« 若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚 | トップページ | 『常山紀談』と湯浅常山 »

2011年1月 7日 (金)

夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭

 

宝六年(1678年)1月7日、大坂・新町廓の太夫・夕霧が22歳の若さで病死しました。

・・・・・・・・・

先日は、江戸の遊びの殿堂吉原の誕生など(12月24日参照>>)について書かせていただきましたが、本日は、大坂の新町について・・・

本日ご命日となる夕霧さんは、一説には京都は嵯峨の生まれで、はじめは嶋原の「扇屋」に入り、その後、その「扇屋」が大坂の新町に移転した事で新町の太夫となったとされる、いわゆる初代の夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)の事です。

その姿は美しく、芸事にも才能があり、当時は、「江戸・吉原の高尾太夫」「京都・嶋原の吉野太夫」と並び称される人気を誇ったそうですが、上記の通り、延宝六年(1678年)1月7日22歳(もしくは27歳)で病に倒れ、その命を散らしました。

「その日は、大坂中が泣いた」と言いますが、それを物語るがごとく、彼女の死後、『夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわなると)』『廓文章(くるわぶんしょう)などの浄瑠璃『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などの歌舞伎に描かれ、なおいっそう、その名を有名にする事となります。

上記の物語に登場する夕霧には、大抵、伊左衛門という恋人がいて、あまりに遊郭に通い詰めた商家の息子・伊左衛門が勘当されるというストーリーで、その後、前者の2題の浄瑠璃では勘当を許された伊左衛門が夕霧と結ばれるハッピーエンドとなりますが、後者の2題の歌舞伎では夕霧の亡くなった後に伊左衛門が夢の中で再会するといった感じの少し悲しい物語となっています。

実際の夕霧は・・・どうだったんでしょうかねぇ

ところで、先日の吉原誕生でもお話したように、幕府公認の遊郭という物は、決まって町ハズレに建てられる物なのですが、今も、大阪市西区に地名が残る「新町」がその場所で、以前書かせていただいた「大坂市中引き回し」のまちあるきのページ(12月17日参照>>)で、現在の四ツ橋筋の東側・・・阪神高速が走っている所に、昔は西横堀川という川があって、そこが、江戸時代初め頃の大坂の西の境界線で、そこから外は町ハズレであった事をお話させていただきました。

・・・で、この新町は、そう、その西横堀川の西隣・・・つまり、当時の大坂の町を出たすぐの場所にあったという事です。

と言っても、大人の遊び場自体は、豊臣秀吉の時代から、現在の伏見町(北浜近辺)のあたりや福島のあたりなど、大坂の各地に点々とあったわけですが、例の大坂の陣で豊臣が滅び、大坂が徳川幕府の直轄地となった事で、江戸と同様に、それを幕府公認とすることで管理して治安維持をはかろうと1か所に集めたわけです。

そして、当時はまだ、芦が生い茂るばかりの沼地だった町ハズレに新しい町=新町を造ったのです。

加藤清正の家臣の曾孫と称する木村又次郎という人が、その管理を任され、家に伝わる千成瓢箪(せんなりびょうたん・秀吉の馬印)をその玄関に飾った事から、その屋敷の周辺が瓢箪町と呼ばれるようになり、その瓢箪町を中心に、各地の遊女町が次々と移転を開始・・・こうして、大坂でただ一つの公娼となった新町は、江戸の吉原、京都の嶋原(島原)と肩を並べる遊郭となっていったのです。

Oosakasinamatitizuezu 現在の地図と江戸時代の絵図を比較しやすいように並べてみました(クリックすると大きく見られます)

上記の地図を見ていただけると、明らかにその一帯が周辺とは違う四角く囲まれた場所・・・そもそもは、(郭・くるわ)という言葉自体が、城郭など、堀や石垣に囲まれた場所を指すわけで、この新町も、北は立売堀川、南は長堀川、東に西横堀側に囲まれた場所で、しかもできた当時は、まだ西側も芦の原だったのですから、文字通りの囲まれた場所だったわけです。

はじめの頃は、出入り口は西側にある大門一つ・・・人々は、大坂のにぎわいから一旦サヨナラしてから、「かこい」に沿って西側へと回りこんで新町へと入り、大門に必ずいる警備員が、その入出をチェックしていました。

とは言え、さすがは大阪人・・・
江戸の吉原は、最後まで上記のような厳しさが保たれていましたが、明らかに不便な西側だけの入り口に、大阪市民の不満が殺到したんでしょうねぇ・・・

明暦三年(1657年)には、東側にも大門ができちゃいました。

そうなると、あっちもこっちも・・・って事で、寛文十二年(1672年)には、西横堀側に新町橋が架けられたのをきっかけに、そこにも大門を設置。

さらに、享保十二年(1727年)には吉原町に、宝暦四年(1754年)には新京橋町にも門ができますが、当然の事ながら、これだけ出入り口が多くなると、その管理もいく届かなくなわけで・・・

結局は、一定の袖の下さえ渡せば、遊女でさえ出入りできたっていうんですから、江戸の厳しさとは大違い・・・つくづく、大阪やなぁ~(*^-^)と、

絶頂期には、太夫=38人、天神=91人、鹿子位(かこい)=52人・・・さらに端女郎(はしじょろう)を含めれば、総勢800人以上の遊女がいたという新町遊郭・・・

そんな中でトップをとった夕霧太夫・・・
現在、毎年11月12日に彼女と縁のある京都清涼寺にて供養祭が行われています。
(清涼寺への行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」嵐山>>でどうぞ)

どんな人だったのか想像する毎日ですが・・・
あきません(>0<)
もう、「JIN-仁」高岡早紀さんしか目に浮かばないっす。

・・・夕霧ねえさん、おさらばえ~~~
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚 | トップページ | 『常山紀談』と湯浅常山 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

佐伯順子さんの「遊女の文化史」を読むとこの頃の遊女さんはTop of woman かな、なんて思います。見目麗しく、賢く、性的にも○○ でもやっぱり病気になりやすいのか早死にする人が多かったんでしょうかね。そうかと思えば超玉の輿に乗る人もいたようで、運、不運が極端だなぁ。あ、私は夕霧さんは「新撰組!」で芹沢鴨の愛人を演じてた鈴木京香をイメージしました。

投稿: Hiromin | 2011年1月 7日 (金) 21時26分

Hirominさん、こんばんは~

新撰組の鈴木京香さんですか…
あの役もステキでした。

芸者さんで玉の輿って人もいましたね。

投稿: 茶々 | 2011年1月 7日 (金) 22時21分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/38372429

この記事へのトラックバック一覧です: 夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭:

« 若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚 | トップページ | 『常山紀談』と湯浅常山 »