« 大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成 | トップページ | やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶 »

2011年5月 7日 (土)

両・長尾家のために…謙信の母・虎御前

 

永禄十一年(1568年)5月7日、上杉謙信の生母として知られる虎御前こと青岩院が病没しました。

・・・・・・・・・

古志(こし)長尾氏栖吉(すよし)城主長尾房景(ふさかげ)の娘とて生まれたとされる青岩院(せいがんいん)さん・・・

と言っても、実は謎だらけ・・・

お察しの通り、青岩院は夫を亡くして仏門に入ってからの法名で、一般的には虎御前(とらごぜん)というお名前で呼ばれますが、その名前も、実は、彼女の息子=長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)の大出世によって、謙信の幼名だった虎千代から取ったもの・・・つまり、謙信ありきの後づけの呼び名であろうとされています。

まぁ、実名がわからないままではお話がし難いので、本日は、その虎御前で呼ばせていただきますが・・・

さらに長尾房景の娘というのも・・・

実は、『上杉家譜』『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうかふ)には、房景ではなく、長尾顕吉(あきよし)なる人物の娘という事になってるんですが、この顕吉なる人物そのものが、よくわからない人物で、結局、『謙信公御年譜』に書かれている房景の娘というのが、一般的に採用されてるわけですが、

そうなると、この房景という人は、後に虎御前の夫となる長尾為景(ためかげ)より年下だったという事なので、その娘と結婚した為景は、メチャメチャ若い嫁さんを貰った事になって違和感満載・・・

って事で、最近では、この虎御前は房景の妹だったであろうという説が有力となりつつあります。

父親でさえ、そこまで危ういのですから、当然、母親がどなたかなのはわかっていません。

とは言え、虎御前が古志長尾家の出身であった事は確かで、それこそ、その古志長尾家を将来を背負って、和睦の証となるべき政略結婚にその身で以って挑んだ事は間違いないところでしょう。

彼女=虎御前の結婚相手となった長尾為景は越後(新潟県)守護代長尾能景(よしかげ)の息子で、府中長尾家の当主でした。

永正三年(1506年)9月26日に、父=能景が越中(富山県)で戦死(9月19日参照>>)した事を受けて、その家督を継いで当主となったわけですが、その頃の長尾家は、古志長尾家と上田長尾家と府中長尾家の3家が、同族同志で争っている状況でした。

しかし、ここに来て、越後の守護=つまりは、守護代の長尾家から見て上司にあたる上杉家が、地元に根付く守護代や郡司の力を弱めて、上杉自らが越後を仕切る集権化を図ろうと画策していたのです。

穏やかな気性だった先代=能景の時代には、かろうじて保たれていた守護との関係でしたが、血気盛んな若武者=為景が、黙っているはずはなく、早くも、父の死の翌年の永正四年(1507年)8月、守護の上杉房能(ふさよし)自刃に追い込む・・・世に言う永正の乱という下剋上をやってのけます(8月7日参照>>)

さすがに、大きな敵を前にした時、同族というのは一致団結するものなのか?・・・この時、古志長尾家は、ちゃっかりと為景を支援したと言われています。

そう、虎御前と為景の結婚は、そんな古志長尾家と府中長尾家との関係強化を図るために行われた政略結婚・・・おそらくは、この永正の乱の数年ちょっと前の明応七年(1498年)か、その後の2~3年あたりであったと思われます。

まさに、地元を圧迫する守護=上杉に対抗するにあたって、お互いの利害が一致した事を認め合っての婚姻だった事でしょう。

一説には、この虎御前さんを永正九年(1512年)生まれとする説があり、それだと、この永正の乱の時には生まれていない事になり、当然、その時に結婚してるわきゃありませんが、私は、あえて、上記=乱の前に結婚していた説を取らせていただきたいと思います。

というのも、この虎御前さんと為景さん・・・政略結婚とは言え、なかなか仲睦まじい夫婦だったそうで、3男・2女の合計:5人の子供をもうけたとされていますが、この子供たちとの生没年や年齢が微妙なのです。

