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2011年3月31日 (木)

西南戦争で西郷隆盛に呼応した党薩隊

 

明治十年(1877年)3月31日、西南戦争の真っただ中、大分県中津で西郷軍に呼応した士族たちが叛乱を起こしました。

・・・・・・・・・・・

「征韓論」(10月24日参照>>)を巡って大久保利通(としみち)岩倉具視(ともみ)対立して、中央政府を去った西郷隆盛(たかもり)が、故郷の薩摩(鹿児島県西部)に戻って設立した私学校・・・

優秀な私学校の生徒らは、その後、鹿児島県下の官吏や警察として活躍しますが、優秀であるがゆえに独自の内政を行う彼らの手法は、やがて、中央政府に従わない独立国家のような形になってしまうのです。

これを脅威に思った政府の、あからさまな挑発に爆発してしまった私学校の生徒たち・・・そこに、幕末の戊辰戦争を命がけで戦ったにも関わらず、新しい政府になって、苗字帯刀や家禄などの、武士の特権を奪われた士族たちの不満が相まって、西南戦争は日本最後の大きな内戦となったのです。

・・・という事で、西南戦争の流れについては、上記のリンクで読んでいただくとして、本日は、その西郷の挙兵に呼応した士族たちのお話を・・・

・‥…━━━☆

冒頭に書かせていただいたように、本日の日づけ=明治十年(1877年)3月31日には、大分県中津の士族たちが西郷の挙兵に呼応して叛乱を起こしたわけですが、ともに薩摩軍として戦ったのは、もちろん彼らだけではありません。

かつて南九州に存在した8藩の不平士族たちが次々と薩摩軍と合流して新政府と戦っていたのです。

彼らは「薩摩軍に党(くみ)した部隊」という事で、『党薩隊(とうさつたい)と呼ばれ、全盛期には1万人を数えたと言います。

主な部隊には・・・
薩摩藩自治領の都城隊
熊本藩出身の熊本隊竜口(たつぐち)協同隊
人吉藩出身の人吉隊
延岡藩出身の延岡隊
高鍋藩出身の高鍋隊福島隊
佐土原藩出身の左土原隊
飫肥(おび)藩出身の飫肥隊
竹田藩出身の報国隊
そして、中津藩の彼らの中津隊・・・

と、12隊あったとされますが、そもそもは、上記の通り、出身の藩も違えば、細かな思想もそれぞれ違う別々の集団だったわけで、本来なら鹿児島私学校生徒の政府火薬庫襲撃なんて、まったく関係のない出来事だった人たちなのですが、やはり、冒頭の・・・「命がけで戦った結果で誕生した新政府によって藩が無くなり秩録(ちつろく)処分=武士たちは無職になってしまった」わけで、そこから生まれる共通の不満、共通の「反政府」という大きな目標のもとで賛同した人たちだったわけです。

なので、党薩隊と言っても、ある一時期だけ参戦して、すぐに離反した部隊や、いたのかいなかったのか?よくわからない部隊もあったようです。

そんな党薩隊の中で、一番大きい部隊だったのは熊本藩出身の士族で構成された熊本隊で、池部吉十郎(きちじゅうろう)率いる2300人・・・彼らは、上記の西南戦争の流れの中で、2月22日の熊本城・包囲戦から参戦しています。

さすがに地の利がある彼らは、熊本城の攻防戦で大いに活躍し、薩摩軍が熊本城の包囲を解いて撤収する際にも、速やかに道案内を買って出たと言います。

しかし、迫りくる政府軍との戦いの中、人吉を占拠され、本営としていた延岡が陥落した8月14日・・・その翌日の戦いでも、その本拠地を奪回できなかった事から、8月16日に政府軍に投降しました。

もちろん、彼ら熊本隊だけではなく、ほとんどの部隊が、この8月16日~17日に解散・投降しています。

しかし、高鍋隊の一部、そして、本日3月31日に仲間となった中津隊の生き残り=総勢30名ほどは、このあとも西郷らに従い、城山の最終決戦にまで挑んでいます。

中津隊を率いていた増田宋太郎(そうたろう)は、
「西郷先生に1日接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」
・・・と、西郷の事を絶賛!

やはり、彼も、桐野利秋(201年9月24日参照>>)同様・・・「この人のためになら死んでもいい」と思えるほど、西郷さんを尊敬していたんでしょうね。

一方、この時の政府は、党薩隊のように、西郷に同調するような不平士族たちが、全国各地で叛乱を起こすような自体を警戒していたようですが、残念(?)ながら、彼らのような士族の同調者が全国的に波及する事はなく、九州だけだったようで、ご存じのように、かの城山の戦いにて、西南戦争は幕を閉じる事になります。
 

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2011年3月30日 (水)

仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏

 

敏達天皇十四年(585年)3月30日、仏教に反対する物部守屋らが、塔・仏殿を焼き、仏像を川に捨てました。

・・・・・・・

・・・と、この物部守屋(もののべのもりや)らによる仏像投げ捨て事件そのものについては、昨年の3月30日に書かせていただいておりますが(昨年のページ参照>>)、そもそもは、仏教伝来のその日(10月13日参照>>)から、仏教推進派の蘇我(そが)VS仏教反対派の物部(もののべ)という構図も出来上がっていたわけで、それが、最終的に、古代最大級の内乱とも言える合戦に発展するのですが・・・

では、なぜに、
蘇我氏は仏教を推進する側に、
物部氏は、それを反対する側になったのか?

まずは、推進派の蘇我氏・・・
こちらは、昨年のページにも書かせていただいたように、この蘇我氏自身が渡来系だった可能性もあるとされています。

そもそも突然、歴史上に現われて、わずかの間に天皇の臣下のトップを獲得する蘇我氏ですから、その出自は謎だらけなのです。

ただ、たとえ蘇我氏自身が渡来系ではなかったとしても、国内には無かった新しい技術とともに大陸からやって来た渡来系の人々を束ねるような役目をしていた事は確かで、彼らと天皇家とのパイプ役という立場から、大陸の人たちが信仰する仏教を、日本にも取り入れようとするのは、言わば自然の摂理・・・その方が、より彼らと意気投合する事は間違いないですから・・・

一方の廃仏派の物部氏・・・
こちらは、古くからの天皇の臣下という立場でした。

蘇我氏がいきなり登場した外資系企業なら、こちらは何百年と続いた老舗・・・そもそもの話は、あの初代天皇=神武天皇の東征に始まります。

ご存じのように、あの高天原(たかまがはら)からこの地上に降り立った=天孫降臨(てんそんこうりん)したのが、太陽神である天照大御神(天照大神・アマテラスオオミカミ)の孫=日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ヒコホノニニギノミコト)・・・

そのニニギノミコトの孫が神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦命・カムイヤマトイワレビコノミコト)こと神武天皇で、ジッチャンが降り立った日向(ひゅうが・宮崎県)高千穂から、東の地方を征服するために、3人の兄とともに旅立つのです。

九州から船で東を目指す彼ら、途中、戦ったり、あるいは貢物を受け取ったりしながら、その土地々々の有力者を配下に治めていった神武天皇ですが、最も苦戦を強いられたのが、浪速(なみはや)から上陸してまもなくのところを待ちうけていた登美(とみ)の豪族・那賀須泥毘古(長髄彦・ナガスネビコ)でした。

・・・で、このナガスネビコが言うには、
「この国には、もうすでに天津神の御子である邇芸速日命ちゅー神が降りてきてて、俺の妹と結婚して子供までおる。
せやから、今、俺は、この神を主君として仕えてるんや。
天津神の血筋が二つあるわけはない・・・今頃、天津神の子孫やっちゅーてやって来て、他人の国を奪おうなんて、けしからんやっちゃ!」

そう、実は、この大阪から奈良にかけての河内一帯は、あの天孫降臨の少し後に、別ルートで降臨していた神様=邇芸速日命(饒速日命・ニギハヤビノミコト)が、すでに統治していたんです。

現在、大阪の枚方交野から生駒山を越えて奈良へ向かう168号線沿いには、磐船(いわふね)神社という神社がありますが、この神社のご神体は巨大な石・・・これが、ニギハヤビノミコトが天から降りる時に乗って来た天磐樟船(あめのいわくすふね)という乗り物・・・近くには、そのニギハヤビノミコトを祀った天田(あまだ)神社も存在します。

Dscn3422a900 磐船神社
*磐船神社&天田神社への行き方は、本家・HPの「歴史散歩:交野ヶ原に七夕伝説を訪ねて」で紹介していますコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

このナガスネビコの言い分を聞いた神武天皇・・・
「天津神の子って言うても、いっぱいおると思うで~
なんやったら、ホンマに神の子かどうか、その証拠見せてみ~や」

と・・・

「ならば!」
と、ナガスネビコが証拠となる宝物を見せると・・・
「なるほど・・・ホンマモンやな。けど、それやったら、これも見てみぃ」
と、神武天皇・・・実は、同じ宝物を神武天皇も持っていたのです。

驚きながらも、「もはやあとには退けぬ」戦いに突入する両者・・・

と、ここで、『古事記』では・・・
激戦のうちにナガスネビコ倒した神武天皇のところに、かのニギハヤビノミコトが、例の宝物を持参して、
「いやいや、天津神の御子が来はったて聞いて、臣下になるために参上しました~」
と、宝物を献上してあっさりと家来に・・・

『日本書紀』では・・・
「あっちが正統やから譲ろうや」というニギハヤビノミコトの説得を聞かないナガスネビコを、自ら殺して、神武天皇に忠義を誓い、臣下になったと・・・

いやはや、記紀神話では両方ともに踏んだり蹴ったりのナガスネビコさん・・・もちろん、先日も書かせていただいたように(3月18日参照>>)、記紀は、「天武天皇とその系統が、いかに日本を治めるにふさわしい一族であるか」を内外に示すための広告みたいな物ですから、そのストーリー自体は、そのまま信じられるものではありませんが、そのような過程で臣下となったとされるくらい、古くからの忠臣だった事は確か・・・

長いお話になりましたが・・・
そう、このニギハヤビノミコトの子孫が物部氏なのです。

実際に、神武天皇が建御雷神(タケミカヅチノカミ)から授かったとされる布都御魂(ふつのみたま)という神剣を宮中から預かって、それを祭神として祀った石上(いそのかみ)神宮代々の氏神として管理していた物部氏・・・

以前、履中(りちゅう)天皇が家に放火されて逃亡するくだり(2月1日参照>>)でもお話させていただきましたが、この石上神宮は、長年に渡って、神社というよりは朝廷の武器庫のような役割をしていたと見られ、その事を踏まえれば、当時の物部氏という一族は、宮中祭祀と国家の軍事を一手に握る超一級の臣下の一族だった事がわかります。

このように、物部氏は、神武天皇より先に、一部とは言え畿内を治めていた、しかも、天津神の子供だと名乗ってた人の子孫なのですから、その立場上、自分たちのご先祖以外の神様を容認する事はできなかったのです。

とは言え、実は・・・
そんな立場とはうらはらに、近年の発掘調査では、物部氏の住居跡から、幻となっていた渋川廃寺跡が発見されています。

自分んちに寺を建てるくらいですから、つまりこれは、物部氏も、仏教の信仰自体に反対していなかったという事がわかっています。

今回の敏達天皇十四年(585年)3月30日仏像投げ捨て事件の時も、守屋一派の独断ではなく、実は敏達天皇の許可が出ていた事が『日本書紀』にも書かれていますし、奈良の元興寺(げんこうじ)の縁起にも「天皇、仏法を破らんと欲したまい」と、この頃の仏教弾圧が天皇の意思だった事が見えます。

つまり、この頃の仏教弾圧は、国家としての宗教を守るために異国の宗教を排除するという公的な取り締まりであった可能性大なわけです。

しかし、歴史は勝者が造るもの・・・
この後の戦いで敗れる物部氏は、生き残った者がことごとく奴婢(ぬひ・奴隷)流浪の民となってしまうほど、一気に墜落してしまいます(7月7日参照>>)

そのため、記紀の編者は、この時に仏教の導入に反対したのは天皇=国家ではなく、あたかも物部一族とその一派だけのように思えるような書き方にした・・・という事なのかも知れません。
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2011年3月29日 (火)

将軍・徳川綱吉に謁見したドイツ人・ケンペル

 

1691年3月29日、長崎出島のオランダ商館に勤務していたドイツ人医師・エンゲルベルト・ケンペルが、江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉に謁見しました。

・・・・・・・・・・

いつもなら和暦を主に・・・参考のためにその横に西暦を書かせていただいているという感じで、お話を進めさせていただいているこのブログですが、本日だけは、冒頭の西暦で・・・

というのは、実は1691年3月29日は、和暦になおすと元禄四年2月30日・・・そう、和暦のままだと一生書けません(^-^;

なので、本日・3月29日に、この話題を書かせていただく事にしました。

ただし、前後の出来事との兼ね合いもありますので、時代別年表式サイトマップ>>出来事カレンダー>>などでは、和暦の2月30日で表示させていただきます。

冒頭の西暦表記は、あくまで、3月29日のページに、この話題をupした理由・・・という風にお考えいただければ幸いです。

・‥…━━━☆

さて、本日の主役のエンゲルベルト・ケンペルさんは、1651年にリッペ伯爵領に生まれたドイツ人・・・故郷の学校を出た後、ドイツの中心地へと出て歴史や哲学や医学を精力的に学び、さらにポーランドやスウェーデンでも勉学に励みました。

そんな中、同郷のドイツ人の友人の紹介で、スウェーデン国王が派遣する外国使節団に随行する事となり、その一員としてロシアペルシャを巡ります。

しかし、「まだまだ見聞を広めたい」と思っていたところ、たまたまイランに来ていたオランダの東インド会社の艦隊の船医として雇ってもらえる事となり、使節団と離れてインドへ・・・さらに、鎖国中の日本へとやってきて、1690年からの2年間、長崎の出島にあったオランダ商館の医師として勤務し、その間に、オランダ商館長に随行して、2度ほど江戸にやって来ていたのです。

かくして元禄四年2月30日(1691年3月29日)・・・

100枚ほどの畳が敷いてある大広間は一方が中庭に面していて、その中庭の反対側には、広い部屋と少し狭い部屋が二つ続いていて、奥深くには一段高くなった場所があり、彼らは、そこに通されたと言います。

その部屋の隅で、数枚の畳を重ねて高くなった場所に、両足を組んで座っている人物が・・・(それが将軍=徳川綱吉でっせ!)

「なんや、薄暗かったし、俺ら、頭下げてる間に、面会が終わってもたし・・・顔なんか見る余裕もおまへんでしたわ~」
というのが、この日のケンペルの最初の感想・・・

と、正式な面会は、これで終了したのですが、その後、彼らは再び、もっと奥の座敷に通されます。

そこは15畳ほどの板の間に、隣接した隣の部屋があるという感じ・・・しかし、その境界には(すだれ)がかかっていて、ケンペルたちから、隣の暗い部屋の様子は、まったくわかりませんでした。

簾の向こうには誰もいないのか?と思いきや、コソコソと話す将軍の声・・・実は、そこには、綱吉の正室=鷹司信子(たかつかさのぶこ)さんがいたんですね~

どうやら綱吉さん、この奥さんに彼らを会わせたかった・・・なんせ、外国人が珍しい時代ですから・・・

なぜ、そこに奥さんがいる事がわかったかと言うと・・・

「何か、やってみて」
と言われたケンペルが、故郷のダンスを踊ってみせたところ、この奥さんが、興味のあまりに簾から顔を出したんですと。

「それは、もう、黒い瞳をした若々しいベッピンさんでした!」
と、踊りながらも、しっかりとチェックするケンペル・・・

そうやって、気づいてから、注意深く見てみると、簾の隙間のあちこちから、チョイと隙間を広げて、こちらを見る目線の数々・・・

そんな中、飛んだり跳ねたり・・・果ては、故郷のドイツの歌まで歌って大サービスのケンペルご一行・・・

「完全に見世物になっとるやんけ!」
とケンペルが思ったかどうかはわかりませんが、やはり、悪気はないものの、白人さんそのものが珍しかったんでしょうね。

その後は、通訳を通しての綱吉からの質問タイム・・・

「オランダとバタビア(インドネシアのジャカルタの事)とは、どのくらい放れてるの?」
「バタビアの総督とオランダの王さまやったら、どっちが強いん?」
「一番、重くて危険な病気って何やと思う?」

他にも
「ひょっとして、君、不老不死の薬を探して世界中を旅してるんちゃうん?中国なんか何百年も前から、そうやってるやん」
てな質問もあったとか・・・

なんだか、アホみたいな質問・・・と思ってしまいますが、それだけ、日本では西洋に関する情報が無かった時代でもあります。

それに、このケンペルさん自身にも、叔父さんが魔女裁判にかけられて死刑になったという経歴がある事を考えれば、未だヨーロッパでさえ、混沌とした時代だったわけですからね。

これら、江戸に来た時のお話は、ケンペルの『江戸参府旅行日記』というものに書かれていますが、一方、ケンペルがヨーロッパに戻ってから執筆した有名な著作『日本誌』というのがあります。

この著書は、最初は英語に訳されてロンドンで出版された物が、フランス語やオランダ語にも訳され、さらに、、フランスの思想家・ディドロダランベールらが20年以上かけて1772年に完成した大規模な百科事典『百科全書』の、日本に関する記述が、ほとんど、この『日本誌』からの引用であった事から、この頃のヨーロッパの知識人の間で大ヒット・ベストセラーとなり、大きな影響を与えました。

しかも、それはヨーローッパのみならず、この日本にも大きな影響を与えています。

実は、ケンペルの『日本誌』には、付録というのがついてまして・・・

この中で、ケンペルは、
「日本には、崇める対象である皇帝(天皇)と、実際に統治する皇帝(将軍)の二人がいる事」を記し、この綱吉時代の外国に対する政策を肯定的に書き残しています。

その付録に書かれていた対外政策の部分が、後世に日本語に訳されるのですが、その題名があまりに長いため、訳した人が、論文の題名を『鎖国論』と命名しちゃいます。

つまり、今でも歴史で習う「鎖国」という言葉は、ここで生まれたんですね~

以前、【江戸時代には藩も鎖国も無かった?~歴史用語の妙】(1月8日参照>>)で書かせてもいただきましたが、江戸時代の対外政策は、「鎖国」という言葉の印象から受けるほどの強固な姿勢で国を閉ざしていたわけではないんですが・・・

とにもかくにも、日本を含め、かなりの影響を与えているケンペルさん・・・なかなかの人物です。
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2011年3月28日 (月)

織田信長の蘭奢待・削り取り事件…その真意は?

 

天正二年(1574年)3月28日、織田信長東大寺・正倉院の宝物を見て、「黄熟香」を削り取りました。

・・・・・・・・

現在も、東大寺・正倉院に保管されている、この黄熟香(おうじゅくこう)とは、東南アジア原産の香木・・・炊くと良い香りがする、いわゆるアロマ(お香)ですね。

正倉院の物は長さ156cm、重さ11.6㎏と大変大きく、これほどの大きさの物は珍しいそうで、特別に『蘭奢待(らんじゃたい)という名前がついています。

Rannzyatai900 正倉院の黄熟香=蘭奢待…しるしのうち、左部分が明治天皇、右手前の二つのうち右が足利義政で左が織田信長が削った部分。
(*他にも削ったとおぼしき箇所もあり、削ったと噂される人物もいますが、正式に記録されているのは、この3名の3ヶ所です…最新情報は下記「箇条書き部分」参照)

蘭奢待・・・そうです。

今年の大河ドラマの中でで主人公のが、
「私、この香りが好き!」
と言って、「江=信長の遺志を継ぐ者」をイメージづけるアイテムとして登場しているアレです。

・・・で、以前、【正倉院・アッと驚く豆知識】(6月21日参照>>)のところで書かせていただきました通り、この東大寺の正倉院というのは、あの東大寺の大仏様を建立した第45代聖武天皇が生前に集めた宝物の数々を、奥さんの光明皇后が1ヶ所に納めた倉庫なわけで、中のお宝は、すべて天皇家の物なわけです。

なので、今でこそ、年に一回の総点検を利用して、毎年秋に正倉院展なる物が奈良国立博物館で開かれ、我々一般市民も、お宝の一部を拝見させていただく事ができるわけですが、それ以前は、中のお宝というのは、天皇家の人しか・・・いや、天皇家の人だって、何かの時にしか見る事ができなかったのです。

・・・で、そのページに書かせていただいたように、現在の展覧会ような形以前に、この正倉院を開けて中の宝物を見た人というのが・・・

  • 寛仁三年(1019年)、藤原道長が宝物を見る。
  • 至徳(元中)二年(1385年)、足利義満が宝物を見る。
  • 永享元年(1429年)、足利義教(よしのり)が宝物を見る。
  • 寛正六年(1465年)、足利義政が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
  • 天正二年(1574年)、織田信長が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
  • 明治十年(1877年)、明治天皇が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
    追記:2011年11月11日付け読売新聞
    裏側にあった記録のない削り跡に対して…

    「(現在も残る明治天皇が削ったとされる)付箋の場所と裏側の1ヶ所の合計2か所が同じ年に切られたとみて、ほぼ間違いない」という奈良国立博物館の内藤栄・学芸部長補佐の見解が発表されました。

・・・と、まぁ、最後の明治天皇は天皇なので除外するとして、それ以外のメンバーを見てみると、まさに、その時々の一番の権力者!というメンツですね~。

しかも、よくよく考えれば、足利家はもともと天皇家だった源氏の家系だし、藤原家も姻戚関係にあったわけだし、失礼ながらも、このメンツの中では、信長さんだけが、「どこの馬の骨(本人は藤原とか平とか言ってる)って感じ・・・

なのに、その中で黄熟香=蘭奢待を削った二人のうちに入ってるなんて!!!
信長、恐るべし
・・・ですね。

なので、これまでは、この信長による蘭奢待削り取り事件は、信長の、天皇家への高圧的な態度の一つとして描かれる事が多くありました。

それ以前から、信長が時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇退位を迫っていた事もあり、あの上京焼き討ち事件(4月4日参照>>)も含め、天下の見えた信長が、その力を誇示し、天皇を思い通りに・・・いや、それどころか、自らが天皇、あるいは神になろうとしていたなんて事も言われます。

・・・と言うより、今年の大河ドラマも、そうであるように、現在でも、それが一般的な見方であります。

ゆえに「信長=怖い、鬼のような人」というイメージを持っている方が多い事も確か・・・。

なので、このブログでも、度々、その一般的な見方での信長さんを書いてもきましたが、実は、私、個人的には、「信長=いい人」というイメージを持っており、一般的な見方とは違う内容も書いております。

たとえば、あのド派手な御馬揃え(2月28日参照>>)・・・一般的には、これも、信長がその軍事力を誇示するために、天皇に見せつけたかのように描かれますが、そのページで書かせていただいたように、実は、この「御馬揃えを見たい」と言ったのは天皇のほうであって、「天皇さんが来はるなら、メッチャ派手にやりまっさ」という、信長の大サービスだった可能性大です。

あの比叡山焼き討ちも、地質学的には燃えた痕跡もなく、「全山を焼きつくして多くの信者が亡くなった」というのは、どうやら、被害を受けた比叡山の僧侶の言い分で、実際には、そんなに大規模ではなかったのかも・・・(9月12日参照>>)

「信長は神になろうとしていた」という話も、彼をキリスト教信者にできなかったルイス・フロイスの言い分で、実は、単に無神論者=ドップリと宗教にハマるタイプではなかっただけなのかも知れません(4月8日参照>>)

そういう観点から見て行くと、本日の蘭奢待削り取り事件でも、そこかしこに、信長の天皇家への圧力ではない部分が、見え隠れしてきます。

もちろん、「正倉院のお宝を見たい」と申し出たのは信長のほうでしょうが、この時、滞在中の京都から3000の軍勢を連れて奈良へと下った信長は、「軍勢への非法禁止」を徹底させ、寺院の境内に陣を敷く事すら許さず、最大限に、その治安維持に努めています

蘭奢待を見るにあたっても、「自らが正倉院に出向いて、倉の中に立ち入る事など恐れ多い」として、蘭奢待を外に持ち出して、東大寺・大僧正の立ち合いのもとで拝見させていただきます」と申し出ています。

とても、高圧的な態度には見えませんね。

さらに、この時に、蘭奢待は2片削り取られましたが、ここでも信長は「1片は禁裏様(正親町天皇の事)に、もう1片はボク・・・」と、天皇をたてる事を忘れません。

しかも、この一大イベントの後、東大寺や春日大社を参拝する時の信長も、「一段慇懃(いんぎん)=メッチャまじめで、真心こもった礼儀正しい態度であった事が、関係者の日記(三蔵開封日記・多聞院日記)などに書かれているとか・・・

これらの態度を見る限り、信長が天皇家に圧力をかけるために蘭奢待を見に来たとは、とても考え難いですよね。

では、信長は何のために蘭奢待を見に来たのか?

ここからは、推理の域を出ないものではありますが・・・
「正倉院のお宝が見たい」というのは口実で、実は、信長は、奈良を支配下に治めた事を示すがために、大軍を率いて奈良に来る事こそが目的だったのではないでしょうか?

この前年の天正元年(1573年)の12月に、松永久秀(10月10日参照>>)が信長に降伏し、多聞城を開け渡してからは、明智光秀柴田勝家などが当番制で多聞城に入り、一応は、奈良を支配下に治めた形にはなっていましたが、この奈良には、その久秀と反目し続けていた筒井順慶(じゅんけい)(8月11日参照>>)もいましたから、未だ、微妙な段階だったのかも知れません。

そこを、はっきりと、自らの配下に治めた事
イザという時は、大軍を率いて奈良に来る事が出来るという事を、信長は奈良の民衆に、そして奈良の国人や武将に、示したかった・・・という事なのでしょう。

もちろん、そこには
自分は、「望めば、正倉院のお宝を見せてもらえる程の人物である」という付録がついて来る事も、充分承知していたかも知れませんが・・・

さらにさらに、もし、一般的に言われるように、信長が高圧的な態度で蘭奢待を削らさんかい!」って言って来ていたとしていたら、当然、正親町天皇は気分良くはないはずですが、この時に正親町天皇が信長に対して不快感を覚えたという記録はありません。

もちろん、記録に残って無いから不快に思わなかったとは言い切れませんが、むしろ正親町天皇は、その信長の願いを、(自分を通さず)勝手にOKした関白に対して「不本意だ」と不快に思っている記録は残っています。

つまり、そこには、相手は信長ではなく、正親町天皇VS近臣のなんやかやがあった・・・って事なのですが、そのお話は長くなりますので、2011年11月4日に書かせていただいた【天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?】の後半部分でどうぞ>>・・・
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2011年3月27日 (日)

日露戦争・旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫

 

明治三十七年(1904年)3月27日、日露戦争の第二次・旅順港閉塞作戦でのエピソードで知られ、戦前には「軍神」と称された海軍中佐・広瀬武夫が戦死しました。

・・・・・・・・・・

明治三十七年(1904年)2月4日、宮中御座所にて、大臣・元老の列席のもと開かれた御前会議で、ロシアに対する国交断絶と開戦を意味する最後通牒が、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)から、駐日ロシア公使・ローゼンに手渡された・・・つまり、日本からロシアへの宣戦布告という形で開始された日露戦争・・・(開戦までの経緯については2007年2月10日参照>>)

早くも2月6日・・・戦闘状態に入り、2月8日には、陸軍と海軍による旅順港・仁川沖の同時海戦にて火ぶたを切ります。

しかし、開戦早々に、仁川(じんせん)に上陸を果たし、ほぼ一方的な勝利をおさめる陸軍に対して、連合艦隊を主力に持つ海軍は苦戦を強いられていました(2月9日参照>>)

Nitirotizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・というのも、旅順港は鉄壁の要塞・・・チョロチョロっと港を出てきたロシア艦隊に対し、至近距離から砲撃を加える連合艦隊ですが、港に近付いて、その射程距離内に入れば容赦なく、旅順要塞に設置された大砲が、艦隊めがけて火を吹きます。

それを承知のロシア艦隊は、チョロチョロと港を出て来ては、大きく離れる事もなく、しばし交戦しては、30分もたたないうちに港内に戻ってしまう・・・これのくりかえしです。

2月14日にも、連合艦隊は大規模な攻撃を仕掛けますが、ロシア側が港を出ない以上は、結局は要塞からの攻撃を受ける事になり、日本側は、それ以上手出しできません。

「これでは、らちがあかん!」
とばかりに、決行される事になったのが、『旅順港閉塞(へいそく)作戦』・・・

狭い旅順港の入口に、錘(おもり)を満載した古い船をわざと沈めて、湾口を塞いでしまおうというのです。

そもそも、ロシア艦隊がチョロチョロと出てきては戻っていくのも、現在、湾内にいるロシア太平洋艦隊を温存したいがため・・・ロシアには、未だヨーロッパにて展開中の、世界一とうたわれるバルチック艦隊がありますから、現状のままで、この太平洋艦隊がバルチック艦隊と合流するような事になっては、さすがの連合艦隊も不利・・・

湾の入り口を塞いで、太平洋艦隊を動けなくしてしまえば、少なくとも、合流する事はありませんし、湾から出られなければ、事実上、太平洋艦隊を無力化する事ができます。

こうして、まずは3月24日に最初の作戦を決行・・・その日の未明に、5隻の老朽船と77名の志願兵によって構成された1軍が旅順港に近づきますが、この時は、沿岸からの激しい砲撃に耐えきれず、作戦失敗・・・

そして、4隻に船を動員して決行された2度目明治三十七年(1904年)3月27日・・・しかし、この時も、ロシア側に事前に察知されてしまい、作戦は失敗に終わります。

さらに、5月2日には、12隻もの船を用いて、最大で最後の閉塞作戦を決行しますが、この日は天候も悪く、敵の迎撃にも遭い失敗・・・結局、この作戦が成功する事はありませんでした。

入口が狭いゆえの閉塞作戦ではありましたが、その幅がわずか約90m・・・そもそも大型の艦船が自由に動く事は困難だったのです。

結局、この旅順の攻略は、陸軍による攻撃にゆだねられる事になりますが、一方では、ロシア艦隊にも別の動きが・・・と、日露戦争のこの先については、連合艦隊による起死回生の戦いが展開されます黄海海戦8月10日のページへどうぞ>>

・‥…━━━☆

ところで、冒頭に書かせていただいた通り、明治三十七年(1904年)3月27日に行われた二度目の旅順港閉塞作戦・・・この日の広瀬武夫(たけお)少佐(死後に中佐に昇進)の、有名な逸話が残ります。

♪轟く砲音(つつおと) 飛来る弾丸
  荒波洗ふ デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び
  「杉野は何処
(いずこ) 杉野は居ずや」 ♪
         -尋常小学唱歌(四)「広瀬中佐」ーより引用

Hirose500 今でこそ、知る人も少なくなりましたが、戦前には、教科書にも載り、唱歌にもなった広瀬中佐・・・現在でも、出身地の飛騨高山には、彼の銅像が建っているのだとか・・・

そもそも、上記の文章を読んでいただければお解りのように、この旅順港閉塞作戦・・・作戦自体は成功しても、生還できる可能性は非常に低い、決死の作戦でした。

敵の港での作戦決行ですし、運よく船から脱出できても、猛攻撃をかいくぐって帰還しなければならないのです。

この日、閉塞船・福井丸の指揮をとっていた広瀬は、作戦の失敗後に出た撤退命令に従って航行中に爆撃に遭い、一旦は救命ボートに乗ったものの、部下の杉野孫七(まごしち)上等兵曹(死後に曹長に昇進)見当たらない事に気づきます。

慌てて船に戻り、3度にわたって船内を駆け巡り、杉野を捜しますが、やはり見つけ出せず・・・やむなく、再び救命ボートにて帰還の途についたところを、ロシアの砲撃によって、36歳の命を落としたのです。

このように、行方不明の部下を見殺しにできずに船に戻ったために戦死をした広瀬中佐も、そして、そのまま行方不明となった杉野曹長も、上記のような唱歌に歌われ、日本初の「軍神」として神格化されていきました。

とは言え、流れついた広瀬中佐の遺体はロシア側で埋葬されたものの、杉野曹長の遺体は見つからず、戦いの直後から、一部には生存説があったとか・・・

「シベリアの収容所にいる」とか、
「次の引き揚げ船で帰ってくる」とか、
「奉天(ほうてん)の中学校で講演をやった」とか、

果ては、
「関東軍の特殊機関の一員となったため、名前を隠し、死んだ事になっている」
などなど・・・

しかし、どれも話だけで、確認のとれるものではないようです。

大東亜戦争当時には、「死んでもラッパを離しませんでした」木口小兵と同様に、軍人のかがみとして子供教育の題材となっていた広瀬中佐・・・

でも、敗戦後は一転して、軍国主義の遺物と化した逸話・・・なので、現在の小学校で、このお話を教えられる事はありません。

確かに、軍国主義も、戦争を美化する事も避けたほうが良いに決まっていますが、部下を思う上司の気持ち、友人を見捨てる事のできない心は、純粋な愛情から出たもの・・・今も昔も変わらずにいたいものです。
 .
 

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2011年3月25日 (金)

元祖イクメンで女性ファン多し~本願寺蓮如

 

明応八年(1499年)3月25日、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる第8代法主・蓮如が85歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

京都東山の本願寺・第7代の存如(ぞんにょ)の嫡男として、応永二十二年(1415年)2月に生まれた蓮如(れんにょ)・・・彼のもとに新しい母親がやって来たのは、蓮如が6歳の時でした。

父の存如が、ええとこのお嬢さんを正室に迎えたのです。

Rennyo600 蓮如の生母という女性は、本願寺に奉公していた下働きのような女性で、その名前すら伝わっていません・・・どうやら、正室との身分の差を感じて、自ら身を引いて本願寺を去って行ったようです。

しかし、お察しの通り、ここは昔話の王道・・・蓮如=シンデレラ状態のキツイ継母のイジメに遭う事になります。

夜になっても灯明さえ灯させてもらえないような暗い部屋に追いやられ、食事が2~3日に一度てな事もあったようですが・・・

ただ、少しだけ継母側の弁解するならば、当時の本願寺はとてつもない貧乏所帯で、その継母たち自身も毎日の食事に事欠くありさまであった事も確かなのですがね。

青年期になっても、生活の苦しさは変わる事はなく、相変わらずの貧乏と継母のイジメに遭いながらも、蓮如は、ただひたすら、親鸞(しんらん以来の教えを学ぶ事に打ち込みました。

やがて27歳の時、如了(にょりょう)という女性と結婚します。

この女性・・・伊勢貞房(さだふさ)の娘さんという事なので、貧乏本願寺としては願ってもない良家のお嬢さんだったわけですが、そんな良家のお嬢さんだったワリには、おそらくは下積み時代の蓮如をやさしく支えた良い奥さんだったんでしょうね。

・・・というのは、この奥さん、結局は、蓮如が本願寺を継ぐ以前に亡くなってしまうので、一緒にいた間は、おそらくずっと貧乏で苦労の連続だったのでしょうけど、普通、産みの母を追い出して、なおかつ自分をイジメ抜いた継母に育てられた息子ならば、女性不信におちいりそうなものですが、蓮如さんには、そのようなところがまったく見受けられません。

この如了さんが亡くなった後、蓮如は4回も結婚しますが、それはすべて、奥さんとの死別による再婚・・・「側室が何人も」という時代に、同時にダブる(不倫関係になる)事なく、その時の奥さん一筋に良好な関係であったという事は、やはり蓮如自身が、女性に対する不信感を抱いていなかったわけで、個人的には、この1番目の奥さんが良い人だったからなのかな?って思っています。

そんな如了さんとの間には、4男3女をもうけた蓮如でしたが、上記の通り、未だ、本願寺は貧乏真っただ中・・・しかたなく長男の順如(じゅんにょ)以外は、皆、里子に出しますが、それでも、一杯の汁を親子3人で分け合うような食事情だったと言います。

この頃は、赤ん坊のオムツも、蓮如自らが洗濯するというイクメン(育児するメンズ)ぶりだったとか・・・

やがて長禄元年(1547年)、父の存如が亡くなり、蓮如は第8代本願寺法主を継ぐことになりますが、かの継母は、この時も、自分の産んだ息子・応玄(おうげん)後継者にしようと画策したのだそうな・・・

慌てて加賀から京都へと駆けつけた父の弟=如乗(にょじょう)によって「生前の存如は長子が後を継ぐべきとの考えであった」との助け舟が出され、なんとか大丈夫でした。

後継者争いに敗れた継母と応玄は、味噌桶一つと小銭だけを残して、土蔵にあったいっさいがっさいを、奪うように持って本願寺を出て行ったのだとか・・・

それでも蓮如は女性不信にならず・・・とにかく女性にやさしい(*≧m≦*)

本願寺を継いでからは、以前書かせていただいた見事な経営戦略で、本願寺を建てなおす(2月25日参照>>)蓮如ですが、そこには、その経営戦略とともに、彼独特の思想という物もありました。

それが、女性蔑視(べっし)の排除・・・

この時代には、「女性は罪深くて穢(けが)れが多いため仏にはなれない」という、女性差別とも言える見方がまん延していましたが、そこを「女人成仏(にょにんじょうぶつ)という「女性だって救われる」てな事を説いていたのが、法然(ほうねん)であり、親鸞であったわけですが、その思想を受け継ぐ蓮如は、特に熱心に女性の極楽往生に説いたのです。

「たとえ女性であっても、一心不乱に阿弥陀如来様におすがりすれば、男性と同様・・・いやむしろ阿弥陀様は女性こそ救ってくださる・・・必ず極楽へ行って、べっぴんの仏さんになれるんやで~」

貧乏所帯で子供のオムツを洗った蓮如さん・・・おそらくは、夕げの支度など、その他の家事も手伝っていた事でしょう。

だからこそ、家や村での女性の役割の大きさ、その重要性を充分に知っていたのですね。

そして、それが見事、的中!!

嫁が祈れば夫が祈る、夫婦が祈れば家族が祈る、家族が祈れば隣も祈る、隣が祈れば村が祈る・・・村全体の祈りは、やがて、大きなうねりとなります。

そうです。
あの一向一揆です。

ただ、蓮如さん自身は、
「今の社会に生きる以上、天皇を頂点とした現政権に従い、法を守り、規律正しい生活を送りながら、信仰を大切にすべき」
という考えを持っていて、武力によるエスカレート気味の一揆には、ずっと反対の姿勢をとっていたようです。

結局、文明七年(1475年)・・・大きくなりすぎた一揆勢力に反発するかのように、蓮如自身の生涯の中で一番多くの「御文(教えをやさしく説いた蓮如の手紙)を出し、一番多くの「名号(本尊の代わりとなる蓮如の書)を書き、一番充実した日々を過ごした越前(福井県)吉崎を、彼は去る事になりるのです。(8月21日参照>>)

吉崎を出て3年後には、京都山科に壮大な伽藍を完成させた蓮如でしたが、その思いとはうらはらに一揆の勢いはとどまる事を知らず、とうとう加賀で、守護の富樫政親(とがしまさちか)自刃に追い込むという出来事も起こってしまいます(6月9日参照>>)

その責任を取るかのごとく、本願寺を五男の実如(じつにょ)に譲った蓮如・・・明応五年(1496年)には摂津大坂隠居所を建て、そこを住まいとしました。

石山御坊と呼ばれたその場所は・・・そう、後に、あの織田信長と戦いで一大拠点となる石山本願寺です(5月3日参照>>)

戦いを避けて移り住んだ地が、本願寺最後で最大の武装拠点となろうとは、さすがの蓮如さんも、この時は思ってもいなかった事でしょう。

やがて明応八年(1499年)・・・体力の衰えを感じ、死期が近づいた事を悟った蓮如は、山科本願寺へと戻り、親鸞の御影(ごえい・肖像画)を祀る御影堂へ参拝します。

親鸞の肖像画を前にして
「極楽へ参ります、いとま乞いを…必ず、極楽にて再びお目にかかりたい」
と、声高らかに言い放った後、5人の子を呼び、
「兄弟、仲良くせなアカンぞ!」
と言い、眠るように逝ったと言います。

明応八年(1499年)3月25日・・・蓮如、85歳の春でした。

「往生した後は、御影堂に入れて、人にも見せよ」
との遺言に従い、遺体を安置したところ、この25日の晩だけで数万人の信者が訪れたのだとか・・・

もちろん、その中には、数多くの女性信者もいたと言います。

底辺を味わいながら、本願寺を日本一の大教団へと成長させた蓮如は、(スケベな意味ではなく)最も女性を愛した宗教家だったのかも知れません。

 

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2011年3月24日 (木)

沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因

 

天正十二年(1584年)3月24日、肥前島原半島の領有権をめぐって龍造寺氏島津氏が争った沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討死しました。

・・・・・・・・・・

すでに、その波乱万丈の人生をサラッとご紹介させていただいている(11月26日参照>>)肥前(佐賀県)の戦国大名・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)さんですが、本日は、そのご命日という事で、最後の戦いとなった沖田畷(おきたなわて)の合戦を中心に・・・

・‥…━━━☆

主君にあたる少弐資元(しょうにすけもと)に離反の疑いをかけられ、祖父や父をはじめ一族のほとんどを騙し討ちされてしまった(1月23日参照>>)龍造寺分家=水ヶ江(みずがえ)龍造寺家の隆信少年は、ただ一人生き残った曽祖父・家兼の遺言を受け、還俗(げんぞく・僧侶をやめて一般人に戻る事)して龍造寺家を継ぎ、母・慶誾尼(けいぎんに)(3月1日参照>>)の助けを借りながら再起をはかります。

Ryuuzouzitakanobu600 やがて本家龍造寺家龍造寺胤栄(たねみつ)が亡くなった事で、その奥さんと結婚して本家の当主となった隆信は、主君の少弐氏を滅亡に追いやり(1月11日参照>>)、今山の戦いで大友氏を蹴散らし(8月20日参照>>)

さらに、筑紫・肥後北部の平定を完了した後は、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)薩摩(鹿児島県西部)島津義久と並んで「九州三強の一角」となり、『肥前の熊』と恐れられる存在となります。

しかし天正十二年(1584年)・・・ここに来て島津が島原半島に侵出し、その直後に、配下の有馬晴信(ありまはるのぶ)島津方に寝返るという事件が発生します。

すでに天正八年(1580年)に隠居していた隆信でしたが、未だに政治的・軍事的にに主導権を握っていた事もあって、寝返りの一報を受けて、即座に行動開始・・・

3月19日には、25000もの軍勢を率いて島原半島に進出したのです。

とは言え、冒頭に書かせていただいた通り、本日は隆信さんのご命日・・・つまり、合戦は龍造寺の敗北となります。

上記の通り、隆信の配下は25000・・・いや、最終的には5万に膨れ上がっていたであろうとも言われる龍造寺軍に対して、一方の島津は、有馬の配下は5000程度、島津が連れて来たのは3000程度と、どんなに多く見積もっても1万に満たなかったであろうとされています。

なのに、この時、勇猛に戦った龍造寺四天王と呼ばれる重臣たちが、隆信の死を知ってから命がけの突入を試みて亡くなっている事を踏まえれば、かなり、早いうちに大将が、戦場にて討ち取られるという戦国合戦では珍しい事例という事になります。

これらの観点から、この沖田畷の戦いを、「あの桶狭間と似ている」との見方をされる研究者の方も多いようです。

確かに、桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)も、討たれた今川義元の軍勢のほうが、数として圧倒的に多かったのは、皆さまご承知の通り・・・

しかも、この時の隆信も、義元同様に馬には乗らず輿(こし)に乗っていた事も同じなら、この一戦で家が滅亡するのではなく、次の息子の代で急激に勢力を失い、家は残るものの領地を失う・・・といった所まで似ていると・・・

しかし、一方では、決定的に違う部分も指摘されます。

それは、桶狭間での義元には、まったく落ち度が無いけれど、隆信には明確な戦い方のビジョンがないまま合戦に挑んだという落ち度があったという事・・・。

その桶狭間は・・・
ドラマでは、織田信長のカッコ良さを際立たせるために、あたかも愚将のように描かれる義元以下今川勢ですが、実際には、義元は、すでに信長の攻撃を視野に入れていて、一旦後退する事を考えていた矢先の事だったとも言われ、一方の信長も、たまたま、そのナイスなタイミングで義元の本隊にたどり着き、たまたま、そのナイスなタイミングで天候が大荒れとなって、かなり近づくまで気配を隠せたのが、最も大きい勝因なわけで、どちらかと言うと、運が、信長に味方したといった感がぬぐえない戦いだったとされています。

一方の隆信は・・・

実は、あの宣教師=ルイス・フロイスが、隆信の軍隊を見た印象を記録に残しているのですが、その隊列は、「ヨーロッパの軍隊にも勝るとも劣らない物である」と絶賛しています。

キリシタン大名である大友宗麟や有馬晴信と敵対していた隆信は、フロイスにとっては敵なわけですから、そんな立場からのベタ褒めというのは、かなりのモンだと思います。

その姿は、多数の銃と少量の弓を持ち、長き槍と短き剣・・・さらに、複数の大砲も曳いていたのだとか・・・

しかも、その装備を見た島津勢は、そのあまりの見事さに恐れおののき、一斉に青ざめた・・・という島津方の描写まで、フロイスは書き残しています。

もし、それが本当なら、この戦い前の時点で、龍造寺の勝利は見えていたようなもの・・・しかし、そうはなりませんでした。

いや、むしろ、そのような状況こそが、隆信に油断を与えてしまったのかも知れません。

本来なら、絶対に隆信が負けないような状況・・・逆に島津から見れば、この状況をくつがえさねばならないわけで、その勝利のカギは、少数である事を活かしたゲリラ的戦法を駆使するしかないわけですから、隆信側は、それに逆手を取った大軍を活かした作戦で挑むべき・・・

しかし、「これで負けるわけがない」という少々のおごりが、まったくの作戦無しに戦場に向かうという事になってしまった・・・という事のようです。

かくして戦いの前日、有馬晴信の救援要請を受けて現地に到着した島津家久(いえひさ)は、敵の数の多さに驚いたと言いますが、ただ驚いていては負けます。

上記したように、彼は、少ない兵を活かす作戦として、湿地帯である沖田畷のド真ん中に陣を敷き、周囲に、木戸や鹿垣などの防塁を構築します。

やがて天正十二年(1584年)3月24日・・・その火ぶたが切られたわけですが、隆信は、これらの防塁を無視して沖田畷を突き進んで行ったのです。

その大軍ゆえか、なんなく接近していく龍造寺勢・・・しかし、これが家久の作戦!

