« 信長が保護した瀬戸物の長き道のり | トップページ | 忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平 »

2011年1月13日 (木)

織田信長の傅役・平手政秀の死

 

天文二十二年(1553年)閏1月13日、尾張の戦国武将・織田信秀信長の父子2代に仕えた重臣・平手政秀が自刃しました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長さんは、尾張(おわり・愛知県西部)の武将・織田信秀の息子として天文三年(1534年)に生まれます。

その頃の信秀は、尾張の守護・斯波(しば)家に仕える守護代=織田家の中の家老の一人でした。

本来なら、国主になるはずなどない分家だったわけですが、その織田家内での内紛に乗じて尾張の大部分を手に入れ、本家を脅かす存在になっていったのです。

そんな信秀の後継ぎである信長の傅役(もりやく・教育係)だったのが、信秀の家臣の中でもナンバー2の家老・平手政秀(ひらてまさひで)・・・彼は、古歌に通じて茶の湯をたしなみ、風雅を好む文化人であったと言われます。

しかし、当時の信長は、皆さまがドラマでよくご覧になる通りの不良少年・・・

とても後継者には見えない下品な髪形に、着物の片袖を脱いで
「町を御通りの時、人目をも御憚(はばか)りなく、くり、柿は申すに及ばず、瓜をかぶりく(食)ひなされ」
とか
「人によ(寄)り懸り、人の肩につらさがりてより外(ほか)は御あり(歩)きなく候」(信長公記)
てな感じで、不良少年のヘッドとして城下を闊歩して、仲間とともに様々な奇行をくりかえし「うつけ」「たわけ」なんて呼ばれていました。

そんな中でも、さらに領地を増やすべく、隣国・美濃(岐阜県)への進攻を繰り返していた信秀でしたが(9月23日参照>>)、天文十六年の加納口の戦いを最後に方針転換(9月22日参照>>)・・・逆に美濃の斉藤道三と同盟を結んで、一方の隣国である三河(愛知県東部)松平広忠との戦いプラス未だ成されていない尾張統一の方を優先する事にします。

この時、同盟の使者に抜擢された政秀は、その見事な交渉術で、両者の和睦を成立させ、信長と、道三の娘・濃姫婚約も取り付けています(2月24日参照>>)

翌年の天文十七年には、無事、濃姫との結婚を済ませた信長ですが、ここに来ても、まだ奇行は収まらず、相変わらず「うつけ」真っ最中・・・年齢がすすむにつれ、傅役の政秀としては、「その奇行を何とかしたい」という思いもあった事は確かでしょう。

やがて天文二十年(1551年)、父・信秀が亡くなり(3月3日参照>>)、信長は18歳で家督を継ぐ事になりますが、ここで信長・・・ドラマでも定番の、父のお葬式での、あの態度・・・

いつものトンデモない格好で、父の葬式に現われた信長は、手を合わすどころか、焼香をわしづかみにして祭壇に投げつけて去っていきます。

一方、その後にやってきた弟の信行は、正式ないでたちに凛とした身のこなし・・・以前から、その奇行ゆえ、「信長は当主にふさわしくないので信行を当主に・・・」と、家臣から出ていた声は、この葬式事件で一段と大きくなったいったのです。

ところで、この信長の「うつけ」ですが・・・
よく、「うつけのフリをしていた」
なんて事も言われますが、私としては「うつけのフリをしていた」のではなく、「本当にうつけだった」と思います。

いや正確には、信長の普通の行動が、「周りから見たらうつけに見えていた」
という事ですね。

皆さん、ご存じのように、この時、信長とツルんでワルサをしていた少年らは、その後、信長の手足となって、その意のままに戦場を駆け抜ける兵士となります。

少年の頃の戦争ごっこが、後に見事に花開く結果となるのですから、むしろ「うつけ」に見えていた信長の行動こそが、最先端の家臣育成方法だったという事になります。

とは言え・・・それは後々わかる事・・・

・・・で、そんな頃に起こったとされるのが、信長と政秀の主従関係に険悪ムードを漂わせる事になるある事件・・・

それは、政秀の長男・五郎右衛門が所持していた駿馬・・・その立派な馬を目にした信長は、
「僕にチョーダイ」
と、馬をご所望・・・

しかし、五郎右衛門は
「俺は侍ですよって、ええ馬に乗るのは当たり前・・・この馬は俺の馬やよって譲れまへん!」
と、キッパリ拒否したというのです。

かくして天文二十二年(1553年)閏1月13日政秀は自ら切腹し、その62歳の生涯を閉じるのです。

その自刃の原因は、いつまでたっても「うつけ」の信長に失望したからとも・・・
あるいは、
自らの命をかけて主君の間違いを訴える・・・いわゆる諌死(かんし)として美談に語られる事が多いですが、一方では、上記の長男の一件で、主従関係にヒビが入ったうえに、その後の長男が信長との後継者争いとなった弟・信行に加担した事への責任をとったとも言われます。

例の『信長公記(しんちょうこうき)には、政秀の死に対する信長の反応は書かれておらず、むしろ、先の事件によって「信長と政秀父子が主従不和になっていた」と書かれていますので、どちらかと言えば後者に近い理由としているのかも知れませんが、もっと後に書かれた『信長記(しんちょうき)『信長軍記』では、「この政秀の死によって、信長が大いに反省し、天下統一の志を掲げるようになる」と、諌死寄りの展開になっています。

とは言え、『信長記』や『信長軍記』は軍記物で小説色が強く、やはり『信長公記』のほうが信憑性が高いのですが、一歴史ファンとしては、政秀の死によって目覚める信長であってほしい気はします。

そんな『信長軍記』には・・・
鷹狩りに出かけて獲物を手にしては、それを空高くかかげ 「政秀、食せよ」
と空に投げてみたり、
川に入っては水を高く蹴りあげ
「平手、これを呑めよ」
と言いながら、涙を浮かべる信長の姿
が描かれています。
(こっちのほうが、やっぱりイイ(*^-^))

それに、馬事件の後も、信行謀反(11月2日参照>>)の後にも、かの五郎右衛門に処分を下したという記録もなく、むしろ、その弟の監物(けんもつ)ともども、その後も家臣として重用しています(二人は長島一向一揆で討死したとされています)

さらに、政秀の末の息子とされる(孫の説もあり)平手汎秀(ひらてひろひで)には、「志賀」と名づけた脇差と、自らが選んだ名馬・笛會羅志(ふえそらし)を与えて、あの三方ヶ原に送り出したと言います。

それって・・・
あの五郎右衛門の馬の一件に「俺は怒ってないで」と信長が言っているような・・・
やはり、彼と平手父子の絆に何の影響もなかった、むしろ、ず~っとつながっていた証のようにも思えます。

だからこそ汎秀も、信長の心に答えるがごとく、武田信玄の本陣に突進していったのでは?・・・そして汎秀は・・・

と、その汎秀さんのお話は、
2年も前の記事ではありますが、12月23日のページでご覧ください>>
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ  にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 信長が保護した瀬戸物の長き道のり | トップページ | 忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

記事の途中の部分は昨日の「歴史秘話ヒストリア」で触れていました。若き日の信長は織田一族の内輪もめにも相当苦心しています。織田信長が用意周到に家来の腹の内を探っていた(うつけと言われる自分についてこられるか?)とするならば、平手正秀がそれに気づけなかったとも言えますね。今でも諸説あるようです。

この10何年の大河ドラマでは織田信長の10代の頃に触れないため(最近では30歳以降の信長が出る作品が多いので)か、平手政秀がなかなか出てこないですね。最近の傾向なのか信長に限らず、秀吉や家康の若い時期にもどうもあまり触れないですね。

投稿: えびすこ | 2011年1月13日 (木) 17時48分

えびすこさん、こんばんは~

昨日のヒストリア…
録画してまだ見てないですが、やってましたか…

あの「うつけ」なスタイルも、よくよく考えれば、戦うに便利な理に叶ったスタイルだったとも言われていますね。

あまりに斬新すぎて、周囲がついていけないって感じだったのでしょう。

投稿: 茶々 | 2011年1月13日 (木) 18時01分

こんにちわ、茶々様o(_ _)oペコッ

相変わらず面白い記事をありがとうございます。歴史の中の平手政秀と言えば信長の教育係としての温厚なイメージしかありませんが
信長を諌めようとする行為・・・現代には理解しがたい主従関係と侍魂が見受けられますね。
平手汎秀の事は知らなかったのですが過去記事を見て、政秀の『血』と『魂』が子供に受け継がれていた事に感激しました
(;´Д`ヽ)

投稿: DAI | 2011年1月13日 (木) 20時23分

児童書の信長の伝記には、うつけものをよそおったとありました。道三との会見の時は、見違えるようになっていたエピソードも。晩年の頃と同じ人だと思えないです。

投稿: やぶひび | 2011年1月13日 (木) 23時05分

正秀の死を「諫死」と解釈するのは、なんだか近世的な印象がありますね。

投稿: 黒駒 | 2011年1月14日 (金) 00時11分

DAIさん、こんばんは~

軍記物には、
その時の汎秀は、「武田の衆よ!志賀と笛會羅志をしかと見よ!」と叫びながら、配下の300騎とともに、本陣に突入していったと書かれています。

泣けますね~(;ω;)

投稿: 茶々 | 2011年1月14日 (金) 02時02分

やぶひびさん、こんばんは~

私は、個人的には、信長さんは晩年もイイ人だったと思っています。
神になろうとしていたとか、魔王のごとき殺戮をしたとかっていうのは、敵である比叡山やイエズス会の、少々オーバーな書き方のように感じます。

だって、よほどイイ人でない限り、軍のトップがあんな少ない人数で、本能寺に泊ったりしないと思うんです。
少しひいき目ですが(*゚ー゚*)

投稿: 茶々 | 2011年1月14日 (金) 02時14分

黒駒さん、こんばんは~

やはり、「信長公記」の内容が、一番信憑性が高いでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年1月14日 (金) 02時15分

茶々さん、こんにちは♪

信長協奏曲では従来とは違う設定の男(原作未読、アニメ未視聴の方の為の配慮でネタバレ禁止)に殺されましたね。茶々さんはご覧になっていますか?!私は録画してツッコミを入れたり笑ったり感心しながら観ています(゜o゜)\(-_-)

投稿: 圭さん | 2014年9月15日 (月) 12時39分

圭さん、こんばんは~

すみませんm(_ _)m
見てないです。。。

オモシロイらしいですね~

投稿: 茶々 | 2014年9月16日 (火) 01時43分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/38449586

この記事へのトラックバック一覧です: 織田信長の傅役・平手政秀の死:

« 信長が保護した瀬戸物の長き道のり | トップページ | 忠臣蔵「お軽勘平」のモデルとなった萱野三平 »