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2011年1月25日 (火)

2転3転…秋田藩の祖・佐竹義宣の山と谷

 

寛永十年(1633年)1月25日、関東から北をメインに戦国武将として活躍し、秋田藩・初代藩主となった佐竹義宣が64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

常陸の国(茨城県)の戦国大名・佐竹義重(さたけよししげ)の嫡男として生まれた佐竹義宣(よしのぶ)・・・ブログには、これまでも伊達政宗関連芦名氏関連で、チョコチョコご登場いただいていますが、本格的な登場は、これが初めて?かも・・・

て事で、義宣さんをメインした個々の情勢は、おいおい、その関連に日に書かせていただく事として、本日はご命日という事で、その生涯についてご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

天正十四年(1586年)、父の隠居に伴い家督を相続した義宣・・・わずか17歳の若き当主でした。

Satakeyosinobu600 この頃、北はあの伊達政宗(だてまさむね)に、南はあの北条氏直(ほうじょううじなお)から、度々の圧迫を受けていた佐竹氏・・・おかげで、一族や重臣の離反に苦しめられた過去もありました。

それゆえか、この義宣という人は、かなり用心深いお方だったようで、昼は重臣にもほとんど顔を見せず、夜には、寝床にカヤを3枚も吊り下げ、戸を開ける時は、長刀を持って、その先っぽで留め金をはずして、コソコソ~と開け閉めしていたんだとか・・・

しかし、北と南におびえつつ暮らしていた彼の運命を変える出来事が起こります。

あの豊臣秀吉小田原征伐です(11月24日参照>>)

この時、なんだかんだで参陣に遅れたライバル・政宗(6月5日参照>>)と違って、義宣は、4月には小田原に到着していたと言います。

到着後はすぐに参戦し、その後の奥州仕置きでも大活躍・・・大喜びの秀吉によって、もともとの常陸や、下野(しもつけ・栃木県)も安堵されます。

しかも、このドサクサにまぎれて、江戸重通(えどしげみち)の持城=水戸城を奪い、鎌倉からの名家=大掾(だいじょう)滅ぼしてしまうトコなんかは、なかなかのクセ者ですね~すみにおけません。

このおかげで、文禄三年(1594年)に行われた太閤検地(7月8日参照>>)によってはじき出された佐竹の領地の石高は54万石強・・・なんと、全国で第8位という快挙!!

伊達と北条に挟まれて風前の灯だった頃を思うと、見事な物です。

ところがドッコイ・・・人生とはわからぬ物、またもや転機がおとずれます。

そう、秀吉の死と、それとともに訪れる、あの天下分け目の関ヶ原の戦いです。

その少し前、秀吉に続いてあの大御所=前田利家が亡くなったその日に起こった石田三成・襲撃事件(3月4日参照>>)・・・この時、わざわざ三成の家に行き、籠に乗せた彼を護衛しつつ、見事に脱出させたのは、ほかならぬ義宣でした。

実は、以前、義宣の従兄弟が事件を起こし、そのとばっちりで領地を没収されそうになった時、そこをうまくとりなしてくれたのが三成だったのです。

「治部(じぶ・三成の事)が死んだら、俺・・・生きていかれへん」
と言うくらいの友情をはぐくんでいた二人・・・

結局、この襲撃騒動で謹慎処分となった三成が、「上杉に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)と称して会津へ向かった徳川家康の留守を突いて、伏見城を攻撃し(7月19日参照>>)、関ヶ原が始まるのですから、この流れからいったら、当然、義宣は三成派=西軍として関ヶ原に参戦する事になります。

が、しかし、実は義宣・・・大いに悩みます。

彼自身は、義理と友情の観点から三成に味方する事を公言しますが、一方では、父・義重が家康寄りの発言・・・

いよいよ戦い迫って、「背後から政宗を撃つ」と上杉の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)に連絡とったかと思えば、家臣を江戸城へと送って「上杉と三成には味方しない」という制約を交わしたりなんぞします。

先見の明があるぶん、彼には先が見えていたのかも知れません。
あるいは、
東西どちらが勝っても生き残れる前田・真田と同じ作戦だったのかも・・・

とにかく、その心の奥底がわからないまま、兵を出していた義宣でしたが、ご存じのように、義宣が迎え撃とうとしたかも知れない家康は、さっさと西へと戻り(8月11日参照>>)、あれよあれよと言うまま、わずか半日にして関ヶ原の決着がついてしまいます(9月15日参照>>)

どっちつかずのまま、この天下分け目を見送ってしまった義宣・・・おかげで、西軍にくみした88人が改易となる中、佐竹は34万石の没収ですみました。

もちろん、家康側で参戦していれば、没収どころか、たんまりと恩賞が貰えるわけですが、はっきりと西軍についていれば、没収ではすまなかったかも知れません。

どちらについて参戦するのが得かは、どちらが勝つかによって、その結果も変わるもの・・・終わってからだと何とでも言えますが、戦う前には、なかなか先が読めないものです。

この場合・・・とりあえず、佐竹氏が残った事をヨシとすべきでしょう。

戦後から2年経った慶長七年(1602年)の4月・・・上洛した義宣は、秋田20万石への転封を言い渡されます。

もちろん、左遷というヤツですが、ここで初代藩主となった義宣・・・この後は、その手腕を内政へと発揮し、秋田藩の基礎を築きます。

こうして義宣は、寛永十年(1633年)1月25日江戸の神田屋敷にて64年の生涯を閉じます。

その後の秋田藩は、江戸を通じて見事に存続し、無事、明治維新を迎える事になります。
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コメント

先生!先生!
『佐竹は400万石の没収ですみました。』では凄いマイナスになってしまうと思うのですが!(;^_^A あせあせ

投稿: 桃色熊 | 2011年1月25日 (火) 15時51分

茶々様
こういう人を主人公にして大河ドラマを作ってほしいですね。地味ですけど・・・。

投稿: いんちき | 2011年1月25日 (火) 16時56分

佐竹氏は甲斐武田と同じ新羅三郎義光の系統ですね。戦国期にも同族意識があったらしく、佐竹義重は勝頼と同盟してますし、信長と勝頼との和睦(甲江和与)を仲介したりしています。

秋田転封は家中においても不満があったのかもしれませんけど、久保田藩(?)でしたっけ、秋田転封後の佐竹家には新羅三郎義光を描かせた絵画を所蔵していて、源義光は後三年の役で陸奥平定をしていますから、転封をむしろ肯定的に考えるように歴史的故事を利用したのかもなぁと思いました。

投稿: 黒駒 | 2011年1月25日 (火) 19時37分

この時期に佐竹氏が「ドサクサにまぎれて・・・水戸城を奪い・・・大掾氏を滅ぼしてしまうトコなんかは、なかなかのクセ者」とありのは検地の直前にこれをやったのだとするといかにも曲者ですが、本当にそういうタイミングだったんですか?

もう一つの側面は秀吉による支配体制がかたまり、出兵や土木工事などの大名家の中央に対する義務と出費が増大する中、領内で独立を志向する「半家臣」のような江戸氏や大掾氏のような存在を許容しておく余裕が佐竹氏にはもうなくなったと私は見ます。つまり欲からしたことではなく、背に腹かえられぬ必死の行動だったと思うのです。

投稿: 私見を言わせてもらうと | 2011年1月26日 (水) 01時40分

桃色熊さん、こんばんは~

ぎょえ~~∑q|゚Д゚|p
なぜか打ち間違えておりました(;;;´Д`)ゝ

他の場所の書いております通り、54万石強から20万石なので34万石です。

早速、訂正させていただきました。
さすがの私も、1年生のひき算はできますです(^o^;)
ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 01時56分

いんちきさん、こんばんは~

そう言えば、「天地人」でも、あの襲撃事件の時、三成は一人で逃げたような…うろ覚えですが、佐竹さんは出てなかったですよね?

ひょっとして兼続が助けてたのかな?

投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 02時13分

黒駒さん、こんばんは~

佐竹もそうですが、東北には家系の歴史の長い武将が多くいましたね。
秀吉の小田原参陣に応答しなかったのも、彼らのプライドがあったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 02時15分

私見を言わせてもらうとさん、こんばんは~

小田原が開城されるのが天正十八年(1590年)の7月5日で、そのすぐ後から奥州仕置きが始まりますが、義宣が江戸重通の水戸城を奪うのが10月20日、府中城にいた大掾宗家の清幹を自刃に追い込むのが12月、大掾の支族を謀殺するのが翌年の2月…その勢いのまま軍を進めて、事実上、大掾氏を滅亡に追い込んでいますので、このドサクサのタイミングで合ってると思うのですが…

私も、「欲したというよりは、地盤を固めたい」という事ではなかったかと考えますが…

投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 02時33分

東軍か西軍か「どっちにつくか」と言うのは、関ヶ原にいた(または近くの)当事者以外には情勢が読めないので難しいでしょうね。大津の京極高次でさえ悩んだでしょうね。
ちなみに現在の秋田県知事の佐竹敬久氏は末裔(分家筋の「佐竹北家」出身。北家の初代も「佐竹義信」で、この記事の佐竹義宣と読みが同じ)になります。この間「ケンミンショー」に出ていました。この記事の義宣の先祖になる同姓同名の、10代目当主の佐竹義宣の系図上の子孫にはなりますね。
なんかややこしいですね。

投稿: えびすこ | 2012年1月25日 (水) 11時00分

えびすこさん、こんばんは~

由緒正しき名前は、通字があるのでややこしいです(><)

投稿: 茶々 | 2012年1月25日 (水) 18時38分

はじめまして。一門の血脈にある者です。

まずは、取り上げていただき、ありがとうございま~す(^^)/
源氏の流れながら、武田・上杉のような戦国大名とくらべるとマイナーな存在ですから…(T_T)
これからもバンバン取り上げて下さいね(^。^)y-.。o○


>このドサクサにまぎれて、
いやー、するどい突っ込み!!
確かにそう思われても仕方ないですね~。
ご存知のように、秀吉から安堵された所領には両家も含まれ、領内を掌握できていなければ、監督不行き届きになります。何より知行に応じた軍役を負担しなければなりません。急がざるを得ない。結果、これまでの義宣とは思えない暴挙に出たのでしょうね。
茶々様ご指摘のように、私も「地盤固め」の意味合いが強かったと考えます。


>手腕を内政へと発揮し、秋田藩の基礎を築きます。
お褒めただきありがとうございま~す(^^)/


秋田転封に際して。
石高が不明で減封も免れないことから家臣すべて引き連れることはできません。
で、義宣は、家臣を連れて行くことを優先し、分家など一族を常陸に残しました。
→当家は置いていかれた方(T_T)


家康に「律義すぎる」と言わしめた義宣ですが、まさに彼らしいと思います。


また、遊びにきま~す(^。^)y-.。o○

投稿: しんぞー | 2015年12月22日 (火) 22時42分

しんぞーさん、こんばんは~

コメントありがとうございます。
何百年も前の事なのに、ご先祖様の事は、なんか身近に感じますよね。

私も、テレビの歴史番組なんかで、ウチのご先祖様関連のがあると、ついつい見ちゃいますψ(`∇´)ψ

投稿: 茶々 | 2015年12月23日 (水) 02時36分

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