最初の子供が長男晴景(はるかげ)、次が後に加地春綱(かじはるつな)の正室となる長女、3番目が綾姫と呼ばれる次女、そして、ほとんど記録の残らない次男(そのために謙信が次男とされる事もあり)、5人目が、三男景虎=上杉謙信・・・となるわけですが、

このうち、長男の晴景は大永六年(1527年)の生まれと記録される一方で、天文二十二年(1553年)2月10日に45歳で亡くなったという生没年が合わないという現状となってます。

また、次女の綾姫も、生年が享禄元年(1528年)となっている同じ系図内で、慶長十五年(1609年)に86歳で亡くなったと、これまた計算が合わない結果となってます。

この綾姫という方は、後に、残るもう一つの長尾家=上田長尾家を取り込むために長尾政景(まさかげ)と結婚して喜平次という男の子を産み、この喜平次が謙信の養子となる上杉景勝(かげかつ)・・・つまり、この綾姫は初代米沢藩主の生母仙洞院(せんとういん・仙桃院)ですから、さすがに、その亡くなった年と没年齢を間違うとは考え難いわけで、

その亡くなった記録から逆算すれば、その誕生は大永四年(1525年)となり、長男であるはずの晴景さんより年上って事になってしまいます。

そこで、計算の合わない長男の晴景さんも、その没年齢から逆算すると、その生まれた年は永正六年(1509年)って事になり、これまた、母親の虎御前さんが永正九年(1512年)生まれではありえない事になりますから・・・

・・・と、記録の矛盾によるややこしい計算はさておき・・・私としては、古志長尾家と府中長尾家が、守護権力への反発から、双方の協力を最も求めなければならなかった時期が、かの永正の乱の少し前あたりである事は確かだと思いますので、やはり、二人の結婚は、この頃ではないか?という判断をしております。

ところで、そんな虎御前さんの逸話を一つ・・・

ある夜、彼女が眠っていると、夢枕に見知らぬ僧が立って
「お前の身体の中を借りたいねんけど、ええかな?」
と聞きます。

「旦那さんに聞いてみますんで、返事は一晩待って~」
と虎御前・・・

その話を聞いた為景は
「そりゃ、神様の化身に違いない!ありがたい事やねんから、むしろ丁重にお迎えせぇ」
と言います。

次の夜、再び夢枕に現われた僧は
「ジャジャ~~ン!!我は、毘沙門天である…現世に生まれるにあたり、そなたの腹を借りるよん」
と言って、虎御前の胎内に入ったのだとか・・・

こうして生まれたのが謙信・・・っと、まぁ、あの豊臣秀吉も、日輪が母(大政所・なか)の胎内に入って自分が生まれたと豪語してましたから、英雄の特権とも言うべき逸話ですが・・・

とは言え、そんな逸話が残るくらい、虎御前が仏教に深く帰依していた事は確かで、7歳で曹洞宗の林泉寺(りんせんじ)に入った謙信が、自らを毘沙門天の化身と称するくらいに信仰するのは、やはり、この母=虎御前の影響があったからでしょう。

為景がこの世を去った後の虎御前は、出家して青岩院と号し、永禄十一年(1568年)5月7日病死するまで、静かに余生を送ったという事です。

ちなみに、今回の虎御前が為景と結婚し、娘の仙洞院が政景と結婚して調和を図った長尾家の同族同志の確執ですが、謙信健在の頃こそ、少しはなりを潜めていたものの、謙信が亡くなった後に、あの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)として、再び表面化します。

謙信の後継者を巡って、景勝VS景虎という養子同志の争いとなった乱ですが、そこには、景勝に味方する上田長尾家と、景虎に味方する古志長尾家という、昔からの抗争も、未だ消えてはいなかったのです。

