« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月31日 (月)

スケート・事始め~スケートの歴史

 

今日は、旧暦のない1月31日・・・という事で、この日の出来事ではなく、豆知識的なお話をしましょう。

季節がら、スケートの歴史など・・・

と言いましても、その歴史は大変古く、それこそ、北欧では石器時代から、獣の骨を靴底につけた滑走具にて、氷のはった湖面や沼を滑っていたと言われ、いわゆる現在で言うところのスケートが日本に伝わる以前から、日本人がそのような道具を自ら編み出して、湖面を滑っていなかったとは言えないわけで(日本にも、氷のはる湖は、いくらでもありますから…)、あくまで、諸説あるうちの一つとお考えいただければ幸いです。

・‥…━━━☆

上記の通り、北欧で生まれたスケートは、やがてスウェーデンからデンマークオランダへと伝わり、12世紀の終わり頃には、イギリス一般的な遊戯として行われるようになっていました。

17世紀頃には、ただの遊びではなく、スポーツとしてのスケートが開始されはじめ1740年代には、イギリスに複数のスケートクラブが誕生するようになります。

さらに18世紀から19世紀にかけて急速に発展していったスケートは、鋼鉄製の専用のスケート靴が開発された事によって、フィギュアスケートの基礎的技術も完成し、競技としての原型ができあがったのです。

やがて、1892年には国際スケート連盟が設立され、1893年にはスピードスケート公式大会、1896年にはフィギュアスケートの公式大会が開催され、現在に至る・・・というわけです。

日本におけるスケートの歴史は、やはり、様々な説がありつつも、明治十年(1877年)に札幌農学校に招かれたアメリカ人教師・=ウイリアム・ブルックス氏が、母国から持参したスケート用具で滑走を披露し、少年たちに伝えたというのが、有力な説となっています。

やがて、何にでも興味津々の少年たちが、草履の下に竹を取りつけた原始的なスタイルのスケート靴を自ら製作・・・大喜びで、雪道や湖面を滑走するうち、下駄スケートなる物も登場し、大いにもてはやされたと言います。

そんなこんなしているうちに、札幌には、ちゃんとしたスケート靴を売る専門店なども登場し、そうなると組織化されたスケートクラブも登場・・・そのクラブの主催で、氷上運動会なるイベントまで開催されるようになり、どんどんとスケート熱は高まっていったのです。

こうして、まずは北海道で大人気となったスケート・・・その後、盛岡から仙台へと南下して、やがて、信州の諏訪湖へ・・・

ご存じのように、この諏訪湖は冬になると絶好のコンディションのスケート場と化すため、猛スピードで大人気となっていくわけですが、それに拍車をかけたのが明治三十八年(1905年)の中央線(現在のJR)富士見~ 岡谷間の延伸開業です。

そう、電車が諏訪まで到達した事によって、太平洋側の都心部と結ばれ、スケートは大変な勢いで都市部へと広がっていったのです。

冬の休暇の頃には、東京あたりから多くの在日外国人が諏訪湖につめかけ、一大リゾート地&スケートのメッカとしての地位を確立していきました。

大正九年(1920年)には、日本で最初のスケート団体=日本スケート会による全国規模の競技大会も行われ、昭和四年(1929年)には日本スケート連盟も組織され、昭和七年(1932年)には、アメリカ・レークブラシッドで開催された、第3回冬季オリンピック日本選手団を派遣するほどに成長したのです。

こうして、世界に仲間入りをした日本のスケートのレベルは、今や世界で一番と言えるくらいの技術になりました(特にフィギュアは…)

現在の日本のスケートのメッカは?・・・名古屋なのかな?
いやいや、全国各地、次々と現われる金の卵たちに、目が離せませんね。

Hiraps600 添付写真は、京阪電車の枚方公園駅にあった「ひらかたパーク」のスケートリンク=アイススクエアの宣伝ポスター・・・
スケートの歴史とは関係ありませんが、おもしろい(キツイ)ポスターなので・・・(*゚ー゚*)

 

 

 

 

 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年1月29日 (土)

300万アクセス達成しました!ありがとうございます<(_ _)>

 

いつも、「今日は何の日?徒然日記」にご訪問いただいてありがとうございます。

おかげさまで、昨日、アクセス数が300万を突破!しました。

「ブログの歩み」>>
のページに書かせていただいています通り、2006年の2月12日に開設以来、もうすぐ5周年を迎えようとするこのブログ・・・

初日のアクセス数はわずかに12でしたが、徐々に増えはじめ、1周年を超える頃からは、@niftyさんや、Yahooさんでご紹介していただけるようにもなり、今年に入ってからは、ほぼ1日=5000前後のアクセスをいただけるブログに成長しました。

夢のようですヽ(´▽`)/

もともと大雑把な性格なので、深く考えずに始めたブログではありましたが、日々、見に来てくださる方がある事で、今では毎日の励みになっております。

気づいた時には歴史が好きだったという専門知識のない茶々が、もっと知りたいという欲求と、知った事はしゃべりたくてたまらない欲求を満たしている「王様の耳はロバの耳」的な、我がまま満載の趣味のブログではありますが、今後とも、よろしくお願いいたします。

この先、より長く続けていくためには、あせらず、騒がず、ゆっくりのんびりと・・・
大阪弁で言えば
「ぼちぼち 行こか~」
てな感じで、やっていきたいと思います。

どうぞ、皆さま、おつきあいくださいませm(_ _)m
 .

「そりゃ、めでたい!」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

めでたついでにこっち↓もポチリ(*^.^*)

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (16) | トラックバック (0)
|

2011年1月28日 (金)

京の冬の旅~第45回・非公開文化財特別公開へ行こう

 

今年も、やって来ました!この季節・・・

毎年書かせていただいておりますが、冬の京都は、一番観光客が少ない季節という事で、京都市観光協会さんを中心に、京都市を挙げての一大キャンペーンをうち出してくれはります。

それが「京の冬の旅」というイベントで、観光バスの特別コースを用意したり、京都の伝統文化を身近に感じられるイベントを開催したりしてくださるわけですが、中でも、私が、毎年利用させていただいているのが「非公開文化財特別公開」です。

普段は非公開のお寺を、統一の拝観料で一般公開していただけるのですから、歴史好きとしては、たまらないイベントなのです。

このブログ上でも、
一昨年の
退耕庵(たいこうあん)伏見稲荷のお茶屋>>
*特に石田三成と安国寺恵瓊が関ヶ原の作戦を練ったという退耕庵の茶室・作夢軒が見たかったのです。
昨年の
清水寺成就院>>
*西郷隆盛と月照が語りあった「月の庭」が見たかったのです。
知恩院・三門>>
*七不思議の一つ=白木の棺が普段はみられません。
と報告させていただいてます。

今回も、本来なら「○○に行ってきました」
と、行ってから、その写真とともにご報告するのが筋なのでしょうが、なにぶん、予定は未定の大雑把な性格で、いつ行くかわからず、もし、最後の頃になってしまって、「もっと早く知っていたら自分も行ったのに~」と、ご覧になった方がはがゆい思いをされては・・・と思い、とりあえずは、今年の非公開文化財特別公開に参加される寺院と、その見どころを、本日、ご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

今年の第45回は、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放映を記念して、「戦国・姫君と武将たち」というテーマで、ゆかりの寺院や文化財の公開となっています。

期間:平成23年1月8日~3月21日
時間:10時~16時
料金:1ヶ所=600円
(知恩院三門と東寺五重塔は800円)

  • 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
    幕末の新撰組ゆかりの寺院として有名ですが、建立したのは、あの春日局・・・大河主役のの遺髪を納める供養塔があります。
    今回、特別公開される大方丈には障壁画や回遊式庭園があり、織田信長「天下布武」の朱印状も公開されます。
  • 光雲寺(こううんじ)
    2代将軍・秀忠の娘で、後水尾天皇の中宮となった和子の尽力で再興されたお寺で、なんと、今回初公開です。
    その和子さんゆかりの品々が公開されるほか、東山を借景にした庭園も見ものです。
  • 高台寺(こうだいじ)
    豊臣秀吉の菩提を弔うために正室・おねさんが建立したお寺で、周囲は「ねねの道」として、京都観光の中心となる有名な所ですが、今回は秀吉愛用の品々が特別公開されるうえ、霊屋のご本尊・大隋求菩薩(ずいぐぼさつ)像が特別開帳されます。
  • 高台寺・圓徳院(えんとくいん)
    上記の高台寺のお向かいにあり、秀吉亡き後のおねが暮らしたお寺として、やはり京都観光の中心的存在ですが、今回は、秀吉&おねの肖像画や、秀吉出世の守り神=本尊・三面大黒天などが特別公開されます。
  • 妙心寺・麟祥院(りんしょういん)
    3代将軍・家光が乳母の春日局のために建立した妙心寺の塔頭(たっちゅう・大寺院に付属する寺院)で、普段は非公開=関係者以外は入れないお寺です。
    方丈には春日局と親交のあった絵師・海北友松(8月28日参照>>)の子・友雪の襖絵があり、春日局の座像や、春日局が家光から賜った屏風などが公開されます。
  • 妙心寺・海福院(かいふくいん)
    秀吉子飼いの家臣・福島正則が創建した妙心寺の塔頭で、普段はやはり非公開・・・正則の画像や賤ヶ嶽で一番槍を挙げた腕前の彼が愛用した槍のほか、狩野探幽の襖絵も見ものです。
  • 建仁寺・両足院(りょうそくいん)
    建仁寺の塔頭の一つで、300坪におよぶ庭園が魅力のお寺ですが、今回は黒田長政が関ヶ原の合戦の時に兜に納めて出陣したと伝わる秘仏・毘沙門天像が特別開帳されるほか、長谷川等伯の図画が公開されます。
  • 建仁寺・正伝永源院(しょうでんえいげんいん)
    同じく建仁寺の塔頭で、信長の弟・織田有楽斎(うらくさい・長益)(12月13日参照>>)が再興し、国宝にも指定されている有楽斎・作の茶室があります。
    ほかにも有楽斎好みの茶室が復元され、ご本人のお墓もあります。
  • 大徳寺・総見院(そうけんいん)
    秀吉が建立した信長の菩提寺で、あの「信長の葬儀」(10月15日参照>>)が行われた場所・・・一周忌の法要のために作られた「織田信長座像」や、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を井筒にした「掘り抜き井戸」があります。(3月7日に行ってきました~>>)
  • 大徳寺・玉林院(ぎょくりんいん)
    賤ヶ岳七本槍や大坂の陣の交渉役で有名な片桐且元(8月20日参照>>)らの尽力によって再興された大徳寺の塔頭・・・客殿の襖絵や、いずれも重要文化財に指定されている複数の茶室が見ものです。
  • 東寺・五重塔
    世界遺産にも指定されているご存じの東寺ですが、4度の火災に遭い、現在の五重塔は3代将軍・家光が再建した物・・・特別公開される極彩色の内部には大日如来に見立てた心柱を囲むように金剛界四仏が安置されています。
  • 知恩院・三門
    上記で、「昨年行きました」と書かせていただいた知恩院・三門ですが、この知恩院自体が徳川将軍家と深く関わりのあるお寺で、三門は2代将軍・秀忠の建立・・・特別公開の時しか味わえない三門楼上からの絶景を、ぜひ堪能したいものです。

と、以上の12寺院が、今年のキャンペーンに参加してくださっています。

各寺には、それぞれ、法要などで見られない日があったりしますので、くわしくは公式サイト=第45回・非公開文化財特別公開へどうぞ>>

また、非公開文化財特別公開とは別に、大河ドラマ関連の一つとして、淀殿が浅井家のために建立し、妹の江が再興し、彼女のお墓もある養源院(7月19日参照>>)が、
Yougenintitenzyoucc 期間:平成23年1月8日~3月21日
時間:9時~15時半
(1/21のみ12時~15時の拝観中止)
料金:600円
で、淀殿や江ゆかりの寺宝を集めた特別公開が行われていますので、コチラも要チェックですぞ!

もちろん、私も(どこかに)行きますが、歴史好きの方は、この機会にぜひどうぞ♪(o ̄∇ ̄)/
 .
内容が「役にたった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年1月27日 (木)

めざせ天竺!マレーに消えた高丘親王

 

貞観七年(865年)1月27日、高丘親王が天竺をめざして、広州から出港しました。

・・・・・・・・

高丘(たかおか)親王・・・親王とつくからには、当然、天皇の息子であり、後々、天皇の位につくべき人だったわけですが・・・

高丘親王は、第51代・平城(へいぜい)天皇の第三皇子として生まれ、父の天皇が弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲った時に、皇太子に立てられました。

平城天皇&嵯峨天皇の兄弟は、ともに、あの平安遷都で有名な桓武(かんむ)天皇の息子で、嵯峨天皇は後に、多すぎる息子たちに姓を与えて臣籍に降下させる=あの嵯峨源氏のおおもとなった人です。

・・・と、本来なら、順調に、この嵯峨天皇の次に天皇になるはずだった高丘親王・・・そんな彼の運命が変わるのが弘仁元年(810年)9月、親王=12歳の時。

そう、あの藤原薬子の乱(9月11日参照>>)です。

藤原式家藤原仲成(なかなり)と、その妹・薬子(くすこ)兄妹が、すでに皇位を嵯峨天皇に譲ってしまっていた平城天皇(上皇)を担いで、平城天皇の復権をたくらんだとされる事件ですが、途中で発覚し、仲成は処刑され、薬子は服毒自殺しました。
(*嵯峨天皇によって、この時代は死刑が廃止されていましたので、仲成の処刑は天皇の独断による私刑として処理されています)

当然の事ながら、その時、以前の平城京に拠点を置いていた平城天皇は平安京に戻されて出家・・・皇太子だった高丘親王も、幼いとは言えど反逆者の息子って事で、皇太子を廃されて仏門に入る事になります。

政変によって負けた側の人物が仏門に入る・・・これは天皇家に限らず、これから後の武士の時代にもよくある事ですが、高丘親王の場合は、ここからが少々特異です。

この場合、「俗世間から離れておとなしくしておいてね」という意味で仏門に入れられるわけですから、その後は、あまり表に出る事なく、僧として生きるというのが一般的なルートなわけですが、高丘親王の場合は、心底、仏教ドップリ、見事にハマッてしまったわけです。

名を真如(しんにょ)と改めた(ややこしいので親王のままで呼ばせてね)高丘親王・・・真言宗を開いた、あの空海の弟子となります。

聡明で人望も厚かった親王は、やがて、高野山に親王院を開き、阿闍梨(あじゃり・教える事のできる師匠)の位も授かり空海の十大弟子の一人に数えられるようになります。

その後、空海が亡くなった時には、高弟の一人として埋葬にも立ち合い、亡き後の仏教界を背負う存在となっていくのです。

斉衡二年(855年)には、大地震で大仏の首が落ちちゃった東大寺の再建事業を任され、見事やり遂げました。

しかし、本気でのめり込んでトップに立った人の思う事はただ一つ・・・「本場、中国で仏教を学びたい!この目で現地を見てみたい!」でした。

先ほどの大仏修理が完了し、その供養も終えた貞観三年(861年)9月3日・・・仲間23人を従えて、まずは九州・大宰府を目指して旅立ち、その翌年には大宰府を出港し、一路、大陸を目指しました。

元皇太子の海外渡航・・・前代未聞の出来事でした。

唐の都では首都・長安(西安)はもちろん、聖地とされる五台山などを巡り、名のある高僧に会う事もできました。

しかし、納得がいかない高丘親王・・・実は、この時、唐では廃仏の嵐が吹き荒れていたのです。

時の皇帝・武宗(ぶそう)は、確かに親王を歓迎してくれました。

しかし、それは、高丘親王の「元皇太子」というフレコミによる社交辞令・・・皇帝自身の政策は仏教弾圧だったのです。

「こんな所では、マトモに教えを請えない!」
と思った親王・・・
「こうなったら、仏教発祥の地=天竺(インド)へ行こう!」
と決意したのです。

この時、親王=すでに67歳・・・この前代未聞の冒険に従ったのは、わずか3名の仲間だったと言います。

貞観七年(865年)1月27日、中国は広州から船出をした高丘親王・・・

しかし、残念ながら、正史とされる高丘親王の足どりは、ここまで・・・つまり、その後は行方不明という事になってしまいます。

16年後には、唐からの留学僧の報告として、
「羅越国にて虎に襲われて死亡した」
という情報がもたらされた事が『三代実録』という文献に書かれていますが、その情報が正しいかどうかを確かめる術もありません。

現在では、その羅越国なる国が、マレー半島の南端に位置していたであろうと推測される事から、「高丘親王・供養塔」なる物が、マレーシアの日本人墓地に建立されているとの事・・・。

