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2011年5月12日 (木)

三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後

 

慶長五年(1600年)5月12日、徳川家康が漂着したリーフデ号の乗員ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンを大坂城に招いて会見しました。

・・・・・・・・・・・

その2年前にオランダを出航した東インド会社の船・5隻が暴風雨に襲われ、そのうちの1隻・リーフデ号豊後(大分県)漂着したのは、慶長五年(1600年)3月16日の事でした。

船内でまん延した病気や遭難のあれこれによって、出向時には110人いた乗組員も、すでに24人にまで減っていたという極限状態のリーフデ号・・・

慶長五年(1600年)5月12日・・・すでに倒れてしまった船長に代わって大坂城にやって来たのが、イギリス人航海師のウイリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンの二人でした。

そう、慶長五年(1600年)5月と言えば、まさにあの関ヶ原直前・・・4月1日には、会津(福島県)上杉景勝(かげかつ)が家康の上洛要請を拒否し(4月1日参照>>)、その半月後には、上杉家の執政・直江兼続(かねつぐ)が、ウソかマコトか「ケンカ売っとんのか!」的な『直江状』を送って、家康を挑発しております(4月14日参照>>)

・・・と言っても、ご存じのように、この時に政権を握っていたのは、大坂城豊臣秀頼・・・イエズス会の宣教師などが、彼らを危険人物として「処刑するように」などと進言していた事もあって、所持していた武器・弾薬などを押収し、一旦は、乗組員たちを投獄したりするのですが、「とりあえずは話を聞こう」という事で、五大老を代表して、家康が彼らに会う事になったわけです。

それまで、宣教師たちのフレコミによって、彼らを海賊だと思っていた家康・・・しかし、実際に会ってみると、アダムスは天文学や造船にくわしい航海師だし、ヨーステンも外国事情にくわしいなかなかの人物・・・

彼らの話す西洋の事情や、これまで聞いたことも無い知識の数々に興味を持った家康は、何度も彼らを大坂城に呼んで、その話を聞いたと言います。

そんな、度々の会見で、彼らの事が気に入った家康は、自らの領地=江戸へと招きます。

Williamadams400 特に家康が気に入ったのはアダムス・・・

彼の持つ数学や航海術、造船などの知識を、家臣たちに教えてくれるように頼んだり、外国使節との対面の時には通訳を任せて、時には、外交交渉に関して、彼に意見を求める事もあるほど重要視しました。

とは言え、アダムスにとって、日本はたまたま漂着した外国・・・故郷には、愛する妻も子供もいるわけですので、ここに長くいるつもりはありませんから、おりを見ては帰国の願いを出したりしますが、その度に家康は給料アップを提示して引き留めました。

しかし、そんな彼に帰国のチャンスがやって来ます。

慶長十八年(1613年)・・・「何とか帰国したい」と、オランダ東インド会社を通じて祖国に送ってた手紙が届き、イギリス国王・ジェームズ1世の親書を携えた東インド会社の船団が、長崎の平戸に到着したのです。

さすがに今回はイギリス国王の口添えつきですから、家康も、泣く泣くアダムスの帰国を承諾・・・これでやっと、晴れて故郷に・・・

と、思いきや、なぜか、彼は、せっかくのチャンスを断わり、東インド会社の社員となって、ここ日本で貿易に従事する事を選んだのです。

実は、この時のアダムスさん・・・すでに三浦半島に250石の領地を持つ旗本として取り立てられ、その名も三浦按針(あんじん・羅針盤を使う人の意味)と名乗り、お雪という日本人妻との間に二人の子供ももうけておりました。

それと、もう一つ・・・上記のように、日本ではかなりの重要人物として扱われていましたが、故郷に帰れば、彼は、たたの一船員・・・

故郷に帰りたいけど、今の地位も捨てがたい・・・まして、こっちにも愛する妻と子ができちゃった・・・

一説には、この時迎えに来た船の船長と商談でモメた・・・なんて話もありますが、とにもかくにも、気持ちが揺れ動く中で、彼は、三浦按針として日本に永住する事を決意したのです。

その決意通り、平戸にイギリス商館を設立するなど、外交での大きな役割を果たすわけですが、そんな良い日々は長く続きませんでした

そう、元和二年(1616年)4月17日の家康の死ととともに、彼の運命も尽きてしまうのです。

2代将軍=徳川秀忠は、家康ほどアダムスを重要視する事はありませんでした。

しかも、世は鎖国へと突入・・・幕府の方針で外国との貿易が制限されてしまい、アダムスは貿易の仕事に従事する事はできなくなりました。

残る天文学の知識で、かろうじて、その地位を維持するアダムスですが、鎖国の中の外国人として警戒の目が向く事もしばしば・・・

やがて、平戸でマラリアに感染したアダムスは、元和六年(1620年)4月26日・・・失意のうちに、57歳の生涯を閉じました。

ところで、アダムスとともに家康に謁見した、もう一人のヨーステンさん・・・

以前、リーフデ号が漂着した3月16日の日づけで、その名を後世に残した事を書かせていただきました・・・よろしければコチラからどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

今でも日本かイギリスに末裔はいますか?

投稿: えびすこ | 2011年5月12日 (木) 16時50分

横須賀市に安針塚があります。お祭りもあるそうです。

投稿: やぶひび | 2011年5月12日 (木) 18時57分

イエズス会の宣教師が「処刑して」なんて言ったんですか?汝殺すことなかれ、の教えはどこに。按針さんはずっと三浦半島に住んでたのかと思ったけど、平戸にも行ってたんですね。当時、神奈川~平戸ってすごい遠かったでしょうね。横須賀に按針塚って地名が(駅名だったかな)あったと思います。日本人妻との間に子供も。その子孫っていらっしゃるのでしょうかね。故郷の妻子がちょっとお気の毒です・・

投稿: Hiromin | 2011年5月12日 (木) 20時32分

えびすこさん、こんばんは~

末裔は…どうなんでしょう。

息子のジュセフが、父親の貿易の権利を相続したらしいですが…
それからの事はわからないみたいです。

子孫のどなたかが、途中で外国人と結婚されていなければ、もはや見た目も完全に日本人でしょうし、「三浦」という苗字なら、特に言い伝えが無ければ、わからなくなってる可能性もありますよね~

投稿: 茶々 | 2011年5月12日 (木) 22時54分

やぶひびさん、こんばんは~

やはり、外国との関係が深い土地柄ですね~横須賀は…

投稿: 茶々 | 2011年5月12日 (木) 22時55分

Hirominさん、こんばんは~

キリスト教に限らず、宗教という物は、とかく、他の宗教に対しては厳しいですよね~

この21世紀の世の中になっても、宗教でモメないのは、日本くらいです。
これも、信長から秀吉が受け継ぎ、家康で完成された政教分離のたまもの…

まぁ、日本古来の神道のかたから見れば、もう少しドップリしてほしいところでしょうが…

投稿: 茶々 | 2011年5月12日 (木) 23時00分

茶々様
250万石は250石では・・・。
広大すぎるような気がします。

投稿: いんちき | 2011年5月13日 (金) 13時55分

いんちきさん、こんにちは~

ギョエーw(゚o゚)w
そりゃ、250石です~

250万だと、
加賀100万石より多くなってしまいますがな(;´▽`A``

気づいていただいてありがとうございます。
早速、訂正させていただきました。

また、見つけられましたらお知らせください

投稿: 茶々 | 2011年5月13日 (金) 14時56分

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