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2011年4月23日 (土)

寺田屋事件に散った有馬新七と薩摩九烈士

 

文久二年(1862年)4月23日、薩摩藩士同士による抗争事件と言われる『寺田屋事件』がありました。

・・・と、寺田屋事件に関しては、2007年の4月23日に一度書かせていただいているのですが(2007年4月23日を見る>>)、4年も前のページという事もあり、本日は、薩摩九烈士の中心人物で、その日、壮絶な死を遂げる有馬新七を中心に書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

文政八年(1825年)、薩摩藩の郷士・坂木正直の息子として生まれた有馬新七(ありましんしち)は、3歳の時に、父が薩摩藩士の有馬家に養子に入って継いだのに伴って、鹿児島城下へ移住・・・彼も、そのまま城下士となりました。

天保十四年(1843年)、19歳の時に江戸に出て、山口菅山(かんざん・重昭)の門を叩き、儒学者で神道家の山崎闇斎(あんさい)の学問を学びました。

同時に直心影流(じきしんかげりゅう)の剣術にも秀でていたという新七は、まさに文武両道・・・安政四年(1857年)には、薩摩藩邸学問所の教授にも就任しました。

しかし、一方では、早くから、その思想は攘夷(じょうい=外国を排除する)へと傾き、京都では、尊王攘夷派の志士・梅田雲梅(うんびん)などとも交流・・・京都所司代酒井忠義(ただあき)暗殺計画なんぞ練ったりして、水戸長州にも、その名が知られる存在となっていきます。

安政六年(1859年)の安政の大獄(10月7日参照>>)の時には、それを決行した井伊直弼(いいなおすけ)に激怒し、孝明天皇から水戸藩へ下された『戌午の密勅(ぼごのみっちょく)の写しを土佐・福井・宇和島の3藩に伝達する役目をこなし、張本人=直弼の暗殺計画も企てます。

*戌午の密勅:攘夷を望む天皇が、攘夷に積極的でない幕府を飛び越して、直接、水戸藩に下した攘夷命令…(12月17日:天狗党のページ参照>>)

ただ、この直弼暗殺は、藩の同意が得られなかったために挫折・・・ご存じのように、当初からともに計画を練っていた水戸藩士が中心となって桜田門外の変が決行されました(3月3日参照>>)

しかし、この時は藩の手前、何とか、その行動を押さえたものの、攘夷に燃える心は、まだまだ揺るぐ事はありませんでした。

大久保利通(としみち)ら40人の同志とともに脱藩挙兵をしようとしたり、薩摩藩尊攘派の結社=忠組(精忠組・せいちゅうぐみ)に参加してみたり・・・と、とにかく過激な行動を取り続けています。

やがて文久二年(1862年)3月・・・薩摩藩国父(こくふ=現藩主・忠義の父)島津久光(ひさみつ)が、公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力して難局を乗り越えようという計画)を推進するために、兵を率いて上洛する事に・・・

本来なら、そのお伴として、新七も、久光と一緒に上洛するはずでしたが、直前に取りやめて、逆に、彼は一足早く、京都に向かったのです。

実は、久留米藩神官の真木和泉(まきいずみ)や長州藩士の久坂玄瑞(げんずい)らと図って、青蓮院宮朝彦親王(しょうれんいんのみやあさひこしんのう・後の中川宮)(8月18日参照>>)看板に掲げ、あの京都所司代の酒井を襲撃するつもりだったのです。

そう、久光が率いて京都にやってくる兵を自分たちが扇動して、そのまま挙兵してしまおうと考えたのです。

この時の新七・・・自らしたためた自叙伝を息子・幹太郎に渡し、妻・ていとも離縁しての覚悟の上洛でした。

しかし、久光は、この不穏な空気を敏感に察知・・・奈良原繁(ならはらしげる)ら9人の藩士を鎮撫使(ちんぶし)として、新七のもとに派遣して、その説得に当たらせたのです。

かくして文久二年(1862年)4月23日、場所は、新七らが滞在していた伏見・寺田屋・・

ここまでの過激な攘夷運動や、その壮絶な死から受けるイメージで、これまでの時代劇では、なにかと血気盛んな雰囲気の俳優さんが演じられる事の多いこの新七さんの役ですが(篤姫の時は的場浩司さんでした)、実際には、その聡明さもあって、意外に冷静沈着な人だったようで、最初に奈良原らの訪問を受けた時は、一触即発というムードではなく、静かな話し合いの雰囲気だったと言います。

まずは、奈良原が
「今、現在、大殿様(久光)のお考えが、徐々に京都に受け入れられつつあるのだから、ここは、一つ、同志を引っ張って、藩に戻ってくれないか?」
説得します。

しかし、新七は
「青蓮院宮様のお召しを受けているので、それが終わってから・・・」
と・・・、もうすでに、計画が後戻りできないところまで来ている事をうち明けます。

しかし、奈良原も主君の命令を帯びて来ているわけで・・・

「主君の命令を聞けぬのなら、腹を切ってもらわんと・・・」
「主君の命令より宮様の御用の方が先である」

言わば、主君の代理として、この場へ来ている奈良原は
「それならば、この場で上意討ちするしかないが…良いのか?」
「仕方なかろう」
と、問答は続きますが、それでも、当の二人は冷静でした。

しかし、側にいた彼らの同志たちが、
「どうしても聴かんのか!」
「聴くか、ワレ~」
と、それぞれに徐々に声を荒げていったのです。

やがて、奈良原の横にいた道島五郎兵衛が、「上意!」と叫んで、新七の脇にいた田中謙助に斬りつけました。

そこへ、遅れて到着した鎮撫使の一人・山口金之進が、前後の流れもわからぬまま、そこに座っていただけの新七の同志・柴山愛次郎背後から斬殺!

これに新七がブチ切れて、刀を抜きます。

しかし、道島を相手に、数回刀を合わせたところで、無残にも新七の刀は折れてしまいます。

やむなく、素手で道島を抱え込んだ新七は、そのまま、自らの体全体を使って道島を壁へと押し付け、自分の体を、その上に密着させながら
「オイ(俺)ごと刺せ!オイごと刺せ!」
と叫んだと言います。

そばにいた無我夢中の若い同志は、気が動転し、言われるがままに二人を串刺しに・・・新七は、うめき声一つあげない即死状態だったとか・・・

結局、鎮撫使の道島と、新七を含む攘夷派の志士6名がその場で死亡し、2名が重傷・・・その時2階にいて、下階の惨劇を知らなかった22名は、説得に応じて投降したという事です。

投降に応じた中には、後に大活躍する大山巌(いわお)西郷従道(つぐみち)もいたというのですから、新七をはじめ、亡くなった面々の未来が惜しまれるというものです。

しかも、重傷を負った二人は、翌日、切腹に処せられますが、そのうちの一人(当日その場で死亡した説もあり)橋口壮介(そうすけ)は、その死の間際に、奈良原に向かい
「俺らが死んでも、君らがおる・・・この先の事は、君らに頼む」
と言い残したのだとか・・・

攘夷派、佐幕派、公武合体派・・・

同じ藩に生まれながらも、敵・味方に分かれてしまった両者・・・
しかし、どちらも目指すのは、日本の明るい未来・・・

立場は違えど、お互いが命をかけて明日への扉を開こうとしている事は、両者ともに理解していたのでしょう。

彼らは、皆、国の大事に向き合っていた政治家たち・・・

それから、わずか百数十年・・・この国の明日のために、命をかけてくれる政治家は、いったい何人いるのでしょうか?

Dscn3594ac900 薩摩九烈士の墓(伏見・大黒寺)
大黒寺への行き方は、
「本家HP=京都歴史散歩:伏見」>>で紹介しています。

事件直後は、汚名を受けた彼らでしが、後に、薩摩藩が方針転換した事により、維新の魁=薩摩九烈士として供養されました。

また、事件の現場となった寺田屋には、現在の寺田屋が建っている場所の隣にある京都市所有の幕末の寺田屋が建っていた跡地に、維新となった後に建立された九烈士の碑があります。
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コメント

はじめまして。
薩摩九烈士を検索してたどり着きました。

息子の名前は烈士といいます。

そういう言葉があるとは全く知らずに名付けました。
子供が小さい頃烈士の意味を知り驚いたのですが今回こちらのブログを読んでびっくり。
寺田屋事件のあった日は息子の誕生日です。
偶然とは思えずびっくりしています。

薩摩九烈士の生まれ変わりなのかと考えてしまうくらい驚いてます

投稿: rireyu | 2012年5月 7日 (月) 23時20分

rireyuさん、こんばんは~

名前だけならありそうですが、お誕生日まで!!
それは運命を感じますね~

機会がありましたら、ぜひとも親子へ伏見の方へ…
何か、良い事があるかも知れません。

投稿: 茶々 | 2012年5月 8日 (火) 04時06分

有馬新七さんを尊敬しております。
気持ちが駆り立てられ、昨年に大黒寺にお墓参りに行って来ました。
一緒に行ってくれた主人は、何か言いようのない存在を感じたそうです。
有馬新七さんのような、聡明で強く優しい方をいつまでも尊敬しています。

投稿: ゆり | 2013年5月21日 (火) 20時46分

ゆりさん、こんばんは~

大黒寺に行かれたのですか?
近くの寺田屋跡地には、彼らの死を惜しむ石碑もあります。
維新の魁ですね。

投稿: 茶々 | 2013年5月22日 (水) 02時02分

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