一時は、「日本の元皇太子が大陸に渡った」という事だけをとらえて、軍国主義の宣伝活動として、教科書にも載っていたという高丘親王ですが・・・おそらく、それは、更なる高みを目指す親王のお心にそぐわない物だった事でしょう。

消息が曖昧なら、想像は自由・・・
できれば、孫悟空にでも守られて、天竺まで到達しておられた事を願うばかりです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月26日 (水)

謎の帝銀事件

 

昭和二十三年(1948年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行・椎名町支店にて、悲惨な毒物強盗殺人事件が発生しました・・・世に言う「帝銀事件」です。

・・・・・・・・・・・・

時は、日本がGHQの占領下にあった戦後の混乱期・・・未だ未解決の謎多き事件です。

価値観も一般常識も違う古い時代の出来事ではない、現代の、しかも未解決事件・・・果たして、このブログで扱うべきなのか、どうなのかを迷うところではありますが、これも、今日の出来事である事は確か・・・

なるべく私見をはさまずお伝えしたいと思います。

・‥…━━━☆

昭和二十三年(1948年)1月26日東京都豊島区にある帝国銀行椎名町支店・・・閉店直後の午後3時過ぎに、東京都消毒班の腕章をつけた背広姿の中年男性がやってきました。

男は、厚生省技官の名刺を差し出し
「この近くで集団赤痢が発生したのでGHQの指示でこちらに来ました。
消毒の前に、この予防薬を飲んでください」

と、薬を差し出します。

当日は、支店長が不在だったため、支店長代理が応対しますが、当時は、未だ上下水道が未発達で伝染病への脅威が日常的にあった事や、男が「こうして飲みます」と、先に飲み方の見本を見せた事ですっかり信じこみ、その場にいた16名全員が薬を服用したのです。

しかし、それは、青酸化合物を含む毒薬・・・にわかに苦しみだした16名のうち11名が、その場で死亡し、1名が搬送先の病院で死亡・・・計12名を殺害する悲惨な事件となってしまいました。

被害者の一人が、意識もうろうとなりながらも自力で脱出し、近くにいた女学生に助けを求めて警察に通報した事で事件が発覚する事になりますが、その頃には、男は現金16万円と額面:1万7450円の安田銀行板橋支店の小切手を奪って逃走した後でした。

こうして、事件後まもなく警察の捜査が始まるわけですが・・・

そもそも青酸化合物というのは即効性があります。

もし、一人目が飲んで直後に苦しみだしたら、二人目は薬を服用しないわけですが、この時は、飲んでから苦しみだすまでの時間が1分間ほどあったために、全員が服用してしまったと言われています。

その即効性を遅くするためには、薬の量を減らす事になりますが、それが少なければ死にも至らないわけですから、犯人は、その微妙な量の調整をできたという事になります。

つまり、薬に精通した人物・・・

という事で、当初は、戦時下の陸軍で組織されていた毒物研究集団:731部隊を中心に、陸軍関係者に的を絞って捜査が行われていましたが、突如、GHQからの「陸軍関係者への捜査中止命令」が出て、やむなく断念・・・

やがて、支店長代理が受け取った名刺の捜査へと主流が移っていきます。

とは言え、この事件で、支店長代理が受け取った名刺は紛失されてしまっていたのですが、実は、この帝銀事件の前に、同様の未遂事件が2件あったのです。

前年の10月には、安田銀行荏原(えばら)支店に、やはり閉店直後、「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」という名刺を持った男が現われ、同様の手口で薬を飲ませようとするも、対応した支店長が、男を待たせたまま、近くの巡査に「集団赤痢発生」の確認を取りに行ったため、赤痢発生がウソである事が判明・・・その間に薬を服用してしまった人もいましたが、幸いにも被害はなかったとの事。

さらに、この事件の1週間前にも、「厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課」の名刺を持った男が三菱銀行中井支店に現われ、行員に薬を服用させたものの、「現金はない」と言うと、消毒液のような物を吹きつけて去って行ったというのです。

この2件の犯人を帝銀事件と同一と見た警察の調べによって、その名刺のうち、後者の「山口二郎」の名刺はニセモノでしたが、前者の「松井蔚(しげる」の名刺は、本物であった事が判明します。

しかし、当の松井氏は、当日のアリバイが明確であった事から、今度は、その松井氏が名刺交換をした人物へと捜査が移ります。

最初100枚あった名刺のうち、その時、松井氏の手元にあるのが8枚・・・残りの92枚のうち62枚が交換相手から回収され、残る30枚の中から、事件に無関係と見られる22枚が排除され、残ったのは8枚ぶん・・・

この中にいたのが、画家の平沢貞通(さだみち)という人物でした。

彼は、交換したはずの名刺を紛失しているほか、事件発生当時のアリバイがなく、過去に銀行相手の詐欺事件を4回起こしており、さらに、出所不明の大金も所有していた事が決め手となって、事件発生と同じ年の8月21日に突如逮捕されたのです。

逮捕直後は、一貫して否定していた平沢氏でしたが、その取り調べの厳しさからか、1カ月後には自供しました。

しかし、自供はしたものの公判では無実を主張し続けました。

東京地裁、東京高裁、最高裁と続く中、昭和三十年(1955年)5月7日、死刑が確定します。

薬に知識のない彼に事件の実行が可能だったかどうかの疑問もあり、冤罪が叫ばれる中、代々の法務大臣が死刑執行命令書に署名する事無く37年・・・

平沢氏は刑務所に収監されたままの昭和六十二年(1987年)5月10日、92歳の生涯を終えました。

この事件は、彼が亡くなった現在でも、再審請求中の未解決事件・・・彼の無実を信じる人々は、今も戦い続けているのですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)
|

2011年1月25日 (火)

2転3転…秋田藩の祖・佐竹義宣の山と谷

 

寛永十年(1633年)1月25日、関東から北をメインに戦国武将として活躍し、秋田藩・初代藩主となった佐竹義宣が64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

常陸の国(茨城県)の戦国大名・佐竹義重(さたけよししげ)の嫡男として生まれた佐竹義宣(よしのぶ)・・・ブログには、これまでも伊達政宗関連芦名氏関連で、チョコチョコご登場いただいていますが、本格的な登場は、これが初めて?かも・・・

て事で、義宣さんをメインした個々の情勢は、おいおい、その関連に日に書かせていただく事として、本日はご命日という事で、その生涯についてご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

天正十四年(1586年)、父の隠居に伴い家督を相続した義宣・・・わずか17歳の若き当主でした。

Satakeyosinobu600 この頃、北はあの伊達政宗(だてまさむね)に、南はあの北条氏直(ほうじょううじなお)から、度々の圧迫を受けていた佐竹氏・・・おかげで、一族や重臣の離反に苦しめられた過去もありました。

それゆえか、この義宣という人は、かなり用心深いお方だったようで、昼は重臣にもほとんど顔を見せず、夜には、寝床にカヤを3枚も吊り下げ、戸を開ける時は、長刀を持って、その先っぽで留め金をはずして、コソコソ~と開け閉めしていたんだとか・・・

しかし、北と南におびえつつ暮らしていた彼の運命を変える出来事が起こります。

あの豊臣秀吉小田原征伐です(11月24日参照>>)

この時、なんだかんだで参陣に遅れたライバル・政宗(6月5日参照>>)と違って、義宣は、4月には小田原に到着していたと言います。

到着後はすぐに参戦し、その後の奥州仕置きでも大活躍・・・大喜びの秀吉によって、もともとの常陸や、下野(しもつけ・栃木県)も安堵されます。

しかも、このドサクサにまぎれて、江戸重通(えどしげみち)の持城=水戸城を奪い、鎌倉からの名家=大掾(だいじょう)滅ぼしてしまうトコなんかは、なかなかのクセ者ですね~すみにおけません。

このおかげで、文禄三年(1594年)に行われた太閤検地(7月8日参照>>)によってはじき出された佐竹の領地の石高は54万石強・・・なんと、全国で第8位という快挙!!

伊達と北条に挟まれて風前の灯だった頃を思うと、見事な物です。

ところがドッコイ・・・人生とはわからぬ物、またもや転機がおとずれます。

そう、秀吉の死と、それとともに訪れる、あの天下分け目の関ヶ原の戦いです。

その少し前、秀吉に続いてあの大御所=前田利家が亡くなったその日に起こった石田三成・襲撃事件(3月4日参照>>)・・・この時、わざわざ三成の家に行き、籠に乗せた彼を護衛しつつ、見事に脱出させたのは、ほかならぬ義宣でした。

実は、以前、義宣の従兄弟が事件を起こし、そのとばっちりで領地を没収されそうになった時、そこをうまくとりなしてくれたのが三成だったのです。

「治部(じぶ・三成の事)が死んだら、俺・・・生きていかれへん」
と言うくらいの友情をはぐくんでいた二人・・・

結局、この襲撃騒動で謹慎処分となった三成が、「上杉に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)と称して会津へ向かった徳川家康の留守を突いて、伏見城を攻撃し(7月19日参照>>)、関ヶ原が始まるのですから、この流れからいったら、当然、義宣は三成派=西軍として関ヶ原に参戦する事になります。

が、しかし、実は義宣・・・大いに悩みます。

彼自身は、義理と友情の観点から三成に味方する事を公言しますが、一方では、父・義重が家康寄りの発言・・・

いよいよ戦い迫って、「背後から政宗を撃つ」と上杉の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)に連絡とったかと思えば、家臣を江戸城へと送って「上杉と三成には味方しない」という制約を交わしたりなんぞします。

先見の明があるぶん、彼には先が見えていたのかも知れません。
あるいは、
東西どちらが勝っても生き残れる前田・真田と同じ作戦だったのかも・・・

とにかく、その心の奥底がわからないまま、兵を出していた義宣でしたが、ご存じのように、義宣が迎え撃とうとしたかも知れない家康は、さっさと西へと戻り(8月11日参照>>)、あれよあれよと言うまま、わずか半日にして関ヶ原の決着がついてしまいます(9月15日参照>>)

どっちつかずのまま、この天下分け目を見送ってしまった義宣・・・おかげで、西軍にくみした88人が改易となる中、佐竹は34万石の没収ですみました。

もちろん、家康側で参戦していれば、没収どころか、たんまりと恩賞が貰えるわけですが、はっきりと西軍についていれば、没収ではすまなかったかも知れません。

どちらについて参戦するのが得かは、どちらが勝つかによって、その結果も変わるもの・・・終わってからだと何とでも言えますが、戦う前には、なかなか先が読めないものです。

この場合・・・とりあえず、佐竹氏が残った事をヨシとすべきでしょう。

戦後から2年経った慶長七年(1602年)の4月・・・上洛した義宣は、秋田20万石への転封を言い渡されます。

もちろん、左遷というヤツですが、ここで初代藩主となった義宣・・・この後は、その手腕を内政へと発揮し、秋田藩の基礎を築きます。

こうして義宣は、寛永十年(1633年)1月25日江戸の神田屋敷にて64年の生涯を閉じます。

その後の秋田藩は、江戸を通じて見事に存続し、無事、明治維新を迎える事になります。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)
|

2011年1月24日 (月)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う

 

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密
ですが…

何度も言ってますが、ドラマはドラマなので史実に忠実である必要はなく、大いに創作していただいて良い・・・

ただ、今回も、あの「天地人」同様・・・あまりのスゴさに、ついついツッコミを入れたくなってきてしまいます。

作り手の方々は、頑張っておられるのだから、なるべく、横からの安易なチャチャは入れたくないと思っているのですが、やはり今回も「ワザとなの?」と思えるほどの違和感アリアリです。

そもそも、あの上野樹里ちゃんが、7歳の幼女を演じる事自体に無理があり過ぎ・・・7歳と言っても、かぞえ年ですから、今の満年齢だと6歳=幼稚園児ですよ。

おそらくは、「小さい頃、こんなに仲の良かった姉妹が敵味方に分かれ…」というところで涙を誘うべく(回想シーンが出るんだろうなぁ)、大人の女優さんに初回から演じて貰ってるのだと思いますが、さすがに、若手の演技派No.1の樹里ちゃんでも、幼稚園児はムリです。

そこを必死で演技している姿が痛々しく、物語に集中できませんがな。

次女のを演じる水川あさみさんも、なかなかの演技派ですから、はまぐりの取り合いや団子の取り合いで、樹里ちゃんとともに、幼児っぽいところを頑張って演じてくれてはりますが、もともと27歳のあさみさんが9歳の女の子を演じる事にムリがあるため、頑張れば頑張るほどバラエティのコントようになってしまって、伸び盛りの有望株を潰してしまう事になりはしないかとハラハラドキドキです。

百歩譲って、今より平均寿命も短く、結婚も早い戦国時代なら、きっと成長も早いという事で、現在の幼稚園児よりはるかに大人の考えを持って行動していたのだとしても、今回の徳川家康が信長の命令で息子・信康と妻・築山殿を死に追いやった事に疑問を抱くのは、ちとスゴすぎなのでは?

どうしても、江を「信長の意思を継ぐ者」という風に持っていきたい気持ちもわかりますが、幼児の振る舞いを演じさせておいて、セリフだけが大人も顔負けでは、どうしても気になりますね。

ところで、その信康と築山殿の死についてですが、すでにこのブログでも書かせていただいています通り、その原因は未だに謎となっています。

確かに、徳川家の公式文書では「信長の命令」となっていますが、あまりにも疑問点が多い事から、実際には原因がわかっていないというのが現状です。

私的見解入ってますが、くわしくは以前のページで…
築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
家康はなぜ信康を殺さねばならなかったのか?>>

とは言え、一応、今のところ、家康は信長の命令で信康と築山殿を殺した事が定番のようになっていますので、ドラマでそのように描かれる事も問題ないわけですが、気をつけておきたいのは、今回の第3回の放送の中で、史実であるとされる事は、それ一点だという事です。

しつこいようですが、やはり歴史好きとしては、どこまでが一般的に史実とされている事で、どこからが今回の原作者の創作なのか?という所は、踏まえておきたいのです。

信長とルイス・フロイスの会見の後、本能寺の前フリとおぼしき、明智光秀を叱責する場面がありましたが、信長さんのドラマでよく見かけるあのシーン(光秀を足蹴したりするシーン)ですが、同時代の記録に、信長のパワハラ的な行為が書かれている物はありません。

あのような暴力シーンは、おそらく、後に本能寺を起こす光秀に「信長憎し」の動機づけのためのあとづけ・・・後世の創作と思われます。

佐久間信盛を失脚させた時の、ご本人直筆の手紙なんか見てみると、逆に、光秀をベタ褒め(7月24日参照>>)・・・現に、光秀は、信長の家臣の中で、一番最後に家臣になったにも関わらず、一番始めに城を貰っています。

おそらく信長の中で、光秀は一番のお気に入り・・・だからこそ、あの本能寺の時、敵に囲まれた信長は、真っ先に嫡男・信孝の謀反を疑った(出典:三河物語)ともされており、それだけ、光秀が裏切るとは思ってもみなかったわけです。

最後に、もう一つ気になる事・・・それは、家康の扱いです。

今回の主たる出来事である信康&築山殿・殺害にも絡む事ですが、ドラマの中では、その光秀を叱責した後、江の「なぜあのような事を・・・」という質問に対して、
「光秀にはに良い仕事はできん」と言い、
「妻の代わりに死ねる秀吉と妻と息子を殺した家康を裏切るわけにはいかん」
的な事を、あたかも3人が同等のような雰囲気でおっしゃってたようですが、光秀と秀吉は家臣で、家康は同盟者ですから、本来なら同等に扱う事はできません。

だからこそ、(話は戻りますが)信康&築山殿・殺害が謎なのです。

同盟者=家康は、光秀&秀吉と同等なのではなく、信長本人と同等なので、「妻子を殺害せよ」などといった命令を、信長が同盟者に相談もせず、娘の書状一発で出す事に矛盾があるので、謎なわけです。

・・・という事で、本日は、大河ドラマを見る上で気をつけておいたほうが良いのでは?と思うところを書かせていただきました。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (14) | トラックバック (1)
|

2011年1月22日 (土)

家康の信頼を一身に受けた側室・阿茶局

 

寛永十四年(1637年)1月22日、徳川家康が最も信頼した側室・阿茶局こと雲光院が83歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

阿茶局(あちゃのつぼね・本名:須和)・・・出家後は雲光院(うんこういん)と号しますが、その出家は2代将軍・徳川秀忠が没した後で、彼女の人生の中では、わずか5年間という事なので、本日は、最後まで阿茶局という名で呼ばせていただきます。

