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2011年3月 2日 (水)

滅びゆく勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信

 

天正十年(1582年)3月2日、織田信忠に攻められた仁科盛信が奮戦の後の自刃し、高遠城が落城しました。

・・・・・・・・・

天正八年(1580年)、10年の長きに渡って続いていた石山本願寺との合戦(11月24日参照>>)に決着をつけた織田信長・・・これで畿内に敵なしとなった信長は、いよいよ武田攻略に集中できる事になりました。

翌・天正九年(1581年)には、信長を連携を持つ徳川家康が、武田領の西の要=高天神城を奪取します(3月22日参照>>)

対する武田勝頼(かつより)は、父・武田信玄が築く事のなかった本格的な城=新府(しんぷ)城を構築し、甲府から韮崎(にらさき)へと拠点を移して、軍団の更なる強化を図ろうとしますが、先の高天神城を失った事で、すでに動揺が走っていた軍団にとって、この豪華な要塞の構築費用や労働力の捻出は、大きな負担以外の何者でもなかったようです。

そうです・・・このあたりから、武田を離反する者が相次ぐ事になるのです。

その最たるものが、勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)の寝返りでした。

言わば身内の裏切りに動揺が走り、雪崩をうっての更なる離反が相次ぐ中、当然の事ながら、義兄弟の寝返りを無視するわけにはいかない勝頼は、義昌討伐へと動きますが、そこを間髪入れず、信長が腰をあげるのです(2月9日参照>>)

信長の嫡男・織田信忠信濃南部方面から攻め込み、同時に、家康が駿河(静岡県東部)方面から迫ります。

そんな中で、真っ先に落ちたのは、家康が囲んだ田中城(静岡県藤枝市)・・・家康の説得に応じた城将・依田信蕃(よだのぶしげ)が、2月20日に開城した事を、先日書かせていただきましたね(2月20日参照>>)

一方の大将である信忠の軍は、高遠(たかとお)(長野県伊那市)に迫ります。

ここ高遠城を守っていたのは、仁科盛信(にしなもりのぶ)・・・信玄と側室の油川夫人の間に生まれた五男で、つまりは勝頼の異母弟でした。

父・信玄は、信濃を征服するにあたって、その地の名族と婚姻関係を結んで、親族として配下に治めるという政策をとっていた中で、天文二十二年(1522年)に攻略して配下に治めた安曇郡を領地とする仁科氏を、息子の盛信に、その名跡を継がせて、その大将としたのです。

兄の勝頼の信頼を一身に浴びていた事でも、その優秀さがわかる盛信・・・まずは、信忠、とある僧を使いに出して、開城の説得にあたります。

「武田はまもなく滅びましょう!すみやかに開城されよ!」
と、言い放った僧に対して、盛信は、一言も答えず、その耳を削ぎ落して追い出し、徹底抗戦の意思を表わしました

かくして天正十年(1582年)3月2日・・・
「それならば…」
と、信忠は、一斉攻撃を開始します。

信忠軍5万に対して、城を守るのは、わずかに3000・・・

怒涛のごとく迫る敵に、城兵は一人討たれ、また、一人討たれ・・・またたく間に残り少なくなっていきますが、盛信以下18名は、御殿の大広間にかがり火を散らして籠り、激戦を繰り広げます。

この時、浅黄金襴(あさぎきんらん)母衣(ほろ・袋状になった後背部を守る防具)を掛けて塀に登り、柿の枝に取りついて、配下の軍団に指示を出す信忠・・・

そこを見つけた幾人かが信忠めがけて7~8度と突撃する中、突然、現われた女武者一人・・・

長刀(なぎなた)を引っ提げて登場した彼女は、またたく間に周囲の7~8人をなぎ倒して信忠に迫ります。

しかし、その直後・・・盛信とともに戦っていた夫の死を知らされた彼女は、
「我は諏訪勝右衛門(すわかつえもん)の妻である!」
と、一矢報いたと言わんばかりの堂々の名乗りを挙げた後、その場で、壮絶な自害を果たしました。

そんな中、盛信らの必死の抵抗に攻めあぐねていた信忠配下の森長可(もりながよし)が、大広間の屋根の上に登り、屋根板を引きはがして、鉄砲を撃ち込みました。

広間から、上を見上げて、その姿を確認した盛信は、やにわに床の間に上り、壮絶な割腹を遂げたかと思うと、腹わたをつかみ取り、唐紙(からかみ・中国から伝わった襖などに使用する美術的な紙)に投げ、その場に倒れたと言います。

仁科盛信・・・享年・26歳

その時、春を迎えた高遠城の庭に、わずかに残っていた白い雪が、真っ赤に染まる光景を見た大将・信忠は、戦国の空しさを感じるとともに、勝利の確信も感じ取った事でしょう。

この一報を聞いた勝頼は、未だ建てたばかりの新府城に火を放って、逃亡を開始・・・頼りにしていた重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城・岩殿山(いわどのやま)(山梨県大月市)に向かいますが・・・

と、この先のお話は
●2008年3月11日【武田勝頼、天目山に散る】>>
もしくは
●2010年3月11日【勝頼の妻・北条夫人桂林院】>>
でどうぞ・・・

ところで、2007年に放送された大河ドラマ「風林火山」では、信玄の側室で、女性の主役とも言うべき由布姫(ゆうひめ・諏訪御料人=勝頼の母)が、新しく側室となった女性に子供ができて、なにやら、チョッピリ嫉妬するようなシーンがありましたが・・・

思えば、この後も、次々と離反され、最後には女子供を含む、わずか50人ばかりになって死に場所を求める勝頼にとって、唯一、その命をかけて、武田の者としての最期を迎えたのが、盛信以下高遠城の面々・・・

ドラマ中で、チョッピリ嫉妬した側室の子供が、愛する息子を最後まで裏切らない唯一の身内となるとは、生前の彼女も思ってもみなかった事でしょうね。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんにちは!

仁科盛信…彼のこうした奮戦ぶりが現在、長野県歌「信濃の国」にも、♪仁科の五郎信盛も♪(5番の歌詞の中で…)という風に歌われている訳ですよね。

ちなみに、盛信の子孫には、茶道で宗偏流家元山田家(←吉良邸討ち入りの際、茶会を開いた人が祖)や歌舞伎の岩井半四郎(10代目=本名・仁科周芳=ちかよし=さん)などが知られていますね。

投稿: 御堂 | 2011年3月 2日 (水) 17時29分

御堂さん、こんばんは~

>長野県歌「信濃の国」にも…

そうなんですよね。
歌詞では「信盛」ですが、常山紀山には「信盛」で登場するので、それが採用されたのかも知れませんね。

盛信さんの子孫は長く続いていられるようですね。
岩井半四郎さん…私の世代は仁科明子さんのほうがなじみ深いです(*´v゚*)

投稿: 茶々 | 2011年3月 3日 (木) 01時45分

茶々さん おはよう。
池波正太郎の『真田太平記』の導入部は高遠攻城から始まっていますね。4月のお花見に高遠城にいきましたが、観光名所の城跡には、どこも桜の木を植えて、公園としています。ある市役所の職員が堀端の古くなった城跡公園の桜を、あぶないから伐採しようとしたら、市民から総すかんを食ったという話をききます。城跡公園の桜はほどほどにして欲しいです。

投稿: 銀次 | 2011年3月 3日 (木) 06時07分

銀次さん、おはようございます。

版籍奉還で、殿さまの持つ公共施設は、そのまま国(県)の物になった所が多いですから、一時期は、民衆そっちのけの変貌を遂げてしまった場所もありますね~。

高度成長期を終えたこれからの時代は、おそらく、一番良い形で、残していってくださる物と思います。

投稿: 茶々 | 2011年3月 3日 (木) 09時32分

茶々さん、こんにちは。
仁科盛信は信忠の婚約者の松姫の兄ですが、確か信忠は義理の兄に降伏して出てきてほしいと言っていました。秀吉は確か信忠に勝頼、盛信兄弟を助けてほしいと言ったとか聞きましたが、その関係で助けようとしたのでしょうか?
秀吉の言うとおりにして、甲斐、信濃の一部を武田の領土にした方が良かったし、無意味な上杉攻めも無かっただろうし、北条討伐もうまくいったとシュミレーションをしてみますとそうなります。
信長はそう言うのを考えなかったのでしょうか?
一応信長の弟の子孫なのであの世に行って質問したくなります。
さて女武将は活躍しますね。忍城も甲斐姫が活躍しましたが、江戸時代まではそう言う女武将がよく出てきます。朱子学の影響がないからそうなのでしょうか。
面白いのは甲斐姫は秀吉の側室になり、大坂夏の陣後も天秀尼に従っています。そう言うのを見ますと信長よりも秀吉の方が魅力があり、発想力が豊かなのかなと思いました。
おんな風林火山みたいに信忠と松姫が会ったら面白いなと思いました。
まあおんな風林火山みたいだと信長は生き延びたし、信忠の御台所として松姫は京都か岐阜に住んでいたでしょう。

投稿: non | 2015年6月25日 (木) 16時49分

nonさん、こんばんは~

穴山梅雪はじめ、多くの武将が武田を見捨てた中で、最後まで従ったのは、「信玄の息子である!」という仁科盛信の誇りかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2015年6月26日 (金) 02時23分

茶々さん、こんにちは。
風林火山に出てくる諏訪の結衣姫、油川の御琴姫の息子たちは最後まで武田の誇りを失わずに戦いました。
そう言う点は立派だと思います。
それにしても無責任な連中ばかりですね。真田みたいな外様の方が最後まで武田に忠節を誓いましたし、戦った上杉の方が武田に好意的です。
ところで松姫と菊姫ですがどちらが姉でしょうか?説は色々あります。
よく分からないですね。

投稿: non | 2015年6月26日 (金) 17時11分

nonさん、こんばんは~

女性の事は、あまり記録に残さないので謎が多いですね。
名前がわからない方もたくさんいます。

投稿: 茶々 | 2015年6月27日 (土) 02時23分

武田信玄の五男として生まれた仁科盛信は、異母兄である武田勝頼に対して、誠心誠意を尽くした武将だと思います。戦国時代は、親子や兄弟や親戚が、骨肉の争いを起こして当然なのですが、盛信は、勝頼を見捨てたり裏切ったりしませんでした。弟が兄を助けなければならないという考えが、とても強かったのですね。そのため、織田方の軍勢を相手に徹底抗戦をすることに対して、後悔はしてなかったのかもしれません。しかも、妹の松姫を、高遠城から落ち延びさせてますから、人としての優しさも備わっていたのでしょうね。

投稿: トト | 2016年1月19日 (火) 10時01分

トトさん、こんばんは~

武田の最期は、ホント、涙を誘います。

投稿: 茶々 | 2016年1月20日 (水) 02時36分

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