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2011年2月 2日 (水)

離れてもなお母の愛~成尋とその母

 

延久三年(1071年)2月2日、平安時代の僧・成尋が、宋へと向かうため、大雲寺を出発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、この21世紀の世の中・・・1日・2日の時間さえあれば、地球上のあらゆる場所に行けるし、帰ろうと思えば、どこからでもたやすく帰って来られます。

そんな現代でさえ、可愛い息子が未だ見知らぬ海外に行くとなると、母親としては心配になるものです。
それは、息子の年齢に関係なく・・・。

一方、旅立つ息子のほうは・・・。

確かに、19や20歳の若い世代なら、親の事など2の次で、自らの夢に向かって、ただ突っ走るのみでしょうが、自分自身がすでに50・60歳になっていたら、当然、その親の世代は、70~80歳なわけで、自分の夢の実現のためとは言え、年老いた親を残して遠くに行く事を、100%の気合いで押し進めるのには、多少の抵抗を感じるはずです。

まして、それが、荒波を越えて、命がけで海外に行かねばならなかった平安時代なら・・・。

 

寛弘八年(1011年)に生まれたという成尋(じょうじん)・・・母は、名門・醍醐源氏の流れを汲む源俊賢(としかた)の娘だそうですが、この女性の結婚相手が、陸奥守であった藤原実方(さねかた)の息子のうちの次男・貞叙か三男・義賢かという事が微妙であるため、当然の事ながら、この成尋の父親も、二人のうちのどちらというのが曖昧ながらも、今のところではおそらくは貞叙という方のほうではないか?という事になってます。

とにかく、この父親という人が早くに亡くなり、成尋は7歳にして出家をし、京都岩倉大雲寺(京都市左京区)に入ります。

途中、行円(ぎょうえん)明尊(みょうそん)など、天台宗の名僧に教えを乞いながら、やがて大雲寺の住職に就任するまでになります。

そして、幼くして父を亡くしたぶん、母を思う気持ちの強い成尋は、この住職就任をきっかけに、母を大雲寺に引き取り、ともに暮らす生活を送っていたのです。

しかし、延久元年(1069年)・・・59歳になっていた成尋は、一大決心を母にうち明けます。

「実は・・・仏教を極めるために、(中国)に渡りたいと思てます。
3年経ったら、必ず帰ってきます・・・
けど、大陸への船旅は命がけの危険な旅・・・
万が一の時は、極楽でお会いしましょう」

この時、母は81歳・・・おそらくは、純粋な母親の気持ちとしては、引きとめたかったでしょう。

なんせ、その息子は、大雲寺の住職のほかにも、すでに延暦寺総持院阿闍梨(あじゃり・僧に教える側の立場の僧)となり、時の権力者・藤原頼通(よりみち)護持僧(ごじそう・祈祷の専属契約してる僧)にもなってるんですから、
「なにも、今更、そんな命がけの事を・・・」
と、思ったに違いありません。

しかし、それを押さえるのも、母の愛・・・いつもやさしい息子が、どんな思いで81歳にもなる母に、自らの夢を語ったのか・・・

それが、わかるからこそ、彼女は何も言わず、息子を見送ったに違いありません。

かくして2年後の延久三年(1071年)2月2日、大陸へと向かう商船に乗るため、まずは九州へ・・・成尋は、母と暮らした大雲寺を後にしたのです。

無事、宋へと到着した成尋は、中国仏教の聖地である天台山五台山などを巡りつつ、皇帝・神宗(しんそう)にも大歓迎され、善慧大師(せんねだいし)なる号まで賜りました。

数百人の護衛を従えた皇帝の姿・・・
見た事もない建物・・・
考えた事も無い動物・・・
味わった事のない食べ物・・・

見る物・聞く物のすべてに驚きを隠せない成尋は、この行程を日記の要領で記録し、「参天台五台山記(さんてんだいごだいさんき)なる旅行記を書き上げます。

一方、延久四年の8月に、
「3月15日に、無事、船に乗ったから・・・いってきま~す」
の手紙を受け取った母・・・ここのところ、毎日、息子の夢を見てしまいます。

♪しのべども この別れ路を 思ふには
 唐紅
(からくれない・大陸風の深い赤)の 涙こそふれ♪
「息子と別れる事を考えたら、なんぼ我慢してても、真っ赤な涙が雨のように降ってくるねん」

♪もろこしも 天(あめ)の下にぞ ありと聞く
 照る日の本を 忘れざらなん ♪

「そっちも、この国と同じ太陽が照らす空の下にあるんやて?せやねやったら、絶対、この日本の事忘れんとってな」

そう、
宋での出来事を日記に記した息子に対して、母は、歌を詠み「成尋阿闍梨母集(じょうじんあじゃりははのしゅう)という歌集を残すのです。

やがて延久五年(1073年)10月、帰国の船が用意されたにも関わらず、成尋は、ともに中国に渡って来た弟子=7人のうち、手元に身の回りの世話をする一人を残して他の者を乗船させ、自らは
「さらに修業を続けたい」
として、中国に残る道を選びました。

そこには、こんな約束破りも
「僕の母さんなら、わかってくれる」
成尋の、そんな思いがあったに違いありません。

そして、母も・・・
遠く離れた場所にいても、心通じ合う母子なら、その息子の気持ちを受け止めた事でしょう。

しかし、一方で、自らの寿命という物も気になる母・・・
おそらくは、もう、息子に会えない事もさとったに違いありません。

♪涙川 なくなくなりて 絶えぬとも
 流れけりとは あとに来て見よ ♪

「こんな泣いてばっかりおったら、涙の川も枯れてまうわなぁ…けど、後でええから、その涙の川の跡だけは見に来てや」

「今は、お前の夢を叶える時・・・私に会いに来るのは、ずっと後・・・死んでからでもええんよ」
私的な解釈ですが、そんな母の気持ちが込められているような気がします。

息子の旅行記・・・
母の歌日記・・・

結局、日本に帰る事はなく、大陸の土となった成尋・・・

携帯電話のない一方通行ぶりに、もどかしいほどの美しさを感じる1000年前の母子の会話は、今、現在も、我々に感動を与えてくれます。
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コメント

こんにちは、いつも楽しく読ませていただいてます!

子を思う親の心って、今も昔も変わらないですね…切ない〜(´・ω・)

投稿: たま | 2011年2月 3日 (木) 10時22分

たまさん、こんにちは~

ホント、切ないですね~(ノ_≦。)
二人の願い通り、極楽でお会いされている事を祈ります。

投稿: 茶々 | 2011年2月 3日 (木) 15時23分

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