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2011年4月13日 (水)

足軽戦法炸裂~大田道灌の江古田・沼袋の戦い

 

文明九年(1477年)4月13日、大田道灌が武蔵の名族・豊島兄弟を滅ぼした江古田・沼袋の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは関東に拠点を持っておきながら、南北朝の動乱のために、京都で幕府を開かざるを得なかった室町幕府・・・そのために、初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)の長男・義詮(よしあきら)の家系が都にて将軍職を継いでいき、三男・基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方を継いで関東の支配に当たるという構図となりました。

しかし案の定・・・遠く離れた関東では、徐々に中央の支配がおよばなくなっていき、鎌倉公方は独立国家の長の様相を呈してきます。

そんな時代、鎌倉公方の補佐役=関東管領(かんれい)を代々引き継いでいたのが上杉家・・・

永享十一年(1439年)2月には、第4代・鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の独立志向ぶりを脅威に感じた上杉憲実(のりざね)らが、第6代将軍・足利義教(よしのり)と組んで持氏を自刃に追い込む永享の乱がありました(2月10日参照>>)

その後、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)古河(こが)公方を名乗って関東で大暴れ・・・迎え撃つ関東管領=上杉家との戦乱が絶えない状況となって来ていたのです。

Ootadoukan600 大田道灌(どうかん・資長)は、そんな上杉家の中の2大勢力の一つ=扇谷(おうぎがやつ)上杉家執事で、彼が江戸城を建てたのも、この成氏から関東を守るための物でした(4月8日参照>>)

そして、もう一方の上杉家内の勢力が山内(やまのうち)上杉家・・・「両上杉」と並び称されてはいるものの、実はこっちが宗家で、その勢力もやや勝っていました。

そんな山内上杉家の執事だったのが長尾家・・・

しかし、武蔵(むさし・埼玉県)上野(こうずけ・群馬県)の守護代も務めていた長尾景信(かげのぶ)が亡くなった事を受けて、山内上杉家の顕定(あきさだ)が、景信の長男=景春(かげはる)ではなく、その叔父の忠景(ただかげ)次の執事に指名しちゃった事で、当然の事ながら、後を継ぐ気満々だった景春は怒り心頭・・・(`Д´)

かの古河公方=成氏と結んで、武蔵鉢形城(はちがた・埼玉県)にて挙兵します。

始め、道灌は、この景春に同情的だったと言います。

なんせ、後継者争いに口を挟むのは、今で言えば内政干渉・・・たとえ主君筋に当たる山内上杉と言えど、本来は、その決定は長尾家内に任せるべきです。

なので、道灌が顕定に、「後継者を景春にすべき」という助言を何度もし、その事に気づいていた景春も、「ともに戦おう!」道灌を誘う場面もあったとか・・・

しかし、道灌は、主君=上杉家への忠義を尽くす道を選び、結果的に景春と敵対する事になります。

この時から数年間に渡って展開されるこの叛乱を、まんま「長尾景春の乱」と呼びますが、ここに、両上杉家に不満を抱いていた関東各地の武士が、次々と景春方に加担していくという一大争乱となっていきます。

そんな中、いち早く景春方としての姿勢を示したのが、武蔵の名族で、石神井(しゃくじい)練馬城(ともに東京都練馬区)などの城主を務めていた豊島泰経(としまやすつね)泰明(やすあき)兄弟でした。
:正式には兄弟の名前は伝わっていませんが、無いとややこしいので、通説の名前で呼ばせていただきます)

彼らは、まず、江戸城や河越城(埼玉県川越市)などの道灌の城と、相模(さがみ・神奈川県)の諸将との連絡を断つべく、堅城として名高い自らの石神井・練馬の両城にての籠城作戦を展開します。

さらに、道灌の背後を突くべく、相模の金子氏越智(おち)溝呂木(みぞろぎ)などの面々を仲間に引き込みました。

しかし、さすがは和製・諸葛孔明(しょかつこうめい)とうたわれた道灌・・・籠城に徹する彼らに対する作戦は準備万端・・・

文明九年(1477年)4月13日、まずは、弟・泰明の守る平塚城(東京都北区)攻撃・・・敵の来襲を知った泰明はすかさず兄・泰経に連絡・・・

連絡を受けた泰経は、江戸城が空っぽになってる今が攻め時と判断して石神井城を出撃します。

堅固な平塚城を攻めあぐねた道灌は、一旦兵を退きますが、これを好機と見た泰明が出撃を開始・・

しかし、実は、これが道灌の作戦・・・

以前、応仁の乱の稲荷山の攻防戦のページ(3月21日参照>>)で書かせていただいたように、その頃から登場するようになった「足軽(あしがる)と呼ばれる戦闘員たち・・・

喰い潰れた農民の子や社会にあぶれた者たちが、その食いぶちを求めてたどりついた足軽という職業?・・・もとは、バラバラのならず者たちにいち早く着目して雇い入れたのは、あの東軍の将=細川勝元・・・

しかし、応仁の乱当時は、そんなならず者の集まりだった彼らを、組織化して、合戦の最前線に送り込める主要戦闘員組織に育て上げ、今後の合戦に必要不可欠な存在にしたのは、この道灌だと言われています(諸説ありますが…(^-^;)

つまり、自らが育て上げた戦闘集団が、最も活躍できる場所へと豊島兄弟をおびき出す事が道灌の作戦だったのです。

逆に言えば、なかなかの堅城とうたわれた自らの城を出て、防御が困難な場所へと来てしまった事が豊島兄弟のミスとも言えます。

かくして、一旦、退く様子を見せていた道灌の軍が、素早く反転して、両者とぶつかります。

その場所が江古田(えこだ)沼袋(ぬまぶくろ)(ともに東京都中野区)・・・なので、本日の合戦は江古田・沼袋の戦いと呼ばれます。

記録によれば、豊島勢は200騎、一方の道灌は、わずか50騎だったと言われていますが、上記の通りに道灌が、本当に足軽を駆使していたのだとしたら、騎馬武者の数を、そのままの兵力とみなす事はできないわけですし、一説には、一騎撃ちを望む騎馬武者に、足軽が集団で襲いかかるルール無用を展開したとも言われ、豊島・弟=泰明は、この戦場で討ち取られます。

さらに敵兵数百人を討ち取り、意気上がる道灌の軍に対して、石神井城へと逃げ込んだ泰経・・・そこをすかさず力攻めで追い込む道灌に、たまらず泰経は降伏を宣言し、その後、夜陰にまぎれて逃亡しました(4月28日参照>>)

こうして、事実上、豊島家を滅亡させた道灌と、お互いにその胸の内を理解しながらも、立場上敵と味方に分かれたライバル=景春・・・

ふたりの直接対決がやって来るのは、そう遠くない5月13日なのですが・・・そのお話は【用土原の戦い】のページでどうぞ>>
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コメント

なんだか、東京も「江戸」や、明治の文明開化的な「東京」は注目するのですが、太田道灌に代表されるような「江戸」以前の関東はあまり着目されませんね。

福島原発事故や関東近郊の農産物・漁業への打撃に、もうちょっと「同じ日本人」だけではなく同じ関東人とか東国人としてっていう、下位レベルでの同情もあっていいように思えるのですけど、それは希薄かもなぁと思ってしまいます。

投稿: 黒駒 | 2011年4月14日 (木) 14時41分

黒駒さん、こんにちは~

大田道灌の活躍を見ていると、東京の地名から受ける雰囲気と、広大な場所での合戦が交互に登場し、ついつい徳川家康が幕府を開く前の東京を想像してしまいます。

東京の現在の雰囲気はわかりませんが、大阪は、とにかく元気に応援する事しかできないので…

投稿: 茶々 | 2011年4月14日 (木) 17時11分

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