こうしてみると、戦国時代の女にとってツライのは、政略結婚をする事ではなく、その命落ちをかけて構築しようとした両家の講和が、無残に崩壊する事のほうだと思えてなりません。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成 | トップページ | やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

親子の年齢がよくわからないのも珍しいですね。
上杉謙信(家督継承時点では長尾景虎)が確か1530年生まれなので、今風に言う「高齢出産」でなければ年齢が合いませんね。ただ、結婚した時期が不明と言うのは謎ですね。

投稿: えびすこ | 2011年5月 8日 (日) 08時16分

虎御前は後妻という説もありますね。謙信は「天と地と」では、生母は早くに亡くなり、父に疎まれて、僧門に入れられたというけど。

投稿: やぶひび | 2011年5月 8日 (日) 09時01分

全然関係ないところで、夢に出た僧侶が越後でなのに「大阪弁」ってところがナイスです!やるー

投稿: minoru | 2011年5月 8日 (日) 09時29分

えびすこさん、こんにちは~

昔は数え年で、正月に一斉に歳をとるからなのか?明治の文明開化の頃まで、意外と日本人は誕生日にこだわってなかったようです。

戦国武将の誕生日も、亡くなった年月日と、その時の実年齢から逆算して、それか一般的となってる事が多いようです。

投稿: 茶々 | 2011年5月 8日 (日) 15時36分

やぶひびさん、こんにちは~

やはり、謙信以前のくわしい記録が、あまり残っていないんでしょうね~

そのぶん、作家さんは創作し放題で、おもしろい作品になるので、うれしい事でもありますが…

投稿: 茶々 | 2011年5月 8日 (日) 15時39分

minoruさん、こんにちは~

すみませんo(_ _)oペコッ
大阪生まれの大阪育ちなもので…

書かれている内容を理解して、次に、しゃべり言葉で伝えようとすると、どうしても大阪弁になってしまうんです(;д;)

通常の文章は、国語の授業のおかげで、何とか標準語っぽい雰囲気にできるんですが、セリフは…(。>0<。)

投稿: 茶々 | 2011年5月 8日 (日) 15時45分

先ほど気づきましたが、小さい時の直江兼続(当時は樋口与六)が長尾喜平次、後の上杉景勝の家来になった頃まで生きていたん(ちょうど「天地人」の冒頭の時期)ですね。与六から見ると虎御前はおばあちゃんのような感じですね。喜平次が虎御前の孫なので。

投稿: えびすこ | 2011年5月 8日 (日) 16時38分

えびすこさん、こんばんは~

そうですね~
ドラマだと高島礼子さんと阿部寛さんおお母さんですから( ̄ー ̄)

投稿: 茶々 | 2011年5月 9日 (月) 01時38分

>さらに長尾房景の娘というのも・・・
養女とも考えられますね。
顕吉さんが亡くなって、房景さんの養女になったとか。

>メチャメチャ若い嫁さんを貰った事になって違和感満載・・・
当時はよくあることなのでは?

>記録の矛盾によるややこしい計算はさておき・・・
虎御前の年齢に合わせて生年を決めたような感じが強くしますね。
謙信の生母だからと、正室っぽく改竄した様な気がします。

>虎御前の胎内に入ったのだとか・・・
...(*/▽\*)イヤン

投稿: ことかね | 2011年5月17日 (火) 16時15分

ことかねさん、こんにちは~

正室として迎える場合は、14~5歳くらいがいっぱいいっぱいかな?とも思っておりましたが、確かに、柴田勝家とお市の方も20歳以上離れてますしね~
ただ、勝家×お市の場合は、事情がありそうだし…

まぁ、同じ系図で計算が合わないのをそのままにしてる時点で、年齢査証は否めない感が…

>虎御前の胎内に…
毘沙門天もスミにおけません

投稿: 茶々 | 2011年5月17日 (火) 18時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/39896291

この記事へのトラックバック一覧です: 両・長尾家のために…謙信の母・虎御前:

« 大坂夏の陣…若江に散った四天王=木村重成 | トップページ | やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶 »