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2011年3月16日 (水)

敵も時代も恨まず…今川氏真の後半生

 

天正三年(1575年)3月16日、今川氏真が上洛し、京都相国寺で織田信長と対面しました。

・・・・・・・・・・

海道一の弓取りとうたわれた父・今川義元が、あの桶狭間に倒れたのは、永禄三年(1560年)5月19日(2007年5月19日参照>>)・・・嫡男・今川氏真(いまがわうじざね)23歳の時でした。

相手はご存じ織田信長・・・当時は、未だ自国の領土さえ統一しきれていない一武将でした。

一般的には、この父の死後に氏真が、その家督を継いだとされていますが、最近の研究では、すでにこの時には家督を譲られていた可能性が高いと言われていて、もし、そうだとすると、桶狭間で死んだ義元は、すでに隠居の身であるのですから、今川家当主の氏真が健在な以上、そのまま、普通に領国経営を全うできるはずです。

しかし、そうは問屋は卸さない・・・いや、群雄割拠の中で生き抜いて来た周囲の古ダヌキたちがほっとかない!

ご存じのように、名門=今川家は、この義元の死を境に衰退の一途をたどります。

一説には、氏真には、受け継いだ今川の領地を束ねて行けるほどの器量が無かったとか、蹴鞠(けまり)や和歌などにうつつをぬかし、武将としての鍛錬をおろそかにしていたとか言われますが、果たして、本当にそうでしょうか?

歴史は勝者が造るもの・・・この鉄則で行けば、これらの記録は、後に勝者となる織田やら徳川やら武田やらといった人たちの言い分であって、その中には、ほとんど氏真側の言い分が入っていないわけですから、その事を踏まえて、かなり氏真寄りに物ごとを考えてみてはいかがでしょうか?

まずは、領国を束ねていく器量の問題ですが・・・
これは、ある程度仕方ありません。

確かに義元はスゴイ武将で、父ほどのカリスマ性を氏真は持っていなかったかも知れませんが、これは氏真だけではなく、偉大な父を持った者は誰でもそうです。

問題は、家督を譲られた後に、父の影を払拭できるかどうかですが、それには、いくら後継者が頑張っても、多少の時間がかかります。

しかし、上記の通り、氏真が家督を譲られていたかいないかが論議になるほど、短い時間の中で父・義元は死んでしまい、その直後から、チャンスとばかりに周囲の敵が動き始めるのですから、領国を束ねようと奔走する時間すらも、氏真にはなかった事でしょう。

これなら、本人の器量もクソもありません。

こんな時、父の代からの有能なブレーンや軍師がいたら、ずいぶんと助かるもので、現に、父の義元に時には、母親の寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)太原崇孚たいげんすうふ雪斎)という強い味方がいました(6月10日参照>>)、氏真には、そのような補佐役はいませんでした。

今川の領国と言えど、未だ群雄割拠の戦国真っただ中では、朝比奈氏岡部氏など、それぞれの領地を任された重臣たちによる今川組合のような状況ですから、カリスマ的なリーダーがいなくなれば、チャンスとばかりに独立を考える者も出てくるわけで、そうなると、寄り合い的な集団は、またたく間に崩れてしまうわけです。

そんな最初の離反者となったのが、ご存じ徳川家康です。

当時、松平元康として、今川で不遇の人質生活を送っていた家康が、この桶狭間を機に独立したお話は、すでに書かせていただいていますが(2008年5月19日参照>>)、この不遇の人質生活というのも、家康の言い分です。

確かに、自宅で幸せな生活を送ってるのとは違いますから、ある程度制限された生活だったでしょうが、どこまで不遇だったかは、本人しかわからないし、本人が「不遇だった」と言えば、そうなるのは致し方ないです。

ただ、現在の私たちが「人質」と聞くと、なにやら、親子が引き裂かれて無理やり連れて行かれるというような印象がありますが、そもそも、この人質は、家康の父・広忠の判断で決定した同盟関係の証なわけです。

絶えず隣国=尾張(愛知県西部)織田信秀(信長の父)からの脅威にさらされていた小国の三河(愛知県東部)が、この乱世に生き残るために、大国=駿河(静岡県東部)の今川の保護を受ける・・・これは、幼い家康の心情はともかく、広忠の政策の一環だったわけで、そうしなければ、父子もろとも織田に倒されるだけなのです。

とは言え、保護国なら保護国として、常にその独立を夢見るもの・・・義元の死を絶好のチャンスとみた家康は、今川を離反するなり、かつての敵国=尾張の信長と同盟を結びます。

これには、今川傘下だった遠江(とおとうみ・静岡県西部)の武将に動揺が走ります。

これまで、今川の領地だと思っていた自分たちの西側の三河が、いきなり敵国の尾張と手を結んだわけですから・・・

もちろん、氏真もただ黙ってるわけもなく、離反しそうな武士を押さえつけて、なんとか遠江の武将を落ちつかせようとしますが、そこに間髪入れず登場したのが、甲斐(山梨県)武田信玄です。

実は、信玄は、義元健在の頃には『甲相駿三国同盟』(甲=甲斐・相=相模・駿=駿河)を結んでいます。

それに伴って、信玄の姉が義元に嫁ぎ、氏真の妹が信玄の長男・義信に嫁ぐという姻戚関係も結んでいました。

なので、今回、今川を攻めるにあたっては、嫁さん大好きで進攻に反対する義信を死に追いやって(10月19日参照>>)までの参戦・・・

しかも、密かに家康と『遠駿分割の密約』=大井川から西の遠江は家康で、東の駿河は信玄が貰う・・・てな事で、協定を結んでいたのだとか・・・『浜松御在城記』によれば、織田信長が二人の仲介役になったとの事)

こうして永禄十一年(1568年)12月・・・家康と信玄は一致協力して今川領への進攻を開始するのです。

それは・・・
信玄が進攻して来た12月12日:薩埵峠の戦い>>
本拠地を巡っての12月13日:今川館の攻防戦>>
逃れた氏真を家康が攻める12月27日:掛川城・攻防戦>>
と、まさに北と西からの挟み撃ち・・・

やむなく氏真は、掛川城を開城し、未だ唯一の味方である北条氏康を頼って相模へと逃走したのです・・・ここに戦国大名としての今川は滅亡しました。

とは言え、完全に武田寄りのあの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)でさえ、氏真の悪口を書き連ねながらも、「心は剛にてまします」と、武将として才覚を褒めている事を踏まえれば、蹴鞠や和歌などにうつつをぬかしてばかりではなく、なかなかの剛の者であった可能性大・・・

ただ、さすがの氏真も、ブレーンもいない中で後を継ぎ、すぐさま傘下の家康が独立して同盟者の信玄が裏切れば、もはや、どうしようもなかったというところでしょうか。

かくして、北条を頼って、一時は小田原城にいた氏真ですが、氏康が亡くなると、その息子の氏政は、武田と同盟関係を結びます。

この事で、小田原にいづらくなった氏真は、伊勢を目指して船出しますが、風向きの関係で、一旦、浜松に上陸・・・そこで、かの家康に
「チョコッとだけ、いさせてちょー」
と頼むと、家康が快く応じたため、今度は、家康の保護を受ける事に・・・

一説には、あの掛川城の開け渡しの時に、
「今度は、俺が、武田から駿河を奪うよって、その時には、あのへんは、今川さんに返しますから・・・」
てな、家康との密約があったとも・・・(だから、やさしく保護したのかもネ)

とにもかくにも、徳川の下で生き残る事ができた氏真・・・

この後の人生の後半を、武将としてではなく、芸を磨きながら送っていく事になるわけですが、そんな中で、蹴鞠や和歌が全国でも指折りの腕前と言われた氏真は、京都の公家たちと交わるべく上洛・・・

天正三年(1575年)3月16日に、あの信長と対面したのです。

もとはと言えば、あの桶狭間が事の始まり・・・この時、信長は家臣たちに命じて、氏真と蹴鞠させて、それを見物したと言いますが、氏真の心境は、いかばかりであったでしょうか。

さぞかし、ツライ・・・と思いますが、そんな彼の心が垣間見える辞世が残されています。

♪なかなかに 世をも人をも 恨むまじ
  時にあらぬを 身の科
(とが)にして ♪
♪悔しいとも うら山し共(とも) 思はねど
  我世
(わがよ)にかはる 世の姿かな ♪

今川の領地を守り切れなかったのは自分自身の才覚のせい・・・
うらめしいとは思わない・・・きっと、これが新しい時代なんだ~

この辞世を聞く限り、この後の江戸時代=徳川幕府の世を、儀礼を重んじる高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として生き残る子孫たちに受け継がれた、高貴でしっかりとした戦国武将としての氏真の姿を思い浮かべます。

取ったり取られたりの世界では、恨みごと一つ残さず、すべては大将たる者の責任・・・

何かあれば、やれ、「アイツが悪い」の、「誰々が憎い」のと、恨みつらみを言いまくる昨今の大河ドラマ・・・どうも、私が個人的に、最近の大河ドラマに馴染めないのは、そんなところにあるのかも知れません。

戦国時代の長たる者は、男でも女でも、しっかりとした責任感を持ち、たとえ負け組になったとしても、運命に屈しない心意気を持っていた人たちだったと思えてなりません。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ、茶々様。
桶狭間→徳川・武田に滅ぼされたとばかり思っていた今川家ですが、その後も残ってたんですねw(゚o゚)w

今日も茶々様の記事に感謝です!

投稿: DAI | 2011年3月17日 (木) 09時57分

氏真のその後、知りませんでした。
いい話!いい話でした。
何かの場面で生徒たちに話してやりたいと思います。
ありがとうございました。

投稿: yamazakibakufu | 2011年3月17日 (木) 10時00分

今川氏真は江戸時代初頭まで生きたんですね。記事の冒頭の部分は4年前の大河「風林火山」でも触れています。氏真は「桶狭間」の時はまだ20歳そこそこの若さでしたね。
徳川家康と立場が逆点してしまったと言う運命。戦国時代に生まれた人の常でしょうか?
あわよくば織田信長を殺めて、父の仇討ちを考えたかもしれないですね。でも時勢に「抵抗」しなかったから、天寿をまっとうできたのかも。武田勝頼や北条氏政を見るとそう思います。

投稿: えびすこ | 2011年3月17日 (木) 10時48分

茶々さん、こんにちは!

今川氏真の生き様、戦国乱世の時勢ではこういう生き方もありだと感じてしまいます。

さて、氏真以降の今川家は徳川幕府の下で高家として命脈を保ちましたが、氏真には2人の男子がいて、1人は宗家(1000石)を継ぎ、1人は別家し、品川氏(1500石)を称します。

今川宗家は途中で男系が途絶えてしまったために、品川氏の人間が跡を継いだみたいですよ。(萩藩毛利氏の秀就の血筋が絶えたので、秀元の血筋が跡を継いだみたいなもの)

そのため、品川氏の方は男系が完全に途絶え、後は高家株「品川氏」として名跡を保って現在に至っているとか―

今川宗家の方はその後も命脈を保ち、幕末維新期には高家のまま若年寄に就任しています。これは、朝廷との交渉事を担ってきた高家が故に登用されたみたい…

しかし、最後の当主・範叙の嫡子・淑人は早くに死去してしまい、明治20年にこの範叙が死去した事で、今川宗家は断絶しちゃいました。

そうなると問題は、今川家の遺物とかは誰が管理しちゃってるのかなという疑問が芽生えます。

一例として、戦国時代に豊前に拠点に名をはせた大友氏ですが、確か宗家は徳川幕府の旗本として命脈を保ちましたが、大正時代に断絶をしちゃっていて、大友氏の遺物は一族で筑後柳川藩主だった立花氏が名跡を継いだんですよね。

となると、名跡を継いで命脈を保っている品川氏が管理してるのかな?

貴重な遺物がこうした事で古物商などに流出せぬ様に願うのですが…

投稿: 御堂 | 2011年3月17日 (木) 14時14分

DAIさん、こんにちは~

御堂さんも書いておられますが…

氏真さんが芸術家として京都の公家との親交を持っていたからか、その後の今川家は、政治には関係ない、幕府の儀式を仕切るような家柄として生き残るようです。

確か、
あの忠臣蔵で有名な吉良さんが、子孫じゃなかったでしょうか?
物語では悪役ですが、実際の吉良さんは名君だったようです。

投稿: 茶々 | 2011年3月17日 (木) 16時08分

yamazakibakufuさん、こんにちは~

>何かの場面で生徒たちに…

そう言っていただけるとウレシイです。

投稿: 茶々 | 2011年3月17日 (木) 16時11分

えびすこさん、こんにちは~

父の義元さんと同様に、なにかと愚将扱いされる氏真さんですが、泰平の世に、政治を行う人として生まれていたら、かなりの手腕を発揮できるような人じゃなかったか?と妄想しています。

投稿: 茶々 | 2011年3月17日 (木) 16時13分

御堂さん、こんにちは~

そうですね~
どうなるんでしょう?

なんでも鑑定団など見てると、時々スゴイ物が登場したりしますから、あんな感じになっちゃうんでしょうか?

でも、日本にあれば、ちょっとは安心…外国に売らないでほしいです。

投稿: 茶々 | 2011年3月17日 (木) 16時15分

今川氏真って、武将としたら三流かもしれませんね。捕虜のような生活をしても、生きて天寿を全うし同盟で結婚した北條氏の夫人と添い遂げたのは、ほめてもいいのでは。息子も徳川家に出仕しています。東京の杉並区に今川という地名もあって、お墓があります。

投稿: やぶひび | 2011年3月18日 (金) 15時22分

やぶひびさん、こんにちは~

確かに、戦う事は苦手だったかも知れませんね~

投稿: 茶々 | 2011年3月18日 (金) 15時59分

とても面白かったです。
氏真に対する評価は、かの海音寺さんに至るまで阿呆扱いなので、かような弁護論は大切だと思う。とかく、どこぞの寺で家康離反に対する報復で子供まで串刺しにしたなどと非難されるが、この種の異常な殺戮は、この時代の茶飯事でもある。
彼の我慢強さ、報復による悪影響を勘案できなかった点のみを批判するならまだしも、鈍将と見なされたら味噌も糞も一緒にしてしまうから、あまり歴史小説・ドラマなどは好きになれない。
因みに、私はどうしても大御所;エログロ漫画家たる小池一夫さんの『徳川家康』の氏真によるエログロシーンしか、イメージがわかない(笑)。
実際はどうだったらしいかを、真面目に勉強したくなりました!

投稿: 崎永 | 2011年9月 1日 (木) 21時40分

崎永さん、こんばんは~

今日は氏真さんが主役なので、ちょっとカッコ良すぎかも知れませんが、ここまででなくとも、一般に言われるほどの愚将ではなかったと、個人的には感じています。

とかく、負け組には発言権がないのが歴史の世界…そこのところを、もっと調べていきたいと思いますね。

投稿: 茶々 | 2011年9月 2日 (金) 00時07分

氏眞にもかれの言い分があったという議論は同意だね。何しろなんの史料もない

投稿: 品川駿河守伊仲 | 2011年10月15日 (土) 20時44分

品川駿河守伊仲さん、こんばんは~

氏真はなかなかの武将だったような気がします。
今後の史料発見に期待したいですね。

投稿: 茶々 | 2011年10月16日 (日) 02時29分

茶々様
はじめまして、記事楽しく読ませていただいております。
今川氏真は昨年、NHKでドラマになった塚原卜伝の伝承上弟子のひとりで、剣豪だったりするんですょ。 

投稿: マーシ | 2012年1月23日 (月) 16時52分

マーシさん、こんにちは~

おぉ、そうでした。
なかなかの剣豪であったという話は聞いた事があります。
今、読み返してみると、その事かいてませんでしたね。
ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2012年1月23日 (月) 17時58分

今川義元の嫡男として生まれた今川氏真は、時代に取り残された武将かも知れません。ご存じのように、桶狭間の戦いで義元が戦死したことで、家督を継いだ氏真を、義元よりも劣ると見なして、武田信玄(出家前は、晴信)は、駿河攻めに猛反対した、信玄の嫡男の武田義信の幽閉&自害に乗じて、駿河を手に入れました。その後の氏真は、義父の北条氏康を頼ったり、織田信長の前で蹴鞠を披露したり、最終的には、徳川家康の庇護を受けた上で、江戸幕府の高家として登用されました。結果として氏真は、生き恥をさらして長生きすることを選んだのではないでしょうか。あと、個人的な推測ですが、豊臣秀吉が、関白として天下人になっていた頃には、秀吉の庇護を受けていた可能性が高いような気がしますね。

投稿: トト | 2017年2月21日 (火) 11時15分

トトさん、こんにちは~

>結果として氏真は、生き恥をさらして長生きすることを選んだのではないでしょうか…

私個人的には、氏真が生き恥をさらして長生きしたとは思っていません。
(ドラマ等では、そのように描かれると思いますが…)

そもそも今川家は、家康や秀吉のように、戦国の動乱に力でのし上がった戦国大名とは違うと思うんです。
名門家における血脈や伝統という物は、1度絶えてしまったら、もう取り戻せません。
今川家にとって最も重要な事は、力で以って君臨する事ではなく、受け継いだ物を次の世代へつないでいく事だったんじゃないか?と思います。

そのつもりでこのページを書きましたが、伝わり難かったでしょうか?
文章力が未熟なもので…申し訳なかったです。

投稿: 茶々 | 2017年2月21日 (火) 17時14分

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