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2011年5月31日 (火)

タイタニック号にまつわる不思議な話

 

1911年(明治四十四年)5月31日、イギリスの豪華客船・タイタニック号の進水式が行われました。

・・・・・・・・・・

イギリスのサウサンプトン港を出港し、ニューヨークへと向けて6日間の処女航海を行っていた途中、北大西洋上にて氷山に接触して沈没・・・乗員乗客合わせて2200人いたと言われる中、1513人(諸説あり)もの犠牲者を出す、当時、世界最悪の海難事故となった、あのタイタニック号です。

1997年に、ジェームズ・キャメロン監督・脚本、レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットの主演で制作された映画:タイタニックが大ヒットした事で、もはや、その説明も不要かと思いますが・・・

本日は、歴女というよりは、不思議大好き少女(だった=過去形)として、そのタイタニックにまつわる不思議なお話を、二つ、ご紹介したいと思います。

Taitanic800a

まずは、このタイタニック号の悲劇を予言するかのような小説が、事故の14年前に発表されていた・・・というお話・・・

それは、1898年にモーガン・ロバートソンというアメリカの作家が書いた『タイタン号の遭難』という海洋冒険小説です。

もちろん、それは、タイタニックタイタンという主役となる船の名前が似ているだけではありません。

どちらも、その時が処女航海の豪華客船で、上流階級の紳士&淑女を多数乗せていた事も同じなら、イギリスのサウサンプトン港を出港してアメリカに向かうというところも同じ・・・

タイタニック号が全長=882.5フィートで排水トン数=7万5000トンなのに対し、タイタン号は全長が800フィートで6万6000トン・・・どちらも3つのスクリューを持つ、良く似た大きさの設定となっています。

さらに、この小説の中のタイタン号は、タイタニックと同じ北方航路をたどり、北大西洋上のほぼ同じ地点で、同じような速度で氷山にぶつかり、船体に大きな穴が開いて沈没する・・・

しかも、絶対に沈まない船というフレコミだったため、乗客の数に対して救命ボートの数がはるかに少なく、被害を大きくしたという点まで同じだったのです。

もちろん、すべては単なる偶然なわけですが、偶然ではかたずけられないほどの一致に驚くばかりです。

・‥…━━━☆

さらに、もう一つ・・・

今度は、タイタニック号のあとに起こったお話・・・

あの悲劇から23年後の1935年4月14日・・・(タイタニック号が沈んだのは1912年の4月14日)

これまたよく似た名前のタイタニアン号という船が、イギリスを出港してカナダに向かっての航海中・・・あの23年前に事故の起こった地点にさしかかろうとしていました。

その日、夜の見張りに立っていたのは、ウィリアム・リーブスという若い船員・・・実は、彼の誕生日が4月14日だった事で、自分の誕生日と同じ日づけに海難事故に遭ったタイタニック号の事が、幼い頃から頭にありました。

しかも、実は、夜の見張りに立っている、その日の日づけも4月14日・・・

同じ日に、同じ地点を、名前のよく似た船が航行するという奇妙な偶然の一致に、何とも言えない気持ち悪さを感じながらも、そこはプロとして、しっかりと業務をこなしておりました。

その日の波はおだやかで、氷山らしき物も見当たらず、いたって順調・・・

ところが、そのうち、なんだか急に不安でたまらなくなってきます。

理由はわからないけど、とにかく不安・・・どうしようもなくなったリーブスは、何事も無いにも関わらず、無意識のうちに危険信号を鳴らしてしまったのです。

それを受けた航海士は、当然、緊急停止!

ところが、止まってからゆっくりと調べてみると、なんと船の前方に、巨大な氷山待ち構えていた事が判明・・・リーブスが危険信号を送らなかったら、再び、23年前の悲劇が起きるところでした。

小説&リーブスの不安・・・
どちらも、タイタニックにまつわる不思議な出来事として、今に語り継がれています。
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2011年5月30日 (月)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第20回・茶々の恋でひと言

 

昨日放送の大河ドラマ「江~姫たちの戦国第20回茶々の恋 ですが・・・

いやはや、とうとう、丸々一話ぶん、秀吉と茶々の「くっつくの、くっつかないの」で終わってしまいました。

果たして、これが、大河ドラマor歴史ドラマor戦国ドラマなんでしょうか?
このストーリーを、戦国を舞台にしてやる意味は何なんだろう?

この脚本家の方は、大変人気のある方だと聞きました。
才能もおありになり、それに伴う実力をお持ちの方であろうと思いますが、少なくとも歴史好きではないようにお見受けします。

確かにドラマは、小説と同様の創作物ですから、史実に忠実である必要はないと思いますが、私が歴史好きの一人として思うのは、歴史好きなら歴史好きなりに、変えてはいけない暗黙の了解の部分があり、逆に、作家独自の視点からの新説や異説でうまくまとめて欲しい部分とがあるように思うのですが、この脚本家さんは、見事にそこのところの期待を容赦なく断ち切ってくださいます。

歴史好きでない方が、歴史モノの脚本を書くと、こうなるのだな・・・とつくづく。

それを如実に表していたのが今回・・・というのも、今回=第20回のNHK大河ドラマの公式ホームページ・・・(NHKでは、ホームページへの直リンクが禁止されているのでリンクはしませんが…)

「江」の公式ホームページには、毎回、その回の「あらすじ」「みどころ」、そして、時代考証を担当されている静岡大学名誉教授の小和田哲男先生による「江を読む」という解説のページと、3つのページがあるのですが、

この第20回・・・「江を読む」のページが「空前絶後!北野大茶湯」と題して、天正十五年(1587年)10月1日に開かれた北野天満宮での大茶会(10月1日参照>>)を中心に茶会の話に終始しているのに対して、本編のドラマでは、この茶会の話は、お女中の報告のみの一瞬で終わってしまいました。

ドラマの最後にある「紀行」でも、場所は北野天満宮、内容は茶会を取りあげていましたが・・・

なんとなく、脚本家さんと、それ以外のスタッフさんの目線の違いを感じた今回・・・

どうやら、この脚本家さんは、九州平定や、それに伴う一揆、そして、秀吉にとって、公家や諸大名から庶民に至るまでとの関係を、合戦とは別の形で構築すべき戦略を秘めた大茶会という重要事項よりも、秀吉と茶々がくっつくかくっつかないかの方に、よほど関心があるようです。

あと、個人的にに気になったのは、秀吉が茶々に
「私の 思われびとになっていただいきたいのです」(たっだかな?)
と告白するシーンが、何度かフラッシュバックされるのですが、

この「思われびと」という言い方・・・
私は無知でわからないのですが、これって普通によく使う言い方なんですかね?

「思われニキビ」というのがあるので、きっと使う人は使うのかも知れませんが・・・

愛のない結婚なんて考えられないし愛する人はただ一人・・・とお考えのこの脚本家さんにとって、おそらくは、「側室になってください」てなセリフは口が裂けても言わせられないのでしょうが・・・(予告編によると来週は江が言うみたいですが)

確かに、茶々=淀殿を「側室」と記した当時の記録は一つもありません。

そう、実は、茶々は、側室ではないのです。

秀吉の死の直後に書かれた文献には、おねさん&淀殿を指して「両御台様(みだいさま)と書かれている物もあるのです。

つまり、二人とも正室という事です。

正室が一人で、それ以外は側室という、武家社会でのある意味一夫一婦制が言われるようになるのは、江戸幕府武家諸法度を制定してから後の事で、それぞれが別の国であった戦国時代は、それぞれの領主によって制定された法律によっての、それぞれの結婚の形態が定められていたわけで、正室が複数というのも、珍しくなかったと思われます。

また、たとえ側室だったとしても、この時代、それを蔑視するにはおよびません。

ただ単に好きという恋愛感情だけでそばに置く場合は、愛妾と称するわけで、側室という限りは、恋愛感情以外の別の有意義な事情(主に政治的背景)があっての側室なのですから、ちゃんと区別しなければ・・・

まぁ、結婚に至るうえで、最も重用な事がお互いの恋愛感情としてしまっているこのドラマでは、そこのところの区別をつける事ができなくなってしまっているため、側室という言葉を使い難い?のでしょう。

使い難いなら使い難いで、「思われびと」なんて言い方せずに、普通に「好きだ!」って言っとけばいいんじゃないか?と個人的には思いますが・・・

Yododono500 ところで、この時、秀吉に落ちた茶々の気持ちですが・・・

結局、ドラマでは、「以前は仇だと憎んでいたのに、何かワカランうちに好きになってしまった」ように描かれていましたが・・・

おそらく、この脚本家の方は、どうしても現在の恋愛常識に当てはめたいがために、こうなってしまったのでしょうが、私個人的には、「権力に屈した」「強い者になびく」という事だったように思います。

現代の常識から「権力に屈した」「強い者になびく」と言えば、何やら良くない印象を受けますが、それこそ、現代の常識を戦国に当てはめてはなりません。

これを「悪」としたならば、戦国時代に生き残った武将のほぼ全員が「悪」になってしまいます。

この時代、男も女も強い者になびいて当たり前・・・なんせ、明日をも知れぬ戦国の世なのですよ。

基本的人権を尊重し、人命を最優先に考え、弱者でも生き残れるようにと福祉政策や保護政策のある時代ではないのです。

もともと、人は人である前に動物であるわけで、自らの血脈を後世に残す事が、最も重要な生きる意味だったわけで、クジャクが羽を広げて求婚するように、体格を大きく見せたり、より美しく変貌したり、強く見せようとしたり・・・これらは、メスが自らの血脈を残すために、より強い相手になびくという本能にアピールしたオスたちの行動なわけで、弱者が生き残れない状況では、ごくごく当たり前の事です。

弱肉強食の世界では「好き」だけではやっていけないし、強いからこそ「好き」になるのです

茶々も初も江も・・・もはや、父=浅井長政の血脈を持っているのは、彼女たち3人だけだという事は重々承知なのです。

そんな中で、長女である茶々が、現時点で最も強い男=秀吉になびくというのは当然の事・・・彼女には、恋愛感情以上の、もっとしたたかな、もっと重要な意味を持つ夫選びではなかったか?と・・・

それを、現代の常識に当てはめて悪しき事としてしまうのは、それこそ歴史に失礼ではないか?と思うのですが・・・
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2011年5月28日 (土)

わずか7歳で女城主となった立花誾千代

 

天正三年(1575年)5月28日、男子のなかった大友家臣の立花道雪が、娘の誾千代に立花家の家督を譲りました。

・・・・・・・・・・

豊後(ぶんご・大分県)にその威勢を誇った大友宗麟(おおともそうりん)に仕えた重臣の中の重臣=立花道雪(たちばなどうせつ・戸次鑑連=べっきあきつら)・・・

後継ぎとなるべく男子がいなかった事から、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、娘の誾千代(ぎんちよ)立花家の当主としという事ですが・・・

以前書かせていただいた井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、男となって当主を継ぎましたがコチラは女性のまま・・・

年代がさほど変わらないという事は、擁護してくれる大物主家がいるか?いないか?の差・・・という事なのでしょうか???

そこのところは、もう少し調べてみたいところではありますが・・・

とにかく、この誾千代さん・・・様々な伝説を残す勇将=道雪が、57歳にしてやっと授かった女の子です(*姉がいたという説もありますが、その姉も早世していますので家督相続には無関係)

その年齢から、さらに、次の子供をもうける事が難しいと思ったのでしょうね~
誾千代には、幼い頃から、男顔負けの当主としての教育をほどこしていたようです。

そして、天正三年(1575年)5月28日・・・道雪は、自身の高齢を踏まえて、わずか7歳の誾千代に家督を譲ったのです。

その教育のおかげか、誾千代は色白の美人ながら、武芸に長け、また、父親のDNAを受け継ぐその度胸の良さは、男顔負けだったと言います。

やがて13歳の時に、同じく、大友家の家臣だった高橋紹運(じょううん・ 鎮種= しげたね)の息子・高橋統虎(むねとら)と結婚・・・彼を婿に迎えた事で、誾千代は城主の座を降りる事になりますが、それまでの6年間をそつなく・・・いや、むしろ、立派に城主の職務を全うしていたのですから、たとえ父の手助けがあったにせよ、その優秀さはなかなかの物でしょう。

ところで、この誾千代さんの婿となった統虎・・・結婚を機に立花宗茂(むねしげ)と名乗りますが、もう、皆さんご存じですよね。

そう、この宗茂こそ、父の道雪が、武将の中の武将と見込んだ男・・・

なんせ、彼は高橋家の長男ですから、本来なら、その高橋家を継ぐ立場・・・しかも、それほどの器量の持ち主なのですから、父・紹運も、最初のうちは婿に出す気などまったくなく、断わり続けていたのですが、それこそ、道雪が再三に渡って頼み込んだ来るもので、結局、情にほだされて・・・という事のようです。

その結婚から4年後の天正十三年(1585年)に道雪は亡くなってしまいます(9月11日参照>>)、その翌年には、宗茂の実父・紹運も岩屋城で壮絶な最期を遂げます(7月27日参照>>)

この時、南からの敵=島津に攻め込まれ、大友は風前の灯状態・・・島津は、その勢いのまま立花城へも手を伸ばしますが、ここで宗茂、見事に守り抜きます

さらに、その翌年、宗麟の要請により、九州平定に乗り込んで来た豊臣秀吉の力を借り、島津を撃退するのですが、ここで、宗茂の優秀さに秀吉が惚れ込みます。

それは、「大友はいいから、立花を傘下に入れたい!」と秀吉に思わせるほど・・・それは、秀吉をして「その忠義 鎮西一、その剛勇 また鎮西一」とまで言わせました。

で、結局、九州征伐後に秀吉は、立花家を大友から独立した直臣として取り立て、宗茂は筑後(福岡県南部)柳川13万石の大名への大出世を果たすのです。

ここまでの大出世に、妻の誾千代さんもさぞかし・・・と、思いきや、彼女にとっては、あまり快く思う事のできない出来事だったのです。

確かに、夫の出世はうれしい半面、妻の立場としては、孤独を感じる出来事でもあります。

まして、誾千代にとって、彼は婿養子・・・

そうなんです。

誾千代は、亡き父と、ともに過ごしたこの立花城を離れる事ができなかったのです。

結局、誾千代は、立花城郊外の宮永に館を建てて引き籠ってしまい、一方の宗茂は、当然の事ながら柳川へ栄転・・・夫婦は別居状態となります。

そうなれば、宗茂も、いずれは、別に側室をもうける事に・・・その事から、夫婦は大変仲が悪く、常に険悪ムードだったと言われています。

しかし、この後、関ヶ原の合戦で西軍にくみした宗茂が、負け戦となって九州に戻って来た時には(11月3日参照>>)、彼女は数十名の従者をしたがえて、自ら出迎えに行っています。

その追撃に東軍が迫った時には、武装して館を出撃して東軍を威嚇・・・宗茂に開城を説得しに来た加藤清正などは、わざわざ迂回して柳川城に向かったほどでした。

合戦後、柳川城が没収されて、宗茂が改易となった後は、彼女は肥後玉名郡腹赤村(熊本県玉名郡長洲町)に隠居しながらも、夫の再起を願って、寺社参りを欠かさなかったと言いますから、宗茂を嫌っていた・・・というわけではなく、やはり立花城を離れたくなかったという事なのでしょう。

そんな誾千代さんですが、関ヶ原のわずか2年後、慶長七年(1602年)10月17日に34歳の若さで亡くなってしまいます。

彼女が願っていた宗茂の柳川城への復帰は、18年後の元和六年(1620年)に実現しますが、その時にはもう、誾千代の姿は無かったのです。

考えてみると、今で言うところの単身赴任・・・旦那さんの転勤に奥さんがついて行くかどうかは、当人の年齢や立場や環境で、一慨に、こっちが正解!とは言えない物があります。

たとえ、奥さんがついて行かず、旦那さんが単身赴任となっても、それで愛情がない、旦那の事が嫌いと決めつける事ができないのは、皆さまご承知の通り・・・

誾千代さんも宗茂さんも・・・どちらも、すばらしい人材だっただけに、なんとか、ともに暮らす方法はは無かったのかな?と、ちょっと残念に思える人生です。

追記:立花誾千代の肖像画がないか検索してみたら、戦国無双の画像ばっか出てきた(爆)人気なのねん
 

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2011年5月27日 (金)

豊臣家五奉行・増田長盛…最後の大仕事

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月27日、豊臣政権下で五奉行の一人であった増田長盛が自害しました。

・・・・・・・・・・・・

増田長盛(ましたながもり)・・・上記の通り、豊臣家五奉行の一人で、以前には、【それぞれの関ヶ原】(9月14日参照>>)と題して、関ヶ原当時の長盛さんの動向などを少し書かせていただいてはいるのですが、実質的には初登場・・・かな?

ともあれ、長盛さんは、近江国益田郷(滋賀県長浜市)出身とも、尾張国増田村(愛知県稲沢市)出身とも言われます。

天正元年(1573年)に、当時は、まだ織田信長の家臣であった豊臣(羽柴)秀吉に見い出されて200石で召し抱えられたのが、歴史の舞台への初登場・・・

この時、28歳だったと言いますから、けっこうな遅咲き・・・おそらくは、すでに何かしらの道を歩んでいたのでしょうが、これまでは芽が出なかったという事でしょうか?

とにもかくにも、その秀吉の配下として働く中、あの天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)武功を挙げ、家禄は2万石に上昇・・・

『武家事紀(ぶけじき)によれば、
「長盛もっとも損得の心計に長ず」
とある事から、
どうやら、豊臣政権下では、その財政に長けた部分をかわれ、石田三成とともに、官僚的な役割を担っていたようです。

一方では、対東国の政策にも重用され、上杉景勝との外交交渉にあたったり、小田原征伐(7月6日参照>>)戦後処理を行ったりもしています。

続く朝鮮出兵では、兵糧や武器弾薬の輸送を受け持つとともに、それら東国の武将を束ねる役割もこなしています。

やがて、豊臣秀長(秀吉の弟)亡きあとに大和郡山城を継いでいた秀保(ひでやす)も亡くなった事を受けて郡山城へ入城し、大和紀伊和泉3ヶ国の代官となり20万石を賜りました。

・・・と、ここまで、遅咲きのわりには順調に出世コースを歩んできた長盛・・・

さらに、大出世の五奉行に・・・となるのですが、後から思えば、これが、彼の苦悩の始まりでした。

秀吉が、その死にあたって、未だ幼き息子・秀頼の、そして豊臣政権の未来を託して任命した五大老と五奉行だったわけですが、ご存じのように、この中の大老筆頭である徳川家康が、秀吉の死の直後から、妙な動きをしはじめます。

先にも書いたように、豊臣政権下で東国の支配、あるいは窓口となって交渉にあたっていた長盛は、おそらく、家康とも親しい関係にあったはずです。

しかし、五奉行となったからには、単なる家臣=社員ではなく、豊臣コーポレーションの経営者の一人なわけで、自分の思いそのままの勝手な行動をとるわけにはいきません。

そんな長盛は、五奉行の一人として、家康の不法行為を訴える弾劾状(だんがいじょう)(7月18日参照>>)にも署名しましたし、家康の暗殺をもくろむ三成が、小西行長密会する場所に同席した事もありました。

ところが、この暗殺計画を家康本人にばらしてしまうのも長盛です。

しかも、その後も奉行の一人として大坂城に張りつき、兵糧の準備をしたり、諸将の奥さんを人質同然に大坂城に収容する準備したり、さらに伏見城の攻撃(7月19日参照>>)にまで参戦したり・・・と、せっせと西軍の一員として働いておきながら、一方では、三成の挙兵を家康に知らせたのも彼=長盛なのです。

以前も書かせていただいたように、関ヶ原の直前には、「上杉に謀反の疑いあり」として、諸将を連れて会津征伐へと向かっていた家康・・・

その家康が、小山で軍議を開いたのが7月25日・・・その時に、家康は、会津征伐をとりやめて西へと取って返す(7月25日参照>>)・・・つまり、三成と戦う事を表明し、今ともにいる諸将に、自分につくか?相手につくか?と問うわけですが、それは、すでに、その6日前に長盛からの「三成が大谷吉継を味方にして挙兵する」という知らせを受けていたからなのです。

まさに、関ヶ原の戦いを左右したとも言える長盛の行動・・・これを、スパイととるのか?二股ととるのか?どっちつかずととるのか?