武田信玄の家臣であった飯田直政の娘として生まれた阿茶局は、はじめ、今川家の家臣・神尾忠重(かんおただしげ)のもとに嫁ぎ、男の子をもうけました。

しかし、夫が合戦にて戦死・・・。

やがて、甲斐(かい・山梨県)駿河(するが・静岡県東部)に侵出してきた徳川家康の目に止まり、25歳の時に召されて側室となったのです。

家康が一目で好きになっちゃうくらいですから、そりゃぁもう美人・・・しかも、かなり頭が良く、家康との会話もグレードの高い物だったようで、合戦にも度々同行させています。

あの小牧長久手の戦い(3月21日参照>>)の時にも、彼女が妊娠中にも関わらず戦場にまで連れていきますが、さすがにこれは負担だったようで、その子は流産するという悲しい結果となってしまいました。

その流産がたたったのか、それからは、阿茶局が家康の子供を出産する事はありませんでしたが、子供がないからといって、家康の彼女への思いが薄れる事はありません。

いや、むしろ、江戸城の奥を取り仕切るなど、家康が生涯に渡って、最も信頼する側室となったのでした。

つい先日も出てきました大坂の陣のきっかけとなった方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)・・・この時の豊臣方の使者・片桐且元(かたぎりかつもと)を、本多正純(ほんだまさずみ)金地院崇伝(こんちいんすうでん)が詰問したと書かせていただきましたが(1月20日参照>>)、かた苦しい会見の中の一服の清涼剤のように同席していたのが阿茶局でした。

見て美しく難交渉もやってのける・・・家康にとって、これほど頼もしい女性はいませんよね。

その翌年の慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣では、その和睦交渉の中心人物として活躍する阿茶局・・・

と言うのも、この時、交渉の舞台となったのが、徳川方の京極忠高(きょうごくただたか)の陣所で、その交渉役に立ったのが忠高の義母・常高院(じょうこういん)だったのです。

常高院とは、浅井3姉妹の次女・お初さん・・・あの淀殿の妹でお江さんの姉=今年の大河ドラマで水沢あさみさんがやってる役ですね。

彼女は、豊臣秀吉の仲介で従兄弟に当たる京極高次と結婚していたのです(5月3日参照>>)

本来なら、このような交渉・・・事実上の大坂城内トップである大野治長(はるなが)か、豊臣秀頼の後見人をやっていた織田有楽斎(うらくさい・長益)(12月13日参照>>)なんかがやりそうなものですが、おそらくは、抗戦か講和かで喧々囂々の城内の事もあって、豊臣と徳川の両方に強固な縁を持ち、かつ、中立を保つ事のできる彼女こそが、絶好の交渉役という事になったのかも知れません。

一方の徳川方の阿茶局・・・これも、やはり相手を見た家康の判断でしょうね。

もちろん陣所を貸した忠高のサポートもあったのでしょうが、天下を動かす戦乱の中、にらみ合う大軍の前に進み出る女性二人の姿は、いかにも凛凛しく優雅であった事でしょう(12月19日参照>>)

やがて徳川の天下となった後、すでに75歳を迎えていた家康は、死の床につくわけですが(4月17日参照>>)、この時、その遺言として、彼女にだけは剃髪をして尼になる事を許さなかったのだとか・・・

普通は、正室・側室ともに、ダンナさんが亡くなれば、その後は尼となり、一族の菩提を弔うというのが一般的なコース・・・しかし、阿茶局だけには、「仏門に入らず、息子・秀忠の補佐を頼む」と家康は言い残したのです。

どれだけ信頼が厚いかがわかりますね。

実際、家康の死後の阿茶局は、江戸城竹橋門内の屋敷に300石を与えられて住み、秀忠どころか第3代将軍・家光にまで仕え、特に外交面で、その手腕をふるいました。

元和六年(1620年)に秀忠の娘・和子後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)中宮として入内する時には、その母親代わりとして見事にお世話したのたとか・・・

その功績が認められて従一位を賜った彼女は、宮中では神尾一位殿と呼ばれていたのだそうです。

やがて寛永九年(1632年)、秀忠の死とともに、その役目を終えたかのように剃髪し、雲光院と号した阿茶局・・・

その5年後の寛永十四年(1637年)1月22日、彼女は静かに息をひきとります。

前夫の死後に巡り合った家康という後の天下人によって、その運命が大きく変わり、江戸時代という長き武士の世の基礎を築く事になった女性・・・阿茶局。

女だてらに鳴りやまぬその腕を、思う存分ふるえた事に、さぞや満足だったのだろうと思う反面、前夫が亡くならなければ、生まれた息子とともに、暖かい家庭を築いて、フツーの主婦をやってのかしら?

・・・と、人生が一度きりしかない事に、少々のもどかしさを感じる茶々でございました。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年1月21日 (金)

インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満

 

昭和二十年(1945年)1月21日、インドの独立運動に貢献したラース・ビハーリー・ボースが、日本で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

大正四年(1915年)・・・東京は上野精養軒(せいようけん)というレストランで、大正天皇の即位祝賀会が行われました。

時は、第1次世界大戦の真っただ中ではありましたが、日本との交流を、より親密にしたい在日インド人主催によるパーティでした。

このパーティの席で、イギリスによるインド支配の不当を訴え、独立に向けての夢を熱く語る人物がいました。

Bose400 日本に亡命して来たばかりの独立運動家=ラース・ビハーリー・ボース(ラス・ビハリ・ボース)でした。

日露戦争における日本の勝利に感銘を受け、インド独立運動を志す事になったラースは、そのいきさつも含め、現時点での運動の大変さをとうとうと演説し、聞き入る人々に深い感動を与えたのでした。

しかし、この日の事がイギリス大使館にバレてしまいます。

そうです。
イギリスが支配しているインドの独立を目指しているのですから、当然、ラースにはイギリスからの逮捕状が出ていたわけです。

早速、イギリスは日本政府に対して、ラースに「5日以内の退去命令」を出すように要求してきました。

その命令に従ったラースが、日本を離れたところを捕まえようというのです。

逮捕されれば、当然、死刑が待っています。

しかし、第1次世界大戦当時の日本は、イギリスの同盟国・・・逆に、彼らインド独立運動家が、当時の敵国であるドイツと組んで「反乱を起こそうとしている」などと言われると、断わりきれない・・・

結局、日本政府は、イギリスの要求を呑んでしまうのです。

このニュースを聞いて反発したのが、アジア各国の独立を支援する民間団体=玄洋社(げんようしゃ)を立ち上げていた頭山満(とうやまみつる)たちでした。

Touyama500 「インド独立に奔走する彼らは、日本で言えば勤王の志士・・・そのような者を敵の手に渡す事は、日本国の恥になる!」
とばかりに、ラース保護に向けて動き出すのです。

ラースに直接の面識のなかった頭山は、当時亡命中だった中国の革命家=孫文(そんぶん)を介して連絡をつけたと言います。

同時に、その保護する場所を探します。

「あそこが良いか」
「ここは危険か」

と思案する中、頭山は、いつも通っている新宿のパン屋=中村屋に立ち寄りました。

すると、そこの主人=相馬愛蔵(そうまあいぞう)が、その日の新聞を見ながら
「なんやねん!この政府の弱腰外交は!」
と、最近の日本でも聞いたようなセリフを吐きながら憤慨中・・・

何度も、この店に通っている頭山・・・すでに主人の相馬とも顔見知りでしたから、ふと、その流れてラースの事を口にします。

「よっしゃ!万が一の時はかくまったってもえぇで!」
と、相馬・・・

そう、実は、すでにクリームパンで一世を風靡した相馬は、儲けたお金で店の裏手にアトリエを作り、何人かの芸術家のパトロンにもなっていました。

「このアトリエなら大丈夫かも・・・」

早速、行動を起こします。

まずは、ラースを頭山邸に招きます。

当然、ここでは警察官数名の尾行がついていますが、正面玄関から入ったラースは、すぐに服を着替え、邸宅の裏手にある断崖を下り、そこに待っていた車に乗り込み、一路、新宿の中村屋へ・・・

頭山邸内では、ラースの脱いだ服に着替え、頭にターバンを巻いた仲間がインド人のふりをして警察官を惹きつけています。

中村屋の前に止めた自動車から降りて店内に入ったラースは再び着替えて、奥のアトリエに・・・今度はラースの服を着た店員が、あたかも買い物を終えたようなフリをして、待たせておいた自動車に乗り込み、その後、行方をくらます・・・

この2重の配慮により、無事、ラースは逃亡に成功したのです。

その後、4ヶ月に渡って、このアトリエに隠れていたラースでしたが、やがて頭山らの働きかけに応じた日本政府が、国外退去命令を撤回し、何とか、日本にいる限りは、ラースの身の安全が保障される事になりました。

・・・と、同時に、ここで恋に落ちるラース・・・
そう、自分をかくまってくれた中村屋の相馬夫婦の娘=俊子と・・・

命令撤回後は、日本中を転々としていたラースでしたが、3年後の大正七年(1918年)には、その俊子と結婚・・・この頃にはイギリスからの追及もなくなりはじめ、やがて大正十二年(1923年)に、彼は日本に帰化しました。

そして、訪れる激動の昭和・・・

日本の軍部と結んだラースが、インド独立運動の中心人物の一人となりはじめる頃、日本は大東亜戦争(第2次世界大戦)へと突入し、大陸へと進出していく事になります。

ただ、残念ながらラース自身は、インドの独立を目の当たりにする事なく、昭和二十年(1945年)1月21日中村屋の人々に見守られながら、59歳の生涯を閉じました。

インドが独立するのは、その2年後・・・1947年の8月15日の事でした。

ちなみに、現在の中村屋にも伝わる「純インド式カリー・ライス」は、この時のラースが相馬夫婦に伝えた物・・・

それまで、日本に普及していたカレーライスは、帝国海軍がイギリス海軍の煮物をアレンジして作った日本式の物(発祥の地が横須賀か呉かってヤツです)・・・インドのそれとは似て非なる物だったそうで、その事から、ラースは「インドカレーの父」とも呼ばれます。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月20日 (木)

逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝

 

寛永十年(1633年)1月20日、徳川家康ブレーンとして活躍した禅僧・金地院崇伝が、64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

源氏の流れを汲む名門・一色氏に生まれた以心崇伝(いしんすうでん)は、室町幕府の幕臣だった父が亡くなると、南禅寺(京都府)塔頭(たっちゅう・大寺院に付属する寺院)金地院(こんちいん)に入ります・・・この事から一般的に金地院崇伝(こんちいんすうでん)と呼ばれます。

Suuden600 さらに、醍醐寺(だいごじ・京都府)三宝院などでも修業を重ねますが、特に、相国寺(京都府)では西笑承兌(さいしょうじょうたい)に師事しました。

やがて、禅興寺(神奈川県)建長寺(同)などの住職を経験した後、古巣・南禅寺に戻って、第270世の住職となり、臨済宗五山派のテッペンを取ります。

ちょうど、この頃、将軍職を三男の秀忠に譲って、駿府(すんぷ・静岡県)にて大御所政治を開始しはじめた徳川家康・・・そんな家康のブレーンとなっていたのが承兌でしたが、その承兌が亡くなった事で、以前に弟子であった縁から、崇伝がその後任として駿府に呼ばれたのでした。

慶長十三年(1608年)・・・崇伝・39歳の時でした。

同時期に家康のブレーンとして活躍した禅僧に閑室元佶(かんしつげんきつ・三要元佶)もいましたが、この人が比較的やんわりとした政策に携わったのに対して崇伝の政策は、まさに容赦なし!

これが、崇伝自身の性格による物か、はたまた、単に家康の意に叶う事を重視したための結果なのかは想像するしかありませんが、とにかく厳しい政策を、バンバンうちあげていくのです。

まず、手始めに行ったのが、あのキリスト教禁止令です。

そう、この後、恐ろしいほどの弾圧に向けてひた走る禁教令の原案を考えたのが崇伝です・・・しかも、たった一夜で書き上げたのだとか・・・

さらに、あの慶長十九年(1614年)・・・大坂の陣の発端となる方広寺の鐘銘事件豊臣秀頼が寄進した方広寺(京都府)の鐘に書かれた文章を、家康を呪う文章だとイチャモンつける事件です(7月21日参照>>)

以前、書かせていただいた上記のページでは、同じく家康のブレーンであった南光坊天海(なんこうぼうてんかい)を主役にさせていただきましたが、現存する記録の中には、この崇伝こそが、アノ屁理屈を考えた張本人だとしている物もあります。

その後の交渉で、豊臣方から派遣された片桐且元(かたぎりかつもと)と面会した本多正純(ほんだまさずみ)・・・その正純の隣にいて、且元に厳しく詰問し、例の「絶対に豊臣方がOKするはずのない条件」を提示したのも崇伝だとされています。

結果的には、この条件を呑む事ができない故の豊臣方の合戦準備・・・という事になるのですから、「なんとしてでも、向こうから拳をあげさせたい徳川方」としては、思い通りの展開となったワケです。

さらに、徳川の治世が確立されていく段階では、寺院をがんじがらめにする「諸宗寺院法度(しゅしゅうじいんはっと)、天皇と公家をターゲットにした「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)、部下を統率するための「武家諸法度」など・・・

これらの徳川幕府の基盤となる法令の原案作成に深く関わったと言います。

あまりに厳しい政策を展開した事で、大徳寺(京都府)の名僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)からは「天魔外道(てんまげどう)と罵倒され、庶民からは「大慾山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)なんていう悪人丸出しのニックネークで呼ばれていのだとか・・・

また、寛永四年(1627年)に起こった紫衣(しえ)事件(11月8日参照>>)・・・これは、天皇の名で許した物を幕府が否定し撤回させるという、まさに、幕府による天皇管理を見せつけた事件ですが、この時、反対意見を提出したかの沢庵ほか2名に厳罰を与えようともしたとの事・・・

ただし、この時は、上記の天海の提案によって減刑されたとされています。

んん???
天海の?

ほんでもって、先の大坂の陣の前交渉の時が、正純と宗伝???

なんだか、当時の幕府の構図の変化が見え隠れしますね~

以前、書かせていただいた「家康の遺霊・改葬問題」(4月10日参照>>)・・・
その場所が久能山(静岡県)なのか?日光(栃木県)なのか?
そして神号は、明神なのか?権現なのか?
でモメたアレです。

この時、家康の死からまもなく、久能山へと葬り、その後明神を主張したのが崇伝と正純で、日光と権現を主張したのが天海と土井利(としかつ)・・・

ご存じのように、現在、家康さんは日光東照宮に東照大権現として鎮座されます・・・そう、天海が勝ったわけですね。

そして、その後、正純も、ご存じのあの「宇都宮釣天井事件」で失脚してます(3月18日後半部分参照>>)

そうです。
偉大な家康という後ろ盾を失った崇伝・・・かたや、2代目の秀忠、3代目の家光に取り入って重用された天海・・・

両者の明暗は見事に分かれました。

この後は、家光のブレーンとして腕をふるう天海・・・

確かに、記録の通りだと、あれだけの厳しい政策を立案した人ですから、悪く言われた事も事実なのかも知れませんが、天下を取ったヤツらから見れば、政争に敗れた崇伝の事なんて書きたい放題じゃないかしら?

