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2011年3月 6日 (日)

思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」

 

今日3月6日は庚申(こうしん)の日です。

庚申とは・・・
「庚=かのえ(十干)」の日であって「申=さる(十二支」の日であるって事ですが、

もともと十干というのは、1ヶ月を上旬・中順・下旬の3つに分けた中の10日間の順序を示すために作られたとされる10個の数字・・・

いわゆる、(こう)(おつ)(へい)(てい)(ぼ)(き)(こう)(しん)(じん)(き)の10個のうちの7番目が庚ですね。

戦前までは、「1・2・3…」よりは、むしろ「甲・乙・丙…」が、数字として使われるが多く、今でも、クソややこしい契約書なんかに、「甲が乙に対して○○の時は…」てな文面で、余計に難解にしちゃってくれてますが、このように、本来は単に数字を表す物だった十干ですが、いつしか五行説などと結び付いて、時には、占いや縁起かつぎなどにも使われたりします。

一方の十二支は・・・ご存じですよね?
「子・丑・寅…」と続く、えとの十二支(くわしくは11月9日参照>>)・・・今年は、「卯(う=うさぎ)ですね。

・・・で、上記の十干と十二支を組み合わせて、「甲の子」「乙の丑」「丙の寅」…使っていくと、60で一周する事で、昔は、この十干と十二支が、年を表したり、日を表したりするのに使われていたわけです。

たとえば、よく疑問に思うのが・・・
今は、「平成○年生まれ」とか「昭和○年世代」なんて言うけど、元号がコロコロ変わった江戸時代の人は、「私、正保二年生まれです」「私は慶安元年生まれなんで3歳違いですな」とか、瞬時にしてわかったんだろうか?
なんて事ですが、

実は、昔の人は元号ではなく、この十干と十二支の組み合わせて、年を言い表していので、「正保二年=乙酉(きのととり)」「慶安元年=戊子(つちのえね)と、すぐに年齢の違いなんかがわかったわけです。

ご存じの方も多いとは思いますが、あの高校野球で有名な甲子園球場も、そのおおもととなる運動公園が誕生した大正十三年(1924年)が「甲子(きのえね)の年だったので甲子園と名づけられたとの事・・・と、こんな感じで、けっこう近年まで、この数字の表し方が使用されていたわけで、そんな中で、年を表すのと同じように、各日にちも十干と十二支で表されていたわけです。

なので、本日の「庚申の日」というのも、60日に一回は回ってくるわけで、前回は1月5日、今回の次は5月5日が庚申の日という事になります。

長い前置きになりましたが・・・とにかく、本日は、そんなこんなの庚申の日!

でも、それなら、庚申の前日は「己未(つちのとひつじ)で、次の日は「辛酉(かのととり)・・・なぜ、庚申の日だけ特別に?

実は、この庚申の日は「雑節(ざつせつ)の中の一つで、「庚申講(こうしんこう)あるいは「庚申待ち」という行事が行われる日だから、特別なのです。

雑節とは、農業を営むための目安とするために設けられた捕捉のような節目の日なのですが・・・

そもそも、産業の中心が農業だった昔の日本・・・その農業を順調に進めるためには、季節の移り変わりを知る(こよみ)が重要な役割をしていましたが、陰陽師などの特殊な職業の人以外は、正確な暦を計算する術を持っていませんでした。

そこで、1年を24等分に分けた二十四節季(くわしくは10月4日参照>>)、さらに、それを3等分した七十二候を作って、農作業の進み具合の目安としたのです。

雑節は、その更なる捕捉・・・有名なところでは、お茶の葉を摘む最適日とされる「八十八夜」や、台風の当たり日とされる「二百十日」なんていうのがあります(5月2日参照>>)

「入梅」も、この雑節の一つで、今で言う「梅雨入り宣言」ではなく、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日前後)から数えて5日目とされていました。

とは言え、この庚申の日は、あまり農業とは関係ないような・・・???( ̄◆ ̄;)

その起源は謎で、一説には、中国の道教「守庚申(しゅこうしん)という思想が、奈良時代に日本に伝わり、日本固有の信仰と結びついて発展したのでは?と言われますが、定かではありません。

そもそも、人には、上尸中尸下尸という「三尸(さんし)の虫」がいるのだとか・・・

上尸の虫は頭にいて、目を悪くしたり、顔にシワを作ったり、髪を白くさせたり・・・中尸の虫は腹にいて、暴飲暴食をさせたり臓器に悪さをし、下尸の虫は足にいて精を抜いちゃう。

・・・で、この三尸の虫は、庚申の日に、その宿主である人物が寝静まると、その身体から抜け出して、その人の悪事の数々を天帝に告げ口しに行くのですと!