どれも同じのように見えますが、微妙に違います。

スパイなら、
完全に家康側でありながら、気持ちを隠して、その身を大坂城に置き、情報を流す・・・あくまで、大坂城内での行動はフェイクです。

二股なら、
どっちが勝っても良いように、大坂城では万全の事をやりながら、一方では「家康さんの味方でっせ」と言わんばかりに情報を流す・・・どちらにもイイ顔の八方美人です。

しかし、私個人的には、失礼ながら、長盛さんは3番目のどっちつかずだったような気がします。

なぜなら、スパイ&二股・・・これらは二つとも、したたかでないとやれません。

どちらも、平気な顔をして目の前の相手を裏切る事のできる・・・ある意味、根性の座った悪人でないと・・・

しかし、その後の長盛さんの人生を見る限りでは、そこまでの世渡り上手ではなかったような気がします。

結局は、五奉行としての職務を全うしなければならないという実直な思いと、これまで仲間として親しくして来た家康を憎み切れないやさしさとの葛藤の中にあったようにも思うのです。

まるで、両親の離婚に際して、「パパが好きか?」「ママが好きか?」との難問をつきつけられた子供のように、その選択を思い悩んでいたのかも知れません。

そんな長盛の心が影響したのか・・・合戦後には、命こそ取られなかったものの、大和郡山城は没収され、その身柄は高野山へ預けられる事になるのです。

これまた、どっちつかずな処分・・・

その後、高野山を出て武蔵岩槻城(埼玉県岩槻市)高力清長(こうりききよなが)の預かりとなるのですが、彼は、その地で悶々とした日々を送っていたと言います。

それから14年・・・
『明良洪範(めいりょうこうはん)によれば、
「長盛さんって、豊臣恩顧の深い人やよって、今後の大坂の様子や秀頼さんの行く末を見てみたいでっしゃろ?
この際やから、大坂へ行ってみたら?って家康さんが言うてはりますけど・・・」

と、清長が長盛に言ったのだとか・・・

そう、「再び大坂城に入って、情報を送れ」と家康が言ってる=スパイをやれ!って事です。

それに対して長盛は
「ありがたいこってす・・・普通の大将なら、喜んで受けはりますやろなぁ。
けど、僕はあきませんわ。
今の状態で、大坂城に入って、新規の者たちになんやかんや命令したところで、誰が、耳を傾けてくれますやろ。
このまま、ここにいてますわ」

と、キッパリと断わったのだそうです。

長盛がキッパリ断わったこの大坂の陣(大坂の陣の年表参照>>)では、はじめ尾張徳川義直(よしなお)に仕えていた長盛の次男・盛次が、途中の夏の陣から豊臣側に寝返った事で、戦後、その責任をとるかたちで、長盛に自刃の命令が出たと・・・つまり、一般的には長盛の自刃は命令による物だったとされているようです。

しかし、上記の『明良洪範』には、慶長二十年(元和元年・1615年)5月27日自らの自刃の直前に言ったという長盛の言葉が残されています。

その時、去る5月8日に大坂城が落城し、秀頼と淀殿の自刃と豊臣家の滅亡(5月8日参照>>)を聞いた長盛は・・・
「このたびの乱の結末をお聞きしました・・・
時節が到来して秀頼公が自害されたうえは、何を頼みに生きていられましょう。
お暇乞
(いとまご)いを賜(たまわ)ります」

この言葉を最後に、男・長盛、71歳・・・見事、自刃して果てます。

そこには、最後の最後まで、五奉行としての職務を全うしたかった長盛の実直さが見え隠れしてならないのです。

もっとうまく生きようと思えば生きられたでしょう。。
平気でウソをつけるなら、大名として生き残れたかも・・・

しかし、そんな長盛が五奉行としての最後の大仕事に選んだのは、恩義ある豊臣家とともに、その身を終わらせる事だった・・・という事なのかも知れません。
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2011年5月26日 (木)

「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最期は…

 

明治十年(1877年)5月26日、幕末&維新に活躍し、「維新の三傑」の一人と称される木戸孝允が、出張中の京都で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)
四境戦争(長州征伐)(7月27日参照>>)
薩長同盟(1月21日参照>>)
五箇条の御誓文(3月14日参照>>)
征台の役(4月18日参照>>)に、
奇兵隊の後始末(11月27日参照>>)・・・

さらに、
萩の乱(4月14日参照>>)に、
西南戦争(9月24日参照>>)・・・と、

そこに、広沢真臣・暗殺疑惑(1月9日参照>>)なんぞも加えれば、それこそ、ちょっとやそっとのページでは書き切れない活躍ぶり木戸孝允(きどたかよし・こういん)・・・

なんせ、西郷隆盛大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれる人ですから・・・

以前は、京都にあるホテル・オークラの前に建つ銅像についてのお話(3月12日参照>>)も書かせていただきましたが、もちろん、まだまだ書き足りない部分も多々あり・・・

とりあえずは、それぞれの出来事については、またいずれ、その日づけにともなって書かせていただくとして、本日のところは、幕末の頃には桂小五郎と呼ばれていた孝允が、「逃げの小五郎」との異名を取った、その逃げっぷりについて・・・

・‥…━━━☆

病弱だったせいで家督を姉婿に譲り、7歳の時に長州(山口県)藩士・桂家の養子なった孝允・・・・その後、藩校の明倫館吉田松陰(しょういん)と出会って兵学を学んだ事で彼の人生は幕末の渦の中へ呑まれていきます。

文久二年(1862年)に京都に出てからは、志士や公卿たちと交わりを持ち、長州藩の大勢を尊王攘夷から倒幕へと傾ける事に尽力したせいで、早いうちから、その身辺を狙われるという危険な立場にあったのです。

しかし、そんな中で、孝允は一度も刀を抜く事なく維新を迎えたと言われています。

もちろん、新撰組近藤勇をして(木戸は)恐ろしい以上に手も足も出なかった相手」と言わせている所を見れば、腕に覚えがあり、抜けば勝てた可能性は充分あるものの、とにかく、刀を抜く前に逃げる・・・これが、孝允の鉄則でした。

逃げる事が「かっこ悪い」とか、「武士の風上にもおけない」とかって事には、まったくこだわらなかった事こそが、「逃げの小五郎」の真髄・・・むしろそこには、古い常識にこだわらない一歩先行く先進的な思想が垣間見えます。

そんな孝允が最も危険だった時期が、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で長州が政界から追われ、その翌年に池田屋事件が起こり(6月5日参照>>)、さらに禁門へ・・・と続く、逆風の嵐が吹き荒れた頃・・・

この頃、後に妻となる京都三本木(京都市上京区三本木通)の芸妓・幾松(いくまつ)が、二条大橋の下で、乞食同然の生活をしていた孝允に、握り飯を届けに行っていたなんて逸話もありますが(4月10日参照>>)、幾松以外にも何人もの恋人がいて、追われる度に彼女らの家を転々として逃げ回っていたとも言われます。

2006年には、大阪はの旧家から、(その頃に)かくまってくれたお礼」として孝允から貰ったとされる錫盃が見つかり、それまで、孝允が堺に潜伏していたという記録がなかった事から、まだまだ研究の余地があるものだと思い知らされましたね。

とは言え、そんな「逃げの小五郎」も、一度捕まった事があります。

ちょうど、その禁門の変のすぐあと・・・京都市中を警護する会津藩士の警戒網に引っ掛かってしまったのです。

とにかく、身柄を拘束され、ひとまずは会津藩邸へ送られる事に・・・周りの目もありますから、それこそ普通の武士なら、武士らしく覚悟を決めて、堂々たる姿で護送されるところですが、そんな事にはこだわらない孝允・・・

ゾロゾロと歩く中、寺町通りに差し掛かった、その時・・・

「ウ●コ出そうやから、トイレに行かしてくれへん?」
当然、横にいた会津藩士は・・・
「藩邸に着いたら、ゆっくりさしたるから・・・」
と・・・

「いやいや、もうガマンでけへんから言うてんねん・・・藩邸まで、ガマンできるんやったら、こんなカッコ悪い事、言うかいな」
と、その場にしゃがみ込んで、今にも出さんばかりの態勢に・・・

「こんなトコですんなよ┐( ̄ヘ ̄)┌ 」
とばかりに、しかたなく2~3人の兵卒をつけて、近くの厠へ・・・

彼らが見守る中、おもむろに袴を脱いで腰をおろして・・・
さすがに、出る所を直で見たくない藩士たちは、目線をそらせますが、その瞬間!

「待ってました!」
とばかりに、しゃがみこんだその姿勢のまま、地べたをはいずるように脱兎のごとく逃げる孝允・・・あまりの事に、藩士たちは、あ然として追う事もできず・・・

そのまま逃走し、あっと言う間に別の藩邸で逃げ込んで、危険を脱したのだとか・・・

しかし、よくよく考えれば、よくぞ逃げてくれました!って感じですよね~

ここで、もし孝允が処分されていたら・・・その後の展開はどうなっていたのでしょうか?

カッコ悪いを脱ぎ捨てて、こうして逃げに徹してくれたおかげで、今の日本があるのかも知れません。

そんな孝允が晩年、最も心を痛めたのは、冒頭にも書いた西南戦争・・・

その鎮圧に国軍が出動する事となり、孝允は明治天皇とともに京都へと出張しますが、かねてからの病気が悪化して倒れてしまいます。

明治十年(1877年)5月26日・・・もはや、意識もうろうとなった孝允は、そばにいた大久保利通の手を握りしめながら「西郷!いいかげんにしろ!」と・・・

あの薩長同盟以来の同志への叱咤の言葉が、孝允最後の言葉となりました。

Dscn0946a900 木戸孝允の墓(京都霊山護国神社)

享年45歳・・・最後に、もう一度だけ、病という敵から逃げてほしかったですね。
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2011年5月25日 (水)

「毘沙門天」「未来記」「ゲリラ戦法」…楠木正成伝説

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日、足利尊氏を迎え撃った湊川の戦いに敗れ、楠木正成が自害しました。

・・・・・・・・・・・

楠木正成(くすのきまさしげ)・・・

Kusunokimasasige600 すでに、このブログにも何度もご登場いただき、もはや多くを語らずともその名が知られた有名人ですが、一方では謎多き伝説の人でもあります。

そもそも、その表舞台への登場からして伝説っぽいです。

あの後醍醐(ごだいご)天皇が、
「あの座席はあなたが座る場所です。あの南の方角にある枝ぶりの良い木の下なら安心です」
と、立派な座席に案内される夢を見てた事で、「『南+木』で楠木という人物を探せ~!」となって、天皇の前に登場する正成(8月27日参照>>)・・・これが元弘元年(1331年)5月の事です。

その出会い方もあって、この5月の初対面が事実であるのかどうかは微妙なところですが、その翌月の6月付けで、天龍寺文書に伝わる臨川寺(りんせんじ)目録には、
「悪党楠木兵衛尉(ひょうえのじょう)が和泉(大阪府南部)若松荘に押し入り、不法占拠した」
といった内容の記述があり、実は、これが、楠木正成の正式史料への初登場という事になります。

正成に「悪党」という冠がつくのも、この天龍寺文書に端を発しているわけですが、こうしてみると、正成が正史に登場する期間は、わずか5年・・・その短い間に、日本人のほとんどがその名を知る足利尊氏と同等の有名逸話を数多く残すのですから、それらに、創作とおぼしき伝説的内容が含まれてしまうのは、いたし方ないところかも知れません。

・・・で、こうして、この正成という強い味方を得た天皇が、9月28日に笠置山で挙兵する(9月28日参照>>)・・・ここから始まるのが、元弘の変と呼ばれる戦いですが、1ヶ月後の10月21日には、早くも赤坂城の戦いで、その伝説的ゲリラ戦法を駆使して、大量の鎌倉幕府軍を翻弄してくれちゃってます(10月21日参照>>)

ただ、さすがの正成も、兵の数の差には勝てず、一旦退却して再起をはかるわけですが(2月1日参照>>)、その最大の見せ場となる千早城の戦い(2月5日参照>>)での戦法は、そのページにも書かせていただいたように、明らかに、諸葛孔明(しょかつこうめい)レッドクリフ(赤壁の戦い)のパクリ・・・

これらの伝説的逸話の多くが、あの『太平記』に登場するわけですが、ご存じのように『太平記』は軍記物・・・このブログでも度々書かせていただいてますが、軍記物というのは、創作を織り込んでオモシロく読めるようにした歴史小説のような物です。

この『太平記』の扱いも、その時代によって、丸々信じられていたり、全部デタラメだと言われたり・・・その評価の高低差が激しい書物ではありますが、今では、多くの創作が織り込まれてはいるものの、その中には重要な史実も含まれているという見方がされるようになっています。

・・・で、そんな正成の出自ですが、上記の通り、いきなり表舞台に登場するわけで、結局は、それも謎です。

河内(大阪府南東部)土豪(どごう・地元に根づく小豪族)で周辺一帯の水銀や金剛砂(こんごうしゃ・鉱玉)を一手に扱っていとか、武蔵(東京都&埼玉県&神奈川県の一部)出身の東国の御家人で守護国の河内に移住したものの、主家である北条氏で内紛が起こったため後醍醐天皇に従ったとか、さらには、先祖を橘諸兄(たちばなのもろえ・橘三千代の息子=1月11日参照>>とする系図まで残っていると言いますが、さすがに、この系図は後世の物と見られているようです。

しかも、子宝に恵まれなかった母親が、信貴山毘沙門堂に願をかけたところ、ある夜に、金色の鎧を着た武将が口の中に入る夢を見て身ごもったため、両親は、我が子を毘沙門天(多聞天)の使いと信じ、多聞丸と名づけて大事に育てた・・・それが正成である、と、つい最近も、どこかで聞いたような(5月7日参照>>)戦国武将=神さんの化身伝説もあります。

・・・と、ここで、正成&伝説と来たからには、忘れてはいけない例の逸話・・・

後醍醐天皇が隠岐に流されている頃に、摂津(大阪府の一部)四天王寺に参拝した正成が見たという『未来記』の話・・・

この『未来記』というのは、あの聖徳太子が、国の行く末を書き記して四天王寺に納めたとされる、いわゆる予言書です。

長老の僧の計らいで、その予言の書を目にした正成・・・そこには、
「人王九十六代にあたって、天下ひとたび乱れて君主も平安でない。
このとき東魚が来て四海
(天下)を呑む。
日が西天に没したまま三百七十余日が過ぎると、西鳥が来て東魚を食う」

とあったのだとか・・・

後醍醐天皇は第96代天皇・・・
東魚は鎌倉幕府・・・
そして、天皇が隠岐へ流されてから1年ちょっとで幕府を滅ぼす西鳥こそ自分である・・・と正成は倒幕を確信したというのです。

まぁ、現実問題として、この『未来記』なる巻物は現存せず、その存在を疑問視する声もあるのですが、あの百人一首(5月27日参照>>)で知られる藤原定家が、「聖徳太子の墓所の近くから瑪瑙(メノウ)石に刻まれた『未来記』の一部が出土し、そこに承久の乱(5月14日参照>>)の事が書いてあった」と日記に記しているところから、なんとなく、「あったらいいなぁ~」という妄想をかきたてられるシロモノではあります。

しかし、このような様々な伝説に彩られながらも、尊氏や新田義貞(にったよしさだ)らとともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、その後、尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしても(12月11日参照>>)なお、正成は天皇一筋に忠誠を尽くし、最後は、自らの提案を却下されながらも、やはり、天皇を裏切る事なく湊川(みなとがわ)の戦い(2007年5月25日参照>>)で散っていったという流れは、間違いのないところ・・・

確かに、そこまでの後醍醐天皇寄りには、地方から全国ネットへとのし上がりたいという正成の私利私欲もあったかも知れませんが、その出自さえわからない人物が、天皇に頼られ、大きな大きな幕府という物を相手に、痛快な戦いを展開する様子は物語として実におもしろい・・・

個々の戦いぶりは創作としても、使えるネットワークを駆使して劣勢なる戦いを勝ちに転じた事は事実・・・そして散りぎわの美しさ。

そこには、後世の人が、どうしても伝説で彩りたくなるような、大きな魅力があった事も確かなのです。
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2011年5月24日 (火)

徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達

 

慶応四年(1868年)5月24日、このひと月前に、徳川宗家の相続を認められていた徳川家達に、駿河藩主として70万石が与えられました。

・・・・・・・・・・

ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)に始まった幕末の動乱・・・

様々な重要事件が起こり、めまぐるしく情勢の変わる十数年間は【幕末維新の年表】>>でご覧いただくとして、その最も大きな山場とも言える慶応四年(1868年)3月13日14日・・・

二日間に渡って行われた東征大総督府・参謀の西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝海舟会談(3月14日参照>>)によって戦争回避が決定定され、その後、江戸城の開け渡しも決まりました。

3月16日には江戸城中の幕臣が田安仮屋形(旧清水邸)に移り、4月9日には静寛院宮(せいかんいんのみや・和宮=家茂室)実成院(家茂生母)が同じく田安仮屋形に・・・翌10日には天璋院(てんしょういん・篤姫=家定室)本寿院(家貞生母)一橋屋形へと立ち退いて、4月11日、歴史に残る江戸城無血開城が成されます(4月11日参照>>)

その無血開城のページにも書かせていただきましたが、すでに、2月の段階で江戸城を出て、自ら謹慎に入っていた第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)も、これまでの天璋院や静寛院宮の尽力によって(1月17日参照>>)、その恭順姿勢が認められる事となりました。

さらに、4月29日には、その慶喜に代わって、田安亀之助徳川家名相続沙汰書が大総督府より下された事で、これ以降の徳川家中では、、その亀之助が「上様」と称されるようになり、続く5月18日には、その亀之助が徳川家達(いえさと)と改名します。

こうして、わずか6歳で徳川家の家督を継いだ第16代当主・家達に、慶応四年(1868年)5月24日駿河藩主として70万石が与えられ、ここに徳川家の存続が決定したわけです。

Tokugawaiesato600 この家達は、田安徳川家の5代・8代当主の徳川慶頼(よしより)の三男として文久三年(1863年)に江戸城の田安屋敷で生まれました。

第14代将軍である徳川家茂(いえもち)が、あの長州征伐で西へと向かう時、「自分に万が一の事あらば、御三卿の一つである田安家の亀之助に後を継がせよ」と言い残して行ったとの事ですが、ご存じのように、家茂は、そのまま、本当に帰らぬ人となってしまいました(7月20日参照>>)

そんな事もあって、家茂亡き後の15代将軍を決める際にも、家茂夫人である静寛院宮が、亀之助を強く推したという事もあったようですが、なんせ、その時は、亀之助はまだ4歳・・・しかも、何が起こるかわからない状況の頃でしたから、「さすがに4歳の将軍では・・・」という事で、15代将軍は、すでに将軍後見役を務めていた慶喜に決まったという事のようです。

しかし、維新となって慶喜が謹慎・・・そこで、当主を亀之助=家達にして、何とか徳川家存続にこぎつけたというわけです。

もちろん、まだ政務をこなす事はできませんから、旧幕臣の勝と大久保一翁(いちおう)(7月31日参照>>)徳川家始末担当としてつけられ、新政府との交渉は勝が担当し、かつては駿河町奉行を経験した事もある大久保が内務を担当する事となりました。

そんなこんなの8月9日・・・家達は駿河に向けて出立しますが、その道中の様子を、お供をした伊丹鉄哉という人が書き残しています。

『もう、この頃は、誰も彼もない平等の世の中ではあったけれども、さすがに、お持ちの槍1本・長刀1本・十文字槍1本・・・その装飾は、他とは違って見えました。

新徳川家70万石の主は、黒紋付の羽織に仙台平の袴をはき、俗に言うお河童さんの髪で筆軸ほどの髷を結い、まるで、お雛様の五人囃子のような・・・

田安家に仕えていたお年寄の初井という者が、ともに一つの駕籠に乗って道中をお供します。

途中、お駕籠の中からは、五人囃子のようなお首がチョコチョコ出て、「あれは何?」「これは何?」と、駕籠から眺められる物を珍しがられてお尋ねになる。

駕籠の左右にいる者が、右からも左からも、一つ一つ腰をかがめてお答えする・・・45日間の道中でのお楽しみと言えば、この駕籠からお首をだされる事くらいでした』

徳川の再生を託された幼い当主・・・まだまだ、その事には気づく事もできないお歳だった事でしょう。

かつては旗本八万騎とも言われた御家人たちも、その領地が70万石になってしまった事は重々承知・・・しかし、今更、商人をする気にも、農業をする気にもなれないし、かと言って、新政府に出仕するのもヨシとせず・・・

給料は払ってもらえなくても良いから、ともに駿河で・・・と、家達について来た者は、幕臣とその家族を含めて3万人にものぼったと言います。

もちろん、70万石の徳川家に彼らを養って行く財なんてありません。

そこで、大久保は開墾に着手します。

静岡は、もともと鎌倉時代からお茶の栽培がおこなわれていた土地・・・それが、日本が開国してからは、輸出品として珍重されていた事に目をつけ、大井川下流の牧野原台地に茶畑を開墾したのです。

最初の入植が明治二年(1869年)という事ですから、まさに電光石火のすばやさです。

それが、やがては富士の裾野の万野原(まんのはら)にも広がり、立派な茶園となって行くのです。

幼い当主に託された徳川宗家は、茶どころ静岡とともに、現在もなお続く事になります。
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2011年5月23日 (月)

「男なら関白」秀吉最愛の秘蔵っ子・豪姫

 

寛永十一年(1634年)5月23日、豊臣秀吉夫婦に溺愛され、後に宇喜多秀家の正室となった豪姫が61歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

天下の豊臣秀吉が最も愛した娘豪姫(ごうひめ)・・・と、言っても、ご存じのように、秀吉とおねさんの間に実子はいませんから、彼女は養女という事になるのですが・・・

『可観小説』によれば
「安土城下御隣家之時・・・(豪姫の)御誕生之時は、秀吉公御附被成有之候而、男子に而も女子に而も、我等の子にもらひ候とて、御出生其儘懐中被成て御帰り・・・」
とあり、

どうやら、ともに織田信長に仕えて隣同士に住んでいた親しさから、秀吉夫婦に子供ができないのを心配したあの前田利家夫婦との間で、
「今度生まれて来る赤ちゃんは、男の子でも女の子でも、秀吉夫婦の養子にして、二人の子供として育てる」
という、彼女が生まれる前からの約束事ができていたようです。

なんせ、前田家には、すでに嫡男の利長もいましたし、豪姫の上には3人の女の子がいましたから・・・戦国武将にとって、後継ぎとなる男の子・周囲との架け橋となってくれる女の子など、これら子供たちの存在がいかに重要かを、お互いに知っていたでしょうしね。

そんなこんなで、前田家の四女として生まれながらも、ほぼ出生と同時に秀吉夫婦の娘となった豪姫は、それこそ、実子のいなかった秀吉夫婦にとって、目の中に入れても痛くないほどカワイイ存在・・・

その溺愛ぶりは、秀吉が送った数々の手紙によって想像がつきます。

戦などで、ちょっとでも離れている時あらば
「けなげに候や」「はや飯をまいり候や」
元気か?飯は食ったか?ハァ~ビバノンノン♪
と、とにかく、気になってしょうがないご様子・・・

やがて天正十六年(1588年)、15歳になった豪姫は、秀吉の猶子となっていた岡山城主・宇喜多秀家結婚します。

この秀家は、秀吉が中国平定の際に、毛利側からコチラに寝返らせた宇喜多直家(うきたなおいえ)の息子・・・もとは敵であったとは言え、その寝返り交渉で意気投合した秀吉と直家は、その後は、長年の親友同士のように仲が良かったようですが、わずか、それから2年後に直家が亡くなってしまい(10月30日参照>>)、残された息子・秀家が、未だ10歳だった事から、秀吉が猶子として引き取り、わが子のように育てた・・・

つまり、2歳違いの秀家と豪姫は、ともに兄妹ようにして、一番多感な数年間を過ごした間柄だったのです。

おかげで、夫婦の仲は睦ましく、二男二女をもうけるという幸せな結婚生活を送るわけですが、その間にも・・・

文禄二年(1593年)の3月のおねに宛てた秀吉の手紙には、
『男にて候はゞ、関白を持たせ申すべきに、女房にて候まゝ、是非なく候まゝ、南の御方(豪姫の事)はまだ不足にて候。
太閤秘蔵の子にて候まゝ、ね
(おねの事)より上の官に致したく候・・・その心得候て、南の御方をばあいしらい候べく候。・・・』
「男やったら関白にするところやけど、女の子やからなぁ~って思うけど、それでも現状ではまだ足らん!
太閤の秘蔵っ子やねんから、お前(嫁=おね)より高い官位もらわんとな・・・お前もそのつもりでいとってや~」
と、まだまだ、その溺愛ぶりは納まっていないようです。

その半年後の10月にも、今度は豪姫自身に宛てに、朝鮮出兵にために向かった九州から、
『はやはや大いこく(明の事いつれもゆるし候まゝ、八郎(秀家の事)も十月ころニハかいちん(凱陣)可申候、心やすく候へく候、めてたく御めにかゝろ候て可申候、かしく』
「明との戦争も終わったし、秀家も10月頃には帰るよって安心しいや~会えるん楽しみに~」・・・って、秀家に言わしたれよ!と言いたくなるような手紙を送っています。

そんな溺愛ぶりの極めつけは、慶長二年(1597年)の4月・・・

その時、豪姫は病にかかっていたのですが、これがけっこう重い・・・当然、秀吉は、医者はもちろん、僧やら祈祷師やら山伏やら占い師やら、ありとあらゆるその道の賢者を集めて、連日連夜の祈祷を行うのですが、どうやら、その病の原因は「狐が憑いた」というのです。

「クッソ~!狐のアホんだら!」
と思った秀吉・・・なんと、稲荷大明神に手紙を書くのです。

『備前中納言女どもに付、障(さわ)り物の怪(もののけ)相見え候。とかく狐の所為(しょい)に候。
何とて左様にみいり候や。曲事
(くまごと)におぼしめされ候へども、今度は、御免なされ候。
もしこの旨相背
(そ)むき、むさとしたる儀これあるにおいては、日本の内、年々狐狩り仰せつけられるべく候。
一天下にこれある有情無情の類
(たぐい)まで、御意重からず候や。すみやかに立ち除(の)くべく候。
委曲
(いきょく、吉田の神主申し渡すべくなり
          卯月十三日
    稲荷大明神殿  』

「ウチの娘に、何、さらしとんじゃボケ~!
さっさと立ちのかんと、日本中のキツネをいてまうど!」

稲荷大明神=神様を相手に・・・もはや、内容は脅迫状ですがな(;;;´Д`)

まぁ、この父の思いが通じたのか?否か?
とりあえず、豪姫は無事快復するのですが・・・

しかし、間もなく、狐よりも恐ろしい現実が迫りつつありました

そう、慶長三年(1598年)・・・病に倒れた秀吉が(8月9日参照>>)8月18日に亡くなり、翌年の3月3日には前田利家が(3月3日参照>>)・・・

豪姫にとっては、わずか半年余りの間に、養父と実父が亡くなってしまうという不幸でした。

しかも、実父・利家の亡くなった夜に早くも波乱が・・・あの加藤清正らが石田三成襲撃するという事件が起こったのです(3月4日参照>>)

そして、時代の波は、容赦なく関ヶ原へと突き進んでいきます。

そのへんの流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただくとして、とにかく、秀吉に多大な恩を感じている夫・秀家は、西軍の主力となって関ヶ原に参戦します。

しかし、ご存じのように西軍は敗北・・・

戦場から逃走した秀家は、しばらくの間、薩摩の島津家に匿われていましたが、その島津も慶長七年(1602年)4月に勝者=徳川家康と和睦した事で、翌慶長八年(1603年)8月に、秀家は京都・伏見へと護送されたのです(一部内容かぶってますが8月6日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、東軍の一翼として北陸で奮戦した豪姫の兄・利長の助命嘆願もあり、そもそも、島津が引き渡しの条件として秀家の助命を嘆願していた事もありで、何とかその命は助かる事となり、秀家は、二人の息子とともに八丈島への島送りとなったのです。

その後、前田家に引き取られる事となった豪姫は、娘二人とともに加賀(石川県)へと移り住みました。

秀家が、島に流されるにあたって、前田家は、その秀家には家人をつけ、息子二人には乳母をつけ、専属の医師までも同行させますが、これはすべて豪姫の指示だったと言います。

さらに、その後も前田家は、二年に一度の間隔で、金銀や米・食糧・衣服をはじめ、医薬品までもを、八丈島に送り続けているのですが、その前田家の仕送りは、秀家が84歳で亡くなるまで・・・どころか、徳川幕府が崩壊する明治まで続けられたというのです。

この長きに渡る前田家と宇喜多家のつながりは、イコール、豪姫と秀家のつながりでもあったのです。

その後も他家へ嫁ぐ事なく、ただ、ひたすら夫を思い、夫のために金品を差し入れし続けた豪姫ではありましたが、寛永十一年(1634年)5月23日夫や息子たちとは再会できないまま、61歳の生涯を閉じたのです。

「男なら関白!」
この秀吉の発言は、単なる溺愛ではなく、病弱な豪姫の中にある、秘めたる芯の強さを見抜いていたからこそだったのかも知れませんね。
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2011年5月21日 (土)

決戦!長篠の戦い

 

天正三年(1575年)5月21日、いよいよ長篠の合戦の火蓋が切られます。

・・・・・・・・・

4年前に今日は、勝頼さん中心に書かせていただきましたので(2007年5月21日参照>>)、本日は、まずは定番の戦いぶりのお話から・・・

初めてご覧になる方は、これまでの経緯を、
●4月21日【長篠城攻防戦・開始】>>
●5月18日【設楽原で準備万端】>>
●5月16日【史上最強の伝令】>>
●5月21日【もう一人の伝令】>>
●5月20日【鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦】>>
などで見ていただくとありがたいです。
(それぞれ別の時に書いてますので、若干内容がかぶる部分がありますが…(゚ー゚;)

・‥…━━━☆

さて、いよいよ天正三年(1575年)5月21日・・・夜明けとともに、昨日まで降っていた雨も上がり、時おり晴れ間も見える天気となりました。

武田勝頼以下、約1万2000の兵は、すでに、昨日のうちに設楽原(したらがはら)に着陣・・・鶴が両翼を広げた形の鶴翼(かくよく)の陣(【陣形と陣立のお話】参照>>)で決戦に挑みます。

一方、細い々連吾川(れんごがわ)を挟んで、真正面から向かい合う形に布陣する織田信長徳川家康連合軍・・・

Nagasinofuzinzucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まずは、早朝6時頃・・・最も左に位置する先鋒・山県昌景(やまがたまさかげ)が、開戦を告げる太鼓を打ち鳴らし、馬防柵の左(南)側を回り込むようにして、徳川方の大久保忠世(ただよ)と激突します。

忠世は果敢にも、鉄砲隊を馬防柵の前に出して応戦・・・敵が近づけば柵の中に退き、敵が退けば、再び柵の外に出て攻撃するという手法をくりかえします。

武田方の2番手として襲いかかるのは、中央の武田信康(信玄の弟)内藤昌豊・・・さらに3番手の小幡信貞(おばたのぶさだ)と続き、逆の右翼からは4番手の武田信豊(勝頼の従兄弟)、5番手の馬場信春佐久間信盛の陣地を突きます。

しかし、この設楽原というのは、いくつもの小川が流れる湿地帯・・・しかも、連日の雨でさらにぬかるんで、当日のベチャベチャ感たるやハンパないベチャリ具合で、甲冑に身を包んだ重装備の武者を乗せた馬の足は自由を奪われるし、柵の手前に設けられた空堀に行く手を阻まれるしで、武田の騎馬隊も、なかなか思うように攻撃を仕掛けられません。

ちょうど、ここらあたりで信長のゲキが飛びます・・・
「敵馬を入れ来たらば 際(きわ)一町までも鉄砲打たすな
間近く引請
(ひきう)け 千挺(ちょう)づゝ放ち懸け
一段づゝ立替
(たちかわ)り立替り打たすべし
敵猶
(なお)強く入れ来らば ちつと引退(ひきの)
敵引かば引付いて打たせよ」

『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)

通説では、
信長は3000挺の鉄砲を用意し、これを1000挺づつ3隊に分けて、1隊めが撃ってるスキに2隊3隊が準備をし、撃ち終わった者が後ろに回って、2隊めが撃つ・・・そのスキに先ほどの1隊めが次ぎの準備をし、3隊めが撃ち終わる頃には、最初の1隊めの者が撃つ用意ができている・・・
という、有名な3段撃ちをやったと・・・

それでも、次々と新手を繰り出して突撃を試みる武田軍ですが、機動力の騎馬隊も、馬防柵や空堀・・・もちろん、一斉に撃ちかける鉄砲隊に、結局は阻まれてしまうのです。

そんな中でも、敵深く食い込む者も・・・

右翼から出撃した土屋昌次は、3重のうち2重まで突破し、3重めの目の前まで至ったのだとか・・・残念ながら、昌次は、そこで銃弾に倒れてしまいますが・・・

中央から行った内藤昌豊の部隊も、正面の本多忠勝の陣に攻めかかり、3重めに達した時は、わずか24人になっていたとか・・・

ところで、昨日書かせていただいた酒井忠次鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦への奇襲(再び5月20日参照>>)・・・昨日のページでは、夜明けとともに攻撃開始と書かせていただきましたが、一説には、攻撃は8時頃だったという話も・・・

というのも、冒頭に書いた通り、この設楽原の本チャンが始まったのが6時頃なのですが、どうやら、武田方が、その奇襲攻撃に気づいたのが、何度も突撃を繰り返していた真っ最中だったという事になっているからです。

・・・と攻撃の時間は、はっきりしないのですが、とにかく、ここらあたりで、ようやく勝頼は、後方の長篠城付近から立ち上る黒煙を見て、鳶ヶ巣山砦の陥落を知るのです。

そして、おそらくは、「退路が断たれた」と思った・・・

しかし、その後も、果敢な波状攻撃を続けていた武田軍でしたが、やがて午後1時頃、歴戦の勇者が次々と討死する中で、鶴の両翼が崩され、敗色を悟った穴山信君(のぶきみ)や武田信豊などの親類衆が、勝手に撤退を開始しはじめ、さらに、武田の崩れが歴然とします。

この状況を見た信長が総攻撃の命令を発進・・・もちろん、武田方の側近たちも、勝頼に撤退を進言します。

それでも、「死を覚悟して討って出る!」
と、最初はなかなか譲らなかった勝頼でしたが、ついに、側近たちに言い含められ、午後2時頃退却を知らせるほら貝の音が、設楽原に響き渡りました。

この日、殿(しんがり)を務めたのは信玄以来の重臣・馬場信春・・・午前中に佐久間信盛から奪った丸山の陣地にて、戦況を目の当たりにした信春は、勝頼を援護しつつ途中まで退却し、主君の撤退を確認した後に態勢反転させ、やはり勝頼の撤退を見届けていた内藤昌豊とともに、追撃して来た織田勢と渡り合い、壮絶な討死を遂げたのです。

一方、長篠城方面への退路を断たれていた勝頼は、近臣数騎とともに、豊川沿いに落ちていったと言います。

・‥…━━━☆

と、まぁ、これが一般的に知られる長篠の戦いですが・・・

以前から書かせていただいているように、近年の研究では、「信長の3段撃ちはなかったであろう」というのが定説となりつつあり、中には、「武田の騎馬軍団もなかった」と考える専門家も増えつつあります。

実は、この長篠の戦いが、現在のような「信長の3段撃ちVS武田騎馬隊」のような形に言われるようになったのは明治になってからの事なのです。

現に、江戸時代に書かれた例の『長篠合戦図屏風』に描かれた鉄砲隊は、3段にはなってませんよね。

これは、一昨年の9月17日に書かせていただいた【12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?】>>にも、チョイと出て来た明治維新の頃のアノ話・・・

この時、江戸時代の武士とは違う西洋式の軍隊が発足する事で、これまで国内で行われた戦史をまとめて、今後の作戦立案に役立てよう『日本戦史』なる物を陸軍参謀本部が編さんしたのです。

・・・で、その中の長篠役(ながしのえき)の記述が、現在、一般的に知られている戦いの経緯のもととなっているわけなのですが、実は、この編さんの時に参考にしちゃったのが、先ほど出て来た『甫庵信長記』・・・これは、江戸時代に書かれたいわゆる軍記物です。

皆さま、すでに、ご存じの通り、軍記物というのは、今で言う歴史小説みたいなところがあって、出来事の流れに関しては史実に基づいていますが、細かな・・・特に、その人物の動向や心の内などは、読んで面白くなるように創作されている事が多々あります。

よって、現在では、圧倒的に『信長公記』の方が重視されているわけですが、それこそ、何が一級史料なのか?なんていうのは、研究が進むにつれて、その時代で変わっていく場合もありますので、明治の頃では致し方ないところでしょう。

・・・で、その『信長公記』では、この長篠の戦いに用意された鉄砲は1000挺となっていますし、もちろん3段撃ちも出てきません。

だって、先日も書かせていただいたように、もともと、直前までは畿内の敵に対峙していた信長が、勝頼の南下を聞いて、慌てて岐阜へ戻って戦闘準備をして、かき集めたにわか部隊が鉄砲隊の担当だったのですから、3段撃ちなんて神業をできるはずもなかったでしょう。

第一、戦況をよ~~く見てください。

騎馬武者がぬかるみに足を取られたなら、鉄砲隊だってぬかるみに足を取られなきゃオカシイですが、信長側だけが整然と乱れる事なく、作戦を遂行したというのは何とも、腑に落ちません。

一方の武田の騎馬隊は・・・

これも、騎馬隊・騎馬軍団と聞くと、いわゆる軍事パレードなどで見かける騎兵が整然と並んだ姿を思い浮かべてしまいますが、この戦国時代にあの光景はありえません。

だって、この時代、馬に乗る事を許された武将とは、どんな人たちでしょう?

一応は、名のある武将で、それぞれが家臣を持ち、それぞれが独自の訓練をしているわけで、イザという時にだけ、殿さまクラスの騎馬武者が集まって隊列を組むなんて事はできないはずで、おそらくは、それぞれの殿さまを守る多くの歩兵が回りにいた状態で戦闘していたでしょう。

しかも、この頃の日本馬は、現在の西洋馬と違って、ポニーを一回り大きくした程度のサイズで、周囲に槍など持つ歩兵に囲まれれば、もはや確認も難しかった事でしょうし、走る速さも、人とあまり変わらなかったと思われます。

また、一説には武田方にも1500挺の鉄砲があったとか・・・さすがに、これは盛りすぎだとしても、結局のところは、同じように鉄砲隊を持ち、同じように騎馬武者がいた者同志が戦ったというところが現実でしょう。

もともと、兵の数が倍違うのですから、同じように鉄砲隊も騎馬武者もいたのなら、倍の数いる方が勝ちます・・・まして、堅固な城柵をほどこして準備していたのなら・・・

結局、勝頼の敗因は、倍近い相手に戦いを挑んでしまった事・・・そこには、信玄以来の重臣との確執があった事に加え、寸前のところでヤラれてしまった砦への奇襲・・・

これで、「退路を断たれた」と判断した勝頼は、決死の覚悟で、倍近い相手に向かって突き進むしかなくなった・・・というところではないでしょうか?

●長篠の後の徳川VS武田の遠江争奪戦については
【長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い】でどうぞ>>
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2011年5月20日 (金)

長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦

 

天正三年(1575年)5月20日、武田勝頼本隊が設楽原に向けて進出し、酒井忠次鳶ヶ巣山砦に奇襲をかけに進発しました。

・・・・・・・・・・・

さて・・・いよいよ長篠の戦いです。

天正三年(1575年)5月8日・・・
三河(愛知県東部)北東部へと南下し、奥平貞昌(信昌)が守る徳川家康方の最前線=長篠城を囲んだ甲斐(山梨県)の戦国武将・武田勝頼(かつより)・・・

11日より始まった総攻撃によって、16日には、長篠城から、もはや籠城も限界であるとの伝令が放たれ(5月16日参照>>)、その報を受けた家康が、同盟を結んでいる織田信長とともに、長篠城の西・設楽原(したらがはら)到着したのは、5月18日の事でした(5月18日参照>>)

しかし、到着すぐに長篠城から放たれたもう一人の伝令(5月21日参照>>)のおかげで、少し時間に余裕ができた織田徳川連合軍・・・すぐには戦いに挑まず、まずは、馬防柵(まぼうさく)土塁陣城(戦いのための簡易の城)などを構築し始めます。

当然の事ですが、一方の武田軍では、再三に渡って軍議が行われます。

退却か、決戦か・・・

19日から20日にかけて行われた最後に軍議では、織田徳川連合軍=30000、武田軍=1万5000と、圧倒的な兵力差がある事もあって、馬場晴信内藤昌豊山県昌景ら、信玄以来の重臣たちは、ことごとく退却を主張・・・「ここは、いち時退却して好機を待つべきである」と・・・

しかし、勝頼の寵臣として知られる跡部勝資(あとべかつすけ)が、「先制に利あり」を主張します。

確かに・・・武田側から見れば、設楽原に到着してもいっこうに攻めて来ず、城柵を講じてばかりの織田徳川連合軍は、何かを待っているようにも見えます。

ひょっとしたら、この後、さらなる援軍が駆けつける可能性もゼロではありません。

しかも、こちらから見る織田徳川連合軍は、士気が低く弱そうに見える・・・現に、これまで、武田軍は彼らに一度も負けた事はありません。

かくして、後詰が来る前に、士気の低い織田徳川連合軍を撃つ!
と決定します。

そうなれば、一刻も早く、戦場へ出て有利な陣形を取らねばなりません。

Nagasinokisyuucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして、天正三年(1575年)5月20日・・・勝頼は、長篠城の押さえとして、2000の兵にて城を囲み、城の東側を流れる大野川の対岸にある鳶ヶ巣山(とびがすやま)河窪信実(かわくぼのぶざね・武田信実=信玄の異母弟)ら1000人を置き、自ら本隊の主力=12000を率いて、豊川(寒狭川)を渡り、設楽原に向けて発進したのです。

一方、この同じ20日・・・

織田徳川連合軍で開かれた軍議の席で、家康の重臣・酒井忠次が吠えました。

かの鳶ヶ巣山砦を奇襲させて欲しい!と・・・

しかし、この案は、信長に一蹴され、それどころか、「トンデモない愚策」として大勢の前で罵られ、忠次は落ち込みを隠せないまま、軍議を終えました。

・・・と、そこへ信長・・・コッソリと、
「君がさっき言うてたアレ…やっちゃってくれる?

そう、実は、武田方のスパイが潜り込んでいる事を想定して、軍議では、あえて一蹴したけど、本当は、とってもナイスな案・・・是非とも実行して欲しいと言うのです。

確かに、勝頼は戦場に出てきました。
しかし、このままにらみ合いが続けば、相手は退却に方針転換するかもしれません。

ここは一つ、散々城柵を講じた戦場に、向こうから攻めて来てもらいたいというのが信長の思い・・・

この奇襲作戦は、単なる小隊のぶっ潰しではなく、本隊の背後を突いて動揺させ、あわよくば武田軍の退路を断つ事・・・そして、さらにあわよくば、そのまま長篠城へ突入して開放する事もできるかも・・・という、信長一世一代の作戦だったのです。

大役を任された忠次・・・松平一門の三河衆に自軍の手勢を加えた約2000と、信長配下の金森長近らを加えた総勢・約4000に鉄砲500を従えて、夜も更けた設楽原を、密かに進発します。

豊川下流の浅瀬を通り、大きく迂回して峠を越えて・・・この間に日づけは、運命の5月21日に変わりました。

砦の背後へと回り、息をひそめて夜明けを待つ酒井隊・・・砦を守る武田方の関心は、正面にある長篠城で、背後に敵が迫っている事など、気づく余地もありませんでした。

かくして、決戦の日の夜が明けます。

夜明けとともに一気に襲撃開始!・・・銃声と怒号が山や谷にこだまし、不意を突かれた武田方は大混乱で、近くにあったいくつかの砦と、連携を取る事さえ不可能となり、組織的な反撃などまったくできず・・・

やがて守将が信実は討死し、もはや主力も設楽原の方に移動してしまっている現状では、どうにもならず、砦の守兵は、皆、散り散りに敗走するのでした。

Nagasinosakaitadatugu1050 鳶ヶ巣山砦を奇襲する酒井忠次…中央の右手に槍を持った騎馬武者が忠次です(犬山城白帝文庫蔵・長篠合戦図屏風部:1~2扇下部)

この奇襲で、実際に武田方の退路が断たれたかどうかは微妙なところですが、勝頼が「断たれた」と思った事はあったかも知れません。

近年の研究で、信長の3段撃ちも武田の騎馬軍団の存在もなかったかも知れないと言われている昨今・・・ひょっとしたら、この奇襲の成功が、本番の戦いを左右したのかも知れません。

さぁ、ここから、中継カメラは本チャンの設楽原へと移動・・・【決戦!長篠の戦い】へどうぞ>>
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2011年5月19日 (木)

二つの桶狭間古戦場

 

永禄三年(1560年)5月19日は、あの桶狭間の戦いのあった日です。

・・・・・・・・・・

戦国屈指の奇襲戦・・・

織田信長中心で描かれるドラマなら、必ずと言って良いほど、本能寺と、この桶狭間(おけはざま)は登場しますし、その度にけっこうな時間を割いてドラマチックに描かれますから、皆さまも、よくご存じの事と思います。

このブログでも・・・
以前は、上洛のためと言われていた今川義元の出陣が、そうではないかも知れない(5月1日参照>>)

信長の奇襲も、従来の迂回して背後からではなく、真正面から直進した、どちらかと言えば一か八かの賭けのような物ではなかったか?(2007年5月19日参照>>)という事・・・

この桶狭間え武功を挙げた二人の武将の事(2015年5月19日参照>>)・・・

桶狭間をきっかけに独立する松平元康徳川家康の事(2008年5月19日参照>>)・・・

などなど、書かせていただいておりますが、いま読み返してみますと、まだまだ書き足りない部分もあり、さらにもっとくわしく・・・とは思っているのですが、

今日のところは、戦いの経緯については、これまでのページを見ていただくとして、今回、その桶狭間の合戦のあった場所=古戦場についてのお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

この桶狭間戦いの古戦場跡とされる場所が、二つあるのはご存じでしょうか?

一つは、名鉄名古屋本線中央競馬駅近くの愛知県豊明市栄町南館(みなみやかた)にある古戦場跡。

そして、もう一つは、そこから南西2kmほど離れた、名古屋市緑区有松町桶狭間という場所にある古戦場跡です。

どちらも、石碑と公園からなる史跡で、地図上では点で表されるほどの場所ですが、そもそも、桶狭間だけではなく、合戦というもの・・・本来は、けっこうな広範囲で行われるわけで、これらの史跡は、「ここが戦場」というよりは、「ここが義元の首が討たれた場所」という意味だと思われますが・・・

・・・で、現在、国指定の史跡とされているのは前者=豊明市の古戦場跡ですが、これは、歴史的に見て可能性が高いという意味での国指定ではなく、この桶狭間の場合は、地元の力の入れ具合による後押しの功績で決まったという経緯があるようで、必ずしも、学術的に確定されているわけではないようです。

一方、後者の緑区のほうは、古くは、田楽廻間(でんがくはざま)と呼ばれていた場所だそうで、ここ最近の時代劇では、奇襲直前の義元の休憩シーンで、「田楽狭間」という字幕スーパーが出される事が多く見られますね。

こちらの緑区のほうには、義元がのどを潤した、あるいは、その首を洗ったと言われる「今川義元公水汲み(首洗い)の泉」なんてのもあるそうです。

Okehazamaitikankeicc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、結局、義元が討たれたのはどっちなんだ?
って事になりますが、

まずは、義元のいた場所・・・

現在のところ、当日は、今は場所が特定できない桶狭間山という山の見晴らしの良い所に、義元が陣取っていたというのが、おおむね一致する専門家の見解で、現在の桶狭間周辺で、一番標高の高い場所=豊明市古戦場の南西700mあたりに標高64.7m三角点があるとの事で、その場所がそうであろうとされています。

ただ、奇襲の仕方自体が複数あるわけですし、もし、奇襲の場所&義元が休憩していた場所が特定できたとしても、襲われた義元が、その場でじっとしていたとは、考え難いわけで・・・

そこで、奇襲された後の義元の行動ですが・・・

『信長公記』によれば、
「東に向かひてかかり給ふ」
とある事から、この日、信長は西側から東に向かって進撃した事になり、そうなる当然、襲われた側は東方向に逃げる事になりますので、豊明市の古戦場跡が有力となります。

しかし、『続明良洪範(めいりょうこうはん)では、
「義元は大高城へ逃げ込もうとしていた」
とあるので、それだと、より大高城に近い方向にある緑区の古戦場跡という事になります。

・・・で、結局、結論を言えば、両方の古戦場を含む広範囲で合戦が展開された事になるので、古戦場跡としては、二つともが正解!

奇襲攻撃に遭った混乱の中なら、当然のごとく、軍勢は態勢を維持できずに、おのおのがそれぞれの場所を目指して逃げようとするので、北東に位置する沓掛城を目指した者たちがたどったのが、豊明市の古戦場あたり・・・

そして、大高城か鳴海城を目指した者たちが向かったのが緑区の古戦場・・・義元が向かったのもそのどっちか???という事になります。

組織的な撤退すらできない状況では、散り散りになるのがあたりまえなのです。

・・・って事で、結局、特定できないじゃないか!
と、怒り心頭の方もおられましょうが、それこそが歴史という物だと思います。

今すぐ明確な答えが欲しいなら数学をやりましょうo(*^▽^*)o
歴史に限らず、科学でも政治経済でも・・・明確な答えがない「謎」の部分がたくさんあるのが現実です。

二つの古戦場に代表される「謎」の提示は、大好きなドラマの予告編・・・この先、どんな展開になるのか、ドキドキワクワクしながら、そして、自分なりの答えを考えるステキな時間なのです。

大いに、いろんな妄想を膨らませようではありませんか?
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2011年5月18日 (水)

設楽原で準備万端…どうする?勝頼at長篠の合戦

 

天正三年(1575年)5月18日、三河長篠城救援のため、織田信長・徳川家康連合軍約3万が設楽原に到着しました。

・・・・・・・・・・・

もとより作手(つくで・愛知県新城市)に本拠を置く奥平家は、大国に囲まれた弱小豪族の常として、今川松平武田と、その都度、主筋をめまぐるしく変えながら生き残っておりました。

そんな奥平家・・・武田信玄が亡くなってからは徳川家康に近づき、天正三年の春には、作手城主・奥平貞能(おくだいらさだよし)の嫡男・貞昌(信昌)と家康の長女・亀姫(盛徳院)との結婚が決まり、事実上の徳川方となります。

一方、亡き信玄の後を継いで武田の当主となった武田勝頼(かつより)は、天正二年(1574年)6月に、父でも落とせなかった高天神城を落として絶好調(5月12日参照>>)・・・翌・天正三年3月には、その勢いのまま、1万5000と言われる大軍を率いて南下して、奥三河(愛知県北東部)に侵入します。

そんな勝頼にとって、三河を攻める重要な位置にあるのが、その三河の北部に位置するこの長篠城・・・ここを、守っていたのが、家康の娘婿に決まったばかりの奥平貞昌だったのです。

ただし、城兵は、わずか500ほど・・・そんな長篠城を武田の大軍が囲んだのは、4月21日の事でした(4月21日参照>>)

その後、5月8日には、本格的な城攻めが開始されますが、家康とて、この時に単独で出せる援軍は、わずかに数千程度・・・さらに援軍を出して長篠城を救うには、家康と同盟関係にある織田信長に頼むしかないわけですが、そんな信長は、現在、畿内の敵対勢力でめいっぱいの状況で、現に、この直前までは、摂津(大阪府北部)の陣中にいました。

しかし、さすがは信長・・・家康から勝頼南下の動きを聞いた事で、最小限の守りを残し、すばやく大阪を引き払い、すでに4月28日には岐阜に戻って、細川藤孝(幽斎)筒井順慶など、信長傘下の武将に出陣を要請するとともに、武器弾薬の提供を呼び掛けていたのです。

一方の長篠・・・命賭けて踏ん張る貞昌は、なかなかよく戦います。

なんせ、武田の傘下から徳川に乗り換えたのですから、もし、開城となれば、一族郎党、命はありませんから、籠城の持久戦に持ち込んで、何とか活路を見い出そうと奮戦に継ぐ奮戦を重ねておりました。

ところが、5月13日・・・兵糧蔵のあった曲輪(くるわ・堀と堀の間に広場)を突破されてしまいます。

もはや、兵糧は、現在身近に確保したぶんだけ・・・先は見えてしまいました。

一方、岐阜にて態勢を整えた信長・・・この同じ5月13日、総勢3万と言われる大軍を率いて岐阜を出陣・・・その日のうちに、あの桶狭間の直前にも必勝祈願した熱田神宮に立ち寄った後、一路、家康の待つ岡崎へと向かいます。

翌・14日・・・いよいよ危なくなった長篠城の状況を家康に知らせるべく、長篠城から伝令が放たれます。

これが、以前書かせていただいた鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)・・・翌・15日、家康のもとに到着した彼が見た物は、まさに、その前日の14日、嫡男・信忠ともども、家康と合流したばかりの信長の姿だったのです(5月16日参照>>)

その強右衛門の報告により、もはや一刻の猶予もない事を知った信長&家康は、5月17日に岡崎を進発・・・一路、決戦の場へと向かいます。

一方の武田軍・・・先の強右衛門の捕獲により、信長がすでに近くにいる事は承知・・・このまま、信長の大軍に逆包囲をされてしまっては、コチラが劣勢となってしまいます。

包囲を緩めて来たる敵に先制攻撃をかけるか?
包囲を解いたまま、一旦引きあげるか?

決断が迫られる中の天正三年(1575年)5月18日、織田&徳川連合軍は、長篠城の1里(4km)手前・・・設楽原(したらがはら)に到着したのです。

すぐにでも逆包囲か?
・・・と、思いきや、連合軍は、その設楽原で小休止・・・

実は、家康と合流直後の14日に開いた軍議の時点で、信長の方針はすでに決定していたのです。

それは、長篠城を逆包囲するのではなく、手前の設楽原に多数の城柵・馬防柵を築き、そこに武田軍をおびき寄せて戦う事・・・

「味方を一人も失う事なく、敵を全滅させる」・・・これが、信長の当初からの揺るぎない方針だったわけですが、実は、この事が、この長篠の戦いでも、最も重要な部分なのです。

Nagasinokassenzubyoubu500 長篠合戦図屏風(犬山城白帝文庫蔵)

以前も書かせていただき、また、教科書等にもあるように、この長篠合戦図屏風より受けるイメージから、これまでは、信長の鉄砲3段撃ちによって武田の騎馬軍団がバッタバッタと倒されるといった、信長大勝利の感の強かった長篠の戦いですが、どうやら、そうではないのではないか?というのが、ここ最近の見方となっているのは、皆さま、ご存じの通り・・・

鉄砲撃ちまくったというワリには、実際に、ここ設楽原で見つかっている弾の数が非常に少ない事、合戦が終焉を迎えるまで8~9時間もかかった事・・・第一、3段撃ちできるほどの=3000挺もの鉄砲が、信長に確保できたのかという様々な疑問・・・

って事で、従来の長篠の戦いのイメージが崩れつつあるわけですが、そうなると、最も勝敗を分けたのが、この事前の城柵の構築だったという事になります。

設楽原に到着後まもなく、その信長の計画通りに、柵や土塁の構築に取り掛かる連合軍・・・

ここ設楽原は、原っぱと言っても、ただ、広~い原野というのではなく、いくつもの細い川が縦断する湿地帯で、ところどころ起伏のある丘陵にもなっていましたから、それらの地形を利用して、連吾(れんご)の手前に馬防柵を3重・・・その後ろに空堀や土塁を築き、さらに背後に起伏を活かした切崖を設け・・・と言った具合。

それは、まるで原っぱの半分が城になったかような様相だったと言います。

さらに、もう一つ重要な事があります。

そう、このまま武田軍が、城を包囲したまま、あるいは、軍を退いてしまってはもともこもない・・・何とか、ここ設楽原に出張って来てくれなければ、どうにもなりません。

そこで、信長・・・
「自軍の準備が未だ整っていない」
「兵は疲れていてヤル気なし!」
「ヤル気あったって、もともと信長兵は弱いんだヨ」

てな、信長軍に対するマイナスな噂を流すのです。

これには、家臣の佐久間信盛が、武田方に寝返ったフリをして、その噂を流したなんて言われていますが・・・

信盛の関与があったかなかったかは微妙ですが、この時に、家臣に宛てた勝頼の手紙は現存するそうで、そこに
「士気が低くてヤル気のない信長軍」
と書いている事から、勝頼が、信長軍を、そのように思っていた事は確かなようです。

そして、これだけではなく、さらに、もう一つ・・・
信長は、勝頼を設楽原へおびき出すための作戦を決行するのですが、そのお話は、それが決行される5月20日のページへどうぞ参照>>
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2011年5月17日 (火)

アンケート企画:「あなたが見たい歴史上の名場面は?」の結果発表

 
今回のアンケート
「あなたが見たい歴史上の名場面は?」
の投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)o

個人的には、おそらく、沢山の「その他」の意見が寄せられる物と予想しておりましたが、案の定、第1位は「その他」でした!!

しかしまぁ、その他が多いという事は、同時に楽しいコメントも多くいただいたわけで、いつものように様々なご意見を、とても楽しく拝見させていただきました。

それと同時に、私と意見を同じくしてくださる方も多数おられ、何たって「投票=0」の項目が無かったって事がうれしかったです。

ではでは、
そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位 その他:37票
予想通り沢山の意見が出ましたね~大変興味深いです~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
2位 関ヶ原の合戦を松尾山から…:16票
やっぱ天下分け目ですからね~堂々の2位ですね
3位 信玄と謙信の一騎打ちを妻女山の上から…:15票
ドラマチックという点では戦国一の合戦かも…
4位 信長の御馬揃えを東門の築地で…:9票
やっぱ豪華…それに、なんたって刃傷沙汰じゃない所が安心して見ていられますから…
5位 西郷隆盛と勝海舟の会談を薩摩藩邸の床下から…:8票
まさに時代の転換期を目の当たりにできる所が魅力でしょう
6位 聖徳太子が10人の話を同時に聞くところを、その真ん中で…:5票
意外?に5票…個人的にはもっと少ないと予想してましたが、なかなかの人気ですね~
6位 第二次長州征伐・小倉口の戦いを龍馬の横で…:5票
高杉さんも同時にいるって所が魅力でしたが、まぁまぁの6位でした
8位 源義経の八艘飛びを9艘めの舟から…:3票
臨場感あふれる感じで見てみたい名場面ですね
9位 大仏開眼供養を最前列で…:2票う~~ん…2票だったか~何となく格式ばった雰囲気が予想されるので敬遠されたかな?
10位 静御前の舞いを頼朝の横で…:1票
天下の白拍子も平成の世ではチケット完売は難しいか??
10位 応仁の乱後に再興された祇園祭を特等席で…:1票
祭りがおこなわれる…という環境が、やっぱ平和の象徴ですからね~
10位 井原西鶴のギネスに挑戦!を審査員席で…(ヘッドホンつき):1票
審査員というよりは見届け人って感じですが、やはり一晩寝ずに付き合うのは難しいかな?

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

長州征伐・小倉口の戦い 龍馬としんしゃくさんに愛されたい・・・(あっ、ちゃうか。この、不届き者!^^;) (女性/40代/奈良)
「やっぱ、二人の間に立ちたいですよね~」
信長の御馬揃えを… やっぱり信長の全盛期を特等席で観れたら最高です! (男性/30代/埼玉)
「豪華絢爛!戦国絵巻ですもんね~」
長州征伐・小倉口の戦い 両親の先祖が当時敵味方で戦っていたので興味在り。 (男性/70代/福岡)
「どっちを応援するか???子供としては迷いますなぁ~」
その他 太平洋戦争時のシーンが見たいです (男性/30代/東京)
「どのあたりが良いですか?ワタクシ個人的には南方系の場所で…」
その他 秀吉の大返しをヘリコプターで追跡 (男性/40代/愛知)
「コレはいい!確かに、最初から最後までをヘリで追いかけてみたいですね~」
源義経の八艘飛び 戦さというものにまだある種の美学があった時代の戦いを見てみたい。 (男性/50代/大分)
「堂々と名乗りながら…ってあたりを見てみたいです~」
その他 長篠の合戦を全体がよく見えるところから (男性/60代/東京)
「…って事は、長篠城内の高台がベストですかな?」
その他 上杉景勝のペットのお猿が景勝の物まねしてる場面。景勝の笑顔も猿の物まねショーも見てみたい。 (女性/20代/岐阜)
「ついつい、天地人の北村さんを想像…」
関ヶ原の合戦 天下分け目大戦 恐怖心で心臓が飛び出るかも (男性/60代/神奈川)
「私も…あえて、ちょっと遠目からの見物にさせていただきます」
関ヶ原の合戦 島津の退き口を見てみたい! (男性/30代/大阪)
「敵中突破は、やはり名場面ですからね~」
その他 乙巳の変を宮中の殿上で (男性/30代/東京)
「やはり、皇極天皇の立ち位置がベストポジションでしょうか…」
その他 秀吉と一緒に醍醐の花見、数多いる側室方と供に招待客の一人として。 (女性/40代/新潟)
「私も…花見そっちのけで側室同志の順番の取り合いを見てみたいです~」
その他 日本海海戦、一日目を旗艦三笠艦上から見たい。
「三笠からですか…確かに、そこが最高の場所かも知れませんですね~」
信玄と謙信の一騎打ち 北方の守護神、毘沙門天の化身といわれた私の理想の人物「謙信公」をこの目で見てみたいものです!三郎ヱ門 (男性/50代/山口)
「やっぱ、謙信公メインですか…颯爽とした感じを見てみたいですね!」
関ヶ原の合戦 島津の退き口を是非見たい。 (男性/40代/大阪)
「やはり、島津の退き口…関ヶ原ではココが、一番の名場面でしょうかね」
その他 真田親子が西と東に別れる時の話し合い (女性/30代/東京)
「殴り合いか?冷静か?…ひょっとしてフタマタかける相談だったら意外に地味かも…」
その他 日本最初の鉄道の開業式典。新橋駅で。 (男性/20代/千葉)
「おお…これは見てみたいですね~式典の華麗さもさる事ながら、人々の反応も見てみたい~」
信長の御馬揃え 信長のファッションセンスを見てみたい!明智 光秀や織田 有楽斎もこの目で見たいです。 (男性/30代/福井)
「やはりファッションですね~梅の花を刺してる粋なところをメインに…」
その他 清水宗治の切腹。信長死亡を教えてあげたい。
「…って事は切腹を中断させるという事ですか?一つ前の“一つだけ関与できるとしたら?”のアンケートに出てきそうです」
その他 「那須与一の扇の的」です。平家方の船からズバッとなるところみを見てみたい!! (女性/10代/山口)
「やっぱ“かぶらは海へ入りければ、扇が空へぞ上りける”という描写の部分…私も船ばたを叩いてどよめきたい!」
その他 世界三大美女を見てみたい、ということで日本史限定で歌会に参加する小野小町を見る、です (男性/40代/東京)
「美女は良いですな~~満開の桜の下で曲水の宴に興じるところを見てみたい!」
その他 函館の土方歳三…
「最後の勇姿を…これはこれで山本君の姿を想像してしまう大河好きな私…」
その他 西南戦争を茂みから~ 日本人同士の最後の内戦だからです。茂みやばいかな・・( ̄o ̄;)ボソッ (男性/30代/兵庫)
「流れ弾が当たりそうです…熊本城の天守からってのはどうです?」
その他 本能寺の変は見てみたい。 (男性/10代/東京)
「信長側(本能寺内)から?それとも明智側(外)から?…悩みますなぁ」
その他 巌流島の決闘。あとミッドウェー海戦も全部見たい (男性)
「小次郎がおじいさんなのか?確かめたいですね~できればイケメンのほうが目の保養になりますが…」
その他 小田原城攻めの後の秀吉さんと正宗さんの丁々発止のやり取りを柱の陰から見たいです (女性/40代/千葉) 
「冷や汗タラタラ…のあのシーンですね。やっぱ、伊達男は白装束で登場!」
その他 桶狭間の遭遇辺りから (男性/30代/千葉)
「雨ニモマケズ…完全防水のカッパ着て、しっかりと見てみたいですね」
関ヶ原の合戦 小早川軍の寝返りの場面、その後の大谷軍の奮戦を間近で見てみたいです。 (男性/20代/滋賀)
「戦況が変わる、その瞬間ですね~」
その他 仇討高田馬場 OK牧場の決闘 吉良邸討ち入り 日本海会戦 (男性/70代) 
「仇討・決闘好き??って事もないですね…いずれも名場面です!」
その他 本能寺の変と坂本竜馬暗殺
「戦国&幕末の最もイイ場面ですね~ドラマで描かれ続けたシーンをヂカで…ですね」
その他 扇の的が射抜かれるシーンを・・・メジャー過ぎますかね (男性/20代/千葉)
「いえいえ…どんな名場面を見てみたいか?ですから、メジャーなシーンで結構ですヨ!春風にひとモミふたモミもまれたいです」
関ヶ原の合戦 私にとってはこれしかないです。 (女性/40代/埼玉)
「やはり、全体を見渡す…って感じですか?」
信長の御馬揃え どれだけ豪華だったのか見てみたいです。 (女性/10代/千葉)
「信長の一世一代の晴れ姿ですもんね~」
その他 これから救国内閣になるので平沼総理の勇姿がみられる。すごく楽しみだ。 
「第35代?それとも赳夫さん?“これから”という事は後者かな?未来というのは考えてなかったです~」
信長の御馬揃え 6が面白そうだけど、朝で霧も深かった気がするからとりあえずこれで (男性/10代/愛媛)
「6番は、やはり霧が晴れるのを待ってから…始まってすぐには一騎打ちになりそうにないですもんね~」
その他 名場面かどうかはわかりませんが吉原での豪遊ぶりてのは一度どんなものか見てみたいです(笑) (男性/30代/和歌山)
「これは、誰しもがやってみたいです~いっその事、紀伊国屋文左衛門のように貸し切りに!」
その他 忠臣蔵の吉良邸討ち入りを見たい (女性/30代/東京)
「時代劇の名場面ですね~そう言えば新井白石も見ていたらしいので、白石に会えるかも…」
その他 広島原爆をT字橋の上から見上げる。 
「これは、見る側も覚悟がいりそうです…私にはそんな勇気はありません(;ω;)
その他 本能寺で信長が最期を迎えるところを見たい。炎の中、舞いを舞ったのか?光秀の表情はどんなか? (女性/40代/東京)
「信長の舞いと光秀の表情…これはカメラが数台いりそうですね~もちろん、光秀のアップ専用のハンディカメラも…」
その他 大政奉還を公家の席から見てみたい (男性/20代/【海外】)
「二条城の大広間か?倒幕の密勅が渡される岩倉邸か?…迷うところですね~」
その他 戦後の闇市、駅前の不法占拠。日本人が何故、黙っているのか。
「戦後のドサクサ…混乱期はいろいろありますからね~」
関ヶ原の合戦 小早川のびびりを見たい (男性/10代/北海道)
「やっぱ、家康に鉄砲を撃ち込まれるトコ???意外と堂々としてるかも…ですよ」
その他 戦後の朝鮮進駐軍の鬼畜蛮行ぶり、チョンの日本人財産乗っ取りを直に見たい。 (女性)
「やはり戦後のドサクサ…混乱期、様々な思いが交錯しますね」
その他 市原悦子と近江屋の押し入れの隙間から、坂本龍馬と中岡慎太郎の命を狙った犯人を見たい! (男性/30代/佐賀)
「間近で血しぶきドバッはコワイので、項目とするのは避けたんですが、怖い物見たさというのもあるわけで…」
信長の御馬揃え 今で言う軍事パレード?恐らく当時世界最強の陸上戦力なので是非この目で見てみたい。 (男性/40代/愛知)
「“世界最強の陸上戦力” 
確かに…秀吉時代もかなりの水準だったようですから、やはり信長さんも…」
その他 卑弥呼が死ぬところがないぞ!
「やはり、大量の桃を用意しておいたほうが良いのでしょうか?」
その他 足利義輝の死ぬ永禄の変と日本で初めて(?)爆死した松永久秀の死にざま。 (男性/20代/東京)
「これは二つとも…間近で見るとトルウマになりそうで怖いヾ(;´Д`A」
その他 キリストの死に際 (男性/10代/東京)
「十字架?それとも3日後に復活した、その後?いずれも神の領域ですね」
長州征伐・小倉口の戦い 龍馬の横<高杉さんの横 (女性/10代/神奈川) 
「高杉メイン…ですね?」
大仏開眼供養 はじめまして(^-^)豪華で凄かったそうですから生で見たいです。奈良県民だからというのもありますが (女性/30代/奈良)
「奈良在住なら、やはり見てみたいですよね~」
関ヶ原の合戦 どうせならヘリで!茶々先生の解説付きが良いですが!(・∀・) (男性/30代/埼玉)
「ちゃんと解説ができるかどうかは微妙ですが、“ヘリで全体を見渡す”というのはイイですね~」
その他 文禄の役と慶長の役。特に島津軍が大勝した泗川の戦いを見たいです。 (男性/20代/東京) 
「秀吉最強軍団ですからね~」
源義経の八艘飛び 義経の八艘飛び&その後ろを追う、平 教経 のセットをカメラで撮ってみたい……(゚▽゚*)(おがぴーさん)「画面を分割してのカメラアングルを活かした感じで…いいですね~」
関ヶ原の合戦 はじめましてーいつも楽しく読ませていただいてます(^-^)
やはり関ヶ原をみてみたいですね。鹿児島出身なので、特に島津軍の敵中突破をみてみたい!
あと選択肢にありませんでしたが、桶狭間…は大雨で観戦厳しいですが、信長の敦盛舞をみてみたいです。後の信長の人生を知って見ると感慨深そうですね(cooさん)
「やはり島津の敵中突破…まさに関ヶ原のクライマックスですね~桶狭間も捨てがたい!」
その他 わたしは池田屋事件を見てみたいです(>_<)
数十人の長州藩のもとに数人で斬り込んだ新撰組…
池田屋の屋根と壁を取り払って真横から見て見たいですね(´`)(★さん)
「“屋根と壁を取り払って真横から”と聞くと全員集合でのドリフの舞台装置を思いだしてしまいましたが、内容はコントではなく、イケメン揃いでカッコ良くですね…“沖田!うしろ!”←だからドリフじゃないって(゚ー゚;」
その他 初めまして。
いつも楽しく拝見させて頂いております。
かなり風変わりではありますが、歴史・オカルト好きで北関東在住の私としては、平将門の首が飛んで行く瞬間を目の前で見てみたいです。( JIЙさん)
「怖い物見たさでウズウズ…“飛ぶ瞬間にはそれはそれは恐ろしいウナリ声をあげた”というので、やはりトラウマになりそうです」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

う~~ん これだから、
歴史の妄想はやめられませんヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2011年5月16日 (月)

銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎

 

明治二年(1869年)5月16日…もしくは17日、幕末の遊撃隊の一員として活躍し、函館戦争で負傷した伊庭八郎が26歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

伊庭八郎秀穎(いばはちろうひでさと)が生まれた伊庭家は、心形刀(しんぎょうとう)の本家・・・その道場・練武館は、幕末江戸四大道場の一つに数えられた名門で、彼はそこの御曹司であり、後継ぎでもありました。

ただ、先代の父・秀業(ひでなり)が亡くなった時点では、当の八郎がまだ幼かったため、一旦は弟子の一人である秀俊が養子となって後を継いでいましたが、いずれは、その秀俊の娘と八郎を結婚させて10代めとし、「その血筋を本家に戻したい」というのが養父となった秀俊の考えでした。

Ibahatirou500 しかし、その思いとはうらはらに、幼い頃の八郎は、剣術よりも漢学蘭学に興味をを持ち、剣術そっちのけで、勉学に励む少年でした。

とは言え、血筋とは大したもので、遅々ながらも剣術修行に励み出した八郎は、またたく間に上達して頭角を現し、いつしか「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」なんて仇名で呼ばれるほどの腕前となるのですが・・・

元治元年(1864年)1月・・・21歳となった八郎は、幕府に大御番衆に登用され、さらに奥詰(おくづめ・将軍の親衛隊)となって、養父の秀俊らとともに京都に向かいました。

その後、江戸に講武所(こうぶしょ・武芸の訓練所)が設置されると、講武所頭取の男谷精一(おだにせいいち)らとともに剣術指導の教授を務めたりもしました。

慶応元年(1865年)閏5月には、今度は、第2次長州征伐にと向かう第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の護衛として、再び上洛しました。

しかし、ご存じのように、家茂は途中で病に倒れ、大坂城にて帰らぬ人となり(7月22日参照>>)、かの第2次長州征伐は、将軍の死とともに休戦となったうえ、緒戦の結果は長州の勝利という形で幕を閉じてしまいます(7月27日参照>>)

この長州という一つの藩が幕府に勝利してしまうという・・・幕府から見れば、アッと驚くあり得ない事態は、ひとえに、あの下関戦争(5月10日参照>>)を経験した長州が、外国から大量の最新兵器を輸入し、その威力を存分に発揮できる精鋭部隊を作り上げた事にありました。

その長州征伐のページでも書かせていただきましたが、悲しいかな幕府側には、未だに300年前の戦国時代の甲冑に身を包み、火縄銃にほら貝で応戦するような時代錯誤な人たちもいた状態だったのです(6月14日【明暗分ける芸州口の戦い】参照>>)

もちろん、それは、その時代錯誤な人たちが300年間サボッてたからではなく、江戸時代を通じて、各藩が将軍家に反発できないよう、武器&防具の開発や使用を制限していた幕府のせい(2009年12月31日参照>>)・・・

さすがの幕府も、そんな事は重々承知・・・「これからは刀より銃砲の時代である」とばかりに、講武所を廃止して陸軍所と改め、近代の軍隊への移行をはかります。

そのために八郎らのような剣客は、遊撃隊(ゆうげきたい)という組織に編入され、慶応三年(1867年)秋・・・彼らは、再び京都に入りました。

こうして、時代は否応なく八郎を呑みこんでいきます。

10月14日:大政奉還(10月14日参照>>)
12月9日:王政復古の大号令(12月9日参照>>)

そして、数々の薩摩のテロ行為に業を煮やした幕府(12月25日参照>>)薩摩討伐の許可を朝廷から得ようと、慶応四年(1868年)の正月早々に京都へ・・・その隊列を京都に入らせまいと立ちはだかる薩摩と長州・・・

これが、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

この日、伏見に布陣・・・剣客・八郎にとっては、まさに初陣、思う存分その剣の腕をふるえる初めての実戦となる戦いでしたが、そのページでも書かせていただいたように、狭い場所での市街戦となってしまったために、剣をふるうどころか、近づこうものなら、またたく間に敵の銃撃を浴びるばかりです。

八郎も、燃え盛る伏見奉行所前で、不覚にも被弾・・・防具のおかげで大けがには至りませんでしたが、吐血して敗退し、淀城へと撤退しますが、ここで、淀城が入城を拒否したため、やむなく、大坂城まで逃げ帰ります。

しかし、ご存じのように、その大坂城では1月6日・・・幕府軍の総大将である徳川慶喜(よしのぶ)が、わずかな側近とともに脱出し(1月6日参照>>)、江戸へと帰ってしまいます。

総大将がいなくなった以上、大坂城は開城となり(1月9日参照>>)、八郎らも、他の幕府軍の同志らとともに江戸へと帰還・・・やがて、錦の御旗を掲げて官軍となった薩長軍は、江戸近くへと進攻し、あの江戸城無血開城へと進んでいき、慶喜は自ら謹慎し、官軍に対して恭順な姿勢をとる事に・・・(1月23日参照>>)

恭順な姿勢を見せて戦争回避・・・これが、将軍=慶喜の、そして幕府の決断だったわけですが、一方では、これまで、将軍のため幕府のために命を捧げて戦って来た者たちにとっては、「はい、そうですか」と、素直に納得できない部分がある事も確か・・・

江戸へと戻った遊撃隊は、慶喜を護衛する名目で、上野寛永寺に駐屯していた彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)に編入されていましたが、やがて4月・・・八郎ら遊撃隊の生き残りたちは、幕府の方針をヨシとせず、任務を放棄して脱走するのです。

八郎が、そんな遊撃隊の同志=人見勝太郎(ひとみかつたろう)とともに向かったのは、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)藩・第3代藩主の林忠崇(はやしただたか)のところでした。

幕府に忠誠を誓う若き名君は、なんと、自ら脱藩して、八郎らの仲間に加わってくれました(1月22日参照>>)

そして、彰義隊と連携しつつ、すでに江戸へと入った新政府軍と、彼らの指揮官がいる京都との連絡を遮断すべく、小田原藩を味方につける彼ら・・・しかし、そんな彼らにニュースが舞い込んで来ます。

そう、かの彰義隊が敗れた上野戦争です(5月15日参照>>)

続く5月23日には、その彰義隊の生き残りを吸収した振武軍(しんぶぐん)飯能戦争で壊滅(5月23日参照>>)・・・

一方、圧力に押されて官軍に寝返った小田原藩によって城下を追い出された八郎ら・・・やむなく、未だ品川沖に停泊中の艦隊を指揮する榎本武揚(えのもとたけあき)に救援を求めるべく、勝太郎が単身で、品川へと向かったのでした。

その勝太郎から、留守を任された八郎でしたが、未だ勝太郎が帰らないうちの5月26日・・・彼らのいる箱根に向かって新政府軍が進攻して来たのです。

なんとか死守すべく、その剣の腕前を発揮して、湯本にて奮戦する八郎でしたが、この箱根戦争片腕を切断するという重傷を負ってしましました(5月27日参照>>)

命だけはとりとめ、熱海にて、ようやく勝太郎と合流できた八郎でしたが、そのケガのため、榎本に預けられる事に・・・

勝太郎をはじめ、残りの遊撃隊の同志たちは、東北にて官軍と戦っていた奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(5月19日参照>>)のもとへと馳せ参じたのでした。

こうして、勝太郎らと別れた八郎・・・横浜でケガの治療を行った後、未だ痛みの残る11月・・・イギリス商船に金を積んで頼み込み、居残っていた同志の本山小太郎とともに北へ・・・

そう、あの榎本が奪取した函館へと向かったのです(10月20日参照>>)

やがて訪れた12月15日には、堂々の独立宣言を果たした蝦夷(えぞ)共和国(12月15日参照>>)・・・

日本で初めての選挙による人事を行った蝦夷共和国で、片腕を失いながらも腕に覚えのある八郎は、歩兵頭並・遊撃隊隊長に任命されます。

しかし、ここも安住の地でないのは、皆さまご存じの通り・・・明治二年(1869年)4月9日、春を待っていた新政府軍が、いよいよ蝦夷地へと上陸します(4月29日参照>>)

この函館戦争・・・4月21日の木古内(きこない)での戦いにて、大鳥圭介率いる旧幕府精鋭部隊の一員として奮戦する八郎でしたが、激戦の中で、不覚にも肩と腹に銃弾をあび、半死半生の状態で五稜郭(ごりょうかく)へと運ばれました。

やがて5月11日・・・新政府軍による函館総攻撃によって、もはや風前の灯となる五稜郭(5月11日参照>>)・・・

その翌日の12日、新政府軍・参謀の黒田清隆(8月23日参照>>)による降伏勧告を受け続けていた榎本が、八郎のもとにやって来ます。

八郎だけではなく、そこに居並ぶ重傷者に向かってモルヒネを手渡すために・・・

かくして、八郎は、そのモルヒネで服毒自殺したとも、総攻撃を受けて没したとも言われます。

よって、そのご命日は、墓碑には5月12日と刻まれながらも、生き残りの証言によっては、明治二年(1869年)5月16日もしくは17日と語られています。

享年26歳・・・

先の4月17日、江差の攻防戦で討死した、かの本山小太郎に対し
♪まてよ君 冥土もともと 思ひしに
  しはしをくる 身こそかなしき ♪

と、「ちょっと遅れるで」と囁いた八郎・・・

悲しくも、この小太郎に対して詠んだ歌が、八郎の辞世となりました。

函館戦争が終結するのは、この2日後・・・5月18日の事でした(5月18日参照>>)
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2011年5月14日 (土)

歯に衣着せぬ康政節…徳川四天王・榊原康政

 

慶長十一年(1606年)5月14日、徳川家康に仕えて、数々の合戦で活躍した榊原康政が、59歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

このブログでも、これまで、なんだかんだとチョコチョコ登場している榊原康政(さかきばらやすまさ)さん・・・

なんせ、徳川四天王十六神将徳川三傑の一人に数えられてる人ですから・・・

Sakakibarayasumasa600 康政の生まれた榊原家は、松平家譜代の家臣・酒井忠尚(ただなお)に仕える・・・いわゆる陪臣(ばいしん=家臣の家臣)でした。

ところが、その松平家の菩提寺・大樹寺(たいじゅじ・愛知県岡崎市)の僧から学問を学んでいた永禄三年(1560年)の13歳の時に、初めて、その寺内にて徳川家康と面会・・・一発で見染められ(そういう事か?(*゚ー゚*))て近臣へとスカウトされます。

その永禄三年と言えば・・・そう、あの桶狭間の戦い(5月19日参照>>)の年ですから、まさに、家康が今川から解放されて岡崎に戻り、「さぁ、今から、やったるでぇ~~」とハリキッていた頃・・・

その3年後には、家康から1字を賜り、康政と名乗って元服し、彼の人生は、まさしく家康とともに歩んで行く事となります。

元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)
元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)
天正三年(1575年)の長篠の戦い(5月21日参照>>)・・・

そして、あの本能寺の変の時も、やはり家康とともにいた康政は、あの決死の伊賀越えにもお供しました(6月4日参照>>)

しかし、なんと言っても、康政さんの人生の中でも、特出して光るのは、その翌々年に、勃発した小牧長久手の戦いでのエピソード・・・

すでにブログでも何度も書かせていただいているように、この小牧長久手の戦いは、織田信長亡き後に、信長の嫡孫・三法師の後見人となって実権を握ろうとする羽柴(豊臣)秀吉と、信長の次男・信雄(のぶお・のぶかつ)に味方した家康とがぶつかった織田家の後継者争い・・・天正十二年(1584年)3月の犬山城攻防戦(3月13日参照>>)を皮切りに、6月の蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)を経て、11月に、家康そっちのけで、信雄が、秀吉と単独講和してしまう(11月16日参照>>)までの期間に行われた複数の戦いです。

その一連の戦いの中でも最も山場となった長久手の戦い(4月9日参照>>)・・・この時も、家康に従って井伊直政とともに大暴れした康政は、あの池田恒興(つねおき)父子を討ち取るという功名を挙げますが、有名なエピソードはこのあと・・・

この勢いを利用して、敵の士気を砕こうと、秀吉がいる楽田(がくでん)の本営の敵方の諸将に対して、自らしたためた手紙をご披露するのです。

「信長公が死にはった途端に、その恩を忘れくさった秀吉は、今がチャンスやとばかりに、三男の信孝はんを滅ぼして(5月2日参照>>)、今度は、信雄はんと戦うてか…大逆無道とはこのこっちゃ!
我が家康公は、信長公の事を思いつつ、勝ち負けを度外視して兵力の少ない信雄はんを手助けする正義の味方…月に代わってお仕置きヨ!
て頑張ってる中で秀吉に味方する事は、あんさん…末代までの汚名になりまっせ~~
さぁさぁ、正義あるこっち側に寝返って、逆賊秀吉を討ち倒し、領民の笑顔を取り戻そうやないか~~い」

もちろん、この手紙に激怒した秀吉は、この康政の首一つに10万石の領地という賞金を提示したのだとか・・・

まぁ、勝者の言い分なんで、どこまでアレかはわかりませんが、この歯に衣着せぬ言い回しは実にオモシロイ・・・しかも、この話には後日談が・・・

今回の小牧長久手の戦いが講和になった後、つい先日書かせていただいたように、秀吉は、なんとか家康を臣下に治めようと、妹の(朝日)を、家康の正室に差し出そうとすわけですが(4月28日参照>>)その交渉相手に秀吉が指名したのが、この康政だったのです。

まさか・・・アノ事、まだ怒ってはりますのん???ヽ(;´Д`ヽ)

当然、手紙の文面を思いだしながらも、ご指名とあらば致しかたなく・・・恐る恐る会見へと挑む康政・・・

すると、秀吉は・・・
「アノ時は、こんな憎たらしいヤツはおらん!と思て、ひと目その首を見たいもんやと考えとったけど、こうして和睦してもて、落ちついて考えたら、そもそも、おまはんの行為は家康への忠義からやった事・・・むしろ、ええこっちゃないかい。
実はな、この事を直接伝えたかったから、おまはんを使者に指名したんやで~
そやそや、官位の準備もしてるねん」

と、なんと、式部大輔(しきぶだいふ)に任じたのだとか・・・

いやはや、先日の本多忠勝の話(4月9日参照>>)といい・・・なんかイイ話ですね~

その後も、あの小田原城攻めの時も、家康の一ノ戦備七手(9月8日参照>>)の一人として先鋒を任され、大いに活躍する康政でしたが、そんな彼に陰りが見え始めたのが、あの関ヶ原・・・

この時、徳川四天王と呼ばれたうちの酒井忠次はすでに病没(10月28日参照>>)・・・残る3人の中で、先の本多忠勝と井伊直政は、ともに現地=関ヶ原で大活躍しました(9月16日参照>>)、彼=康政は・・・

そう、実は、彼は、この時、家康とともにではなく、その息子・秀忠とともに中山道を進んでいたのです。

ご存じのように、コチラは38000という東軍の一番の大軍なれど、途中にあった真田昌幸幸村(信繁父子の籠る上田城の攻撃に手間取り(9月7日参照>>)、結局は、関ヶ原の本チャンに間に合わなかったという大失態を犯してしまいます。

関ヶ原で奮戦した忠勝&直政と間に合わなかった康政・・・とは言え、その数からいけば、本来は、この秀忠軍が、関ヶ原の合戦における東軍の本隊だったわけで、もし、まに合っていれば、相当な武功を挙げる事ができたでしょうから、これは、彼ら四天王にとっては、運命と言わざるをえません。

とにかく、大遅刻した息子に激怒して、秀忠に会おうとしない家康・・・しかし、これをなだめすかしたのも康政でした。

しかも、その言い分は「家康にも責任がある!」という、またまた歯に衣着せぬ康政節・・・

確かに、上田城の真田を攻略できずに手間取った事の責任は大きいが、城攻め自体は、もともと家康も承認済みの作戦であるのだから、なぜ、我々が到着するまで、関ヶ原で待てなかったのか?
関ヶ原の合戦までの15日間・・・この間の連絡は遅かったし、そもそも、出発時に父子で石田三成を討とうという約束はなかった。
到着を待ってから合戦に挑んでも、充分に三成は討てたはず
・・・と言うのです。

しかも、
「この事で、秀忠さんを廃嫡(はいちゃく・後継ぎでなくす)なんぞしてみなはれ…そんな事も見通されへんかったんかと、家康さんまで、笑われる事になりまっせ」
と・・・

この言葉に動かされた家康は、合戦の10日後になって、ようやく秀忠と面会したと言います。

とは言え、この関ヶ原で功績が無かった事、そして、これ以降は、どこの家中でもそうであるように、合戦で活躍する武闘派の家臣よりも、財政や政治に長けた官僚的な武将が重用されるようになっていった事で、康政の活躍の場は、徐々になくなってしまうのです。

一説には、先の関ヶ原後の康政の意見に感動した家康から、水戸25万石に加増転封の話もあったという事ですが、
「武功が無かったのにいただけません」
と、康政が固辞したという話もあります。

まさに、康政らしい・・・
やはり、彼は戦国の世の人・・・

戦場でこそ、その腕を奮える事を喜び、戦場で生きる事を誇りとした人なのかも知れません。

かくして慶長十一年(1606年)5月14日上野館林城(たてばやしじょう・群馬県館林市)にて59歳の生涯を閉じました。
 .

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2011年5月13日 (金)

ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略

 

応永八年(1401年)5月13日、室町幕府第3代将軍・足利義滿が遣明使を派遣・・・これが日明貿易の発端となりました。

・・・・・・・・・・・

日本が、南北朝の動乱(10月27日参照>>)でワチャワチャしてる頃・・・お隣の大国でも大きな変動がありました。

時は正平二十三年・応安元年(1368年)・・・まさに、足利義満(よしみつ)が室町幕府の第3代・将軍に就任した年。

海の向こうの中国では、(げん)の皇帝が北へと追われ、朱元璋(しゅげんしょう)が現在の南京あたりで、洪武帝(こうぶてい)として即位して、中国は明(みん)となったのです。

・・・で、早速彼らは、中国古来のしきたり通り、周辺諸国に使者を送り、建国の報告とともに貢物を出して、その傘下に入る事を要求します。

もちろん、その使者は日本にも来ました。

と言っても、日本は、あの蒙古襲来(10月5日参照>>)のドタバタ以来、中国とは絶交状態・・・さすがに、向こうもよくわかってなかったんでしょうね~

その明の使者は九州大宰府に上陸し、その地の実力者を国王とみなして、彼に国書を届けます。

その人が、あの後醍醐(ごだいご)天皇の息子=懐良(かねなが・かねよし)親王(3月27日参照>>)・・・そう、南朝側の人です。

すでに、この頃は、中央での南朝勢力は、ほぼ衰退していて、北朝である室町幕府は九州探題を派遣したりなんぞしてましたが、なかなか制圧する事ができていなかった状態・・・(8月6日参照>>)

つまり、幕府から見れば、反政府勢力に明の国書が届けられ、しかも「日本国王良懐」(明の記録で名前が反対になってしまってるのは間違えたのか?)と、懐良親王を国王と認めちゃった事になります。

これを知った義満は、急いで、征夷大将軍・足利義満として使者を派遣しますが、時、すでに遅し・・・義満の使者は2度訪問するも、2度とも門前払いで、入国すらさせてもらえませんでした。

しかし、義満、慌てず騒がず・・・元中九年・明徳三年(1392年)10月に南北朝の合一を成し遂げ(10月5日参照>>)た後、私的に貿易を行っていた西国の雄=大内義弘を討ち破って(12月21日参照>>)、晴れて堂々と、日本国の代表として外国との交易に乗り出すのです。

応永八年(1401年)5月13日・・・義満は、僧・祖阿(そあ)正使に、博多の商人・肥富(こいずみ)副使とする遣明使節を派遣します。

この時、明の恵帝に送った国書は
「日本准三宮道義国書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」
という、思いっきりへりくだった書き出しで始まる物で、とにかく「好みを通じたい」というゴマスリスリ丸出しの内容・・・

翌年に明の使者をともなって日本に戻ってきた遣明使節が携えた明帝の返書には「日本国王源道義」とあり、義満を日本の代表として認めた事と、明と日本が、名目上の君臣体制になった事を承認する内容が書かれてありました。

さらに、その翌年の応永十年(1403年)には、新しく即位した永楽帝へ、堂々「日本国王」の名で、お祝いの使者を派遣してます。

っと、ここまでへりくだってゴマすりまくって、義満が欲しかったものは・・・そう、勘合符です。

おかげで、義満の態度にご機嫌が良くなった永楽帝は、義満に明の冠服や金印を贈るとともに、100通の勘合符を発行して、10年に一度の朝貢を承認したのです。

勘合符とは、
明の皇帝1代ごとに発行される通行船の許可証で、これを持っている船だけが、正式な朝貢船として明と交易する事でできるという物です。

「10年に一度の朝貢を承認」って、ヘコヘコしてまで貢物を要求されて、何、喜んどんじゃぁ!!!ヽ( )`ε´( )ノ
と思ってしまいますよね。

なんせ、あの元寇の時には、命かけて彼の国から、この日本を守ったのですから・・・なんで、今頃、こっちから望んで貢物渡しにいかにゃならんのだ!と・・・

実は、この朝貢の制度・・・いわゆるお祝いの倍返しといっしょで、目上の人が目下の人から貰った場合は、貰った以上の物をお返しするのがしきたり・・・

一度の朝貢では、持って行った以上の賜物が返って来るのが常識なので、それだけでも「儲け物」なのですが、さらに、1度に船で運ぶ品物は、その朝貢の品だけではなく、他にも大量の品物を乗せて出航し、それらを現地で売りさばく事ができるのです。

しかも、その同じ船で運ばれる品物は、たとえ向こうで売りさばく予定でも、十把ひとからげで、全部が貢物と判定されるため、関税がかからないのです。

もちろん、帰りの船には、大陸からの輸入品満載!!・・・もう、ウホウホの儲け話です。

さらに、まだオマケが・・・というより、義満にとっては、これが一番のウホウホかも・・・

それは、皇帝からのお返しの賜物のほとんどが、中国の銅銭だった事・・・

当時の日本は、国家による貨幣の鋳造はしておらず、この中国の銅銭が正式な通貨・・・これを、輸入できるのが、将軍=義満だけという事になりますから、ズバリ!幕府だけが通貨の発行権を独占できるという事になるわけですね。

Dscn1990a800 儲けたぶんで建てちゃいました…いや、その前に建てとるな

あまりの隆盛ぶりに、義満は天皇にとって代わろうとしていたのでは?(8月22日参照>>)という噂もチラホラありますが、果たして・・・
 

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2011年5月12日 (木)

三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後

 

慶長五年(1600年)5月12日、徳川家康が漂着したリーフデ号の乗員ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンを大坂城に招いて会見しました。

・・・・・・・・・・・

その2年前にオランダを出航した東インド会社の船・5隻が暴風雨に襲われ、そのうちの1隻・リーフデ号豊後(大分県)漂着したのは、慶長五年(1600年)3月16日の事でした。

船内でまん延した病気や遭難のあれこれによって、出向時には110人いた乗組員も、すでに24人にまで減っていたという極限状態のリーフデ号・・・

慶長五年(1600年)5月12日・・・すでに倒れてしまった船長に代わって大坂城にやって来たのが、イギリス人航海師のウイリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンの二人でした。

そう、慶長五年(1600年)5月と言えば、まさにあの関ヶ原直前・・・4月1日には、会津(福島県)上杉景勝(かげかつ)が家康の上洛要請を拒否し(4月1日参照>>)、その半月後には、上杉家の執政・直江兼続(かねつぐ)が、ウソかマコトか「ケンカ売っとんのか!」的な『直江状』を送って、家康を挑発しております(4月14日参照>>)

・・・と言っても、ご存じのように、この時に政権を握っていたのは、大坂城豊臣秀頼・・・イエズス会の宣教師などが、彼らを危険人物として「処刑するように」などと進言していた事もあって、所持していた武器・弾薬などを押収し、一旦は、乗組員たちを投獄したりするのですが、「とりあえずは話を聞こう」という事で、五大老を代表して、家康が彼らに会う事になったわけです。

それまで、宣教師たちのフレコミによって、彼らを海賊だと思っていた家康・・・しかし、実際に会ってみると、アダムスは天文学や造船にくわしい航海師だし、ヨーステンも外国事情にくわしいなかなかの人物・・・

彼らの話す西洋の事情や、これまで聞いたことも無い知識の数々に興味を持った家康は、何度も彼らを大坂城に呼んで、その話を聞いたと言います。

そんな、度々の会見で、彼らの事が気に入った家康は、自らの領地=江戸へと招きます。

Williamadams400 特に家康が気に入ったのはアダムス・・・

彼の持つ数学や航海術、造船などの知識を、家臣たちに教えてくれるように頼んだり、外国使節との対面の時には通訳を任せて、時には、外交交渉に関して、彼に意見を求める事もあるほど重要視しました。

とは言え、アダムスにとって、日本はたまたま漂着した外国・・・故郷には、愛する妻も子供もいるわけですので、ここに長くいるつもりはありませんから、おりを見ては帰国の願いを出したりしますが、その度に家康は給料アップを提示して引き留めました。

しかし、そんな彼に帰国のチャンスがやって来ます。

慶長十八年(1613年)・・・「何とか帰国したい」と、オランダ東インド会社を通じて祖国に送ってた手紙が届き、イギリス国王・ジェームズ1世の親書を携えた東インド会社の船団が、長崎の平戸に到着したのです。

さすがに今回はイギリス国王の口添えつきですから、家康も、泣く泣くアダムスの帰国を承諾・・・これでやっと、晴れて故郷に・・・

と、思いきや、なぜか、彼は、せっかくのチャンスを断わり、東インド会社の社員となって、ここ日本で貿易に従事する事を選んだのです。

実は、この時のアダムスさん・・・すでに三浦半島に250石の領地を持つ旗本として取り立てられ、その名も三浦按針(あんじん・羅針盤を使う人の意味)と名乗り、お雪という日本人妻との間に二人の子供ももうけておりました。

それと、もう一つ・・・上記のように、日本ではかなりの重要人物として扱われていましたが、故郷に帰れば、彼は、たたの一船員・・・

故郷に帰りたいけど、今の地位も捨てがたい・・・まして、こっちにも愛する妻と子ができちゃった・・・

一説には、この時迎えに来た船の船長と商談でモメた・・・なんて話もありますが、とにもかくにも、気持ちが揺れ動く中で、彼は、三浦按針として日本に永住する事を決意したのです。

その決意通り、平戸にイギリス商館を設立するなど、外交での大きな役割を果たすわけですが、そんな良い日々は長く続きませんでした

そう、元和二年(1616年)4月17日の家康の死ととともに、彼の運命も尽きてしまうのです。

2代将軍=徳川秀忠は、家康ほどアダムスを重要視する事はありませんでした。

しかも、世は鎖国へと突入・・・幕府の方針で外国との貿易が制限されてしまい、アダムスは貿易の仕事に従事する事はできなくなりました。

残る天文学の知識で、かろうじて、その地位を維持するアダムスですが、鎖国の中の外国人として警戒の目が向く事もしばしば・・・

やがて、平戸でマラリアに感染したアダムスは、元和六年(1620年)4月26日・・・失意のうちに、57歳の生涯を閉じました。

ところで、アダムスとともに家康に謁見した、もう一人のヨーステンさん・・・

以前、リーフデ号が漂着した3月16日の日づけで、その名を後世に残した事を書かせていただきました・・・よろしければコチラからどうぞ>>
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2011年5月11日 (水)

半平太さま命!人斬りに徹した岡田以蔵

 

慶応元年(1865年)5月11日、幕末に「人斬り」として恐れられた土佐勤王党岡田以蔵が処刑されました。

・・・・・・・・・

尊王攘夷佐幕かと揺れ動いた幕末・・・天誅(てんちゅう=神からの懲罰)の名のもとに多くの暗殺が行われ、世に「人斬り」と呼ばれる人たちが何人が登場するわけですが、その中でも四大人斬りと言われたのが・・・

佐久間象山(さくましょうざん)を暗殺したとされる河上彦斎(げんさい)(12月4日参照>>)・・・
佐幕派の赤松小三郎を斬ったとされる西郷隆盛の右腕・中村半次郎こと桐野利秋(9月24日参照>>)・・・
島田左近本間誠一郎を暗殺したという田中新兵衛(5月26日参照>>)・・・

そして、今回の岡田以蔵(いぞう)・・・

とは言え、もともと人斬りなんてものは個人名は伏せてやる物ですから、結果的に未解決事件となる事も多いわけで、この4人の中でも、彦斎と半次郎は上記に名を挙げた人物一人を斬っただけだと言われますし、新兵衛も上記の2名以外は関与したかも・・・という感じで、確実に関与しているかどうかというのはわからないわけです。

以蔵の場合は・・・
新兵衛とともに敵か味方かはっきりしないチャラ男の本間誠一郎を斬ったのをはじめ、

土佐勤王党が関与していたとされる吉田東洋(とうよう)殺害事件を捜査していた井上佐市郎(さちろう)
安政の大獄の際に島田左近とともに志士の弾圧を行ったとされる宇郷重国(しげくに)
その配下の渡辺金三郎(きんざぶろう)森孫六(まごろく)大河原重蔵(おおがわらじゅうぞう)上田助之丞(すけのじょう)の4人の与力、
彼らの手下となって働いた(ましら)の文吉
志士弾圧の協力者=賀川肇(かがわはじめ)
井伊直弼(なおすけ)の女スパイとして働いたとされる村山たか(10月7日参照>>)の息子=多田帯刀(たてわき)
安政の大獄でペラペラと自白した(彼らから見て)裏切り者の池内大学(だいがく)・・・

これらを殺害した他に、ワイロや横領で評判の悪かった元商人の平野屋寿三郎(じゅさぶろう)煎餅屋半兵衛生き晒し(裸にして縛りつけたりして辱めを受けさせる)にしたと・・・

合計13名、9件の事件に関与したと言われますが、その多くが謎です。

そもそもは土佐(高知県)郷士の家に生まれ、地元の武市半平太(たけちはんぺいた・瑞山)の道場で小野派一刀流を学んだ事から、半平太を師とあおぎ、ともに江戸に出て剣術修行するほか、半平太が立ちあげた土佐勤王党にも参加・・・彼の手足となって働く事になる以蔵・・・。

その半平太の目指していた事については、昨年のこの日に書かせていただいた【土佐勤皇党・武市半平太~切腹す】>>のページを見ていただくとありがたいのですが、とにかく、以蔵は、土佐藩の実力者=吉田東洋の暗殺を土佐勤王党の仕業との疑いを持って捜査をしていた井上佐市郎を皮切りに、その後、半平太の指示により、その影の部分=手を汚す事を一手に引き受けたという感じです。

昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で以蔵役だった佐藤健くんが、崇拝する半平太の指示を、疑う事なくただひたすら遂行する事で、純粋で一所懸命な青年が、人斬りに転じていく姿を見事に演じてくれたおかがで、そのファンが急増したのも、記憶に新しいところです。

ただ、ドラマでは本人たちが思いっきり自白しまくり(挙句の果てに龍馬まで自白)だったあの吉田東洋の暗殺ですが、実際には、半平太は最後まで自白せず、本当に土佐勤王党の仕業で半平太の指示だったかどうかは不明です。

また、ドラマでは、この事件がかなり重要視され、あたかも、この暗殺の犯人として半平太以下土佐勤王党が死罪や切腹になったかと思わせるような描き方になってましたが、彼らの一番の罪は、あくまで、上司(藩の方針)に反発した事・・・。

あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央から攘夷派が一掃されて時勢が変わったにも関わらず、半平太は、その強硬な勤王姿勢を変えなかったわけで・・・ただ、この時に、反発する土佐勤王党を弾圧した山内容堂(6月21日参照>>)も、時期がくれば体制を変え、結局は、薩長土肥=雄藩の一員に転じるわけですから、まさに、土佐勤王党の存在は、その時勢に合わなかったというところでしょうか。

いち時は、あの坂本龍馬の紹介で勝海舟(かつかいしゅう)SPとして雇われ、半平太と距離を置いた感がする以蔵・・・しかし結局は、その半平太のしがらみから逃れきれなかったのです。

文久三年(1863年)5月・・・あの田中新兵衛が、尊攘派の公家=姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺の犯人として捕えられて自害する(再び5月26日参照>>)と、以蔵にも疑いの目が向けられ、翌年には無宿者として捕えられ京洛追放の処分に・・・そこを土佐藩に捕えられて故郷に護送された後、厳しい拷問を受けて一連の暗殺を自白したと言います。

以蔵が捕まった事をを知った半平太が「あんな安方(アホウ)は早く死んでくれればいいのに…」と手紙に書いた事で、半平太が牢役人に頼んで以蔵に毒を盛り、それを知った以蔵が、どんどん自白した・・・なんて事も囁かれていますが、実際には以蔵に毒を盛ったという記録はなく、逆に半平太は、自らの弟の田内衛吉(たのうちえきち)など、すでに投獄されていた他の同志たちに服毒自殺を勧めていたという事はあるそうで、実際に衛吉は毒を飲んで亡くなっています。

と言っても、それは、「処刑されるより自刃する方が武士のメンツが立つ」という戦国から江戸時代を通じて培われた武士の誇りってヤツで、投獄されている以上、身近に刀がないので服毒自殺・・・という事だそうで、決して、口封じの強要ではなく、この服毒も、残る家族の了承がない限り、実行はされなかったという事らしい・・・

・・・で、結局、以蔵の場合は、残った家族が、それを了承しなかった事で、実現されなかったのだそうで、慶応元年(1865年)5月11日・・・以蔵は、打ち首のうえ晒し首となりました。