できるだけ至近距離へと近づけさせておいて、ここで、いきなり防塁に身を隠していた鉄砲隊が総攻撃!

一旦おさまって進んでいくと、再びの一斉射撃・・・これを繰返します

さらに、本陣が湿地帯に入った頃を見計らって、真っ赤な装束に身を包んだ軍団を敵方に踊り込ませて部隊の混乱をはかりました。

ただただ湿地帯を突き進んでいた大軍は、大混乱に陥り、そんな混乱の中で、隆信は、島津方の川上忠堅(ただかた)という武将に討ち取られ、命を落としたのです。

実は、この日の合戦で、隆信が輿に乗っていたのは、隠居してから酒に溺れ、芸能に凝り、遊興にうつつをぬかした生活で、ダダ太りとなって馬に乗れなかったから・・・なんて事も言われ、そんな隆信の姿は、家臣の信頼を失い、離反者も後をたたなかった事から、晩年の隆信の態度が、今回の敗戦を招いたとも・・・

しかし、先ほども書かせていただいた通り、隆信の死を聞いて、逃げたり寝返ったりするどころか、逆にその命を捨てて突入する重臣たちの姿を見る限り、未だ、信頼関係が崩れていたとは思い難いわけで、おそらくは、そこのところは、まだ修正可能な段階にあったはず・・・。

やはり、一番の敗因は、隆信のおごりによる作戦ミスの可能性大・・・もし、この戦いに勝っていたら、のちのちには家臣との仲も修正でき、龍造寺家が衰退する事も無かったかも知れないだけに、実に残念です。

残念ついでに、記事が長くなってしまいました。

この日、命がけで奮戦し、隆信の後を追うように散っていった龍造寺四天王の秘話は、2012年の3月24日【龍造寺四天王~それぞれの沖田畷】でどうぞ>>

 

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2011年3月23日 (水)

アンケート企画「一つだけ関与する事ができるとしたら…」:結果発表

 
もし、歴史上の出来事で、「たった一つだけ関与する事ができる」としたら・・・
「あなたは、どの出来事をどうしたいですか?」
のアンケート投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

なんと!2週間で154名の方々のご投票をいただくという大盛況!!
また、投票と同時に楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきました。

そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきます。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位 信長を本能寺から脱出させる:50票
やはり、信長人気は高い!!ダントツの1位でした。
2位 その他:31票
予想通り沢山の意見が出ましたね~大変興味深いです~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
3位 坂本龍馬と中岡慎太郎を救出:24票
幕末の人気者は、やはりこの人…あともう少し生きてて欲しかったですね。
4位 関ヶ原で小早川秀秋を説得:15票
実際には、それほど家康の楽勝ではなかったと思えるので、その結果に興味津々の4位ですね。
5位 大坂夏の陣で真田幸村に加勢:8票
やっぱ大阪人しては、首都を夢見てしまいます~個人的には5位は意外かも…
6位 上杉謙信にトイレで薬を渡す:7票
「薬を渡す」っていうよりも、結局は「生きててほしい」って事なんですが、信長も恐れた人なので、その後が見てみたい!
7位 平将門に兵を帰らせないよう進言する
本能寺の一報を秀吉に知らせない:5票
ともに7位のこの二つ…意外ににスゴイ展開を見せるかもですゾ!
9位 壇ノ浦で安徳天皇と三種の神器を救い出す:3票やっぱり、正統性と三種の神器を考えると救ってさしあげたい!
10位 乙巳の変を阻止
和気清麻呂への神託を変更:2票
ともに2票のこの二つ…票数は少ないですが、意外に危うかったのでは??
12位 足利直義のニセ綸旨をウソだとばらす:1票
尊氏が戦わなかったら、南北朝もなかったかも知れませんが、意外にもっと早く戦国時代になってたかも…
13位 聖徳太子に「命の電話」をする
壬申の乱で大友皇子に加勢
曽我兄弟の仇討を助太刀:0票
スンマセンm(_ _)mこの3つは0票でした…そう言われてみると、なるべくしてなった結果と言える出来事かも知れませんね。

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示…「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

信長を脱出させる 坂本龍馬救出も選びたいが、やはり信長でしょう。がらりと歴史が変わりますから。 (男性/30代/千葉)
「合理主義者の信長さんの政治手腕を見てみたいですね」
壇ノ浦で救出 正統性と国の宝 (男性/60代/神奈川)
「やはり、それが大きいですね~」
龍馬と慎太郎を助ける やはり、坂本さんの活躍をもっと見たい (男性/20代/東京)
「幕末ファンの方は、やはりコレでしょうね…」
乙巳の変・阻止 その後の外交政策、天皇家に大きな変化があったはず。 (女性/40代/新潟)
「白村江の戦い…入鹿だったら、どう対処したか?気になります」
その他 二・二六事件を阻止する。又は高橋是清に事前にお知らせする (男性/兵庫)
「あぁ、コレ、忘れたましたね~高橋さんには生きてていただきたい!」
信長を脱出させる 常識の枠をはみでるのでその後が想像できない (男性/40代/東京)
「秀吉も家康も無かったわけですからね~」
信長を脱出させる リアル"信長の野望"になるが興味深い。 (埼玉)
「ゲームはやった事ないんですが、そんな感じなんですか?戦国BASARAよりはリアルなのかしら?」
その他 桶狭間で今川義元の休息をやめさせること。 (男性/20代/東京)
「あぁ…コレ、大事です!!東海一の弓取りの天下も見てみたいです」
その他 関が原か、大阪冬の陣で、淀を殺してでも秀頼を最前線に連れて行きたい! (男性/30代/埼玉)
「身長2m、体重130kgの巨漢だったと言いますから、意外と最前線で活躍するかも?関取並みに…」
信長を脱出させる やっぱ信長の野望がみたい。 (男性/40代/愛知)
「やはり、なんだかんだで妄想のし甲斐のある信長さんです」
信長を脱出させる これしかないのでは… (男性/40代/大阪)
「やっぱり、そうですか…志半ばですからね~」
秀吉に知らせない あら、今のところオイラだけ (男性/40代/福岡)
「私も、コレ面白いと思いました。同じスタートラインで、勝家や一益も参戦してもらえれば…」
信長を脱出させる 江姫の人生はどう変わったのでしょうか? (男性/50代/埼玉)
「大河の中で、あれほど秀吉を恨む事もなかったかも知れませんね…もっと穏やかな日々を過ごせたかも」
信長を脱出させる っていうか、本能寺の変阻止。 (男性/40代/新潟)
「ならば、光秀を討ちに参りましょう!!それとも、もっと以前に阻止かな??」
その他 もし秀吉ねねに有能な実子がいたら・・・ (女性/40代/奈良)
「確かに、二人の子供なら聡明でしょうし、いい年齢でバトンタッチできたかもですね」
平将門に進言 結局大成はしないでしょうが、本当に日本史を変えるならここだと思います (男性/40代/千葉)
「未だに祟りを恐れられている人ですから、その存在感はスゴイです」
その他 卑弥呼に字を教える (男性/50代/東京)
「邪馬台国の詳細な記録を希望…住所も書いておいてほしいです」
龍馬と慎太郎を助ける 本能寺とかなり迷いましたが、坂本龍馬がもし生きていたのなら迷走する今の日本は違っていたかも! (男性/30代/【海外】)
「今、ほしいですね~様々な事を一刀両断で改革してくれるリーダーが…」
関ヶ原で秀秋を説得 ぜひ豊臣の世を続けて欲しいです (女性/10代/神奈川)
「大阪=首都・バンザイ!!…って、そういう意味ではないですね(^-^;」
龍馬と慎太郎を助ける 歴史にはまったく疎いので、もれなく福山くんのカッコよさだけではまった龍馬で(^^; (30代/福岡)
「そもそも妄想のアンケートですから、それもアリです」
信長を脱出させる のぶファン (30代/大阪)
「信忠はいかに?そりゃ、助けますよね(゚ー゚;」
信長を脱出させる まだまだ、遣り残した事が沢山あるはず。 (男性)
「おっしゃる通り、天寿を全うして手腕をふるっていただきたかったです」
関ヶ原で秀秋を説得 西軍が勝っていたら三成は勿論、幸村も死なずに済んだかも。 (女性/30代/東京)
「天下一の武将が、その後どう生きたか??興味深いです」
信長を脱出させる これに関与したら一番歴史が変化するかと思うから (男性/20代/静岡)
「安土が首都になってたのか?それとも石山本願寺跡に壮大な城を築いたか?ワクワクしますね」
夏の陣で幸村に加勢 日本の首都が大阪になっていたかも? (男性/40代/大阪)
「やっぱり…ほたら、国語の教科書は大阪弁で、メッチャ楽しい授業になりまんがな」
その他 島津斉彬の病を治してあげたい。 (男性/30代/大阪)
「維新が早くなったかも知れませんね~西郷さんはやっぱり活躍したでしょうが…」
信長を脱出させる 日本の歴史が一番変わったのってここな気がしますw でも説得聞くかなぁ? 光秀説得の方がいいかも (男性/10代/愛媛)
「確かに、どっちを説得に行くか?と言われたら光秀さんかも知れませんね」
その他 伊藤博文を守る。脱亜論を成就したい
「確かに、伊藤さんは、もうちょっと生きていてほしかったですね」
関ヶ原で秀秋を説得 裏切りがなかったら豊臣方が勝って大阪がより発展して首都になりえたかもと思うのも楽しい (女性/40代/高知)
「妄想は尽きませんね~より経済大国になってたかも」
信長を脱出させる この人スキ (女性/30代/愛知)
「スキな人は助けたい!…ですね」
その他 ミッドウェー海戦での山口少将の「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」という意見を採用する。 (男性/30代/埼玉)
「近代史は苦手なのですが、そこが運命の分かれ道だったわけですね?なるほど」
その他 もっと私的なことに関与したいですね。例は事が大きすぎる。
「すみませんm(_ _)m妄想は大きいほど楽しいので…つい」
清麻呂への神託・変更 色々考えたが「穢麻呂」は免れないような……
「昔の事なので、もう良いかと思って言ってみますが、穢麻呂は最高ですよね~他にもどんな改名があったのか知りたくてww」
信長を脱出させる もし信長が天下布武を成し遂げていたらどんな日本になっていたか凄く興味が上がります。 (男性/20代/滋賀)
「本当に興味津々ですよね~妄想好きはたまりません!」
信長を脱出させる 信長・信忠ファンとしては,これは譲れませんね(笑)。 (男性/30代/東京)
「信長さんはもちろん、やっぱり信忠さんにも生きてていただきたいですね~」
秀吉に知らせない 茶々さん、こんにちは!今年の『旬』な展開に一票です! (女性/30代/埼玉)
「こんにちは!やはり中国大返しがなかったら…柴田勝家が譜代のトップのままなんでしょうか?興味ありますね」
その他 武田滅亡の阻止 (男性/10代/奈良)
「アッ…これも大事ですね~名門武田家の滅亡は惜しいです」
信長を脱出させる やっぱりこれが真っ先に思い浮かびます! (男性/20代/千葉)
「そうですよね~いろんなパターンの未来が想像できます
信長を脱出させる 信長ファンとしては当然 (男性/30代/千葉)
「ですよね~今度は、戦国時代に絞ったアンケートっていうのも良いかも知れませんね」
信長を脱出させる 信長がつくる太平の世を見てみたい (女性/40代/埼玉)
「家康とは、また別の…妄想が膨らみます~」
関ヶ原で秀秋を説得 秀秋も後ろ指さされることなく、その後の日本にはやはり義は強いと伝説がうまれていたのでは。 (男性/60代/東京)
「秀秋さんがもっと長生きしていた可能性大ですね~肖像画も変わっていたかも」
信長を脱出させる 65才くらいまで権力握ればどう変わっていたか。 (男性/60代/大阪)
「あと15年…確かにそうですね~」
その他 山梨県人の血を引く信玄贔屓の私としては、もし信玄があと10年、いや5年長生きしていれば。。。なんて。 (男性/30代/神奈川)
「石山合戦の真っ最中でしたからね~畿内では松永久秀も不穏な動き…どうなっていたかに注目です」
その他 龍造寺隆信に島津の釣り野伏せをレクチャーする (男性/30代/福岡)
「龍造寺さんも、本当はもっと活躍してくれても良い豪傑なんですが…」
関ヶ原で秀秋を説得 真田幸村に加勢も迷いましたが、石田三成が健在の上で豊臣政権の継続を見てみたいので。 (男性/20代/兵庫)
「秀頼をサポートする光秀…官僚型の彼なら、いい仕事したかもです」
その他 戸次川の戦いで長宗我部信親を救出。…生きていたら、関ヶ原後も続いていたかな?と思うので。 (女性/30代/兵庫)
「元親さんの落ち込みがなければ、高知も安泰だったかも知れませんね」
その他 太平洋戦争を無かったことにする。 (男性/20代)
「かなり歴史変わりますね~日本の姿が想像できません」
信長を脱出させる もし信長が生きていたら、歴史が大きく変わっていたかも (女性/30代)
「大きく変わっていたでしょうね~経済を重視して合理化をはかって…イロイロ想像します」
その他 フランス革命で国王を助ける
「世界史は苦手ですが、フランスは王国のまま、革命がなかったという事になるわけですね?」
信長を脱出させる おそらくどれも歴史の大きな流れを変えることはないでしょうが、信長がどう日本を支配したか知りたい。 (女性/40代/東京)
「結局は、なるようにしかならないのかも知れませんが、考えるとおもしろいです」
その他 朝鮮人〓小●一郎と池●大作 民主朝鮮 公明朝鮮 民団 総連 中国共産党 オウム朝鮮は⇒日本占領が目的 (男性/60代/青森)
「私、政治の事はわかりません…とにかく、現役の方の固有名詞はご勘弁いただきたいので、伏せ字とさせていただきました」
その他 徳川家光と徳川忠長を仲直りさせる (男性/20代/千葉)
「兄弟は仲良くしていただきたいです…そこに保科さんの活躍があれば最高!」
その他 大東亜戦争のMI作戦で機動部隊司令官を山口多聞提督にする。後の展開は全く違ったはずだ。
「戦争はいつの時代も転換期がいくつもありますね~勉強させていただきます」
その他 元寇の時、元軍に嵐が来るのを教える。その後の神風信仰が悪影響を与えるので。 (男性)
「たぶん元軍にはなんらかの撤退理由があったのでしょうね…神風というより、運が良かった?」
龍馬と慎太郎を助ける そして時が流れた2011年と、今の2011年を比較してみたい。 (女性/50代/【海外】)
「パラレルワールド~分岐点はいくつもあって、それぞれに進んでいく…両方を見てみたいという欲求は尽きません」
関ヶ原で秀秋を説得 それでも東軍が勝っているかもしれませんが、毛利や長宗我部が参戦したら西軍勝ちですし。 (男性/40代/東京)
「戦況を変えるには充分かも知れませんね」
その他 日韓併合断固阻止! (女性/40代/福岡)
「現在の国際問題にも通じる難しい問題ですね~」
関ヶ原で秀秋を説得 吉継と三成が生き延びてほしいです!! (女性/10代/千葉)
「親友同士のこれから…見てみたいですね」
信長を脱出させる 日本の国がその後どうなるのか、見てみたい。 (男性/40代/愛知)
「すっかり変わっていたような気がしますね」
その他 ノアの箱船を沈める。
「すべては神のおぼしめの通りに…」
その他 平治の乱後、平清盛に頼朝・義経らを処刑するよう進言する (女性/30代/兵庫)
「清盛さんも、信長同様、武防備な天下取りです…そこに優しさも加わってる気が…」
その他 戦中、戦後に反日外人を追い出す (女性/50代/東京)
「日本人にも反日の人がいると聞きましたが…難しい問題です」
その他 真珠湾攻撃で南雲提督ではなく山口提督を司令官に (男性/40代/東京)
「大東亜戦争は分岐点がいくつもあって…勉強させていただきます」
その他 秀吉を草履とりで終わらせる昇進させない (女性)
「…って事は墨俣の一夜城もない、って事は美濃攻略もならず??考えたら夜も寝られません(;д;)」
その他 対米英開戦回避
「やはり大東亜戦争ですか…深いです」
その他 「藤原泰衡を説得し、義経に奥州17万騎を与え鎌倉を衝かせる」いい国作ろう平泉幕府 (男性/40代/神奈川)
「初の武士政権誕生は平泉ですか~それも妄想をかきたてられますね」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

投票数が多かったぶん、コメントも66名という多くの方から頂きました~
これだから、
歴史の妄想はやめられませんネヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
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2011年3月22日 (火)

放送記念日~初めてのラジオ放送

 

大正十四年(1925年)3月22日、社団法人東京放送局日本初のラジオ放送を始めた事を記念して、本日3月22日は『放送記念日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

「放送」と言えば、今では、テレビラジオの放送を連想してしまいますが、本来は、不特定多数の人に発信する電波を、すべて放送と言います。

そもそもの発端は、第1次世界大戦の頃の大正六年(1917年)1月の事・・・

横浜港を出港してヨーロッパに向かっていた日本船・三島丸が、インド洋を抜けてアフリカ東岸にさしかかろうとした時、突然、無電機が警報を受信しました。

「アフリカ沿岸にドイツの仮装巡洋船あり・・・警戒せよ」

しかし、どこから発信された電信なのかがわかりません。

調べたところ、どうやら南アフリカイギリス海軍の駐屯地から発せられているようではありますが、確定はできません。

本来、無線電信というのは、相手を特定して発信する物ですから、受け取った側は、それを交信記録として正確な日時や発信元を記録しておかなけらばなりません。

しかし、どうしても発信元が特定できない・・・しかも、相手は、ターゲットを特定せず、無電を送りっぱなしにしている模様です。

しかたなく三島丸は、その通信日記に
「○○の放送を受信した」
と記録しました。

これが、日本語で「放送」という言葉が使われた最初でした。

この放送という物が、正式に規格化されたのは大正八年(1919年)の事で、その後、無線が発達して大衆化する中、それらも「放送」と呼ばれるようになったのです。

やがて大正十一年(1922年)、逓信省(ていしんしょう・大日本帝国憲法下で郵便や通信を管轄する中央官庁)放送制度の調査を開始・・・

翌年には、その問題が国会で取り上げられ、貴族院予算委員会で話し合われました。

この頃には、すでに民間から「放送事業をやりたい!」という出願が多数出されていて、それらを受けている政府側も、「このまま民間での路線を考えている」との意見で固まりつつあったのだとか・・・

アメリカはもちろん、当時はイギリスBBCも民間事業であった事から、日本もそれにならって・・・という感じで、すでに出願しているいくつかの有力グループを一つにまとめ、株式会社=東京放送局として営業を許可する手はずとなっていました。

ところが、ここで一つの大きな出来事が・・・

そう、大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に関東を襲った大地震・・・関東大震災です(2007年9月1日参照>>)

そして未曽有の地震に襲われた被害もさることながら、その時に問題となったのは、パニックに陥った人々が、根も葉もないデマに踊らされて暴徒と化し、震災とは別の多くの犠牲者を出してしまった事でした(2010年9月1日参照>>)

「放送があれば、正確な情報が得られたはずだ」
「正確な情報があれば、デマに踊らされる事もなかったかも知れない」

当然のごとく、このような意見が世論を賑わせる事となり、同時に、放送の公共性も認識される事になります。

「放送は国営・公営であるべき」との気運の高まりを受けて、当時の逓信省の畠山通信局長は、放送事業の許可を出願していた人たちを集め、
「放送事業は、公益法人である社団法人に許可する事とする」
と告げたのです。

すでに、民間の株式会社として放送局を発足させるつもりでいた出願者たちは、大いに不満を漏らしたという事ですが、もはや、国の姿勢が変わる事はありませんでした。

こうして誕生したのが東京放送局・・・現在のNHKです。

そして、来たる大正十四年(1925年)3月1日にラジオの放送を開始すべく準備を急ぐ東京放送局・・・しかし、購入予定の放送用送信機が、同様に設立準備をしていた大阪放送局に、先に買い取られてしまいます。

残念ながら、その送信機は、まだ、日本に1台しかありません。

すでに3月1日から放送を開始すると言っちゃってますし、何としてもライバルの大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたい・・・

しかたなく東京放送局は、東京高等工芸学校の送信機を借り、「試験放送」という形で逓信省の許可を受け、なんとか3月1日から放送を開始・・・その21日後の大正十四年(1925年)3月22日、逓信省から正式に免許を受けての仮放送を開始となったのです。

「アーアーJOAK、JOAK、よく聞こえますか?こちらは東京放送であります。こんにち只今より放送を開始いたします」

これが日本初のラジオ放送の第一声・・・ちなみに、ラジオの正式名称は「放送用無線電話」というのだとか・・・

やがて建設中だった愛宕山の放送局が完成し、7月12日には本拠地からの本放送が開始されました。

ところで、ライバル大阪は・・・
同じ年の6月1日から仮放送を開始したという事で、大阪人としては、ちと悔しかったりして( ̄○ ̄;)!
 .