天の邪鬼な私としては、その悪評がどこまで真実だったかを、少々疑いたくなる今日この頃です。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年1月19日 (水)

江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」

 

延享元年(1744年)1月19日、江戸幕府が偽虚無僧の取締令を発布しました。

・・・・・・・・・・

私・・・子供の頃、京都四条大橋を通るたびに思ってました。

(四条大橋付近はメッチャ人通りが多いので…)
「ここで、お坊さんの格好して立ってるだけでメッチャ儲かるやん。
けど、お坊さんでもないのに、そんなんしたら怒られるんやろなぁ」
(←子供なので許してください(*_ _)人)
と・・・

でも、今日の出来事を見て、
いつの世も、アホな人間の考える事は同じやねんなぁ~とつくづく…

そうです。
「江戸幕府が偽虚無僧の取締令を発布」

こういう法令が出る時は、大抵、それによる被害やもめ事が多発したためであって、それだけニセ虚無僧が大勢出没していたって事ですからね。

・・・で、そのニセではない本物の虚無僧(こむそう)というのは、剃髪せずに尺八による「音声説経」をしながら諸国を回る普化宗(ふけしゅう・禅宗の一派)の僧の事・・・

Komusodukiyo600 その普化宗では、尺八は法器とされ、仏教的に尊い物・・・その音は、単なる音楽の音とは違うわけで、その尺八の音を借りて説法をするというわけです。

とは言え、多くの場合、深~い編傘をかぶり、腰には刀を差し・・・という怪しさ満載のそのお姿で、辻や各家の前などに立って無言のまま尺八を吹く・・・

最近の大阪では、とんとお見かけする事がなくなりましたが、私が子供の頃には、遊びに行こうと戸を開けると、ド~~ンと立っていはったり、外出から帰ると、家の前で尺八を吹いていはったり・・・と、大人には理解できても、子供にはトラウマになりそうな事が何度もあったもんです。

ちなみに、ウチでは、夜遅くまで騒いでいると
「はよ寝な、虚無僧来るで!」
と怒られてました。(←マジメな虚無僧さん、スンマセン)
(お前、いくつやねん!というツッコミはなしヨ)

ただ、さすがに、町角での出会いは少なくなったと言えど、時代劇などでは時々登場する事もあり、お若い皆さまも、虚無僧の存在はご存じのはず・・・

個人的には、時代劇の虚無僧=隠密同心伊坂のダンナなんですが・・・

・・・で、そんな虚無僧
最初は、深編傘をかぶって尺八を吹いて・・・というだけだったのが、江戸時代になって、托鉢(たくはつ・街角で経をあげて資金を集める)をする時には、藍色または鼠色の無紋の服男帯、首には、背中には袈裟(けさ)を掛けて、頭には天蓋(てんがい・イ草などで編んだ深い編傘)をかぶるというのが、幕府によって決められた定番のスタイルになったのだとか・・・。

思うに、すでにこの時に、あまりにも千差万別な虚無僧が登場してたって事でしょうね。

そんな中で、やがて登場するのが偽虚無僧です。

だいたい、あの深い傘じゃ、顔もさしませんからね~
今で言えば、フルフェイスのヘルメットか目出し帽ですもん。

しかも、一般の僧なら、それこそ、ありがたいお経の一つも唱えなければ托鉢もできませんが、虚無僧なら、尺八が吹けさえすれば何とかなりますから、「ちょいと練習してやってみよう」って輩が出て来るのも、もっともかも知れません。

・・・で、本物の虚無僧なら、托鉢で、店の前や家の前に立って何も貰えなかったとしても、それは修業の一環ですから、何も言わずに、ただ立ち去るだけですが、当然ニセ者の場合は違います。

「なんで、金を出さないんだ!」
と店前で暴れてみたり、脅したり・・・

一般人とのトラブルが絶えない状態となり、とうとう、延享元年(1744年)1月19日幕府が偽虚無僧の取締令を出したわけです。

その後も何度か出された取締令のおかげで、江戸時代も後半になると、虚無僧も各寺でちゃんと管理されるようになり、その寺が発行した証文がないと托鉢できないようなシステムができあがっていたようです。

やがて、明治の廃仏の嵐に飲み込まれて、一旦は、宗教ごと廃止となった虚無僧ですが、ご存じのように、「宗教の自由」が保証された現在になって、再び普化宗がよみがえり、虚無僧も復活しました。

なので、現在の虚無僧さんは、全員、本物の虚無僧・・・安心して、思いっきり「音声説経」をやってもらっちゃってください。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月18日 (火)

14年間に26回~持統天皇の吉野行幸

 

持統三年(689年)1月18日、鵜野讃良皇女が第1回めの吉野行幸を行いました。

・・・・・・・・・・・

鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)・・・この翌年に第41代持統(じとう)天皇として即位される女帝です。

彼女は、この第1回の吉野行幸をかわきりに、亡くなるまでの14年間に26回も吉野の宮に通っています。

1年に一度は必ず・・・年によっては3回も吉野へ行っています。

その時に通ったであろう道が、以前ご紹介した奥明日香と呼ばれる稲淵(いなぶち)柏森(かやのもり)から芋峠を越えて大和上市(かみいち)に至る道・・・(9月5日参照>>)

もちろん、吉野までの確かなルートはわかりませんし、他に行く道がないわけでもなく、その都度ルート変えたのかも知れませんが、この道沿いには、持統天皇の祖母にあたる斉明(さいめい)天皇が、度々雨乞いの神事を行った飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社(あすかがわかみにいますうずたきひめのみことじんじゃ)もあり、父の天智天皇が学問を教わった南淵請安(みなみぶちしょうあん)の屋敷もあったわけで、おそらくは、その時代のメインルートとして確立されていたであろう道なので、たぶん、この道だと・・・

ところで、持統天皇は、なぜ、そんなに何度も吉野へと行ったのしょう?

それは、やはり彼女の歩いた波乱万丈の人生・・・そして、その波乱に満ちた中から自らの手でつかみ取った頂点の座・・・

しかし、いざ頂点の玉座に座ってみた時、これまで、先に逝ってしまった人々への思いや、幼子が成長するまで維持しなければならない現在の椅子の重みに、時々は、その心が潰されそうになる・・・そんな時に、持統天皇は「そうだ!吉野へ行こう!」と腰をあげたのかも知れません。

そんな彼女の波乱の生涯・・・とは言え、すでに、持統天皇・崩御の日づけで、すでにサラッとご紹介させていただいておりますので(12月22日参照>>)、少し内容がかぶるかも知れませんが、本日もお付き合いくださいませ。

Dscn3975a800 稲淵付近の飛鳥川…飛鳥川沿いの吉野への道については、本家HPの歴史散歩で紹介していますので、コチラからどうぞ>>

彼女の父は第38代天智天皇(当時は中大兄皇子)、母は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の娘・遠智娘(おちのいつらめ・造媛)・・・あの乙巳(いっし)の変蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)の年に生まれます。

すでに幾人かの妃がいる中大兄皇子ですが、同じ母から生まれた兄弟には、姉の大田皇女(おおたのひめみこ)、後に6歳年下の弟・建皇子(たけるのみこ)が生まれますが、この弟が生まれる2年前の大化五年(649年)・・・ともに大化の改新を成し遂げて政治を行っていたはずの父・中大兄が母方の祖父・石川麻呂を攻めたのです(12月4日参照>>)

祖父は建設中の山田寺に放たれた炎の中で死に、夫と父のハザマで苦悩した遠智娘は建皇子を出産後まもなくに自殺したとも言われています。

祖父を、そして結果的に母をも死に追いやった父の保護を受けて暮らす幼子たちの心はいかばかりであったでしょうか。

やがて、鵜野にとって一大転換期がおとずれます。

父の指示により、父の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)妃となったのです。

大海人=27歳、鵜野讃良皇女=13歳・・・ほぼ、同時期に姉の大田皇女も大海人皇子の妃に・・・つまり姉妹は、二人揃って叔父のところに嫁いだという事です。

その後、病弱だった弟・建皇子が、わずか7歳で亡くなった後、悪化する朝鮮半島情勢に備え、まさかの時に迎え撃つべく、時の斉明天皇以下、大船団を組んで九州へと移動します。

この移動中の船の中で、姉・大田皇女は、女の子=大伯皇女(おおくのひめみこ・大来皇女)を出産しますが、九州に到着後まもなく、祖母にあたる斉明天皇が旅先で亡くなります(7月24日参照>>)

母に代わって皇太子のまま政務をとる父・中大兄・・・その1年後には鵜野も男の子=草壁皇子(くさかべのみこ)を出産し、さらに翌年には、大田皇女が男の子=大津皇子(おおつのみこ)を出産と、姉妹はベビーラッシュに包まれます。

やがて白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)も終わり、少し落ち着いた朝鮮半島情勢に防人(さきもり)(2月25日参照>>)をおく事で対処し、飛鳥へ戻った御一行でしたが、心機一転とばかりに都を近江(滋賀県大津市)に遷した(3月19日参照>>)中大兄皇子は、翌年、ようやく第38代天智天皇として即位します(1月3日参照>>)

しかし、次の波乱は、それからわずか3年後にやってきます。

その天智天皇の死を受けて、後を継ぐ者が二人・・・弟の大海人皇子と、天智の息子・大友皇子です。

この時、次期天皇に大友皇子を推す声に身の危険を感じた大海人皇子は、わずかの側近を連れて吉野へと逃れたのです(10月19日参照>>)

すでに姉・大田皇女が亡くなっていたこの時・・・大海人皇子の妃の中でトップの位置となっていた鵜野讃良皇女は、夫に従い、ともに吉野に向かったのです。
おそらくは、かの道を通って・・・

ここが、彼女の「吉野行幸」の原点と言えるかも知れません。

かくして、かの大友皇子との間で勃発した壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利した大海人皇子は、天武二年(673年)2月・・・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位して第40代天武天皇となり、律令国家の原型となるべき政策を開始します(2月25日参照>>)

しかし、すでに次の波乱への予兆が見え始めていました・・・そう、今度は、その天武天皇の後継者です。

天武八年(679年)の5月・・・天武天皇は思い出の地である吉野へ行幸します。
もちろん、すでに皇后となっていた鵜野や、そのほかの9人の妃との間に生まれた17人の皇子・皇女とともに・・・

冒頭に書かせていただいたように、持統天皇は何度も吉野へ赴いていますが、天武天皇が吉野に行ったのは、かの挙兵の時と、この時の2回だけ・・・これが、いかに重要な事かがわかりますが、この時、一つの儀式が行われています。

後に吉野の誓い(吉野の盟約とも)と言われるもので、「千歳の後に事なからしめむ」と・・・言わば、「今後とも仲良くやろうな」てな事を天皇と皇后の前で、皇子や皇女たちに誓わせわけですが、この時、子供たちを代表して一歩前へ進み、うやうやしく誓いをたてたのが、17歳になっていた草壁皇子・・・

そうです・・・鵜野は姉の子=大津皇子をけん制すべく、我が子をここで代表的立場にさせ、後継者が自分の子=草壁皇子である事を印象づけさせたのです。

これが持統天皇にとって2度目の原点でした。

ところが、皇子たちが成長するにつけ、病弱でおとなしい草壁に対して、聡明で活発な大津に政界の人望は集まるばかり・・・やがて天武天皇が朱鳥元年(686年)9月に亡くなると、その後1ヶ月も経たないうちに大津皇子は謀反の疑いをかけられて処刑されてしまいます(9月24日参照>>)

おそらくは、我が子のために、その障害となる優秀な皇子を抹殺したであろう鵜野・・・その事件から3年後の持統三年(689年)1月18日鵜野讃良皇女は、初めて吉野への行幸を行ったのです。

しかし、その母の思い空しく、草壁皇子は、このわずか3カ月後の4月13日に亡くなってしまうのです。

母として、これほどの悲しみはなかったはず・・・まして、大津皇子を死に追いやってまで整えた帝王への舞台なのです。

だって、大津皇子は、祖父と母が父の手によって死に至った悲しみをともに味わった姉の息子・・・その悲しみに耐えながらも、ともに生きた姉の子を、彼女だってかわいくないわけはありません。

それを押し殺して用意した舞台だったはずです。

しかし、悲しみに暮れている余裕は、彼女にはありません。

幸いな事に草壁皇子には、その後継者となるべき息子=軽皇子(かるのみこ・珂留皇子)がいます・・・ただし鵜野にとって孫にあたるその皇子は、まだわずか7歳・・・

「この孫が成長するまで、この舞台を守り抜かねば・・・」
翌・持統四年(691年)、彼女は第41代持統天皇として即位します。

そして冒頭に書かせていただいた通り、その後、大宝律令の制定を見届けた大宝二年(702年)に58歳で亡くなるまでの14年間に、26回も吉野へと通うのです。

祖父と母の死に、絶える強さを身につけた皇女は、夫とともに天下を狙い、息子のために可愛い甥っ子を排除した・・・血も涙もない鉄の女と化した持統天皇は、ひょっとしたら、その玉座を維持するために、自らが絶えられなくなるような重みを感じていたのかも知れません。

悲しみに耐えられない時、
自分が潰れそうになった時、
持統天皇は、夫との出発点&息子との出発点である吉野へと向かい、その重荷に絶えようとしていたのかも知れません。

持統天皇の吉野行幸の数は、その悲しみの数でもあったのです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月17日 (月)

和装から洋装へ…女性の服装も文明開化

 

明治二十年(1887年)1月17日、昭憲皇后が、女性の服装に関してのお召し書を出されました。

・・・・・・・・・・

「西洋の女服を見るに、衣と裳(も)と具(そな)うることは本朝の旧制のごとくして、ひとえに立礼に適するのみならず、身体の動作、行歩の運転に便利なれば、その裁縫に倣(なら)わんこと当然の理なるべし」

つまり・・・
西洋の服は上下に分かれているけど、これは、衣と裳(成人式のページの画像を参照>>)があった昔ながらのこの国の衣装と同じ・・・立礼に適してるし、動きやすいし、歩くのにも便利なんやから、コレを使わん手はないで!
てな感じですね。

Syoukenkougou400 昭憲皇后(しょうけんこうごう・追号は昭憲皇太后)は、あの明治天皇の奥さん・・・その方がこうして、女性も洋服を着る事を推進される事で、国民にも広く洋服を着てもらおうという試みなわけです。

ちなみに、この時に昭憲皇后が出されたお召し書きを重視して、現在でも、皇室の女性の皆さまは、正式な場所では洋装でお出ましになる事になってます。

ところで、明治維新となってから様々な事が西洋化されていきますが、服装や身だしなみなど、長年身に着いたはなかなか捨てがたく、それが変化するには思いのほか時間がかかりました。

そもそもは、あの戊辰戦争の時に、西洋の軍事技術を導入すると同時に、その制服も採用されはじめ、後に政権を握った明治新政府も西洋式軍服を採用した事で、多くの一般男性は、軍服という形で初めての洋服を体験する事になったわけです(3月15日参照>>)

それに続くように明治四年(1871年)8月には断髪令が発布され、チョンマゲ禁止になったのですが、やはり、なかなか一般男性が髪を切る事はありませんでした

翌・明治五年の11月には、政府が公式の礼服に洋服を採用する事を決定し、一部はこの波に乗っかって行くのですが、やはり、それは、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)に代表されるような上流階級の人たちばかり・・・

で、なかなか髪を切らない庶民のために、一役かって出られたのが明治天皇・・・断髪の法令が出てから2年後の明治六年の3月に、天皇自身が自ら率先してショートヘアにされた事で、一気に断髪が普及したのです(8月9日参照>>)

皇室を敬う気持ちの強い明治の人々にとって、明治天皇はお手本とすべき方・・・「その方が率先してされるなら・・・」というわけですね。

それは皇后陛下にも言える事でした。

実は昭憲皇后は、その明治五年の3月3日のひな祭りの日にも、自らがお歯黒・眉墨をやめ、文明開化への模範を示しておられました。

そして、今度は、2度目の変換期とばかりに、明治二十年(1887年)1月17日女性の服装に関してのお召し書を出されたのです。

ここで、多くの女性が・・・と言いたいところですが、やはり、これも一部の上流階級のみ・・・

と言うのも、すでに明治四年に、女性をターゲットにした横浜ローズマンド洋服屋が、「ヨーロッパから取り寄せたホンモノの生地を使う本物志向の洋服を・・・」というキャッチフレーズでオープンしたりなんかして、徐々にそんなお店も増えてはいましたが、なんせ、その値段がハンパなく、とてもじゃないが庶民に手が出せるような品ではないわけで・・・

しかも、あまりにも過剰に西洋志向な新政府には、誰だって反発したくなるのもの・・・結局、逆に庶民は、古代からの古き良き物を求める傾向になってしまい、女性が洋服にチェンジするまでには、もうしばらくの時間を要する事になります。

ところで、ある調査によれば、洋服での肺活量を100とした場合、着物を着て帯をしめた時の肺活量は84くらいなんだそうです。

息苦しいはずですね~

これは、明治以前の女性の息苦しさでもあり、その頃は女学(父・夫・子に従う三従の教え)を身につけている事が女性として良い事で、夫を主人と思い、実の親より舅を大事にするのが賢く親孝行であったわけです。

何を言いたいかと言いますと、本日の昭憲皇后のご提案からは、かなり後々の事ではありますが、一般女性の服装が着物から洋服に変わるにあたって、一番の貢献をしたのが、賢い女性の定義を「女学」から「学問を身につけている」事に変えた女学生の出現だったからです。

彼女らは、着物を身につけてはいますが、大帯の上に袴をつけ、足駄(あしだ・雨に日にはく歯の少し高い下駄)をはいて腕まくりしながらキャンパスを闊歩したのだとか・・・

「女学のかけらもない活気がましき風情」と、一部の新聞などで叩かれた彼女たちでしたが、活気に満ちた彼女らの姿こそが、その後の女性たちを、締めつけられない解放された服装へと導いていったのかも知れませんね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年1月15日 (土)

1月15日は小正月…お粥を食べて、男も女も「嫁叩き」

 

そもそもは平安時代の宮中・・・

この1月15日にはお粥を食する習慣がありました。

『延喜式』には、(あわ)(きび)小豆胡麻(ひえ)(ものごめ)7種の穀類を煮て食べた事が書かれています。

しかし、この日の行事は、これで終わりません。

あの『枕草子』には・・・
「十五日 節供まゐりすゑ 粥の木ひきかくして
家の御達女房
(ごたちにょうぼう)などのうかがふを
うたれじと用意して
常に後を心づかひしたけるけしきもいとをかししに
いかにしたるにかあらん
うちあてたるはいみじう興ありて
うち笑ひたるはいとはえばえし」

