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2011年4月26日 (火)

外様から異例の老中抜擢…松前崇広の無念

 

慶応二年(1866年)4月26日、外様大名でありながら老中まで昇りつめた幕末の松前藩主・松前崇広が38歳で病死しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じのように、江戸幕府をひらいた徳川家康は、自らの徳川一門と古参の譜代の家臣たちに対して、それ以外の豊臣恩顧に代表される大名たちを「外様」として、しっかりと区別しました。

よって、江戸時代を通じて、寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代といったキャリアを経て、最終的に老中へと至る、いわゆる官僚出世コースに、外様大名が乗る事はありませんでした。

もちろん、本人がいくら優秀でも・・・です。

以前、あの5代将軍・徳川綱吉が、「大変気に入った」として、土佐中村藩の山内豊明(とよあきら)若年寄に任命した事がありますが、その時は、わずか1週間で、彼は辞任しています。

表向きは自己申告による病気が理由で、そこには、「わずか3万石の土佐中村藩では、就任による出費がまかなえなかった」という背景があったと言われていますが、一方では、新参者の大抜擢に、「周囲の目、無言のイジメなどに耐えられなかったのでは?」との話もあります。

なんとなく、わかる気がしますね~。

そんな中、時期は幕末とは言え、老中就任は、大したもの・・・

Matumaetakahiro600 ・・・で、本日の主役・松前崇広(まつまえたかひろ)は、文政十二年(1829年)、第9代蝦夷(えぞ・北海道)松前藩主松前章広(あきひろ)六男として生まれます。

六男という事で、初めは、藩主になるはずのない立場であったわけですが、第11代藩主を継いでいた兄の子供(つまり甥っ子)昌広(まさひろ)が病気になって隠居・・・その嫡男の徳広(のりひろ)がまだ幼かった事で、昌広の養子となって、第12代・松前藩主となったのでした。

それまで、藩主になるべき立場ではなかったという事もあって、崇広は、自らがキッチンに立って料理を作るほどの庶民的なお方・・・それでいて、幼少期からつちかった武術馬術にも優れ、蘭学兵学にもくわしく、はたまた英語も話せたと言います。

そんな好奇心旺盛な彼は、西洋の最新科学に興味津々で、電気機器や写真などを実際に使用するほどの西洋通だったそうです。

藩主に就任したての嘉永六年(1853年)には、北方の要とされたその地に、天守閣を持つ立派な松前城を構築したりもしましたが、安政二年(1855年)には、幕府が、松前藩の領地を直轄地としてしまいました。

まぁ、その代わりの領地として陸奥梁川(やながわ)3万石を与えられてはいるんですが、この松前藩の初代藩主である蠣崎(かきざき・松前)慶広(よしひろ)さん(1月5日参照>>)のところでも書かせていただいたように、ここ松前では、領地の広さうんぬんより、その交易の窓口という立場のほうが重要・・・

この交易権を失ってしまった事で、藩の財政は困窮を極めていく事になります。

一方、そんな藩の事情とはうらはらに、時代は、この西洋に通じた青年をほってはおかなかったのです。

文久三年(1863年)、崇広は寺社奉行に大抜擢されました。

そう、あの出世コースの第1段です。

先に書いた通り、外様大名からの、この出世コースは異例中の異例・・・昼夜を問わず、身を粉にして公用をこなす崇広でした。

とは言え、やはり、藩の財政がひっ迫している事には変わりなく、また、「これまで散々のけ者扱いされていながら、なぜ?この開国か攘夷かの異常事態の時に、松前という小藩が骨を折らなくてはならないのか?」などという家臣たちの意見もあり、結局、わずか3カ月で、崇広は、寺社奉行を辞任する事になりました。

そんなこんなの11月・・・崇広は、領内で座礁したイギリス商船エゲリア号の乗組員・19名を全員救助し、ビクトリア女王から、感謝の意を込めた松前家の家紋入りの懐中時計をプレゼントされるという出来事がありました(お礼のプレゼント自体が届くのは翌年です)

文久三年と言えば、3月には、あの第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が上洛して孝明天皇との謁見で「攘夷(じょうい=外国を排除)決行の約束」をしちゃって、5月には、長州が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃(5月10日参照>>)・・・7月には、あの薩英戦争が勃発(7月2日参照>>)する年ですよ!

モロ、攘夷の嵐・真っただ中・・・そんな時に、人道的立場を重視したこの行為は、外国人領事・オールコックから絶賛されたそうですが、外国人ならずとも、この先の歴史を知っている後世の人間からすれば、まさに、崇広さんのような人にこそ、その手腕を奮っていただきたいと思うばかりですが・・・

まさに、そんなタイミングの翌・元治元年(1864年)・・・やはり、その西洋との良好な関係が功を奏したのか、将軍・家茂による再びの大抜擢により、いよいよ老中にまで昇りつめた崇広さんではありましたが、事は、そううまくはいきませんでした。

翌・慶応元年(1865年)、家茂のお伴をして大坂に下って来た彼を待っていたのは、京都守護職会津藩主松平容保(かたもり)と、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)と、将軍後見職徳川慶喜(よしのぶ)・・・まさに徳川一門勢ぞろいといった面々・・・

もちろん、彼らが悪人というわけではありませんが、やはり、これまでの外様との確執もあり、何より、容保などは、攘夷派のリーダー的存在ですから、新参者の崇広と、ことごとく意見が対立するのは致し方ないところ・・・

さらに、その年の9月には、陸海軍総裁となって長州征伐の責任者となった崇広でしたが、そこに起こったのが、アメリカイギリスフランスオランダの4ヶ国による兵庫開港要求です。

兵庫港の開港の話自体は、あの安政五年(1858年)に締結された日米修好通商条約の時からあって、本来は、文久三年(1863年)に開港されるはずでしたが、外国ギライの孝明天皇の意向により、ヨーロッパに使節を派遣したりなんぞして、のばしのばしにしていたのです。

しかし、先の、長州が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃しちゃった事件から発生した下関戦争(8月8日参照>>)で、長州をコテンパンに叩きのめした4ヶ国が、その勢いに乗って艦隊を率いて兵庫港にやって来たのです。

「兵庫開港に速やかに答えてくれへんのやったら、幕府には、交渉する意思がないと判断して、直接、京都御所に行って天皇と交渉するからな!」

あきませんがな!
外国が、幕府を飛び越えて、天皇と直接交渉するなんて事になったら・・・

崇広は、もう一人の老中=阿部正外(まさと・まさとう)と相談のうえ、開港要求から2日後の9月15日・・・朝廷に無許可のまま開港を決定しました。

崇広ら両老中の意見は、
「この問題は幕府の行政権内にある物で、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)の必要はないし、万が一、幕府が拒否をして、諸外国が直接、朝廷と交渉するような事になれば、幕府は必ず崩壊する」
というもので、もちろん、将軍・家茂の許可は得ていました。

しかし、慶喜が、この条約の不可を主張・・・朝廷も、彼ら二人の老中の冠位をはく奪し、9月29日付けで、老中解任&謹慎処分となってしまいました。

翌・慶応二年(1866年)正月・・・失意のまま松前に帰還した崇広は、そのわずか3カ月後の慶応二年(1866年)4月26日急性の熱病におかされ、38歳という若さでこの世を去ります。

あまりの急逝に毒殺説も飛び交う疑惑の死ですが、西洋事情に精通した彼ならば、おそらく、この先の事が見えていたはず・・・

時代が要求したにも関わらず、思う存分に手腕を発揮できなかった無念の解任・・・しかも、維新を見る事なくこの世を去ってしまった崇広さんが、もしも無事に明治を迎えていたら、どれほどの偉業を残された事でしょうか。

残念でなりませんね。
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コメント

この時代には随分多くの優秀な人材が志半ばに亡くなったり、政界から追われたりしてるんですね。生まれ変わって今の次代にぜひ活躍していただきたい!こういう優秀な方が今、この敗戦以来の国難の時にいてくれたらなぁ・・・

投稿: Hiromin | 2011年4月26日 (火) 20時52分

Hirominさん、こんばんは~

ホントですね~

評論家の宮崎氏が、某番組で、
「日本では、国家の危機には必ず偉人が生まれる…でも、今回はまだ…」
と、おっしゃってましたね~

投稿: 茶々 | 2011年4月27日 (水) 01時10分

 松前崇広は立派な藩主だったと思います。惜しくも若くして亡くなりましたが、彼の子孫は、明治維新を経てどのようになったのでしょうか。
 ぜひ知りたいです。何を読めばわかるのか、どなたか教えてください。お願いいたします。

投稿: 松前 のり子 | 2017年3月28日 (火) 19時56分

松前 のり子さん、こんにちは~

維新後の松前家は子爵になられたようですね。
普通に「松前崇広」さんのお名前で検索すると、色々と情報が出てくると思いますよ。

ただ、ご子孫は公人では無いと思いますので、プライバシー保護の観点からも、個人的な事は出ては来ないと思いますが…

投稿: 茶々 | 2017年3月29日 (水) 10時28分

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