もちろん、報告を受けた天帝によって天罰が下され、その人の身体は、さらに老いていく・・・って事なのですが、それを防ぐためには、ただ一つ!

そう、庚申の日に眠らなければ良いのです。

この「庚申の日に眠らない」というのは、平安時代頃には貴族の間に盛んに行われました。

あの『栄華物語』にも
「としのはじめの庚申の日なり せさせ給へ」
とあるほか、
『花園院宸記』の正和二年(1313年)8月2日の条には
「今夜睡眠せず 終夜庚申守る 和歌会 密々…」
とあり、徹夜するために皆で和歌の会を開いた事が書かれています。

その後、室町時代頃には、その風習が一般にも伝わり、江戸時代には、庶民の習慣の中に解け込んでいったようです。

庶民の場合は・・・
まずは庚申さんにお参りを済ませた後、庚申画像を掛けた当番の家に仲間内が集まってお酒を酌み交わしながらよもやま話で徹夜する・・・なんと、今でも、この通りに行われている地方もあるとの事です。

さすがに、夜の12時に日づけが変わる事が定着した現在では、0時解散となる所も多いようですが、夜の楽しみ方も人それぞれという現在と違って、昔は60日に一度の農家の楽しみだったのかも知れませんね。

Dscn3315a800 ならまち庚申堂にて…

ところで、奈良県奈良市の一画・・・「ならまち」と呼ばれる古き良き街並みが残る場所には、家々の軒先に、三尸の虫が嫌うという「身代わり申(さる)を吊るして、庚申の日の難に逃れようとする風習も残っていますが、この申のルーツも、これまた謎となっていました。

確かに、庚申待ちの信仰が、上層階級から庶民へと伝わる中、庚申の供養塔を建てるのが流行し、その中には「見ざる・聞かざる・言はざる」三猿の描かれた物も存在するようですが、果たして、その関係なのか???

と思われていた所・・・昭和六十二年(1987年)に、奈良県立博物館で開催された「大英博物館所蔵~日本・中国美術名品展」に出品された展示品の一つで、その謎が少し解けました。

それは、唐の時代に製作された敦煌(とんこう)石窟の祭壇に飾られたであろう垂れ幕・・・そこに、この「身代わり申」とまったく同じ物がついていたのです。

その意味は未だ謎ではありますが、おそらくはこの身代わり申・・・遠き昔に、シルクロードを通って、この奈良の地にやって来たお申さん・・・

古き良き庶民の風習といい、遥かシルクロードへの思いといい、なにやら、広大な妄想をかきたてられる庚申の日ですね。

う~~ん、今夜は眠れない(。>0<。)

ならまちへの行きかたを、本家ホームページ「歴史散歩:ならまち」で紹介しています…よろしければ、コチラからどうぞ>>
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コメント

茶々さん、こんばんは!

「庚申の日」でふと想い出したのですが、大学の友人がこれで卒論を書きました。その友人は専攻分野が民俗学ですが、天理出身って事もあったのでしょう。「庚申信仰」をテーマにしたんですね。(そこの史学科は地域史をメインにテーマを考えなきゃダメなトコでしたので…)
卒論提出の作業の際、和綴じなどを手伝ったのですが、本文40~50頁に加えて、奈良各地にある庚申塚や関係する石像やそれこそ茶々さんが本文中に書いておられる講中の様子を撮った写真なども添えていいたんですね。(許可を得て…)
いざ綴じてみたら、厚さが10cmもあったんですよね。ホント、大作って感じです。
ところが、これだけでなく、お年寄りの方々に「庚申講」の事を聞き取り調査をして録音したカセットテープも付けていたんですよ。

その時思ったのは、“やろうと思えば、ここまでできるんや”と感心した自分でした(笑)

投稿: 御堂 | 2011年3月 8日 (火) 01時55分

御堂さん、こんばんは~

>厚さが10cm…

すごい大作ですね~
しかも聞き取り調査まで

ホント感心します

投稿: 茶々 | 2011年3月 8日 (火) 02時57分

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