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2011年5月 6日 (金)

大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成

 

慶長二十年(1615年)5月6日、河内若江の戦いにて大坂方の木村重成が井伊直孝と戦って討死しました。

・・・・・・・・・

ご存じ、豊臣家最後の戦いとなった大坂夏の陣の山場です。

この戦いに至るまでの経緯は、くわしくは【大坂の陣の年表】(7月31日参照>>)の関ヶ原が終わったあたりから、順を追って見ていただくとありがたいのですが、とりあえず、ごくごく大まかにその流れをお話させていただくと・・・(すでに読んでいただいている方は後半へどうぞ)

征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、すでにその地位も息子=秀忠に譲っていた徳川家康にとって、未だに目の上のタンコブなのが、あの豊臣秀吉の遺児=秀頼(ひでより)・・・・(5月10日参照>>)

何とか、豊臣家を潰したい家康は、慶長十九年(1614年)7月・・・秀頼が京都の方広寺に寄進した鐘に書かれた文章にイチャモンをつけ(7月21日参照>>)「この条件を呑め!」とばかりに最後通告を発します(8月20日参照>>)

その条件とは・・・
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替えする

この3つの条件のうち、どれかに応じるように・・・しかし、大坂方がその要求を呑む事はなく、大坂冬の陣へと突入します。

11月26日の鴫野今福の戦い(11月26日参照>>)・・・
続く29日の野田福島の戦い(11月29日参照>>)・・・

さらに12月4日の真田丸の攻防戦(12月4日参照>>)で、大きな犠牲を払ってしまった家康は、力攻めはムリと判断し、ジワジワと脅しをかけながら(12月16日参照>>)、一旦、和睦へと持ち込みます(12月19日参照>>)

しかし、和睦の条件の一つだった一部の堀の埋め立てを、家康の配下が「お手伝い」と称して、約束以上の広範囲を埋めちゃったもんだから、もはや、和睦は名ばかりとなり、翌年の3月には、早くも、再びの決戦への兆しが現われます。

かくして慶長二十年(1615年)4月29日・・・樫井の戦い(4月29日参照>>)によって、大坂夏の陣の幕が切って落とされます。

・‥…━━━☆

この頃の大坂城内の様子・・・

昨年の11月5日のページでお話させていただきましたが(11月5日参照>>)・・・そのページにもupさせていただいた、この関係図↓・・・
Oosakanozinzyounaisosikizu
これを見ていただくとお解りの通り、家老クラスの織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)織田有楽斎(うらくさい・長益=信長の弟)、そして片桐且元(かつもと)が退去してしまった城内では、かなりの人材不足・・・

確かに、真田幸村(信繁)後藤又兵衛などの猛将がいますが、彼らは、皆、お金で雇われた形になっている浪人たち・・・もはや譜代でも、いつ寝返るかわからなくなった状況に疑心暗鬼となっていた城内では、信頼のおける家臣というのが、非常に少なかったのです。

そんな中で、淀殿(茶々=秀頼の生母)の乳母であった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子だった大野治長(はるなが)大野治房(はるふさ)兄弟とともに、城内の組織を3つに分けたグループの一翼を担っていたのが、本日の主役木村重成(しげなり)です。

そんな大活躍から、秀頼四天王の一人に数えられる重成・・・実は、彼もまた秀頼の乳母だった宮内卿局(くないきょうのつぼね)息子だったとされています。

とは言え、この重成は、様々な逸話を持ちながらも、その出自すらはっきりしない謎の人でもあります。

というのも、現在出回っている多くの彼の物とされる書状が、ニセモノではないかと疑われる物が多い事で、その実像がつかみ難いのです。

現在、おそらくは正しいであろうとされる史料の中で、最も古い物は、慶長十九年(1614年)の11月26日の鴫野今福の戦いで3000騎を率いて参戦したというもの・・・そう、上記で出て来た大坂冬の陣での姿が、歴史上の初登場なのです。

これを見る限りでは、彼は何の戦績もないまま、いきなり大坂城内の1軍を担う将に大抜擢された事になります。

一説には、重成の養父=木村重茲(しげこれ)が、あの豊臣(羽柴)秀次の事件(7月15日参照>>)に連座して切腹した時、重成もまた罰せられるはずだったところを、秀頼のお気に入りであったおかげで助命された・・・という話もあります。

まぁ、その話の真偽は微妙なれど、40人ほどいたという秀頼の小姓のまとめ役のような存在であった事は確かなようです。

そんな中から、今回、戦線のトップに立つ事になった重成・・・大坂冬の陣の和睦交渉の時には、秀頼の使者として秀忠の血判誓詞を受け取るという大役もこなしています。

しかし、一方では、かなり信憑性の高い史料として、重成自身が書いたとされる感状が・・・

これは、今福の戦いで武功を挙げた草加二郎左衛門なる者に、「後日、改めて秀頼から正式な感状を出してもらうからね」と約束している物なのですが、その日づけが11月28日・・・つまり、今福に初登場の彼が、合戦の2日後に出したというスピード感状なのです。

今福の戦いでは、彼は敗走したとされていますから、かなり混乱したままでしたためたと思われる感状・・・おそらくは、武功のあった者には、すぐに、何らかの恩賞を与えないと、明日はどっちに味方して戦うやらわからない・・・といった、日雇い的な兵がたくさんいた証拠であろうと言われています。

そんな中で、夏の陣に挑んだ重成・・・

すでに書かせていただいている通り、この慶長二十年(1615年)5月6日という日は、道明寺誉田で後藤又兵衛(2016年4月30日参照>>)薄田隼人(すすきだはやと)(2009年5月6日参照>>)が討死・・・

同時に、八尾に出陣した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、藤堂高虎(とうどうたかとら)死闘を繰り広げつつも、やむなく撤退(2010年5月6日参照>>)したという日です。

実は、この盛親撤退の引き金となったのが重成の死でした。

この日、河内方面からの徳川軍を迎え撃つべく、早朝に大坂城を出陣した重成は、若江(東大阪市)にて約4700の兵を率いて藤堂隊と戦い、見事、これを退けました。

その後、一旦、散り散りなった兵を再び集結させて昼食をとらせ、午後の合戦に備えます。

伝承によれば、この時に、まだ結婚して5ヶ月だった新妻=青柳別れの盃を交わしたとも言われます。

そして迎えた新手の兵が井伊直孝の軍勢・・・再び集結させたとは言え、一旦散り散りになった兵は、もとの姿をとどめておらず、家臣の一人は、「皆、疲れているし、再度の戦いは無理なのでは?」と進言しますが、重成の決戦への決意は固かったと言います。

先の昼休憩の奥さんとの別れの盃を見る限り、もはや、覚悟は決めていたのでしょう。

しかし、家臣の予見通り・・・井伊隊との戦いは激戦となり、その中で大将・重成は討死するのです・・・享年=23歳だったとか・・・

この重成の死を聞いて、先に若江で退けられた藤堂隊と戦っていた八尾の盛親も、撤退したわけです。

戦いが終わって、家康のもとに届けられた重成の首・・・その髪には、ほのかに薫る香が焚き込めてあったとか・・・

やはり、彼は、この日の戦いに、その人生を賭ける覚悟を決めていたようです(その決意の物語は2012年5月5日のページでどうぞ>>)

思えば、歴史上に躍り出てわずか半年足らずの大舞台・・・それだけの期間の中で、秀頼四天王の一人に数えられる事こそが、彼の生きた証、そして、彼の誇りなのかも知れません。
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コメント

茶々さん、こんばんは!