♪君が為 尽くす心は 水の泡
  消えにし後は 澄み渡る空 ♪

享年28歳・・・まさに、君に尽くした人生でした。

世が革命に動く時、一方でレジスタンスの英雄とされる人物が、一方ではテロリストと恐れられる・・・

そんなテロリストの中でも、確固たる政治目的で相手を潰す場合と、敵対する者すべてを手当たり次第に排除しようという行為との線引きは非常に難しいものです。

曖昧なながらも、これまで後者として扱われて来た人斬り以蔵・・・一説には、その名前が土佐勤王党の名簿から外されたのも、そんな暗いイメージからだったとも・・・

しかし、先に書いた「龍馬伝」での佐藤健くんの熱演から、そのイメージも変わり、昨年には、その墓前で、死後初めての慰霊祭が行われたとか・・・

その時代における以蔵の行動が善か悪かは、様々な研究で極限まで近づく事はできても100%わかる事は、現在の私たちには不可能です。
まして、彼の心の中など・・・

しかし、人は皆、死ねば仏になります。

幕末に散った中の、誰一人が欠けても、今の日本が無かったかも知れません。

そういう意味で、他の志士たちと同様の慰霊祭が行われた事に、少々のうれしさを感じる茶々でおます。
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2011年5月10日 (火)

長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発

 

文久三年(1863年)5月10日、長州藩が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃しました。

・・・・・・・・・

ペリーの黒船来航に始まった幕末の動乱・・・

不平等な条約のまま開国に踏み切った幕府と、それに反対する攘夷(じょうい・外国を排除)・・・

その攘夷派は、やはり外国を嫌っていた時の天皇=孝明天皇と結び付いて王攘夷運動(10月2日参照>>)となり、特に過激に尊王攘夷を唱える水戸藩薩摩藩長州藩の3藩は、外国の公使館焼き打ち(12月12日参照>>)など、実際に外国とモメ事を起こしたりなんぞします。

万延元年((1860年)には、安政の大獄という強行手段で攘夷派を一掃しようとした井伊直弼(いいなおすけ)桜田門外で暗殺される(3月3日参照>>)に至り、幕府は、なんとか朝廷との関係を改善しようと、公武合体政策を打ち出します。

これは、時の将軍=第14代・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を結婚させ、両者が互いに手を結んで融和をはかろうというもの・・・(8月26日参照>>)

文久二年(1862年)2月に婚礼が無事行われ、翌・文久三年の3月には、江戸幕府将軍として230年ぶりに上洛して、孝明天皇との謁見を果たした家茂・・・

しかし、孝明天皇の外国嫌いは、未だ変わらず・・・その会見で、家茂は、攘夷の決行を約束させられてしまいます。

すでに開国を決定してしまっている幕府としては、いまさら攘夷は不可能と考え、とりあえずはの、その場しのぎの約束だったわけですが、ここを突っ込まずして引き下がれない長州は、朝廷を通じて、そのはっきりした日づけの決定を迫りました。

その約束の日が文久三年(1863年)5月10日だったのです。

その日の朝・・・長州藩は、沿岸の大砲は下関沖に砲口を向け、海上には帆走軍艦を2隻、蒸気軍鑑を2隻配備して、瀬戸内海の海運の要所である下関(馬関)海峡を封鎖します。

やがて、そこを通りかかったアメリカ商船・ペンブローク号に向けて砲撃を開始!・・・翌日の未明にも砲撃を行い、ペンブローク号は、そのまま姿を消しました。

続く23日には、フランス通報艦・キャンシャン号攻撃・・・ペンブローク号の一件を知らないフランス側は、話し合いをすべく、書記官らを上陸させますが、長州藩兵は、彼らにも銃撃を加えて負傷させてしまいます。

Simonosekikienchang 燃え盛るキャンシャン号

さらに26日・・・オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が海峡に進入した時にも、彼らは、海から陸から、次々と砲弾を浴びせたのです。

さすがに今回は、先の外国船への砲撃のニュースを聞いていたオランダ・・・しかし、ご存じのように、オランダは鎖国をしていた江戸時代にも友好関係があった国ですから、「俺らは大丈夫やろ」とやって来たところを攻撃され、死者4名を出し、船体にも大きな被害を受けてしまったのです。

次々と外国船を撃ち払い、勝利に湧く長州藩・・・

しかし、一方では、この外国船砲撃のニュースを聞いて、死を覚悟した人物が長州藩の中にもいました。

あの高杉晋作です。

すでに上海に遊学して、欧米列強の恐るべき軍事力を知っていた晋作は、このままでは終わらない事に気づいていたのです。

案の定、それから1ヶ月も経たない6月1日・・・アメリカの軍鑑が1隻。

これを見た長州藩では、沿岸に設置された砲台が一斉に火を吹き、長州藩の軍鑑3隻が攻撃準備に入りますが、この3隻はたちまちのうちにアメリカ軍鑑の餌食に・・・

外国軍鑑による報復の開始です。

これらの抗戦を下関事件・・・翌年に再び起こる衝突を四国艦隊下関砲撃事件と、分けて呼ばれる事もありますが、その両方を総称して下関戦争と呼ばれる事が多い気がします。

とにもかくにも、始まってしまった外国との抗争・・・このお話の続きは、また、いずれかの「その日」に書かせていただくつもりでいます。
 

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2011年5月 9日 (月)

やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶

 

永禄七年(1564年)5月9日、三好長慶が弟の安宅冬康を飯盛城にて謀殺しました。

・・・・・・・・・・・

群雄割拠する戦国の世で、最初に天下を取った人は?

・・・と質問すると、ほとんどの方が織田信長の名を思い浮かべるかも知れませんが、実は、信長より先に、本日の主役=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が、初の天下人となっています。

そもそもは甲斐(かい・山梨県)小笠原氏の支流で、戦国時代には阿波(あわ・徳島県)の豪族だった三好氏・・・長慶の曽祖父=之長(ゆきなが)の時代に、細川澄元(すみもと)擁立に成功して摂津(せっつ・大阪府の北東部)守護代となり、京都や大阪で活躍しました。

しかし、実は、この澄元さんの細川家・・・もともと後継者を巡るお家騒動を抱えておりました。

・・・というのも、この澄元のジッチャンは、あの応仁の乱(5月20日参照>>)東軍の将となった細川勝元(かつもと)・・・その勝元の息子=細川政元が実子をもうけなかった事で、先の澄元&細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)という3人の養子の間で後継者争いが勃発して政元は暗殺されてしまい(6月23日参照>>)、その死後には船岡山の戦い(8月24日参照>>)という本格的な合戦にまで発展しています。

そんな一連の後継者争いの中で、澄元を支持し続けた之長は、嫡子=長秀と次男=頼澄(よりずみ)という二人の息子を合戦で亡くし、自らも高国の計略にハマッて処刑されてしまいます。(5月5日参照>>)

父子3人がいなくなった三好家の後を継いだのが嫡子・長秀の長男=三好元長(もとなが)・・・父や祖父が支持した澄元の息子=細川晴元(はるもと)を支えて、先の高国と戦いますが、そんな戦いのさなか、日頃から何かと意見の合わなかった同族の三好政長(宗三=之長の甥)讒言(ざんげん・事実でない悪口・告げ口)などよって、なんと、ともに戦った上司であるはずの晴元の命令を受けた一向一揆よってに殺されてしまうのです(7月17日参照>>)

長慶・・・わずか11歳の時でした。

曽祖父の時代から、その命かけて支えて続けて来た上司が、少年=長慶の仇となったのです。

さぞかし、その恨みも・・・と思いきや、やはり彼は、凡人とは器が違いました。

翌年・12歳で元服して阿波の家督を継いだ長慶は、あの事件後に不仲となって、無意味な合戦を続けていた晴元と本願寺一向一揆を説得し、両者を和解させるのです。

畿内という、最も重要な場所で力をつけるためには、現時点では晴元の下につくしかない・・・恨みを捨てて晴元に従属するという冷静な判断をした12歳の少年に、世間は一発で注目する事となります。

もちろん、その非凡な才能は、またたく間に開花します。

河内・山城南部の守護代だった木沢長政(きざわながまさ)をはじめ、名だたる摂津の武将を次々と撃ち破って、摂津西半国の守護代となり、やがて、晴元の家臣の中でも最大の勢力=一番の重臣となります。

そしていよいよ天文十八年(1549年)・・・長慶は、晴元を裏切って、彼と敵対する細川氏綱(うじつな・高国の養子)の陣に馳せ参じます(9月14日参照>>)

これを謀反とした晴元側は、南近江(滋賀県南部)に勢力を持つ岳父(がくふ・奥さんの父)六角定頼(ろっかくさだより)根来(ねごろ)らに援軍を求め、両者は、淀川神崎川に囲まれた江口周辺で、戦いを展開する事になります。

江口城(大阪市東淀川区江口周辺)にて六角氏の援軍を待ちながら抗戦するのは、あの父の仇である政長・・・三宅城(大阪府茨木市)にて政長を支援するのは、もう一人の仇=晴元・・・

その連絡を断つべく両城の間に陣を取ったのは、長慶の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなり=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)でした。

そう、今回に限らず、これまでの長慶の活躍には、弟たちの協力が無くてはならない物でした。

長男の長慶が摂津・河内・和泉(いずれも大阪府)を、次男の三好義賢(よしかた・実休が阿波を、三男の冬康が淡路を、四男の一存が讃岐(さぬき・香川県)を・・・それぞれの地盤をしっかりと固めつつ、いざという時は地元の兵を率いて結集し、見事な連携プレーで勝利に導く・・・

今回も、江口と三宅の城の連絡を断つ事が、結果的に江口城を東西で挟み打ちするという絶好の形となり、六角勢が加勢に駆けつける前に、見事、政長を討ち取りました

江口城が落ちた事を知った晴元も、戦わずして敗走・・・しかも、彼らの支援を受けていた前将軍=足利義晴(よしはる)と現13代将軍=足利義輝(よしてる)父子も、長慶の襲撃を恐れて、近江坂本まで避難したのです(6月24日参照>>)

こうして長慶は、見事、戦国最初の天下人となったのです。

ところで、この三好兄弟には、まだまだ若い、とある秋の夜・・・
籠に入れた鈴虫の声に聞き入る弟=冬康が、合戦にあけくれる兄=長慶に向かって
「鈴虫でさえ、大事に育てたら、こんなに長生きするのに、兄貴は人の命を粗末にしすぎやで」
と諫め、兄は、そんなやさしい弟を大いに可愛がった・・・なんていう兄弟のやさしい逸話が残ります。

しかし、ここで弟にたしなめられた長慶さんですが、実は、彼もやさしさ満載の人でした。

もちろん、殺らねば殺られる戦国の世ですから、敵意むき出しの輩には容赦ない長慶ですが、実は、あの後、何度も京都奪還を仕掛け、長慶の暗殺までくわだてた将軍・義輝が、その方針を転換して和睦を申し入れて来ると、あっさりとこれを許して、何事もなかったかのように将軍に迎えるのです。

しかし、そんな義輝は、京に戻ってからわずか1年・・・またもや晴元と結託して長慶を排除しようと兵を挙げ、またもや敗走・・・

一方の長慶は、その時に義輝に味方した芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)を降伏させて奪った芥川城(大阪府高槻市)を居城とし、家臣の松永久秀京都での政治を任せるようになりますが、その時の支配圏が、摂津・和泉・山城・丹波・淡路・播磨・阿波・讃岐の8ヶ国・・・まさに、関東の北条に匹敵する西の王者でした。

もはや、将軍なんてチョロいもの・・・しかし、やはりここまで来ても、そのやさしさは健在でした。

なんと、5年後に再び和睦を申し入れて来た義輝を許し、またまた将軍として京都に迎え入れるのです(11月27日参照>>)

さすがに、今回の義輝&晴元は、もはや諦めたとみえておとなしい・・・そんな二人の様子を見た長慶は、涙を流しながら
「やっと、昔のまともな主従関係に戻れた~」
と、和解を心から喜び、晴元には、この先、生活に苦労しないだけの領地を隠居料をとして与えて、隠居してもらったと言います。

なんてイイ人なんだ~ヽ(´▽`)/

しかし結局は、そのイイ人+兄弟の絆の強さが、彼の命取りとなります。

まずは永禄四年(1561年)・・・家臣の松永久秀とともに滞在していた有馬温泉にて、2番目の弟=一存が湯治中に突然、亡くなります(5月1日参照>>)

梅毒による病死とも落馬死とも・・・もちろん、その後の歴史を知っている私たちは、そばにいた久秀にも疑いをかけてしまいますが・・・

続く、永禄五年(1562年)3月には、和泉久米田(くめだ・大阪府岸和田市)にて畠山高政(たかまさ)とで戦っていた、すぐ下の弟・実休(義賢)が戦死してしまいます(3月5日参照>>)

実は、この高政は、以前の河内の守護で、長慶に敗れて敗走してした人物・・・その時に、追撃して命を取ろうと思えば取れた相手でしたが、あえて、追放処分に・・・

しかし、今回、そんな高政が紀州の根来衆を味方につけて、大坂へと攻め上って来たのを、実休が迎え撃っていた・・・というわけで、そのやさしさがアダとなりました。

ただ、まだ、この時点では長慶も戦国武将らしく、即座に弔い合戦を行って、見事、勝利しています。

しかし、さらに続く永禄六年(1563年)・・・長慶の長男=三好義興(よしおき)が、未だ22歳の若さで突然死するのです。

毎年々々立て続けに起こってしまった不幸・・・

かくして、そんなこんなの永禄七年(1564年)5月9日・・・弟=冬康に謀反の疑いがあると知った長慶は、弟を自らの居城・飯盛山城(大阪府四条畷市)に誘いだし、騙し討ちにしてしまうのです。

あのやさしかった弟を、自らの手で・・・

一説には、やはりここにも、冬康の謀反を讒言したのは久秀だったという噂があるにはありましたが、それを信じて可愛い弟に手を下してしまったのは長慶自身・・・しかも、その後すぐに、その謀反の疑いは無実だった事がわかります。

その後の長慶は、まるで廃人のように・・・

結局、そのうつろな表情が快復する事はなく、なんと、冬康の死からわずか2ヶ月後の7月4日・・・43歳の生涯を閉じてしまったのです。

Dscn0957a800 堺・南宗寺にある三好長慶一族の墓

「和歌や連歌のできひん者が、立派な武将になれるわけない!」
と豪語するほど、合戦よりも和歌が大好きだったという長慶・・・

すぐ下の弟の義堅の死を聞いたのは、その大好きな連歌会の真っ最中だったと言いますが、うろたえる事なく、冷静にその場を立ち去ったと言います。

そこには、やさしさをひた隠しにして戦って来た戦国武将の、悲しいほどの意地のツッパリがあったのかも知れません。

限りなく張り詰められた糸がプッツリと切れた時、それは、一番愛した弟への判断をも見失ってしまうほどの衝撃を、やさしい天下人に与えてしまったのかも知れませんね。
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2011年5月 7日 (土)

両・長尾家のために…謙信の母・虎御前

 

永禄十一年(1568年)5月7日、上杉謙信の生母として知られる虎御前こと青岩院が病没しました。

・・・・・・・・・

古志(こし)長尾氏栖吉(すよし)城主長尾房景(ふさかげ)の娘とて生まれたとされる青岩院(せいがんいん)さん・・・

と言っても、実は謎だらけ・・・

お察しの通り、青岩院は夫を亡くして仏門に入ってからの法名で、一般的には虎御前(とらごぜん)というお名前で呼ばれますが、その名前も、実は、彼女の息子=長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)の大出世によって、謙信の幼名だった虎千代から取ったもの・・・つまり、謙信ありきの後づけの呼び名であろうとされています。

まぁ、実名がわからないままではお話がし難いので、本日は、その虎御前で呼ばせていただきますが・・・

さらに長尾房景の娘というのも・・・

実は、『上杉家譜』『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうかふ)には、房景ではなく、長尾顕吉(あきよし)なる人物の娘という事になってるんですが、この顕吉なる人物そのものが、よくわからない人物で、結局、『謙信公御年譜』に書かれている房景の娘というのが、一般的に採用されてるわけですが、

そうなると、この房景という人は、後に虎御前の夫となる長尾為景(ためかげ)より年下だったという事なので、その娘と結婚した為景は、メチャメチャ若い嫁さんを貰った事になって違和感満載・・・

って事で、最近では、この虎御前は房景の妹だったであろうという説が有力となりつつあります。

父親でさえ、そこまで危ういのですから、当然、母親がどなたかなのはわかっていません。

とは言え、虎御前が古志長尾家の出身であった事は確かで、それこそ、その古志長尾家を将来を背負って、和睦の証となるべき政略結婚にその身で以って挑んだ事は間違いないところでしょう。

彼女=虎御前の結婚相手となった長尾為景は越後(新潟県)守護代長尾能景(よしかげ)の息子で、府中長尾家の当主でした。

永正三年(1506年)9月26日に、父=能景が越中(富山県)で戦死(9月19日参照>>)した事を受けて、その家督を継いで当主となったわけですが、その頃の長尾家は、古志長尾家と上田長尾家と府中長尾家の3家が、同族同志で争っている状況でした。

しかし、ここに来て、越後の守護=つまりは、守護代の長尾家から見て上司にあたる上杉家が、地元に根付く守護代や郡司の力を弱めて、上杉自らが越後を仕切る集権化を図ろうと画策していたのです。

穏やかな気性だった先代=能景の時代には、かろうじて保たれていた守護との関係でしたが、血気盛んな若武者=為景が、黙っているはずはなく、早くも、父の死の翌年の永正四年(1507年)8月、守護の上杉房能(ふさよし)自刃に追い込む・・・世に言う永正の乱という下剋上をやってのけます(8月7日参照>>)

さすがに、大きな敵を前にした時、同族というのは一致団結するものなのか?・・・この時、古志長尾家は、ちゃっかりと為景を支援したと言われています。

そう、虎御前と為景の結婚は、そんな古志長尾家と府中長尾家との関係強化を図るために行われた政略結婚・・・おそらくは、この永正の乱の数年ちょっと前の明応七年(1498年)か、その後の2~3年あたりであったと思われます。

まさに、地元を圧迫する守護=上杉に対抗するにあたって、お互いの利害が一致した事を認め合っての婚姻だった事でしょう。

一説には、この虎御前さんを永正九年(1512年)生まれとする説があり、それだと、この永正の乱の時には生まれていない事になり、当然、その時に結婚してるわきゃありませんが、私は、あえて、上記=乱の前に結婚していた説を取らせていただきたいと思います。

というのも、この虎御前さんと為景さん・・・政略結婚とは言え、なかなか仲睦まじい夫婦だったそうで、3男・2女の合計:5人の子供をもうけたとされていますが、この子供たちとの生没年や年齢が微妙なのです。

最初の子供が長男晴景(はるかげ)、次が後に加地春綱(かじはるつな)の正室となる長女、3番目が綾姫と呼ばれる次女、そして、ほとんど記録の残らない次男(そのために謙信が次男とされる事もあり)、5人目が、三男景虎=上杉謙信・・・となるわけですが、

このうち、長男の晴景は大永六年(1527年)の生まれと記録される一方で、天文二十二年(1553年)2月10日に45歳で亡くなったという生没年が合わないという現状となってます。

また、次女の綾姫も、生年が享禄元年(1528年)となっている同じ系図内で、慶長十五年(1609年)に86歳で亡くなったと、これまた計算が合わない結果となってます。

この綾姫という方は、後に、残るもう一つの長尾家=上田長尾家を取り込むために長尾政景(まさかげ)と結婚して喜平次という男の子を産み、この喜平次が謙信の養子となる上杉景勝(かげかつ)・・・つまり、この綾姫は初代米沢藩主の生母仙洞院(せんとういん・仙桃院)ですから、さすがに、その亡くなった年と没年齢を間違うとは考え難いわけで、

その亡くなった記録から逆算すれば、その誕生は大永四年(1525年)となり、長男であるはずの晴景さんより年上って事になってしまいます。

そこで、計算の合わない長男の晴景さんも、その没年齢から逆算すると、その生まれた年は永正六年(1509年)って事になり、これまた、母親の虎御前さんが永正九年(1512年)生まれではありえない事になりますから・・・

・・・と、記録の矛盾によるややこしい計算はさておき・・・私としては、古志長尾家と府中長尾家が、守護権力への反発から、双方の協力を最も求めなければならなかった時期が、かの永正の乱の少し前あたりである事は確かだと思いますので、やはり、二人の結婚は、この頃ではないか?という判断をしております。

ところで、そんな虎御前さんの逸話を一つ・・・

ある夜、彼女が眠っていると、夢枕に見知らぬ僧が立って
「お前の身体の中を借りたいねんけど、ええかな?」
と聞きます。

「旦那さんに聞いてみますんで、返事は一晩待って~」
と虎御前・・・

その話を聞いた為景は
「そりゃ、神様の化身に違いない!ありがたい事やねんから、むしろ丁重にお迎えせぇ」
と言います。

次の夜、再び夢枕に現われた僧は
「ジャジャ~~ン!!我は、毘沙門天である…現世に生まれるにあたり、そなたの腹を借りるよん」
と言って、虎御前の胎内に入ったのだとか・・・

こうして生まれたのが謙信・・・っと、まぁ、あの豊臣秀吉も、日輪が母(大政所・なか)の胎内に入って自分が生まれたと豪語してましたから、英雄の特権とも言うべき逸話ですが・・・