とあります。

つまり、お粥を食べた後・・・
そのお粥を煮た燃えさしや、お粥をかきまぜた棒などを手に手に持って、若い女の子や若い男の子の尻を叩いて追っかけまわした・・・と。

「いとをかし」「いとはえばえし」
なのですから、その顔つきは皆笑顔で、まさに狂喜乱舞といった感じで宮中を走り回りながらの一大イベント・・・

実は、こうして尻を叩くと男の子が生まれるという言い伝えがあり、この日ばかりは無礼講で、身分の上下に関係なく大騒ぎしたのだとか・・・

このイベントは、やがて室町時代頃になると、少し簡素化され、宮中だけでなく、武士や庶民の間にも行われるようになります。

お粥は小豆の1種類・・・つまり小豆粥(あずきがゆ)となり、疫病を祓う祝いの行事となっていくのです。

庶民の間では14日に、歳越(としこし)と称して丸いお餅を杖にはさんで、家々の門を叩いて廻った後、そのお餅を翌日の小豆粥に入れて食べたり・・・と、いわゆる小正月、あるいは、関東では烏追いと呼ばれる行事になっていきます。

もちろん、あの狂喜乱舞の尻叩きも健在・・・

新婚さんの家では「嫁叩き」と称して、例のお粥の棒で、新しくやってきたお嫁さんの尻を叩くのです。

嫁イジメじゃありませんよ・・・上記の通りの、元気な男の子が誕生するおまじないです。

以前、やはり14日と15日に行われるとんど焼き(左義長)のお話を書かせていただきましたが(2008年1月14日参照>>)、そのページでも、とんど焼きがお正月にやってくる年神様のお見送りであるとともに、子孫繁栄を願う道祖神のお祭りであると書かせていただきました。

とんど焼きと小豆粥と嫁叩き・・・単に、同じ日に行われるだけではなく、やはり、何かのつながりのある行事なのでしょう。

この「嫁叩き」は、とんど焼き同様、近代まで全国的に行われていたメジャーな行事で、ひょっとしたら、地方によっては、今も行われているところがあるかも知れませんね。

ちなみに、このお嫁さんを叩く棒・・・
いわいそ 祝い棒
ほいたけ棒 ほたたき棒 ぼんでこ
卯杖 卯槌 粥杖
はらめっそ はらめん棒 こはらめ
御用棒 大の子 大の金剛 大の鉾
嫁祝い棒 よんどり棒
・・・などなど、

地方によって様々ではありますが、ちゃんと名前があるそうです。

「粥杖」はそのまんまの名称ですね。
まぁ、「こはらめ」も、まんまですが・・・

ほんでもって、叩いた後は、子づくり・・・
「君・・・痛かったかい?」
「ううん、ちっとも…」(*゚ー゚*)ウフッ
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年1月14日 (金)

忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平

 

元禄十五年(1702年)1月14日、「仮名手本忠臣蔵」に登場する早野勘平のモデルとして知られる赤穂藩士・萱野三平重実が、遺書を残して切腹しました。

・・・・・・・・・・・

まずは、忠臣蔵に登場する「お軽勘平」の悲恋から・・・

Okarukanpei600 赤穂藩主・塩冶判官(えんやはんがん)の家来として赤穂江戸屋敷に務める早野勘平は、同じ屋敷に務める腰元・お軽と、ただ今、社内恋愛中・・・

ところが、ある日、チョッピリ仕事をサボッて彼女とイチャイチャしている所に、突然のニュース・・・そうです、主君が江戸城内の松の廊下で大暴れして起こしちゃった傷害事件の罪により、即日切腹に処せられた、あの事件です。

藩が、「お取り潰しだ」「城は開け渡しだ」とゴタゴタする中、大事な時にカノジョと会ってたという罪の意識にさいなまれた勘平は、藩士の身分を捨てて浪人となり、お軽とともに彼女の実家のある京都・山崎で暮らす事になります。

「罪の意識のワリにはオンナの実家にころがり込むんかい!」というツッコミはさておき・・・ある日、その山崎街道で、元同僚の千崎弥五郎(せんざきやごろう)と偶然再会します。

千崎は、すでに水面下で進行中の仇討をたくらむ同盟の一員・・・気まずさから藩を去った勘平ではありましたが、忠義の心は失くしていませんから、そのグループに加わりたいものの、負い目があって言いだせません。

一方の千崎も、バッタリ会っただけの勘平に、極秘の同盟の事を伝えて良いものかどうか迷います。

そこで千崎・・・
「昔の仲間から寄付集めて、主君追悼の碑を建てる計画があんねんけど、一口乗れへんか?」
と誘います。

もちろん、この追悼碑建立はウソで、それを口実に勘平の本心を探っていたわけですが、
「よっしゃ!近いうちに届けるよって、待っててや!」

・・・と千崎と別れて、急いで帰宅した勘平は、早速、お軽と、その父・与市兵衛(よいちべえ)にその話を伝えますが、悲しいかな、この家には、そんなお金はありません。

「それならば・・・」
と、鉄砲を手に、猪狩りに向かう勘平・・・

その間にも話し合う両親とお軽・・・しかし、いくら話し合っても、どこかから借りるあてもない3人は、結局、「お軽が、その身を売ってお金を作る」という結論に達し、与市兵衛は京都へ・・・

祇園の「一文字屋」に、お軽を百両で売る話をまとめた与市兵衛は、手付金の五十両を懐にしまい、一路山崎へ急ぎました。

しかし、途中の山道で見知らぬ男に声をかけられ、油断したところを刀で襲われてしまいます。

懐の五十両目当てに与市兵衛を襲った賊は、なんと、赤穂の悪家老・斧九太夫(おのくだゆう)の息子で、素行の悪さゆえ勘当されていた斧定九郎(さだくろう)でした。

そして、その定九郎が、与市兵衛の五十両を自らの懐に入れて立ち去ろうとした、まさにその時、すぐ近くを猪が走り抜け、慌てて身をそらす定九郎でしたが、その瞬間、それを見止めた人影が、すかさず鉄砲で1発!!!
そして、トドメの2発!!!

苦しみながら倒れ込む定九郎・・・そこに登場したのは鉄砲を手にした勘平でした。

しかし、周囲は暗闇・・・実は勘平は鉄砲で猪を仕留めたつもりでいたのですが、手探り状態で獲物を確認するうち、間違えて人を撃ってしまった事に気づきます。

「何とか、手当しなければ」
「この人、薬でも持ってはいないかな?」
と、さぐったその手に触れたのは、懐の五十両・・・そう、勘平が見つけたのは定九郎の遺体だったのです。

しかし、闇の中でそうとは知らない勘平は、慌ててその財布をつかみ、お軽のもとへと急ぎます。

今まさに、お軽が一文字屋の籠に乗ろうとしている所に戻って来た勘平は、お軽が身を売ろうとしていた事にも驚きますが、明るい所でじっくり見たその財布が、与市兵衛の物だった事にもびっくり!

「俺は猪と間違えて舅殿を撃ってしまったのか・・・」
と悩みながらも言いだせないまま、お軽と別れを告げる勘平・・・

そこへ、与市兵衛の遺体が運び込まれ来て、もはやバレるのも時間の問題・・・

ちょうど、このタイミングでやって来た千崎が、当然のごとく勘平に疑いの目を向ける中、「自分は与市兵衛を撃ってしまったのだ」と思い込んでいる勘平は、正直に、猪と間違えて撃ってしまった事を告白します。

しかし、千崎は、「金欲しさに与市兵衛と知って撃ったに違いない!」と口論に・・・
「そんな金はいらん!」
とばかりに立ち去ろうとする千崎に向かって、

「待ってくれ!俺は本当に猪と間違えたのだ」
と言いながら、勘平は、決意の割腹自殺をはかるのです。

まもなく、与市兵衛の死因が鉄砲ではなく、刀による斬り傷と判明し、勘平への疑いは晴れるのですが、切腹をはかった勘平は、もはや虫の息・・・と、そこへ、仇討同盟者の連判状が届き、そこに「早野勘平」の名が書きくわえられ、勘平は、その連判状を手土産に、あの世へと旅立つのです。

・‥…━━━☆

・・・と、「舅の金なら殺さんでも手に入るんやから、殺人の動機にはならんやろ?」とのツッコミどころがありつつも、感動する結末となっていますが、もちろん、このお話は忠臣蔵の創作・・・

実際のお軽(於可留)ちゃんは、あの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)京都滞在時のお妾さんで、大石の子供を妊娠したものの、彼が江戸へと戻る際にお金を渡されて実家に返されたとの事・・・勘平のモデルの人との恋はありませんでした。

・・・で、この勘平のモデルという人が、萱野三平重実(かやのさんぺいしげざね)・・・

赤穂藩江戸屋敷に務める身分の低い侍だったという事ですが、あの松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)が起こった時に、飛脚でも8日はかかる道のりを、わずか4日で駆け抜け、主君・一大事のニュースを一番に赤穂へ届けた人であります。

途中、偶然にも母親の葬式に遭遇したにも関わらず、忠義を優先して母の顔を見ぬまま、城へと向かった義の人・・・

しかし、そんな忠義の心が、彼を悩ませてしまうのです。

赤穂の城が開城となった後、三平は、父・重利(しげとし)が代官を務めていた摂津(大阪府)萱野に身を寄せます。

当然の事ながら、忠義の心篤い三平は、仇討推進組に名を連ね、ここに身を寄せながらも、その日が来るのを待っていたわけです。

しかし、ともに暮らす父の心は違いました。

仇討を遂げたところで、その先には、何かしらの処分が待っているだけ・・・父親としては、そんな危ない事には加わらず、新たな就職先を見つけて、「新天地で頑張ってほしい」と思うのも当然です。

そこで、自らが代官のつとめるこの地の領主である大野氏に頼み込んでみたところ、「召し抱えても良い」という返事が返ってきたのです。

「よっしゃ~!!」
と、喜んで、息子に、大野家への出仕を勧める重利・・・

しかし義理固い性格であればあるほど、思い悩む事になります。

主君への忠義か、父への恩か・・・三平にとって、どちらも裏切る事のできない相手です。

かくして、
討ち入りの11ヶ月前の元禄十五年(1702年)1月14日、大石に「同士との約束を果たせない事へのお詫びと、影ながらそのい成功を祈っている」という内容の遺書を残し主君の月命日の日に、自宅にて切腹したのです。

享年:28歳・・・

俳人としても数々の句を残している三平の最後の句は、

♪晴れゆくや 日頃心の 花曇り ♪

死ぬほど思い悩んだ若き花・・・
散れば、少しは晴れたのでしょうか?
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月13日 (木)

織田信長の傅役・平手政秀の死

 

天文二十二年(1553年)閏1月13日、尾張の戦国武将・織田信秀信長の父子2代に仕えた重臣・平手政秀が自刃しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長さんは、尾張(おわり・愛知県西部)の武将・織田信秀の息子として天文三年(1534年)に生まれます。

その頃の信秀は、尾張の守護・斯波(しば)家に仕える守護代=織田家の中の家老の一人でした。

本来なら、国主になるはずなどない分家だったわけですが、その織田家内での内紛に乗じて尾張の大部分を手に入れ、本家を脅かす存在になっていったのです。

そんな信秀の後継ぎである信長の傅役(もりやく・教育係)だったのが、信秀の家臣の中でもナンバー2の家老・平手政秀(ひらてまさひで)・・・彼は、古歌に通じて茶の湯をたしなみ、風雅を好む文化人であったと言われます。

しかし、当時の信長は、皆さまがドラマでよくご覧になる通りの不良少年・・・

とても後継者には見えない下品な髪形に、着物の片袖を脱いで
「町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、くり、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりく(食)ひなされ」
とか
「人によ(寄)り懸り、人の肩につらさがりてより外(ほか)は御あり(歩)きなく候」(信長公記)
てな感じで、不良少年のヘッドとして城下を闊歩して、仲間とともに様々な奇行をくりかえし「うつけ」「たわけ」なんて呼ばれていました。

そんな中でも、さらに領地を増やすべく、隣国・美濃(岐阜県)への進攻を繰り返していた信秀でしたが(9月23日参照>>)、天文十六年の加納口の戦いを最後に方針転換(9月22日参照>>)・・・逆に美濃の斉藤道三と同盟を結んで、一方の隣国である三河(愛知県東部)松平広忠との戦いプラス未だ成されていない尾張統一の方を優先する事にします。

この時、同盟の使者に抜擢された政秀は、その見事な交渉術で、両者の和睦を成立させ、信長と、道三の娘・濃姫婚約も取り付けています(2月24日参照>>)

翌年の天文十七年には、無事、濃姫との結婚を済ませた信長ですが、ここに来ても、まだ奇行は収まらず、相変わらず「うつけ」真っ最中・・・年齢がすすむにつれ、傅役の政秀としては、「その奇行を何とかしたい」という思いもあった事は確かでしょう。

やがて天文二十年(1551年)、父・信秀が亡くなり(3月3日参照>>)、信長は18歳で家督を継ぐ事になりますが、ここで信長・・・ドラマでも定番の、父のお葬式での、あの態度・・・

いつものトンデモない格好で、父の葬式に現われた信長は、手を合わすどころか、焼香をわしづかみにして祭壇に投げつけて去っていきます。

一方、その後にやってきた弟の信行は、正式ないでたちに凛とした身のこなし・・・以前から、その奇行ゆえ、「信長は当主にふさわしくないので信行を当主に・・・」と、家臣から出ていた声は、この葬式事件で一段と大きくなったいったのです。

ところで、この信長の「うつけ」ですが・・・
よく、「うつけのフリをしていた」
なんて事も言われますが、私としては「うつけのフリをしていた」のではなく、「本当にうつけだった」と思います。

いや正確には、信長の普通の行動が、「周りから見たらうつけに見えていた」
という事ですね。

皆さん、ご存じのように、この時、信長とツルんでワルサをしていた少年らは、その後、信長の手足となって、その意のままに戦場を駆け抜ける兵士となります。

少年の頃の戦争ごっこが、後に見事に花開く結果となるのですから、むしろ「うつけ」に見えていた信長の行動こそが、最先端の家臣育成方法だったという事になります。

とは言え・・・それは後々わかる事・・・

・・・で、そんな頃に起こったとされるのが、信長と政秀の主従関係に険悪ムードを漂わせる事になるある事件・・・

それは、政秀の長男・五郎右衛門が所持していた駿馬・・・その立派な馬を目にした信長は、
「僕にチョーダイ」
と、馬をご所望・・・

しかし、五郎右衛門は
「俺は侍ですよって、ええ馬に乗るのは当たり前・・・この馬は俺の馬やよって譲れまへん!」
と、キッパリ拒否したというのです。

かくして天文二十二年(1553年)閏1月13日政秀は自ら切腹し、その62歳の生涯を閉じるのです。

その自刃の原因は、いつまでたっても「うつけ」の信長に失望したからとも・・・
あるいは、
自らの命をかけて主君の間違いを訴える・・・いわゆる諌死(かんし)として美談に語られる事が多いですが、一方では、上記の長男の一件で、主従関係にヒビが入ったうえに、その後の長男が信長との後継者争いとなった弟・信行に加担した事への責任をとったとも言われます。

例の『信長公記(しんちょうこうき)には、政秀の死に対する信長の反応は書かれておらず、むしろ、先の事件によって「信長と政秀父子が主従不和になっていた」と書かれていますので、どちらかと言えば後者に近い理由としているのかも知れませんが、もっと後に書かれた『信長記(しんちょうき)『信長軍記』では、「この政秀の死によって、信長が大いに反省し、天下統一の志を掲げるようになる」と、諌死寄りの展開になっています。

とは言え、『信長記』や『信長軍記』は軍記物で小説色が強く、やはり『信長公記』のほうが信憑性が高いのですが、一歴史ファンとしては、政秀の死によって目覚める信長であってほしい気はします。

そんな『信長軍記』には・・・
鷹狩りに出かけて獲物を手にしては、それを空高くかかげ 「政秀、食せよ」
と空に投げてみたり、
川に入っては水を高く蹴りあげ
「平手、これを呑めよ」
と言いながら、涙を浮かべる信長の姿
が描かれています。
(こっちのほうが、やっぱりイイ(*^-^))

それに、馬事件の後も、信行謀反(11月2日参照>>)の後にも、かの五郎右衛門に処分を下したという記録もなく、むしろ、その弟の監物(けんもつ)ともども、その後も家臣として重用しています(二人は長島一向一揆で討死したとされています)

