« ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略 | トップページ | 銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎 »

2011年5月14日 (土)

歯に衣着せぬ康政節…徳川四天王・榊原康政

 

慶長十一年(1606年)5月14日、徳川家康に仕えて、数々の合戦で活躍した榊原康政が、59歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

このブログでも、これまで、なんだかんだとチョコチョコ登場している榊原康政(さかきばらやすまさ)さん・・・

なんせ、徳川四天王十六神将徳川三傑の一人に数えられてる人ですから・・・

Sakakibarayasumasa600 康政の生まれた榊原家は、松平家譜代の家臣・酒井忠尚(ただなお)に仕える・・・いわゆる陪臣(ばいしん=家臣の家臣)でした。

ところが、その松平家の菩提寺・大樹寺(たいじゅじ・愛知県岡崎市)の僧から学問を学んでいた永禄三年(1560年)の13歳の時に、初めて、その寺内にて徳川家康と面会・・・一発で見染められ(そういう事か?(*゚ー゚*))て近臣へとスカウトされます。

その永禄三年と言えば・・・そう、あの桶狭間の戦い(5月19日参照>>)の年ですから、まさに、家康が今川から解放されて岡崎に戻り、「さぁ、今から、やったるでぇ~~」とハリキッていた頃・・・

その3年後には、家康から1字を賜り、康政と名乗って元服し、彼の人生は、まさしく家康とともに歩んで行く事となります。

元亀元年(1570年)の姉川の合戦(6月28日参照>>)
元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)
天正三年(1575年)の長篠の戦い(5月21日参照>>)・・・

そして、あの本能寺の変の時も、やはり家康とともにいた康政は、あの決死の伊賀越えにもお供しました(6月4日参照>>)

しかし、なんと言っても、康政さんの人生の中でも、特出して光るのは、その翌々年に、勃発した小牧長久手の戦いでのエピソード・・・

すでにブログでも何度も書かせていただいているように、この小牧長久手の戦いは、織田信長亡き後に、信長の嫡孫・三法師の後見人となって実権を握ろうとする羽柴(豊臣)秀吉と、信長の次男・信雄(のぶお・のぶかつ)に味方した家康とがぶつかった織田家の後継者争い・・・天正十二年(1584年)3月の犬山城攻防戦(3月13日参照>>)を皮切りに、6月の蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)を経て、11月に、家康そっちのけで、信雄が、秀吉と単独講和してしまう(11月16日参照>>)までの期間に行われた複数の戦いです。

その一連の戦いの中でも最も山場となった長久手の戦い(4月9日参照>>)・・・この時も、家康に従って井伊直政とともに大暴れした康政は、あの池田恒興(つねおき)父子を討ち取るという功名を挙げますが、有名なエピソードはこのあと・・・

この勢いを利用して、敵の士気を砕こうと、秀吉がいる楽田(がくでん)の本営の敵方の諸将に対して、自らしたためた手紙をご披露するのです。

「信長公が死にはった途端に、その恩を忘れくさった秀吉は、今がチャンスやとばかりに、三男の信孝はんを滅ぼして(5月2日参照>>)、今度は、信雄はんと戦うてか…大逆無道とはこのこっちゃ!
我が家康公は、信長公の事を思いつつ、勝ち負けを度外視して兵力の少ない信雄はんを手助けする正義の味方…月に代わってお仕置きヨ!
て頑張ってる中で秀吉に味方する事は、あんさん…末代までの汚名になりまっせ~~
さぁさぁ、正義あるこっち側に寝返って、逆賊秀吉を討ち倒し、領民の笑顔を取り戻そうやないか~~い」

もちろん、この手紙に激怒した秀吉は、この康政の首一つに10万石の領地という賞金を提示したのだとか・・・

まぁ、勝者の言い分なんで、どこまでアレかはわかりませんが、この歯に衣着せぬ言い回しは実にオモシロイ・・・しかも、この話には後日談が・・・

今回の小牧長久手の戦いが講和になった後、つい先日書かせていただいたように、秀吉は、なんとか家康を臣下に治めようと、妹の(朝日)を、家康の正室に差し出そうとすわけですが(4月28日参照>>)その交渉相手に秀吉が指名したのが、この康政だったのです。

まさか・・・アノ事、まだ怒ってはりますのん???ヽ(;´Д`ヽ)

当然、手紙の文面を思いだしながらも、ご指名とあらば致しかたなく・・・恐る恐る会見へと挑む康政・・・

すると、秀吉は・・・
「アノ時は、こんな憎たらしいヤツはおらん!と思て、ひと目その首を見たいもんやと考えとったけど、こうして和睦してもて、落ちついて考えたら、そもそも、おまはんの行為は家康への忠義からやった事・・・むしろ、ええこっちゃないかい。
実はな、この事を直接伝えたかったから、おまはんを使者に指名したんやで~
そやそや、官位の準備もしてるねん」

と、なんと、式部大輔(しきぶだいふ)に任じたのだとか・・・

いやはや、先日の本多忠勝の話(4月9日参照>>)といい・・・なんかイイ話ですね~

その後も、あの小田原城攻めの時も、家康の一ノ戦備七手(9月8日参照>>)の一人として先鋒を任され、大いに活躍する康政でしたが、そんな彼に陰りが見え始めたのが、あの関ヶ原・・・

この時、徳川四天王と呼ばれたうちの酒井忠次はすでに病没(10月28日参照>>)・・・残る3人の中で、先の本多忠勝と井伊直政は、ともに現地=関ヶ原で大活躍しました(9月16日参照>>)、彼=康政は・・・

