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2011年1月 4日 (火)

維新の雄藩になれなかった広島藩・辻将曹の活躍

 

明治二十七年(1894年)1月4日、安芸広島藩の執政として、幕末維新に活躍した辻将曹が72歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

維新の雄藩と言えば薩長土肥(さっちょうどひ)・・・

大政奉還に貢献したと言えば坂本龍馬後藤象二郎か・・・

しかし、薩長土肥のいずれにも属さず、それでいて、大政奉還にも大きく貢献した人がいます。

それが、辻将曹(つじしょうそう・まさとも)です。

文政六年(1823年)に、広島(芸州)藩士・辻維祺(いき・豊前)の三男として広島に生まれた将曹・・・本名を維岳(いがく)と言いますが、ややこしいので、今回は、後に名乗る通称の将曹さんで通させていただきます。

嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)で、大きく動き始めた幕末の日本・・・

そんな中で将曹は、広島藩内の改革派として成長していきます。

藩財政の立て直し軍備の増強など、次々と改革案の提出しますが、悲しいかな、この当時は、未だ藩内を保守派が牛耳っている時代で、彼の改革案は、ことごとく失敗に終わります。

しかし、安政五年(1858年)、前藩主の死去により、分家からの新藩主として浅野長訓(ながみち)がその座についた事から、藩内の力関係が一変・・・やがて、文久二年(1862年)、年寄役(執政)に大抜擢され、その才能を大いに発揮できる舞台が整いました。

こうして、産業の発展や軍備の近代化を推進する将曹は、他藩との交渉人としても活躍し、その名が全国的に知られる人物となっていきます。

やがて訪れた第1次長州征伐・・・すでに藩政の中心人物の一人となっていた彼は、幕府軍の出陣拠点の地となった広島を代表して、長州藩との交渉にあたり、ほぼ無血で和睦交渉を成立させます。

さらに起こった第2次長州征伐(5月22日参照>>)では、これを「無名の師(むみょうのし=名分の無い戦争)とする事を藩の意見として取りまとめ、
(日本のため思って)外国相手に戦った長州を、日本国自身が国を挙げて成敗する事はオカシイのでは?」
と、痛烈に幕府を非難し、長州藩への寛大な処分を求めました。

そして、これが聞き入れられないとなるや、幕府から命じられた先鋒の役目を拒否・・・結果、老中・小笠原長行から謹慎処分を言い渡されてしまいました。

しかし、これには、すでに動向が定まっていた広島藩の藩士たちの反発を買い、結局、処分は、わずか1ヶ月で放免となりましたが・・・。

その後まもなく、ご存じのように、この戦いは、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)死によって休戦状態となります(7月27日参照>>)

実は、ここで、幕府の代表・勝海舟と長州藩との間に立って、休戦交渉を取りまとめたのも将曹・・・その手腕には、海舟も大いに感激したようです。

終戦後、この時点で、すでに藩内で王政復古の青写真を話し合っていた将曹は、翌・慶応三年(1867年)に上洛し、薩摩藩や長州藩との会談を重ねた結果、9月には薩長芸による三藩同盟を結びます。

とは言え、一方では、土佐藩の推し進める大政奉還にも同調し、彼自身も大政奉還の建白書を幕府に提出しています。

これを、2面性の八方美人ととるか否かは、それぞれの見方によるところでしょうが、考えてもみれば、この三藩同盟の3ヶ月前には、あの薩摩藩だって、「船中八策」を承認するような形で土佐藩との薩土盟約を結んでいます(6月22日参照>>)

同盟と盟約には重さの違いがあるとは言え、この時期は、誰もが世の中の情勢を見極めるための様子見ぃに走っていたという事でしょう。

幕府がどう動くのか?
薩長は倒幕へと向かうのか?
ならば、周囲の藩はどうするのか?

そんな中で、
「とにかく戦争回避・・・やむなく戦争に突入するとしても、なるべく小規模に収めたい」
と、将曹の2面性は、そんな思いで奔走した結果であったような気がしてならないのです。

そして、最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還を議論したあの二条城の大広間(10月14日参照>>)・・・そこには、後藤象二郎小松帯刀(たてわき)とともに、堂々の熱弁をふるう将曹がおりました。

ここで慶喜が大政奉還を決意したのも、彼ら3人の意見が大いに影響していると言われています。

しかし、将曹の活躍で幕府からの信頼を得た広島藩は、逆に、倒幕一色となっていった薩長から疑いの目で見られる事となり、この後の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争では倒幕の中心から外され、広島藩よりず~っと後になって倒幕に加わった佐賀(肥前)が、維新の雄藩として優遇されるようになってしまったのです。

それでも、2度の長州征伐や小御所会議での交渉術が買われ、維新後の新政府では参与として出仕する事になった将曹でしたが、それも長くは続きませんでした。

いや、ひょっとしたら、最初から維新の青写真を構想していた将曹にとって、途中から外され、雄藩として優遇されない中央政府に、彼なりの割り切れない思いがあったのかも知れません。

一度去った政治の中枢に、彼は2度と戻る事無く、その後は故郷・広島にて、困窮する元藩士たちに新たな職をあっせんする授産事業にその生涯を捧げる事になります。

果たして、
中央政府でその腕を奮えなかった晩年は、彼にとって悲しいものだったのでしょうか?
それとも、
生まれ育った地域に貢献する事こそ、自らの本分と、そこに生きがいを感じていたのでしょうか?