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2011年3月20日 (日)

「若者よ!本を読め」~黒田如水の名言

 

慶長九年(1604年)3月20日、豊臣秀吉の側近・軍師として知られるキリシタン大名・黒田如水が京都・伏見藩邸にて59歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・

戦国屈指の名軍師・・・その有名な逸話も数知れずって事で、これまでにも何度もブログに登場していただいている如水さんですが、今日は、ご命日という事で、そのスルドさを褒めまくりでいきましょう!

・‥…━━━☆

もともとは、近江(滋賀県)黒田村(木之本町)が発祥の地とされる黒田家は、近江源氏の流れを汲む家柄で、足利将軍家に仕えていましたが、如水の曽祖父・黒田高政の代にモメ事を起こし、一族郎党、逃げるように備前国(岡山県)邑久郡(おくぐん・瀬戸内市)に・・・。

やがて祖父・黒田重隆(しげたか)の代になって播磨(兵庫県)小寺氏の家臣となり、父・黒田職高(もとたか)の頃には、主君の小寺姓を名乗る事が許されるほどの信頼を得る事になります。

Kurodazyosui500 やがて、その父から家督を譲られる如水ですが、その頃に畿内を制し、さらに西へ西へと進撃して来たのが、かの織田信長・・・

それまでは、中国の覇者=毛利の影響を受けていた播磨の小大名・小寺家では、当然のごとく毛利につく事を主張する家臣の中でただ一人、信長の傘下になる事を提案して周囲を説き伏せたのが如水でした(11月29日参照>>)

こうして、信長の命により山陽の平定を任されている羽柴(後の豊臣)秀吉の配下となった如水・・・しかし、まもなく起こるのが、あの荒木村重(むらしげ)謀反です(12月16日参照>>)

この時、謀反の真意がわからない信長は、村重の籠る有岡城へ何度も使いを出しますが、その中の一人として向かった如水は幽閉されてしまい、最終的に助け出されるものの、劣悪な環境での幽閉で足腰を痛めてしまいました(10月16日参照>>)

その後の如水は、幽閉中に固く自分の事を信じてくれながらも病死してしまった竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)(6月13日参照>>)の代わりをするがのごとく、秀吉の右腕となって作戦立案に手腕を発揮します。

秀吉が備中(岡山県西部)高松城を囲んだ時は(4月27日参照>>)、石を積んだ舟の底に穴を開けて、足守川(あしもりがわ)に沈めて、川をせき止める事を提案し、水攻めに至っています。

さらに、その水攻めの最中に舞い込んで来た本能寺の変での「信長死す」の情報・・・泣き叫ぶ秀吉に対して、
「悲しむ気持ちはわかるけど、これは、天下を狙う絶好のチャンスでもあるねんで」
と、声をかけ、この言葉に秀吉がハタッとする・・・なんてのは、ドラマでも度々描かれる名シーンですよね(6月6日参照>>)

そう、この如水がいなかったら、秀吉の天下もなかったかも知れない・・・

しかし、そこまでのスルドさは、かえって秀吉が警戒してしまう事となったようで、秀吉の天下となった後は、中央から遠く離れた九州へと追いやられ、しかも豊前中津(大分県中津市)10万石と、その活躍には似合わない少なさでした。

これも有名な話ですが・・・
その頃、秀吉が自らの御咄衆(おはなししゅう)との雑談で、
「俺が死んだら、その後は誰が天下を取ると思う?」
と聞いたところ、周囲は誰も答えられない・・・

すると、秀吉は
「如水しかおらんやろ!」
と・・・
「わずか、10万石で?」
と、周囲が聞き返すと、

「お前ら、アイツの頭ン中、知らんからや。
アイツはな、
俺が、あーやこーやと必死のパッチで考えて考えて・・・
それでも、結論でーへんで相談すると、
“あぁ、それはこうしたら?”と、いとも簡単に答えよる。
それも、俺が、思いもつかん事を・・・
しかも、人の面倒見はええし、男の中の男やし、
アイツ以上のヤツなんかおるかいな」

と・・・

これを人づてに聞いた如水は、即座に隠居して、家督を息子の長政に譲ったのだとか・・・

その長政は、父の如水が後方で指揮を取っていたのとは逆に、戦いのたびに先鋒となって出陣し、先頭にて指揮を取るタイプでした。

それについては、
「人間には得て不得手があるんや。
俺は若い時から槍を持って敵と渡り合うのは苦手・・・その代わり、一つの采配で大量の敵を討ち取る事が得意やってん。
長政は長政で、先手に立って指揮を取るのがええ・・・そうでないと負けるやろ。
自分が先頭に立って働いて、家臣の信頼を得るタイプや」

と、冷静な分析をしています。

その期待通り、長政は戦国武将としてはなかなかのスグレ者・・・わずか14歳で出陣した岸和田城攻防戦では、父・如水の心配をよそに複数の首級を挙げました(3月22日の後半部分参照>>)

とは言え、当然ながら、天才・如水から見れば、まだまだヒヨっこな面も・・・

それが、これまた有名な関ヶ原での一件・・・

この時、息子・長政は、吉川広家(きっかわひろいえ)小早川秀秋(こばやかわひであき)をはじめとする西軍のキーパーソンの寝返りに奔走するなど下準備にも活躍し、本チャンの関ヶ原でも大活躍・・・おかげで、戦後は52万石余に福岡藩主に大躍進するわけですが、

「関ヶ原が一日でケリついたんは、俺の働きがあったからやねん・・・家康さんなんか、わざわざ、俺の手を握って、アリガトアリガトて言うてくれはったんやで!」
と、喜んで報告する長政に・・・

「ほんで、その時、家康は、お前の、どっちの手を握っとったんや?」
「いゃ・・・右手ですけど・・・」
「アホンダラ!ほな、あいてる左手は何をしとったんじゃあ~~~!」
と・・・

そう、
以前も書かせていただいたように、この時、九州にて挙兵した如水は、石垣原の戦いで大友義統(よしむね)を破り(9月13日参照>>)そのドサクサで天下を狙う勢いで北上しようと考えていたのです。

ところが、肝心の関ヶ原が、わずか半日でケリがつき、しかも、それが、我が息子の活躍によるものとは・・・
「家康が、お前の右手を握ってたんやったら、あいてる左手で家康を刺したら、天下が転がり込んで来たのに・・・」
と言いたくもなりますわな。

とは言え、さすがは如水さん・・・叱るだけではなく、ちゃんと教訓も教えます。

『神の罰より主君の罰を恐るべし、主君の罰より臣下百姓の罰を恐るべし』
「神さんの罰は祈ったら避けられるし、主君の罰は謝ったらしまいや・・・けど臣下の者や領民に嫌われたら、その罰は祈っても誤っても国を失うまで許されへんねや」

と・・・

このように、晩年の如水は、戦う事に長けてはいても、まだまだ領国経営に未熟な息子・長政をいつも心配していたと言います。

特に病気になってからは、息子にうるさい父、家臣に厳しい主君を演じきり、わざと疎まれるように仕向けて、自分のカリスマ性を払拭して、譜代の家臣たちがスムーズに長政を主君と仰ぐように仕向けていたとか・・・

そして、いよいよ死期が迫った時、如水は長政に、木履(ぽっくり)と草履(ぞうり)を一足ずつプレゼント・・・
「お前は、合戦に挑む時に、準備万端、整え過ぎやねん。
戦いなんか、いつ起こるかワカランねんさかい、片足に木履、もう片足に草履をはいて行くくらいの勢いないとな」

かくして、慶長九年(1604年)3月20日・・・息子の将来を思いつつ、如水はこの世を去りました。

最後に、先ほどの続きでもある如水の名言をもう一つ・・・
『乱世に文を捨てる人は滅びる』

「ええか?
たとえ侍でも戦うばっかりやのーて、本を読まなアカンぞ。
本を読まへん人間は、理屈がワカランさかいに、ちゃんとしたルール
(法律とか)を決められへんで、私利私欲でルールを決めてしまう・・・そんな事したら、家臣や国民に恨みを買うだけで、そんなヤツの治める国は、結局は滅びるんや。

おっと・・・本を読むっちゅーても、単に数をよーけ読むっちゅー事やないで。
もちろん、故事を覚えたり、字を覚えたり、詩を書けたり、なんていう知識を詰め込む事でもない。
その真意を読み解くっちゅーこっちゃ」

ワォ!耳が痛いゾ!こりゃ(;д;)
 

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2011年3月18日 (金)

謎が謎呼ぶ柿本人麻呂

 

養老四年頃(720年頃)の3月18日、歌聖と称される三十六歌仙の一人・柿本人麻呂がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

養老四年頃(720年頃)という曖昧さのワリに、3月18日という日づけでの記載というのも何なんですが、実は、明石柿本神社にて、月遅れの4月18日に例祭が行われる事から、3月18日柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ・人麿・人丸)の忌日とされていますので、本日書かせていただきます。

Kakinomotonohitomaro500 と言っても、柿本人麻呂は・・・
どこの誰だか知らないけれど、誰もが知ってる謎の人・・・

人麻呂がこんなに有名なのも、のちの勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう・天皇の命で作られた国の公式歌集)古今和歌集の序文で、編さん者のひとりである紀貫之(きのつらゆき)「歌の聖(ひじり)」と絶賛するからで、

その称号にふさわしく、あの『万葉集』には、人麻呂の歌が80首も採用されています。

『万葉集』は、5世紀から8世紀後半までに詠まれた歌・4500首以上を集めて、大伴家持(おおとものやかもち)(8月28日参照>>)が編さんしたとされる天平時代成立の歌集ですが、その中には詠み人知らず(作者不明)が含まれていますので、何人の歌が・・・という事はわからないものの、「一人の人の歌が80首」というのが、かなりの数である事は想像がつきますね。
(まぁ、一番多いのは家持本人=473首なんですが(゚ー゚;結局、自分かい!…と言いたいが、数が多いので編者だろう?とも言えるので)

とにもかくにも、草壁皇子(くさかべのみこ・天武天皇の息子)高市皇子(たけちのみこ・同)など、複数の重要王族の死に際して、その死を惜しむ歌を奉ってるところから、8世紀初頭には、宮廷の公式な場で、天皇あるいはそこにいる全員の気持ちを代弁して歌を詠む宮廷儀礼歌人であった可能性が高い人麻呂ですが、そんな有名歌人であるにも関わらず、人麻呂の名前は『日本書紀』『続日本紀』といった国家の正史にはまったく登場しない・・・

ゆえに、人麻呂の人物像は、その『万葉集』に残された歌から推理するしかなく、1000年以上たった今でも、謎が謎呼ぶ展開となっているわけです。

この謎解きは、かなり昔からの学者の関心事であったと見え・・・

  • 官位が五位以上の人物なら、必ず任官が正史に記録されているはずだから、正史に記録がないという事はそれ以下の下級官人であった
  • 都だけではなく、讃岐(さぬき・香川県)筑紫(つくし・福岡県)などの地方を訪れた、あるいは実際に住んでいたと思われる歌を詠んでいるので地方に派遣された役人かも知れない。
  • 人麻呂が「死に臨んで詠んだ」との詞書(ことばがき・歌の説明)のある歌は石見(いしみ)の歌なので、離島か内陸部かは不明なれど、石見付近で亡くなった可能性が高い

などという事が、すでに江戸時代の研究で成されています

しかし、上記の中の「下級官人」って事について、かの古今和歌集の序文での紹介では「高位の官吏」とされている事や、万葉集から見る人麻呂の行動(けっこう高貴な人と交流してる)などと矛盾しているとの指摘もされてきました。

そこで、近年になって登場してきたのが、梅原猛氏が『水底(みなそこ)の歌』で展開した「人麻呂=死刑」説・・・

人麻呂が何か政治的な事件に関与して、政治犯として石見に流され、そこで死刑となった・・・当時の習わしとしてあった「罪人は変名する」という罰則のもとで「名前を変えられ、正史には別の名前で書かれているので、人麻呂としては登場しないのだ」という説です。

確かに、以前も書かせていただいた道鏡事件で一旦流罪となった和気清麻呂(わけのきよまろ)別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に、姉の広虫別部狭虫(わけべのせまむし・さむし)に変えられています(2月21日参照>>)

清麻呂の場合は、道鏡が失脚した後に表舞台に返り咲きますので、清麻呂の名前が残りますが、流罪のままだったら穢麻呂の名前しか残りませんからねぇ~。

そこで氏は、正史に登場する柿本佐留(かきのもとのさる)という人物が人麻呂・その人であろうという推理を立てています。

清いが穢(きたな)いに、広いが狭いに変えられるなら、人が佐留(猿)に変えられるのも納得かも・・・

さらに、その佐留関連から、やはり大歌人と称されながらも謎の人物である猿丸太夫(さるまるだゆう)が人麻呂ではないか?とも言われていますが(4月18日参照>>)、そのページにも書かせていただいたように、古今和歌集序文には二人ともの名前が登場という矛盾・・・

一方では、その佐留という人物自体が、人麻呂の兄とする説もありますので、まだまだ謎は解けそうにはありません。

また、最後に死刑となったという推理から、さらに発展し、あの「いろは歌」の作者ではないか?という説も登場(12月10日参照>>)・・・

そんなこんなの人麻呂さんですが・・・
私個人的には、おそらくは、その経歴を末梢されたであろう現在の彼の姿が、いかにも人麻呂らしいと思えてなりません。

それは、万葉集に残された歌を見る限り、人麻呂という人は、
公的な場では、いかにも儀礼的に歌を詠む宮廷歌人であり、私的な場では、いかにも抒情的に繊細な心の内を歌う詩人・・・つまり、プロ中のプロのような人だと想像するからです。

たとえば、『柿本人麻呂歌集』に残る、こんな歌・・・

♪たらちねの 母が手放れ 斯(か)くばかり
 為方
(すべ)なき事は いまだ為(せ)なくに ♪
直訳すれば
「母の手を離れてからこのかた、こんなにどうしようもない事に出会った事はない」

って事ですが、
つまりは、うら若き未だ少女のような娘が初めて恋をして、
「こんなに切ないなんて、いったいどうしたらいいの」
と、戸惑い悩む気持ちを、当人の少女として歌っているのです。

これが、あまりにも「オッサン作」をイメージし難い事から、この歌は、後世に、柿本家の子孫が勝手に歌集に収めた物ではないか?とも言われますが、『柿本人麻呂歌集』には、他にもこのような歌が複数あり、その時々によって、オッサン人麻呂は、大人の女になったり子供になったり・・・

1首や2首ならともかく、けっこう多くの別人の歌を、子孫と言えど、勝手に歌集に加えたりしないでしょうから、やっぱり、これらは人麻呂の作なのでしょう。

つまり、人麻呂という人は、自分の気持ちを歌にのせて歌うだけでなく、他人に提供する曲を作るようなプロの作詞家なのです。

プロなれば、その作品こそが自分の顔・・・

そんなプロフェッショナル人麻呂なら・・・
「俺の人生なんかどうでもいい!作品を見てくれ!」
と言いそうな気がしてなりません。
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2011年3月17日 (木)

末梢しきれなかった記紀神話の真と偽

 

天武天皇十年(681年)3月17日、天武天皇が「日本書紀」の編さんを命じました。

・・・・・・・・・・

以前、『古事記』が、第40代・天武(てんむ)天皇
稗田阿礼(ひえだのあれ)なる人物に、帝皇日継(ていおうひつぎ・帝記』と 『先代旧辞(せんだいのくじ・旧辞)を覚えさせ、それを書きとめよ」
という命によって、太安万侶(おおのやすまろ)が編さんして、第43代元明天皇の時代に献上した・・・というお話をさせていただきました(1月28日参照>>)

そして、この『日本書紀』も、その企画発案をしたのは天武天皇・・・

その基となった史料は、上記の『帝記旧辞のほかに、豪族たちに伝わる史料や各地に残る伝承、朝廷にある宮廷の公式記録や寺院などの記録、果ては『百済記』『百済新撰』『百済本記』など、外国の史料も含まれていると言います。

それを川島皇子(かわしまのみこ)ら王族6人と、中臣大嶋(なかとみのおおじま)らの官人6名の計12名によって、40年近くかかって編さんされました。

『古事記』同様、途中で天武天皇は亡くなり、その息子の舎人(とねり)親王が編さんの最後の仕上げをして第44代元正天皇の時代・・・養老四年(720年)4月21日に完成しました。

そんな『古事記』&『日本書紀』は、ともに地の始まりから神々が誕生し、地上へと降臨・・・その神々の系譜が現在の天皇に受け継がれるまでの事がまとまられていますが、文体や対象年代、内容のはしょり方で、それぞれ違う目的があったものと思われます。

『古事記』は、神話の時代の出来事を物語風に書くことに重点を置き、その文体は、日本語を漢字の音で表す、いわゆる万葉がな・・・この事から、『古事記』は、国内向けに天皇家の正統性を記した物と言われています。

一方の『日本書紀』は、出来事を時系列で表す中国の歴史書にならった構成で、しかも文体は漢文・・・なので、コチラは外国に読まれる事を想定して記した日本の歴史の紹介といった感じでしょうか。

ただし、『日本書紀』によれば、
「推古天皇二十八年(620年)に、聖徳太子蘇我馬子(そがのうまこ)によって編纂されたとされる『天皇記』『国記』の方が、もっと古い史書であったが、皇極天皇四年(645年)に起こった乙巳(いつし)の変(6月12日参照>>)で燃えてしまった」
という事で、それまでの歴史書を再編=リニューアルした事になってます。

そうです。
以前、書かせていただきましたね。

「天武天皇から日本の歴史が始まる」と・・・(2月25日参照>>)

実は、それまで大王(おおきみ)と呼ばれていたこの国の王を「天皇」と称するようになったのも、対外的に(わ)と呼ばれていたこの国を「日本としたのも、天武天皇の時代とされています。

そんな天武天皇が、歴史書の編さんを・・・

つまり、天ができ、地ができ、そこに出現した神々が国を造り・・・そんな偉大な神々の血を引くのが天皇であり、だからこそ、この国を治めるのにふさわしいのである!

と、現天皇の統治を正統化し、それを国内外に向けて発信するのが、記紀の最大の目的と言えるかも知れません。

注目したいのは、神々からの直系で初代天皇とされる神武天皇・・・

記紀の編さんを命じたのが天武で、初代の天皇が神武・・・しかも、その神武天皇の御名は神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

この「いわれびこ」という名前が、皇がいかにして大和(奈良県)で即位する事になったのか?という謂われ=由来を物語る役割をしている人物という事なのではないか?との解釈もできなくもない・・・

そして、そんな由来を示す神武天皇が、かの天武天皇と、けっこうなキャラかぶり・・・

実は、神武天皇は、東征の際、一旦難波から上陸するも、長髄彦(ナガスネヒコ)に敗れ、大きく迂回してから大和を目指しますが(2月11日の中盤参照>>)、天武天皇も壬申の乱の時に、大きく迂回をしてから近江(滋賀県)を目指しています(6月25日参照>>)

また、途中の熊野でピンチになった時、神武天皇は天照大神(アマテラスオオミカミ)の使いとされる者に助けられたとされていますが(同上>>)、天武天皇も決戦に挑む前にアマテラス=太陽神を遥拝(ようはい・はるかに拝む事)しています(同上>>)

これは、天武天皇が勝利を願って、初代の神武天皇と同じ行動をした・・・というよりは、その反対で、天武天皇が勝利した壬申の乱の時にとった行動を、神武天皇にさせる事で、わざとキャラをかぶらせる・・・

つまり、神様の直系で、最初の天皇になった偉大な人物と、天武天皇をダブらせる事によって、天武天皇がいかに偉大で正統性があるかを見せつけるといったところでしょうか。

ゆえに、記紀神話は、天武天皇の系統の天皇が、日本という国を統治するために作成された作り話として、教科書には、その成立は載っても、物語の内容が載る事は、ほとんどありません。

しかし、これを、まったくの作り話として一蹴してしまって良いのでしょうか?

・・・というのは、記紀の違いで、個人的に最も気になる個所・・・出雲神話のくだりです。

『古事記』では、須佐之男命(スサノヲノミコト)の6代目の孫として登場し、『日本書紀』では素戔鳴尊(スサノヲノミコト)の子として登場する大黒さん事=大国主神(オオクニヌシノカミ)・・・

ブログにも書かせていただいた様々な試練を受けて成長していく話(12月21日参照>>)や有名な因幡の白ウサギの話で、出雲神話の主役とも言えるのが、このオオクニヌシ・・・

しかし、上記のお話は『日本書紀』には登場しません。

もちろん、この後に、アマテラスの孫・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)が降臨する前に、これまで治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに・日本の事)を、その天孫に譲るという「国譲り」のシーンでは、オオクニヌシは登場しますが・・・

私は、この違いを、対外的にはある程度スルーできる話だが、国内的にはスルーする事が不可能だった話と考えているのですが・・・

なんせ、このオオクニヌシは、天孫が来る以前に、この日本を統治していた別の国の王・・・本来なら、できるだけオオクニヌシを小者扱いしてスルーしたかった話じゃなかったのかな?と思います。

しかし、この話は、国内ではすでに有名な言い伝えとなっていたため、国内的に発信する『古事記』で、その話をはしょると、いかにも作り話的になってしまうので、一応載せた・・・

でも、対外向けに発信する『日本書紀』には、いらない話として排除したって事だと・・・

もし、そうなら、これと同じような扱いをされているお話が、まだいくつか存在するのでは?

一見、天武天皇を正統とするための作り話・・・しかし、そこには、末梢したくてもしきれなかった本当の歴史が散りばめられている・・・

しかも、対外向けと国内向けにはしょり方、散りばめ方を変えてある・・・

今残る記紀神話の中で、どこが本当なのか?
また、なぜ、その部分を残したのか?
また、隠したい部分は何だったのか?

それらを推理する事で、神代の頃の歴史が浮かび上がると同時に、成立した時代の歴史も読み取れる・・・

まさに、点と線を結ぶ推理・・・わくわくしますね(*゚▽゚)ノ
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2011年3月16日 (水)

敵も時代も恨まず…今川氏真の後半生

 

天正三年(1575年)3月16日、今川氏真が上洛し、京都相国寺で織田信長と対面しました。

・・・・・・・・・・

海道一の弓取りとうたわれた父・今川義元が、あの桶狭間に倒れたのは、永禄三年(1560年)5月19日(2007年5月19日参照>>)・・・嫡男・今川氏真(いまがわうじざね)23歳の時でした。

相手はご存じ織田信長・・・当時は、未だ自国の領土さえ統一しきれていない一武将でした。

一般的には、この父の死後に氏真が、その家督を継いだとされていますが、最近の研究では、すでにこの時には家督を譲られていた可能性が高いと言われていて、もし、そうだとすると、桶狭間で死んだ義元は、すでに隠居の身であるのですから、今川家当主の氏真が健在な以上、そのまま、普通に領国経営を全うできるはずです。

しかし、そうは問屋は卸さない・・・いや、群雄割拠の中で生き抜いて来た周囲の古ダヌキたちがほっとかない!

ご存じのように、名門=今川家は、この義元の死を境に衰退の一途をたどります。

一説には、氏真には、受け継いだ今川の領地を束ねて行けるほどの器量が無かったとか、蹴鞠(けまり)や和歌などにうつつをぬかし、武将としての鍛錬をおろそかにしていたとか言われますが、果たして、本当にそうでしょうか?

歴史は勝者が造るもの・・・この鉄則で行けば、これらの記録は、後に勝者となる織田やら徳川やら武田やらといった人たちの言い分であって、その中には、ほとんど氏真側の言い分が入っていないわけですから、その事を踏まえて、かなり氏真寄りに物ごとを考えてみてはいかがでしょうか?

まずは、領国を束ねていく器量の問題ですが・・・
これは、ある程度仕方ありません。

確かに義元はスゴイ武将で、父ほどのカリスマ性を氏真は持っていなかったかも知れませんが、これは氏真だけではなく、偉大な父を持った者は誰でもそうです。

問題は、家督を譲られた後に、父の影を払拭できるかどうかですが、それには、いくら後継者が頑張っても、多少の時間がかかります。

しかし、上記の通り、氏真が家督を譲られていたかいないかが論議になるほど、短い時間の中で父・義元は死んでしまい、その直後から、チャンスとばかりに周囲の敵が動き始めるのですから、領国を束ねようと奔走する時間すらも、氏真にはなかった事でしょう。

これなら、本人の器量もクソもありません。

こんな時、父の代からの有能なブレーンや軍師がいたら、ずいぶんと助かるもので、現に、父の義元に時には、母親の寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)太原崇孚たいげんすうふ雪斎)という強い味方がいました(6月10日参照>>)、氏真には、そのような補佐役はいませんでした。

今川の領国と言えど、未だ群雄割拠の戦国真っただ中では、朝比奈氏岡部氏など、それぞれの領地を任された重臣たちによる今川組合のような状況ですから、カリスマ的なリーダーがいなくなれば、チャンスとばかりに独立を考える者も出てくるわけで、そうなると、寄り合い的な集団は、またたく間に崩れてしまうわけです。

そんな最初の離反者となったのが、ご存じ徳川家康です。

当時、松平元康として、今川で不遇の人質生活を送っていた家康が、この桶狭間を機に独立したお話は、すでに書かせていただいていますが(2008年5月19日参照>>)、この不遇の人質生活というのも、家康の言い分です。

確かに、自宅で幸せな生活を送ってるのとは違いますから、ある程度制限された生活だったでしょうが、どこまで不遇だったかは、本人しかわからないし、本人が「不遇だった」と言えば、そうなるのは致し方ないです。

ただ、現在の私たちが「人質」と聞くと、なにやら、親子が引き裂かれて無理やり連れて行かれるというような印象がありますが、そもそも、この人質は、家康の父・広忠の判断で決定した同盟関係の証なわけです。

絶えず隣国=尾張(愛知県西部)織田信秀(信長の父)からの脅威にさらされていた小国の三河(愛知県東部)が、この乱世に生き残るために、大国=駿河(静岡県東部)の今川の保護を受ける・・・これは、幼い家康の心情はともかく、広忠の政策の一環だったわけで、そうしなければ、父子もろとも織田に倒されるだけなのです。

とは言え、保護国なら保護国として、常にその独立を夢見るもの・・・義元の死を絶好のチャンスとみた家康は、今川を離反するなり、かつての敵国=尾張の信長と同盟を結びます。

これには、今川傘下だった遠江(とおとうみ・静岡県西部)の武将に動揺が走ります。

これまで、今川の領地だと思っていた自分たちの西側の三河が、いきなり敵国の尾張と手を結んだわけですから・・・

もちろん、氏真もただ黙ってるわけもなく、離反しそうな武士を押さえつけて、なんとか遠江の武将を落ちつかせようとしますが、そこに間髪入れず登場したのが、甲斐(山梨県)武田信玄です。

実は、信玄は、義元健在の頃には『甲相駿三国同盟』(甲=甲斐・相=相模・駿=駿河)を結んでいます。

それに伴って、信玄の姉が義元に嫁ぎ、氏真の妹が信玄の長男・義信に嫁ぐという姻戚関係も結んでいました。

なので、今回、今川を攻めるにあたっては、嫁さん大好きで進攻に反対する義信を死に追いやって(10月19日参照>>)までの参戦・・・

しかも、密かに家康と『遠駿分割の密約』=大井川から西の遠江は家康で、東の駿河は信玄が貰う・・・てな事で、協定を結んでいたのだとか・・・『浜松御在城記』によれば、織田信長が二人の仲介役になったとの事)

こうして永禄十一年(1568年)12月・・・家康と信玄は一致協力して今川領への進攻を開始するのです。

それは・・・
信玄が進攻して来た12月12日:薩埵峠の戦い>>
本拠地を巡っての12月13日:今川館の攻防戦>>
逃れた氏真を家康が攻める12月27日:掛川城・攻防戦>>
と、まさに北と西からの挟み撃ち・・・

やむなく氏真は、掛川城を開城し、未だ唯一の味方である北条氏康を頼って相模へと逃走したのです・・・ここに戦国大名としての今川は滅亡しました。

とは言え、完全に武田寄りのあの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)でさえ、氏真の悪口を書き連ねながらも、「心は剛にてまします」と、武将として才覚を褒めている事を踏まえれば、蹴鞠や和歌などにうつつをぬかしてばかりではなく、なかなかの剛の者であった可能性大・・・

ただ、さすがの氏真も、ブレーンもいない中で後を継ぎ、すぐさま傘下の家康が独立して同盟者の信玄が裏切れば、もはや、どうしようもなかったというところでしょうか。

かくして、北条を頼って、一時は小田原城にいた氏真ですが、氏康が亡くなると、その息子の氏政は、武田と同盟関係を結びます。

この事で、小田原にいづらくなった氏真は、伊勢を目指して船出しますが、風向きの関係で、一旦、浜松に上陸・・・そこで、かの家康に
「チョコッとだけ、いさせてちょー」
と頼むと、家康が快く応じたため、今度は、家康の保護を受ける事に・・・

一説には、あの掛川城の開け渡しの時に、
「今度は、俺が、武田から駿河を奪うよって、その時には、あのへんは、今川さんに返しますから・・・」
てな、家康との密約があったとも・・・(だから、やさしく保護したのかもネ)

とにもかくにも、徳川の下で生き残る事ができた氏真・・・

この後の人生の後半を、武将としてではなく、芸を磨きながら送っていく事になるわけですが、そんな中で、蹴鞠や和歌が全国でも指折りの腕前と言われた氏真は、京都の公家たちと交わるべく上洛・・・

天正三年(1575年)3月16日に、あの信長と対面したのです。

もとはと言えば、あの桶狭間が事の始まり・・・この時、信長は家臣たちに命じて、氏真と蹴鞠させて、それを見物したと言いますが、氏真の心境は、いかばかりであったでしょうか。

さぞかし、ツライ・・・と思いますが、そんな彼の心が垣間見える辞世が残されています。

♪なかなかに 世をも人をも 恨むまじ
  時にあらぬを 身の科
(とが)にして ♪
♪悔しいとも うら山し共(とも) 思はねど
  我世
(わがよ)にかはる 世の姿かな ♪

今川の領地を守り切れなかったのは自分自身の才覚のせい・・・
うらめしいとは思わない・・・きっと、これが新しい時代なんだ~

この辞世を聞く限り、この後の江戸時代=徳川幕府の世を、儀礼を重んじる高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として生き残る子孫たちに受け継がれた、高貴でしっかりとした戦国武将としての氏真の姿を思い浮かべます。

取ったり取られたりの世界では、恨みごと一つ残さず、すべては大将たる者の責任・・・

何かあれば、やれ、「アイツが悪い」の、「誰々が憎い」のと、恨みつらみを言いまくる昨今の大河ドラマ・・・どうも、私が個人的に、最近の大河ドラマに馴染めないのは、そんなところにあるのかも知れません。

戦国時代の長たる者は、男でも女でも、しっかりとした責任感を持ち、たとえ負け組になったとしても、運命に屈しない心意気を持っていた人たちだったと思えてなりません。
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2011年3月15日 (火)

鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一

 

天正五年(1577年)3月15日、織田信長雑賀攻めを行い、鈴木孫一ら雑賀衆が和睦しました。

・・・・・・・・・・・

10年以上の長きに渡って、織田信長との抗戦を続けた第11代・法主=顕如(けんにょ)を中心とする石山本願寺・・・(11月24日参照>>)

あの信長が、意外にも苦戦を強いられた根底には、「戦って死ねば極楽往生できる」と信じて疑わない熱狂的な信徒による、死をも恐れぬ戦いぶりがあったわけですが、もう一つ、そこに協力した武装集団の存在も大きかった事でしょう。

その一つが、本願寺門徒が籠城する石山本願寺(現在の大阪城も場所)に、兵糧を送り込む村上水軍に代表される毛利配下の水軍・・・

第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)で、彼らにしてやられた信長は、あの鉄甲船を造り(9月30日参照>>)、2度目の海戦=第二次木津川口海戦(11月6日参照>>)に挑んでいます。

そんな水軍とともに本願寺の武力を支えたのが、雑賀(さいが・さいか)大量の鉄砲と、それを巧みに操る射撃技術でした。

雑賀衆というのは、紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・当時の紀州(和歌山県)には、一応、畠山氏という立派な守護がいたわけですが、こうした土着の人々の勢力が大変強くなり、もやは守護も名ばかり・・・高野山根来(ねごろ)といった宗教勢力や、雑賀衆のような勢力が、それぞれに自治をする無政府状態のようなものでした。

・・・で、そんな紀州で雑賀衆が支配していたのが、雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)といった場所で、現在の和歌山市から海南市あたりが、そうだったようです。

とは言え、この雑賀衆も、揺るぎない鉄の集団とは言い難く、いくつかの集団に分かれていたようです。

そこには、上記の地域の中でも、農業に適した土地で、その生産力によって経済基盤が確立されていた場所と、そうでない場所があった事で、多少なりの亀裂が生じていたのです。

それで、農業に適さない地域の人たちは、その収入源を交易で得るという方法とり、遠く中国にも出掛けて行ったのだとか・・・

そのおかげで、造船技術は水軍となれるまでに発達し、いち早く鉄砲に着目する事にもなり、自力で鉄砲の生産をするとともに、幼い頃から、その扱い方を学ぶようにもなったのです(7月8日参照>>)

そんなプロの鉄砲集団に目をつけたのが本願寺顕如・・・

そして、これまで雑賀衆と言えば、土橋平次(つちはし・どばしへいじ土橋家であったのが、この石山合戦において、一躍、名を挙げてくるのが、ご存じ、鈴木孫一(まごいち・重秀)です。

様子見ぃの和睦が破られた天正四年(1576年)5月3日・・・あの天王寺合戦に登場した雑賀の鉄砲集団は、本願寺の敗色が濃くなった中にて数千挺の一斉射撃を行い、戦況を逆転させたのだとか・・・(5月3日参照>>)

この5月3日だけでなく、しばらくは砦や城戸を取ったり取られたりする天王寺合戦は、信長方も本願寺派も、双方に勝利を主張する合戦で、その勝敗は明らかではありませんが、もちろん、この時に雑賀衆を率いていたのが孫一だったわけで、このあたりから、信長も、そして、世間一般も、雑賀衆の大将は孫一という認識ができて来ていたようです。

・・・というのも、この戦いで勝利したと主張する信長側は、孫一の首下間頼廉(しもま・しもつまらいれん)の首を討ち取ったとして、京都でさらし首にして、それが大評判となったという事があったのだとかで・・・

もちろん、本当は孫一も頼廉も生きていたわけで、ニセのさらし首をおっ立てて、信長勝利の宣伝に使ったという事なわけですが、当時の公家の日記にも、「大坂の左右の大将」として孫一と頼廉の名が見えるところから、やはり、この時点で、それほどに、孫一の名が有名になっていたという事なのでしょう。

その頃の雑賀に、いったいどれほどの鉄砲と、その使い手が存在したのかはよくわかりませんが、その後も、本願寺顕如は、500・1000といった単位で、度々鉄砲衆の救援を求めたりしていますので、おそらくは、相当な数のプロスナイパーがいたものと思われます。

そんな彼らに対して、信長が脅威を抱かないはずはありません。

「雑賀の鉄砲集団を倒さなければ、石山本願寺には勝てない!」と考えるのは当然の事・・・

Saigazeme
信長の雑賀攻め・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正五年(1577年)2月22日、先に手をまわして、孫一の十ヶ郷とは仲良くない宮郷・中郷・南郷の3郷の雑賀衆の大部分を味方につけた後、もともと信長寄りだった根来衆の協力も取り付けた信長は、10万ほど(これは盛りすぎ)の大軍を率いて紀州に攻め込んで来たのです。

その大軍を2手に分け、海側&山側の両方から織田軍は進撃を開始・・・まずは海側を行く浜手が孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、雑賀方の中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を、さらに平井城(ひらいじょう=同和歌山市)へと迫ります(浜方の戦いぶりは:2月22日参照>>)

一方の孫一は、数千ほどだったとか・・・

しかし、彼には秘策がありました。

内陸を進む織田軍の山方を迎え撃つべく、本願寺紀州御坊のあった和歌浦(わかのうら)近くの弥勒寺山(みろくじさん)の山頂に、城や砦を築いた孫一は、眼下を走る和歌川に策を講じます。

この和歌川は、比較的底の浅い川・・・
「おそらく、信長軍の先鋒は一気に馬で川を渡って攻め込もうとするに違いない」
と考えた孫一は、その川底に無数の桶を埋め込んだと言います。

案の定、一気に突入しようとした信長勢・・・見た目が浅い川であるはずなのに、川の中ほどまで来ると、なぜか馬の足が取られて前へと進めない・・・そうなると、もちろん、後続の騎馬隊も、そこで渋滞するしかないわけで・・・

そこに、軍扇を開いて、「撃て!撃て!」小躍りしながら叫ぶ孫一・・・プロ集団に狙い撃ちされた騎馬隊は、次々と鉄砲の餌食になったと言います。

『信長公記』によれば、この他にも孫一は、馬防柵(まぼうさく・馬よけの柵)も構築していたとか、
『陰徳太平記』では、あの鉄砲の3段構えも行っていたとか、と言われるほどよく戦った孫一の雑賀衆・・・

しかし、さすがに数の違いは歴然・・・孫一側にもかなりの犠牲者が出て、もはや時間の問題かと思われたところ、一帯には、「毛利軍が救援に駆け付け、後方から信長軍を挟み撃ちにする気配がある」との噂が流れます。

さすがの信長も、そうなってはマズイとばかりに、孫一側に和睦を持ちかけ、孫一もそれを承諾・・・天正五年(1577年)3月15日今回の戦いは、引き分けという事になりました。

その夜には、信長方、孫一方、両方が「勝利した」として、その美酒に酔ったとか・・・

合戦で負傷した孫一は、痛い足を引きずりながらも、大喜びで踊ったとされ、それが、現在、紀州東照宮和歌祭(5月第2日曜)で継承されている雑賀踊りなのだとか・・・

とは言え、あのルイス・フロイス『イエズス会日本年報』には、「信長は2回雑賀を攻めて2回とも失敗した」との記述もあり・・・この1日だけでなく、信長VS孫一の戦いは、まだあったのかも知れません。

なんせ、この後も、孫一は、本願寺に味方して戦っていますから・・・

孫一が、信長の家臣となるのは、その本願寺顕如が信長と和睦して、石山合戦が終結してから・・・しかし、その後、1年と経たないうちに、信長が本能寺に倒れてしまったために、孫一の運命も大きく変わります。

結局、わずかの仲間とともに故郷を脱出する事になりますが、それからのお話は、5月2日
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】でどうぞ>>
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2011年3月11日 (金)

足利相手に戦う天皇…第97代・後村上天皇

 

正平二十三年(応安元年・1368年)3月11日、第97代後村上天皇が、41歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

第97代というよりも、南朝2代と表現した方が、その時代背景がわかりやすいでしょうか。

そうです。
あの鎌倉幕府の滅亡(5月22日参照>>)後、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を持った武士の代表=足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗をひるがえし、泥沼となった南北朝時代に、父=後醍醐天皇の皇位を受け継いだ第9皇子=憲良(のりよし・義良)親王が、後の第97代後村上(ごむらかみ)天皇です。

一説には同母兄の恒良(つねよし)親王(3月6日参照>>)が、一旦、後醍醐天皇の皇位を継いでいたものの、足利方に捕えられて毒殺された(太平記)とも言われますが、現在の天皇系図に恒良親王の名は無く、96代の後醍醐天皇の次に97代の後村上・・・となっています。

真偽はともかく、そのような話が浮上して来るという事実だけを見ても、いかに、この天皇が波乱に満ちた時代を生きて来られたかが想像できるというものですね。

Gomurakami600 そんな憲良親王の波乱は、建武の新政直後の、わずか6歳の時から始まります

未だ残る北条氏の残党を討伐する事、そして、未だ中央の力の及んでいない東北の地の武士たちを傘下に治める・・・という二つの目的で、憲良親王が奥州多賀城へ入ったのは、建武の新政から約1年後の建武元年(1334年)5月でした。

つき従うのは北畠親房(きたばたけちかふさ)顕家(あきいえ)父子・・・北畠氏村上源氏の流れを汲む家系で、後醍醐天皇の参謀的存在でもあり、この時は、長男の顕家が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた事を受けて、父子ともども後村上天皇を奉じて下向し、この後は東国経営に当たるはずでした。

しかし、どうにもこうにも、京都の情勢が安定しない・・・案の定、翌・建武二年(1335年)に尊氏が反旗をひるがえし、京へと迫ります(12月11日参照>>)

やむなく、憲良親王は、北畠父子とともに京へととって返し、新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに足利軍を撃破!!・・・再度の入京を試みる尊氏を蹴散らして九州へと追いやりました(3月2日参照>>)

そして、再び多賀城へと帰還しましたが、その間に、九州で力を蓄えた尊氏が東上し湊川の戦い(5月25日参照>>)で新田・楠木軍を破り、京都を制圧してしまいます。

北国へと落ちた義貞も討たれ(7月2日参照>>)、比叡山へと逃れていた後醍醐天皇も京にて幽閉され・・・しかし、わずか1カ月後に京を脱出した後醍醐天皇は、吉野の山中にて南朝を開きます(12月21日参照>>)

やがて延元二年(建武四年・1337年)に、多賀城が襲撃の危機にさらされた憲良親王らは、霊山(りょうざん・福島県伊達市&相馬市)に退いて難を逃れた後、各地を転戦しながら、再び京都を目指します。

鎌倉美濃(岐阜県)で足利軍に勝利しつつ伊賀から伊勢へ・・・途中、未だ21歳の伸び盛りの顕家を失うという痛手を被りながらも、延元四年(暦応二年・1339年)3月、父=後醍醐天皇のいる吉野行宮(あんぐう・仮の宮廷)に入りました。

その5ヶ月後の8月15日に、父から皇位を譲られ、南朝の2代目・後村上天皇として即位した憲良親王ですが、父の後醍醐天皇は、その翌日に52歳の生涯を閉じます(8月16日参照>>)

その死に際は、左手に法華経第五巻を持ち、右手には剣を持って・・・
「玉骨は、たとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は、常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
との言葉を残したのだとか・・・

「その魂は常に北を・・・北朝をにらみ続ける」
それは、まさに、後村上天皇に託された父の願いでした。

わずか12歳ながら、父の思いを受け取った後村上天皇は、畿内の寺社や武士たちに精力的に綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を発し、南朝へのお誘いをかけまくります。

しかし、圧倒的兵力を持つ北朝・・・正平三年(貞和四年・1348年)には、高師直(こうのもろなお)に吉野を攻められ、紀州(和歌山県)へと逃れたりもしますが、正平五年(観応元年・1350年)、チャンスがやってきます。

北朝内の内部分裂観応の擾乱(かんのうのじょうらん)です(10月26日参照>>)

ここまで、二人三脚で見事な関係を築いていた兄・尊氏と弟・直義(ただよし)の仲に亀裂が生じ、まずは弟の直義が南朝に降伏し、その次に兄の尊氏が南朝へと降りますが、その頃には直義が北朝で・・・と、なにがなんだかワカランややこしい状態なので、くわしくは上記ページで↑見ていただくとして・・・

とにかく、関東へと逃げた弟・直義を討伐すべく東へ向かった尊氏に代わって、京都の守りを任されたのは、尊氏の息子の義詮(よしあきら)・・・。

すでに23歳の青年に成長していた後村上天皇・・・このドサクサにまぎれて京都奪回を目指します。

正平七年(文和元年・1352年)閏2月20日・・・南朝方の楠木正儀(まさのり・正成の三男)北畠顕能(あきよし・親房の三男)は、結ばれていた和睦を破り、義詮へのいきなりの攻撃!!

不意を突かれた形となった北朝方は乱れに乱れ、七条大宮の戦い細川頼春(よりはる・後の管領家の祖)が戦死するなど、大きな痛手を被って敗退・・・義詮は近江(滋賀県)へと逃れました。

なんと、南北朝の分裂以来、初めて南朝が、都=京都を制圧したのです。

この間に、山城男山(京都府八幡市)に本拠を遷していた後村上天皇・・・北朝に担がれていた光厳(こうごん)上皇(北朝1代天皇)光明(こうみょう)上皇(北朝2代天皇)崇光(すうこう)上皇(北朝3代天皇)の3上皇と、皇太子の直仁(なおひと)親王男山に連行します。

同時期には、あの義貞の遺児・新田義興(よしおき)関東にて挙兵していて(2月20日参照>>)、思えば、北朝最大のピンチでしたね。

しかし、潜伏先の近江にて勢力の回復を図る義詮・・・そこには、佐々木道誉(ささきどうよ)細川顕氏(あきうじ・頼春の同族)土岐頼康(ときよりやす)斯波高経(しばたかつね)など、名だたる面々が集まり、3月15日には京都に入り、その後、後村上天皇のいる男山を包囲します(3月24日参照>>)

ここで注目したいのは、上記のような剛の者に囲まれた男山で、総大将となっているのは後村上天皇・・・にも関わらず、意外に北朝が苦戦するという展開・・・

そう、この後村上天皇・・・戦う天皇だったんですね。

その守りの固さに、やむなく籠城戦へと持ち込む北朝方・・・とは言え、その籠城が1ヶ月・2ヶ月と続くと、飢えの苦しさから、北朝へと寝返る者も・・・

やがて、籠城の限界を感じて意を決した後村上天皇は、わずかの側近を連れて男山を脱出・・・見事、北朝の包囲網を破って河内(大阪府)へと逃れます。

しかも、あの3上皇と皇太子に加え、三種の神器をも手離さぬままの脱出でした。

おかげで北朝側は、神器なし上皇の指名なし=法的根拠のいっさい無い後光厳(ごこうごん)天皇を即位させる(1月29日参照>>)という前代未聞の珍事をせねばならなくなり、戦力こそ、南朝より北朝が勝っていたものの、その権威はかなり落ちてしまったのです。

もちろん、これは、朝廷を立てて幕府を開いているという北朝の大義名分を奪ってしまおうという後村上天皇作戦・・・お見事でした。

その後も、何度となく起こる南北朝のせめぎ合い・・・もはや兵力では到底かなわないにも関わらず、強行姿勢を崩さない後村上天皇・・・

正平二十一年(貞治六年・1366年)の4月には、一度、和睦の話が持ち上がった事があり、後村上天皇は、自らの綸旨を勅使(ちょくし・天皇の使者)に持たせて、義詮のもとに派遣しますが、この綸旨の中に「降参」の文字が入っていたために、この時の交渉は決裂してしまいます。

そう、義詮は、あくまで南北朝の合体という形での和睦を計りたかったのですが、後村上天皇は、あくまで北朝の降参による和睦を主張したのです。

一旦決裂した後でも、義詮は、度々、吉野に使者を派遣して「合体」のお誘いをするのですが、後村上天皇が、その姿勢を変える事はありませんでした。

そんな天皇は正平二十三年(応安元年・1368年)3月11日摂津(大阪府)住吉の行宮で、41歳の生涯を閉じました。

自ら戦闘する天皇・・・その一方では和歌や書道の才能に長け、琵琶や琴も得意だったという芸術家の一面も持つ後村上天皇・・・

ひょっとしたら、父の後醍醐天皇同様に、その魂は北朝を睨み続けていたままだったのかも知れません。
 

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2011年3月10日 (木)

準備万端!北条時宗の元寇防塁

 

建治二年(1276年)3月10日、鎌倉幕府が、蒙古の再来に備えて、博多湾の海岸に石塁を築かせました。

・・・・・・・・・・

鎌倉時代最大・・・いや、日本の歴史上に残る国家の危機と言える蒙古襲来=元寇です。

同族同士の争いに討ち勝ち、モンゴルの第4代皇帝となったフビライ・ハーンは、都を大都(だいと・現在の北京)に遷して、国号を大元(だいげん・元)と改め、自らの国家を中華帝国の後継と位置づけました。

そんな元にとって南宋(なんそう・淮河以南の地域)の征服は悲願でもあったわけですが、当時、その南宋と友好な関係にあったのが日本でした。

そして、高麗(こうらい・朝鮮半島の国)国王を服属させたフビライが、その後の南宋征服の一環として、日本を臣下に置こうと考えるのは当然の事かも知れません。

フビライは、日本に対し、7回に渡って、「服属せんかい!」てな高圧的な国書を送りつけてくるわけですが、国家始まって以来とも言える外国勢力の侵略行為に、対処すべき方法を模索していたのか?、結局は、まともな返事すらしなかった日本・・・

そこで、起こったのが、
文永十一年(1274年)10月5日の対馬襲撃に始まり(10月5日参照>>)、その4日後に博多湾侵入をした文永の役1回目の蒙古襲来です(10月19日参照>>)

・・・で、ご存じのように、この時は神風が・・・
と言いたいところですが、大船団がいきなり姿を消したとされる10月21日は、現在の暦に換算すると11月26日・・・

気象学上、この時期に台風なみの暴風雨はなかなか考え難いのだそうです。

しかも、もし、暴風雨での被害なら、船の残骸が湾内に散乱しているはずだし、水死体もかなりの数になるものと思いますが、そのような記録も見当たらず・・・

わずか1隻が志賀島(しかのじま)で座礁していた他は、すべてが忽然と博多湾からいなくなっていたという事で、現在では、「暴風雨も多少はあったかも知れないけれど、基本的には、元軍は、何らかの理由で、自ら撤退した」という考え方が主流となっています。

とは言え、アチラの記録によれば、その後1ヶ月もかかって、やっと高麗の港にたどりついた船団は、出発時の3分の1の兵士を失うという惨憺たる結果だったとなっていますので、やはり、何かあったのかも知れません。

とにもかくにも、一度目は死守した鎌倉幕府・・・

その後、元は、南宋の攻略を本格化させたため、日本への対処法は外交交渉へと変わり、そこで送られて来た使者が、杜世忠(とせいちゅう)をリーダーとした使節・・・

ところが、です。
元側から見れば、「文永の役で自分たちの強さを見せつけておいて、これからは交渉で」と思って派遣した使節団でしたが、日本側から見れば、「文永の役では、向こうが勝手に撤退しただけで、未だ抗戦中」の段階・・・

Houzyoutokimune600 そんな勝手な交渉には応じられないとばかりに、時の執権・北条時宗(ときむね)は、この使者たちを惨殺し、徹底抗戦を宣言したのです(9月7日参照>>)

これが建治元年(1275年)9月7日の出来事でした。

ここから、蒙古の再襲来に向けての準備が開始されます。

その中には、先手を取って、元軍の最前線基地である高麗を攻めるという計画もあっのだのだとか・・・

上陸して前線基地を破壊した後、海岸線に要塞を構築して制海権を確保するとい風な戦略だったとも言われますが、結局は、その計画は実施されませんでしたし、そもそも、当時の造船技術で外征ができたかどうかという疑問もあり、まだまだ研究の余地がありそうです。

そんな外征策は謎ではありますが、一方の再襲来に備える沿岸防備という物は確実に行われました。

それが建治二年(1276年)3月10日に始まった防塁の建設です。

鎮西奉行少弐経資(しょうにつねすけ)の指揮のもと、九州の御家人の中から選ばれた異国警固番役を中心に、博多湾に入った敵を水際で食い止めるべく、沿岸部に構築された石積みの防塁・・・

それは、高さ3m、幅約1~2m、総延長20kmにも及ぶ長大な物でした。

当時は「石築地(いしついじ)と呼ばれていたらしいこの防塁・・・現在も、福岡タワー近くの西新百道防塁、JR筑肥線・下山門駅近くの松原防塁、同じく今宿駅の北にある今宿防塁、さらに北の糸島半島にある今津防塁など、いくつか残っているようです(スミマセン、まだ私は、この目で確認してません(*_ _)人 )

写真など見させていただくと、海側・・・つまり敵がやって来るほうの斜面は、急な、いわゆる、お城の石垣のような造りになっていますが、陸側は、ゆるやかな斜面になっているようです。

もちろん、これは、日本側の兵士は、馬に乗って防塁の上から見下ろすように対峙できるし(弓も射られる)、逆に、敵側は、わずか3mであっても、馬では登れないわけで、まさに、騎馬民=元に対する、最も有効な防御方法と言えますね。

さらに、当時なら、おそらく、見渡した一帯すべての海岸にこのような設備があるとなると、その準備万端ぶりが相手にも伝わり、見た段階で威嚇する効果もあったでしょうね。

実際に、1回目の文永の役では、博多上陸を許してしまった幕府も、この後に起こる2度目の襲来=弘安の役では、その上陸さえ許さなかったところを見れば、やはり、それなりの効果があったという事でしょう。

さらに時宗は、防塁以外にも、先の文永の役で活躍した御家人に恩賞を与えて、その士気の高まりを誘発したり、直属の北条一門を西国へ送りこんで、指揮命令系統を揺るぎない物にしたり・・・と、着々と準備を行います。

かくして弘安四年(1281年)6月6日・・・再び元軍が博多湾に侵入し、弘安の役!!
となるのですが、その前半のお話は、6月6日【第2次蒙古襲来~弘安の役】でどうぞ>>
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2011年3月 9日 (水)

負けるたびに強くなる…浅井亮政の底力

 

大永三年(1523年)3月9日、近江大吉寺梅本坊で行われた京極高清の後継者会議をきっかけに、浅井亮政らが京極氏に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・

おそらくブログ初登場の浅井亮政(あざいすけまさ)さん(名前くらいは出てたかも(゚ー゚;)・・・

ご存じ、北近江(滋賀県北部)にその名を誇った戦国大名の浅井氏は、この人から・・・今年の大河ドラマの主役=お江さんの父=浅井長政おじいちゃんですね。

『浅井三代記』によれば・・・

若き日の亮政は、
「戦国の乱世で次々に入れ替わる権力者・・・しかし、その誰もが、権力さえ握れば、困窮にあえぐ民衆の事なんかそっちのけで、その栄華に酔いしれ、自らの利益しか考えず、政治は乱れるばかり・・・

傾く一方の国を、いつかその掌中に治め・・・いや、せめて、一国一城の主(あるじ)となって、主君を補佐しながら政治に関与できる立場になりたい」
と、霊験あらたかな浄信寺(じょうしんじ・滋賀県木ノ本町)大地蔵菩薩に度々祈願していたのだとか・・・

その主君というのは、冒頭に書かせていただいた京極氏です。

京極氏は、鎌倉時代以前から近江に根を張る近江源氏(おうみげんじ)と称された佐々木氏の流れを汲む近江守護の家系・・・浅井氏は、その京極氏に応仁の乱以前から仕えていた譜代の家臣根本被官(こんぽんひかん)でした。

亮政は、そんな浅井氏の、さらに分家の出身でしたが、本家の浅井直政の娘・蔵屋(くらや)の婿となり、何とか出世の糸口をつかみ始めます。

そんな時期に起こったのが京極氏の後継者争いでした。

当時の京極氏の当主は、京極高清(きょうごくたかきよ)という人物でしたが、この高清が、なぜか長男高広(たかひろ・高延)を嫌い、次男(養子説あり)高慶(たかよし・高吉)に後を継がそうとした事から、戦国前半期=群雄割拠時代おなじみの後継者争いが勃発するのです。

次男の高慶を推すのは、
もちろん父の高清と重臣の上坂信光(こうさかのぶみつ)ら、
一方の長男=高広を推すのは、
近江の国人衆の浅見貞則(あさみさだのり)を筆頭に、その浅見氏や、三田村氏などの国人衆・・・

京極氏が真っ二つに分かれてしまったのです(8月7日参照>>)

そこで大永三年(1523年)3月9日の近江大吉寺(だいきちじ)梅本坊での後継者会議・・・となるのですが、当然の事ながら会議は紛糾!!

・・・で、この会議をきっかけに国人たちによるクーデターが発生!・・・もちろん、我らが亮政さんは国人衆の一員として、このクーデターに参加します。

国人一揆と化したこのクーデターにより、信光は失脚し、高清らは尾張国(愛知県西部)へと逃れました。

こうして、京極氏は高広が継ぐ事になりましたが、もはや実質的な力は国人衆のほうが上・・・この後の高広は、国人衆の意のままの存在となってしまうのです。

そんな国人衆のトップは、やはり浅見氏の貞則・・・彼が一歩抜きん出ていて、その他の国人衆は、ほぼ一線で、亮政も特別目立つ存在ではありませんでした。

しかし、ここで、やはり亮政が憂いた通り・・・権力を握った貞則は、その権勢をふるいはじめ、自分たちの身内による横暴を極めていくのです。

さぁ、いよいよ亮政が頭角を現す時がやってきました。

主君・京極氏の横暴でさえ許せない彼が、少しは力が上とは言え、同じ国人の貞則の横暴を許せるはずがありません。

まずは、自分自身の足場を固めるため、天然の要害であり、かつ湖北3郡を眼下にできる険しい山麓=小谷山(おだにやま・滋賀県湖北町)城を構築し、本拠を構えます・・・もちろん、これが、あの小谷城ですよ!

かくして、クーデターから2年後、かつては敵対し、自らが尾張へと追放した高清を帰国させて旗印とし、あの信光とも連絡を取って、今度は、貞則と高広を相手に戦いに挑んだのです。

この時、亮政に味方してくれたのは、地元の国人衆・・・彼らの支持を得て、亮政の勢力は、徐々に拡大していきます。

しかし、これをヨシとしなかったのが六角定頼(ろっかくさだより)・・・六角氏は、京極氏と同じく近江源氏佐々木氏の流れを汲む南近江の守護で、むしろ、コチラが佐々木氏の嫡流・・・

京極氏より、力を持ちつつあった亮政を、そのままにしておけなかったのでしょう・・・こして始まった六角氏の関与は、亮政に同調する三田村氏の切り崩しから始まり、やがて、本拠の小谷へと進攻してきますが、ここで、決起したのが、南近江の反六角氏派の国人衆・・・

しかも、その後、美濃(岐阜県)斉藤氏までもが亮政を支援した事で、一旦は、和睦を提案した定頼でしたが、結局、それはすぐに崩れ、再びの攻撃・・・敗れた亮政は、今や主君となった高清を連れて、美濃へと逃れます。

この時、亮政らを助けようと援軍を派遣したのが朝倉氏だったとして、浅井・朝倉のなかよし関係はここに始まる・・・とも言われていますが、最近は異説もあり、今後の研究に期待したいところです。

ところで、本日の主役の亮政さん・・・実は、この後の合戦には、ことごとく負け続けます。

斉藤氏の支援を受けて、湖北へと戻る事に成功した後も、六角氏と結んだ高慶&信光との戦いが複数回あり、さらに、最終的に和睦した京極父子を看板に、執権として実質的に北近江を支配するも、その名前だけの地位に嫌気がさした京極父子とも、もちろん、六角氏オンリーとの戦いも・・・

とにかく、一度も勝てません。

ところが・・・です。

なぜか、彼は、負けるたびにその勢力圏を拡大していくのです。

実は、ここに来ても、亮政を支持してくれていたのが、地元の国人衆・・・

千差万別の思いで地元に生きる国人たちを一つにまとめ、たとえ戦いに負けても、いや、負けたからこそなお、その団結力をより強固な物にしていき、その信頼を一身に受けていくのです。

そこには、あの若き日の亮政の思い・・・「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」

そんな亮政の思いが、地元に根付く国人たちに、ひしひしと伝わっていたからではないでしょうか?

夢半ばの天文十一年(1542年)1月6日に、亮政は52歳の生涯を閉じ、結局は、完全に京極氏を管理下に置いた戦国大名としての浅井氏が誕生するのは、彼の息子&孫の時代になってからではありますが、その信念は、孫の長政にも、そして、あの浅井三姉妹にも受け継がれていたはずです。

だからこそ!!の思いがあって、一昨日の大河ドラマの熱い感想(3月7日の前半部分参照>>)になってしまったわけですが・・・

しつこいようですが、そんな浅井家だからこそ、自分たちが安全な所にいるからと言って、領民の事をいっさい考えもしないで長浜城の制圧(12月11日参照>>)を無視するがのごとく、ただただ「戦争反対!」を声高に叫ぶような流れになっていた大河が、許せないと思ってしまった次第です。
(あくまで個人的な思い入れによる感想+浅井家をかっこよく書きすぎましたが、本日は主役なのでお許しを…(*´v゚*)ゞ)
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2011年3月 8日 (火)

アンケート企画「一つだけ関与する事ができるとしたら…」

 

本日は、久しぶりにアンケート企画といきましょう!

歴史に「もしも」は禁物ですが、歴史好きなら好きであるほど、
「もし、こうなっていたら、その後の歴史はどうなっていたんだろう?」
なんて妄想を膨らませる楽しみがある事も確か・・・

って事で、今回のお題は・・・

もし、歴史上の出来事で、「たった一つだけ関与する事ができる」としたら・・・
「あなたは、どの出来事をどうしたいですか?」

「コレが無かったら…」
「アノ人が生きていたら…」

いつもの通り、イタズラ心満載の正解のない質問ではありますが、お楽しみの一つとして投票に参加していただければ幸いです。

とりあえずは、個人的に「これは?」と思う選択技を14個呈示させていただきますので、「そう思う」という物に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 聖徳太子に「命の電話」をする
    様々な憶測はあるものの、定説では自殺だったと言われる聖徳太子・・・ならば、説得して思いとどまらせる事も可能かも・・・(参照ページ:2月22日>>)
  2. 乙巳の変を阻止
    大極殿の庭に躍り出て、中大兄皇子らによる蘇我入鹿の暗殺を阻止・・・記紀神話以外の日本の空白部分の歴史が解明されるかも・・・(参照ページ:6月12日>>)
  3. 壬申の乱で大友皇子に加勢
    その後の天皇家の基礎となった天武天皇が負けていたら???もう想像もつきません(参照ページ:7月23日>>)
  4. 和気清麻呂への神託を変更
    果たして、清麻呂があの神託を受けなかったら道鏡が天皇になっていたのか?そしたら万系一世の皇室はどうなっていたのか?(参照ページ:10月9日>>)
  5. 平将門に兵を帰らせないよう進言する
    平将門は討伐軍を破ったその日、しばらくは戦闘がないと判断して多くの農民兵を返し、その直後に襲撃されたと言いますが、もしも、そのままの兵力を維持していたら・・・(参照ページ:2月14日>>)
  6. 壇ノ浦で安徳天皇と三種の神器を救い出す
    三種の神器とともに西海に沈んだ幼き天皇を救い出していたなら、さらに、この先の頼朝と義経の争いに義経側の旗印となったりなんかしたら・・・(参照ページ:3月24日>>)
  7. 曽我兄弟の仇討を助太刀
    未だ鎌倉幕府も盤石ではない頃・・・もしも曽我兄弟のターゲットが頼朝で、もしもその襲撃が成功していたら…2重のもしもで恐縮ですが(^-^;・・・(参照ページ:5月28日>>)
  8. 足利直義のニセ綸旨をウソだとばらす
    出家を決意していた足利尊氏を戦いに参戦させたのは、弟・直義が用意したニセ綸旨・・・ならば、もし、その綸旨を尊氏がウソだと気づいたなら・・・(参照ページ:12月11日>>)
  9. 上杉謙信にトイレで薬を渡す
    手取川で信長配下の柴田勝家を破りながらも、冬に入ったため越後に戻った謙信は、翌年の春の再出陣を待たずにトイレにて脳卒中で倒れたと言います・・・何とか、その命を救えたら・・・(参照ページ:3月13日>>)
  10. 信長を本能寺から脱出させる
    やっぱり、これは外せませんよね?もちろん、妙覚寺にいた息子の信忠も、まとめて救出・・・(参照ページ:6月2日>>)
  11. 本能寺の一報を秀吉に知らせない
    信長助けるなら明智光秀も・・・定説によれば、光秀が毛利に放った使者が、秀吉の陣に迷い込み、いち早く秀吉に一報が届いたのだとか・・・ならば、その使者が無事に吉川と小早川の陣にたどりついていたなら、あの中国大返しもなかったのかも・・・(参照ページ:6月6日>>)
  12. 関ヶ原で小早川秀秋を説得
    なんやかやで東軍として松尾山を駆け下った小早川秀秋・・・これを西軍として参戦させる事ができたなら・・・(参照ページ:9月14日>>)
  13. 大坂夏の陣で真田幸村に加勢
    大坂夏の陣で徳川家康本陣の寸前まで迫った真田幸村(信繁)・・・あまりの勢いに家康討死説もあるほど!もしかして・・・(参照ページ:5月7日日>>)
  14. 坂本龍馬と中岡慎太郎を救出
    幕末・維新はいろんな事がありすぎて・・・とにかく、コレだけは!という感じで、何とか二人に刺客の存在を教えたい・・・(参照ページ:11月15日>>)
  15. その他
    「これをやりたい!」「こんな大事なの忘れてるヨ!」っていうのがあったらお知らせください 

このアンケートは3月21日に締め切らせていただきました。

投票結果&いただいたコメントは3月23日のページでどうぞ>>

たくさんのご投票、ありがとうございましたm(_ _)m

・‥…━━━☆

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2011年3月 7日 (月)

勝家を出し抜く秀吉…信長の葬儀を行った総見院

 

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第9回義父の涙・・・

なんと!柴田勝家刺繍好き・・・
先週のツンツン娘はどこへやらの親子水入らず・・・

ドラマは創作物なのですから、もう、このホームドラマ路線で行くと知った以上は、今更、歴史と違うのなんのというヤボな事は申しますまい。

が、しか~し、
たとえ創作であっても、そのドラマの中で、つじつまが合わなかったり、一般常識とかけ離れたりというのは、ちょっといただけません。

そうです。
北ノ庄城で平和に暮らしていた勝家一家に、「長浜城が奪われた」との知らせが届いた時・・・

この「長浜城が奪われた」というのは、以前にも書かせていただいてますが(3月11日参照>>)、厳密には、筒井順慶池田恒興(つねおき)らを先鋒とする5万大軍に城を囲まれた長浜城で、その守りを任されていた柴田勝豊(勝家の養子)が、未だ雪深い越前(福井県)からの援軍が期待できないと判断し、城を明け渡した事・・・それを「長浜城が奪われた」とおっしゃっているのだと思います。

もちろん、細かい事をいちいち言ってもややこしいだけなので、表現はそれで良いと思いますが、ちょっとツッコミたいのは、そのあと・・・

この三姉妹は、「長浜城が奪われた」との知らせを聞いたにも関わらず、「戦は、いやです」「戦はやめてください」の一点張り・・・しかも、さも、それが正しい事のように主張する。

もう、城を奪われちゃってるんですよ!
「戦は、やめて」もクソも、もう始まってますよ!

確かに、上記の通り、城主の勝豊は、ほとんど戦わずして開け渡していますから、戦闘らしい戦闘もなく、犠牲者も少なかったかも知れませんが、城を奪われるという事は、その城下町も、そこに住む民衆も制圧されるという事です。

たとえ命奪われなくとも、ひとときの平和を味わっていた城下町に、武装した兵が5万も闊歩するのです。

おそらく、事情のわからない庶民の女子供たちは、恐れおののいたに違いありません・・・なのに、このお姫様たちは、「自分とこの城が平和ならそれで良い」という事なのでしょうか?

さらに、その後のお市の方の説得も、「義父を戦に送り出すのが、我々の務め」と言いながらも、その理由が、「戦いたいのが男なのだ」「男=武士とはそういう生き物なのだ」って・・・自分たちの主張が正しいが仕方がないみたいな言い方・・・

私は男でも武士でもありませんが、もし北海道や沖縄が某国に占領されたら、たとえ東京や大阪が無事でも黙ってはいられませんが・・・この脚本家の方は、それでも、戦うべきでないとおっしゃるのでしょうか?

・・・と、ちょっと熱くなってしまいましたが(*´v゚*)ゞ、今日は、そんな話をするつもりではありませんでした。

実は、昨日の放送で、CGと秀吉のアップのみというほぼナレーションスルー状態だった織田信長の葬儀・・・その秀吉主催の葬儀のお話自体は、すでに書かせていただいておりますので、ソチラで見ていただくとして(10月15日参照>>)

今日は、その葬儀の舞台となった大徳寺・総見院(そうけんいん)・・・現在、「京の冬の旅」のイベント(1月28日参照>>)の一環として特別公開されている総見院へ行って来たというお話です。

・‥…━━━☆

上記の通り、総見院は天正十一年(1583年)に、豊臣(当時は羽柴)秀吉が、本能寺で倒れた主君・織田信長を弔うために古渓宗陳(こけいそうちん)和尚を開祖として建立した京都・大徳寺の塔頭(たっちゅう・大きな寺院に付属するお寺)です。

そして、その本能寺から100日めに当たる10月11日から17日までの7日間に渡って、亡き信長の法要が行われ、そのうちの10月15日には、3000名の出席者による盛大な葬儀が行われ、火葬場へ向かう道筋は、3万の兵が警固をするという一大イベントを行った場所であります。

しかも、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)、信長の妹・お市の方とその夫である譜代家臣・筆頭の柴田勝家カヤの外に置いての葬儀の決行は、まさに、信長の後継者を自負する秀吉の見事なパフォーマンスでしたね。

ただ、残念ながら、当時は広大な境内だった総見院も、明治の頃の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・建て物や仏像などを破壊して寺院の特権を廃する明治政府の政策)によって、その建物のほとんどを焼却されてしまったため、現在、創建当時のままの姿を残しているのは、わずかに外塀や鐘楼のみで、本堂などの建物は、大正年間に再興された時以降の建物という事になってしまっています。

Dscf0071a800 総見院の鐘楼と土塀

とは言え、新しいながらも当時をしのばれる造りの茶室の数々や、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を井筒にしたという堀り抜き井戸、秀吉が千利休から譲り受けたという樹齢400年・日本最古の胡蝶侘助椿(こちょうわびすけつばき)の木、さらに、信長以下・織田氏一族のお墓など、見どころは沢山あります。

中でも、(個人的に)最大の見ものは、あの織田信長坐像です。

Soukaninnobunaga800 織田信長坐像

ご存じのように、あの本能寺で信長の遺体が発見されなかった事から、秀吉は、その代わりになる物として、運慶快慶の流れを汲む康清という仏師に、信長そっくりの像を造らせて、その像を棺桶に入れて火葬する・・・という方法をとったわけですが、その像は2体あって、1体を火葬にして、もう1体を残した・・・それが、ここ総見院に今も残る信長像なのですよ!

高さ約115cm、衣冠帯刀の姿で眼光鋭いその表情は、晩年=本能寺で倒れる直前の信長に生き写しであるとも言われています。

現在は重要文化財に指定されているこの信長像ですが、実は、この像も、本当なら、明治の廃仏毀釈で堂塔とともに燃やされる運命にありました。

しかし、寸前のところで寺の人々に救出され、大徳寺本山に預けられた事で助かったのです。

そして昭和三十六年(1961年)に、預けていた信長像を再び迎え、信長380年忌の法要が行われ、以後、もとの古巣の総見院に安置されているというわけです。

最後にもう一つ・・・行って初めて知った新たな感動がありました。

Dscf0056800 Soukeninkosi800
アップです

上記の左写真は、本堂から茶室へ向かう通路ですが、屋根のすぐ下に、何かあるのがおわかりになりますか?
そこをアップにしたのが右の写真です。(*写真はすべてクリックしていただくと大きいサイズで見られます)

これは輿(こし)・・・今も、両側の柱の金具の上に乗っかっているだけで、いつでも使用できる状態になっているのですが、輿という物は、高貴なお方が乗る特別な乗り物・・・

はてさて、誰が乗った輿なのか?

実はコレ・・・その昭和三十六年に約100年ぶりにこの総見院に戻る時に、かの信長像が乗った輿なのです。

もちろん、後にも先にも、この輿に乗ったのは信長像ただ一人・・・

覇権争いの中で誕生し、数奇な運命をたどった信長像は、総見院に思いを寄せる人々の手で大事に輿に乗せられ、再び戻って来た・・・

なんだか、妙に感動してしまいました(゚▽゚*)。

普段は非公開の総見院・・・3月21日までの特別公開です。
:3/8=15時以降、3/9と3/20=13時以降、3/21=終日拝観不可)

この機会に訪れてみてはいかがでしょうか?
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2011年3月 6日 (日)

思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」

 

今日3月6日は庚申(こうしん)の日です。

庚申とは・・・
「庚=かのえ(十干)」の日であって「申=さる(十二支」の日であるって事ですが、

もともと十干というのは、1ヶ月を上旬・中順・下旬の3つに分けた中の10日間の順序を示すために作られたとされる10個の数字・・・

いわゆる、(こう)(おつ)(へい)(てい)(ぼ)(き)(こう)(しん)(じん)(き)の10個のうちの7番目が庚ですね。

戦前までは、「1・2・3…」よりは、むしろ「甲・乙・丙…」が、数字として使われるが多く、今でも、クソややこしい契約書なんかに、「甲が乙に対して○○の時は…」てな文面で、余計に難解にしちゃってくれてますが、このように、本来は単に数字を表す物だった十干ですが、いつしか五行説などと結び付いて、時には、占いや縁起かつぎなどにも使われたりします。

一方の十二支は・・・ご存じですよね?
「子・丑・寅…」と続く、えとの十二支(くわしくは11月9日参照>>)・・・今年は、「卯(う=うさぎ)ですね。

・・・で、上記の十干と十二支を組み合わせて、「甲の子」「乙の丑」「丙の寅」…使っていくと、60で一周する事で、昔は、この十干と十二支が、年を表したり、日を表したりするのに使われていたわけです。

たとえば、よく疑問に思うのが・・・
今は、「平成○年生まれ」とか「昭和○年世代」なんて言うけど、元号がコロコロ変わった江戸時代の人は、「私、正保二年生まれです」「私は慶安元年生まれなんで3歳違いですな」とか、瞬時にしてわかったんだろうか?
なんて事ですが、

実は、昔の人は元号ではなく、この十干と十二支の組み合わせて、年を言い表していので、「正保二年=乙酉(きのととり)」「慶安元年=戊子(つちのえね)と、すぐに年齢の違いなんかがわかったわけです。

ご存じの方も多いとは思いますが、あの高校野球で有名な甲子園球場も、そのおおもととなる運動公園が誕生した大正十三年(1924年)が「甲子(きのえね)の年だったので甲子園と名づけられたとの事・・・と、こんな感じで、けっこう近年まで、この数字の表し方が使用されていたわけで、そんな中で、年を表すのと同じように、各日にちも十干と十二支で表されていたわけです。

なので、本日の「庚申の日」というのも、60日に一回は回ってくるわけで、前回は1月5日、今回の次は5月5日が庚申の日という事になります。

長い前置きになりましたが・・・とにかく、本日は、そんなこんなの庚申の日!

でも、それなら、庚申の前日は「己未(つちのとひつじ)で、次の日は「辛酉(かのととり)・・・なぜ、庚申の日だけ特別に?

実は、この庚申の日は「雑節(ざつせつ)の中の一つで、「庚申講(こうしんこう)あるいは「庚申待ち」という行事が行われる日だから、特別なのです。

雑節とは、農業を営むための目安とするために設けられた捕捉のような節目の日なのですが・・・

そもそも、産業の中心が農業だった昔の日本・・・その農業を順調に進めるためには、季節の移り変わりを知る(こよみ)が重要な役割をしていましたが、陰陽師などの特殊な職業の人以外は、正確な暦を計算する術を持っていませんでした。

そこで、1年を24等分に分けた二十四節季(くわしくは10月4日参照>>)、さらに、それを3等分した七十二候を作って、農作業の進み具合の目安としたのです。

雑節は、その更なる捕捉・・・有名なところでは、お茶の葉を摘む最適日とされる「八十八夜」や、台風の当たり日とされる「二百十日」なんていうのがあります(5月2日参照>>)

「入梅」も、この雑節の一つで、今で言う「梅雨入り宣言」ではなく、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日前後)から数えて5日目とされていました。

とは言え、この庚申の日は、あまり農業とは関係ないような・・・???( ̄◆ ̄;)

その起源は謎で、一説には、中国の道教「守庚申(しゅこうしん)という思想が、奈良時代に日本に伝わり、日本固有の信仰と結びついて発展したのでは?と言われますが、定かではありません。

そもそも、人には、上尸中尸下尸という「三尸(さんし)の虫」がいるのだとか・・・

上尸の虫は頭にいて、目を悪くしたり、顔にシワを作ったり、髪を白くさせたり・・・中尸の虫は腹にいて、暴飲暴食をさせたり臓器に悪さをし、下尸の虫は足にいて精を抜いちゃう。

・・・で、この三尸の虫は、庚申の日に、その宿主である人物が寝静まると、その身体から抜け出して、その人の悪事の数々を天帝に告げ口しに行くのですと!

もちろん、報告を受けた天帝によって天罰が下され、その人の身体は、さらに老いていく・・・って事なのですが、それを防ぐためには、ただ一つ!

そう、庚申の日に眠らなければ良いのです。

この「庚申の日に眠らない」というのは、平安時代頃には貴族の間に盛んに行われました。

あの『栄華物語』にも
「としのはじめの庚申の日なり せさせ給へ」
とあるほか、
『花園院宸記』の正和二年(1313年)8月2日の条には
「今夜睡眠せず 終夜庚申守る 和歌会 密々…」
とあり、徹夜するために皆で和歌の会を開いた事が書かれています。

その後、室町時代頃には、その風習が一般にも伝わり、江戸時代には、庶民の習慣の中に解け込んでいったようです。

庶民の場合は・・・
まずは庚申さんにお参りを済ませた後、庚申画像を掛けた当番の家に仲間内が集まってお酒を酌み交わしながらよもやま話で徹夜する・・・なんと、今でも、この通りに行われている地方もあるとの事です。

さすがに、夜の12時に日づけが変わる事が定着した現在では、0時解散となる所も多いようですが、夜の楽しみ方も人それぞれという現在と違って、昔は60日に一度の農家の楽しみだったのかも知れませんね。

Dscn3315a800 ならまち庚申堂にて…

ところで、奈良県奈良市の一画・・・「ならまち」と呼ばれる古き良き街並みが残る場所には、家々の軒先に、三尸の虫が嫌うという「身代わり申(さる)を吊るして、庚申の日の難に逃れようとする風習も残っていますが、この申のルーツも、これまた謎となっていました。

確かに、庚申待ちの信仰が、上層階級から庶民へと伝わる中、庚申の供養塔を建てるのが流行し、その中には「見ざる・聞かざる・言はざる」三猿の描かれた物も存在するようですが、果たして、その関係なのか???

と思われていた所・・・昭和六十二年(1987年)に、奈良県立博物館で開催された「大英博物館所蔵~日本・中国美術名品展」に出品された展示品の一つで、その謎が少し解けました。

それは、唐の時代に製作された敦煌(とんこう)石窟の祭壇に飾られたであろう垂れ幕・・・そこに、この「身代わり申」とまったく同じ物がついていたのです。

その意味は未だ謎ではありますが、おそらくはこの身代わり申・・・遠き昔に、シルクロードを通って、この奈良の地にやって来たお申さん・・・

古き良き庶民の風習といい、遥かシルクロードへの思いといい、なにやら、広大な妄想をかきたてられる庚申の日ですね。

う~~ん、今夜は眠れない(。>0<。)

ならまちへの行きかたを、本家ホームページ「歴史散歩:ならまち」で紹介しています…よろしければ、コチラからどうぞ>>
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2011年3月 4日 (金)

火事と喧嘩は江戸火消しの華

 

文化三年(1806年)3月4日、明暦の大火明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる文化の大火が発生しました。

・・・・・・・・・・

文化三年(1806年)3月4日の午前10時頃・・・車町(現在の港区高輪)材木座付近を出火元に発生した火は薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)増上寺五重塔を全焼させた後、西南の強風にあおられて木挽町数寄屋橋に飛び火し、そこから日本橋の殆どを焼失させました。

それでも、火は収まる事を知らず、神田から浅草方面にまで燃え広がったと言います。

幸いな事に、翌5日に雨が降ってくれたおかげで、ようやく鎮火しましたが、その被害面積は下町を中心に530町(約58k㎡)・・・現在の港区・中央区・千代田区を足しても、まだ足らないくらいの広範囲ですね。

そのため、焼失家屋は12万6000戸におよび、死者は1200人を超えたと言われています。

「火事と喧嘩は江戸の華」・・・

これまでも、このブログでは、
振袖火事と呼ばれた明暦の大火>>
お芝居で有名な八百屋お七お七火事>>
明和九年の迷惑大火>>
あと、
遊びの殿堂・吉原炎上>>や、
その燃え移る事はなはだしい住宅事情の原因として、あまりの急激な人口増加のお話>>など、火事に関する事を書かせていただいておりますが、

本日は、火事が江戸の華なら、その火事の花形・・・火消しのお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

火事の現場にいち早く駆けつけ、頭(かしら)の指示に従って、各持ち場にスタンバイ!

その中でもイッチャンにかっこええ男が、水をかぶりハシゴを登り、建物の屋根の上に(まとい)を立てる・・・時代劇でも、お馴染のシーンですね。

♪芝で生まれて 神田で育ち
  今じゃ 火消しの纏持ち ♪

なんて歌われ、火の粉を浴びながら、カッコ良く纏を振る纏持ちは、そんな火消しの中でも、一番の花形でした。

それにしても、
「あんなん振って、火が消えるのか?」
と、かく言う私も、小さい頃には疑問を抱きながら時代劇を見ていたわけですが、もう皆さまご存じのように、当時の火消しの仕事は、完全に火を消しとめるという現在の消火とは、まったく違う物・・・

現在燃えている火を消すのではなく、この先の延焼を食い止めるために、火の行く手にある家屋を破壊する破壊消防というものでした。

かの纏持ちが立つ家こそ、
「ここで、火を食い止めるゾ!」
というボーダーラインで、仲間は、竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれる消火ポンプで、その纏持ちに向かって放水するわけです。

纏持ち=代表者を、そんな危ない場所に立たせる意味は、文字通りの「火事場のバカ力」を誘発するための物です。

仲間を犠牲にさせたくないため、必死のパッチで家壊し担当ががんばるというわけです。

そんな火消しは、6万石以下の大名で組織された大名火消しと、旗本の定火消し(じょうびかし)、そして有名な町火消しの3種類があり、大川(隅田川)の西側を担当していたのが町火消しでした。

ご存じのように、この町火消しは「いろは48組」ありましたが、何となく、カッコ悪く聞こえる「へ組」「ら組」「ひ組(←これは縁起担ぎ?)の3つの組は存在せず、それぞれ「百組」「千組」「万組」という名前に置き換えられていたそうです。

ところで、冒頭に「火事と喧嘩は江戸の華」と書かせていただきましたが、火事の花形であった火消しは、もう一方の喧嘩の花形でもあったんです。

それは、上記のように、大名火消しや定火消し、町火消しなど、様々な火消しが入り乱れて現場に駆け付けるため、その主導権をめぐって、現場では、火消し同士の喧嘩が絶えず起こっていたからなのですが、

もともと、火消し自体が、命の危険をかえりみず、火事の現場に立ち向かうほどの男気のある者たちばかりですから、火事の現場だけでなく、普段から血気盛んな人たちが多かったわけで、まぁ、それこそが火消しの心意気でもあったわけですし・・・

この文化の大火のちょうど1年前には、後にお芝居となって超有名になった「め組の喧嘩」と呼ばれる事件も起こっています。

Meguminokenka1000 「め組の喧嘩」描いた錦絵

これは、文化二年(1805年)2月・・・芝明神で行われていた相撲興行を、そのあたり一帯を管轄していた「め組」のとび職・3名が、お金を支払わずに見ようとした事にはじまります。

当然の事ながら、それを見つけた力士の一人が、3人を注意するのですが、3人は謝るどころか、逆に、力士の体の大きさをからかいます。

恥をかかされた力士が、とびたちを投げ飛ばして周囲に悲鳴があがると、そこへ、お互いの仲間が駆けつけて乱闘開始!!!

結局、火消しと力士合わせて36名もの逮捕者を出す大騒ぎとなってしまいました。

・・・で、そのお裁きは、
喧嘩両成敗・・・と思いきや、意外と火消し側に厳しいものでした。

実は、火消しの彼ら・・・仲間を呼び集める時に、本来は、火事の時にしか鳴らしちゃいけない火の見櫓の早鐘を打ち鳴らしちゃったんですね~

カンニングに、ペーパーではなくネットを使ったために、新聞のトップ面に載って逮捕されるのと同じ???違うか(^-^;

まぁ、今でも、普段の移動にパトカーがサイレン鳴らして走ったら怒られますからね。

とは言え、この火消したちは、与力・力士と並んで「江戸の三男」と呼ばれて大いに庶民の人気者だったようです。

今でも、消防士やレスキュー隊員の制服を見ただけで、着ている人物まで男前に見えてしまう制服好き(私ですが…)がいるのですから、当時の人気は、さぞかしスゴかったでしょうね。
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2011年3月 3日 (木)

ケチと呼ばせない!前田利家の金の知恵袋

 

慶長四年(1559年)閏3月3日、加賀百万石の祖となった前田利家が、61歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

昨年の12月25日に、そのお誕生日の日の記事として、若き日の姿を書かせていただいた前田利家(まえだとしいえ)さん・・・(12月25日参照>>)

本日は、ご命日という事で、その続きとも言うべきお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

その不良っぽい性格から、若気の至りで事件を起こし、浪人の身となっていた利家・・・永禄四年(1561年)に単独参加した美濃・森部の戦いでの功績が認められ、再び織田信長の配下として働く事が許され、男・利家、24歳からの再出発が始まりました。

そして永禄十二年(1569年)・・・その信長の命により、流浪中に死去した父の家督を継いでいた兄・利久(としひさ)に代わって前田家の当主となります。

その後の利家は、とにかく様々な合戦に参加し、とにかく武功を挙げる事を目標にしていたかのようです。

元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)では、決死の撤退をする信長のそばについて警固を担当・・・続く姉川の合戦(6月28日参照>>)では、自慢の槍を大いにふるって浅井助七郎なる武将の首を挙げます。

同じ年に勃発した石山本願寺戦(11月24日参照>>)では、淀川を越えて攻め込んで来た一揆軍を春日井(かすがい)で迎え撃ち、信長軍が総崩れとなる中で踏ん張り続け、その姿が味方の反撃のきっかけともなった事から「堤の上の槍」と絶賛されました。

もちろん、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)にも鉄砲隊を率いて出陣するなど「槍の又左」の異名をほしいままにするほどの功名を挙げていきます。

そんな中で、利家は、おそらく、書物などからではなく、実践で兵法を学んでいったものと思われます。

師匠はもちろん、主君・信長です。

合戦の際の信長は、一番奥の本陣にドッカリと座って、采配をふるう大将ではありませんでした。

いつ何時も、自らが前に出て、果敢にアタックしながら兵を動かしていく・・・その巧みな攻略ぶりをすぐそばで観察しながら、彼もまた、そのような武将に成長していくのです。

ところで、先の姉川に続く越前征伐で、朝倉義景(よしかげ)を倒した信長は、越前の北ノ庄城主柴田勝家を配し、佐々成政(さっさなりまさ)不破光治(ふわみつはる)らとともに利家にも領地を与えて勝家の与力としました。

こうして、晴れて戦国大名の一人となっていた利家は、成政・光治・利家と・・・3人揃って「府中三人衆」などと称されていましたが、この頃は、朝倉は倒したと言えど、未だ越前一揆の嵐(2月18日参照>>)が鳴りやまぬ頃で、利家たちは、ただひたすら防御&防御の日々を送る毎日でした(5月24日参照>>)

やがて、信長が石山本願寺とも和解し、勝家が一向一揆を撃破(3月9日参照>>)、その嵐も、すっかりおさまりますが、ここに来て勃発したのが、あの一大事件・・・そう本能寺の変(6月2日参照>>)です。

家臣の明智光秀の謀反の刃に散った信長・・・そして、この時、すでに織田家の家督を譲られていた嫡男・織田信忠もが亡くなってしまった事で、その後継者を巡っての争いが始まったのです。

織田家家臣の中でも筆頭の力を持つ勝家が信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を推しつつ、その信孝に味方する信長の妹・お市の方を抱き込めば、神がかり的中国大返しで主君の仇=光秀を討った(6月13日参照>>)羽柴(はしば・後の豊臣)秀吉は、亡き信忠の嫡男・三法師と信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)を抱き込んで、真っ向から対立します(6月27日参照>>)

その覇権争いの最終決着となるのが、あの賤ヶ岳(しずかたけ)の合戦・・・(3月11日参照>>)

この時、始めは勝家に従って賤ヶ岳へと出陣した利家は、中国大返しさながらの猛スピードで美濃(岐阜県)から帰って来た秀吉の軍を見るなり、いきなりの撤退を開始し、その後は秀吉に従います。

この賤ヶ岳の合戦・・・大将・勝家の制止を振り切って無謀な突撃をした配下の佐久間盛政イキリ過ぎが、勝家敗戦の要因と言われますが、2008年4月23日のページ>>にも書かせていただいたように、私としては、この利家の戦線離脱が、一番の敗因ではないか?と思ってします。

そして、そこにも書かせていただきましたが、この利家の戦線離脱は、勝家への裏切り行為ではなく、この先の情勢を読んだ、利家の好判断という事になります。

もちろん、その事は秀吉も重々承知で、当時、能登七尾城を居城としていた利家は、大幅加増を受けて、堂々の金沢城主となる大出世を果たします。

ところで、ご存じの方も多いかも知れませんが、この利家さんの後半生・・・かなりのケチで、金の亡者と化していたという噂があります。

おそらくは、若き日の過ちで、妻子ある身で浪人となった時、かなり苦労したんでしょうね・・・お察ししますが、このあまりのケチケチぶりは、こののち、奥さん=まつさんの怒りをもかう事になります。

それは、この賤ヶ岳のあと、天正十二年(1584年)に起こった小牧長久手の戦い・・・(4月9日参照>>)

先の賤ヶ岳の時には、弟の信孝に対抗すべく、秀吉と結んでいた信長の次男・信雄が、やがて、自分の立つ位置に不満を感じ、秀吉に対抗できる大物=徳川家康と組んで、秀吉と相対した戦いです。

この時、家康に味方した富山城主の佐々成政が、利家の朝日砦を攻撃し、続いて、持ち城の末森城に攻めよせたのです。

攻める成政軍は5000・・・城を守る利家配下の奥村永福(ながとみ)らは、わずかに1500・・・

末森城のピンチを聞いた利家は、すぐさま末森城に駆け付けようとしますが、自らの兵隊の数も、それほどいるわけではありませんでしたので、豪雨の中の援軍派遣に、少しちゅうちょしてしまいます。

悩む利家に、まつの一声!!

「ほら、見てみぃ・・・
日頃、金をケチって家臣を雇えへんから、イザという時に援軍も出されへんねや!
あの成政のアホに、兵の数で負けるて、情けないわ!
いっその事、この金の入った袋を連れて行って、これに槍でもふるわしなはれ!」

と、言いながら、お金の入った袋を利家に投げつけたのです。

それでも、利家・・・
「スマンm(_ _)m 日頃、戦場にまでそろばん持っていって、兵糧の計算ばっかりしてた俺のせいや!」
とはいきませんでした。

それはそれ、これはこれ・・・とは言え、このまつの一撃に奮起した利家は、豪雨の中行軍し、少ない兵にも関わらず、見事、末森城を囲む成政軍に奇襲をかけ、城を守り抜いたのです(8月28日参照>>)

ひょっとして、奥さんも、ケチに怒ったというよりは、ウジウジしてる利家に、「男なら行かんかい!」てなハッパをかけたという事なのかも知れませんね。

とにかく、この一件でも、そのケチぶりに衰えを見せなかった利家・・・近畿地方を襲った大地震で、崩壊した前田家の伏見屋敷の再建にあたっていた嫡子・利長(としなが)に、
「豪華なモン建てんなよ!
金さえ残ってたら、山が崩れようが、海が埋まろうが、アタフタせんですむんやから」

と言っていたのだとか・・・

さらに、そうして貯めた大金は、あの越後への引っ越しで、上杉に大迷惑をかけられた(2月26日参照>>)堀秀治ほりひではる)に貸していたほか、細川忠興(ただおき)伊達政宗(だてまさむね)にも貸していたのだそうです。

その後、豊臣政権下で、秀吉の後継者=秀頼(ひでより)傅役(もりやく)のほか、五大老の一人にもなった利家・・・慶長四年(1559年)閏3月3日、亡くなる直前には、後継ぎの利長を呼び、
「コイツらに味方になってもらいたい時に、コレをチラつかせたれ!」
と、これまでにお金を貸した武将たちの借用書を手渡しました。

思えば、親友だった秀吉が亡くなったのが半年前の8月・・・おそらくは、加藤清正らの武闘派と、石田三成(みつなり)らの文治派対立、そして、そこに見え隠れする家康の影を、利家は、すでに感じていたのかも・・・。

今後の前田家の命運を握る次世代へ、どう転ぶかわからない荒波に対抗すべく、兵にも、武器にも、兵糧にも、そして、敵を味方に寝返らせる事もできる万能アイテムとしてのお金の使い方を、あますところなく伝えたかったのかも知れません。
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2011年3月 2日 (水)

滅びゆく勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信

 

天正十年(1582年)3月2日、織田信忠に攻められた仁科盛信が奮戦の後の自刃し、高遠城が落城しました。

・・・・・・・・・

天正八年(1580年)、10年の長きに渡って続いていた石山本願寺との合戦(11月24日参照>>)に決着をつけた織田信長・・・これで畿内に敵なしとなった信長は、いよいよ武田攻略に集中できる事になりました。

翌・天正九年(1581年)には、信長を連携を持つ徳川家康が、武田領の西の要=高天神城を奪取します(3月22日参照>>)

対する武田勝頼(かつより)は、父・武田信玄が築く事のなかった本格的な城=新府(しんぷ)城を構築し、甲府から韮崎(にらさき)へと拠点を移して、軍団の更なる強化を図ろうとしますが、先の高天神城を失った事で、すでに動揺が走っていた軍団にとって、この豪華な要塞の構築費用や労働力の捻出は、大きな負担以外の何者でもなかったようです。

そうです・・・このあたりから、武田を離反する者が相次ぐ事になるのです。

その最たるものが、勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)の寝返りでした。

言わば身内の裏切りに動揺が走り、雪崩をうっての更なる離反が相次ぐ中、当然の事ながら、義兄弟の寝返りを無視するわけにはいかない勝頼は、義昌討伐へと動きますが、そこを間髪入れず、信長が腰をあげるのです(2月9日参照>>)

信長の嫡男・織田信忠信濃南部方面から攻め込み、同時に、家康が駿河(静岡県東部)方面から迫ります。

そんな中で、真っ先に落ちたのは、家康が囲んだ田中城(静岡県藤枝市)・・・家康の説得に応じた城将・依田信蕃(よだのぶしげ)が、2月20日に開城した事を、先日書かせていただきましたね(2月20日参照>>)

一方の大将である信忠の軍は、高遠(たかとお)(長野県伊那市)に迫ります。

ここ高遠城を守っていたのは、仁科盛信(にしなもりのぶ)・・・信玄と側室の油川夫人の間に生まれた五男で、つまりは勝頼の異母弟でした。

父・信玄は、信濃を征服するにあたって、その地の名族と婚姻関係を結んで、親族として配下に治めるという政策をとっていた中で、天文二十二年(1522年)に攻略して配下に治めた安曇郡を領地とする仁科氏を、息子の盛信に、その名跡を継がせて、その大将としたのです。

兄の勝頼の信頼を一身に浴びていた事でも、その優秀さがわかる盛信・・・まずは、信忠、とある僧を使いに出して、開城の説得にあたります。

「武田はまもなく滅びましょう!すみやかに開城されよ!」
と、言い放った僧に対して、盛信は、一言も答えず、その耳を削ぎ落して追い出し、徹底抗戦の意思を表わしました

かくして天正十年(1582年)3月2日・・・
「それならば…」
と、信忠は、一斉攻撃を開始します。

信忠軍5万に対して、城を守るのは、わずかに3000・・・

怒涛のごとく迫る敵に、城兵は一人討たれ、また、一人討たれ・・・またたく間に残り少なくなっていきますが、盛信以下18名は、御殿の大広間にかがり火を散らして籠り、激戦を繰り広げます。

この時、浅黄金襴(あさぎきんらん)母衣(ほろ・袋状になった後背部を守る防具)を掛けて塀に登り、柿の枝に取りついて、配下の軍団に指示を出す信忠・・・

そこを見つけた幾人かが信忠めがけて7~8度と突撃する中、突然、現われた女武者一人・・・

長刀(なぎなた)を引っ提げて登場した彼女は、またたく間に周囲の7~8人をなぎ倒して信忠に迫ります。

しかし、その直後・・・盛信とともに戦っていた夫の死を知らされた彼女は、
「我は諏訪勝右衛門(すわかつえもん)の妻である!」
と、一矢報いたと言わんばかりの堂々の名乗りを挙げた後、その場で、壮絶な自害を果たしました。

そんな中、盛信らの必死の抵抗に攻めあぐねていた信忠配下の森長可(もりながよし)が、大広間の屋根の上に登り、屋根板を引きはがして、鉄砲を撃ち込みました。

広間から、上を見上げて、その姿を確認した盛信は、やにわに床の間に上り、壮絶な割腹を遂げたかと思うと、腹わたをつかみ取り、唐紙(からかみ・中国から伝わった襖などに使用する美術的な紙)に投げ、その場に倒れたと言います。

仁科盛信・・・享年・26歳

その時、春を迎えた高遠城の庭に、わずかに残っていた白い雪が、真っ赤に染まる光景を見た大将・信忠は、戦国の空しさを感じるとともに、勝利の確信も感じ取った事でしょう。

この一報を聞いた勝頼は、未だ建てたばかりの新府城に火を放って、逃亡を開始・・・頼りにしていた重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城・岩殿山(いわどのやま)(山梨県大月市)に向かいますが・・・

と、この先のお話は
●2008年3月11日【武田勝頼、天目山に散る】>>
もしくは
●2010年3月11日【勝頼の妻・北条夫人桂林院】>>
でどうぞ・・・

ところで、2007年に放送された大河ドラマ「風林火山」では、信玄の側室で、女性の主役とも言うべき由布姫(ゆうひめ・諏訪御料人=勝頼の母)が、新しく側室となった女性に子供ができて、なにやら、チョッピリ嫉妬するようなシーンがありましたが・・・

思えば、この後も、次々と離反され、最後には女子供を含む、わずか50人ばかりになって死に場所を求める勝頼にとって、唯一、その命をかけて、武田の者としての最期を迎えたのが、盛信以下高遠城の面々・・・

ドラマ中で、チョッピリ嫉妬した側室の子供が、愛する息子を最後まで裏切らない唯一の身内となるとは、生前の彼女も思ってもみなかった事でしょうね。
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2011年3月 1日 (火)

戦国のゴッドマザー=龍造寺隆信の母・慶誾尼

 

慶長五年(1600年)3月1日、肥前の熊と呼ばれた猛将・龍造寺隆信の母・慶誾尼が92歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

今年の大河の主役は、ご存じお江さんですが、女性を主人公に据えて戦国時代を描くなら、ぜひこの方を・・・と推薦したいのが、今回の慶誾尼(けいぎんに)さんです。
(尼になる前のお名前がわからないので、本日は生涯を通して、このお名前で呼ばせていただきます)

まぁ、確かに、「周囲の男性陣の有名度がお江さんにはかなわない」ってトコでしょうが、ご本人の行動力から言えば、まさに、この方は戦国を生き抜いた女性です。

ただ、史料の少なさは、やはりドラマにし難いかも・・・結局は、息子の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)亡き後も家中を束ねて外敵と戦った女風雲児的なイメージが漠然と伝えられるだけで、専門家の間でも、その人となりをつかみ難い方である事も確かです。

そんな彼女ですから、龍造寺宗家の16代当主・龍造寺胤和(たねかず・胤員)の長女として誕生した事は明らかなれど、その幼い頃に事はほとんどわからず、その姿が歴史に登場するのは、彼女の結婚の時・・・しかし、ここで早くも、少しの波乱を含んだ結婚でした。

おそらく10代後半であったとおぼしき彼女の結婚相手は、龍造寺の分家=水ヶ江(みずがえ)龍造寺家周家(ちかいえ)でした。

『普聞集(ふもんしゅう)なる文献によれば、その時の彼女は・・・
「勇気あって 常に懐剣を携う…」
つまり、いつでも自害できるように刀をふところに忍ばせた勇気ある姿だったと・・・

その行動の背景については憶測の域を出ないものではありますが、この頃の龍造寺宗家では、彼女の父である胤和が若くして亡くなり、その弟(つまり彼女の叔父)胤久が第17代当主についたばかりという出来事があり、宗家内でも、そして、周囲の分家と宗家の力関係においても、それなりの小さな波が立っていたのかも知れません。

やがて享禄二年(1529年)2月、彼女は長男・長法師丸を出産しますが、この長法師丸が、成長するにつれて抜群の記憶力を発揮する非凡な少年で、その才能を見抜いた曽祖父・家兼(いえかね)は、
「“一子出家すれば九族(旧属)天に生ず”と、昔から言うから、ひとまず寺へと預け、後に還俗(げんぞく・一旦出家した人が僧をやめる事)させて水ヶ江龍造寺家を継がせよ」
と進言したのです。

その言葉通りに、7歳になった長法師丸は宝琳院(ほうりんいん)というお寺に入ったのですが・・・事件は、その10年後に起こります。

当時の龍造寺家は、九州北部に勢力を誇っていた少弐(しょうに)に服属していたのですが、その当主である少弐資元(しょうにすけもと)から謀反の疑いをかけられた水ヶ江龍造寺は、周家をはじめ、祖父の家純、叔父の頼純など、主だった人々が、全員騙し討ちにされてしまったのです(1月23日参照>>)

わずかに生き残ったのは、かの曽祖父・家兼ですが、彼はもう、90歳を超えたご高齢・・・そうです!今、まさに、慶誾尼の長男・長法師丸が還俗する時がやってきました。

こうして寺を出た長法師丸は、その名を胤信(たねのぶ)と名乗り、水ヶ江龍造寺家の当主となります。

この人が、後の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。
(ややこしいので、今日はこの時点から隆信さんと呼ばせてもらいます)

しかも、その2年後、慶誾尼の従姉弟に当たる宗家の当主・胤栄(たねみつ)が病死・・・そのうえ、その後を継ぐべき男子がいなかった事から、息子・隆信が宗家の当主を継ぐ事になったのです。

分家=水ヶ江家の隆信ではありますが、その母である慶誾尼は、もともと宗家の娘・・・さらに、譜代の重臣である鍋島清房(なべしまきよふさ)を後見人に、亡くなった前当主・胤栄の奥さんだった人を隆信の妻に迎えての宗家当主誕生劇でした。

この時、未だ20歳そこそこの隆信・・・その後ろには、なんとなく慶誾尼さんが影がチラつきますね~。

ただ、やはり、分家の息子が宗家を継ぐ事にまったく抵抗がなかったわけではありません。

しかし、隆信は、そんな周囲の抵抗勢力を押し潰し、逆に、それをステップにして戦国大名への躍進を成し遂げていくのです。

肥前の熊とよばれた隆信の、ここからの猛将ぶりは皆さまもご存じの事と思いますが、注目は、そんな隆信が経験する合戦や政局の節目節目に、母・慶誾尼の姿が見え隠れするところです。

細かな事については、いずれ、その時々の出来事でお話したいと思いますが、たとえば・・・

隆信の初戦となった飯盛城の戦いでは、殺されるはずだった敵将・神代勝利(くましろかつとし・こうじろかつとし)の命を、彼女の助命嘆願により殺害を中止しています。

また、この後、度々隆信の領域に進攻してくる大友宗麟(おおともそうりん)への対策会議に顔を見せたり、合戦前の作戦会議にも、彼女はちょくちょく登場します。

元亀元年(1570年)にその宗麟に佐嘉(さが)を囲まれた時などは、一部の者が夜討ちを提案するも、煮え切らない態度に憤慨した慶誾尼の、
「君ら、皆、臆病風に吹かれまくりの猫の前のネズミやないかい!運がなかったら、それまでや!男なら夜討ちかけてみんかい!」
一言で夜討ちが決定し(直茂公譜考補)、あの今山の戦い(8月20日参照>>)の奇襲が決行された・・・なんて話も残ります。

もちろん、この夜討ちが大勝利を導く事は言うまでもありません。

そして、そんな彼女の最も有名な話として残るのが、先ほど出て来た譜代の重臣・鍋島清房への押しかけ女房の話です。

弘治二年(1556年)のある日、清房は慶誾尼に呼びとめられます。

「アンタも、奥さん亡くして、なにかと不自由やろ?えぇ人紹介したるさかいに、いつがええか日を決めといてな( ^ω^ )」
と・・・

確かに、清房は数年前に奥さんと死別していて、12歳なる長男・信昌(のぶまさ)を筆頭に4~5人の子供のいる身・・・しかし、清房自身に、今は再婚する気がないので、その場は、丁重にお断りを申し上げる清房でした。

ところが、その後、慶誾尼は自ら輿(こし)を仕立てて、清房の屋敷へ・・・
「来ちゃった(*´v゚*)ゞ」
もちろん、事態が飲みこめない清房は、ただただ茫然としていたと・・・

そう、清房に紹介したいイイ人とは、夫と死別しても、未だ尼になっていなかった彼女自身・・・

驚きを隠せない清房ではありましたが、相手が元上司の奥さんで、現上司の母親とあっては、なんとも言えず・・・「お二人はご夫婦となられたのです」(肥陽軍記)

こんな、なんとも凄まじい行動ですが、ここは、彼女のインタビューをお聞きください。

「この乱世、優秀な人材を登用して当主・隆信を盛りたててもらわんとやっていけませんがな。
そう思って、日頃から一門や他家の中から誰かおらんかと探していたところ、清房の長男・信昌に勝る者はいてませんでしたんや。
幸いな事に清房は奥さんに先立たれて独身やし、ほな、ウチが嫁に行って、隆信と信昌が兄弟になっったら、龍造寺の行く末も万々歳やなって思いましてん」
(直茂公譜考補)

そう、この長男の信昌が、隆信の9歳年下で、まさに、その右腕となる、あの鍋島直茂(なべしまなおしげ)です。

一見、48歳のオバサンが、恥も外聞もなく、よくヤルなぁ~・・・と思ってしまいますが、そこには、彼女がその身をかけて守りたかった大切なものへの揺るぎない思いがあったのです。

それこそ、当初は、はしたない行動と誹謗中傷された彼女の押しかけ女房事件ですが、後に、徳川家康の養女を娶る事になった直茂の息子・勝茂が、伏見城にて家康と謁見した際、家康は彼女の行動を大絶賛したのだとか・・・

というのも、この彼女の行動が、見事、この後の龍造寺を救うのです。

それは、島津氏の勢力が、あの大友宗麟をしのぐほどになりつつあった頃・・・

天正十二年(1584年)3月24日に起こった『沖田畷の合戦』で、息子・隆信は島津に敗れ、命を落とし(3月24日参照>>)、その翌年には、夫の清房も亡くなります。

そして、すでに耳川の戦い(11月12日参照>>)に敗れて、風前の灯だった宗麟が、豊臣秀吉に救援を求めた事で、九州征伐に乗り出して島津を配下に治めた秀吉・・・(4月17日参照>>)

龍造寺は、その秀吉の采配で肥前一国が安堵され、慶誾尼の孫にあたる政家も豊臣政権へと出仕する事になりますが、その政家は病気がちで、嗣子である長法師(後の高房)も、未だ幼い・・・こじれにこじれる跡目争いが長引けば、それをきっかけに、さらに領地を削られる可能性も・・・。

そこで、慶誾尼は一言・・・
「誰が何と言おうと直茂のほかになし!とりあえずは、亡き隆信と兄弟である直茂が領国を継ぎ、幼い長法師を盛りたてるように」

かくして、領国は直茂が、家督は長法師が相続する事を秀吉に奏上して、その許可を得、事無きを得たのです。

この時、未だ九州の陣中にて、この報告を聞いた秀吉は、
「龍造寺隆信とは、よほどの武将と見た。なぜなら、その仔細を直茂にまかせているから・・・よくぞ、その器量を見抜いたものだ」
と言ったのだとか・・・

いえいえ、秀吉さん・・・
そこには、慶誾尼さんもいたのですよ。

慶長五年(1600年)3月1日・・・息子の死後も家を守り、子孫のための確かな道筋も定めたゴッドマザーは、静かに92歳の生涯を終えました。
  

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