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2011年3月 1日 (火)

戦国のゴッドマザー=龍造寺隆信の母・慶誾尼

 

慶長五年(1600年)3月1日、肥前の熊と呼ばれた猛将・龍造寺隆信の母・慶誾尼が92歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年の大河の主役は、ご存じお江さんですが、女性を主人公に据えて戦国時代を描くなら、ぜひこの方を・・・と推薦したいのが、今回の慶誾尼(けいぎんに)さんです。
(尼になる前のお名前がわからないので、本日は生涯を通して、このお名前で呼ばせていただきます)

まぁ、確かに、「周囲の男性陣の有名度がお江さんにはかなわない」ってトコでしょうが、ご本人の行動力から言えば、まさに、この方は戦国を生き抜いた女性です。

ただ、史料の少なさは、やはりドラマにし難いかも・・・結局は、息子の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)亡き後も家中を束ねて外敵と戦った女風雲児的なイメージが漠然と伝えられるだけで、専門家の間でも、その人となりをつかみ難い方である事も確かです。

そんな彼女ですから、龍造寺宗家の16代当主・龍造寺胤和(たねかず・胤員)の長女として誕生した事は明らかなれど、その幼い頃に事はほとんどわからず、その姿が歴史に登場するのは、彼女の結婚の時・・・しかし、ここで早くも、少しの波乱を含んだ結婚でした。

おそらく10代後半であったとおぼしき彼女の結婚相手は、龍造寺の分家=水ヶ江(みずがえ)龍造寺家周家(ちかいえ)でした。

『普聞集(ふもんしゅう)なる文献によれば、その時の彼女は・・・
「勇気あって 常に懐剣を携う…」
つまり、いつでも自害できるように刀をふところに忍ばせた勇気ある姿だったと・・・

その行動の背景については憶測の域を出ないものではありますが、この頃の龍造寺宗家では、彼女の父である胤和が若くして亡くなり、その弟(つまり彼女の叔父)胤久が第17代当主についたばかりという出来事があり、宗家内でも、そして、周囲の分家と宗家の力関係においても、それなりの小さな波が立っていたのかも知れません。

やがて享禄二年(1529年)2月、彼女は長男・長法師丸を出産しますが、この長法師丸が、成長するにつれて抜群の記憶力を発揮する非凡な少年で、その才能を見抜いた曽祖父・家兼(いえかね)は、
「“一子出家すれば九族(旧属)天に生ず”と、昔から言うから、ひとまず寺へと預け、後に還俗(げんぞく・一旦出家した人が僧をやめる事)させて水ヶ江龍造寺家を継がせよ」
と進言したのです。

その言葉通りに、7歳になった長法師丸は宝琳院(ほうりんいん)というお寺に入ったのですが・・・事件は、その10年後に起こります。

当時の龍造寺家は、九州北部に勢力を誇っていた少弐(しょうに)に服属していたのですが、その当主である少弐資元(しょうにすけもと)から謀反の疑いをかけられた水ヶ江龍造寺は、周家をはじめ、祖父の家純、叔父の頼純など、主だった人々が、全員騙し討ちにされてしまったのです(1月23日参照>>)

わずかに生き残ったのは、かの曽祖父・家兼ですが、彼はもう、90歳を超えたご高齢・・・そうです!今、まさに、慶誾尼の長男・長法師丸が還俗する時がやってきました。

こうして寺を出た長法師丸は、その名を胤信(たねのぶ)と名乗り、水ヶ江龍造寺家の当主となります。

この人が、後の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。
(ややこしいので、今日はこの時点から隆信さんと呼ばせてもらいます)

しかも、その2年後、慶誾尼の従姉弟に当たる宗家の当主・胤栄(たねみつ)が病死・・・そのうえ、その後を継ぐべき男子がいなかった事から、息子・隆信が宗家の当主を継ぐ事になったのです。

分家=水ヶ江家の隆信ではありますが、その母である慶誾尼は、もともと宗家の娘・・・さらに、譜代の重臣である鍋島清房(なべしまきよふさ)を後見人に、亡くなった前当主・胤栄の奥さんだった人を隆信の妻に迎えての宗家当主誕生劇でした。

この時、未だ20歳そこそこの隆信・・・その後ろには、なんとなく慶誾尼さんが影がチラつきますね~。

ただ、やはり、分家の息子が宗家を継ぐ事にまったく抵抗がなかったわけではありません。

しかし、隆信は、そんな周囲の抵抗勢力を押し潰し、逆に、それをステップにして戦国大名への躍進を成し遂げていくのです。

肥前の熊とよばれた隆信の、ここからの猛将ぶりは皆さまもご存じの事と思いますが、注目は、そんな隆信が経験する合戦や政局の節目節目に、母・慶誾尼の姿が見え隠れするところです。

細かな事については、いずれ、その時々の出来事でお話したいと思いますが、たとえば・・・

隆信の初戦となった飯盛城の戦いでは、殺されるはずだった敵将・神代勝利(くましろかつとし・こうじろかつとし)の命を、彼女の助命嘆願により殺害を中止しています。

また、この後、度々隆信の領域に進攻してくる大友宗麟(おおともそうりん)への対策会議に顔を見せたり、合戦前の作戦会議にも、彼女はちょくちょく登場します。

元亀元年(1570年)にその宗麟に佐嘉(さが)を囲まれた時などは、一部の者が夜討ちを提案するも、煮え切らない態度に憤慨した慶誾尼の、
「君ら、皆、臆病風に吹かれまくりの猫の前のネズミやないかい!運がなかったら、それまでや!男なら夜討ちかけてみんかい!」
一言で夜討ちが決定し(直茂公譜考補)、あの今山の戦い(8月20日参照>>)の奇襲が決行された・・・なんて話も残ります。

もちろん、この夜討ちが大勝利を導く事は言うまでもありません。

そして、そんな彼女の最も有名な話として残るのが、先ほど出て来た譜代の重臣・鍋島清房への押しかけ女房の話です。

弘治二年(1556年)のある日、清房は慶誾尼に呼びとめられます。

「アンタも、奥さん亡くして、なにかと不自由やろ?えぇ人紹介したるさかいに、いつがええか日を決めといてな( ^ω^ )」
と・・・

確かに、清房は数年前に奥さんと死別していて、12歳なる長男・信昌(のぶまさ)を筆頭に4~5人の子供のいる身・・・しかし、清房自身に、今は再婚する気がないので、その場は、丁重にお断りを申し上げる清房でした。

ところが、その後、慶誾尼は自ら輿(こし)を仕立てて、清房の屋敷へ・・・
「来ちゃった(*´v゚*)ゞ」
もちろん、事態が飲みこめない清房は、ただただ茫然としていたと・・・

そう、清房に紹介したいイイ人とは、夫と死別しても、未だ尼になっていなかった彼女自身・・・

驚きを隠せない清房ではありましたが、相手が元上司の奥さんで、現上司の母親とあっては、なんとも言えず・・・「お二人はご夫婦となられたのです」(肥陽軍記)

こんな、なんとも凄まじい行動ですが、ここは、彼女のインタビューをお聞きください。

「この乱世、優秀な人材を登用して当主・隆信を盛りたててもらわんとやっていけませんがな。
そう思って、日頃から一門や他家の中から誰かおらんかと探していたところ、清房の長男・信昌に勝る者はいてませんでしたんや。
幸いな事に清房は奥さんに先立たれて独身やし、ほな、ウチが嫁に行って、隆信と信昌が兄弟になっったら、龍造寺の行く末も万々歳やなって思いましてん」
(直茂公譜考補)

そう、この長男の信昌が、隆信の9歳年下で、まさに、その右腕となる、あの鍋島直茂(なべしまなおしげ)です。

一見、48歳のオバサンが、恥も外聞もなく、よくヤルなぁ~・・・と思ってしまいますが、そこには、彼女がその身をかけて守りたかった大切なものへの揺るぎない思いがあったのです。

それこそ、当初は、はしたない行動と誹謗中傷された彼女の押しかけ女房事件ですが、後に、徳川家康の養女を娶る事になった直茂の息子・勝茂が、伏見城にて家康と謁見した際、家康は彼女の行動を大絶賛したのだとか・・・

というのも、この彼女の行動が、見事、この後の龍造寺を救うのです。

それは、島津氏の勢力が、あの大友宗麟をしのぐほどになりつつあった頃・・・

天正十二年(1584年)3月24日に起こった『沖田畷の合戦』で、息子・隆信は島津に敗れ、命を落とし(3月24日参照>>)、その翌年には、夫の清房も亡くなります。

そして、すでに耳川の戦い(11月12日参照>>)に敗れて、風前の灯だった宗麟が、豊臣秀吉に救援を求めた事で、九州征伐に乗り出して島津を配下に治めた秀吉・・・(4月17日参照>>)

龍造寺は、その秀吉の采配で肥前一国が安堵され、慶誾尼の孫にあたる政家も豊臣政権へと出仕する事になりますが、その政家は病気がちで、嗣子である長法師(後の高房)も、未だ幼い・・・こじれにこじれる跡目争いが長引けば、それをきっかけに、さらに領地を削られる可能性も・・・。

そこで、慶誾尼は一言・・・
「誰が何と言おうと直茂のほかになし!とりあえずは、亡き隆信と兄弟である直茂が領国を継ぎ、幼い長法師を盛りたてるように」

かくして、領国は直茂が、家督は長法師が相続する事を秀吉に奏上して、その許可を得、事無きを得たのです。

この時、未だ九州の陣中にて、この報告を聞いた秀吉は、
「龍造寺隆信とは、よほどの武将と見た。なぜなら、その仔細を直茂にまかせているから・・・よくぞ、その器量を見抜いたものだ」
と言ったのだとか・・・

いえいえ、秀吉さん・・・
そこには、慶誾尼さんもいたのですよ。

慶長五年(1600年)3月1日・・・息子の死後も家を守り、子孫のための確かな道筋も定めたゴッドマザーは、静かに92歳の生涯を終えました。
  

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

初めまして。1年ほど前にこのサイトに出会い、いつも興味深く拝見しています。

すごいご母堂様ですね~。
歴史ドラマの中では、主人公はいろいろな場面に首を突っ込む権利があり、実際には関与していないであろうことも関与したように描かれますが、このご母堂は実際に首突っ込んで、しかも意見が採用されて成功してるとは…。

でも、実際にドラマ化されたら、皆信じがたく、放送日の翌日は、ドラマの感想として、
「この時代そこまで発言権あったのか?!」
とか、茶々様が付記してくださったような当時の記録集があるにも関わらず、
「史実にのっとってない」
みたいな声が上がりそうですね。女性主人公って難しい…。

ちなみに、「男なら夜討ちせい!」のあたりから、私の脳内では、彼女のセリフは泉ピン子さんの声&顔で再生されてました(笑)

投稿: おぺりん | 2011年3月 1日 (火) 19時13分

茶々様、こんばんは。今日の“その日”は隆信のオカン!?清房と再婚して隆信と直茂が異母兄弟に…ってのは知ってましたが、その他にも活躍してたんですね。何やら龍造寺家には無くてはならない人物。肥前の肉食系女子!
今日、『佐賀の御守り』がニュースで取り上げられてました。学科別に、例えば、成富茂安は土地、土木、江藤新平は法律etc…。全種類で10人だったかな?佐賀に来た時には、受験生へのお土産に、1つどうぞ♪

投稿: 佐賀の田舎者 | 2011年3月 1日 (火) 19時46分

茶々様、こんばんは。
この時代で92才とは、かなりの長寿ですね。大河ドラマ向きかもしれないですね。

投稿: いんちき | 2011年3月 1日 (火) 20時52分

茶々さん、こんばんは!

龍造寺家のストーリーもドラマチックな展開が一杯あって面白うそうですね。

隆信の「隆」は大内義隆からもらったものか、と変に納得しちゃいました。

そうそう、神代って「こうじろ」って人もいれば「くましろ」って言う人もいるようですよ。

投稿: 御堂 | 2011年3月 1日 (火) 23時50分

おぺりんさん、こんばんは~

ホント!
すごいお母さんですよね~

92歳っていうところが、また、彼女らしい雰囲気を妄想させてくれます。

投稿: 茶々 | 2011年3月 1日 (火) 23時59分

佐賀の田舎者さん、こんばんは~

>肥前の肉食系女子…

なるほど…
最近はそういう言い方がありましたね。
ゴッドマザーより、そっちの方が良いですね~

>佐賀の御守り

なかなか、考えられてますね~
効果ありそうです。

投稿: 茶々 | 2011年3月 2日 (水) 00時02分

いんちきさん、こんばんは~

>大河ドラマ向きかも…

老いた姿が似会う、ステキな女優さんに演じていただきたいですね~

投稿: 茶々 | 2011年3月 2日 (水) 00時04分

御堂さん、こんばんは~

>「こうじろ」「くましろ」

なるほど、そう読むのですね。
教えていただいてありがとうございます。

早速、ふりがなの訂正を…ソソクサ(^-^;

投稿: 茶々 | 2011年3月 2日 (水) 00時06分

 こんばんは。偶然辿り着きました。
実は私、龍造寺隆信-政家-高房-季明と続く龍家の裔でして、慶誾尼ばば殿をここまで書いていただき、感謝しております。
 うーん、大河ドラマですか! 最近の大河ドラマ、とりわけヒロイン物は、史料の少なさを逆手にとって自由に展開させているようですし、いいかもしれませんね。そうなることを、少しだけ期待します。
 また、いろいろと楽しい事を書かれますよう。

投稿: 龍造寺 靖明 | 2011年8月22日 (月) 23時48分

龍造寺靖明さん、こんばんは~

おぉ、ご子孫方ですか~
喜んでいただいて光栄です。

ヒロインにふさわしい女傑だと思います!

投稿: 茶々 | 2011年8月23日 (火) 01時55分

この方の事は全く知りませんでした。
戦国時代の九州には詳しくないので、ドラマに虚構を入れられても多分見破れない。
本題とは全く関係ないですが…
複数の読み方がある苗字、ややこしいですよね。
「神代」にはもっと読み方があってもおかしくないと思いますが、読み方を変えて別人または別の家になりおおせる、といったことが戦国時代は可能だったと思います。実際のところはどうだったのでしょう。

投稿: りくにす | 2013年3月31日 (日) 19時51分

りくにすさん、こんばんは~

なんか、明治以前の日本人は「名前の読み方にあまりこだわっていなかった」という話を聞いた事があります。
出世すると名前を変えるのが珍しくない時代ですし、「同じ苗字が多くてややこしい」で読み方変えたりって事もあったみたいですもんね。

投稿: 茶々 | 2013年4月 1日 (月) 02時51分

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