「歴史上の人物がみんな好き」な私としては、後者であってほしいと願うばかりです。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

後者に違いありません。この方はその時々自分がどう人様の、世間様のお役にたてるか、を考えていらしたのでは・・今よりずっと故郷に対する帰属意識、愛国心のような気持ちが強かったと思うのでそこで同郷の人たちの役に立てることに生きがいを感じていたと思います。そしてこの方は中央に残ってたとしても、十分そこで役に立つ大切な存在になったと思うのですが。それにしてもあまり知られてないこういう人こそ、ドラマや映画等でスポットが当たると嬉しいです。超有名人でなくても、その他大勢の偉人の方もまた歴史に大きな影響を与えたはずです。

投稿: Hiromin | 2011年1月 4日 (火) 20時40分

Hirominさん、こんばんは~

この幕末と戦国時代は、ドラマでは人気の時代ですが、そこには、多くの登場人物と、彼ら同士が絡み合う複雑な糸の巧みさが、一番の魅力だと思うのです。

誰一人欠けても歴史が変わっていたような気がします。

誰かを主役に据えて、なんでもかんでもをその主人公がやったように描くのも一つの手法かも知れませんが、毎回、登場人物の誰かが主役になるような…往年の学園ドラマのような手法もあっても良いのではないか?とも思います。

投稿: 茶々 | 2011年1月 5日 (水) 02時09分

 広島の隣、岡山では、山田方谷。JRの駅にもその名を残しています。
古代や中世?は、多くの人材の宝庫、供給源でしたし・・桃太郎は???
近世・近代・現代では、各界で、仁科博士と大原さん、私(わたくし)なき献身の三木行治知事等々・・

投稿: syun | 2011年1月 5日 (水) 07時08分

syunさん、こんにちは~

「それぞれの郷里にそれぞれの偉人あり」ですね~

昨年の大河ドラマが龍馬になったいきさつとして、「大河ドラマの主役が一周した感があり、そろそろ以前主役になった人物を再び描こうと思った」的なスタッフ談を、どこかで読んだ事があるのですが、「そんな事言うなら、もっとマイナーな人にもスポット当ててほしいなぁ」と、ちょっと思ったりなんかしてます。

投稿: 茶々 | 2011年1月 5日 (水) 13時55分

 丁寧に、いつも反応下さり感謝です。吉備真備や和気清麻呂等のことだったです。真備は昨年はNHKの大仏開眼で描かれ、その後も超人的な才能が・・また、記念日等で取り上げて下さることを希望します。
今年は茶々の妹の江関連の人物だけでも、いっぱいでしょうが!

投稿: syun | 2011年1月 5日 (水) 23時28分

syunさん、こんばんは~

>今年は茶々の妹の江関連の人物だけでも…

そうですね。
今年の大河は、ここ何年かの出演者減少傾向に「待った」をかけるがごとく、多くの方が登場するようなので、楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2011年1月 6日 (木) 01時13分

茶々様こんにちわ~!
このような方が居たなんてまったく知らなかったです。お恥ずかしい。そして、ご紹介ありがとうございます。

改めて、歴史の偉業は一人だけの手柄じゃないんだなと思いました。例えば、歴史の授業では江戸城明け渡しは西郷・勝によるものと聞きましたが、実は山岡鉄舟や高橋泥舟、和宮、篤姫らの尽力なくしては成らなかった(勿論御存じと思いますが)。同じことが言えるのですね。
私も、大河にはこの辺りの細いドラマを丁寧に描いて欲しいです。登場人物を増やし、個々人の活躍を描いて欲しい。まあ、いろいろ制約はあるとは思いますが(特にギャラや製作時間…)、大河(歴史)は有象無象の人による支流があってこそのはず(だから本来大河ドラマだったはず)。大河ドラマの名に恥じないものを期待したいですよね。

郷土といえば、偉人じゃないですが、地元高校(岡山県津山市です)の友人で、先祖が浜田藩士で幕末に長州に攻められた時藩主と一緒に逃げてきた、という人がいました。また、家の近所には、津山藩が長州征伐で作ったとかいう火薬庫の跡がありました(子供の頃、価値がよくわからず入って遊んでましたが…)。今ふと思い出しましたが、今からたった160年程まえのことだから、幕末は探せば他にも痕跡がありそうです。
ああ、郷土の偉人だと、幕末なら箕作阮補、江戸中期なら宇田川一族、近代の平沼首相などがいました、そういえば。地元の人もよく知らないくらい目立たないですが(苦笑)

投稿: おみ | 2011年1月 9日 (日) 08時45分

おみさん、こんにちは~

そうですか~
津山なんですね~

私の友人が津山に住んでいて、昨年の秋には、阿波森林公園のバンガローに一泊して、友人といっしょに布滝や鶴山公園へ行ってきました。

時間にも限りがあって、歴史的な所と言えば、津山城址くらいしか見られませんでしたが…(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2011年1月 9日 (日) 09時48分

興味深い記事ありがとうございます。
維新というと、討幕派の非情な活躍や、敗者の側の「滅びの美学」ばかり強調されるので、こういう人物が紹介されるとほっといたします。いつでも建設的なところがいいですね。国家に必要なのは華やかなリーダーよりこういう地味な人でしょう。
月並みな感想ですみません。
ところで、中国の大河ドラマでは中間で人物紹介してました。応用すればなじみのない人物でも出せるのじゃないかな。

投稿: りくにす | 2013年1月 4日 (金) 19時59分

りくにすさん、こんばんは~

そうですね。
ちょっと時間を割いて人物紹介をしてみると、もっと、わかりやすかったかも知れませんね。

今年の大河は、よく知られている時代なので、紹介がなくとも人間関係はわかりやすいかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2013年1月 5日 (土) 03時02分

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