« 江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」 | トップページ | インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満 »

2011年1月20日 (木)

逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝

 

寛永十年(1633年)1月20日、徳川家康ブレーンとして活躍した禅僧・金地院崇伝が、64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

源氏の流れを汲む名門・一色氏に生まれた以心崇伝(いしんすうでん)は、室町幕府の幕臣だった父が亡くなると、南禅寺(京都府)塔頭(たっちゅう・大寺院に付属する寺院)金地院(こんちいん)に入ります・・・この事から一般的に金地院崇伝(こんちいんすうでん)と呼ばれます。

Suuden600 さらに、醍醐寺(だいごじ・京都府)三宝院などでも修業を重ねますが、特に、相国寺(京都府)では西笑承兌(さいしょうじょうたい)に師事しました。

やがて、禅興寺(神奈川県)建長寺(同)などの住職を経験した後、古巣・南禅寺に戻って、第270世の住職となり、臨済宗五山派のテッペンを取ります。

ちょうど、この頃、将軍職を三男の秀忠に譲って、駿府(すんぷ・静岡県)にて大御所政治を開始しはじめた徳川家康・・・そんな家康のブレーンとなっていたのが承兌でしたが、その承兌が亡くなった事で、以前に弟子であった縁から、崇伝がその後任として駿府に呼ばれたのでした。

慶長十三年(1608年)・・・崇伝・39歳の時でした。

同時期に家康のブレーンとして活躍した禅僧に閑室元佶(かんしつげんきつ・三要元佶)もいましたが、この人が比較的やんわりとした政策に携わったのに対して崇伝の政策は、まさに容赦なし!

これが、崇伝自身の性格による物か、はたまた、単に家康の意に叶う事を重視したための結果なのかは想像するしかありませんが、とにかく厳しい政策を、バンバンうちあげていくのです。

まず、手始めに行ったのが、あのキリスト教禁止令です。

そう、この後、恐ろしいほどの弾圧に向けてひた走る禁教令の原案を考えたのが崇伝です・・・しかも、たった一夜で書き上げたのだとか・・・

さらに、あの慶長十九年(1614年)・・・大坂の陣の発端となる方広寺の鐘銘事件豊臣秀頼が寄進した方広寺(京都府)の鐘に書かれた文章を、家康を呪う文章だとイチャモンつける事件です(7月21日参照>>)

以前、書かせていただいた上記のページでは、同じく家康のブレーンであった南光坊天海(なんこうぼうてんかい)を主役にさせていただきましたが、現存する記録の中には、この崇伝こそが、アノ屁理屈を考えた張本人だとしている物もあります。

その後の交渉で、豊臣方から派遣された片桐且元(かたぎりかつもと)と面会した本多正純(ほんだまさずみ)・・・その正純の隣にいて、且元に厳しく詰問し、例の「絶対に豊臣方がOKするはずのない条件」を提示したのも崇伝だとされています。

結果的には、この条件を呑む事ができない故の豊臣方の合戦準備・・・という事になるのですから、「なんとしてでも、向こうから拳をあげさせたい徳川方」としては、思い通りの展開となったワケです。

さらに、徳川の治世が確立されていく段階では、寺院をがんじがらめにする「諸宗寺院法度(しゅしゅうじいんはっと)、天皇と公家をターゲットにした「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)、部下を統率するための「武家諸法度」など・・・

これらの徳川幕府の基盤となる法令の原案作成に深く関わったと言います。

あまりに厳しい政策を展開した事で、大徳寺(京都府)の名僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)からは「天魔外道(てんまげどう)と罵倒され、庶民からは「大慾山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)なんていう悪人丸出しのニックネークで呼ばれていのだとか・・・

また、寛永四年(1627年)に起こった紫衣(しえ)事件(11月8日参照>>)・・・これは、天皇の名で許した物を幕府が否定し撤回させるという、まさに、幕府による天皇管理を見せつけた事件ですが、この時、反対意見を提出したかの沢庵ほか2名に厳罰を与えようともしたとの事・・・

ただし、この時は、上記の天海の提案によって減刑されたとされています。

んん???
天海の?

ほんでもって、先の大坂の陣の前交渉の時が、正純と宗伝???

なんだか、当時の幕府の構図の変化が見え隠れしますね~

以前、書かせていただいた「家康の遺霊・改葬問題」(4月10日参照>>)・・・
その場所が久能山(静岡県)なのか?日光(栃木県)なのか?
そして神号は、明神なのか?権現なのか?
でモメたアレです。

この時、家康の死からまもなく、久能山へと葬り、その後明神を主張したのが崇伝と正純で、日光と権現を主張したのが天海と土井利(としかつ)・・・

ご存じのように、現在、家康さんは日光東照宮に東照大権現として鎮座されます・・・そう、天海が勝ったわけですね。

そして、その後、正純も、ご存じのあの「宇都宮釣天井事件」で失脚してます(3月18日後半部分参照>>)

そうです。
偉大な家康という後ろ盾を失った崇伝・・・かたや、2代目の秀忠、3代目の家光に取り入って重用された天海・・・

両者の明暗は見事に分かれました。

この後は、家光のブレーンとして腕をふるう天海・・・

確かに、記録の通りだと、あれだけの厳しい政策を立案した人ですから、悪く言われた事も事実なのかも知れませんが、天下を取ったヤツらから見れば、政争に敗れた崇伝の事なんて書きたい放題じゃないかしら?

天の邪鬼な私としては、その悪評がどこまで真実だったかを、少々疑いたくなる今日この頃です。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」 | トップページ | インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/38538698

この記事へのトラックバック一覧です: 逆らう者は容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝:

« 江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」 | トップページ | インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満 »