そう、実は、彼は、この時、家康とともにではなく、その息子・秀忠とともに中山道を進んでいたのです。

ご存じのように、コチラは38000という東軍の一番の大軍なれど、途中にあった真田昌幸幸村(信繁父子の籠る上田城の攻撃に手間取り(9月7日参照>>)、結局は、関ヶ原の本チャンに間に合わなかったという大失態を犯してしまいます。

関ヶ原で奮戦した忠勝&直政と間に合わなかった康政・・・とは言え、その数からいけば、本来は、この秀忠軍が、関ヶ原の合戦における東軍の本隊だったわけで、もし、まに合っていれば、相当な武功を挙げる事ができたでしょうから、これは、彼ら四天王にとっては、運命と言わざるをえません。

とにかく、大遅刻した息子に激怒して、秀忠に会おうとしない家康・・・しかし、これをなだめすかしたのも康政でした。

しかも、その言い分は「家康にも責任がある!」という、またまた歯に衣着せぬ康政節・・・

確かに、上田城の真田を攻略できずに手間取った事の責任は大きいが、城攻め自体は、もともと家康も承認済みの作戦であるのだから、なぜ、我々が到着するまで、関ヶ原で待てなかったのか?
関ヶ原の合戦までの15日間・・・この間の連絡は遅かったし、そもそも、出発時に父子で石田三成を討とうという約束はなかった。
到着を待ってから合戦に挑んでも、充分に三成は討てたはず
・・・と言うのです。

しかも、
「この事で、秀忠さんを廃嫡(はいちゃく・後継ぎでなくす)なんぞしてみなはれ…そんな事も見通されへんかったんかと、家康さんまで、笑われる事になりまっせ」
と・・・

この言葉に動かされた家康は、合戦の10日後になって、ようやく秀忠と面会したと言います。

とは言え、この関ヶ原で功績が無かった事、そして、これ以降は、どこの家中でもそうであるように、合戦で活躍する武闘派の家臣よりも、財政や政治に長けた官僚的な武将が重用されるようになっていった事で、康政の活躍の場は、徐々になくなってしまうのです。

一説には、先の関ヶ原後の康政の意見に感動した家康から、水戸25万石に加増転封の話もあったという事ですが、
「武功が無かったのにいただけません」
と、康政が固辞したという話もあります。

まさに、康政らしい・・・
やはり、彼は戦国の世の人・・・

戦場でこそ、その腕を奮える事を喜び、戦場で生きる事を誇りとした人なのかも知れません。

かくして慶長十一年(1606年)5月14日上野館林城(たてばやしじょう・群馬県館林市)にて59歳の生涯を閉じました。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略 | トップページ | 銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちわ、茶々様!
出たぁ~、徳川四天王 榊原康政(゚▽゚*)

カッコ良い逸話ですねぇぇぇ~。
400年以上 たっても語り継がれる人物。
凄いですよねぇぇぇ~。

現 日本政府にも榊原康政さんのような人がいてくれればなぁ~。

今日も茶々様に感謝です。

投稿: DAI | 2011年5月14日 (土) 18時56分

DAIさん、こんばんは~

カッコイイですよね~

ホント、何かと歯切れの悪い現政府にも、ズバッと言ってくれる人が欲しいですよね~

投稿: 茶々 | 2011年5月15日 (日) 01時35分

榊原康政も好きですが茶々さんの「現代語訳」が最高!!
読んでてオモロイ!!!
また榊原康政のことを調べたくなりました。

投稿: azuking | 2011年5月15日 (日) 17時29分

azukingさん、こんばんは~

もともと大阪弁しかしゃべれないうえに、ちょっとイキリ過ぎな訳し方ですが、時代劇風の格式ばった感じよりは良いかな?と…c(>ω<)ゞ

投稿: 茶々 | 2011年5月16日 (月) 02時04分

徳川四天王の1人である榊原康政は、武勇だけではなく、能筆家だったようですね。何しろ、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に対して送った手紙が、秀吉を怒らせたそうですが、康政としては、物の道理に反することに対して許せない性格なのかもしれません。あと、現在放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」に登場していないのが残念ですね。

投稿: トト | 2016年9月21日 (水) 17時21分

トトさん、こんばんは~

そうですね。
「真田丸」に出て無いのは残念です。

投稿: 茶々 | 2016年9月22日 (木) 01時42分

榊原康政が働きの割に最後まで遠慮がちだったのは、やはり最初に三河一向一揆で敵方についた経緯があるからでしょうね
出会いについては諸説あるようですが、家康と知り合った後に一揆方優勢の雰囲気にのまれて何となく人数の多い一揆方についてしまって、後で青くなったのと、もう1つは康政にとって最初の主君(?)ともいえる酒井忠尚が行方不明(おそらく討死)した件について後ろめたさがあったようですね。

また、マイナーな史料では康政は家康と出会うが仕官の話までいかず→吉良家に仕官を断られる→忠尚→家康という感じで2度主君をループした上で家康に戻ってきたとするのものもあり、真偽のほどはともかく若干検討されてもよいのではないかと思っています。

投稿: ほよよんほよよん | 2016年9月29日 (木) 18時40分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

私としては、三河一向一揆での活躍ぶりに喜んだ家康から「康」の字を賜っての康政という名前になったくらいなので、遠慮や後ろめたさはあまり無かったように感じてますが…

投稿: 茶々 | 2016年9月30日 (金) 01時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/39983523

この記事へのトラックバック一覧です: 歯に衣着せぬ康政節…徳川四天王・榊原康政:

« ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略 | トップページ | 銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎 »