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2011年4月19日 (火)

この生涯、主君に捧ぐ…田宮如雲の忠誠心

 

明治四年(1871年)4月19日、幕末の尾張藩側用人・家老を務めた田宮如雲が64歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

田宮如雲(たみやじょうん)・・・文化五年(1808年)に、尾張(愛知県)藩士で町奉行を務めていた大塚三右衛門の息子・篤輝としてこの世に生をうけますが、後に、同じく尾張藩士の田宮半兵衛の養子となり、晩年には如雲と名乗り、この最後の名前が一番有名なので、本日は、田宮如雲さんというお名前でお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

文政十一年(1828年)、21歳になった如雲は、時の尾張藩主・第11代徳川斉温(なりはる)小姓に取り立てられた後、天保三年(1832年)には目付となり、その翌年には養父・半兵衛の死を受けて田宮の家督を継ぎました。

やがて天保十年(1839年)・・・藩主・斉温が後継ぎのないまま亡くなった後に、藩に何の相談もなく、幕府の勝手な意向で、第11代徳川家斉(いえなり)の12男で田安家に養子に行っていた徳川斉荘(なりたか)第12代尾張藩主となった事で、彼の闘志がムラムラと・・・

そうです。
これまで、あのにっくき(尾張にとって(゚ー゚;)8代将軍・徳川吉宗とのゴタゴタ(10月8日参照>>)以来、何かと負けた感の尾張藩は、御三家でありながら、一度も将軍を輩出する事もありませんでした。

そこで、如雲が目をつけたのが、支藩・高須松平家から徳川慶勝(よしかつ・当時は秀之助)迎えて、尾張の藩主につける事・・・

そのために『金鉄組(党)という同志集団を作って運動を起こしますが、あえなく失敗・・・結局、やはり田安家で、わずか10歳の徳川 慶臧(よしつぐ)第13代藩主となります。

しかも、この時、幕府寄りの家老や重臣の反感を買った如雲は、再び小姓へと左遷されてしまいます。

実は、この如雲さん・・・その生涯で、上記のような移動が21回、解職が6回、幽閉3回というバリバリのアウトサイダー=はみ出し者です。

しかし、そんな波乱万丈の浮き沈みも、常に、自らが応援した14代尾張藩主・徳川慶勝・・・そう、実は、かの13代=慶臧さんが、わずか4年で病死してしまい、その後に如雲が推していた慶勝が藩主になった事で、彼は、再び表舞台に登場するのです。

もちろん、この時も、もう一度田安家から養子を・・・という話が幕府側から出ていましたが、すでに2度も強引に、しかも、先の慶臧の時には、如雲らの金鉄組の暴れっぷりもあり、さすがに、「またまた将軍家と紀州の息のかかった田安家を入れて、これ以上、藩内が乱れてはマズイ」という事で、かねてから、声の上がっていた慶勝さんに決まったのでした。

しかし、これも・・・

安政五年(1858年)、慶勝が、あの水戸徳川斉昭(なりあき)らとともに、井伊直弼(なおすけ)アメリカとの日米修好通商条約に調印した(10月7日参照>>)事に抗議した事で、その直弼との関係が悪化・・・ほどなく慶勝は隠居させられ、14代藩主の座は、弟の茂徳(もちなが)に・・・

もちろん、如雲も、ともに隠居します。

しかし、ご存じの通り、わずか2年後に、その直弼は桜田門外で暗殺され(3月3日参照>>)、そうなると、当然の事ながら、如雲も慶勝とともに政界にカムバック・・・

とは言え、このあたりからは、尾張藩だけでなく、日本という国自体の大変な危機に直面するのは衆知の通り・・・

しかも、(言い忘れてましたが…)この慶勝さん・・・この頃の佐幕派(幕府側)のリーダー的存在である京都守護職会津藩主松平容保(かたもり)と、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)実のお兄さんです。

先の井伊直弼との一件でもわかる通り、慶勝自身には尊王の思いが少なからずあったとしても、立場は完全に幕府・・・流動する政情で徳川方の有力者と見られる事は、致し方ないところであります。

そんな中に起こったのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)から池田屋事件(6月5日参照>>)、そして禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)へという一連の流れです。

最後の禁門の変の時に放った鉄砲が御所に命中した事で、尊王攘夷を掲げておきながら朝敵(ちょうてき・天皇の敵)となってしまった長州藩(山口県)・・・この処分として行われた第1次長州征伐で、慶勝は、なんと、長州征討軍の総督に任じられてしまいます。

ただ・・・この時は、長州側が重臣たちの首と引き換えに恭順姿勢に入ったため(11月12日参照>>)、実際に大きな戦闘となる事はありませんでした。

続く、第2次長州征伐(5月22日参照>>)での慶勝は、完全に出兵反対の姿勢をとり、弟の茂徳が任じられた正統総督を拒否させ、京都の御所警固につきました。

と、何やら慶勝さんの動向ばかりになりましたが、この影には、いつも如雲が、つかず離れずいた事は言うまでもありません。

やがて、時の将軍・15代徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還(10月14日参照>>)を行い、続く王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・さらに、世は、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入します。

ここに来ても、まだ、微妙な立場の尾張藩・・・しかし、鳥羽伏見に勝利して(1月9日参照>>)東海道を東下して行く倒幕軍に、中立の立場を貫いて素通りしてもらう事なんて、ほぼ不可能です。

しかも、藩内には、如雲が立ちあげた金鉄組に対抗して、『鞴(ふいご・空気を送り込んで鉄を加工する道具)党』なる、明らかに金鉄組をぶっ潰す気満々の命名をした団体も存在し、未だ、藩の中でも、尊王か佐幕かがまとまっていなかったのです。

そこで如雲・・・主君・慶勝に、何が何でも藩内を尊王に統一する事を進言します。

その大義名分として持ちだしたのが、藩祖・徳川義直(よしなお・家康の九男)の記した『軍書合観』でした。

ここに、
「戦乱が起きれば官軍に属せよ!決して徳川一門のよしみで、朝廷に弓を引いてはならない」
と書かれていた事を上げたのです。

この時、鳥羽伏見の戦いの後の大坂城に入っていた慶勝は、早速、尾張へと発ち帰り、1月20日、藩内の佐幕派の中心だった重臣・3名を含む計14名を斬首したほか、20名に処分を言い渡したのです。

確かに、強引な粛清ではありましたが、この青松葉事件によって、尾張藩は尊王で統一され、維新という荒波を越える事ができたのです。

ただ・・・慶勝も、そして、その他の尾張藩の重鎮も、その後、明治新政府で要職につく事はありませんでした。

生き残ったとは言え、結局は、新政府も尾張藩を認めてはいなかったのでしょう。

一方では、岩倉具視(いわくらともみ)西郷隆盛らも、一目を置いていたという如雲の実力・・・しかし、如雲は、その後も、慶勝と運命をともにし、つかず離れず、主君を守り抜いたと言います。

なんせ、慶勝は、あの第1次長州征伐での征討軍総督・・・いつ何どき、昔の恨みで元長州藩士に襲われないとも限りません。

明治四年(1871年)4月19日如雲は、主君・慶勝より先に逝く事になりましたが、その生涯をかけて、自分が推しあげた主君を守った誇りは、最期まで失わなかった事でしょう。

首相に推し上げておきながら、何かあれば足を引っ張る・・・
大臣に引き揚げておきながら、すぐまた更迭する・・・

確かに、あらぬ方向に向かおうとしている仲間を諫める事は大事ですが、自らが信じた主従の関係を、命をかけて守り抜く事も、大切な事だと感じます。
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コメント

尾公の件につき師質永井玄蕃頭に使す
一、四月十七日今夕師質御使として永鴻臚の許に到り昨日伊賀殿の申されし趣にては尾張この上にも御改心なくば不測の義も到来すべければ是は竹腰兵部が死地に入つて尾張殿を諌止して平穏に事済までは御付家老の職分も立がたければその筋もて鴻臚より兵部を教誠せられたしとの思し召を申し述べたりしに鴻臚も兵部は懇意の事に候へば申談すべしと御同意は申しあげられ候へども田宮といへる曲せ者の付添居れば兵部の手にても難かるべきやと傾き申さる故弥太郎はこの節妻の事故を以て国許へまかりこし居り随分好機に候へばその科を付て罷免の手段等も兵部の手にては行はれ申すべきかと申したりしかばそれは耳よりなる事をとて弥太郎が事を尋問はるる故その始末知りたる限りを告げたればさらば策あるべしと悦ばれたり鴻臚申さるるは西城の御事もこの頃となりてはいよいよ太守公の御素願も達し申すべきさまにて同志の者共も涸魚の水を得たる心地に歓び居れりそれについても水老公の御事はいよいよ心に懸れるなり去暮参りたる時など余は始めての事なりしが実に恐るべきの御暴論にて殆んど避易いたせしなり今後も形の如き御持論にては大事の妨げともなるべき筋なれば是もひとえに太守公の御尽力を願ひ奉る外なく又この度勅答布告にて諸侯赤心御尋ねについても大諸侯の折合は至重の事にも候へば是を以て太守公の御周旋をもて幕議に牟盾なき様仰望し奉るなればその由くれくれも申しあげてくれよかしと申されたり
昨夢紀事十一


当時の識者で田宮を褒める者は居ない

投稿: たぬき | 2012年1月 6日 (金) 19時00分

たぬきさん、こんばんは~

たくさんの情報をありがとうございます。

歴史人物の評価は、時の流れやそれぞれの立場によって、人様々…まぁ、そこが歴史のおもしろいところでもあるんですが…

ただ、歴史上の人物はもちろん、名もなき庶民に至るすべての人のうち、誰一人欠けても、今の日本は無かったと思っています。

特に、幕末維新の頃は、何が正義で何が悪なのかも明確でなく、先の展望も見え難い時代で、そんな中、誰もが真剣に日本の未来を考え、誰もが真剣にその日を生きていた事は、それだけで評価すべき事と考えます。

田宮さんも、そのうちの一人だと思います。

投稿: 茶々 | 2012年1月 7日 (土) 02時55分

維新の際に當り尾張勤王の士は、如雲を以て称首とす 
 (済美帖 名古屋市教育会編 大正4)

名古屋藩勤王家の、第一ともいうべき人にこそ
 (名古屋史談 明26.1)

 如雲、天性忠直識力遠大、文武両道に通じ、勤王愛国の心篤く、王政一新の大業を助成せる
 其の功実に大なりというべし
 (愛知県史談 明26.1)

 尾張に於ける幕府の勝伯に於けると一般特筆すべき功労浅少に非ず名古屋二十万の人口は、
 全く田宮の庇護なくば兵磔を蒙り藩主は宗家に類するの末路を踏みしも亦知るべからず
 (尾参精華 明32.3)

歴史の解釈と評価は様々あるようです


投稿: だんしゃく | 2015年5月29日 (金) 16時45分

だんしゃくさん、こんばんは~

おっしゃる通り、
歴史の解釈と評価は様々です。
この田宮さんに限らず、様々な考えがあるからオモシロイと思います。

投稿: 茶々 | 2015年5月30日 (土) 03時15分

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