さらに、政秀の末の息子とされる(孫の説もあり)平手汎秀(ひらてひろひで)には、「志賀」と名づけた脇差と、自らが選んだ名馬・笛會羅志(ふえそらし)を与えて、あの三方ヶ原に送り出したと言います。

それって・・・
あの五郎右衛門の馬の一件に「俺は怒ってないで」と信長が言っているような・・・
やはり、彼と平手父子の絆に何の影響もなかった、むしろ、ず~っとつながっていた証のようにも思えます。

だからこそ汎秀も、信長の心に答えるがごとく、武田信玄の本陣に突進していったのでは?・・・そして汎秀は・・・

と、その汎秀さんのお話は、
2年も前の記事ではありますが、12月23日のページでご覧ください>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2011年1月12日 (水)

信長が保護した瀬戸物の長き道のり

 

天正二年(1574)1月12日、織田信長瀬戸に焼き物の特権を与えました。

・・・・・・・・・

お皿や茶碗などの焼物の事を、一般的に「瀬戸物(せともの)と呼びますが、お察しの通り、これはもともとは、現在の愛知県瀬戸市で造られていた焼物の事を瀬戸物と呼んでいた物が、それが、あまりにも有名になったので、焼物の総称として呼ばれるようになった・・・あのセロテープマジックインキ・・・あとチャッカマンボンドなんかもそうですかね。

とは言え、瀬戸で焼物が造られはじめるのは、それが瀬戸物と呼ばれるず~と前・・・縄文時代にさかのぼります。

しかし、この時代は、いわゆる縄文式土器の時代で、瀬戸だからという特徴がある物ではなく、粘土などを600~800度くらいの温度で焼きあげるという物です。

そんな焼物に瀬戸独特の特徴が現れ始めるのは鎌倉時代・・・ここで、日本初の釉薬(ゆうやく・うわぐすり)がかけられた焼物=陶器が、瀬戸に出現したのけです。

こちらは1200~1300度くらいの温度で焼きあげた後、そのままでは吸水性の高かった素地に釉薬をかける事で、その欠点を克服した画期的な製品だったわけで、当時は、まだ、どこもやっていない製法・・・この耐水性が瀬戸物を一気にトップ製品に押し上げます。

そうです。
ちょうど、あの栄西が中国からお茶を持ち帰ったのが建久二年(1191年)(2006年10月31日参照>>)・・・セレブな流行の最先端に、水に強い瀬戸物はピッタリだったわけです。

しかし、同時に、その頃は日宋貿易も盛んな頃でしたから、需要があるとなると、どんどんと大陸からの陶器も日本に入ってくるわけで、そうなると国産品も、同じ事をやっているだけでは太刀打ちできなくなり、様々な工夫をこらしながら、生き残りをかけて成長していく事となります。

そのうち生産拠点が美濃(岐阜県)に移ったりなんかしながらも、やがて天正二年(1574)1月12日信長が瀬戸に焼き物の特権を与えるという保護政策に乗り出し、瀬戸の焼物=瀬戸物を「瀬戸物」と呼ぶという事も、ここで定着します。
商標登録、あるいは特許申請という事かいな?)

この保護政策のおかげか、あるいは同時期に大流行しはじめた茶の湯の効果(2008年10月31日参照>>)、この頃から、瀬戸物にも様々な特徴ある物が出現します。

白い釉薬をふんだんにかけた淡い色合いが特徴の志野焼や、あの古田織部(ふるたおりべ)(6月11日参照>>)のアイデアによる奇抜で斬新なデザインの織部焼などなど・・・

こうして茶の湯の名器として珍重され、あの徳川家康の遺産の一つにも数えられた瀬戸物でしたが、江戸時代に入って最強のライバルが登場します。

そう、有田焼(伊万里)の出現です。

豊臣秀吉のあの朝鮮出兵の時にやって来たという朝鮮の陶工・李参平(りさんぺい)が、元和二年(1616年)に良質の磁石を発見して、磁器を焼くのに成功した事に始まると言われる有田焼は、あの酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)赤絵付の登場によって、一気に人気ランキングのトップに躍り出たのです。

その人気は国内にとどまらず、ヨーロッパでも、またたく間にニセモノが登場するほどだったと言いますからi-padも真っ青です。

この人気に、さすがの瀬戸物も押され気味・・・しばらく不遇の時代を過ごす事になりますが、江戸も後期に入ると、その有田で焼物を学んで来た加藤民吉(かとうたみきち)という人が、故郷・瀬戸に戻り、その技術をもとに磁器の生産を本格的に開始した事で、またもや急展開!

従来の陶器を「本業焼」、新たに開発された磁器を「新製焼」と区別することで生き残り、こちらも、有田焼同様、海外でも大きな評価を得て、今に至る隆盛を誇る事になります。

そんな瀬戸物も、ここしばらく続く不況で、どうしても海外産の安価な物に庶民の手が伸び、ちょっとばかりの苦戦を強いられているとの事ですが、時には、本物の瀬戸物でお茶を飲むのも一興かと・・・

と、最後に蛇足の豆知識を一つ・・・(*゚ー゚*)

陶磁器に限らず、よくお店でセットとして売られている食器類は、洋食器が6枚で1セット和食器は5枚で1セットとなっていますが、この起源は・・・

まぁ、簡単に言うと和洋の文化・習慣違いっちゃぁ違いなわけで、後づけのこじつけ的な諸説あるうちの一つという感じではありますが・・・

欧米では、あのキリスト教の観点から、東西南北に天と地を加えた6という数字が、全能の神による天地創造の完成を意味する聖なる数字である事・・・

それに加えて、古くから1ダースなどの12進法が主流であって、6はその半分という事で何かと便利という2点から6個セットという事になったのだとか・・・

一方の和食器は、ご存じのように、日本では昔から奇数が縁起が良い物とされて来たからだと・・・

う~ん、確かに「七五三」「御三家」「三大○○」「七福神」「ウルトラセブン(←最近すぎるやろ!)・・・だったら、3か7になりそうなものですが、やっぱ、3だと少ないし、7だと多い・・・祝儀袋に入れるお札の事も考えて、まぁ、5がちょうどいいってトコですかね???

オソマツでした・・・( ̄○ ̄;)!
 

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年1月11日 (火)

江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」でちと残念

 

いよいよ始まりましたね。
NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」

第1回は「湖国の姫」と題して、織田信長の妹・お市の方が、浅井長政のもとに嫁ぐところから、浅井三姉妹が誕生した後、信長に攻められた父・長政が亡くなるまでの数年間を一気に・・・という感じでした。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

その大河人気にあやかって、このブログにもたくさんの方に来ていただいてうれしい限りですが、1番HITしたのが、2011年の大河が「江~」に決まった時に、その期待を込めて書かせていただいた2年も前のページ(2009年6月19日【「江~姫たちの戦国~」への期待】を見る>>)で、感想を期待しておいでくださった方を落胆させてしまったのではないか?と、本日、書かせていただく事にします。

そもそもは、未だ主人公が活躍できない誕生前と幼少の頃という事で、まるで歴史番組の再現ドラマのようなたたみかけるようなスピード展開も、それはそれで、息をもつかせぬ感じで良かったのではないでしょうか…

ただ、長政を演じていた時任さんが、けっこうナイスだったので、1回で死んでしまうのは、ちと残念かな?
あと…寺田農さんや中山仁さんもアッ言う間に亡くなってしまいました。

ところで、金ヶ崎の退き口での有名なエピソード=袋の小豆の一件(4月27日参照>>)が、やはり登場していましたが、これまでとは違った演出になっていましたね。

越前(福井県)朝倉を攻める兄・信長に、北近江(滋賀県北部)浅井が同盟を裏切った事を知らせる・・・「このままだと挟み撃ちに遭いますよ」という事を、小豆を入れた袋の両端を縛って、「袋の鼠」ならぬ「袋の小豆」として、お市が陣中見舞いに送るって話ですが、ドラマでは、そのアイデアが女中の提案でお市がそれを拒否する・・・

つまり、結局は、陣中見舞いが送られなかった話になっていましたが、以前のページにも書かせていただいた通り、この話自体が創作色の強い物なので、なかった事になろうが、女中のアイデアになろうが構わないわけで、

おそらくは、「お兄ちゃん大好き!」の萌え萌えキャラだったお市の心が、夫・長政のほうへ移った=ブラコンからの脱却を強調するためのエピソードとして盛り込まれたのでしょう。

合戦のさ中に赤ちゃんの泣き声が聞こえる秀吉の耳の良さ、比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)イヤイヤ感丸出しでやってる光秀など・・・今後の展開の複線のために、ちょっとオーバーな部分も見えましたが、そんな表現はドラマなら当たり前・・・

ともあれ、一昨年の「天地人」と違って、ある程度の合戦シーンも入り、いつもより長い事を感じさせないおもしろさもあって、「また来週も見たい」と思わせる楽しい第1回だった事は確かです。

・・・と言いながらも、一つだけ気になる事が・・・

一応、このブログも自称「歴史ブログ」なわけで、「ドラマでは、あぁだったけど、実際はどんな感じ?」と思って、見に来られている方もおられるやも知れませんので、チョイとだけ・・・

それは、浅井三姉妹の兄・万福丸の完全無視!

おそらくは、この万福丸を側室の子供というていで無視されたのかも知れませんが、実際にはお市の方の息子だったという説もあります。

事実、この時、お市の方は、さんざん信長に万福丸の命乞いをしてましたし、それを無視してわずか10歳の幼子を処刑した事は、戦国の世のならいとは言え、お市の方の心を深く傷つけたなんて話もありますから、できれば無視してほしくはなかったですが・・・やはり、今年も都合の悪い人物はいなかった事にされるのか心配です(天地人の上杉憲政を思い出した)

・・・で、万福丸がお市の産んだ子供であるのか?ないのか?・・・実は、これ、長政とお市の結婚の時期がはっきりしないので、今も謎とされている事ですが、ドラマでは、二人の結婚が、長女・茶々生まれる前年(永禄十一年・1568年)の説をとっていたので、そうなると、それ以前に生まれている万福丸は、側室の子という事になるので、完全無視となったのでしょうが・・・

しかし、ワタクシ個人的には、もっと以前に結婚していた説のほうが有力だと考えています。

・・・というのは、浅井家は、もともと六角氏と同盟を結んでいて、その頃の長政は、その名も、六角義賢(よしかた・承禎)の一字をもらったとおぼしき賢政(かたまさ)と名乗っていて、永禄二年(1559年)には、その重臣の娘と結婚もしています。

しかし、その結婚は、わずか4カ月で離婚となり、翌年にはその六角氏と野良田(滋賀県彦根市)で戦って勝利、これが長政の初陣とされています・・・つまり、ここで六角氏から離れる決意をしていたという事ですね。

しかも、さらに翌年=永禄四年(1561年)には、その堅政の名を捨て、長政に改名しています・・・これは、おそらく信長の「長」の一字をもらったと思われますよね。

もちろん、その翌年も、さらに翌年も、長政はどんどん六角氏の領地に進攻していますから、もし、お市の方の結婚が、通説で言われている通りの織田と浅井の同盟の証なのだとすれば、少なくとも、このあたりで結婚していないと、戦国の政略結婚として成り立たないのでは?と思うのです。

・・・となると、茶々より6歳年上の万福丸も、お市の方の産んだ子供である可能性も出てくるわけですし、もし、側室の子だったとしても、ご存じのように、この時代は、側室の産んだ子も正室の子と変わりなく育てられます(今のところ後継ぎですし)から、生まれた時から我が子としてともにいたのなら、それなりに情は移りますし、妹たちとの関わりもあったかも知れません。

まぁ、ゴールデンのドラマとしては、子供の処刑に目を覆いたくなる気持ちもわからないではないのですが、ちょっと残念な気もしました。

PS:ひょっとして、万福丸が別の場所にいたという設定で来週は出て来るかも知れませんので、あくまで現段階の感想という事で…
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (18) | トラックバック (2)
|

2011年1月 9日 (日)

『常山紀談』と湯浅常山

 

安永十年(1781年)1月9日、戦国の説話集として有名な「常山紀談」を著した備前岡山藩士・湯浅常山が、74歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

戦国好きなら、一度は読みたい『常山紀談(じょうざんきだん)

斯く言う私も、一卷~七巻の訳注本を持ってますが、日々時間に追われ、未だ、全部を読み切れておらず、エラそうな事は言えませんが…(/ー\*)

古くは、神代の昔からあったと思われる「軍語(いくさがた)り」・・・

『記紀』に登場する吉備津彦命(きびつひこのみこと)(12月1日参照>>)日本武尊(倭建命・ヤマトタケルノミコト)(10月7日参照>>)などなど・・・

時代が下がって平安中期には、少し前の源義家の武勇伝(9月17日参照>>)が語られる・・・

そして、やはり記紀がそうであったように、これらの軍語りは、往々にして、天下が平定された時代になると、その語りを書きとめた文章として残されます。

源為朝(みなもとのためとも)の姿勇ましい(3月6日参照>>)保元の乱平治の乱を描いた『保元物語』『平治物語』は、まさに平家全盛の頃に成立したとされていますし、その平家が滅ぶ『平家物語』『源平盛衰記』は、源氏の世となった鎌倉時代に成立します。

あの『太平記』の成立が、南北朝に別れたままの頃なので、ちと早い気がしますが、ちょうど、足利義満(よしみつ)が第3代将軍に就任した(12月30日参照>>)時期とくれば、なんとなく、天下が定まりつつあった感がなくもない時代ですよね。

戦国時代も同様・・・

そもそもは、実際の体験談や自らが挙げた武功を、
戦陣で過ごす長い夜に・・・
殿さまお抱えのお伽衆(とぎしゅう)夜話として・・・

未だ戦国真っただ中の時代に語られていた軍語りが、徳川の時代に入り逸話集となって次々に成立していくのです。

それは、戦場での体験を語る老人たちが徐々に亡くなり、それを後世に伝えるためという一面もありましたし、なにより、平和な時代となって官僚化していく武士たちの武士らしき気質を保ち続けるための道具でもありました。

いくら「戦争がない」と言っても、武士は軍人であって政治家ではないのですから、その本分を見失わないためにも、手に汗握る作戦の鮮やかさや、命を惜しまず突進していく清らかさにその身を重ねてテンションを保ち続ける必要があったのでしょう。

そんな中で、後世に残る説話集『常山紀談』を残したのが備前岡山藩・池田氏に仕える湯浅常山(ゆあさじょうざん)です。

岡山藩の中級藩士・湯浅子傑(しけつ)の息子として宝永五年(1708年)に生まれた常山は、本名を元禎(もとさだ)、通称を新兵衛と言いますが、その邸宅から児島半島の名山・常山(岡山県玉野市)が見えた事から、そこを「常山楼」と称し、自らを常山と号しました。

池田継政宗政治政と3代の岡山藩主に仕え、若い頃に江戸へ出て服部南郭(はっとりなんかく)に入門し、漢詩や儒学を学びました。

岡山に帰った後も、折を見ては江戸へ出て、門下生らと親交を重ねつつ、更なる勉学も怠らなかったと言います。

やがて寺社奉行町奉行を歴任するまでになりますが、明和六年(1769年)に江戸詰(づめ)となった時、藩政を批判したために強制帰国させられ、そのまま隠居処分となってしまいました。

しかし、後から考えれば、これが功を奏しましたね~
そう、これで、執筆活動に専念する事ができます。

多くの著書を書いたとされる常山ですが、やはり世に残ったのは『常山紀談』・・・すでに原型が出来上がりつつも、書き直しで苦労していたこの著作が完成したのが明和七年(1770年)と言いますから、やはり隠居も悪くない・・・

とは言え、これが発刊されたのは文政年間(1818年~30年)の後半とされており、安永十年(1781年)1月9日常山が亡くなってから3~40年経った後という事になります。

それには、あまりに膨大な分量である事と、徳川家にさし障りがあるかも?という配慮があったようですが、それだけ、実話に近い生々しい出来事が書かれていたという事かも知れません。

案の定、世に出た『常山紀談』は評価され、後世に引き継がれていきます。

そこには、有名な山内一豊(やまうちかずとよ)が奥さん=千代のへそくりで馬を買う話(9月20日参照>>)や、長篠の合戦での鳥居強右衛門(とりいすねえもん)(5月16日参照>>)の勇姿も出てきます。

最後の最後には、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)はウソ八百だぜ!」ってな批判めいた事も書いてます。

「戦国時代の事情がうまく書かれているので、ついつい細かなストーリーも本当であると勘違いしてしまうので注意が必要」と、まるで、歴史小説や時代劇につけたい注意書きのような(笑)