木村重成については、若江の戦いで戦死した後、重成の首のみを家康は首実検したらしいので、重成のみを大坂衆=豊臣方の直臣として見ていたのでしょうね。

さて、木村重成の銅像はその昔、友人たちと探索に出かけた事がありますが、墓の方は出向いた事がありません。

最近、木村重成の軍に所属し、重成と同様に若江の戦いで戦死した山口弘定に興味を持って調べたら、墓は幸町公園の重成の墓の左横にあったんですね。

この山口弘定は木村重成の妹婿なんですが、関ヶ原の時に西軍に付いた加賀大聖寺城主・山口玄蕃頭宗永の次男で、兄に山口右京亮修弘がいました。

この山口玄蕃頭宗永と右京亮修弘って私が住んでいる宇治と関わりがあって、宇治川に架かる宇治橋は秀吉によって取り壊されちゃうんですが、秀吉の死後、徳川家康の指示で復活します。その際、普請工事を担当したのが山口玄蕃頭宗永と右京亮修弘なんですよね。

言ってみれば、山口玄蕃頭宗永と右京亮修弘のおかげで“茶処”宇治として栄えたと言えるのかも―

投稿: 御堂 | 2011年5月 6日 (金) 20時34分

ここで井伊直孝が勝利したおかげで、後々井伊直弼が登場し、開国に一役買って歴史をよっこらしょ~と押す原動力になったんですかね?

投稿: Hiromin | 2011年5月 6日 (金) 20時40分

御堂さん、こんばんは~

>重成のみを大坂衆=豊臣方の直臣として見ていた

そうでしょうね~真田幸村も後藤又兵衛も長宗我部盛親も浪人ですから…
やはり、加藤清正など豊臣恩顧の武将が次々と亡くなっていた事が、家康にはラッキーでしたね。

宇治橋の眺めは好きですc(>ω<)ゞ

投稿: 茶々 | 2011年5月 7日 (土) 03時13分

Hirominさん、こんばんは~

>井伊直孝が勝利したおかげで、後々井伊直弼が登場…

そうですねww
直孝がここで死なずに長生きした事で、長男ではなく末っ子に藩主の座を譲る事ができたわけで、もし、後の事を何も告げずに、ここで亡くなっていたら、彼のお眼鏡にかなう事のない長男が後を継いでいたかも知れないわけで…
井伊家もヤバかったかも知れません。

投稿: 茶々 | 2011年5月 7日 (土) 03時24分

2000年の「葵 徳川三代」で、大坂の陣をくわしく取り上げたと思います。「真田幸村が豊臣直臣ではない」と言う扱いだったんですね。天地人では一時期豊臣配下だったんです。
本音を言うと、今年の大河の配役で「葵 徳川三代」をやってほしかった(つまり「葵」を今年放送してもよかった)と思います。あの作品では今年浅井三姉妹を演じる女優の年齢あたりから、3人が出るので年齢面で支障がないです。時期で言うと「江」の後半あたりから「葵」が始まったので。信長や秀吉らは回想場面で登場すれば、うまく場面調整ができます。

投稿: えびすこ | 2011年5月 7日 (土) 10時56分

えびすこさん、こんにちは~

「葵 三代」は見てないんですが、それだと、徳川家康の若い頃は、あまり描かれなかった…という事ですか?

へぇ~って感じです。

投稿: 茶々 | 2011年5月 7日 (土) 12時15分

徳川家康の若い時期には触れていないですね。ただ、近年の大河ドラマでは織田信長の若い時代にもあまり触れない傾向ですね。
豊臣秀吉が死んだ後から物語が始まっていて、徳川家綱誕生までの約40年間を扱っています。あの作品は少し変則的なので、「誰かの生涯を描いた作品」ではなく、「江戸時代初頭の政局再現ドラマ」とも言うべき番組でしたね。
かなりの数の人が登場したので「再現ドラマ」の要素が濃いですね。

投稿: えびすこ | 2011年5月 7日 (土) 16時45分

えびすこさん、

またまたへぇ~です( ^ω^ )

投稿: 茶々 | 2011年5月 7日 (土) 18時00分

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