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2011年1月18日 (火)

14年間に26回~持統天皇の吉野行幸

 

持統三年(689年)1月18日、鵜野讃良皇女が第1回めの吉野行幸を行いました。

・・・・・・・・・・・

鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)・・・この翌年に第41代持統(じとう)天皇として即位される女帝です。

彼女は、この第1回の吉野行幸をかわきりに、亡くなるまでの14年間に26回も吉野の宮に通っています。

1年に一度は必ず・・・年によっては3回も吉野へ行っています。

その時に通ったであろう道が、以前ご紹介した奥明日香と呼ばれる稲淵(いなぶち)柏森(かやのもり)から芋峠を越えて大和上市(かみいち)に至る道・・・(9月5日参照>>)

もちろん、吉野までの確かなルートはわかりませんし、他に行く道がないわけでもなく、その都度ルート変えたのかも知れませんが、この道沿いには、持統天皇の祖母にあたる斉明(さいめい)天皇が、度々雨乞いの神事を行った飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社(あすかがわかみにいますうずたきひめのみことじんじゃ)もあり、父の天智天皇が学問を教わった南淵請安(みなみぶちしょうあん)の屋敷もあったわけで、おそらくは、その時代のメインルートとして確立されていたであろう道なので、たぶん、この道だと・・・

ところで、持統天皇は、なぜ、そんなに何度も吉野へと行ったのしょう?

それは、やはり彼女の歩いた波乱万丈の人生・・・そして、その波乱に満ちた中から自らの手でつかみ取った頂点の座・・・

しかし、いざ頂点の玉座に座ってみた時、これまで、先に逝ってしまった人々への思いや、幼子が成長するまで維持しなければならない現在の椅子の重みに、時々は、その心が潰されそうになる・・・そんな時に、持統天皇は「そうだ!吉野へ行こう!」と腰をあげたのかも知れません。

そんな彼女の波乱の生涯・・・とは言え、すでに、持統天皇・崩御の日づけで、すでにサラッとご紹介させていただいておりますので(12月22日参照>>)、少し内容がかぶるかも知れませんが、本日もお付き合いくださいませ。

Dscn3975a800 稲淵付近の飛鳥川…飛鳥川沿いの吉野への道については、本家HPの歴史散歩で紹介していますので、コチラからどうぞ>>

彼女の父は第38代天智天皇(当時は中大兄皇子)、母は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の娘・遠智娘(おちのいつらめ・造媛)・・・あの乙巳(いっし)の変蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)の年に生まれます。

すでに幾人かの妃がいる中大兄皇子ですが、同じ母から生まれた兄弟には、姉の大田皇女(おおたのひめみこ)、後に6歳年下の弟・建皇子(たけるのみこ)が生まれますが、この弟が生まれる2年前の大化五年(649年)・・・ともに大化の改新を成し遂げて政治を行っていたはずの父・中大兄が母方の祖父・石川麻呂を攻めたのです(12月4日参照>>)

祖父は建設中の山田寺に放たれた炎の中で死に、夫と父のハザマで苦悩した遠智娘は建皇子を出産後まもなくに自殺したとも言われています。

祖父を、そして結果的に母をも死に追いやった父の保護を受けて暮らす幼子たちの心はいかばかりであったでしょうか。

やがて、鵜野にとって一大転換期がおとずれます。

父の指示により、父の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)妃となったのです。

大海人=27歳、鵜野讃良皇女=13歳・・・ほぼ、同時期に姉の大田皇女も大海人皇子の妃に・・・つまり姉妹は、二人揃って叔父のところに嫁いだという事です。

その後、病弱だった弟・建皇子が、わずか7歳で亡くなった後、悪化する朝鮮半島情勢に備え、まさかの時に迎え撃つべく、時の斉明天皇以下、大船団を組んで九州へと移動します。

この移動中の船の中で、姉・大田皇女は、女の子=大伯皇女(おおくのひめみこ・大来皇女)を出産しますが、九州に到着後まもなく、祖母にあたる斉明天皇が旅先で亡くなります(7月24日参照>>)

母に代わって皇太子のまま政務をとる父・中大兄・・・その1年後には鵜野も男の子=草壁皇子(くさかべのみこ)を出産し、さらに翌年には、大田皇女が男の子=大津皇子(おおつのみこ)を出産と、姉妹はベビーラッシュに包まれます。

やがて白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)も終わり、少し落ち着いた朝鮮半島情勢に防人(さきもり)(2月25日参照>>)をおく事で対処し、飛鳥へ戻った御一行でしたが、心機一転とばかりに都を近江(滋賀県大津市)に遷した(3月19日参照>>)中大兄皇子は、翌年、ようやく第38代天智天皇として即位します(1月3日参照>>)

しかし、次の波乱は、それからわずか3年後にやってきます。

その天智天皇の死を受けて、後を継ぐ者が二人・・・弟の大海人皇子と、天智の息子・大友皇子です。

この時、次期天皇に大友皇子を推す声に身の危険を感じた大海人皇子は、わずかの側近を連れて吉野へと逃れたのです(10月19日参照>>)

すでに姉・大田皇女が亡くなっていたこの時・・・大海人皇子の妃の中でトップの位置となっていた鵜野讃良皇女は、夫に従い、ともに吉野に向かったのです。
おそらくは、かの道を通って・・・

ここが、彼女の「吉野行幸」の原点と言えるかも知れません。

かくして、かの大友皇子との間で勃発した壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利した大海人皇子は、天武二年(673年)2月・・・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位して第40代天武天皇となり、律令国家の原型となるべき政策を開始します(2月25日参照>>)

しかし、すでに次の波乱への予兆が見え始めていました・・・そう、今度は、その天武天皇の後継者です。

天武八年(679年)の5月・・・天武天皇は思い出の地である吉野へ行幸します。
もちろん、すでに皇后となっていた鵜野や、そのほかの9人の妃との間に生まれた17人の皇子・皇女とともに・・・

冒頭に書かせていただいたように、持統天皇は何度も吉野へ赴いていますが、天武天皇が吉野に行ったのは、かの挙兵の時と、この時の2回だけ・・・これが、いかに重要な事かがわかりますが、この時、一つの儀式が行われています。

後に吉野の誓い(吉野の盟約とも)と言われるもので、「千歳の後に事なからしめむ」と・・・言わば、「今後とも仲良くやろうな」てな事を天皇と皇后の前で、皇子や皇女たちに誓わせわけですが、この時、子供たちを代表して一歩前へ進み、うやうやしく誓いをたてたのが、17歳になっていた草壁皇子・・・

そうです・・・鵜野は姉の子=大津皇子をけん制すべく、我が子をここで代表的立場にさせ、後継者が自分の子=草壁皇子である事を印象づけさせたのです。

これが持統天皇にとって2度目の原点でした。

ところが、皇子たちが成長するにつけ、病弱でおとなしい草壁に対して、聡明で活発な大津に政界の人望は集まるばかり・・・やがて天武天皇が朱鳥元年(686年)9月に亡くなると、その後1ヶ月も経たないうちに大津皇子は謀反の疑いをかけられて処刑されてしまいます(9月24日参照>>)

おそらくは、我が子のために、その障害となる優秀な皇子を抹殺したであろう鵜野・・・その事件から3年後の持統三年(689年)1月18日鵜野讃良皇女は、初めて吉野への行幸を行ったのです。

しかし、その母の思い空しく、草壁皇子は、このわずか3カ月後の4月13日に亡くなってしまうのです。

母として、これほどの悲しみはなかったはず・・・まして、大津皇子を死に追いやってまで整えた帝王への舞台なのです。

だって、大津皇子は、祖父と母が父の手によって死に至った悲しみをともに味わった姉の息子・・・その悲しみに耐えながらも、ともに生きた姉の子を、彼女だってかわいくないわけはありません。

それを押し殺して用意した舞台だったはずです。

しかし、悲しみに暮れている余裕は、彼女にはありません。

幸いな事に草壁皇子には、その後継者となるべき息子=軽皇子(かるのみこ・珂留皇子)がいます・・・ただし鵜野にとって孫にあたるその皇子は、まだわずか7歳・・・

「この孫が成長するまで、この舞台を守り抜かねば・・・」
翌・持統四年(691年)、彼女は第41代持統天皇として即位します。

そして冒頭に書かせていただいた通り、その後、大宝律令の制定を見届けた大宝二年(702年)に58歳で亡くなるまでの14年間に、26回も吉野へと通うのです。

祖父と母の死に、絶える強さを身につけた皇女は、夫とともに天下を狙い、息子のために可愛い甥っ子を排除した・・・血も涙もない鉄の女と化した持統天皇は、ひょっとしたら、その玉座を維持するために、自らが絶えられなくなるような重みを感じていたのかも知れません。

悲しみに耐えられない時、
自分が潰れそうになった時、
持統天皇は、夫との出発点&息子との出発点である吉野へと向かい、その重荷に絶えようとしていたのかも知れません。

持統天皇の吉野行幸の数は、その悲しみの数でもあったのです。
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コメント

吉野山の桜は、一度見た事があります。西行が庵を結んだ場所ですね。

投稿: やぶひび | 2011年1月18日 (火) 17時22分

吉野行幸の数は、その悲しみの数 ~ ~ イョ ! 、名調子♪、拍手、って感じですね。
持統天皇も、(何故か)、歴史ドラマの中では、聡明で美しい女性として登場しますよね。本当に綺麗な人だったのでしょうか、出来ることなら見てみたい、と、凄く、好奇心がくすぐられるところです。
人間的に深みがあった ー ー と、想像はいくらでも出来ますが、歴史上の出来事を箇条書きしてみれば、天皇のお心はそっちのけにされた、矛盾や理不尽ばかりで、精神は破綻していたとも思えぬこともない、と思います。(言い過ぎでしょうか、)。
‘春過ぎて ~ ~’、の歌も、無機質で感情の無い歌だと思います。
その頃は、既に天皇は形重視、形式的な存在だったのではないでしょうか。

投稿: 五節句 | 2011年1月18日 (火) 17時48分

やぶひびさん、こんにちは~

吉野の桜…
私も、ずいぶん昔に行った事があるのですが、あまりに昔なので、また行ってみたいです~

良いですよね~

投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 18時00分

五節句さん、こんにちは~

歴代、何人かの女帝がいらっしゃいますが、多くの女帝が中継ぎとして即位する中で、個人的には持統天皇が、中継ぎでありながら最も腕をふるった人ではなかったか?とも想像しています。

まだ、藤原不比等も出て来たばっかりの頃ですし…

波乱万丈すぎて、その心のうちが読みきれていませんが…

投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 18時06分

吉野は天皇家と縁のある土地ですね。
持統天皇はコミック「天上の虹」で有名ですね。
このコミックは意外な事に、今まで「映像化」された事がないんですよ。舞台ではあるようです。時代劇SPや映画、およびアニメのいずれも実現していないんです。
個人的には大河ドラマ化を希望していますが…。

投稿: えびすこ | 2011年5月10日 (火) 17時11分

えびすこさん、こんばんは~

もう、「仁」のように、大河ドラマも漫画を原作にしてみたらどうでしょう。

最近の漫画は、歴史が好きな人が書いてるぶん、意外にスルドいです。

セリフがほぼ決まっているので、歴史好きじゃない脚本家にムチャクチャにされる事もありませんし…

投稿: 茶々 | 2011年5月10日 (火) 19時15分

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