でも、それでいて
「功名なんかに関しては笑っちゃうほどヒドイけど、戦国の時代をよく知り、武士の魂も心得たとおぼしき人が書いているようなので、その部分がウソだからと軽くみないで、学ぶべき所は大いに学ぶべき」
と、褒める事も忘れません。

そうなんです。
『甲陽軍鑑』に限らず、もちろん『常山紀談』も含めて、軍記物や逸話集には、およそ史実とは思えない事が書かれている事もあります。

しかし、そこに登場する武将たちは、いずれもいきいきとしてその時を生き、時として失敗しながら成長していく・・・

そして、その一方では、生々しい合戦の事も・・・颯爽と戦場を駆け回る武将は、それだけでカッコイイですが、それは殺戮の記録でもあります。

命を賭けて守るという事は無残に死ぬ事でもあり、平和の尊さを知るためには戦争の悲惨さも知らねばならない…

ストーリーの信憑性はどうであれ、『常山紀談』には、そこに生きた武将たちの姿が、そのままに描かれているという魅力があるのです。

Zyouzankidan120 うまくまとめられた注釈本もいくつか出ています・・・読んでみます?
(↓の冊子名をクリックすると紀伊國屋書店のサイトが別窓で開きます)

戦国武将逸話集―訳注『常山紀談』巻一‐七

 
 

 

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年1月 7日 (金)

夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭

 

宝六年(1678年)1月7日、大坂・新町廓の太夫・夕霧が22歳の若さで病死しました。

・・・・・・・・・

先日は、江戸の遊びの殿堂吉原の誕生など(12月24日参照>>)について書かせていただきましたが、本日は、大坂の新町について・・・

本日ご命日となる夕霧さんは、一説には京都は嵯峨の生まれで、はじめは嶋原の「扇屋」に入り、その後、その「扇屋」が大坂の新町に移転した事で新町の太夫となったとされる、いわゆる初代の夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)の事です。

その姿は美しく、芸事にも才能があり、当時は、「江戸・吉原の高尾太夫」「京都・嶋原の吉野太夫」と並び称される人気を誇ったそうですが、上記の通り、延宝六年(1678年)1月7日22歳(もしくは27歳)で病に倒れ、その命を散らしました。

「その日は、大坂中が泣いた」と言いますが、それを物語るがごとく、彼女の死後、『夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわなると)』『廓文章(くるわぶんしょう)などの浄瑠璃『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などの歌舞伎に描かれ、なおいっそう、その名を有名にする事となります。

上記の物語に登場する夕霧には、大抵、伊左衛門という恋人がいて、あまりに遊郭に通い詰めた商家の息子・伊左衛門が勘当されるというストーリーで、その後、前者の2題の浄瑠璃では勘当を許された伊左衛門が夕霧と結ばれるハッピーエンドとなりますが、後者の2題の歌舞伎では夕霧の亡くなった後に伊左衛門が夢の中で再会するといった感じの少し悲しい物語となっています。

実際の夕霧は・・・どうだったんでしょうかねぇ

ところで、先日の吉原誕生でもお話したように、幕府公認の遊郭という物は、決まって町ハズレに建てられる物なのですが、今も、大阪市西区に地名が残る「新町」がその場所で、以前書かせていただいた「大坂市中引き回し」のまちあるきのページ(12月17日参照>>)で、現在の四ツ橋筋の東側・・・阪神高速が走っている所に、昔は西横堀川という川があって、そこが、江戸時代初め頃の大坂の西の境界線で、そこから外は町ハズレであった事をお話させていただきました。

・・・で、この新町は、そう、その西横堀川の西隣・・・つまり、当時の大坂の町を出たすぐの場所にあったという事です。

と言っても、大人の遊び場自体は、豊臣秀吉の時代から、現在の伏見町(北浜近辺)のあたりや福島のあたりなど、大坂の各地に点々とあったわけですが、例の大坂の陣で豊臣が滅び、大坂が徳川幕府の直轄地となった事で、江戸と同様に、それを幕府公認とすることで管理して治安維持をはかろうと1か所に集めたわけです。

そして、当時はまだ、芦が生い茂るばかりの沼地だった町ハズレに新しい町=新町を造ったのです。

加藤清正の家臣の曾孫と称する木村又次郎という人が、その管理を任され、家に伝わる千成瓢箪(せんなりびょうたん・秀吉の馬印)をその玄関に飾った事から、その屋敷の周辺が瓢箪町と呼ばれるようになり、その瓢箪町を中心に、各地の遊女町が次々と移転を開始・・・こうして、大坂でただ一つの公娼となった新町は、江戸の吉原、京都の嶋原(島原)と肩を並べる遊郭となっていったのです。

Oosakasinamatitizuezu 現在の地図と江戸時代の絵図を比較しやすいように並べてみました(クリックすると大きく見られます)

上記の地図を見ていただけると、明らかにその一帯が周辺とは違う四角く囲まれた場所・・・そもそもは、(郭・くるわ)という言葉自体が、城郭など、堀や石垣に囲まれた場所を指すわけで、この新町も、北は立売堀川、南は長堀川、東に西横堀側に囲まれた場所で、しかもできた当時は、まだ西側も芦の原だったのですから、文字通りの囲まれた場所だったわけです。

はじめの頃は、出入り口は西側にある大門一つ・・・人々は、大坂のにぎわいから一旦サヨナラしてから、「かこい」に沿って西側へと回りこんで新町へと入り、大門に必ずいる警備員が、その入出をチェックしていました。

とは言え、さすがは大阪人・・・
江戸の吉原は、最後まで上記のような厳しさが保たれていましたが、明らかに不便な西側だけの入り口に、大阪市民の不満が殺到したんでしょうねぇ・・・

明暦三年(1657年)には、東側にも大門ができちゃいました。

そうなると、あっちもこっちも・・・って事で、寛文十二年(1672年)には、西横堀側に新町橋が架けられたのをきっかけに、そこにも大門を設置。

さらに、享保十二年(1727年)には吉原町に、宝暦四年(1754年)には新京橋町にも門ができますが、当然の事ながら、これだけ出入り口が多くなると、その管理もいく届かなくなわけで・・・

結局は、一定の袖の下さえ渡せば、遊女でさえ出入りできたっていうんですから、江戸の厳しさとは大違い・・・つくづく、大阪やなぁ~(*^-^)と、

絶頂期には、太夫=38人、天神=91人、鹿子位(かこい)=52人・・・さらに端女郎(はしじょろう)を含めれば、総勢800人以上の遊女がいたという新町遊郭・・・

そんな中でトップをとった夕霧太夫・・・
現在、毎年11月12日に彼女と縁のある京都清涼寺にて供養祭が行われています。
(清涼寺への行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」嵐山>>でどうぞ)

どんな人だったのか想像する毎日ですが・・・
あきません(>0<)
もう、「JIN-仁」高岡早紀さんしか目に浮かばないっす。

・・・夕霧ねえさん、おさらばえ~~~
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年1月 6日 (木)

若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚

 

建保三年(1215年)1月6日、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子の父である北条時政が、78歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

「歴史は勝者が作る物」なんて事、言われます。

それは、記紀が編さんされた奈良時代から・・・いや、それ以前からあった事でしょう。

戦いに勝利して政権を握った者は、自分がいかにして、その政権の樹立したかを、自分の目線で記録に残しますが、それは、大体において、それまでの歴史を末梢してしまうという事でもあります。

まぁ、そういう所の隠れた部分を推理していく事こそが歴史の醍醐味なんですけどね。

そんな中、源平の争いに撃ち勝って、鎌倉幕府をいう本邦初の武士政権を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)・・・しかし、考えてみれば、頼朝の直系は、思い通りの手腕を発揮できないまま、わずか3代で絶え、その後、約130余年に渡る鎌倉幕府を牛耳るのは、執権となった北条氏なのですから、あの源平争乱の真の勝利者というのは、この北条氏だったのかも知れません。

そして、その鎌倉幕府の公式記録とも言えるのが、あの『吾妻鏡(あずまかがみ)・・・上記の「歴史は勝者が…」の原理からいくと、おそらくは、その内容も幕府に都合の良いようにわん曲されている可能性大で、江戸の昔から、その真偽のほどが研究され続けてきました。

Tokimasa160a しかし、そんな幕府寄りの記録にも関わらず、北条時政(ほうじょうときまさ)出自についてはウヤムヤにゴマかされたままとなっています。

こういう場合、大抵は、多かれ少なかれのハッタリをカマして、高貴な血筋とつなげてみたり、けっこう勢力を誇っていた一族のように書き残すのが、公式記録の常套手段ですが、時政に関しては、その官位すら残っておらず、おそらくは、そんなハッタリをカマす事もできないほどの、小さな地方豪族であったのでしょう。

しかし、娘婿がらみとは言え、そんなところから天下を掌握する地位にまで上り詰めるのですから、その先見の明や対応能力という物には、目を見張る物があったという事でしょう。

そんな時政さん・・・すでにブログに書かせていただいているように、平治の乱で敗れた源義朝(みなもとのよしとも)の息子で、戦後に捕えられて伊豆に流罪となっていた源頼朝の監視役となった事が、彼の運命を変えます(2月9日参照>>)

もちろん、そこには「どうしても頼朝と結婚したい!」と、その恋心を貫いた時政の娘・北条政子がいたわけですが、頼朝が先に、その娘に手をつけた同じ監視役の伊藤祐親(すけちか)は、生まれた孫をその手で殺害してまで二人を引き離しますが、時政は、そうはしなかった・・・(8月17日参照>>)

結局は、二人の仲を許し、そのうえ、婿殿の挙兵に全面協力・・・そこには、平家に見切りをつけて、源氏の御曹司にその人生を賭けようと決断した時政の時代を見る目が光っていたはずです。

やがて、平家との戦いに勝利した頼朝は、異母弟である義経(よしつね)(4月30日参照>>)範頼(のりより)(月17日参照>>)を死に追いやってまで、自らの直系にその地位を継がせようと考えましたが、その願い空しく、早くも頼朝の死(12月27日参照>>)とともに、幕府内の勢力争いが始まります。

まずは、頼朝と苦楽をともにした梶原景時(かじわらかげとき)が失脚し(1月20日参照>>)、次に比企能員(ひきよしかず)・・・

この能員は、頼朝と政子の間に生まれた2代将軍・頼家(よりいえ)の嫁の父・・・つまり、これまで、自分が将軍の嫁の父として権勢を振ってきた時政にとって、頼朝の死後に同じ立場となる比企氏は、必ず自分にとって代わる存在になる・・・と、脅威以外の何物でもなかったわけです。

これには、騙し討ちというキタナイ手を使ってまで抹殺し(9月2日参照>>)、最終的に、嫁はんベッタリの頼家まで死に追いやり(7月18日参照>>)、その弟の実朝(さねとも)第3代将軍に仕立て、時政自らが、その後見人にとなる事で、再び、幕府の実権を握るという手に出ます。

そして建仁三年(1203年)には、初代・執権となり、まさに頂点に・・・

続く元久二年(1205年)には、猛将の畠山重忠(はたけやましげただ)を倒して(6月22日参照>>)、さらに幕府内での地位を揺るぎないものに・・・残る頼朝時代からの大者は、あの和田義盛(よしもり)だけか?!

・・・と、
ここまで、戦国武将を彷彿とさせる謀略で、見事に北条の地位を固めて来た時政さん・・・

しかし、ここに来て、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまいます。

ここまで野心まるだしの時政さんともあろうお方が・・・いや、それも男の性という物でしょうか・・・

後妻として娶った若いオンナ=牧の方(まきのかた)の色香に負けて、その判断が狂ってしまうのです。

そもそもは、先の畠山重忠のページにも書かせていただいた通り、この重忠討伐の時点から牧の方の意向が反映されていたのです。

この牧の方には、平賀朝雅(ともまさ)という連れ子がいたわけですが、その朝雅が酒の席で、重忠の息子・畠山重保(しげやす)と口論になり、「公衆の前で恥をかかされた」と母・牧の方に訴え、その牧の方が夫の時政に、「アイツ、殺っちゃてヨ」と、色っぽい目で迫った事がキッカケ・・・

とは言え、ここまでは、北条氏には害をもたらさない事だったので、娘の政子も息子の義時(よしとき)も黙認してたわけですが、このあと、事もあろうか、牧の方は、「朝雅を将軍の座につけたい」と、時政に迫るのです。

確かに、朝雅の父は、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の弟・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の血をひく立派な源氏・・・この後、頼朝の直系が絶える事を考えれば、無い話ではありませんが、この時点では、未だ実朝が健在ですから、それを廃して将軍になるというのはあり得ません。

しかし、もはや牧の方にゾッコンの時政・・・
「ムリ、言うなや~」
と、嫁をたしなめるどころか、逆に、実孫の実朝・暗殺計画を企てるまでになってしまいます。

さすがに
「父ちゃん、アホか!」
と、ブチ切れる政子と義時・・・

すかさずクーデターのクーデターを決行し、朝雅を殺害!

慌てた時政は、頭を丸めて出家し、娘と息子に謝罪をしますが、もはや、後の祭り・・・許してもらえるはずもありませんでした。

さすがに、実父とあって死罪にされる事はありませんでしたが、伊豆への流罪を申しわたされた後、中央政界に復活する事はありませんでした。

いや、復活するどころか、鎌倉に入る事すら許されなかったとか・・・

こうして失意の晩年となった時政・・・失脚から10年経った建保三年(1215年)1月6日流刑先の伊豆にてひっそりと、その78年の生涯を閉じました。

女は魔物・・・まして、歳をとってからの若い嫁さんには、くれぐれもハマらないように・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月 5日 (水)

世渡り上手に交渉上手~松前・蠣崎慶広の生き残り

 

文禄二年(1593年)1月5日、戦国大名・蠣崎慶広が、豊臣秀吉から正式に蝦夷地の支配を認められました。

・・・・・・・・・

もともとは、若狭(福井県南部)を統治していた源氏の流れを汲む若狭武田氏武田信繁(のぶしげ)近親者であった者が、15世紀半ばに、若狭から下北半島へと移住し、陸奥(むつ・青森県)出羽北部(でわ・秋田県)を治めていた安東政季(あんどうまさすえ)の娘婿となった後、蝦夷地(えぞ・北海道)に渡って蠣崎季繁(かきざきすえしげ)と名乗り、道南一帯に館を建て、アイヌとの交易窓口の一つとなっていたとされます(伝承の域を出ない話ではありますが…)

しかし長禄元年(1457年)、アイヌとの間に発生したトラブルが武力闘争に発展したコマシャインの戦いで館のほとんどを落とされ、季繁が窮地に立っていたところ、蠣崎氏の客将として滞在していた、やはり若狭武田氏出身の武田信広という人物の大活躍で九死に一生を得たのだとか・・・

この功績から、信広は季繁の婿養子となって蠣崎氏を継ぐ事になり、蝦夷地での蠣崎氏の支配勢力も確固たるものになったとの事・・・

で、今回の主役である蠣崎慶広(かきざきよしひろ)さんは、その信広から数えて、5代めの当主に当たります。

しかし、この頃の慶広は、安東氏からの離脱を考えていました。

ご先祖が婿養子という立場だった事からか、未だに、その安東氏の家臣として扱われる事に、かねがね不満を持っていたところ、絶好のチャンスがやってきたのです。

時は天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉小田原征伐(11月24日参照>>)です。

ご存じのように、この時、秀吉は、全国の大名に、豊臣側からの参戦を呼びかけました。

それは、未だ秀吉の支配の及んでいない東北にも届き、実際に、この時に速やかに参戦しなかった武将は「豊臣の傘下になる気はない」とみなして、小田原の北条氏を倒した後すぐ、秀吉は奥州征伐を行ってます(11月24日参照>>)

・・・で、もとより安東氏からの離脱を夢見る慶広は、この呼びかけに答えていち早く上洛し、秀吉に謁見・・・従五位下・民部大輔(みんぶたいふ)官位の取得に成功しています。

その後、奥州征伐がらみでの九戸(くのへ)の乱(9月4日参照>>)でも、九戸城を包囲する豊臣軍の一翼を担い、毒矢などを駆使して奮戦しつつ、その討伐に貢献しました。

やがて文禄元年(1592年)・・・ご存じの朝鮮出兵=文禄の役(4月13日参照>>)です。

この時も慶広は、いち早く、出兵の拠点となる肥前(ひぜん・佐賀県)名護屋城(唐津市)に駆けつけています。

しかも、もはや、秀吉の性格を心得たもので、その拝謁には、蝦夷錦の派手な衣服を身にまとっての参上・・・その思惑通り、異国の雰囲気を感じるその衣装に、遠い蝦夷地から、この九州まで馳せ参じてくれた事を痛感する秀吉・・・

