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2011年5月19日 (木)

二つの桶狭間古戦場

 

永禄三年(1560年)5月19日は、あの桶狭間の戦いのあった日です。

・・・・・・・・・・

戦国屈指の奇襲戦・・・

織田信長中心で描かれるドラマなら、必ずと言って良いほど、本能寺と、この桶狭間(おけはざま)は登場しますし、その度にけっこうな時間を割いてドラマチックに描かれますから、皆さまも、よくご存じの事と思います。

このブログでも・・・
以前は、上洛のためと言われていた今川義元の出陣が、そうではないかも知れない(5月1日参照>>)

信長の奇襲も、従来の迂回して背後からではなく、真正面から直進した、どちらかと言えば一か八かの賭けのような物ではなかったか?(2007年5月19日参照>>)という事・・・

この桶狭間え武功を挙げた二人の武将の事(2015年5月19日参照>>)・・・

桶狭間をきっかけに独立する松平元康徳川家康の事(2008年5月19日参照>>)・・・

などなど、書かせていただいておりますが、いま読み返してみますと、まだまだ書き足りない部分もあり、さらにもっとくわしく・・・とは思っているのですが、

今日のところは、戦いの経緯については、これまでのページを見ていただくとして、今回、その桶狭間の合戦のあった場所=古戦場についてのお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

この桶狭間戦いの古戦場跡とされる場所が、二つあるのはご存じでしょうか?

一つは、名鉄名古屋本線中央競馬駅近くの愛知県豊明市栄町南館(みなみやかた)にある古戦場跡。

そして、もう一つは、そこから南西2kmほど離れた、名古屋市緑区有松町桶狭間という場所にある古戦場跡です。

どちらも、石碑と公園からなる史跡で、地図上では点で表されるほどの場所ですが、そもそも、桶狭間だけではなく、合戦というもの・・・本来は、けっこうな広範囲で行われるわけで、これらの史跡は、「ここが戦場」というよりは、「ここが義元の首が討たれた場所」という意味だと思われますが・・・

・・・で、現在、国指定の史跡とされているのは前者=豊明市の古戦場跡ですが、これは、歴史的に見て可能性が高いという意味での国指定ではなく、この桶狭間の場合は、地元の力の入れ具合による後押しの功績で決まったという経緯があるようで、必ずしも、学術的に確定されているわけではないようです。

一方、後者の緑区のほうは、古くは、田楽廻間(でんがくはざま)と呼ばれていた場所だそうで、ここ最近の時代劇では、奇襲直前の義元の休憩シーンで、「田楽狭間」という字幕スーパーが出される事が多く見られますね。

こちらの緑区のほうには、義元がのどを潤した、あるいは、その首を洗ったと言われる「今川義元公水汲み(首洗い)の泉」なんてのもあるそうです。

Okehazamaitikankeicc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、結局、義元が討たれたのはどっちなんだ?
って事になりますが、

まずは、義元のいた場所・・・

現在のところ、当日は、今は場所が特定できない桶狭間山という山の見晴らしの良い所に、義元が陣取っていたというのが、おおむね一致する専門家の見解で、現在の桶狭間周辺で、一番標高の高い場所=豊明市古戦場の南西700mあたりに標高64.7m三角点があるとの事で、その場所がそうであろうとされています。

ただ、奇襲の仕方自体が複数あるわけですし、もし、奇襲の場所&義元が休憩していた場所が特定できたとしても、襲われた義元が、その場でじっとしていたとは、考え難いわけで・・・

そこで、奇襲された後の義元の行動ですが・・・

『信長公記』によれば、
「東に向かひてかかり給ふ」
とある事から、この日、信長は西側から東に向かって進撃した事になり、そうなる当然、襲われた側は東方向に逃げる事になりますので、豊明市の古戦場跡が有力となります。

しかし、『続明良洪範(めいりょうこうはん)では、
「義元は大高城へ逃げ込もうとしていた」
とあるので、それだと、より大高城に近い方向にある緑区の古戦場跡という事になります。

・・・で、結局、結論を言えば、両方の古戦場を含む広範囲で合戦が展開された事になるので、古戦場跡としては、二つともが正解!

奇襲攻撃に遭った混乱の中なら、当然のごとく、軍勢は態勢を維持できずに、おのおのがそれぞれの場所を目指して逃げようとするので、北東に位置する沓掛城を目指した者たちがたどったのが、豊明市の古戦場あたり・・・

そして、大高城か鳴海城を目指した者たちが向かったのが緑区の古戦場・・・義元が向かったのもそのどっちか???という事になります。

組織的な撤退すらできない状況では、散り散りになるのがあたりまえなのです。

・・・って事で、結局、特定できないじゃないか!
と、怒り心頭の方もおられましょうが、それこそが歴史という物だと思います。

今すぐ明確な答えが欲しいなら数学をやりましょうo(*^▽^*)o
歴史に限らず、科学でも政治経済でも・・・明確な答えがない「謎」の部分がたくさんあるのが現実です。

二つの古戦場に代表される「謎」の提示は、大好きなドラマの予告編・・・この先、どんな展開になるのか、ドキドキワクワクしながら、そして、自分なりの答えを考えるステキな時間なのです。

大いに、いろんな妄想を膨らませようではありませんか?
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様
ムムム。また、歴史好きの妄想が膨らむようなネタですね。

投稿: いんちき | 2011年5月19日 (木) 19時01分

いんちきさん、こんばんは~

もう、そのへん全部を古戦場跡ってすれば良いと思うんですが、やはり市をまたがっての指定は難しいんでしょうかね~

投稿: 茶々 | 2011年5月20日 (金) 00時14分

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