。
通勤で利用している甲府駅に掲示されている、信州デスティネーションキャンペーンのPRポスターに、木曽川に架かる「桃介橋」が載っています。貞奴の話から思い出して、電力王と呼ばれた福沢桃介の記念館など見に行きたいと思います。
話がそれますが、貞奴の写真を見て、今夏、山中湖畔のお寺にあるオペラのマダムバタフライ、三浦環のお墓を見学に行き、戦前、貞奴と同じように世界で活躍した芸術家達の話しを思い出しました。

投稿: 田上の親爺 | 2010年12月 7日 (火) 22時18分

Hirominさん、こんばんは~

そうですよね~
このまんまドラマでやっても、かなりおもしろいと思うのに、なんで視聴率が悪かったんでしょうね?
格言う私も見てないんですが…

1クールかスペシャルドラマくらいのボリュームの方が良かったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年12月 8日 (水) 00時00分

田上の親爺さん、こんばんは~

>戦前、貞奴と同じように世界で活躍した芸術家達…

未だ、外国が憧れだった頃に、海を渡り活躍した人々の思い…何もかもが未知の世界で苦労された先人たちの心に触れる旅もいいものですね~

投稿: 茶々 | 2010年12月 8日 (水) 00時04分

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