とは言え、そんな逸話が残るくらい、虎御前が仏教に深く帰依していた事は確かで、7歳で曹洞宗の林泉寺(りんせんじ)に入った謙信が、自らを毘沙門天の化身と称するくらいに信仰するのは、やはり、この母=虎御前の影響があったからでしょう。

為景がこの世を去った後の虎御前は、出家して青岩院と号し、永禄十一年(1568年)5月7日病死するまで、静かに余生を送ったという事です。

ちなみに、今回の虎御前が為景と結婚し、娘の仙洞院が政景と結婚して調和を図った長尾家の同族同志の確執ですが、謙信健在の頃こそ、少しはなりを潜めていたものの、謙信が亡くなった後に、あの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)として、再び表面化します。

謙信の後継者を巡って、景勝VS景虎という養子同志の争いとなった乱ですが、そこには、景勝に味方する上田長尾家と、景虎に味方する古志長尾家という、昔からの抗争も、未だ消えてはいなかったのです。

こうしてみると、戦国時代の女にとってツライのは、政略結婚をする事ではなく、その命落ちをかけて構築しようとした両家の講和が、無残に崩壊する事のほうだと思えてなりません。
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2011年5月 6日 (金)

大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成

 

慶長二十年(1615年)5月6日、河内若江の戦いにて大坂方の木村重成が井伊直孝と戦って討死しました。

・・・・・・・・・

ご存じ、豊臣家最後の戦いとなった大坂夏の陣の山場です。

この戦いに至るまでの経緯は、くわしくは【大坂の陣の年表】(7月31日参照>>)の関ヶ原が終わったあたりから、順を追って見ていただくとありがたいのですが、とりあえず、ごくごく大まかにその流れをお話させていただくと・・・(すでに読んでいただいている方は後半へどうぞ)

征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、すでにその地位も息子=秀忠に譲っていた徳川家康にとって、未だに目の上のタンコブなのが、あの豊臣秀吉の遺児=秀頼(ひでより)・・・・(5月10日参照>>)

何とか、豊臣家を潰したい家康は、慶長十九年(1614年)7月・・・秀頼が京都の方広寺に寄進した鐘に書かれた文章にイチャモンをつけ(7月21日参照>>)「この条件を呑め!」とばかりに最後通告を発します(8月20日参照>>)

その条件とは・・・
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替えする

この3つの条件のうち、どれかに応じるように・・・しかし、大坂方がその要求を呑む事はなく、大坂冬の陣へと突入します。

11月26日の鴫野今福の戦い(11月26日参照>>)・・・
続く29日の野田福島の戦い(11月29日参照>>)・・・

さらに12月4日の真田丸の攻防戦(12月4日参照>>)で、大きな犠牲を払ってしまった家康は、力攻めはムリと判断し、ジワジワと脅しをかけながら(12月16日参照>>)、一旦、和睦へと持ち込みます(12月19日参照>>)

しかし、和睦の条件の一つだった一部の堀の埋め立てを、家康の配下が「お手伝い」と称して、約束以上の広範囲を埋めちゃったもんだから、もはや、和睦は名ばかりとなり、翌年の3月には、早くも、再びの決戦への兆しが現われます。

かくして慶長二十年(1615年)4月29日・・・樫井の戦い(4月29日参照>>)によって、大坂夏の陣の幕が切って落とされます。

・‥…━━━☆

この頃の大坂城内の様子・・・

昨年の11月5日のページでお話させていただきましたが(11月5日参照>>)・・・そのページにもupさせていただいた、この関係図↓・・・
Oosakanozinzyounaisosikizu
これを見ていただくとお解りの通り、家老クラスの織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)織田有楽斎(うらくさい・長益=信長の弟)、そして片桐且元(かつもと)が退去してしまった城内では、かなりの人材不足・・・

確かに、真田幸村(信繁)後藤又兵衛などの猛将がいますが、彼らは、皆、お金で雇われた形になっている浪人たち・・・もはや譜代でも、いつ寝返るかわからなくなった状況に疑心暗鬼となっていた城内では、信頼のおける家臣というのが、非常に少なかったのです。

そんな中で、淀殿(茶々=秀頼の生母)の乳母であった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子だった大野治長(はるなが)大野治房(はるふさ)兄弟とともに、城内の組織を3つに分けたグループの一翼を担っていたのが、本日の主役木村重成(しげなり)です。

そんな大活躍から、秀頼四天王の一人に数えられる重成・・・実は、彼もまた秀頼の乳母だった宮内卿局(くないきょうのつぼね)息子だったとされています。

とは言え、この重成は、様々な逸話を持ちながらも、その出自すらはっきりしない謎の人でもあります。

というのも、現在出回っている多くの彼の物とされる書状が、ニセモノではないかと疑われる物が多い事で、その実像がつかみ難いのです。

現在、おそらくは正しいであろうとされる史料の中で、最も古い物は、慶長十九年(1614年)の11月26日の鴫野今福の戦いで3000騎を率いて参戦したというもの・・・そう、上記で出て来た大坂冬の陣での姿が、歴史上の初登場なのです。

これを見る限りでは、彼は何の戦績もないまま、いきなり大坂城内の1軍を担う将に大抜擢された事になります。

一説には、重成の養父=木村重茲(しげこれ)が、あの豊臣(羽柴)秀次の事件(7月15日参照>>)に連座して切腹した時、重成もまた罰せられるはずだったところを、秀頼のお気に入りであったおかげで助命された・・・という話もあります。

まぁ、その話の真偽は微妙なれど、40人ほどいたという秀頼の小姓のまとめ役のような存在であった事は確かなようです。

そんな中から、今回、戦線のトップに立つ事になった重成・・・大坂冬の陣の和睦交渉の時には、秀頼の使者として秀忠の血判誓詞を受け取るという大役もこなしています。

しかし、一方では、かなり信憑性の高い史料として、重成自身が書いたとされる感状が・・・

これは、今福の戦いで武功を挙げた草加二郎左衛門なる者に、「後日、改めて秀頼から正式な感状を出してもらうからね」と約束している物なのですが、その日づけが11月28日・・・つまり、今福に初登場の彼が、合戦の2日後に出したというスピード感状なのです。

今福の戦いでは、彼は敗走したとされていますから、かなり混乱したままでしたためたと思われる感状・・・おそらくは、武功のあった者には、すぐに、何らかの恩賞を与えないと、明日はどっちに味方して戦うやらわからない・・・といった、日雇い的な兵がたくさんいた証拠であろうと言われています。

そんな中で、夏の陣に挑んだ重成・・・

すでに書かせていただいている通り、この慶長二十年(1615年)5月6日という日は、道明寺誉田で後藤又兵衛(2016年4月30日参照>>)薄田隼人(すすきだはやと)(2009年5月6日参照>>)が討死・・・

同時に、八尾に出陣した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、藤堂高虎(とうどうたかとら)死闘を繰り広げつつも、やむなく撤退(2010年5月6日参照>>)したという日です。

実は、この盛親撤退の引き金となったのが重成の死でした。

この日、河内方面からの徳川軍を迎え撃つべく、早朝に大坂城を出陣した重成は、若江(東大阪市)にて約4700の兵を率いて藤堂隊と戦い、見事、これを退けました。

その後、一旦、散り散りなった兵を再び集結させて昼食をとらせ、午後の合戦に備えます。

伝承によれば、この時に、まだ結婚して5ヶ月だった新妻=青柳別れの盃を交わしたとも言われます。

そして迎えた新手の兵が井伊直孝の軍勢・・・再び集結させたとは言え、一旦散り散りになった兵は、もとの姿をとどめておらず、家臣の一人は、「皆、疲れているし、再度の戦いは無理なのでは?」と進言しますが、重成の決戦への決意は固かったと言います。

先の昼休憩の奥さんとの別れの盃を見る限り、もはや、覚悟は決めていたのでしょう。

しかし、家臣の予見通り・・・井伊隊との戦いは激戦となり、その中で大将・重成は討死するのです・・・享年=23歳だったとか・・・

この重成の死を聞いて、先に若江で退けられた藤堂隊と戦っていた八尾の盛親も、撤退したわけです。

戦いが終わって、家康のもとに届けられた重成の首・・・その髪には、ほのかに薫る香が焚き込めてあったとか・・・

やはり、彼は、この日の戦いに、その人生を賭ける覚悟を決めていたようです(その決意の物語は2012年5月5日のページでどうぞ>>)

思えば、歴史上に躍り出てわずか半年足らずの大舞台・・・それだけの期間の中で、秀頼四天王の一人に数えられる事こそが、彼の生きた証、そして、彼の誇りなのかも知れません。
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2011年5月 4日 (水)

信長に見捨てられた上月城…奮戦空し

天正六年(1578年)5月4日、織田信長配下の羽柴秀吉が高倉山に本陣を構えました。

・・・・・・・・・・

戦国時代・・・中国地方の二大勢力だった周防(すおう・山口県東部)大内氏と、出雲(いずも・島根県東部)尼子氏・・・

やがて、その配下からのし上がり、大内氏にとって代わった安芸(あき、広島県)毛利元就(もとなり)は、次は尼子氏とばかりにその手をのばします。

いち時は、中国地方の11ヶ国に及ぶ広域な支配圏を持っていた尼子氏も、その元就の知略に次々と勢力を削がれ、永禄九年(1566年)11月、ついに本拠の月山富田城(がっさんとだじょう・島根県安来市)を落とされ、当主の尼子義久(あまこよしひさ)尼子三兄弟幽閉され、毛利の監視下に置かれます(11月28日参照>>)

しかし、それでも諦めなかったのが尼子氏の家臣・山中鹿介(しかのすけ・幸盛)・・・すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦します。

永禄十二年(1569年)7月には、毛利が、九州の雄=大友宗麟(そうりん)とドンパチやってるのをチャンスとみて、月山富田城への城攻めを開始しますが、駆けつけた毛利の援軍にあえなく敗退・・・

その時に捕虜となった勝久&鹿介は、なんとか脱出し、今度は都=京都へと向かいます。

そう、実は、毛利が中国地方での勢力拡大をはかっていたこの頃・・・畿内では、あの織田信長天下統一に向けての動きを強めていたのです。

もちろん、鹿介らの思いは、信長の支援を得て尼子氏を再興しようという事ですが、信長は信長で、この先、畿内より西に勢力を拡大する中で、毛利との決戦は必要不可欠・・・よって、両者は打倒毛利の旗のもとで一致したのです。

こうして信長の支援を得た彼らは、すでに毛利方の物となっている因幡(いなば・鳥取県東部)各地の城を攻め、そこから出雲への進出を計りますが、これがなかなか一進一退のくりかえしでした。

やがて、天正五年(1577年)、信長は、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉毛利攻めの総大将に任命・・・その年の10月に、秀吉は姫路城へと入って準備を整え、12月には宇喜多直家(10月30日参照>>)配下の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)攻略します。

そして、鹿介ら尼子勢は秀吉軍の付属となり、この上月城の守りを任される事になりました(11月29日参照>>)

まさに、対・毛利の最前線に配置されたのです。

こうして迎えた天正六年(1578年)・・・奪われた上月城を取り返そうと、毛利勢は3万の大軍を率いて城に攻めかかったのです。

その知らせを聞いた秀吉は、上月城を支援すべく、すぐさま向かい、天正六年(1578年)5月4日上月城近くの高倉山に本陣を構えました。

しかし、実は、この時の秀吉・・・上月城に、それほど多くの兵を費やできる状況ではなかったのです。

それは、この2ヶ月チョイ前の2月23日・・・それまで、信長と良好な関係を続けていた播磨(はりま・兵庫県南西部)三木城(兵庫県三木市)別所長治(べっしょながはる)が、突如、織田方からの離反を表明して城に籠ってしまった事で、秀吉は、その三木城の包囲も、同時進行で行っていたのです(3月29日参照>>)

この三木城の離反は大きいです。

Koutukizyoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

位置関係図を見ていただければおわかりのように、すでに西播磨まで進出していた秀吉にとって、ここが敵に回ってしまえば、完全に挟み打ちとなり、退路を断たれてしまいますから、この三木城への包囲を緩めるわけにはいきません。

かと、言って、このままの手勢では上月城がアブバイ・・・やむなく秀吉は、一旦上洛して信長に面会して、直接、上月城への救援を要請します。

しかし、信長の答えは、真逆・・・
「すぐに高倉山から撤退し、三木城攻めに集注せよ」
でした。

しかたなく秀吉は、翌・6月には陣を引き払います。

当然、その後の上月城は孤立状態・・・もちろん、守る尼子勢は、その後も奮戦を続けますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、2ヶ月後の7月3日、当主・勝久以下数名が切腹をして上月城は開城され、ここに、戦国山陰の雄=尼子氏は滅亡する事となります(内容かぶってますが7月3日参照>>)

完全に、信長に見捨てられた形となってしまった上月城・・・しかし、この時、信長は信長で、大変な状況だったのです。

8年前に勃発した、あの石山本願寺との合戦・・・この2年前には第1次木津川口海戦で、毛利配下の村上水軍に翻弄され、まんまと本願寺内の兵糧を運びこまれていて(7月13日参照>>)、その対抗策として、あの鉄甲船の建造を、まさに、信長自身が、急ピッチで進めている時・・・(鉄甲船は、この年の9月に完成します=9月30日参照>>

北陸での戦いを展開していた配下の柴田勝家が、あの上杉謙信手取川にて手痛い敗北を喰らったとされるのは、この前年の事・・・

さらに、丹波(たんば・京都府と兵庫県北東部の一部)平定中の明智光秀は、まさに、この3月に八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)への本格的な包囲を開始したところ・・・(攻略するのは、翌年の6月1日=1月15日参照>>

そして、この秀吉の三木城です。

もちろん、信長も、ただただ上月城を見捨てたわけではなく、何とか秀吉に、一刻も早く三木城を攻略させて、上月城へ向かわせようと、嫡男=織田信忠を大将に、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)滝川一益(かずます)といった、それこそ第1級の猛将たちを、三木城への援軍に派遣したりしたのですが、ご存じのように、三木城が落ちるのは、天正八年(1580年)の1月(3月29日参照>>)・・・

当然、今回の上月城には間に合わなかったわけです。

まさに、信長包囲網の真っただ中・・・複数の敵に同時に立ち向かっていた信長としては、いたし方ないところではあります。
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2011年5月 2日 (月)

重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一

 

天正十七年(1589年)5月2日、紀州雑賀党の猛将・雑賀孫一がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

あの10年に渡る織田信長石山本願寺の合戦で、鉄砲隊を率いて参戦し、信長を大いに苦しめたと言われる雑賀(さいが・さいか)のトップ・・・近頃の戦国ゲームに登場して、今ではけっこうな有名人となってるのが雑賀孫一(まごいち・孫市?)です。

と言っても、この雑賀孫一はニックネーム=雑賀出身の孫一という意味で、ほとんどの文献には鈴木孫一の名で登場しますが、この鈴木孫一というのが、これまた微妙・・・

おそらくは、信長と戦って、下間頼廉(しもま・しもつまらいれん)とともに「大坂本願寺の左右の大将」と称された頃の、絶頂期の孫一さんは、鈴木重秀(すずきしげひで)の事だと思われますが、他にも、その兄とおぼしき鈴木重兼(しげかね)、弟もしくは息子と思われる鈴木重朝(しげとも)も、同じ鈴木孫一の名で登場し、その活躍の年代に開きがある事や、さらに後の歴代当主が、皆、鈴木孫一を名乗る事から、いったい、どこまでが重秀という人物の話で、どこから重兼&重朝の話なのか?・・・あるいは、かぶっている時期があるのか?

はっきり言って、謎が謎呼ぶ謎だらけの人です。

本日の天正十七年(1589年)5月2日というご命日の日づけも、和歌山市平井にある蓮乗寺というお寺に孫一の墓と伝わるものがあり、そこに刻まれている年月日という事で、実のところは、没した年数もはっきりしないわけで・・・

とにもかくにも、そのような=あくまで伝承の域を出ないという前提を踏まえて、本日は、石山合戦後の孫一さんについてお聞きください。

・‥…━━━☆

・・・とまぁ、石山合戦で華々しく歴史の表舞台に登場した孫一・・・その頃のお話は3月15日の【鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一】のページ(3月15日参照>>)で見ていただくとして・・・

孫一にとって、まだまだ戦う気満々だったと言われる石山合戦ですが、ご存じのように天正八年(1580年)3月17日、第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)が、来たる7月までに本願寺を明け渡す約束で信長との講和を成立させ、石山合戦が終結しました。

講和と言えど、実質的には信長の勝利という形で終結する事に、孫一は多少の不満もあったでしょうが、教祖様が「終わり~」と言ってる以上、彼らも、それに従うしかないわけで・・・

とは言え、「講和が成った以上は、仲良くするに越した事はない」って事なのか?
とにかく、その直後から孫一は信長に接近し、その支援を得ようとします。

・・・というのも、もともと雑賀衆と言えば土橋(どばし・つちはし)と言われていたほどの実力者だった土橋が、未だ強い勢力を持っていて、どちらかと言えば、石山合戦で名を挙げた孫一のほうが新参者・・・そんな中、この頃の孫一は、その土橋家と土地の所有権を巡って一触即発の状況となっていたようです。

かくして信長の支援を得た孫一は、天正十年(1582年)2月8日、栗山の城にいた土橋若大夫(わかだゆう・平次守重)を殺害・・・その一派も駆逐してしまいます。

この勢いを見る限り、孫一にも、「これを機会に戦国大名にのし上がってやろう」という野望の一つもあったのかも知れません。

ところが、どっこい・・・
天正十年と言えばご存じのように、6月2日、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が勃発します。

翌日の3日に、信長の死を知って岸和田城へと退去した孫一・・・その翌日には、反信長派に攻撃されて自らの城も焼かれてしまい、わずかの仲間とともに故郷=雑賀から姿を消す事になります。

それからしばらく・・・孫一の消息はパッタリと消えます。

その間に、山崎の戦い(6月13日参照>>)明智光秀を倒し、清州会議(6月27日参照>>)で織田家家臣を掌握し、まさしく、信長の後継者のごとき力を発揮してきたのが、あの豊臣(羽柴)秀吉・・・孫一のいなくなった雑賀衆や根来(ねごろ)といった紀州の地元の面々は、この秀吉と対立する立場を取ります。

やがて、天正十二年(1584年)に勃発したのは、信長の次男で後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康と組んで秀吉と対立した小牧長久手(こまきながくて)の戦い(3月13日参照>>)・・・

この時、上記のように対・秀吉の姿勢をとっていた雑賀&根来の紀州勢は、当然、家康側について抗戦するわけですが、なんと、ここに、あの孫一が、秀吉の鉄砲頭(てっぽうがしら・銃手の隊長)として登場!!
大いに活躍したというのです。

しかし、一方では、その翌年に行われた秀吉からの報復=紀州征伐(3月21日参照>>)では、雑賀や根来が壊滅状態となる中、孫一は必死で秀吉に抗戦したという説もあります。

さすがに、そこまで、あっちへついたり、こっちへついたりするこたぁないでしょうから、どちらかが間違っているか、あるいは、どっちとも違うのか、あるいは、二人の孫一がいたのか?といったところでしょう。

さらに、この紀州征伐のさ中に謀殺されたという話もありますが、おそらく、これもフィクションだと言われています。

・・・とは言え、どうやら、この紀州征伐の後らへんあたりから文献などで孫一と称される人物が、石山合戦で活躍したとおぼしき鈴木重秀から別の・・・おそらく鈴木重朝と思われる人物に交代しているようです。

という事は・・・
逆に、それまでの重秀という人物に関しての、その後の事はまったく不明という事になるわけで、結局は、信長時代に活躍した重秀とおぼしき孫一は、その後いつまで生きたのか?どこで死んだのか?、まったく以って消息はわかりません。

一方で、記録に残る孫一のその後は、まだまだ続きます。

そのまま豊臣の配下で鉄砲頭を務め、慶長五年(1600年)関ヶ原では、あの最初の抗戦となった伏見城攻防戦(7月19日参照>>)で、家康配下で伏見城代の鳥居元忠を討ち取るという功名を挙げ、大活躍したと言われます。

しかし、ご存じのように、かの関ヶ原は、西軍の大敗という形で幕を閉じます(9月15日参照>>)

そこで浪人となってしまった孫一は、伊達政宗(だてまさむね)から徳川家康を経て、常陸(ひたち)水戸藩の藩主・徳川頼房(よりふさ・家康の11男)に仕えたと言います(9月5日参照>>)

とは言え、これも、伊達家の文書では、
「豊臣家の鉄砲頭として活躍した人物は若くして死んだらしい」
とされ、その後に登場する孫一は別人の可能性もあり・・・

また、紀州徳川家に仕えたとか、尾張徳川家に仕えたという話もあり、おそらくは、子子孫孫と続く複数の孫一が、紀州に生まれて独自の発展を遂げた雑賀の術を受け継いでいったという事なのかも知れません。

雑賀衆という集団は消えても、彼らの兵法は、今も脈々と続いているという事なのでしょう。
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