そうです。
この秀吉の感激が、そのまま、翌・文禄二年(1593年)1月5日に、正式に蝦夷地の支配を認められるという結果をもたらしたのです。

う~ん、コノ世渡り上手(*゚∀゚)=3

この慶広の世渡り上手は、秀吉が亡くなった後のややこしい時期にもいかんなく発揮されます。

すばやく、徳川家康に近づいた慶広は、慶長四年(1599年)に、その姓を蠣崎から松前に改めて心機一転・・・東軍の松前慶広(まつまえよしひろ)として関ヶ原に参戦し、しかも、家康への臣下の証として蝦夷地図も献上しています。

一説には、かの「松前」という姓も、家康の旧姓の松平の「松」と、前田利家の「前」から一字ずつとったとも言われ、一時期の秀吉を彷彿とさせる「人たらし」ぶりは、どんだけウマイねん(*^m^)って感じですな。

その献身ぶりが功を奏したのか、
家康が征夷大将軍になった翌年の慶長九年(1604年)には、家康から蝦夷地における交易独占権を公認されます。

Asyozyou 松前氏の蝦夷支配を公認する徳川家康の黒印状(北海道開拓記念館蔵)

ここに、やっと悲願の独立領主の座を手に入れたのです。

その後、完成した松前城に拠点を移し、江戸を通じて松前藩として存続する事になった松前氏・・・

勘違いのないように申し上げておきますが、かの「世渡り上手」というのは、私にとって褒め言葉であります。

支配者がコロコロと変わる戦国の世・・・一人の主君に忠誠を誓って華々しく散るのも戦国武将なら、時々の情勢を読み取って家の存続を第一に考えるのも戦国武将・・・

ともに張り巡らす策略が小気味いいのです。

その点、この慶広さんは、動乱の中で多くの東北の雄が散る中、見事、家を守って生き残り、松前藩の礎となった・・・その交渉術・外交手腕は、一級品と言うべきでしょう。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年1月 4日 (火)

維新の雄藩になれなかった広島藩・辻将曹の活躍

 

明治二十七年(1894年)1月4日、安芸広島藩の執政として、幕末維新に活躍した辻将曹が72歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

維新の雄藩と言えば薩長土肥(さっちょうどひ)・・・

大政奉還に貢献したと言えば坂本龍馬後藤象二郎か・・・

しかし、薩長土肥のいずれにも属さず、それでいて、大政奉還にも大きく貢献した人がいます。

それが、辻将曹(つじしょうそう・まさとも)です。

文政六年(1823年)に、広島(芸州)藩士・辻維祺(いき・豊前)の三男として広島に生まれた将曹・・・本名を維岳(いがく)と言いますが、ややこしいので、今回は、後に名乗る通称の将曹さんで通させていただきます。

嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)で、大きく動き始めた幕末の日本・・・

そんな中で将曹は、広島藩内の改革派として成長していきます。

藩財政の立て直し軍備の増強など、次々と改革案の提出しますが、悲しいかな、この当時は、未だ藩内を保守派が牛耳っている時代で、彼の改革案は、ことごとく失敗に終わります。

しかし、安政五年(1858年)、前藩主の死去により、分家からの新藩主として浅野長訓(ながみち)がその座についた事から、藩内の力関係が一変・・・やがて、文久二年(1862年)、年寄役(執政)に大抜擢され、その才能を大いに発揮できる舞台が整いました。

こうして、産業の発展や軍備の近代化を推進する将曹は、他藩との交渉人としても活躍し、その名が全国的に知られる人物となっていきます。

やがて訪れた第1次長州征伐・・・すでに藩政の中心人物の一人となっていた彼は、幕府軍の出陣拠点の地となった広島を代表して、長州藩との交渉にあたり、ほぼ無血で和睦交渉を成立させます。

さらに起こった第2次長州征伐(5月22日参照>>)では、これを「無名の師(むみょうのし=名分の無い戦争)とする事を藩の意見として取りまとめ、
(日本のため思って)外国相手に戦った長州を、日本国自身が国を挙げて成敗する事はオカシイのでは?」
と、痛烈に幕府を非難し、長州藩への寛大な処分を求めました。

そして、これが聞き入れられないとなるや、幕府から命じられた先鋒の役目を拒否・・・結果、老中・小笠原長行から謹慎処分を言い渡されてしまいました。

しかし、これには、すでに動向が定まっていた広島藩の藩士たちの反発を買い、結局、処分は、わずか1ヶ月で放免となりましたが・・・。

その後まもなく、ご存じのように、この戦いは、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)死によって休戦状態となります(7月27日参照>>)

実は、ここで、幕府の代表・勝海舟と長州藩との間に立って、休戦交渉を取りまとめたのも将曹・・・その手腕には、海舟も大いに感激したようです。

終戦後、この時点で、すでに藩内で王政復古の青写真を話し合っていた将曹は、翌・慶応三年(1867年)に上洛し、薩摩藩や長州藩との会談を重ねた結果、9月には薩長芸による三藩同盟を結びます。

とは言え、一方では、土佐藩の推し進める大政奉還にも同調し、彼自身も大政奉還の建白書を幕府に提出しています。

これを、2面性の八方美人ととるか否かは、それぞれの見方によるところでしょうが、考えてもみれば、この三藩同盟の3ヶ月前には、あの薩摩藩だって、「船中八策」を承認するような形で土佐藩との薩土盟約を結んでいます(6月22日参照>>)

同盟と盟約には重さの違いがあるとは言え、この時期は、誰もが世の中の情勢を見極めるための様子見ぃに走っていたという事でしょう。

幕府がどう動くのか?
薩長は倒幕へと向かうのか?
ならば、周囲の藩はどうするのか?

そんな中で、
「とにかく戦争回避・・・やむなく戦争に突入するとしても、なるべく小規模に収めたい」
と、将曹の2面性は、そんな思いで奔走した結果であったような気がしてならないのです。

そして、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還を議論したあの二条城の大広間(10月14日参照>>)・・・そこには、後藤象二郎小松帯刀(たてわき)とともに、堂々の熱弁をふるう将曹がおりました。

ここで慶喜が大政奉還を決意したのも、彼ら3人の意見が大いに影響していると言われています。

しかし、将曹の活躍で幕府からの信頼を得た広島藩は、逆に、倒幕一色となっていった薩長から疑いの目で見られる事となり、この後の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争では倒幕の中心から外され、広島藩よりず~っと後になって倒幕に加わった佐賀(肥前)が、維新の雄藩として優遇されるようになってしまったのです。

それでも、2度の長州征伐や小御所会議での交渉術が買われ、維新後の新政府では参与として出仕する事になった将曹でしたが、それも長くは続きませんでした。

いや、ひょっとしたら、最初から維新の青写真を構想していた将曹にとって、途中から外され、雄藩として優遇されない中央政府に、彼なりの割り切れない思いがあったのかも知れません。

一度去った政治の中枢に、彼は2度と戻る事無く、その後は故郷・広島にて、困窮する元藩士たちに新たな職をあっせんする授産事業にその生涯を捧げる事になります。

果たして、
中央政府でその腕を奮えなかった晩年は、彼にとって悲しいものだったのでしょうか?
それとも、
生まれ育った地域に貢献する事こそ、自らの本分と、そこに生きがいを感じていたのでしょうか?

「歴史上の人物がみんな好き」な私としては、後者であってほしいと願うばかりです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2011年1月 3日 (月)

天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎

 

天智七年(668年)1月3日、大化改新後、皇太子となって政治の実権を握っていた中大兄皇子が、第38代天智天皇として即位しました。

・・・・・・・・・・・

皇極四年(645年)の6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて、三韓(百済・高句麗・新羅)の使者による、貢物の献上・・・この儀式の真っ最中に決行された蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)

その年のえとから乙巳(いっし)の変と呼ばれるクーデターを行ったのは、時の天皇=皇極(こうぎょく)天皇の皇子=中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)と、その協力者=中臣鎌子(なかとみのかまこ・後の藤原鎌足)でした。

このクーデターに始まり、その後、実権を握った中大兄皇子主導で行われた改革大化の改新と呼ばれる物ですが、このブログでも度々書かせていただいているように、時の天皇の息子が、臣下の物を倒したのであれば、単なる「征伐」であって、クーデターではありません。

もちろん、クーデターという言葉自体は、後の我々の呼び方ですが、そう呼びたくなるほどの背景が感じ取れるのです。

つまり、この時の皇極天皇以下天皇家には、ほとんど主導権がなかった・・・いや、ひょっとしたら、もはや蘇我氏の王国であった可能性が高いのです。

すでに、この国を支配していた蘇我政権を、クーデターにより倒した中大兄皇子一派でありますが、万世一系の天皇家を主張するためには、蘇我政権時代にも天皇が存在していなければならず、そのために、蘇我氏を、トップである天皇の臣下としておいて、その天皇の息子が悪臣を暗殺した・・・と、蘇我氏を単なる反逆者扱いする事で、天皇家の正統性を守った形のストーリーにしたという事なのでしょう。

と、このお話をつきつめると、それだけでかなり長くなってしまいますので、それは、また、いずれの機会にかさせていただく事として、記紀に従って話を進めますと、とりあえず、ここで蘇我氏は滅びます。

Keizukoutokutennou_3 新政権となった世で、皇極天皇は退位して、弟の軽皇子(かるのみこ)が即位し、第36代孝徳天皇となります。

この時、なぜ、クーデターの一番の功労者であり、すでに第34代舒明(じょめい)天皇の時代から皇太子に任命されていた中大兄皇子が即位せずに、孝徳天皇が即位する事になったのか?

誰もが抱くこの疑問ゆえ、「乙巳の変=孝徳天皇首謀説」(6月14日参照>>)なるものも存在しますが、そのページでも書かせていただいた通り、首謀者がどちらであれ、当時は、父から子へというだけでなく、兄弟間の皇位継承というのも多くありましたし、未だ、中大兄皇子が20歳という若さなら、油の乗りきった年長に・・・というのも、とりたてて不思議ではありません。

なんせ、この時の新政権の面々と言えば・・・
左大臣安倍内麻呂(あべのうちまろ)
右大臣蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)
内臣中臣鎌足で、
国博士(みん)高向玄理(たかむこのくろまろ)
と、どう見ても、中大兄ベッタリ政権の面々・・・

おそらくは、彼らを駆使して、皇太子のままで充分やっていけたはずですから、焦る必要もなかったし、むしろ皇太子の立場のほうが自由に采配が奮えたのでしょう。

それが、そのまま現われるのが、この孝徳天皇が亡くなった時・・・

この時も、中大兄皇子は、やっぱり即位せず、母親の皇極天皇を引っ張り出して、再び即位させ、彼女は第37代斉明(さいめい)天皇となります。

なんだか、後世の摂関政治院政を思わせる雰囲気・・・ひょっとしたら、これが「君臨すれど統治せず」の原点となった出来事で、後々、武士の時代にも天皇家が生き残る事ができた大基になったスゴイ事なのかも知れません。

ところが、斉明七年(661年)、中大兄皇子にとって計算違いの一大事が・・・

実は、この頃、かの朝鮮半島が不穏な空気に包まれておりました。

そこで、自国の守りを固めるべく、この年の正月に、天皇自ら大船団を率いて、九州へと移動していたのです。

それは、
「ここが都か?」
と、見紛うほどの大移動だったのですが、到着後まもなく体調を崩した斉明天皇は、同じ年の7月24日、その九州にて帰らぬ人となってしまったのです(7月24日参照>>)

もはや、中大兄皇子以上に天皇にふさわしい人物はいません。

しかし、中大兄皇子は、それでも即位せず「称制(しょうせい)という形をとります。

称制とは、皇太子が即位せず、皇太子の立場のまま政務をとる事・・・この体制は、斉明天皇が亡くなった661年から7年間続きます。

クーデター直後の孝徳天皇の時や、皇太子としてノリノリ政務の斉明天皇の時は、なんとなくわかりますが、さすがに、ここにきても、なお即位しないのは不可解です。

この天皇不在の期間は、天智天皇最大の謎とも言われている7年間で、もちろん、今も謎のままなので、明確な解答あるわけではないのですが、その原因の一つとして噂されているのが、宮中恋愛スキャンダルです。

実は、この中大兄皇子が、妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)デキちゃってたという話・・・

当時は、あのややこしい皇室系図でもお解りの通り、異母兄弟間での結婚は許され・・・いや、むしろ、当然のように行われていましたが、さすがに、同母間の結婚&肉体関係は「国津罪(くにつつみ)と呼ばれていて、してはならないご法度でした。

記紀には、遠く第19代允恭(いんぎょう)天皇の後を継ぐはずだった木梨軽(きなしかる)が、実妹の軽大郎女(かるのおほいつらめ・衣通王)との恋に落ちたため伊予の国に島流しに遭い、代わって、弟の穴穂(あなほ)が第20代安康(あんこう)天皇として即位するくだりがありますので、やはり、そのスキャンダルが本当であった場合は、即位したくてもできなかった可能性大でしょう。

この間人皇女は、あの孝徳天皇が即位した時に皇后として立った女性・・・つまり、一旦は、孝徳天皇の奥さんになった人なのですが、結婚前も、結婚後も、いや、ず~と中大兄皇子との関係が続いていた?感がぬぐえません。

あの大化の改新の時に、都は難波(なにわ・大阪)に遷され、わずかの間に、再び飛鳥へと戻っています。

この時、難波を離れたくないとした孝徳天皇の意見を押し切って中大兄皇子は、飛鳥へと強引に引っ越しするのですが、この間人皇女は、夫=孝徳天皇ではなく、兄=中大兄皇子に従って、ともに飛鳥へ戻ってしまったとされています。

一人、難波に取り残された孝徳天皇は
♪鉗着(かなきつ)け 吾が飼ふ駒は 引き出せず
  吾が飼ふ駒を 人見つらむか  ♪

「大事に鉗(かなき・首かせ)をつけて飼っていた馬なのに、それを手元に置く事ができず、その大事な馬を他人が見てしまうような事になった」
という歌を残しています。

直訳すれば、上記のような感じですが、この駒=馬というのは、もちろん間人皇女の事・・・

そして最後の「人見つらむ=他人が見てしまう」というくだり・・・実は、当時は異性に顔を見られるという行為が、イコール結婚(もしくは肉体関係)を表しているのです。

以前、結婚の歴史で結婚に至る経緯を書かせていただきましたが(1月27日参照>>)、この一連の儀式は、ほとんど最後まで暗闇の中で行われ、正式に結婚が決まるまで、相手の顔を見る事はなかったのです。

それは、源氏物語をみても明らかで、平安時代になっても、男性に顔を見せる事が結婚を表すのですから、このくだりも、「間人皇女の顔を見ている別人がいる=別のオトコがいる」という意味になる事は明白・・・。

とは言え、この宮中近親相姦スキャンダルは、あくまで噂・・・上記の、兄とともに飛鳥へ戻った事と、孝徳天皇の歌の2点しか史料がないため、それだけでは決定打とは言い難いお話です。

しかし、母の斉明天皇が亡くなった661年に即位しなかった中大兄皇子が、7年後の天智七年(668年)1月3日天智天皇として即位・・・実は、かの間人皇女は、天智四年(665年)2月25日に亡くなっているんですよねぇ。

怪しいなぁ・・・
「亡くなった=関係が切れた」って事で即位したんじゃ・・・( ̄○ ̄;)!
と、ついつい疑ってしまいますね。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)
|

2011年1月 1日 (土)

ぶろぐ河原の落書2011~新年のごあいさつ

 

この頃 都にハヤル物
ラー油 イクメン K-POP

あいも変わらぬ最低の 内定率の若者は
次ぎの居場所が決まらずに 今日も明日も「○○なう」

衝突船長釈放で 流出海猿処分すりゃ
柳腰の政党は 支持率低下が分きざみ

辺野古 移転も転々と 空論ばかりが飛び回り
子ども手当を配っても 子供が増えるわけもなく

「石にかじりついてでも 頑張ります」と言うけれど
かじりつく石どこにある? せめてワラでも見つけてね

選挙で掲げたマニフェスト 高い理想はわかるけど
二兎追う者一兎得ず とにかく一つ やりましょう

仮免首相の運転で 迷走続きの一年も
脱兎のごとく過ぎたなら 今年は元気なウサギ年

山積みされた難題を ピョンピョンピョンと乗り越えて
日本丸の乗客に ドドスコスコスコ ラブ注入

・‥…━━━☆

明けまして おめでとうございます

まずは今年も、建武の新政を風刺した“二条河原の落書”っぽく、昨年の世相を振り返り、新年のご挨拶とさせていただきました~。

昨年は「今日は何の日?徒然日記」に数多くのご訪問
ありがとうございました。

この2月になれば、ブログ開設5年目という節目を迎える今年・・・
昨年同様、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

Nengausagi

 
落書が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (14) | トラックバック (0)
|

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »