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2011年4月30日 (土)

夫・源義経との最期を選んだ郷御前

 

文治五年(1189年)4月30日、源頼朝の要請を受けた奥州藤原氏の4代目=藤原泰衡が、頼朝の弟=源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込みました

最後の戦いとなった衣川の戦いでの義経主従の奮闘ぶりは、一昨年の【衣川の合戦~義経・主従の最期】(2009年4月30日参照>>)のページで見ていただくとして、本日は、この時、義経とともに死出の旅路へとつく正室とされる女性について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

源義経(みなもとのよしつね)のお相手と言えば、一番に名前があがるのが静御前(しずかごぜん)・・・

確かに、歌舞伎やお芝居に描かれる、二人の悲恋は感動モンですが、この二人の恋を純愛感動物語に描きたいがために、ドラマなどでは、他の女性がほとんど描かれず、あまり歴史に興味のない方々から見れば、まるで、義経の愛した人は静一人のような雰囲気になってしまってます。

しかし、ご存じのように、義経の周りにはいっぱい女性がいて、最初の都落ちの時などは10数人もの女性を連れて逃げてます。

もちろん、これは単に義経がスケベな女好きというだけではなく、彼が平家に代わって実権を握る立場となった源頼朝(よりとも)の弟であるとともに、義経自身も、平家を倒した英雄である事から、それにあやかりたいと思う者が、それだけ大勢いたって事なんですが・・・

そんな中で、おそらくは、義経が静御前より愛していたのでは?と思われるのが、彼の正室とされる女性です。

彼女は、義経が逃亡した奥州平泉では、正室を意味する「北の方」と呼ばれていたので、おそらくは正室・・・『吾妻鏡』など、史料とされる文献に登場する正式名称は「河越重頼女(むすめ)あるいは「義経室」で、故郷の河越(川越市)では、京の都に嫁いだ姫として「京姫(きょうひめ)と呼ばれていたと言われ、その実名は記録されていないのですが、本日は伝承の「郷御前(さとごぜん)というお名前でお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

武蔵の国の有力武士=河越重頼(かわごえしげより)の娘である郷御前が、義経との結婚のため、京に向かったのは寿永三年(1184年)9月14日の事でした。

時は、まさに、この年の1月に義経が木曽(源)義仲倒して京に入り(1月20日参照>>)、さらに2月には一の谷の鵯越の逆落としで平家を破って(2月7日参照>>)、さらに西へと追いやった頃・・・

この重頼という人は、その妻が、頼朝の乳母である比企局(ひきのつぼね)の娘・・・この結婚は、頼朝にとっては、将来、鎌倉幕府を支えてくれるであろう力強い御家人となる人物と、重頼にとっては、まさに源氏の御曹司と血縁を結んで、より信頼のおける関係を築くことのできる、両方にとって万々歳の良縁だったわけです。

しかし、実際には、すでに、暗い影が指していたのです。

・・・というのは、この結婚の1ヶ月前の8月に、義経は左衛門尉・検非違使(さえもんのじょう・けびいし)という治安を守る役どころに任官されていたのですが、これが、頼朝のところには、官位を受けた後の事後報告として届いていたのです。

頼朝は、家臣団の統率を計るため、常々「官位は鎌倉に一任すべし」という事を諸将に対して通達していたわけですが、これを、自らの弟が率先して破ってしまった事になります。

「弟だから・・・」と、それを許してしまっては、家臣たちに示しがつきませんから、当然、頼朝は激怒!

とは言え、この一件が起こった時には、すでに義経と郷御前の結婚・・・どころか、9月の中順に京へ上る事も決まっていたようで、頼朝は、怒り心頭になりながらも、「結婚は結婚・・・命令違反は命令違反として、後に対処する事にしよう」と考えたのでしょう。

結果的に、無事に婚姻は行われ、郷御前は京で暮らす事に・・・

やがて翌年、2月の屋島(2月19日参照>>)、3月の壇ノ浦(3月24日参照>>)と勝ち進み、平家を滅亡へと追いやった義経・・・

しかし、ご存じのように、意気揚々と鎌倉へ凱旋帰国しようとした義経に急展開の運命が・・・腰越で止め置かれ、「鎌倉には入るな」拒否されてしまうのです(5月24日参照>>)。

様々に理由づけされる、この頼朝の「義経拒否」ですが、やはり、先の命令違反とともに、合戦の作戦立案における義経の単独行動が問題だったと思われます。

義経の周囲の意見を無視した作戦実行は、今回、結果的に平家に勝利したから良いものの、この先も家臣団の一致団結を図りたい頼朝にとっては、そんな綱渡り的な行動をする弟を、弟だからと言って許すわけにはいかなかったのでしょう。

結局、鎌倉に入れてもらえない義経は、京に戻り、いつしか、頼朝に対抗する意思を見せ始めます。

これに対して頼朝は、10月11日、配下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)に命じて夜討をかけさせ(10月11日参照>>)、続く11月3日、義経は都落ち(11月3日参照>>)する事になります。

もちろん、郷御前も静御前も同行してます。

この時、一旦西国へ逃れてから態勢を整え、再び、頼朝に対抗するつもりで、いくつかの船団を組んで船出した義経一行でしたが、途中で嵐に遭って船は壊れ、船団も散り散りに・・・やむなく、近畿の山岳寺院を転々として逃避行を続けていますが、なんせ逃避行なので、その所在もルートもはっきりしません。

やがて11月16日には、あの有名な静御前との吉野の別れの話が出てくるのですが(11月17日参照>>)、その翌年、静御前が男児を出産する(7月29日参照>>)同じ年には、郷御前も女児を出産していますので、おそらくは、郷御前は、ずっと義経とともにいたか、どこかに潜伏していた場所に義経が通っていたか・・・とにかく、二人に交流があった事は確かでしょう。

どこを逃げ回ったかはともかく、若い頃に身を寄せていた奥州藤原氏を頼って、東北へと向かう義経・・・文治三年(1187年)2月10日、藤原秀衡(ひでひら)のもとに到着した(2月10日参照>>)一行の中には、赤ん坊を抱いた郷御前がいたのです。

男全員が山伏の姿に身をやつしていた事から、修験者が通るような険しい山道を通っての厳しい逃亡劇であったはずですが、彼女は稚児姿になり、ともについて行ったわけです。

もちろん、義経も・・・静御前とは別れても、彼女は連れて行きたかった・・・という事でしょう。

考えてみれば、この二人、頼朝との不和が表面化した時点で、義経は郷御前を実家に返しても良いわけですし、彼女も、そのようにしても、何の問題もなかったはず・・・なんせ、もともと頼朝が決めた政略結婚なのですから。

しかし、義経は彼女を連れて東北に落ちる事を望み、彼女も、すでに追われる身となった夫について行く事を望んだのです。

それこそが、本当に二人が愛し合った証と言えるでしょう。

しかし、当主の秀衡が亡くなると同時に、その運命は、最終段階へと急速に進んで行きます。

秀衡という大黒柱を失った奥州藤原氏・・・後を継いだ息子・泰衡(やすひら)は、頼朝の再三の要請に屈し、文治五年(1189年)4月30日(義経記では29日)、義経主従の衣川の館を急襲するのです(再び2009年4月30日参照>>)

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)をはじめとする一騎当千のツワモノが敵の矢面と立つ中「もはや、これまで」と最後を見てとった義経は、持仏堂へと入り、郷御前と、4歳になる娘を刺し殺してから、自らも自刃を遂げたのです。

義経31歳、郷御前22歳・・・

死出の旅路とは言え、最期までその愛を貫いた二人・・・せめて、少しでも幸福を味わったひと時があった事を願うばかりです。

Yositunekoromogawa900 奥州高館台合戦義経主従勇戦働之事(国会図書館蔵)

ところで・・・
以前から、私は、義経とりまく多くの女性の中で、せめて、この郷御前だけはドラマで描いていただきたいと思っていましたが、2005年の大河ドラマ「義経」=タッキー主演のヤツ(もえ)という名前で、やっと登場してました。

ただ、ドラマでは、私の描いていたイメージとは真逆でした・・・(ρ_;)

ドラマでは、やはり静御前との純愛路線を描きたいがため、静御前が純心で一途で控えめ、一方の正室がしっかり者の女房って感じで描かれていましたが、私の思いは反対です。

これまでの経緯を見ればわかる通り、郷御前はイイトコの娘さんで、静御前はプロの女性・・・現代風に例えたなら、頼朝大社長の弟で重役クラスの義経が、妻として迎えた子会社の社長=重頼の娘が郷御前で、お気に入りのクラブのチーママが静御前・・・

仕事はデキるけど世間知らずなヤボな男に、恋の手ほどきをする姐御肌の静御前と、それを知りつつ一途に夫を愛する純粋な乙女の郷御前・・・

もちろん、静御前は、プロの中のプロとして、二人の間に入って家庭を壊すような事はしない・・・てな感じの構図が見え隠れする気がしてならないのです。

いつか、そんなドラマも見てみたいっす( ̄ー+ ̄)
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2011年4月28日 (木)

兄が天下人になったために…秀吉の妹・旭姫の悲しみ

 

天正十四年(1586年)4月28日、豊臣秀吉の妹・旭姫が徳川家康に嫁ぎました。

・・・・・・・・・・・

先日、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」に絡めて、戦国女性の政略結婚についてお話させていただきました(4月22日参照>>)

戦国に生きるお姫様にとっての政略結婚は、おそらく、現代人が思うほど悲劇ではなく、彼女たちは、むしろ、実家と婚家のかけ橋となる役目をになえる事に誇りを持ち、結婚後も、彼女たちなくしては家内が回らないほどの大きな役割を果たす場合もあり、最近の研究では不幸一辺倒ではない、高い評価を受けているという事もお話させていただきました。

Asahihime600 しかし、例外はあります。
それが、今回の(あさひ・朝日)・・・

・・・というのも、政略結婚に限らず、その出来事が悲劇か悲劇でないか?という判断には、当人の育った環境によってつちかわれた価値観が大きく左右するのでは?と思えるからです。

以前、昨年の大河「龍馬伝」の最終回を迎えてのページにも、その末尾のほうに少し書かせていただきましたが(11月29日参照>>)、ドラマの中では、幕末は暗く悲しい時代で、龍馬は事あるごとに、(これからは)皆が笑って暮らせる世の中になるがじゃ」と言っていましたが、実際に、幕末の日本を訪れた外国人の記録には、「道行く人々は、皆、礼儀正しく、明るく、いつも楽しそうだった」事が書かれています。

そういった外国人の記録は山ほどあります。

つまり、身分制度や規則に縛られた封建的な江戸時代が、暗く悲しい時代だったというのは、現代人の価値観なわけで、その時代に生きた人は、そんな事は思ってはいなかったかも知れないと・・・

それは、戦国時代も同じですし、さらに、同じ時代に生きても、置かれた立場で、また、価値観は違います。

たとえば、お姫様を、今風にお嬢様と仮定した場合・・・

資本主義社会となっている現代では、「お嬢様=お金持ちの娘さん」という事になりますが、封建的社会では、そうではありませんよね?

戦国時代、天皇家より武家の領主ほうがお金持ちでしたが、お嬢様度が高いのは天皇家のお姫様のほう・・・江戸も後期になると、武家より豪商のほうがお金持ちですが、お嬢様度が高いのは武家の娘さん。

そこには、生まれながらにして置かれた環境によって得る価値観、その立場に見合った教育を受けて育つ価値観があり、当人たちにとっては、その価値観から外れた出来事&行動のほうが不幸であり悲劇であると思うのです。

各領地がそれぞれ別の国であった戦国時代は、領主=殿さまは、その国の王であり、お姫様は、その身内・・・

つい先日も、天皇・皇后両陛下が茨城県の被災地を訪問された姿が報道されていましたが、その映像を見て、感動された方も多いでしょう。

なぜ感動するか?・・・それは、両陛下が、個人ではなく公の立場で国民の事を最優先に考えて行動されているからです。

戦国時代・・・王の身内であるお姫様にとっての政略結婚は、領民・領国を背負って、一大勝負を賭ける「女の戦」であって、それに挑む誇りこそあれ、「好きでもない人と結婚するのはイヤ!」などという個人的思考を優先する事は、むしろ、君臨する資格さえない恥ずべき行為であったと思うのです。

単なる武家の娘ではなく、その地を統治する=君臨するという事は、そういう事だと思います。

だからこそ、庶民は上に立つ人の公を優先する行為に感動し、上に立つ人は自らの役割に誇りが持てるのではないでしょうか?

そういう点で、お市の方や、江を含む浅井三姉妹など、生まれながらにしてお姫様だった彼女たちは、そういう教育を受けて来たし、そういう価値観を持っていたと思います。

・・・が、しかし、今回の旭姫・・・

ご存じのように、彼女は豊臣秀吉異父妹(同父母という説もあり)で、農夫と結婚して、大人になるまで、農家の嫁として生きて来た人です。

つまり、彼女は、お市の方や浅井三姉妹とは生まれ育った環境も違えば、お姫様としての教育も受けてないわけですから、上記ようなお姫様独特の価値観や、公を優先するといった思考が育つはずはないわけです。

とは言え、彼女の事は、ほとんど記録に残っておらず、その記録も、イマイチ矛盾が多くて、今のところ断定できない事ばかりなのですが・・・

彼女の夫として名前があがるのは二人・・・

まず、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)

彼は、元、尾張(愛知県西部)の農夫でしたが、旭姫と結婚していた事によって、秀吉が出世してから、その配下となり、尾張の名族・佐治氏を継いで佐治日向守と名乗ったものの、武士が性に合わなかったのかノイローゼ気味になって不祥事を起こしてしまったため切腹したのだとか・・・。

もう一人は、副田甚兵衛吉成(そえだじんべえよしなり)

織田信長の配下から秀吉の与力となって、当時、前夫を亡くして未亡人だった旭姫と結婚したものの、朝日姫を家康と結婚させるために離縁させられたのだとか・・・

という事で、旭姫は、2度結婚していたとも言われていますが、一方では、旭姫を家康と結婚させるために離縁させられたのは佐治日向守さんという話もあり、それだと、彼は切腹してないし、旭姫の結婚も1回だけという事になります。

とにかく、その相手は、微妙なれど、この時、秀吉が、すでに結婚していた44歳の妹・旭を、離縁させてまで、家康と結婚させた・・・という話は、合致しているようです。

では、なぜ、前夫と離縁させてまで、秀吉は、妹と家康を結婚させたのか???

それが、天正十二年(1584年)に勃発した、あの小牧長久手の戦いです。

信長亡き後の織田家・後継者を自負する信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)が家康と組んで、秀吉に対抗した戦いで、3月13日の犬山城攻防戦(3月13日参照>>)に始まり、3月17日の羽黒の戦い(3月17日参照>>)、にらみ合いの小牧の陣(3月28日参照>>)、そして、秀吉が手痛い敗北を喰らった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>)蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)

・・・と、徳川側の記録では、戦況は信雄+家康有利に進んでいたはずが、最後の蟹江城から5ヶ月後の11月11日、なぜか、信雄は単独で秀吉との和睦を受諾し、この戦いは終結となります(11月11日の前半部分参照>>)

その後、同じ年の12月には、自らの次男を人質に差し出して(11月21日参照>>)、一旦は、秀吉に屈するかに見えた家康でしたが、その翌年には、再び要求された新たな人質を拒否・・・何が何でも家康を服従させたい秀吉との間で、緊張が高まります

そんな緊張の打開策として行われたのが、天正十四年(1586年)4月28日の妹・旭姫と家康の結婚だったわけです。

しぶしぶこの結婚を承諾した家康は、その交換条件として、配下の有力家臣の中から、何名かの人質を、秀吉に出すという要求を呑みますが・・・

以前も書かせていただいたように、政略結婚の犠牲になった人の代表格はお市の方で、彼女が一番の悲劇の人とされる事が多いようでが、私は、この旭姫のほうが、よっぽど悲劇のように思います。

先ほども書いたように、朝日姫は、お姫様としての教育を受けてないし、領民や国を守らねばならない立場など、理解できるはずもない状況で、育って来たわけですから、それこそ、何が何だかわからないまま、勝手に結婚させられた感じでしょう。

それに、なんだかんだで、お市の方は、浅井長政ウマくいっていたようですし、柴田勝家とも、ともに死ぬ事を望むほど、その使命感に燃えた結婚だったわけですし、何より「妻として大事にして貰ってた感」がありますが(あくまで、予想ですが…(^-^;)、旭姫の場合は、家康との関係も、ちゃんとした夫婦として成り立っていたのかさえ危うい気がします。

というのも、結局、どうしても、家康に上洛して挨拶してもらいたい秀吉は、この結婚の5ヶ月後の10月、「旭姫の見舞い」と称して、自らの生母・大政所(おおまんどころ・なか)を、家康のもとへ送り出します。

もちろん、これも人質ですが・・・この時、ここにやって来た大政所が、本物かどうか疑った家康は、岡崎城にて旭姫と面会させ、二人が涙ながらに抱き合うシーンを見て「本物だ」と確信して安心したというのですから、それまでの旭姫に対しても、良き夫として接していたかどうかというのは微妙ですよね。

しかも、その後、ようやく上洛して秀吉と会う(10月17日参照>>)事を決意した家康は、万が一、現地で自分の身に何かあった場合、いつでも大政所を殺せるようにと、その屋敷の回りに薪を積んで出掛けたというのですから、やっぱり・・・って感じです。

結局は、その結婚生活も2年・・・天正十六年(1588年)に、旭姫は、すでに京都に戻っていた母=大政所の病気の見舞いを理由に上洛して、そのまま京都の聚楽第に住みました

しかし、そのわずか2年後、母に先立って48歳という年齢で、その生涯を閉じます・・・やはり、心の痛手が癒しきれなかったのかも知れませんね。

もしかしたら、最期は家族のもとに戻れた事だけが、せめてもの救いだったかも・・・彼女こそ、戦国時代で、最も政略結婚に翻弄された人ではなかったか?と思います。
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2011年4月27日 (水)

アンケート企画:あなたが見たい歴史上の名場面は?

 

本日は、またまたアンケート企画といきましょう!

いざ合戦となると、兵農が未だ分離されない中世の頃には、農民たちでも、15歳~60歳くらいまでの男子は、皆、駆り出され、中には、本当に何の道具もなくて、紙で作った胴丸を身につけて出陣じた者もいたとか・・・

しかし、時代が進み、戦国も後半になって、しっかりと兵農分離された頃には、弁当持参で高台に登り合戦見物・・・むしろ、これが、農民たちの数少ない娯楽の一つだったと言います。

そこで、今回のアンケート・・・
「ふざけるな!」のお叱り覚悟のお遊びアンケートですが、

もし、たった一つだけ、歴史の名場面をS席で見れるとしたら、どの名場面を見てみたいですか?

いつも以上にイタズラ心満載の質問ではありますが、お楽しみの一つとして投票に参加していただければ幸いです。

とりあえずは、個人的に「これは?」と思う選択技を12個用意させていただきましたので、「見たい!」という物に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 聖徳太子が10人の話を同時に聞くところを、その真ん中で…
    真ん中だと耳鳴りがしそうですが、やはりその臨場感は、中心にいなくては味わえません(@Д@;
  2. 大仏開眼供養を最前列で…
    遠くインドからも僧が招かれたという、世界に轟く一大イベント…これを見逃したら、万博に行けなかった「ともだち」の気分だ(参照ページ:4月9日>>)
  3. 源義経の八艘飛びを9艘めの舟から…
    やっぱ、近づいて来る感じを見たいではありませんか!大河ドラマのように金粉まいてくれるかな?(参照ページ:3月24日>>)
  4. 静御前の舞いを頼朝の横で…
    なんたって、都一の舞いでっせ!かの神泉苑での雨乞い神事で、たった一人、雨を降らせた白拍子でっせ!チケット、即完売でっせ!(参照ページ:4月8日>>)
  5. 応仁の乱後に再興された祇園祭を特等席で…
    応仁の乱のために中止になっていた祇園祭…怨霊や邪気を祓って心機一転のお祭りを復活させた市民の心意気を間近で見たい(参照ページ:7月1日>>)
  6. 信玄と謙信の一騎打ちを妻女山の上から…
    謙信が鞭声粛々と降りて行った後なら、ゆっくり見られるよね?でも、二人がどこにいるかわかるかしら…望遠鏡いるかな?(参照ページ:9月10日参照>>)
  7. 信長の御馬揃えを東門の築地で…
    御所の東側に北から南に設けられた馬場…東門の築地の横には、正親町(おおぎまち)天皇が観覧される行宮(あんぐう)が設置されていたのだとか・・・本当は、そこが特等席だけど、あまりに恐れ多いので・・・(参照ページ:2月28日>>)
  8. そりゃぁ、やっぱり関ヶ原の合戦を、小早川秀秋が駆け下りた後の松尾山から…
    なんだかんだで天下分け目の関ヶ原…秀秋が去った松尾山は、やっぱ特等席かも???いや、むしろ近すぎかも・・・(参照ページ:9月16日>>)
  9. 井原西鶴のギネスに挑戦!を審査員席で…(ヘッドホンつき)
    貞享元年(1684年)6月5日、大坂は住吉神社の境内にて、一日一夜にして2万3500句を吐いた井原西鶴、やっぱり生のライブを見てみたい(参照ページ:6月5日参照>>)
  10. 第二次長州征伐・小倉口の戦いを龍馬の横で…
    この日、ユニオン号に乗ってやって来た龍馬は、幕府と長州の攻防を、高台に登って高杉晋作とともに見物したとか…戦いを見たいのか?龍馬と高杉の横に立ちたいのか?心は揺れる(参照ページ:6月16日>>)
  11. 西郷隆盛と勝海舟の会談を薩摩藩邸の床下から…
    江戸城無血開城へとつながる世紀の会談!床下はちと居心地悪いが、障子の影だと警戒されそうで…なんなら、天井に張り付きますか・・・(参照ページ:3月14日>>)
  12. その他
    「これを見たい!」「こんなの忘れてるヨ!」っていうのがあったらお知らせください 

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは5月10日に締め切らせていただきました。

投票結果&いただいたコメントは5月17日のページでどうぞ>>
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2011年4月26日 (火)

外様から異例の老中抜擢…松前崇広の無念

 

慶応二年(1866年)4月26日、外様大名でありながら老中まで昇りつめた幕末の松前藩主・松前崇広が38歳で病死しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じのように、江戸幕府をひらいた徳川家康は、自らの徳川一門と古参の譜代の家臣たちに対して、それ以外の豊臣恩顧に代表される大名たちを「外様」として、しっかりと区別しました。

よって、江戸時代を通じて、寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代といったキャリアを経て、最終的に老中へと至る、いわゆる官僚出世コースに、外様大名が乗る事はありませんでした。

もちろん、本人がいくら優秀でも・・・です。

以前、あの5代将軍・徳川綱吉が、「大変気に入った」として、土佐中村藩の山内豊明(とよあきら)若年寄に任命した事がありますが、その時は、わずか1週間で、彼は辞任しています。

表向きは自己申告による病気が理由で、そこには、「わずか3万石の土佐中村藩では、就任による出費がまかなえなかった」という背景があったと言われていますが、一方では、新参者の大抜擢に、「周囲の目、無言のイジメなどに耐えられなかったのでは?」との話もあります。

なんとなく、わかる気がしますね~。

そんな中、時期は幕末とは言え、老中就任は、大したもの・・・

Matumaetakahiro600 ・・・で、本日の主役・松前崇広(まつまえたかひろ)は、文政十二年(1829年)、第9代蝦夷(えぞ・北海道)松前藩主松前章広(あきひろ)六男として生まれます。

六男という事で、初めは、藩主になるはずのない立場であったわけですが、第11代藩主を継いでいた兄の子供(つまり甥っ子)昌広(まさひろ)が病気になって隠居・・・その嫡男の徳広(のりひろ)がまだ幼かった事で、昌広の養子となって、第12代・松前藩主となったのでした。

それまで、藩主になるべき立場ではなかったという事もあって、崇広は、自らがキッチンに立って料理を作るほどの庶民的なお方・・・それでいて、幼少期からつちかった武術馬術にも優れ、蘭学兵学にもくわしく、はたまた英語も話せたと言います。

そんな好奇心旺盛な彼は、西洋の最新科学に興味津々で、電気機器や写真などを実際に使用するほどの西洋通だったそうです。

藩主に就任したての嘉永六年(1853年)には、北方の要とされたその地に、天守閣を持つ立派な松前城を構築したりもしましたが、安政二年(1855年)には、幕府が、松前藩の領地を直轄地としてしまいました。

まぁ、その代わりの領地として陸奥梁川(やながわ)3万石を与えられてはいるんですが、この松前藩の初代藩主である蠣崎(かきざき・松前)慶広(よしひろ)さん(1月5日参照>>)のところでも書かせていただいたように、ここ松前では、領地の広さうんぬんより、その交易の窓口という立場のほうが重要・・・

この交易権を失ってしまった事で、藩の財政は困窮を極めていく事になります。

一方、そんな藩の事情とはうらはらに、時代は、この西洋に通じた青年をほってはおかなかったのです。

文久三年(1863年)、崇広は寺社奉行に大抜擢されました。

そう、あの出世コースの第1段です。

先に書いた通り、外様大名からの、この出世コースは異例中の異例・・・昼夜を問わず、身を粉にして公用をこなす崇広でした。

とは言え、やはり、藩の財政がひっ迫している事には変わりなく、また、「これまで散々のけ者扱いされていながら、なぜ?この開国か攘夷かの異常事態の時に、松前という小藩が骨を折らなくてはならないのか?」などという家臣たちの意見もあり、結局、わずか3カ月で、崇広は、寺社奉行を辞任する事になりました。

そんなこんなの11月・・・崇広は、領内で座礁したイギリス商船エゲリア号の乗組員・19名を全員救助し、ビクトリア女王から、感謝の意を込めた松前家の家紋入りの懐中時計をプレゼントされるという出来事がありました(お礼のプレゼント自体が届くのは翌年です)

文久三年と言えば、3月には、あの第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が上洛して孝明天皇との謁見で「攘夷(じょうい=外国を排除)決行の約束」をしちゃって、5月には、長州が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃(5月10日参照>>)・・・7月には、あの薩英戦争が勃発(7月2日参照>>)する年ですよ!

モロ、攘夷の嵐・真っただ中・・・そんな時に、人道的立場を重視したこの行為は、外国人領事・オールコックから絶賛されたそうですが、外国人ならずとも、この先の歴史を知っている後世の人間からすれば、まさに、崇広さんのような人にこそ、その手腕を奮っていただきたいと思うばかりですが・・・

まさに、そんなタイミングの翌・元治元年(1864年)・・・やはり、その西洋との良好な関係が功を奏したのか、将軍・家茂による再びの大抜擢により、いよいよ老中にまで昇りつめた崇広さんではありましたが、事は、そううまくはいきませんでした。

翌・慶応元年(1865年)、家茂のお伴をして大坂に下って来た彼を待っていたのは、京都守護職会津藩主松平容保(かたもり)と、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)と、将軍後見職徳川慶喜(よしのぶ)・・・まさに徳川一門勢ぞろいといった面々・・・

もちろん、彼らが悪人というわけではありませんが、やはり、これまでの外様との確執もあり、何より、容保などは、攘夷派のリーダー的存在ですから、新参者の崇広と、ことごとく意見が対立するのは致し方ないところ・・・

さらに、その年の9月には、陸海軍総裁となって長州征伐の責任者となった崇広でしたが、そこに起こったのが、アメリカイギリスフランスオランダの4ヶ国による兵庫開港要求です。

兵庫港の開港の話自体は、あの安政五年(1858年)に締結された日米修好通商条約の時からあって、本来は、文久三年(1863年)に開港されるはずでしたが、外国ギライの孝明天皇の意向により、ヨーロッパに使節を派遣したりなんぞして、のばしのばしにしていたのです。

しかし、先の、長州が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃しちゃった事件から発生した下関戦争(8月8日参照>>)で、長州をコテンパンに叩きのめした4ヶ国が、その勢いに乗って艦隊を率いて兵庫港にやって来たのです。

「兵庫開港に速やかに答えてくれへんのやったら、幕府には、交渉する意思がないと判断して、直接、京都御所に行って天皇と交渉するからな!」

あきませんがな!
外国が、幕府を飛び越えて、天皇と直接交渉するなんて事になったら・・・

崇広は、もう一人の老中=阿部正外(まさと・まさとう)と相談のうえ、開港要求から2日後の9月15日・・・朝廷に無許可のまま開港を決定しました。

崇広ら両老中の意見は、
「この問題は幕府の行政権内にある物で、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)の必要はないし、万が一、幕府が拒否をして、諸外国が直接、朝廷と交渉するような事になれば、幕府は必ず崩壊する」
というもので、もちろん、将軍・家茂の許可は得ていました。

しかし、慶喜が、この条約の不可を主張・・・朝廷も、彼ら二人の老中の冠位をはく奪し、9月29日付けで、老中解任&謹慎処分となってしまいました。

翌・慶応二年(1866年)正月・・・失意のまま松前に帰還した崇広は、そのわずか3カ月後の慶応二年(1866年)4月26日急性の熱病におかされ、38歳という若さでこの世を去ります。

あまりの急逝に毒殺説も飛び交う疑惑の死ですが、西洋事情に精通した彼ならば、おそらく、この先の事が見えていたはず・・・

時代が要求したにも関わらず、思う存分に手腕を発揮できなかった無念の解任・・・しかも、維新を見る事なくこの世を去ってしまった崇広さんが、もしも無事に明治を迎えていたら、どれほどの偉業を残された事でしょうか。

残念でなりませんね。
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2011年4月25日 (月)

漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX~時の記念日

 

天智十年(671年)4月25日、天智天皇水時計を使って、初めて鐘鼓を打って時を知らせました。

・・・・・・・・・・・・

『日本書紀』天智十年(671年)の四月二十五日の項に、
「漏刻(洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」
と書かれてあります。

この漏刻(ろうこく)というのが、いわゆる水時計みたいなシステムの事です。

さらに、この天智十年4月25日という日づけを、太陽暦に換算すると671年6月10日になるという事で、現在、6月10日『時の記念日』という記念日に制定されています。

という事で、本日は、その漏刻なる物がどんな物なのか?というお話を中心に進めさせていただきます。
(画像は、すべてクリックしていただくと大きくなります)

・‥…━━━☆

とは言え、『日本書紀』の記述を引用して、大正九年(1920年)に「時の記念日」という記念日が制定されたものの、当時は、それが、天智天皇が皇太子=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代の斉明六年(660年)に水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステムを造り、この天智十年(671年)4月25日に、初めて実際に使用して時を知らせたという事がわかっているだけで、その漏刻なる物が、実際にはどんな物であったのかは、ずっと謎だったわけです。

そんな長年の謎が解けるのは、昭和五十一年(1976年)・・・奈良県明日香村のとある発掘現場で、それが発見されたのです。

現在、それは水落(みずおち)遺跡呼ばれ、ほぼ調査は完了し、丁寧に保存されています。

Dscn1521a800 水落遺跡(奈良県明日香村)

Roukoku800d ←建物外観の想像図

ここで見つかったのは、綿密かつ堅固に建てられた水時計用の建物と、その中央に黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置。

Roukoku600b ←地下水路
また、特殊な基礎工法を使って、建設途中に埋め込まれた木樋によって、水路が縦横無尽に走り、この水時計の建物を中心に、様々な施設があった事も確認されています。

Dscn1520a800 水落遺跡の北方100mほどの所には、明治時代に石人像が出土して注目を浴びた石神遺跡(→)という遺跡がありますが、ここも、昭和56年(1981年)から始まった本格的調査によって、通路でもって水落遺跡とつながっていた事が明らかとなっています。

当時の日本は、律令制による中央集権的な国家体制を急速に整えようとしていた真っ最中で、先進国である中国にならって、明確な時刻のもとに秩序ある政治体制を整える事は、国家の一大事業・・・まさに、この漏刻システムは、国家の維新をかけたプロジェクトだったわけです。

・・・で、肝心のそのシステムですが・・・

Roukoku600a 内部の想像図

と、このように、1階に水時計の装置を置き、2階に都じゅうに時を知らせる鐘、もしくは太鼓が設置されていたと思われます。

水時計は、階段になった水槽に水を張っていき、上段の水がいっぱいになると溢れ出して下段へ・・・、さらに、その段がいっぱいになると、また下に・・・という物で、最下の段に目盛りのついた人形を浮かべておいて、その人形の目盛りが決まった場所に来たら、鐘をついてみんなに時間を知らせる・・・という感じ・・・

単純作業に見えるけど、けっこう大変・・・ここで働く人は、やっぱエリートなですかね(゚ー゚;

このシステムのおかげで、どうやら宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになったとか・・・

時間に正確な日本人の気質は、ここですでに生まれていたのかも知れませんね。

・・・で、そんな奈良時代の官僚の勤務システムについては、以前書かせていただいた時の記念日のページ(6月10日参照>>)で。。。

少し内容が重なる部分もありますが、どうぞご覧あれ!

追記:水落遺跡&石神遺跡への行き方は、本家HP「歴史散歩:明日香村」>>でどうぞ!
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2011年4月23日 (土)

寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士

 

文久二年(1862年)4月23日、薩摩藩士同士による抗争事件と言われる『寺田屋事件』がありました。

・・・と、寺田屋事件に関しては、2007年の4月23日に一度書かせていただいているのですが(2007年4月23日を見る>>)、4年も前のページという事もあり、本日は、薩摩九烈士の中心人物で、その日、壮絶な死を遂げる有馬新七を中心に書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

文政八年(1825年)、薩摩藩の郷士・坂木正直の息子として生まれた有馬新七(ありましんしち)は、3歳の時に、父が薩摩藩士の有馬家に養子に入って継いだのに伴って、鹿児島城下へ移住・・・彼も、そのまま城下士となりました。

天保十四年(1843年)、19歳の時に江戸に出て、山口菅山(かんざん・重昭)の門を叩き、儒学者で神道家の山崎闇斎(あんさい)の学問を学びました。

同時に直心影流(じきしんかげりゅう)の剣術にも秀でていたという新七は、まさに文武両道・・・安政四年(1857年)には、薩摩藩邸学問所の教授にも就任しました。

しかし、一方では、早くから、その思想は攘夷(じょうい=外国を排除する)へと傾き、京都では、尊王攘夷派の志士・梅田雲梅(うんびん)などとも交流・・・京都所司代酒井忠義(ただあき)暗殺計画なんぞ練ったりして、水戸長州にも、その名が知られる存在となっていきます。

安政六年(1859年)の安政の大獄(10月7日参照>>)の時には、それを決行した井伊直弼(いいなおすけ)に激怒し、孝明天皇から水戸藩へ下された『戌午の密勅(ぼごのみっちょく)の写しを土佐・福井・宇和島の3藩に伝達する役目をこなし、張本人=直弼の暗殺計画も企てます。

*戌午の密勅:攘夷を望む天皇が、攘夷に積極的でない幕府を飛び越して、直接、水戸藩に下した攘夷命令…(12月17日:天狗党のページ参照>>)

ただ、この直弼暗殺は、藩の同意が得られなかったために挫折・・・ご存じのように、当初からともに計画を練っていた水戸藩士が中心となって桜田門外の変が決行されました(3月3日参照>>)

しかし、この時は藩の手前、何とか、その行動を押さえたものの、攘夷に燃える心は、まだまだ揺るぐ事はありませんでした。

大久保利通(としみち)ら40人の同志とともに脱藩挙兵をしようとしたり、薩摩藩尊攘派の結社=忠組(精忠組・せいちゅうぐみ)に参加してみたり・・・と、とにかく過激な行動を取り続けています。

やがて文久二年(1862年)3月・・・薩摩藩国父(こくふ=現藩主・忠義の父)島津久光(ひさみつ)が、公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力して難局を乗り越えようという計画)を推進するために、兵を率いて上洛する事に・・・

本来なら、そのお伴として、新七も、久光と一緒に上洛するはずでしたが、直前に取りやめて、逆に、彼は一足早く、京都に向かったのです。

実は、久留米藩神官の真木和泉(まきいずみ)や長州藩士の久坂玄瑞(げんずい)らと図って、青蓮院宮朝彦親王(しょうれんいんのみやあさひこしんのう・後の中川宮)(8月18日参照>>)看板に掲げ、あの京都所司代の酒井を襲撃するつもりだったのです。

そう、久光が率いて京都にやってくる兵を自分たちが扇動して、そのまま挙兵してしまおうと考えたのです。

この時の新七・・・自らしたためた自叙伝を息子・幹太郎に渡し、妻・ていとも離縁しての覚悟の上洛でした。

しかし、久光は、この不穏な空気を敏感に察知・・・奈良原繁(ならはらしげる)ら9人の藩士を鎮撫使(ちんぶし)として、新七のもとに派遣して、その説得に当たらせたのです。

かくして文久二年(1862年)4月23日、場所は、新七らが滞在していた伏見・寺田屋・・

ここまでの過激な攘夷運動や、その壮絶な死から受けるイメージで、これまでの時代劇では、なにかと血気盛んな雰囲気の俳優さんが演じられる事の多いこの新七さんの役ですが(篤姫の時は的場浩司さんでした)、実際には、その聡明さもあって、意外に冷静沈着な人だったようで、最初に奈良原らの訪問を受けた時は、一触即発というムードではなく、静かな話し合いの雰囲気だったと言います。

まずは、奈良原が
「今、現在、大殿様(久光)のお考えが、徐々に京都に受け入れられつつあるのだから、ここは、一つ、同志を引っ張って、藩に戻ってくれないか?」
説得します。

しかし、新七は
「青蓮院宮様のお召しを受けているので、それが終わってから・・・」
と・・・、もうすでに、計画が後戻りできないところまで来ている事をうち明けます。

しかし、奈良原も主君の命令を帯びて来ているわけで・・・

「主君の命令を聞けぬのなら、腹を切ってもらわんと・・・」
「主君の命令より宮様の御用の方が先である」

言わば、主君の代理として、この場へ来ている奈良原は
「それならば、この場で上意討ちするしかないが…良いのか?」
「仕方なかろう」
と、問答は続きますが、それでも、当の二人は冷静でした。

しかし、側にいた彼らの同志たちが、
「どうしても聴かんのか!」
「聴くか、ワレ~」
と、それぞれに徐々に声を荒げていったのです。

やがて、奈良原の横にいた道島五郎兵衛が、「上意!」と叫んで、新七の脇にいた田中謙助に斬りつけました。

そこへ、遅れて到着した鎮撫使の一人・山口金之進が、前後の流れもわからぬまま、そこに座っていただけの新七の同志・柴山愛次郎背後から斬殺!

これに新七がブチ切れて、刀を抜きます。

しかし、道島を相手に、数回刀を合わせたところで、無残にも新七の刀は折れてしまいます。

やむなく、素手で道島を抱え込んだ新七は、そのまま、自らの体全体を使って道島を壁へと押し付け、自分の体を、その上に密着させながら
「オイ(俺)ごと刺せ!オイごと刺せ!」
と叫んだと言います。

そばにいた無我夢中の若い同志は、気が動転し、言われるがままに二人を串刺しに・・・新七は、うめき声一つあげない即死状態だったとか・・・

結局、鎮撫使の道島と、新七を含む攘夷派の志士6名がその場で死亡し、2名が重傷・・・その時2階にいて、下階の惨劇を知らなかった22名は、説得に応じて投降したという事です。

投降に応じた中には、後に大活躍する大山巌(いわお)西郷従道(つぐみち)もいたというのですから、新七をはじめ、亡くなった面々の未来が惜しまれるというものです。

しかも、重傷を負った二人は、翌日、切腹に処せられますが、そのうちの一人(当日その場で死亡した説もあり)橋口壮介(そうすけ)は、その死の間際に、奈良原に向かい
「俺らが死んでも、君らがおる・・・この先の事は、君らに頼む」
と言い残したのだとか・・・

攘夷派、佐幕派、公武合体派・・・

同じ藩に生まれながらも、敵・味方に分かれてしまった両者・・・
しかし、どちらも目指すのは、日本の明るい未来・・・

立場は違えど、お互いが命をかけて明日への扉を開こうとしている事は、両者ともに理解していたのでしょう。

彼らは、皆、国の大事に向き合っていた政治家たち・・・

それから、わずか百数十年・・・この国の明日のために、命をかけてくれる政治家は、いったい何人いるのでしょうか?

Dscn3594ac900 薩摩九烈士の墓(伏見・大黒寺)
大黒寺への行き方は、
「本家HP=京都歴史散歩:伏見」>>で紹介しています。

事件直後は、汚名を受けた彼らでしが、後に、薩摩藩が方針転換した事により、維新の魁=薩摩九烈士として供養されました。

また、事件の現場となった寺田屋には、現在の寺田屋が建っている場所の隣にある京都市所有の幕末の寺田屋が建っていた跡地に、維新となった後に建立された九烈士の碑があります。
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2011年4月22日 (金)

大河ドラマ「江」に思う政略結婚と女性の役割

 

遅ればせながら・・・
ではありますが、先々週くらいからのNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の中で、気になっていた事を・・・

それは戦国時代の結婚&離縁についてです。

大河ドラマでは、
前々回の「第12回・茶々の反乱」の最後のほうで、茶々に好意を寄せる秀吉が、何かチョッカイを出そうとすると、その度に三女のが邪魔をして(しかも、なぜか秀吉には江が怒ると信長が怒ってるように見える)「うっとぉしい事このうえない」と考えていたところに、「そうだ!あの邪魔者を嫁に出してしまおうと思いつきます。

・・・で、その次の「第13回・花嫁の決意」で、その結婚相手を、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)配下の大野城主・佐治一成(さじかずなり)に決定・・・その後、問いただされて、今、思いついたかように、「信長が夢枕に立ってそうせよと言った」とか、「この結婚で、信雄との合戦が回避される」とかの理由を、後付けで話してました。

この回の最後に、結局、江は、その結婚を承諾するわけですが、その理由が、「この後、姉=茶々によこしまな気持ちを抱かない事を約束してくれるなら…」と・・・!!(゚ロ゚屮)
最終的に、秀吉に「茶々に手を出さない」という誓約書まで書かせていました。

そして、「第14回・離縁せよ」では、そんな雰囲気でお嫁に行ったにも関わらず、この一成さんという人が、けっこうイイ人だった事で、「嫁に来て良かった」と幸せ気分に浸っているのもつかの間、信雄+徳川家康VS秀吉小牧長久手の戦いが勃発し、蟹江城攻防戦を完全スルーしたまま、この回のうちに合戦は終了・・・

ちょうど、その頃、難攻不落の大坂城を建てた秀吉は、この城が、豪華絢爛・贅を尽くした城であるにも関わらず、「何か物足りない」と感じる・・・
「あっ!そうだ…あの姫がいないから物足りないのだ!」
またもや!!(゚ロ゚屮)

と、「姉=茶々が病気になったので、お見舞いに来てチョンマゲ」というウソの手紙を送って江を大坂城へ呼び寄せ、そのまま離縁させてしまいます。

大坂城に到着して、手紙がウソだった事、ちょっぴり好きになりかけていた一成と勝手に離縁させられた事を知った江が、泣きながら秀吉に抗議する・・・

と、長いあらすじ紹介になりましたが、一応、こんな感じだったでしょうか・・・

最後に悔し涙を流しながら秀吉に雪を投げつける江と、それをあざ笑うかのような秀吉のニヤケぶりに、「さすがに今回は、江が可哀そうだった」と、ドラマに共感を持っている視聴者の方も多かったようですので、ドラマのストーリーとしては面白かったのでしょう。

ただ、歴史好きとしては、あまりにも現代的な考えの中、江の結婚&離縁の理由が、ともに秀吉の私利私欲の思いつきに終始してしまった事は、とても残念です。

もちろん、この結婚自体が、その結婚期間の短さもあって、実際には信長健在の頃に婚約が成立していたが、横死のドタバタで婚約のみで結婚には至らなかったとも言われている謎だらけの結婚ですので、ドラマでどう描こうが自由です。

秀吉の心の中にいたっては、記録に残るはずもありませんから、そのような気持ちを持っていたかも知れない可能性もあるわけですが、一つ言えるのは、たとえ、そんな気持ちを持っていたとしても、それを堂々を表に出す事はなかったでしょうし、そんな事で、こんな大事なカードを使う事はなかったでしょう。

言い方は悪いですが、戦国時代のお姫様は、ものすごく重要な交渉カード・・・まして、実子のいない秀吉にとって、自らの保護下にある、この3人のお姫様は、とても重要です。

どうやら、このドラマの脚本家の方は、そういった時代の一般常識をあえて無視してお話を勧めていかれるおつもりなのでしょう。

以前、母のお市の方が、柴田勝家との結婚を決意した時も、それを聞いた江は、「好きでもないのに結婚するのですか?」と、あたかもそれが非常識のようにおっしゃっておられましたが、戦国では・・・いや、日本の歴史上、中央集権が芽を吹き始める飛鳥時代から、戦前(第2次世界大戦)のあたりまでは、ず~~っと、恋愛の絡まない結婚が常識でした。

もちろん、例外はあります。
源頼朝北条政子は有名ですし、現に、この秀吉と正室のおねさんも恋愛結婚です。

しかし、流人だった頼朝、未だ出世前だった秀吉がそうであったように、恋愛結婚は、比較的身分の低い者がする事で、上流階級では、逆にはしたない事というのが、当時の常識だったと思います(普通の家庭だった嫁はんの家族は、どっちも猛反対してますし)

こと一般常識という物は、その時代によって様々に変化します。

以前、マクドナルドの1号店銀座にオープンした時の懐かしニュース映像で、インタビューを受けていた20代前半の女性が、「外で物を食べるのは、少し恥ずかしい」と答えておられました。

それから、わずか2~30年ほどの時の流れで、いつしか、それが普通の事となり、クレープに至っては歩きながら食べる事すらカッコイイとなる・・・それが、世の中という物ではないでしょうか。

先ほども書かせていただいたように、政略結婚は、大王(天皇家)血筋に自分の一族の血を混ぜて政権を握る目的で、古代から行われていた事でした。

現にあの藤原氏は、散々天皇家に娘を送り込んで、実権を握り続けていたわけですから・・・

これが、天皇家から豪族、武士へと受け継がれ・・・

たとえば、秀吉の養子の豊臣(羽柴)秀次には、下は13歳の少女から、上は60代の老女まで、のべ40人前後の側室がいたとされていますが、これは秀次さんがストライクゾーンの広いスケベな女好きなのではなく、当時、秀吉の後継者とみられていた秀次と、親密な関係を持ちたいと思った人間が、いかに多かったか?という事なわけです。

ただ、そのために、公家や武家に生まれたお姫様は、自由な結婚を許されず、身も心も実家のために捧げる犠牲者となる・・・ドラマの江のお母さん=お市の方が、まさにその通りで、兄の信長と夫・浅井長政の運命に翻弄された不幸な人生として、長い間、数々のドラマでも、悲劇のヒロイン風に描かれてきました。

しかし、1980年代以降に出て来た新たな女性史の研究の成果によって、「もはや、この考えも古い」というのが、現在の歴史好きの常識となりつつあります。

今では、政略結婚によって嫁いだ女性たちは、実家と婚家との架け橋となる重要な役割を果たしていた事、また、結婚後も、妻の協力なくしては家内管理も子供の教育も成り立たない状況であったろう事から、不幸一辺倒ではない、高い評価を受けるようになって来ています。

この前者の両家の架け橋というのが、重要な交渉カードという事になります。

以前、『孫子の兵法』でもお話しましたが(4月19日参照>>)
「百戦百勝 善ならず 戦わずして 勝つ」
戦争とは膨大な費用と多大な犠牲を払う物ですから、できるなら、やらない方が良い・・・戦争をしなくて、相手を屈服させる事ができるなら、これに勝る物はない・・・

これ、2500年前からの鉄則です。

戦国の武士たる者、必ずこの鉄則を知ってますから、大事な交渉カードである彼女たちを、私利私欲のために使うようなもったいない使い方はできないわけで、そのカードとなる彼女たちも、その重要性を充分知り、むしろ、その役割を担える事を誇りに思っていたはずです。

一方、後者の結婚後ですが・・・
今、四民平等が当たり前となった現代人の感覚が捨てきれないため、男尊女卑がまかり通っていた時代の女性は、男性の思うままに翻弄されて・・・と、私たちは思いがちですが、ここが落とし穴・・・

身分制度がはっきりした世の中では、殿様がエラければ、その奥様もエライわけで、殿様がいなくなれば、その家を仕切るのは奥様・・・つまり、同じ身分の中では男尊女卑がまかり通りますが、身分が違えば、その身分の方が優先されるわけです。

まして、戦乱にあけくれる戦国の世ならば、殿さまは留守がちなわけで、ずっとずっと、その奥様の価値というのが高かったと思います。

たとえば、応仁の乱の東軍の将として知られる細川勝元の姫=洞松院(とうしょういん)は、播磨備前美作の大名=赤松政則(まさのり)と政略結婚しますが、この結婚自体が敵方の畠山の没落の決め手となったほか、夫の死後には、その領主として君臨し、指揮命令系統を彼女が出していた事がわかっています(3月11日参照>>)

また、あの今川義元のお母ちゃん=寿桂尼(じゅけいに)さんも病気になった夫に代わって政事を取り仕切り、裁決なんかも彼女が下してしました(3月14日参照>>)

さらに、奥様の重要性という点では、かのおねさんも・・・

天正二十年(1591年)8月付けの秀次朱印状には、
大坂よりなこや(名護屋)へ次(継)
一、大坂よりハ   北政所殿 御印
一、          関白殿  御朱印
一、なこやよりハ  太閤様  御朱印

つまり、
秀吉が名護屋にいて、秀次が聚楽第、おねが大坂城にいたこの時に、周辺を航行する船には、まずはおねさんの許可証がいるという事です。

このように、戦国大名の奥様には、夫と並ぶ重要な役割と、それに伴う政治力があったわけで、政略結婚の犠牲者として泣き暮らしているヒマなどなかったのです。

近年の研究で見直されている戦国女性の役割・・・今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」に決定した頃は、このような新たな視点からの戦国女性を描いていただけるものだと期待してたんですがねぇ~

善人と悪人が見事にハッキリした単純なホームドラマという、別の意味での新たな視点で、しかも、戦国女性を主役に据えておきながら、戦国女性の価値を下げているような??

まぁ、次回は「第15回・猿の正体」という事なので、秀吉のあの悪キャラが一転、イイ人に変わるのかも知れませんので、今後に期待したいところですが・・・
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2011年4月21日 (木)

決着!賤ヶ岳…鬼玄蕃・佐久間盛政の奮戦

 

天正十一年(1583年)4月21日、柴田勝家羽柴秀吉の間で勃発した織田家家臣内のトップ争い=賤ヶ岳の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・

織田信長亡き後の覇権を巡って勃発した家臣内のトップを争ったのは、これまで織田家・重臣の筆頭だった柴田勝家と、主君・信長の仇=明智光秀を山崎に倒して意気あがる羽柴(豊臣)秀吉・・・

今日のお話は、完全に昨日=4月20日の続きなので、まだの方は、ソチラ↓を先に見ていただくとありがたいです。

一応、賤ヶ岳に至るまでの経緯のページへのリンクを…

・・・と、こうして、
勝家と組んだ神戸(織田)信孝(信長の三男)滝川一益(かずます)が、秀吉に奪われた美濃(岐阜県)奪回すべく動いたところで、秀吉が主力を岐阜に・・・

かくして4月20日、秀吉の留守を見計らって、盛政が大岩山砦を襲った>>・・・と、

しかし、その日の夜9時頃・・・木ノ本の南側に、あかあかと照らされた松明の帯を、勝家らは見る事になります。
この急襲の知らせを聞いた秀吉が、美濃大返しで疾風のごとく舞い戻って来たのです。

・‥…━━━☆

砦の急襲に成功した盛政・・・しかし、いくら一度奪った大岩山砦を捨てがたいと言えど、さすがに、ここは撤退しなければなりません。

早速、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)撤退命令を出し、自らも、日づけが変わった天正十一年(1583年)4月21日午前0時、余呉湖の南岸から西岸沿いに撤退を開始します。

午前2時・・・この盛政らの動きを察知した秀吉が、早速、自軍の先鋒に追撃を開始させと、見事、先頭部隊は盛政隊に肉薄・・・

しかし、盛政もさる者・・・逃げ道の周囲には伏兵を忍ばせ、追撃隊がやって来たところを、両側から鉄砲での狙い撃ち・・・追撃隊が混乱する所を最後尾が撃って出るという巧みな作戦で反撃を喰らわします。

さらにそこに、撤退途中の勝政隊が側面支援し、秀吉の追撃隊は、なかなか思うような成果を挙げられませんでした。

そうこうしているうちに、夜も明けきった午前6時・・・盛政は、余呉湖北側の行市山近くまで到着・・・もはや、柴田本隊に合流したも同然のこの場所で、勝政隊の合流を待ちます。

ほぼ、無傷のままの撤収に成功した盛政隊を見た秀吉は、ここで、未だ撤退途中の勝政隊にターゲットを絞ります。

すると午前8時、勝政隊に新たな動きが・・・いよいよ本格的な撤退開始とみた秀吉は、一斉に鉄砲を撃ちかけ、自軍に総攻撃を命令・・・そこにいた全軍が勝政隊へと突入します。

ここで大活躍したのが、ご存じ「賤ヶ岳の七本槍」(2009年4月21日参照>>)・・・後に、秀吉の右腕として大活躍する加藤清正福島正則片桐且元(かたぎりかつもと)などです。

この勝政隊のピンチを知った盛政・・・配下の排郷家嘉(はいごういえよし)らを援軍として差し向けますが、もはや猛攻&乱戦の嵐で家嘉らは討死・・・弟の勝政も壮絶な最期を遂げました。

それでも、軍を整えて再びの反撃を試みようとする盛政・・・しかし、ここで事件が起こります。

そう、あの前田利家・父子の戦線離脱です(くわしくは4月23日参照>>)

秀吉との密約があったのか?
それとも、戦況を見ての判断か?

もちろん、撤退する時には多少の混乱はあったものの、結果的に、まさにポッカリといった様相で、その前田隊のいた部分だけが穴が開いたように軍勢がいなくなってしまったのです。

その4月23日のページにも書かせていただきましたが、この時、一番前面にいたのは盛政隊・・・その次にいたのが前田隊ですから、3番手&4番手の部隊から見れば、あたかも盛政隊が総崩れをしているように見えたわけです。

まして、余呉湖の反対側の狐塚に位置していた勝家本隊から見れば・・・しかも、反撃しようとしていた矢先のこの状況は、柴田隊全体に大きな動揺をもたらします。

さらに、こちらも密約があったのか?戦況を見てなのか?不破勝光(ふわかつみつ)らも離脱し・・・こうなると、あちこちの諸隊から戦線離脱者が続発、個人的な脱走者も後を絶たなくなってしまいます。

最前線で奮戦中の盛政隊は、もはや、その混乱にも押さえがきかなくなった状態・・・そこを、余呉湖の北側に陣取っていた木下一元(きのしたかつもと)隊や木村隼人正隊が攻めかかり、正午頃、ついに総崩れとなりました。

Sizugatake21bcc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時、離脱者続出の混乱の中、すでに勝家本隊も、わずか3000ほどになってしまいました。

しかし、このままでは「鬼柴田」の名がすたります。

残ったこの兵で、前面の堀秀政隊に最後の一戦を仕掛けようとする勝家・・・しかし、ここで、堀隊を打ち砕いたとしても、その後方には羽柴秀長(秀吉の弟)の大軍が・・・しかも、もはや総崩れとなった盛政隊の中を駆け抜けた秀吉の追撃隊が、余呉湖に北を回って西から迫って来ています。

いや、しかし・・・
勝家は、自ら先頭に立って、わずかに100名ほどを引き連れて、秀政隊に突進したのです。

まさかの意表を突かれて、少し後退する秀政隊・・・このすきに、勝家は、そばにいた毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)を呼び寄せ、御幣(ごへい・神官がお祓いをする道具)の形をした自らの馬印(大将のいる場所を示す印)を手渡しました。

主君と家臣・・・暗黙の儀式です。

すべてを家臣にゆだねた勝家は、そのまま北国街道を北へと落ち、主君に後を託された勝照は、その馬印を持って林谷山砦に入ります。

そこを襲って来たのは、盛政隊を追撃し、そのまま余呉湖の北を回って来た秀吉軍・・・もちろん、その馬印を確認して、勝家の本隊を想定しての総攻撃です。

攻め寄る秀吉隊に、柵越しの一斉射撃で奮戦する勝照・・・
その一斉射撃の騒音に、負けんがばかりに聞こえるのは、
勝照の
「我こそは、勝家なり!」
の叫び声・・・

北へ向かう主君を一歩でも遠くへ・・・

やがて、午後2時頃・・・そんな勝照思いは、討死という形で終わりを迎え、それとともに、2日間に渡って繰り広げられた賤ヶ岳の戦いは、秀吉の勝利で幕を閉じました

一方、最前線で奮戦していた盛政・・・敗走しようとした越前の山中で捕縛されます。

彼は、「鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた猛将・・・その武勇を惜しんだ秀吉は、盛政と対面し、彼を自軍に誘いました。

「これからは、俺を勝家やと思て慕ってくれへんかな?」

すると、盛政は
「ここで情けを受けたとしても、僕はきっと、あとであなたを殺しますよ。
できるなら、ハデハデの衣装で都じゅうを引きまわしてもろて、ほんで死刑にしてください。
そのほうが、秀吉さんの権威も高まりますし…」

と言ったとか・・・

果たして1ヶ月後の5月12日・・・その望み通りに京都市中を引き回された盛政は、宇治の槇島(まきしま)で斬首されました(くわしくは5月12日参照>>)

そして・・・
次に向かうは、勝家が戻った越前北ノ庄・・・2日後の4月23日、先鋒として北ノ庄に入ったのは、あの前田利家でした。

続きは(先ほどもリンクしましたが…)4月23日のページで>>
 
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2011年4月20日 (水)

決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し

 

天正十一年(1583年)4月20日、琵琶湖の北東岸にて、1ヶ月に渡ってにらみ合っていた柴田勝家軍と羽柴秀吉軍で、秀吉の留守を確認した勝家配下の佐久間盛政が、秀吉方の砦を急襲・・・世に言う賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの火蓋が切られました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月に、本能寺に倒れた織田信長亡き後(6月2日参照>>)山崎の合戦(6月13日参照>>)明智光秀を倒した羽柴(豊臣)秀吉は、織田家の後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)にて、信長の嫡孫=三法師を推し、自らが、その後見人となる事で、織田家家臣内での地位を獲得し、さらに、信長の葬儀(10月15日参照>>)を盛大に行う事で、その実力を見せつけました。

一方、それまで織田家の重臣のトップだった柴田勝家は、信長の三男=神戸(織田)信孝を後継者に推し、信長の妹=お市の方を妻に迎えて、秀吉に対抗します。

こうして迎えた天正十年(1582年)の冬・・・先の清州会議での遺領配分で、越前(福井県)北ノ庄城を居城とする事になった勝家は、雪深い越前では冬の間は戦えない事を見越して、11月には与力の前田利家らを派遣して、秀吉との関係修復に当たろうとしますが、一方では、西国毛利四国長宗我部(ちょうそかべ)と組んで、秀吉を包囲する準備もはじめていました。

秀吉は秀吉で、勝家の平和主義が冬だけの対策である事はお見通し・・・勝家の思惑通りに、このまま春になってしまっては、自らが不利になりますから、関係修復の話をのらりくらりと交わしながらの12月、勝家の最前線=北近江長浜城を開城させ、その後、信孝のいる岐阜城へと主力を向けました。

これを聞いた勝家・・・「主力を岐阜に向け、手薄となった北近江を奪回するのは今!」とばかりに、ようやく春が訪れようとする2月28日、前田利家や佐久間盛政らの先発隊を北近江に派遣し、自らも3月9日に北ノ庄城を出陣します。

一方、勝家の出陣を聞いた秀吉も、すぐさま北近江へと戻り、琵琶湖の北東にある余呉湖のほとりで、北に勝家と南に秀吉・・・一触即発のにらみ合いの布となったのは3月12日の事でした(このあたりは3月11日を参照>>)

・‥…━━━☆

こうして1ヶ月・・・両者のにらみ合いを崩したのは、信孝&勝家を支持する北伊勢滝川一益(かずます)でした。

一益は、岐阜の信孝に同調して兵を挙げ、北の岐阜と南の伊勢を結ぶ縦のボーダーラインを死守すべく奮戦しながらも、秀吉に攻められた岐阜城が落ち、もはや伊勢も風前の灯と思っていたところに、秀吉の北近江への帰還を聞いて、手薄になった兵を急襲すべく、美濃(岐阜県)に出兵したのです。

もちろん、一旦沈んだ信孝も、これに同調して美濃に展開する秀吉方の稲葉一鉄(いってつ)らを攻めます。

そこで4月16日・・・秀吉は2万の兵を伴い、北近江から岐阜へ向けて、自ら発進したのです。

わずかの距離でにらみ合っていたのですから、当然、秀吉の不在はすぐに勝家側にも伝わり、しかも、現在、敵方の大岩山と岩崎山の防御が手薄である事を調べ上げた盛政は、自ら、かの砦に奇襲をかける事を提案します。

しかし、この作戦は、相手の懐に深く入り込むもの・・・撤退時期を間違えば、周囲に点在する砦からの応援部隊に囲まれてしまう危険性があります。

勝家は、目的の砦を落としたら、速やかに撤退する事を条件に、盛政の奇襲作戦を採用しました。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天正十一年(1583年)4月20日午前2時・・・不破勝光(ふわかつみつ)らが先鋒となり、続いて盛政本隊・・・約8000の兵が行市山砦を進発します。

一方、勝家は、前田利家・利長父子を別所山から茂山に移動させて、盛政の背後を固めさせると同時に、自らも狐塚まで本隊を前進させます。

さらに、前後して進発した柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)飯浦(はんのうら)切通しに陣取り、盛政を援護します。

この間に敵方の手薄な余呉湖の西岸を進んだ盛政は、夜が白々と明ける頃、一斉に大岩山砦に猛攻を仕掛けたのです。

ここを守る秀吉方の武将は中川清秀・・・わずか1000ほどの手勢ながらも、何度となく相手を蹴散らし踏ん張りますが、所詮は多勢に無勢・・・午前10時頃には、砦は陥落し、清秀も壮絶な最期を遂げます。

隣の大岩山が陥落した事を知った岩崎山砦高山右近(うこん)は、速やかに砦を脱出して木ノ本方面て撤退・・・これを聞いた賤ヶ岳砦を守る桑山重晴(くわやましげはる)も、一旦は撤退をしようとしますが、背後にいた丹羽長秀(にわながひで)援護されて留まる事に・・・

ここで、ちょうど陽は落ちようという時間・・・敵方の反撃を懸念する勝家は、盛政に対して、一旦、コチラの砦に撤退する事を指示しましたが、意気あがる盛政は、大岩山砦にて一夜を明かす事にします。

翌朝早くには、この南にある賤ヶ岳砦を攻略するつもりで、そのためには、一旦奪った大岩山を手放す事ができなかったのです。

さすがに、この後の展開を知るはずもないですから・・・

そう、実は、この時、岐阜城に向かっていた秀吉・・・長良川が増水していたため、その先へと進めず、大垣にとどまっておりました。

まさに、天は秀吉に味方したのか?・・・秀吉は、この大垣で大岩山砦奇襲の一報を受けたのです。

この時の秀吉・・・
「キタ━(゚∀゚)━! 雌雄を決するのは今や!」
と、大いに喜んだと言います。

もはや秀吉には、その先の展開が見えており、ここで「勝った」と思ったのでしょうか?

早速、兵をまとめて、秀吉が大垣を出発したのは午後4時頃・・・目指すは、もちろん、岐阜ではなく近江です。

ここで秀吉、13里(約52kim)の距離を、わずか5時間で駆け抜けるという、あの本能寺後の中国大返し(6月6日参照>>)を彷彿とさせる離れ業を、再びやってのけます・・・世に言う『美濃大返し』です。

やがて午後9時・・・木ノ本の南側、木々の隙間からあかあかと照らされる松明の筋を、彼らは見る事になります。

「まさか、これほど早く、秀吉が戻って来るとは!」

柴田勝家・・・
佐久間盛政・・・
そして、前田利家・・・

それぞれの思惑が交錯する中、いよいよ、日づけは、運命の4月21日に変わろうとしています。

つづきは明日・4月21日のページで>>でご覧あれ。
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2011年4月19日 (火)

この生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心

 

明治四年(1871年)4月19日、幕末の尾張藩側用人・家老を務めた田宮如雲が64歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

田宮如雲(たみやじょうん)・・・文化五年(1808年)に、尾張(愛知県)藩士で町奉行を務めていた大塚三右衛門の息子・篤輝としてこの世に生をうけますが、後に、同じく尾張藩士の田宮半兵衛の養子となり、晩年には如雲と名乗り、この最後の名前が一番有名なので、本日は、田宮如雲さんというお名前でお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

文政十一年(1828年)、21歳になった如雲は、時の尾張藩主・第11代徳川斉温(なりはる)小姓に取り立てられた後、天保三年(1832年)には目付となり、その翌年には養父・半兵衛の死を受けて田宮の家督を継ぎました。

やがて天保十年(1839年)・・・藩主・斉温が後継ぎのないまま亡くなった後に、藩に何の相談もなく、幕府の勝手な意向で、第11代徳川家斉(いえなり)の12男で田安家に養子に行っていた徳川斉荘(なりたか)第12代尾張藩主となった事で、彼の闘志がムラムラと・・・

そうです。
これまで、あのにっくき(尾張にとって(゚ー゚;)8代将軍・徳川吉宗とのゴタゴタ(10月8日参照>>)以来、何かと負けた感の尾張藩は、御三家でありながら、一度も将軍を輩出する事もありませんでした。

そこで、如雲が目をつけたのが、支藩・高須松平家から徳川慶勝(よしかつ・当時は秀之助)迎えて、尾張の藩主につける事・・・

そのために『金鉄組(党)という同志集団を作って運動を起こしますが、あえなく失敗・・・結局、やはり田安家で、わずか10歳の徳川 慶臧(よしつぐ)第13代藩主となります。

しかも、この時、幕府寄りの家老や重臣の反感を買った如雲は、再び小姓へと左遷されてしまいます。

実は、この如雲さん・・・その生涯で、上記のような移動が21回、解職が6回、幽閉3回というバリバリのアウトサイダー=はみ出し者です。

しかし、そんな波乱万丈の浮き沈みも、常に、自らが応援した14代尾張藩主・徳川慶勝・・・そう、実は、かの13代=慶臧さんが、わずか4年で病死してしまい、その後に如雲が推していた慶勝が藩主になった事で、彼は、再び表舞台に登場するのです。

もちろん、この時も、もう一度田安家から養子を・・・という話が幕府側から出ていましたが、すでに2度も強引に、しかも、先の慶臧の時には、如雲らの金鉄組の暴れっぷりもあり、さすがに、「またまた将軍家と紀州の息のかかった田安家を入れて、これ以上、藩内が乱れてはマズイ」という事で、かねてから、声の上がっていた慶勝さんに決まったのでした。

しかし、これも・・・

安政五年(1858年)、慶勝が、あの水戸徳川斉昭(なりあき)らとともに、井伊直弼(なおすけ)アメリカとの日米修好通商条約に調印した(10月7日参照>>)事に抗議した事で、その直弼との関係が悪化・・・ほどなく慶勝は隠居させられ、14代藩主の座は、弟の茂徳(もちなが)に・・・

もちろん、如雲も、ともに隠居します。

しかし、ご存じの通り、わずか2年後に、その直弼は桜田門外で暗殺され(3月3日参照>>)、そうなると、当然の事ながら、如雲も慶勝とともに政界にカムバック・・・

とは言え、このあたりからは、尾張藩だけでなく、日本という国自体の大変な危機に直面するのは衆知の通り・・・

しかも、(言い忘れてましたが…)この慶勝さん・・・この頃の佐幕派(幕府側)のリーダー的存在である京都守護職会津藩主松平容保(かたもり)と、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)実のお兄さんです。

先の井伊直弼との一件でもわかる通り、慶勝自身には尊王の思いが少なからずあったとしても、立場は完全に幕府・・・流動する政情で徳川方の有力者と見られる事は、致し方ないところであります。

そんな中に起こったのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)から池田屋事件(6月5日参照>>)、そして禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)へという一連の流れです。

最後の禁門の変の時に放った鉄砲が御所に命中した事で、尊王攘夷を掲げておきながら朝敵(ちょうてき・天皇の敵)となってしまった長州藩(山口県)・・・この処分として行われた第1次長州征伐で、慶勝は、なんと、長州征討軍の総督に任じられてしまいます。

ただ・・・この時は、長州側が重臣たちの首と引き換えに恭順姿勢に入ったため(11月12日参照>>)、実際に大きな戦闘となる事はありませんでした。

続く、第2次長州征伐(5月22日参照>>)での慶勝は、完全に出兵反対の姿勢をとり、弟の茂徳が任じられた正統総督を拒否させ、京都の御所警固につきました。

と、何やら慶勝さんの動向ばかりになりましたが、この影には、いつも如雲が、つかず離れずいた事は言うまでもありません。

やがて、時の将軍・15代徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還(10月14日参照>>)を行い、続く王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・さらに、世は、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入します。

ここに来ても、まだ、微妙な立場の尾張藩・・・しかし、鳥羽伏見に勝利して(1月9日参照>>)東海道を東下して行く倒幕軍に、中立の立場を貫いて素通りしてもらう事なんて、ほぼ不可能です。

しかも、藩内には、如雲が立ちあげた金鉄組に対抗して、『鞴(ふいご・空気を送り込んで鉄を加工する道具)党』なる、明らかに金鉄組をぶっ潰す気満々の命名をした団体も存在し、未だ、藩の中でも、尊王か佐幕かがまとまっていなかったのです。

そこで如雲・・・主君・慶勝に、何が何でも藩内を尊王に統一する事を進言します。

その大義名分として持ちだしたのが、藩祖・徳川義直(よしなお・家康の九男)の記した『軍書合観』でした。

ここに、
「戦乱が起きれば官軍に属せよ!決して徳川一門のよしみで、朝廷に弓を引いてはならない」
と書かれていた事を上げたのです。

この時、鳥羽伏見の戦いの後の大坂城に入っていた慶勝は、早速、尾張へと発ち帰り、1月20日、藩内の佐幕派の中心だった重臣・3名を含む計14名を斬首したほか、20名に処分を言い渡したのです。

確かに、強引な粛清ではありましたが、この青松葉事件によって、尾張藩は尊王で統一され、維新という荒波を越える事ができたのです。

ただ・・・慶勝も、そして、その他の尾張藩の重鎮も、その後、明治新政府で要職につく事はありませんでした。

生き残ったとは言え、結局は、新政府も尾張藩を認めてはいなかったのでしょう。

一方では、岩倉具視(いわくらともみ)西郷隆盛らも、一目を置いていたという如雲の実力・・・しかし、如雲は、その後も、慶勝と運命をともにし、つかず離れず、主君を守り抜いたと言います。

なんせ、慶勝は、あの第1次長州征伐での征討軍総督・・・いつ何どき、昔の恨みで元長州藩士に襲われないとも限りません。

明治四年(1871年)4月19日如雲は、主君・慶勝より先に逝く事になりましたが、その生涯をかけて、自分が推しあげた主君を守った誇りは、最期まで失わなかった事でしょう。

首相に推し上げておきながら、何かあれば足を引っ張る・・・
大臣に引き揚げておきながら、すぐまた更迭する・・・

確かに、あらぬ方向に向かおうとしている仲間を諫める事は大事ですが、自らが信じた主従の関係を、命をかけて守り抜く事も、大切な事だと感じます。
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2011年4月18日 (月)

北斎からの挑戦状?北斗信仰と八つ橋の古図

 

嘉永二年(1849年)4月18日は、あの葛飾北斎さんのご命日です。

・・・・・・・・・

葛飾北斎(かつしかほくさい)と言えば、あの「富嶽三十六景」を思い出しますが、富嶽三十六景は天保二年(1831年)から天保四年にかけて製作された作品で、この時、北斎はすでに70代の前半・・・

と、3年前・2007年4月18日と、まったく同じ書き出しではじめてみましたが、3年前のご命日には、その生涯について書かせていただきましたので、北斎さんご本人については、ソチラのページ(2007年4月18日を見る>>)で見ていただくとして、本日は、ちょっとした話題になっている作品について・・・

・‥…━━━☆

安永七年(1778年)、19歳で浮世絵師・勝川春章に入門して学ぶうち、役者絵が自分の性に合わない事を悟った北斎は、師匠の美人画に影響を受けて、数々の美人図を描き残しますが、やがて、見る側を驚かす、あるいは試すがごとき「からくりの世界」へと入っていきます。

まさに、それこそが、北斎一番の魅力と言えるわけですが・・・

たとえば、この『たかはしのふじ』・・・
Hokusaitakahasinofuzi400 たかはしのふじ(葛飾北斎)

手前の橋を見上げる視線・・・
遠くへと消えゆく両岸の視線・・・
そして真正面に富士山が見える平行な視線・・・

と、3つの視線が交錯する現実にはありえない構図が、奇妙な空間を演出するとともに、見た側に異常に高い橋桁を強く印象づける・・・見事な遊び心と見事な狙いです。

名前をひらがなで横向きに書いたのは、何とかローマ字に見せようとしたのだとか・・・おもしろいですね。

そんな北斎・・・若い頃はイロイロと名前を変えた時期もありましたが、寛政十年(1798年)、40歳になって北斎を名乗ってからは、その名前も定着しました。

・・・で、この北斎という名前・・・ご存じの方も多いでしょうが、これは彼が尊崇した妙見(みょうけん)信仰に由来すると言われています。

妙見信仰とは、日蓮宗と合体した民間信仰で、北辰菩薩とも妙見菩薩とも言われる菩薩様に祈り、救済を求める信仰・・・この北辰(ほくしん)というのはズバリ北極星の事です。

古代・・・人々は北の空に輝くたった一つの動かない星を見つけ、他の星は、その周りを巡っている事を知りました。

中国では、この星を「北辰」と呼び、天文観察の基準とするとともに、信仰の対象とし、やがて道教が広まるにつれ、北極星=神とみなされるようになっていきます。

これが、仏教に取り入れられて、北辰菩薩や妙見菩薩となるのですが、これが日本に伝わると、北極星に北斗七星が加わり、ともに信仰の対象となります。

さらに、千葉県安房出身の日蓮の教えを信仰していた東国の武士たちを介して日蓮宗と結び付き、戦国時代には勝利を導く軍神としても崇められました。

・・・で、ここでご紹介するのが、北斎の『諸国名橋奇覧・三河八つ橋の古図』という作品・・・
Hokusaimikawano8tuhasi400a 三河八つ橋の古図by葛飾北斎(知立市歴史民族資料館蔵)

古くから、カキツバタの名所として知られる三河八つ橋(愛知県知立市)で、橋の上を行き交う人々を描いた物ですが・・・

描かれた人物は全部で11人・・・

その中で、丸くて薄茶色っぽい傘をかぶったり、持ったりしている人が7人・・・

橋や周囲の景色に遠近法を使っているにも関わらず、人物と傘がほとんど同じ大きさで描かれているため、これがかなり目立ちます。

また、傘ではなく、ワラを担いでいる人が一人いますが、これが、傘とまったく同じ色なので、やはり、目立ちます。

逆に、傘をかぶっていいる人の中で、ひとりだけ真横から見た形で、しかも、その傘がバックの橋とかぶってしまって目立たない人もいます(左下)

これは明らかに意図的に目立つ・目立たないを操作している気がしますね~

・・・で、これらの目立つ人々を線でつなぐと・・・
Hokusaimikawano8tuhasi400b 目立つ傘とワラを線でつなぐと…

なんと!北斗七星の形になるw(゚o゚)w

果たして、これは・・・
「君にわかるかね?」なんていう北斎からの挑戦状なのか?

それとも、単なるこじつけor思いすごしなのか?

興味津々ですね。

追記:画像はすべて、クリックすると大きくなりますので、大きくして見てみてネ!
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2011年4月16日 (土)

生涯の誇り~クラーク博士のambitious

 

明治十年(1877年)4月16日、札幌農学校の基礎を築いた教頭・クラーク博士が北海道を去りました。

「Boys,be ambitious.=少年よ!大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士です。

・・・・・・・・・

「北海道開拓の指導者を教育する学校を造りたいので、教頭として日本に来てくれないか?」

アメリカマサチューセッツ州州立農科大学・学長をしていたクラークのところに、北海道開拓使長官黒田清隆(8月23日参照>>)からの依頼が舞い込んで来たのは、明治八年(1875年)の事でした。

この頃の日本は、明治という新しい時代になってから、文明開化富国強兵を旗印に掲げて、外国に追い付き追い越せとばかりに、積極的に外国の技術と文化を取り入れ、近代国家への道を歩み始めていた頃・・・

そんな中で、多くの外国人が、その先進技術を伝えるべく雇われて来日していたのですが、その多くは、イギリスフランスドイツといったヨーロッパの国からでした。

しかし、ここ北海道だけはアメリカから・・・やはり、中世の頃から発展していたヨーロッパではなく、新たな土地を開拓して先進国の仲間入りをしたアメリカに、北海道の未来を重ね合わせていたのでしょうね。

そんな依頼を受けたクラーク博士・・・もともと、日本に興味を持っていた事もあり、マサチューセッツ州立農科大学の学長の仕事を1年間休職という形にして、日本へと向かう決意をしました。

時にクラーク=50歳・・・早速、二人の弟子を連れて太平洋を渡り、明治九年(1876年)6月29日、横浜の港に到着したのです。

日本側の対応は、まさに国賓待遇・・・その年棒も、当時、右大臣をしていた岩倉具視(ともみ)とほぼ同じの7200円!=今だと1億くらいだそうです。
(てか、大臣:岩倉の1億のほうに驚く!!(゚ロ゚屮)屮)

こうして設立された札幌農学校(現在の北海道大学)・・・第1期の生徒は、東京で試験を受けて合格した10人と、札幌で合格した6人の合わせて16名が本科生、他に26人の余科生がいる総勢42人でのスタートでした。

その教育方針は、実に彼らしい物・・・16人の生徒を前にして、クラークは言いました。

「僕はこれから1対1の人間として付き合って行くよって、ややこしい規則なんていらん」
そして、彼が言うたった一つの規則は・・・
「Be gentleman=紳士であれ
という事だけでした。

この時の生徒たちのほとんどは、徳川幕藩体制での下級武士の出身で、むしろ、これまでは規則&規則に縛られた生活だったわけで、このクラーク先生の発言に大いにとまどいます。

しかし、ほどなく、このたった一つの規則が、どれほど大切な物であるかを気づくのです。

そう、これは、何をやって良いか、何がダメなのかという事を、自分自身で判断するという事・・・いわゆる詰め込み教育でも放任主義でもない、自ら考えて自ら答えを出す自己啓発主義の教育方針だったわけです。

それでいて、フォローせねばならない部分はちゃんとフォローします。

なんせ、教科書なんかもない時代に、日本語のわからない教師3人(クラークと弟子二人)が英語で授業するのですから、さすがに難関の試験をくぐりぬけたある程度英語に堪能な生徒たちでも、容易について行ける物ではありません。

クラークはそんな生徒たち全員に、授業で書きとめたノートを提出させ、間違って解釈しているところを一つ一つ直してくれたのだとか・・・

一説には、アメリカでのクラークの評判は大して良くもなく、その道の学者から見れば「アイツが植物学を教えるなんて・・・」と苦笑する人もいたようですが、「教育をする」という事においての重要性は、その道の権威であるとか、その道の知識をたくさん持っているとかという事とは別のような気がします。

基礎的な事を教えて「いかに生徒に興味を持たせるか?」
興味を持ってやる気が出れば、あとは、その時々にある程度の道筋をアドバイスするだけで、生徒は、自らでどんどん高みに登って行き、いつしか先生を追い越すほどの知識と経験を持つ・・・それこそ自己啓発ではないでしょうか?

そういう意味では、第1期生16人のうち、13人もが、その後農学士となる事を思えば、やはりクラーク博士は、非常に優秀な教育者ではなかったか?と思います。

具体的には、
午前中の4時間は、英語や数学をはじめ、専門的な農学や植物学・化学工学の学科の授業をし、午後は農作業の実習のほかに、週2時間は軍隊の訓練もあり・・・その後、夜には4時間の自習時間が設けられていました。

この軍隊訓練は、当時の北海道が、対ロシアとい観点からの最前線に位置する場所であったからで、そもそもはあの日本初の洋式城塞=五稜郭だってそのための物ですからね。

ここで、教育を受ける生徒たちは、開拓指導者であると同時に、北の護りの要にもなってもらわなねばならない人材だったのです。

そんな中で、クラークは、初の洋式農園を開き、牛や馬を入れる畜舎の設計もこなしました。

しかし、時が経つのは早い物・・・
1年間の休職と言えど、実質的には8ヶ月半・・・別れの日はやってきます。

Clark500 明治十年(1877年)4月16日、この日は、教授陣と生徒たち全員が、札幌から2時間ほどかかる島松へと見送りに・・・

第1期の生徒だった大島正健(まさたけ)の記した『クラーク先生とその弟子たち』によれば・・・
この時、クラークは生徒の顔を、一人々々覗き込むようにして、
「1枚のはがきでえぇから、時々は消息をよこしてな・・・ほんで、いつも神に祈る事を忘れたらアカンで~
ほな、元気でな」

と言って、握手を交わした後、ヒラリと馬に乗ってひと言・・・
「Boys,be ambitious.=少年よ!大志を抱け」

カッコイイ~~゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

まぁ、実際には
「Boys, be ambitious like this old man」=この老人のように野心家になれ・・・だったとか、
「Boys, be ambitious in Christ (God)」=神のもとに・・・だったとか、
単に、故郷のニューイングランドで流行ってた別れの言葉で、「サイナラ」以上の意味はない・・・
なんて言われたりしますが、やはり、ここは、「少年よ!大志を抱け」と叫ぶのが、一番カッコイイ~~~

こうして、アメリカに帰ったクラーク博士は、もとの学長に戻りますが、わずか1年半で退職・・・その後は、鉱山経営に乗り出すも失敗し、破産の裁判に悩まされ、やがては心臓病を発症して寝たきりの生活に・・・。

しかし、生徒たちとの手紙のやりとりは、ずっと続いていたと言います。

やがて、明治十九年(1886年)3月9日・・・最期の時が近づいたクラークは、そばに付き添っていた牧師に向かって、
「札幌にいた8ヶ月間だけが、僕の生涯の誇りや」
と言いながら、その59歳の生涯を閉じたという事です。

今も、北海道大学のキャンパスに残る彼が開いた学校農場・・・
今も、倉庫やチーズ造りの場所となっている畜舎の元祖・・・

クラーク博士の生涯でたった8ヶ月だった誇りは、今や、北海道・農業者の永遠の誇りとなりました。
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2011年4月15日 (金)

日本武術の祖・飯篠長威斎の伝説

 

長享二年(1488年)4月15日、天真正伝神道流の創始者日本武術の祖と言われる飯篠家直が、102歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

ある武芸者が一人・・・その家の前にやって来て声をかけます。

でも、返事がない・・・

もう一度、家の奥を覗き込むように、また、一段と大きな声で呼びかけますが・・・やっぱり返事がない・・・

でも、せっかく来たのに、このまま帰るのも・・・と思い、庭づたいに裏のほうに回りこんで~

「ワォ!」
驚きました。

熊笹が生い茂る上に爺さんが一人・・・やぶれた座布団を敷いてチョコンと、あぐらをかいて座っています。

もちろん、熊笹はピクリとも動いていない・・・つまり、笹の上に体を宙に浮かせたように乗っかっているのです。

「さっき、声をかけたんは、おまはんかいな?」
静まり返った中に、老人の凛とした声が響きます。

「はい、一手、ご教授願おうかと・・・」

「他人にお見せするような腕は、持ってまへんけど」
「いえいえ、先生のお名前は、東国に響き渡っております」

「そこまで、言いなはるんやったら、こっち来て座りなはれ」

「はい」とばかりに、武芸者が熊笹を押し分けて近くに寄ろうとすると・・・
「こら!笹を倒したらアカン!笹を折らんように座れんか?」

ビクリとする武芸者・・・そんなもん、無理に決まってます。

「笹を折らんと倒さんと、こんな風に座る事ができたら、お相手してもえぇんやがなぁ~」
と・・・

ジ~と目をこらし、怪しい眼差しで様子を観察する武芸者・・・やがて困ったような顔になり、最後には、あきれ果て・・・
結局、そのまま去っていきました。

実は、この爺さんが、飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)さん・・・その人でした。

長威斎は、こうして、自分に教えを請いに来る武芸者の技量を試していたのだとか・・・

まぁ、21世紀に生きる私としては、おそらくは、何かしらのタネのあるトリックだったんでしょうが、この時代、そのタネがわからなければ、それは幻術・・・神のみのなせるワザなわけで・・・、

ひょっとしたら、そのトリックを見破る事のできるような人物だけを相手にしよう・・・って事なのかも、ですね。

・・・とは言え、そんな空中浮遊が本当にできてしまうんじゃないか?
と思えるくらい、長威斎さんの刀術開眼話はスゴイのです・・・なんせ神道流ですから・・・

元中四年(1387年)、下総国(千葉県)は飯篠村の郷士の家に生まれたという長威斎。

江戸中期に書かれた武芸列伝=『本朝武芸小伝(ほんちょうぶげいしょうでん)では・・・
「幼弱より刀槍術を好みて精妙を得たり
常に鹿島
(かしま)香取(かとり)神宮を祈る
(まさ)に その技芸を天下の顕(あら)わさんとす
(ひそか)天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)と称す
中興刀槍の始祖なり」

と紹介しています。

さらに、鹿島は勇士を守る神=武芸の神であると言われているけれど、それは、長威斎がここで武芸の修業をしてから世間に広まったのだとも言ってます。

鹿島神宮は、ご存じのように茨城県鹿嶋市に鎮座する大社・・・主祭神は、記紀神話で武勇優れる雷神=剣の神として登場する武甕槌(建御雷・タケミカヅチ)で、この神が葦原中国(あしはらのかかつくに=神代の日本の事)を平定する時に用いた布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)という宝剣も祀られています。

その事から、この神社に奉仕する神官は、刀術の修得が必須科目で、特に優れた刀術を持つ7人を、京八流に対して鹿島七流と称して継承していたと・・・

で、あの塚原卜伝(つかはらぼくでん)が、この刀術を継承する家柄の出身だったという事を、卜伝さんのページ(2月11日参照>>)で書かせていただきましたね。

一方の香取神宮は・・・
鹿島神宮から利根川を挟んだ千葉県佐原市にある神社で、主祭神は経津主神(フツヌシノカミ)・・・

この神様は、『日本書紀』にのみ登場する神様ですが、実は、上記のタケミカヅチとともに葦原中国の平定をしに来る神様で、一説には布都御魂剣を神格化したものではないか?と言われている神様なのです。

つまり、両神社は、メチャメチャ密接な関係にあるわけです。

先ほどの『本朝武芸小伝』では、鹿島・香取の両社の天真正(てんしんしょう=童子に変化した神)が、長威斎に授けた(伝えた)のが、この刀術である・・・なので天真正伝神道流と・・・

で、もう少し詳しく言うと・・・
香取神宮を崇拝していた長威斎は、神社の境内にある梅木山の毘沙門堂に籠って、毎日夜になると、身を清めてから神前に参拝し、その後、木刀をふるって稽古に励んでいました。

そして、そんな修業が1000日に達した時、神通力を得て秘法に開眼したのだとか・・・

「兵法は平法・・・敵を討つより敵に勝て!」

う~~ん・・・なかなか、良い言葉です。

とは言え、この長威斎さん・・・江戸時代に創作された架空の人物説もあり、その強さはどうだったのか?というと微妙なところでもあります。

ただ伝承では、それまでは、ちゃんとした「型」が無かった武術の世界に、刀術・薙刀・槍・棒術・鎖ガマなど・・・この先、さまざまに枝分かれする武道の原型を造った人とされ、その弟子には、かの卜伝をはじめ、松本政信(鹿島流)師岡一羽常成(もろおかいっぱつねなり・一羽流祖)などの有名剣客が出ているとも・・・

一説には、若い頃には下総の豪族・千葉氏に仕えていたとも言われる長威斎さん・・・長享二年(1488年)4月15日剣に生きながらも102歳という長寿は、やはり強さの証なのかも知れません。
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2011年4月14日 (木)

伊達家を奥羽随一に引きあげた伊達稙宗

 

天文五年(1536年)4月14日、陸奥南部の戦国大名・伊達稙宗が、171箇条から成る分国法「塵芥集」を制定しました

・・・・・・・・・・・

という事で、本日はこの伊達稙宗(だてたねむね)さんについて・・・

そもそも、この伊達家は、平安時代の第56代天皇・清和天皇の時代(858年~876年)に重用された藤原北家の公卿・藤原山蔭(やまかげ)の子孫とされ、鎌倉時代の当主・朝宗(ともむね)陸奥伊達群を領地として与えられた事から伊達と名乗り、室町時代頃には、将軍家とよしみを通じて勢力を拡大し、陸奥中南部(宮城県)陸奥南部(福島県)などを、その範ちゅうに治めていったと言います。

Datetanemune500 そんな中での長享二年(1488年)、父・尚宗(ひさむね)の死にともない、第14代当主を引き継いだ長男・稙宗・・・と、当主になるやいなや、早くも行動を開始します。

いきなり、山形に進攻を開始し、隣国・出羽(でわ・山形県+秋田県)最上義定(もがみよしさだ)長谷堂城(山形県山形市)攻めて降伏させたうえに、自らの妹と結婚させて、事実上、伊達家の支配下に置きました。

この頃の最上氏は、羽州探題(はしゅうたんだい)という室町幕府の公式の役職についていた家柄・・・

この羽州探題とは、幕府の地方管制の中に設置された守護に代わる役職で、ともに設置された奥州探題(おうしゅうたんだい)と並んで、現在の東北地方一帯を統括する要職・・・。

ちなみに、陸奥(むつ)と言えば現在の青森岩手宮城福島で陸奥の「奥」の字をとって「奥州」・・・そして、さっきの出羽が山形+秋田で、こちらは「羽」の字をとって「羽州」・・・なので、東北全体を指す時は「奥羽」と呼びますね。

ところで、そんな室町幕府の正式な役職を事実上奪っちゃって、将軍には怒られないのか?
と、不安になりますが、これが、怒られないどころか、逆に、時の将軍=第10代・足利義稙(よしたね)の一字をもらって、これまで名乗っていた高宗(たかむね)を、ここで稙宗と改めちゃうくらいの勢い・・・

どうやら、時の管領・細川高国にずいぶんと気に入られたおかげのようですが、その点では、稙宗さんは、その実力とともに、天性の世渡り上手だったのかも知れませんね。

さらに、その勢いは止まらず、お名前の一字をいただくと同時に左京大夫にも任官されちゃいます。

実は、この左京大夫という位は、上記の奥州探題を世襲していた大崎氏が代々引き継いでいた官位・・・つまり、先ほどの最上の出羽だけではなく、大崎の奥州までイッちゃった事になります。

しかも大永二年(1522年)には陸奥の守護(知事)に補任され、もはや揺るぎない奥羽随一の武将となったのでした。

さらに、天文元年(1533年)には、これまで100年の長きに渡って伊達家が居城としてきた陸奥梁川城(やながわ・福島県伊達市)を出て、桑折(こおり)西山城(福島県桑折町)へと移転・・・出羽への更なる進出をもくろむとともに、体制の強化をはかりました。

ここからの政治家・稙宗の活躍もスゴイです。

まずは天文二年(1533年)の『蔵方(くらかた)之掟』13条の制定に始まり、天文四年(1533年)の『棟役(むねやく)日記』、天文七年(1538年)には『段銭(だんせん)古帳』などの徴税台帳を立て続けに作成します。

「蔵方」とは倉庫を管理する役どころ=つまりは質屋関係の法令
「棟役」とは棟別銭(むねべつせん)とも言い=つまりは家屋にかかる税金の法令
「段銭」とは田畑に臨時に課せられる税の法令(後に恒常的になります)

もちろん、作成だけでなく、これらによる、より客観的で合理的な課税・徴収を断行しています。

そして、その合間の天文五年(1536年)4月14日に制定したのが、今回の「塵芥集(じんかいしゅう)です。

「塵芥」とは「チリ&あくた」=つまり、いろんなゴミという意味ですが、もちろん、そのままゴミを集めたって事ではなくて、「ありとあらゆる方面の事柄を集めたという意味で、この「塵芥集」は、戦国大名が、自身の分国(ぶんこく・領地の支配や家臣団を統制するために制定する法令分国法戦国家法を書き記したもの・・・

今で言うところの六法全書みたいな物かな?

残念ながら、私は内容の一つ一つを拝見させていただいた事がないのでアレですが、解説を見させていただくと、その形式は鎌倉時代の御成敗式目(ごせいばいしきもく)にならった物で、領民の保護を優先したり、職人への優遇制度を設けたり、家臣団による勝手な裁判を禁止したり・・・特に、刑法や裁判に関する事は、事細かく書かれているそうで、家法よりは分国法のほうに重きを置き、分国統治を最優先に考えた内容なのだとか・・・

戦国大名としての権力の確立を目指している事がうかがえますね。

しかし、客観的かつ合理的な課税、家臣団を統率すべき家法の制定は、逆に、家臣団の猛反発を生んでしまうのです。

しかも、そこに起こった大崎氏の内乱に対する稙宗の対応に、また、この時、稙宗が推し進めていた越後(えちご=新潟県)守護上杉定実(さだざね)(5月26日参照>>)に三男の実元(さねもと)を出す養子縁組の一件について、嫡男=晴宗(はるむね)が猛反発・・・不満をつのらせる家臣団とくっついて、なんと天文十一年(1542年)6月、父・稙宗を襲撃して幽閉してしまうのです。

この幽閉自体は、ほどなく稙宗が救出される事によって解消されますが、伊達家の家臣団を味方につけた息子に対して、父が奥州の諸将に声をかけて争う事を決意したため、この伊達家の内乱は、奥州全体を巻き込んだ大乱となってしまいます。

天文の乱、または、(うつろ)の乱と呼ばれるこの争乱は、はじめは奥州の諸将がたくさん味方についてくれたおかげで父・稙宗が有利・・・しかし、諸将はしょせん諸将の集まりで、にわか仕立てではその結束もゆるく、些細な事で対立するわ、「ほなサイナラ」と離反する者が続出するわで、途中からは晴宗の有利に・・・

しかし、数年間続いた大乱と言えど、もとをただせば親子ゲンカ・・・結局、時の将軍=第13代・足利義輝(よしてる)の仲裁を経て、天文十七年(1548年)、稙宗が隠居して晴宗が家督を継ぐという条件での終止符がうたれます

戦い済んで日が暮れて・・・
結局、残ったのは伊達家の衰退だけでした。

そう、
これまで稙宗が拡大して来た勢力・・・傘下に納まっていたあの最上も、これを機に独立・・・相馬氏大崎氏葛西(かさい)も・・・そして、ご存じのように、蘆名(あしな)などは、この後、伊達をしのぐほどの勢力を持つ事になります。

これらの戦後のゴタゴタが、ようやく落ち着くのは、晴宗の息子=輝宗(てるむね)の代になってから・・・この輝宗さんが、ご存じ、独眼竜・政宗のお父さんです。

・・・で、その間の永禄八年(1565年)6月19日稙宗は失意のうちに78歳の生涯を閉じました。

ひょっとして、この壮大な親子ゲンカが無ければ、かなりいい感じの舞台が政宗に用意されていたかも知れないわけで・・・家督を継いだ時点で、すでに奥州の覇王となっていたのなら、その後の政宗の人生はどのように展開していたのか??
妄想は尽きません(゚m゚*)
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2011年4月13日 (水)

足軽戦法炸裂~大田道灌の江古田・沼袋の戦い

 

文明九年(1477年)4月13日、大田道灌が武蔵の名族・豊島兄弟を滅ぼした江古田・沼袋の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは関東に拠点を持っておきながら、南北朝の動乱のために、京都で幕府を開かざるを得なかった室町幕府・・・そのために、初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)の長男・義詮(よしあきら)の家系が都にて将軍職を継いでいき、三男・基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方を継いで関東の支配に当たるという構図となりました。

しかし案の定・・・遠く離れた関東では、徐々に中央の支配がおよばなくなっていき、鎌倉公方は独立国家の長の様相を呈してきます。

そんな時代、鎌倉公方の補佐役=関東管領(かんれい)を代々引き継いでいたのが上杉家・・・

永享十一年(1439年)2月には、第4代・鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の独立志向ぶりを脅威に感じた上杉憲実(のりざね)らが、第6代将軍・足利義教(よしのり)と組んで持氏を自刃に追い込む永享の乱がありました(2018年2月10日参照>>)

その後、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)古河(こが)公方を名乗って関東で大暴れ・・・迎え撃つ関東管領=上杉家との戦乱が絶えない状況となって来ていたのです。

Ootadoukan600 大田道灌(どうかん・資長)は、そんな上杉家の中の2大勢力の一つ=扇谷(おうぎがやつ)上杉家執事で、彼が江戸城を建てたのも、この成氏から関東を守るための物でした(4月8日参照>>)

そして、もう一方の上杉家内の勢力が山内(やまのうち)上杉家・・・「両上杉」と並び称されてはいるものの、実はこっちが宗家で、その勢力もやや勝っていました。

そんな山内上杉家の執事だったのが長尾家・・・

しかし、武蔵(むさし・埼玉県)上野(こうずけ・群馬県)の守護代も務めていた長尾景信(かげのぶ)が亡くなった事を受けて、山内上杉家の顕定(あきさだ)が、景信の長男=景春(かげはる)ではなく、その叔父の忠景(ただかげ)次の執事に指名しちゃった事で、当然の事ながら、後を継ぐ気満々だった景春は怒り心頭・・・(`Д´)

かの古河公方=成氏と結んで、武蔵鉢形城(はちがた・埼玉県)にて挙兵します。

始め、道灌は、この景春に同情的だったと言います。

なんせ、後継者争いに口を挟むのは、今で言えば内政干渉・・・たとえ主君筋に当たる山内上杉と言えど、本来は、その決定は長尾家内に任せるべきです。

なので、道灌が顕定に、「後継者を景春にすべき」という助言を何度もし、その事に気づいていた景春も、「ともに戦おう!」道灌を誘う場面もあったとか・・・

しかし、道灌は、主君=上杉家への忠義を尽くす道を選び、結果的に景春と敵対する事になります。

この時から数年間に渡って展開されるこの叛乱を、まんま「長尾景春の乱」と呼びますが、ここに、両上杉家に不満を抱いていた関東各地の武士が、次々と景春方に加担していくという一大争乱となっていきます。

そんな中、いち早く景春方としての姿勢を示したのが、武蔵の名族で、石神井(しゃくじい)練馬城(ともに東京都練馬区)などの城主を務めていた豊島泰経(としまやすつね)泰明(やすあき)兄弟でした。
:正式には兄弟の名前は伝わっていませんが、無いとややこしいので、通説の名前で呼ばせていただきます)

彼らは、まず、江戸城や河越城(埼玉県川越市)などの道灌の城と、相模(さがみ・神奈川県)の諸将との連絡を断つべく、堅城として名高い自らの石神井・練馬の両城にての籠城作戦を展開します。

さらに、道灌の背後を突くべく、相模の金子氏越智(おち)溝呂木(みぞろぎ)などの面々を仲間に引き込みました。

しかし、さすがは和製・諸葛孔明(しょかつこうめい)とうたわれた道灌・・・籠城に徹する彼らに対する作戦は準備万端・・・

文明九年(1477年)4月13日、まずは、弟・泰明の守る平塚城(東京都北区)攻撃・・・敵の来襲を知った泰明はすかさず兄・泰経に連絡・・・

連絡を受けた泰経は、江戸城が空っぽになってる今が攻め時と判断して石神井城を出撃します。

堅固な平塚城を攻めあぐねた道灌は、一旦兵を退きますが、これを好機と見た泰明が出撃を開始・・

しかし、実は、これが道灌の作戦・・・

以前、応仁の乱の稲荷山の攻防戦のページ(3月21日参照>>)で書かせていただいたように、その頃から登場するようになった「足軽(あしがる)と呼ばれる戦闘員たち・・・

喰い潰れた農民の子や社会にあぶれた者たちが、その食いぶちを求めてたどりついた足軽という職業?・・・もとは、バラバラのならず者たちにいち早く着目して雇い入れたのは、あの東軍の将=細川勝元・・・

しかし、応仁の乱当時は、そんなならず者の集まりだった彼らを、組織化して、合戦の最前線に送り込める主要戦闘員組織に育て上げ、今後の合戦に必要不可欠な存在にしたのは、この道灌だと言われています(諸説ありますが…(^-^;)

つまり、自らが育て上げた戦闘集団が、最も活躍できる場所へと豊島兄弟をおびき出す事が道灌の作戦だったのです。

逆に言えば、なかなかの堅城とうたわれた自らの城を出て、防御が困難な場所へと来てしまった事が豊島兄弟のミスとも言えます。

かくして、一旦、退く様子を見せていた道灌の軍が、素早く反転して、両者とぶつかります。

その場所が江古田(えこだ)沼袋(ぬまぶくろ)(ともに東京都中野区)・・・なので、本日の合戦は江古田・沼袋の戦いと呼ばれます。

記録によれば、豊島勢は200騎、一方の道灌は、わずか50騎だったと言われていますが、上記の通りに道灌が、本当に足軽を駆使していたのだとしたら、騎馬武者の数を、そのままの兵力とみなす事はできないわけですし、一説には、一騎撃ちを望む騎馬武者に、足軽が集団で襲いかかるルール無用を展開したとも言われ、豊島・弟=泰明は、この戦場で討ち取られます。

さらに敵兵数百人を討ち取り、意気上がる道灌の軍に対して、石神井城へと逃げ込んだ泰経・・・そこをすかさず力攻めで追い込む道灌に、たまらず泰経は降伏を宣言し、その後、夜陰にまぎれて逃亡しました(4月28日参照>>)

こうして、事実上、豊島家を滅亡させた道灌と、お互いにその胸の内を理解しながらも、立場上敵と味方に分かれたライバル=景春・・・

ふたりの直接対決がやって来るのは、そう遠くない5月13日なのですが・・・そのお話は【用土原の戦い】のページでどうぞ>>
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2011年4月12日 (火)

南北朝合一の後に…後亀山天皇の「後南朝」

 

応永三十一年(1424年)4月12日、南北朝時代に終止符を打った第99代・後亀山天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

第99代・後亀山天皇・・・諱を熙成(ひろなり・のりなり・よしなり)と言い、元中九年(明徳三年・1392年)閏10月5日に、室町幕府の第3代将軍=足利義満が提示した講和条件を承諾して後小松天皇へ譲位し、南北朝を終わらせた南朝側の天皇です。

Gokameyama600 しかし、北朝優勢だった当時は歴代天皇に数えられる事はなく、明治四十四年(1911年)に南朝が正統とみなされ、初めて、第99代と数えられる事になります。
 

ご存じ、第96代後醍醐(ごだいご)天皇と室町幕府・初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)の対立に端を発し、約60年に渡って、一つの国に二つの朝廷が存在するという不可思議な状態となってしまった南北朝時代・・・(10月27日参照>>)

それが、上記のように後亀山天皇が、足利義満の提示した条件を呑む事によって、やっと合体する事になったわけですが、その条件とは・・・

  1. 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事 
  2. 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う 
  3. 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)」を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる

『大乗院日記』によれば、「南北御合躰 一天平安」と、大喜びの南北朝合一ですが、はっきり言って、北朝による南朝の吸収合併・・・この約束がすんなりと果たされるかどうかというのは手探り状態です。

・・・とは言え、この頃の状況は北朝の優勢になる一方で、もはや南朝は虫の息でしたから、とりあえずは、勝ち組の北朝が、負け組の南朝のメンツに、目いっぱい配慮してくれている感溢れる条件なのですから、「多少の不安はあっても受け入れるしかない」というのがホンネだったかも知れません。

しかし、そんな不安は的中します。

上記の3条件の中で、南朝側の最大の関心事は、2番の「後継者の交代制」・・・もちろん、北朝側から見ても、これが、相手が1番に喰いついてくるエサであった事を重々承知して条件の中に入れたわけですが・・・

もはや歴史年表の歴代天皇系図を見ても明らか・・・この南北朝合体の後に、南朝側出身の天皇は一人もいません。

1番重要な条件を、完全無視しちゃったのです。

・・・とは言え、もともと、この条件を提示した3代将軍=義満は、応永十五年(1408年)に51歳で亡くなっていて、少なくとも、義満健在の時代には、後継者問題が起きる事は無かった事を考えれば、ちょっとは気をつかったのかな?って感じですが、

逆に言えば、
「それは、先代のポッポ総理が言ってた公約なんで・・・」
と、代替わりでウヤムヤにされたアレみたいなモンかww

とにもかくにも、いっこうに実行されない約束につのる不満・・・そこを核に、武士勢力の対立抗争がまとわりついていくのです。

そう、以前、義満が将軍に就任した日のページ(12月30日参照>>)に書かせていただきましたが、実は、義満がわずか11歳で征夷大将軍になったその頃は、未だ幕府が盤石とは言えない時期で、彼は、あの手この手で将軍勢力を拡大させていったのです。

特に、身内同様の大大名=大内義弘を討死させた応永の乱(12月21日参照>>)などは、けっこう強引だったようで、それらは、そこかしこに武士の不満の種をまき散らしていたわけです。

ただ、遠く九州や関東・・・近畿地方の山間部や伊勢など、その種はまかれていたものの、未だそれらは、それぞれが様々な場所での抗争を繰り返していただけでした。

そんな状況に変化が訪れるのは応永十五年(1408年)・・・義満の後を継いで将軍となった足利義持(よしもち)が、現天皇の後小松天皇に代わって、その第1皇子の躬仁(みひと・実仁)皇子即位させようと画策し始めたのです。

翌年の11月には、最も次期天皇の有力候補だった後亀山天皇の孫を醍醐寺(だいごじ)地蔵院に入室させたとされ、その意思表示も大胆になります。

これを知った後亀山上皇は、「何とかならんか?」と義持に直接交渉したりなんぞしますが、義持の姿勢ははいっこうに変わらず・・・

かくして応永十七年(1410年)11月27日、なんと、後亀山上皇は大覚寺を出奔し、突然、大和(奈良県)吉野へ・・・

記録には「生活の困窮」がその理由とされていますが、このタイミングでの吉野行きは明らかに幕府への抗議!

ただ、この頃は、残念ながら、まだ実が熟していませんでした。

後亀山上皇の出奔をよそに、翌年、京都では躬仁皇子の立太子が行われ、応永十九年(1412年)8月29日には、その躬仁皇子が、第101代称光(しょうこう)天皇として即位・・・後小松上皇による院政が開始され、もはや南朝勢力の挽回をはかる場面は無くなってしまいました。

吉野へと出奔してから6年・・・応永二十三年(1416年)、目的を果たせなかった後亀山上皇は、空しく京都へと戻りました。

その後の後亀山天皇が失意のままに暮らした事は言うまでもありませんが、そんな後亀山上皇・・・応永三十一年(1424年)4月12日75歳とも78歳とも言われる、波乱の生涯を閉じました。

その人生と最期の無念の思いにふさわしく、その夜は雷鳴轟く激しい雨模様だったと言います。

しかし、無念に散った後亀山上皇の後で、その果実は確実に熟していきます。

この後の将軍の交代劇、天皇の交代劇に乗じて、反幕府勢力の中心となるのは、南北朝の初期に活躍した北畠親房(ちかふさ)の曾孫に当たる北畠満雅(みつまさ)・・・そして、後亀山上皇の孫・小倉宮(おぐらのみや)

彼らは、近畿山間部の山城で、楠木正成(くすのきまさしげ)を彷彿とさせるゲリラ戦を展開していく事になるのですが、そのお話は、また、いずれかの機会に・・・

ちなみに、今回の南北朝合一後に誕生した反幕府勢力「後南朝」と呼びます。
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2011年4月11日 (月)

見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原

 

慶長七年(1602年)4月11日、徳川家康島津義久本領を安堵し、弟・義弘の助命とその息子の忠恒の家督相続を認める誓約しました。

・・・・・・・・・

見事な島津の粘り勝ち!
いや、相手の痛いところを見抜いての交渉術のうまさと言ったところでしょうか・・・

事の始まりは、あの関ヶ原・・・慶長五年(1600年)9月15日の天下分け目の戦いです。

当時、薩摩(さつま・鹿児島県西部)島津家では、兄の島津義久(よしひさ)大隅日向(宮崎県)を、弟の義弘(よしひろ)鹿児島周辺を治めるという「両殿体制」という形をとっていました。

これは、豊臣政権が義弘を事実上の当主として扱っていたものの、国許の領内では、やはり兄=義久が実権を握っていたからなのですが、関ヶ原の開戦当時は兄=義久は九州にいて、弟=義弘は京都に滞在中・・・

そして、ご存じのように、この義弘が、なりゆき上西軍として関ヶ原に参戦・・・両軍の戦況を見ながら、最後の最後に「敵中突破」という命がけの離れ業で戦場を離脱し、最後には、わずか80騎になって故郷にたどりつきました(9月16日参照>>)

たった半日の天下分け目の戦いで、島津は完全に負け組となってしまったのです。

命からがら逃げかえった弟に対して、兄は、いたわるどころか怒り爆発!・・・なんせ、この時の島津は、徳川家康と誓詞を交わしており、本来なら東軍として参戦しなければならなかったのに、なりゆきとは言え、石田三成(みつなり)加担し、しかも負けちゃったわけで・・・

早速、義久は、義弘を蟄居(ちっきょ・自宅謹慎)させ、
「関ヶ原で西軍に加担したんは義弘の独断で、豊臣秀頼公への忠節つくすため以外の何物でもありませんので・・・」
てな、内容の書状をしたため、東軍の諸将に、家康へのとりなしをしてもらえるようお願いしまくりますが、9月の末には、家康からの島津討伐命令が出されます。

・・・と、ここで、関ヶ原の負け組の皆さまの戦後を見てみますと・・・

戦死や自刃・刑死や流罪など、とにかく罪人として処分されたのは、
石田三成小西行長宇喜多秀家織田秀信増田長盛(ましたながもり)宮部長熙(ながひろ)など・・・

改易となったのが、
立花宗茂(むねしげ)小早川秀包(ひでかね)長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)前田利政青木一矩(かずのり)など・・・

減封・転封となったのが、
個人的には怪しいんですけど(5月10日参照>>)豊臣秀頼
上杉景勝(かげかつ)佐竹義宣(よしのぶ)毛利輝元秋田実季(さねすえ)など・・・

特に、大大名だった上杉(8月24日参照>>)毛利(9月28日参照>>)は、ここぞとばかりに大幅減封・・・3分の1以下になるというあり様でした。

そんな中で、最終的に所領安堵・・・つまりお咎め無しとなった島津さん・・・

同じく、所領安堵となった大名には、鍋島直茂蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)生駒親正(いこまちかまさ)などがいますが、いずれも、親子で東西に分かれた人たちで、直茂なんて最後には先頭にたって立花を攻めたりなんぞしてますから・・・(10月20日参照>>)

つまりは、完全に西軍として戦場に赴いておきながら、所領安堵となったのは島津ただ一人という事になります。

実は、先に書かせていただいた通り、9月の末に島津征伐を宣言する家康ですが、早くもひと月半後の11月12日には、その中止を言い渡しています。

さすがの義久さん・・・「ここに勝機アリ」というのを見い出したのでしょうね。

そう、当然の事ながら、戦後処理に忙しい家康が、自ら島津討伐に向かう事はできませんから、ここで島津討伐軍として先頭に立っていたのは、上記の鍋島直茂や加藤清正黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)九州勢・・・(11月3日参照>>)

ご存じのように清正は秀吉恩顧の武将だし、如水に至っては、これきっかけで天下を狙うつもりだったとも噂されている人物です(9月13日参照>>)

彼らが島津を倒せば、当然、その恩賞を与えねばならないわけですが、今の家康にとって、彼らがあまりに強くなる事は避けたいわけで・・・遠く離れた九州に、強大な国を造ってもらっちゃぁ困るわけですよ。

かくして、義久に、島津討伐を中止させたったんやから」と、上洛しての謝罪と臣従を求める家康・・・

さぁ、ここから義久の交渉術・・・

上洛要請には
「ちょっと、今、お金ないんで・・・」
断わる一方で、
「我が家の先祖は源頼朝公のご落胤・・・アンタとこも源氏やろ?同じ先祖やんかいさー」
と、軽く矛先をかわしていきます。

さらに、義久には、「ネバりにネバれば、最後には家康が折れるだろう」という切り札がありました。

それは、(みん・中国)との貿易です。

島津が正式に琉球を手中に納めるのは、7年後の慶長十四年(1609年)ですが(4月5日参照>>)、なんだかんだで琉球と薩摩の関係は切っても切れない仲・・・さらに、その琉球を通じての明との貿易は莫大な富を生むわけで、そこからあがる“うまみ”は、家康だって絶対に欲しいはずです。

「ここは中途半端に妥協するまい」
と義久の決意は固かった・・・

その後、島津と家康の間で、何度も何度も使者や書状が行き交いながらも、いっこうに話が進まないまま、ネバる事1年半・・・

慶長七年(1602年)4月11日、ようやく家康が、
「薩摩・大隅の両国と日向諸県郡という現在の島津所領を安堵し、弟・義弘の助命とその息子の忠恒の家督相続を認める」という誓嗣を義久に送ったのです。

合戦には負けても、交渉に勝った島津義久・・・

その後、同じ年の8月には、義弘の息子・忠恒(ただつね・家久)が上洛し、暮れには伏見城にて家康と会見・・・ここに、島津の関ヶ原は、ようやく終わったのでした。
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2011年4月 9日 (土)

ヒデヨシ感激!本多忠勝の後方支援in長久手の戦い

 

天正十二年(1584年)4月9日、信長の後継を巡って行われた一連の小牧・長久手の戦の中の、最大の山場=長久手の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

織田信長本能寺で倒れた(6月2日参照>>)後、謀反人の明智光秀山崎で倒し(6月13日参照>>)、織田家家臣トップの柴田勝家賤ヶ岳に破った(4月21日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉・・・

おかげで、織田家家臣の中でもトップの・・・いや、もはや、織田家に代わって天下をも狙えるその気配に、懸念を抱いたのが、「我こそは織田家の後継者!」を自負する信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)(5月2日参照>>)と秀吉に匹敵する力を持つ徳川家康・・・

この両者の間で、天正十二年(1584年)に勃発したのが、小牧長久手(こまきながくて)の戦いです。

●3月12日の亀山城の攻防(3月12日参照>>)を前哨戦に、
●3月13日に起こった犬山城攻略戦(3月13日参照>>)
●秀吉側の森長可(ながよし)が屈辱の敗北を受けた羽黒の戦い(3月17日参照>>)
●こう着状態のにらみ合いが続いた小牧の陣(3月28日参照>>)

・・・と、ここまでが小牧の戦い

そして、このこう着状態を打開しようと、先の羽黒の戦いで手痛い敗北を喰らった長可が汚名返上とばかりに、嫁のお父ちゃん=池田恒興(つねおき)の同意を得て提案したのが今回の長久手の戦い・・・

家康が、こちらの小牧長久手に集注しているスキに、本拠地の三河を攻めようという、世に言う「三河中入り策」で、一般的には、秘密裏に行われていたこの作戦が、すでに信雄&家康にバレていて、不意に背後を奇襲されたために総崩れとなったとされます(2007年4月9日参照>>)

しかし、近年では、この作戦は長可の提案した極秘作戦ではなく、秀吉自らノリノリに準備した作戦で、そこには、この長久手の戦いの直後に秀吉の傘下となる九鬼嘉隆(くきよしたか)水軍も導入するはずであったとの見方も浮上してきています(4月17日参照>>)

ともあれ、この長久手の戦いで、
その恒興も(4月11日参照>>)
あの長可(2008年4月9日参照>>)も討死してしまうのですから、やはり、不意を突かれた秀吉側の大敗であった事は確かでしょう。

ところで、天正十二年(1584年)4月9日のこの日、その長久手の戦場に向かった家康の主力部隊に対して、小牧の陣に居残った人たちがいます。

石川数正酒井忠次本多平八郎忠勝・・・

その留守番隊へも刻々と戦況が伝わる中、「長久手での自軍の敗戦ぶりを耳にした秀吉が、自ら援軍を率いて出陣した」との一報が舞い込んできます。

これを聞いた忠勝は、「すわ!秀吉の本陣楽田(田楽)へ火をつけて攻め込もう!」との声をあげます。

しかし、これには数正が反対!
なんせ、留守番隊の手ゴマは少ないですから・・・

ところが、通り過ぎる秀吉の馬印を目にした忠勝は、そんな制止を振り切り、わずか500ほどの手勢を引き連れて駆け出し、向こう岸を長久手へと向かう秀吉軍と並行するように、小川を挟んだ、こちら岸を長久手へとひた走ります。

途中、足軽を前面に押し出して鉄砲を撃ちかけ、「ほら、一戦交えん!」と挑発しますが、秀吉は無視し続けて進軍・・・

そして、まだまだ並走して進む忠勝が、竜泉寺というお寺の近くで、馬ごと川に飛び込み、その水で口をすすいだ時の事です。

戦う事は無視しながらも、その姿を気に留めた秀吉・・・
「あの鹿の角の兜つけとるヤツ・・・誰やねん?」

すると稲葉道朝という者が進み出て
「あ・・・姉川の合戦で、あの兜見た事ありますわ~アイツ、本多平八郎ですわ
と・・・

そして、ふと、秀吉の顔を見ると・・・
なんと、秀吉は、涙を流しながら
「見てみぃ、わずか500に満たん手勢で、8万のワシに挑むてか。
そんなもん、千に一つも勝ち目ないで。
まぁ、勝つというよりは、俺らの進軍を手間取らせて、ちょっとでも家康本隊を勝たせる方向に持って行こうっちゅー事なんやろけど、
その勇気と言い、忠義と言い、さすが本多平八郎・・・泣けるなぁ。

さらに、
「アカン、あいつを撃ったらアカンで!
ここで、アイツを撃とうが撃つまいが、運があったら、この合戦は俺の勝利や。」

と、忠勝に狙いを定めていた鉄砲隊や弓矢を制止させたのだとか・・・

こうして両者は、そのまま長久手の戦場まで向かう事になるのですが、果たして、戦場に着いてみると、もはや戦いは終わり、敵味方ともに人影はありませんでした。

忠勝が茫然と立ちつくしている所に知らせが・・・それは、なんと、「味方は勝利して、すでに小幡城に引き揚げた」と・・・忠勝も間に合わなかったけれど、秀吉も間に合わなかったのです。

早速、馬を走らせて、家康のもとへ参上する忠勝・・・
そばに来て
「小牧に置いてかれたので、合戦に間に合いませんでした」
と、頭を下げる忠勝に、家康は
「いやいや、俺は、お前をワシの代わりやと思て小牧を守らせたんやで。
そこを、しっかり守ってくれたおかげで、後方への不安が無くなり、ワシは勝利でけたんや」

と、泣けるようなひと言・・・

こうして、長久手の戦いにあけくれた一日が終わりましたが、当然、秀吉の本隊は無事ですから、この一連の合戦が終わるわけではなく、この後の6月に行われるのが、最後の戦いとなる蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)・・・

前半の小牧と今日の長久手、そして最後の蟹江城・・・これらを、すべて含めて「小牧長久手の戦い」と呼びます。

ところで、本日の長久手の戦いでの忠勝の勇姿に感動した秀吉さん・・・話は後日に続きます。

6年後の天正十八年(1590年)・・・家康とも和睦して、北条も倒して、まさに天下人となった秀吉は7月26日、野洲宇都宮にて忠勝を呼びつけました

慌てて忠勝が駆けつけると、大広間に並みいる諸将・・・そして、中央に秀吉・・・

何事かと末席に落ち着くと、秀吉が
「熊野におる者がら佐藤四郎忠信の兜をもろてんけど・・・
忠信って、源義経へ忠義を尽くした武将
(9月21日参照>>)として有名やから、やっぱり、忠信に劣らへんほど忠義なヤツに、この兜を譲りたいと思うねんけど、皆、誰がええと思う?」
と、質問・・・

誰も、答えられないでいると、
「四郎に勝るのは、平八郎だけやろ!」
と言って、長久手の戦いの話を、そこにいる皆に聞かせたのだとか・・・

さらに、その後、茶室に忠勝一人を呼んで、秀吉自らが茶を点てながら、
「今日、みんなの前で、あんだけ褒めてもろて、ありがたかったやろ?
主君の恩と、どっちがありがたい?」

と聞いたのです。

すると忠勝・・・
「ほんまに、もったいないほどありがたい事です。
けど、主君の恩は、比べる事はできんほどの物ですから・・・」

最後まで忠義を貫くこの答えに、秀吉は大いに満足したのだとか・・・

・‥…━━━☆

ところで余談ですが、今年の大河ドラマ「江」・・・今、ちょうど、このあたりのお話です。

は、この小牧長久手の直前に、伊勢湾あたりの海賊を中心とした水軍を持っていた尾張(愛知県西部)知多半島の豪族・佐治(さじ)佐治一成(かずなり)初めての結婚をしています。

しかし、最後の蟹江城の攻防戦で、この佐治氏の水軍が家康に味方した事に激怒した秀吉によって二人は離縁・・・
「茶々が病気になったので、お見舞いにおいで」と呼びつけられて、そのまま二人は引き裂かれてます・・・って事は、かなり短い結婚生活?

ちょっとネタバレ気味でしたが、一応史実とされている事なので・・・ドラマでは、どのように描かれるのか?
またまた、秀吉の自分勝手満載の悪人ぶりが披露されるんでしょうね(´Д⊂グスン

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
 鬼武蔵・森長可>>
 本多忠勝の後方支援>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2011年4月 8日 (金)

毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン

 

弘治元年(1555年)4月8日、陶晴賢方の神領衆が安芸小方・大竹から小船7~80艘に分乗し毛利元就方の厳島を攻めました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代・・・周防(すおう・山口県)大内氏と、出雲(島根県)尼子氏がしのぎを削っていた中国地方。

この2大勢力のハザマに位置する安芸(あき・広島県)の国人・毛利氏は、毛利元就(もとなり)(10月22日参照>>)が家督を継ぐやいなや大内氏の傘下となり、尼子氏と決別します(1月13日参照>>)

しかし天文二十年(1551年)・・・大内氏の重臣であった陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が、主君・大内義隆(よしたか)を自刃に追い込み、義隆の甥にあたる大友義長(よしなが・当時は晴英)を当主とし、事実上実権を握ってしまいます(8月27日参照>>)

この時、晴賢側に立って、ともに大内氏を攻めて勢力を拡大を計った元就ではありましたが、実は元就は、未だ土豪に毛の生えた国人だった自分を、何かと盛りたててくれた義隆に恩義を感じていて、心の底では、この晴賢の謀反を快く思ってはいなかったのです。

とは言え、早いうちに大内氏の家臣団を掌握してから謀反を決行した晴賢に、未だ力不足の元就では刃向かう事ができなかった・・・というのが現状でした。

しかし、そう思っていたのは元就だけではなかったようです。

晴賢の謀反から3年後の天文二十三年(1554年)・・・やはり、毛利と同じような立場で、かつては大内氏の傘下となっていた(5月27日参照>>)石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)が、晴賢に反旗をひるがえしたのです。

正頼からも晴賢からも、援軍の要請を受ける元就・・・両者の動向を見ながらチャンスをうかがいます。

やがて晴賢が義長を奉じて正頼の本拠地・津和野城へと出陣したタイミングで、晴賢からの離反を決意・・・5月12日には、その心の内を表明して挙兵し、またたく間に銀山(かなやま)草津城など、安芸南西部の諸城を落としていき、さらに、厳島(いつくしま・宮島)も制圧したのです。

一方、元就のこの動きを知った晴賢は、早速、配下の宮川房長(ふさなが)に自らの兵=3000を預けて、元就の本陣へ・・・しかし、元就は見事にこれを跳ね返し、意気揚々と、本拠地・郡山城へと帰還しました(9月15日参照>>)

・・・とは言え、このまま、突き進むわけにはいきません。

なんせ相手は、あの名門・大内氏の兵力を、ほぼそのまま引き継いでいるのです・・・数にすれば何万という兵を動員できるはず・・・

一方の元就は、いくら頑張っても、せいぜい4000程度・・・まともに戦っては勝ち目はありません。

そこで元就・・・ここは、ゆっくり腰を据えて作戦を練ります。

まずは、お得意の寝返り工作で、久芳(くぼ)主の久芳賢重(かたしげ)桜尾城の城将だった毛利与三らに、大金をチラつかせて取り込んだ後、さらに、晴賢の腹心とまで言われた江良房栄(えらふさひで)までをも味方に引き込む事に成功したのです。

名将の誉高い彼の寝返りは、かなり心強い!!・・・と思いきや、この房栄さん、自分の存在がいかに重要かを、自らも重々承知のご様子で、
「とりあえず、味方になったったけど、ちょっと金額少ないんとちゃう?」
と、更なる領地加増の希望をチラつかせます。

これには、元就はもちろん、長男の隆元もカチン!!

なんせ、その時点で、毛利の譜代の家臣と、同じくらいの領地を与えているんですから・・・

しかも、この態度、
「・・・って事は、向こう(晴賢)が、もっと好条件を提示して来たら、コイツ、またあっちへ寝返るんちゃうん?」
てな事を疑いたくもなります。

そこで、すかさず作戦変更・・・

実は、その時に、晴賢側のスパイが、すでに毛利に入り込んでいたんですが、その事を重々承知の元就は、このスパイを逆利用・・・房栄が寝返った事を、ワザと、そのスパイに教え、それを晴賢に知らせるように仕向けたのです。

案の定、房栄の裏切りを知った晴賢は怒り爆発!!!
配下の者に命じて、房栄を殺害してしまいました。

さすが元就さん、お見事!!
と思いますが、これには別の説も・・・

それは、実は、この時の房秀は、晴賢を裏切る事などまったく考えてはいなかったにも関わらず、元就がわざと「房栄裏切り」のウソ情報を流して、疑心暗鬼に陥っていた晴賢を騙し、内部分裂をさせたのだとも言われています。

知略・謀略渦巻きまくり・・・ホント、元就さん、お見事です。

さらに、作戦はこれだけではありません。

そう、厳島へのおびき出し作戦・・・

Mourimotonarikankeizucc_2 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

広々とした平地で、まともに戦っては勝ち目はありませんから、周囲わずか29km、しかも山ばっかりの厳島へとその大軍をおびき出して、思うように動けずにいる所を奇襲すれば、必ず勝機があると睨んだのです。

確かに、かの名門・大内氏は、これまで安芸に進攻する際、この厳島を中継基地にしていましたし、もう一つの中国の雄・尼子氏が安芸を攻める時にも、ここを中継地点にして攻め込んでいました。

と言うのも、地図を見るとわかる通り、この厳島を制圧すれば、その周辺の制海権も握れる事になるので、安芸を攻める時の兵の輸送や兵糧の輸送が船で行え、とても便利なのです。

とは言え、あの晴賢謀反のドサクサで毛利が手に入れた草津城などの安芸南西部を取り返そうと、万が一陸路で進攻して来るかもしれません。

そこで、元就・・・弘治元年(1555年)の春先から、まずは、陸の最前線となる門山(かどやま)を破棄して、少し撤退してみせるとともに、その対岸の厳島に、わざとらしくミエミエの場所にて、これ見よがしに築城を開始します。

これが、宮尾城です。

この様子を見た晴賢・・・早速配下の者をよこします。

かくして弘治元年(1555年)4月8日、晴賢配下の神領衆が安芸小方・大竹から小船7~80艘に分乗し、厳島を攻めにやって来ました。

とは言え、わずか、これだけの軍勢・・・小競り合いを少々起こして、早々に帰っていただきましょう。

なんせ、元就が、待っているのは、晴賢の主力本隊の大軍なのですから・・・

やがて、その宮尾城は、無事5月に完成・・・果たして、晴賢の動向は???

と、これが、戦国三大奇襲の一つに数えられる厳島の合戦(前半部分内容かぶってますが10月1日参照>>)へとつながるわけですが、まだまだ書き足りない部分も含めて、続きのお話は、9月21日【毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…】でどうぞ>>
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2011年4月 7日 (木)

永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂

 

永禄七年(1564年)4月7日、長宗我部元親本山城の本山親茂を攻めたため、親茂は瓜生野に退きました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)、土佐(高知県)を巡っての永遠のライバル本山氏との長浜表(ながはまおもて)の戦い初陣を飾った長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・

Tyousokabemototika600 とは言え、それまでの元親は、ガタイは良いものの、色白で物腰が柔らかく、人に会ってもほとんどしゃべらず、一日中部屋に引きこもりの状態で、家臣からは『姫若子(ひめわかご)というニックネームで呼ばれ、父の国親(くにちか)でさえ、
「ウチも、ここで終わったか…
(ノд・。)」

嘆くほどの、頼りない嫡男でした。

ところがドッコイ、この初陣で見事な活躍をした元親・・・(5月26日参照>>)

そのニックネームは、いきなり『土佐の出来人(できひと)に変わり、その長浜表戦い後まもなくに病に倒れた父・国親も、
「本山を倒す以外に、俺への供養はないと思え!」
てな遺言を残して、この世を去りました。

父の死を受けて家督を継いだ元親は、これまで15名だった家老クラスの重臣をプラス17名・・・倍以上の32名に増やして、勢力拡大に取り掛かります。

これは、まさに、元親の巧みな人心掌握術の一環・・・

武功に応じて、家臣たちに城や領地を惜しげもなく与え、その士気を高めるのです・・・「頑張れば、どんどん出世できる!」と、家臣たちは心ウキウキヽ(´▽`)/

また、一方では、降伏した者への対応も、素直なら素直なだけ、その旧領を安堵したりして、敵にも寛大・・・となると、自ら寝返りする者も相次いで、戦わずして勢力拡大する事もしばしば・・・

さらに、合戦で焼失した神社仏閣の修復も積極的に行い、そこに付属している氏子などの民衆の心もつかんでいくのです。

一方、先の長浜表の戦いで長浜城(高知市)を落とされた本山氏・・・その後は朝倉城(高知市)を本拠地としていましたが、上記の元親の人心掌握術による寝返りやら小競り合いやらで、次々と支城を失って行き、その圧迫に耐え切れなくなった永禄六年(1563年)、朝倉城に火をかけ、もともとの本城である本山城(高知県長岡郡)へと退去・・・こうして、土佐平野部での覇権を失ってしまうのです。

しかも、その翌年の永禄七年(1564年)、本山氏の当主だった本山茂辰(もとやましげとき)が病死・・・息子の本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)が後を継ぎます。

この当主交代劇を好機と見た元親・・・すかさず、動きます。

とは言え、ご覧の通り、父より本山潰しを託されてから、もう4年・・・本山氏は、なかなかしぶとい上に、今回の本山城は、堅固な城として知られた城でしたから、そう、たやすくはいきません。

そこで、元親・・・一策を講じます。

実は、本山城の西側あたりには、土佐郡森郷の領主・森氏が治めていた森城(高知県土佐郡)があったのですが、そこを、かつて本山が奪い取っていたという経緯のある場所・・・その時に、命からがら長宗我部を頼って逃亡して来た森孝頼(もりたかより)は、現在は配下となって、元親から潮江(うしおえ)主を任されている人物です。

この恨み&復讐心を使わない手はありません。

元親は、孝頼を、
「さぁ、旧領を復活させてやるから、大暴れして来い!」
とばかりに、その森城へと送り込んだのです。

かねてより地の利のある孝頼・・・ゲリラ的作戦で、見事、本山氏をかく乱します。

かくして永禄七年(1564年)4月7日・・・耐えきれなくなった親茂は、本山城を放棄して瓜生野(うりうの)(高知県長岡郡)へと撤退しました。

そこで、なおも抵抗を続ける親茂でしたが、何度も何度も、休む事なく寄せ手を繰り出す元親・・・結局、この親茂が降伏するのは永禄十一年(1568年)、ここで、ようやく本山氏は、元親の支配下に組み込まれる事になります。

そう、元親は、この親茂に対しても、あの人心掌握術を発揮・・・それまで貞茂(さだしげ)と名乗っていた彼に、自らの1字を与えて親茂とし、一門の一人に加え、嫡男・信親(のぶちか)家老としました。

まぁ、政略結婚とは言え、彼は茂辰に嫁いだ元親の姉の子供ってのもあり、さらにやさしくなったのかも・・・って事もありますが・・・

とにもかくにも、父との約束から11年・・・元親は、土佐中央部における大勢力圏を獲得した事になります。

あとは、西の一条氏と東の安芸(あき)・・・
と、この続きは、8月11日【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】でどうぞ>>

ところで、こうして元親の配下となった親茂さん・・・その後、四国を平定した豊臣秀吉九州征伐戸次(へつぎ)川の合戦(11月25日参照>>)にて、この時、主君となった信親を守って、ともに壮絶な討死を遂げています。

昨日の敵は今日の主君!!!
戦国の男やなぁ~~カッコイイψ(`∇´)ψ
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2011年4月 6日 (水)

世界を見たから日本が好き!志賀重昂の愛国心

 

昭和二年(1927年)4 月6日、世界的な地理学者・評論家として知られる志賀重昂が63歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

志賀重昂(しがしげたか)・・・
徳川譜代の岡崎藩の出身ゆえか、維新がなった明治政府には入らず、札幌農学校を卒業後は教員の道へ・・・

Sigasigetaka500 しかし、トラブルを起こして免職・・・東京へ出て丸善に務めていた明治十七年(1884年)、イギリスが朝鮮半島南部の沖に浮かぶ巨文(コムン)を占領したというニュースを聞きます。

気になってしかたがない重昂は、海軍兵学校の練習艦・筑波便乗して対馬へ・・・巨文島占領の状況を探るとともに、列強進出の危機感を訴え、対馬の重要性を指摘します。

さらに・・・
かねてより、ダーウィン『ビーグル号航海記』に夢中になっていた彼は、「日本のダーウィンになりたい!」とばかりに、再び筑波に便乗して、フィジーサモアの南洋諸島からオーストラリア、果てはニュージランドまで・・・南太平洋一帯を巡ります。

一学者として、南半球の地質や動植物、そして人種や民俗を観察して記録したいというのが、主たる動機だったようで、帰国後には、その記録をまとめて、『南洋時事』なる著書を発表します。

これが大評判となり、重昂は一躍、地理学者としての名を挙げるのですが、まだまた、その活躍は留まりまりません。

後に、重昂の事を評して
「国を愛するが故に故国にとどまった者は多いが、国を愛するが故に遠くに赴いた者は少ない」
と言った人がいます。

そう、実は、重昂は、外国に行けば行くほど、日本のすばらしさに気づくのです。

鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)に代表されるように、明治の頃に吹き荒れた欧米化の嵐・・・あの福沢諭吉でさえ、『脱亜入欧』を唱えていた時期です。

そんな時に、時流にクギを刺すがのごとく、重昂は『日本風景論』を発表し、さらに機関紙『日本人』を創刊しました。

とは言え、なんでもかんでも日本を讃え、欧米文化を跳ね除けようというのではなく、宗教や道徳や美術といった日本古来の物を守り、政治や生産制度などの日本の良きところは残しつつ、欧米に見習うべき所は、しっかりと日本風にアレンジして導入する・・・という、まさに見事な思想でした。

さらに特筆すべきは、明治三十一年(1898年)、第1次大隈内閣の外務省勅任参与官をやっていた時に起こった小笠原諸島の南方にあるマーカス島を巡っての領有問題・・・

この時、いち早くこの島を『南鳥島』と改称し、東京府小笠原支庁の管轄にしちゃった手腕はお見事!

現在でも、この南鳥島と与那国島を結ぶ間で、日本の実効支配が可能な事を考えると、その功績は大きいです。

そして、晩年の大正十三年(1924年)には、インドからイランイラクなどアラビア半島を巡る中、未だ日本人がほとんど訪れた事の無いオマーンに入って、アポなしで王宮を訪問・・・当地の君主への謁見にも成功しています。

突然にも関わらず友好的に迎えてくれた君主は、
「君ら日本人は、なんで、アラブにけぇーへんねや?
ここで、日本人が商売や産業起こしてくれたら、ウチの発展にもつながるし、日本かて儲かる・・・お互いの親睦も深まるし、ええ事ばっかりやん」

と語ったとか・・・

この言葉に、重昂は心を撃ち抜かれたと言います。

これまで「アラブ人は攻撃的で怖い人たち」という先入観を持っていた重昂・・・
しかし、この優雅で高貴に満ちた君主の態度に、一発で、これまでの自分の誤解を、心から反省しています。

60歳を過ぎても、まだ未知なる物に興味を抱き、そして自分が間違っていた事には素直に反省する・・・日本を守りつつも外国を受け入れた若き日の柔軟な精神を、彼は、生涯、持ち続けていたんですね。

昭和二年(1927年)4 月6日、63歳になっていた重昂は、左ひざの関節炎の手術を行った後、静かにその生涯を閉じたと言います。

「領土問題はない」とか言いながら、はっきりした態度をとらないリーダーが、仮免で運転する今日この頃・・・重昂のようなき然とした態度をとるためには、使命感に満ちた愛国心とともに、その愛国心に溺れる事の無い冷静な学問的知識、さらに、柔軟に事を見る目も必要・・・

仮免では、なかなか、難しいのかも知れません。

ちなみに、「日本ライン」「恵那峡」を命名したのも重昂さん・・・日本の美しさを再発見し続けていたんですね~
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2011年4月 5日 (火)

家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑

 

天正二年(1574年)4月5日、徳川家康が、武田勝頼に内通した家臣・大賀弥四郎を三河岡崎で鋸引きの刑に処しました。

・・・・・・・・・

戦国時代で、魔王のごとき悪の権化のように言われる織田信長・・・

それに比べて徳川家康地道で清廉潔白なイメージがありますが、いやいやどうして、康もなかなか残酷な処刑をやっちゃってくれてます。

「鋸(のこぎり)引き」というのは・・・
罪人を、道の端っこに首だけ出した状態で地中に埋め、その横に、主に竹製の鋸を置いておいて、「通行人は誰でも鋸を引いて良い」とする処刑方法・・・ひと思いに殺さず、じわじわと苦しめるというやり方です。
(もちろん、信長もやってますが…(^-^;)

・・・と言っても、いつも言わせていただいているように、戦国時代の出来事を、現在の尺度でそのまま計る事はできません。

なんせ、殺らなければ殺られる世界です。

誰もが天下人を夢見る事のできる世界という物は、天下人だって、少しの油断が命取りになるわけですから・・・

現に、今だと、単にその場所を通っただけの一般通行人で、看板を見て「ほんじゃ、鋸を引こう」なんて思う人はいないでしょうが、この時代には、それをやっちゃう一般人が数多くいたわけですから・・・

それだけ、皆、明日の命の保証の無い中で生きていたわけです。

・‥…━━━☆

・・・で、本題に入りますが・・・

本日登場の大賀弥四郎(おおが やしろう)さん・・・もともとは、徳川家康配下の中間(ちゅうげん)という役どころ・・・

中間とは、侍と小者の中間に位置する身分で、言わば侍の下働き・・・お供もするけど飯炊きもやるという風な様々な雑用を行う係の事で、身分としては、かなり低いです。

しかし、そんなところから、弥四郎は、己の才能一つでのし上がっていく・・・実は、彼は、算術に長けていたのです。

はじめ、その計算能力がかわれて会計租税の職に試用されますが、その試用が本採用となり、やがては三河国(愛知県東部)奥郡20余まり郷の代官に抜擢されたのです。

しかも、その頃には、普段は家康のいる浜松にいて、時々は岡崎いる嫡男・松平信康の用も務めるようになり、親子ともども、どっぷりと彼に信頼を置いていたのです。

とは言え、この弥四郎さん・・・その出世ぶりを、けっこう自慢げに語る人だったようで、周囲とはあまりうまくいかず、家臣団の中ではちょっと浮いた存在だったとも(死人に口無しなので100%信用できませんが(゚ー゚;)

そんな弥四郎が、更なる出世をたくらんだのか?
はたまた、揺らぐ天下に野望を抱いたのか?

それこそ、ご本人に直接、心のうちを語ってもらわねば、真相はわかりませんが、とにかく、ここに来て、現時点での家康の最大のライバル=武田勝頼(かつより)に内通するのです。

この頃の徳川と武田・・・

元亀三年(1572年)、ご存じの三方ヶ原の戦いで、家康は死をも覚悟したほどの大敗を、武田信玄から喰らいます(12月22日参照>>)

しかし、その翌年の天正元年(1573年)が明けてまもなく、信玄が病に倒れた事で西へと向かっていた武田の大軍は、急きょ撤退・・・信玄は本拠地の甲斐(山梨県)に戻る途中でこの世を去ります。

死に際して、「自分の死を3年間隠せ」との遺言を残した信玄でしたが(4月16日参照>>)、後継者となった勝頼は、その父の影を払しょくするがのごとく、わずか半年後の10月には、遠江(とおとうみ・静岡県西部)に進攻し、家康の居城・浜松城近くに迫ります

さらに、翌年の天正二年(1574年)の1月には、当時、織田信長の支配下にあった美濃(岐阜県)明智城を攻略(2月5日参照>>)、続く6月には、難攻不落を言われた高天神城を開城させます(5月12日参照>>)

この高天神城というのは、以前、逆に家康がこの城を奪い返した時のページ(3月22日参照>>)でお話しましたが、ここが要!とも言える重要な場所に建っており、かつ、あの信玄でも落とせなかった堅固な守りの城で、この高天神城を勝頼が落とした事は、まさに、勝頼の勢いのスゴさを見せつける物でした。

そう、今回の弥四郎の内通事件は、この明智城と高天神城との間に発覚した出来事という事になるわけです。

先ほど、高天神城を開城させたのは6月と書きましたが、武田軍がその城を包囲したのは5月ですから、まさに、この4月の頃は、家康ビビリまくりの真っ最中だった事でしょう。

そんな時期に、弥四郎は、ウソかマコトか、徳川方の動きを逐一武田に報告していたというのです。

どうやら、同僚とのゴタゴタで、弥四郎の家財が没収された時に、その中から、武田への内通の証拠となる書簡が見つかったのだとか・・・

ビビリまくりの家康が、敵の勢いのみなもとが自分が信頼を置く家臣にあると知った・・・となれば、その怒りの度合いも想像がつくという物です。

かくして天正二年(1574年)4月5日、罪人の常として、縛れたまま馬に乗せられ、処刑場へと運ばれる弥四郎・・・

(*ここからは少しキツイ描写が出てきますので、ご注意を…)

ついた先には、すでに弥四郎の妻子・5人が、磔(はりつけ)にされていました。

そのかたわらで、足の腱と10本の指を切られ、首まで地中に埋められた弥四郎・・・そして、彼の目の前には、その切断された指が並べられたと言います。

地面と頭の間には、首を出せるようになった穴のある板をはめ込んで固定し、そばに置いた竹製の鋸で、通行人に、その首をひかせたのだとか・・・

磔台の妻子は、その弥四郎の様子を見せられながら処刑されるという悲しい最期となりました。

一方の弥四郎は、処刑が始まって7日後に死亡したという事です。

弥四郎の事件は、いずれも徳川家の公式記録とされる文書に書かれています。

公式記録という物が、基本、家康を賛美する姿勢からの書き方になっている以上、どこまでが、事実だったのかははっきりとしない部分もあり、中には、この後に起こる、あの家康による自らの妻・築山殿の殺害(8月29日参照>>)や、嫡男・信康を自刃に追い込む事件(9月15日参照>>)の原因の一つも、この弥四郎が、家康と信康の両方にお互いの悪口を吹きこんで、父と子の仲が悪くなった事にあるとする物もあります。

いずれにしても、このような処刑法を、その時代の背景も考えずに、ただ残酷だからと、知らないまま通過するのも、良くないのではないか?と、本日は、あえて書かせていただきました。
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2011年4月 4日 (月)

「花見自粛」ムードにひとこと言わせて!

 

今日のお話は、すでに何度か書かせていただいているので、いつも、このブログを見ていただいている方々には重複する内容で恐縮なのですが、今の時期に言いたい事なので、書かせていただく事にしました。

それは、今、一部の方々の間で出ている「花見自粛」の話です。

もちろん、空気を読まないバカ騒ぎはいけませんし、電力不足で計画停電が実施されている中での、やたら大規模なライトアップによる夜桜も考えたほうが良いかも知れません。

しかし、そうではない・・・
日本人が古来から行っていた、本当の花見・・・

それは、現在のようなバカ騒ぎではなく、
最悪の日に、明日への生きる力を得るための行事だった・・・

その事を、是非とも「花見自粛」とおっしゃる方々に知っておいていただきたいのです。
(こんな場末のブログで言っても、拡散はできないでしょうが…(゚ー゚;)

そもそも万葉の昔・・・
旧暦の3月3日か、もしくはその翌日が「花見にでかける日」とされていたのです。

それは、その3月3日が“シガノ悪日”という「何をやっても悪い日=厄日」とされていたからなのですが・・・

記録として残るのは、花が歌に詠まれるようになる万葉の頃ですが、おそらくは、もっと昔の時代から、そのような習慣があったのではないでしょうか?
(万葉の頃の花見は「梅」だったと言われていますが…)

・・・というのも、別ルートで伝わったとおぼしき東北地方にも“シガヨウカ”と呼ばれる最悪の日があって、そこでは4月8日がその日とされ、やはり同じように、この日に花見を行っていたとされているのです。

では、なぜ、最悪の日に花見をするのか?

それが、「タマフリ=魂振り」という儀式です。

これは読んで字のごとく、その場に神を呼び込んで場を清め、自らの魂を奮い立たせる儀式の事で、Yamafurigoheicc わかりやすい所では、神社はもちろん、建築物などの地鎮祭や、その他もろもろの場所で、神主さんが、紙を切ったような折ったようなビラビラが先っぽについた棒のような御幣(ごへい)という道具を左右に振り、お祓いをしますよね。

あれが、「タマフリ」です。

もちろん、あれは、神官となった人が行う正式なタマフリですが、他にも、色々なタマフリがあります。

何も道具を持たない庶民が、衣の袖を振ってタマフリを行い、命がけで旅をする人に「この先、神様のご加護があるように」と祈った儀式が、別れる時に手を振るという行為であったであろう事も、以前のページに書かせていただきました(内容かぶってますが1月31日参照>>)

タマフリの基本は、空気を震わせて波長を起こす事で、神を呼び、場を清め、魂を奮い立たせるワケですから・・・

そう、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりというのもタマフリなのです。

音が、空間を伝わる波長である事は、近代になってからわかった事だと思うのですが、不思議な事に神代の昔から、日本では音を鳴らすタマフリが行われていたのです。

そして、21世紀の現代に生きる皆さまなら、もう一つ、空間を伝わる波長がある事をご存知ですよね?

そう、光=色です。

目にも鮮やかな真っ盛りの花を・・・
燃えるような青葉を・・・
その目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらう・・・、
元気な色の波長を浴びて、自らの魂を奮い立たせる力を得る・・・

これが「見るタマフリ」です。

確かに、より元気で美しい花の周りに人が集まり、
そこに会話が生まれ、男女の出会いがあり、
やがては、花の下でお酒を酌み交わすようになって、江戸時代の頃には、現在のようなお花見のスタイルになるわけですが、

本来の花見というものは、決してバカ騒ぎする事ではありません。

それは、辛く悲しい最悪の日に、神様に降臨してもらい、その場を清めるとともに、自らの魂を奮い立たせ、明日を生きるための気力・活力を得る儀式なのです。

もちろん、未曽有の大災害に見舞われた今、被害に遭われた方々の気持ちを思う事も、喪に服して自粛する事も大切な事です。

しかし、「花見自粛」とおっしゃる方々・・・どうか、この本来の花見の意味を考えたうえで、そのご判断を下してください。

「それでも自粛したほうが良い」というのであれば、それは、それぞれお考えによるものですから、外野が口を挟む事ではありませんが・・・

一度、原点に立ち返ってみてはどうでしょう。

バカ騒ぎではない、本当の花見は、古代より、日本人が脈々と受け継いできた、明日への希望と活力を得るための神聖なもの・・・

もしかしたら、今こそ、大和魂を奮い立たせる時なのではないでしょうか?

Dscn6160a800 京都府・八幡 背割堤の桜
場所は本家HPの
「歴史散歩・石清水八幡宮」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2011年4月 3日 (日)

織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件~快川紹喜の死

 

天正十年(1582年)4月3日、織田信忠に火をかけられた恵林寺が炎上し、住職の快川紹喜らが焼死しました。

・‥…━━━☆

清和源氏の流れを汲む土岐氏の出身とされる快川紹喜(かいせん じょうき)は、京都の妙心寺などで修業し、美濃(みの・岐阜県)崇福寺(そうふくじ)の住職を務めた後、甲斐(かい・山梨県)武田信玄に招かれて恵林寺の住職になり、甲斐と美濃の外交関係など、パイプ役としても活躍していた僧でした。

Kaisen300 また、信玄に甲斐に招かれる以前に、織田信長が紹喜を招いたにも関わらず、彼が誘いを断って甲斐に行ったので、信長がかなり怒ってたなんて事も禅僧の噂になっていたようですが、その事が今回の事件に影響があるのかどうか???

とにもかくにも、ご存じのように、この年の3月に武田勝頼(かつより)天目山で散り(3月11日参照>>)、あの武田氏が滅亡・・・戦国の常として、多くの落武者たちが、聖域として特別扱いされる寺院へと逃げ込みます。

ちなみに、あの信長の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)も、そもそもは、浅井・朝倉落武者を延暦寺がかくまっていたからで、「かくまっている者を差し出せ」という信長の再三の要求を、延暦寺がはねのけたうえに武装解除しなかった結果であって、いきなり焼き討ちにしたわけではありません(11月26日参照>>)

もちろん、焼き討ちを100%肯定するわけではありませんが、その前に、そのような交渉があったという事は、心に留めておいていただきたいと・・・

・・・で、今回も同様に・・・

父の信長から武田攻の大将を任されていた嫡男・織田信忠は、15代将軍・足利義昭(よしあき)の使者を務めていた大和淡路守孝宗三井寺の使僧の上福院佐々木承禎(じょうてい・息子のの義定であったとも)3名が、ここ、恵林寺にかくまわれているという噂を聞きつけて、3度に渡って「その3名を引き渡すように」との交渉を行いましたが、紹喜は、これをすべてはねのけました。

この恵林寺の姿勢に信忠は、
「代々、檀家として親しくしてた勝頼はんが頼って来ても境内に入れようともせんと、その遺骨を取りにもけぇーへんくせに、そんなしょーもないヤツらはかくまうんか!」
と怒り心頭・・・

まずは、津田次郎信治長谷川与次郎などに命じて寺を包囲させて、寺の中の探索をさせますが、とっくに3名は逃亡したあと・・・

その頃には、寺の者は皆、山門の楼の上に登って籠城の構え・・・

「そっちが、そう来るならば・・・」
と、兵士たちは槍先をそろえて、逃がさないよう彼らを囲います。

『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)によれば、その時、紹喜は、弟子の一人=南華
「法が絶える事は悔しいけど、もう逃げる事はできんな…お前は、楼から飛び降りて死になさい」
と・・・

この言葉を聞いた南華は、すかさず飛び降りますが、その瞬間に兵士たちが槍先を伏せたため、助かったのだとか・・・

その後、16名ほどが飛び降りた後、残った紹喜ら84名(114名・150名とも)は、座って合唱をはじめ、兵士らは楼の下に焼草を積んで火をつけたと言います。

天正十年(1582年)4月3日、死に際して紹喜が詠んだ辞世・・・

♪安禅必ずしも山水を用ゐず
  心頭滅却
(めっきゃく)すれば火も自ら涼し ♪
というのは、
「心頭滅却すれば 火もまた涼し」「どんな苦しい事でも、心頭を超越すれば苦しいとは思えない(火だって涼しく感じる)
として、かなり有名な言葉となっていますが、この言葉は、別の文書に別人の言葉として載っているという事もあり、紹喜の言葉ではなかったという説もありますが、言葉があってもなかっても、カッコイイ妄想をかきたてられるシーンではあります。

また、冒頭に書かせていただいたように、この紹喜は土岐氏・・・そして、あの明智光秀も土岐氏・・・

その事から、この恵林寺焼き討ち炎上事件を、あの本能寺の変の光秀の動機の一つと考える方もいらっしゃるとか・・・

謎がまた一つ増えましたね。

一方、甲州征伐を終えた信長は、前後処理を済ませて帰国の途につきますが、そのお話は・・・
【武田滅亡後の織田信長…論功行賞と訓令発布】>>からの
【甲州征伐後の信長の書状と安土帰陣と息子・勝長の事】>>でどうぞm(_ _)m
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2011年4月 1日 (金)

ウソも方便…遠めがねの福助さん~エイプリルフールにちなんで

 

今日、4月1日はエイプリルフール4月バカ・・・

その起源は・・・

16世紀のヨーロッパで、それまで旧暦を使っていて4月1日が新年だったのに、いきなり新暦を採用して、今の1月1日を新年に定めたため、それに反発した人たちが、4月1日に新年の悪ふざけをしたのが始まりだとか・・・

インドの仏教徒は3月末の1週間苦行を行いますが、終わると気がゆるんでしまうため、それを戒めようとするためのものだとか・・・

などなど・・・「諸説あってわからない」というのが本当のところなのですが、とにかく、皆さまご存じのように、「1年に一度ウソをついても許される日」って事になってます。

という事で、本日は、昨年の【はりぼての野田城】(2010年4月1日参照>>)に続いて、ウソにまつわる大阪は南河内の昔話「福の神の福助さん」のお話をご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

むかしむかし、和泉の国に福助さんという百姓がおりました。

生まれつき頭が大きくて、その頭の重さのせいか、大人になっても身長がわずかに三尺(約90cm)しかありませんでしたが、とても気のいい働き者でした。

村の人たちは、そんな福助さんに、「何とか良いお嫁さんを…」と思い、八方探して見つけて来て、福助さんは、この女性と結婚する事になりましたが、この女がなんともイヤラシイ女でした。

福助さんを見た目だけで判断して、はなからアホ扱い・・・福助さんが働き者なのを良い事に、朝から晩まで、「やれ畑に行け」「やれ、山に行ってまきを取って来い」とこき使います。

しかも、いつの間にか隣のオッサンと仲良くなって、福助さんを追い出そうとするのです。

そんなある日、やはりいつものように朝早くから仕事へと追い出され、畑に向かっていた福助さん・・・ふと、弁当を忘れた事に気づいて、慌てて家に戻ると、なんと、あの嫁が、早くも隣のオッサンとイチャイチャの真っ最中・・

二人で仲良く餅をついて、その出来上がった餅をほおばりながら・・・
「かはーっ、やっぱ、餅はつきたてをこっそり喰うに限るなぁ」
「ほんまや、こんなウマイもん、福助なんかに食べさせるの、もったいないわぁ」と・・・

それでも、やさしい福助さんは、二人の事を思い、わざと玄関で咳ばらいをしてから、
「お~い、弁当忘れてしもいたんで取りに戻って来たんや~」
と声をかけました。

隣のオッサンは、慌てて裏口から逃げ、嫁はササ~ッと、餅を押入れに隠して、何食わぬ顔で・・・
「何を、働きもせんと戻って来て弁当みたいな贅沢な事言うとんねん!弁当にする米なんかあるかい!」

さすがの福助さんも、プッチ~ン\(*`∧´)/
「米がないんやったら、押入れの餅でもええわ」とチクリ・・・
「えぇ!!(゚ロ゚屮)屮なんで、それ知ってんの?」と嫁はギクリ・・・

とっさに、福助さんは、自分の足元に落ちていたへっついさん(かまど)火吹き竹を手に取って
「ジャジャ~ン!
フクスケのとぉめがね~((≡Θ♀Θ≡))
ほら、ワシは、この通り、今朝の畑で、なんでも見える遠めがねを拾うたんや、これで見ると、隠してるもんが丸見えやねんゾ

「こらアカン、あんな遠めがねで見られたら、隣のオッサンとの事もバレてまうがな」
と、嫁は、押入れの餅を放り出すなり、隣のオッサンとどこかへ逃げてしもたそうな。

それからしばらくしてからのでき事・・・

村の庄屋の娘さんが嫁入りする事になって、豪華な嫁入り仕度を整えていましたが、婚礼の寸前になって、その着物がすっかり盗まれてしまうという事件が発生します。

婚礼はまもなく・・・困った庄屋さんは、福助さんの遠めがねの噂を聞きつけて「なんとか見つけてくれ」と頼みにやって来ます。

さぁ、困った・・・いまさら、「ウソですねん」とは言い難い・・・

とりあえず「何とかします」と言ったものの・・・「はて?」と思案しながらその夜を過ごしていると、玄関の戸がトントンと・・・

そこには、庄屋さんの奥さんが立っていました。

実は、この奥さんは後妻で、今回嫁に行く娘さんとはなさぬ仲・・・義理の娘のあまりにもすばらしい着物仕度に、ちょっぴりヤキモチを焼いて、その着物を神社の床下に隠してしまったと言うのです。

「ちょっとだけイケズしたろと思うてやってしまいましたんや・・・けど、こんな事は2度としまへんさかいに、どうか穏便に・・・なんとかしておくれやす」
そうです。
福助さんの遠めがねで事が発覚しておおごとになったら、彼女もどうして良いかわからず、助けを求めに来たのです。

涙を流しながらあやまるその姿に、本気で反省している事を見とった福助さんは、「よっしゃ、まかしときなはれ」と、火吹き竹を持って庄屋さんのもとへ・・・

「庄屋はん、見つけましたで!ワテの持ってる遠めがねで見たら、着物は神社の床下にありました・・・泥棒が盗んで、そこに隠しよったに違いありません、はよ、行って取り返して来なはれ~」と・・・

早速、神社へ行って、無事に着物を見つけた庄屋さんは大喜び・・・もちろん、奥さんも大喜び・・・さらに、その二人から別々のお礼の品を貰って、福助さんも大喜び・・・

となると、当然の事ながら、福助さんの遠めがねの話は、村中・・・いや、国中の大きな話題となり、いつしか殿さまの耳にも・・・

実は、この和泉の殿さま、隣国の大きな国の殿さまから、言いがかりをつけられていたのです。

「おまはんとこのお城には、先祖代々受け継いだ立派な刀があるらしいけど、良かったらそれを見せてくれへんか?
アカンてな事言うねやったら、どうなるかわかれへんで~」
と・・・

そう、それを口実に攻め込もうとしていたのです。

もちろん、和泉の殿さまも、宝物を見せるくらいで戦争が回避されるなら、どんどん見せる気でいたのですが、肝心のその刀が、どこを探しても見当たらない・・・「このままだと、それを口実に大国から攻め込まれる~」と困り果てていたところへ、福助さんの遠めがねの話を聞きつけ、家来の一人がやって来ます。

さぁ、困りました・・・今度こそ、ウソだとばれたら命がありません。
かと言って、本物の遠めがねじゃない以上、その刀を見つける事も・・・

困った福助さんは、とにかく身を隠そうと家を出て、近くの洞穴で一晩過ごす事に・・・

夜もふけてうつらうつらとしていた福助さん・・・なにやら、洞穴の外で声がします。

「えらいこっちゃ!!福助の遠めがねで見られたら、俺らがあの刀を石垣の隙間に隠したんバレでしまうがな」
「わしら、絶対、切腹やがな」

目をこらして見てみると、その声の主は、和泉の国の家老と、その家来・・・実は、彼らは密かに隣の大国へと寝返っていて、隣国の殿さまから多額の報酬を受けとり、攻め込む口実となるように、かの刀をどこかに隠すよう命じられ、それを実行していたのです。

見ると、二人はすでに旅支度・・・そのまま隣国へと亡命する気満々でした。

慌てて城へと向かい、刀が石垣の隙間に隠してある事を殿さまに報告する福助さん・・・もちろん、家老たちの寝返りも殿さまにバレて、隣の大国の殿さまも、攻め込む大義名分をなくして、その話は無かった事に・・・

めでたしめでたし

すべてが丸く納まった殿さまは、福助さんに「お礼に、お前の望みを叶えてやろう、なんなりと申せ」と大喜びです。

Fukusukeningyou400 そこで福助さん・・・
「ワテ、一回、殿さまになってみたかったんです~」と・・・

それを聞いた殿さまは、家来に自分の着物を一式持って来させ、福助さんに着させて、殿さまが座る、一段高い場所に座らせました。

(かみしも)を着けた立派な姿の福助さん・・・この姿が、福を呼ぶ「福助人形」のモデルになったのだとか・・・・

おしまい

*注:ご存じのように「福助人形」のモデルとされる人の逸話は複数あります・・・これは、あくまで南河内郡に伝わる一つの説とお考えください。
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